2014年度 主日礼拝
2014年1月26日


題「あなたもあなたの家族も救われます」
使徒16:16-35

NHK大河ドラマは2013年は「新島八重」2014年は「黒田官兵衛」が放映されています。新島譲・八重夫妻はプロテスタント宣教の黎明期、そして黒田官兵衛や高山右近はカトリック宣教の黎明期において活躍した人物であり、2年続けてクリスチャンを主役にした大河ドラマが放映されます。黒田官兵衛は1546年に姫路で生まれましたが、その3年後、フランシスコザビエルが来日し、山口に日本最初の教会堂を建設しました。その後、毛利元就が中国地方を支配するようになると宣教師は追放され教会もさびれましたが、30年後、荒れ果てた山口教会を再建したのが豊臣秀吉の天下統一を軍師として支えた黒田官兵衛そのひとでした。さらに彼は宣教師を追放した毛利元就の9男で佐賀城主となった毛利秀包(ひでかね)を信仰へ導き、さらに瀬戸内海を中心に活動していた村上水軍の兵士たちに信仰を伝えるなど「戦国時代の伝道師」としての一面も有しています。たいへん興味深い人物といえます。

初代キリスト教会の宣教師パウロはシラス・テモテ・ルカとともに第二次伝道旅行で初めてヨ−ロッパ(マケドニア地方)に渡りました。マケドニア地方第一の植民地都市ピリピでは、紫布の輸出入を扱う女性実業家ルデアが信仰に導かれ、全家族そろってバプテスマを受けました。ピリピでは次々と福音の宣教が前進しました。占いの霊に憑かれていた女性が救われたため、彼女を雇って金儲けをしていた商売人たちがパウロに恨みを抱き、役員に訴え出ました。そのためパウロとシラスは、街を騒がす犯罪者として逮捕され、まともな取り調べもなく公衆の面前で鞭打たれ投獄されてしまいました。

その夜のできごとです。不当な扱いを受けたにもかかわらず、体の激しい痛みに耐えながらパウロとシラスは静かに祈りつつ賛美を神様に捧げました。「うるさい、黙れ、静かにしろ」と囚人たちが大声を張り上げても当然な状況にもじかかわらず、獄屋はシ−ンと静まり返っていました。すると、真夜中に突然、大地震が起こり、獄屋が激しく揺れ動き、振動で牢獄の扉がはずれ、繋いでいた鎖もはずれてしまったのです。突然、偶然それとも必然? 必然とすれば誰が何のために? 

揺れが収まると牢獄を管理している看守長と看守たちが一斉に地下牢に降りてきました。壁が崩れ、檻が壊れ、扉が開いてしまっている光景を目撃して青ざめました。自然災害といえども囚人を逃亡させてしまった失態はロ−マの掟では、「死罪」にあたります。囚人たちが逃亡してしまったと思い込んだ看守長は責任を感じ、潔くその場で自害しようとしました。するとその時、暗闇に包まれた奥の部屋から、パウロの声が響いたのです。「だれも逃げたものはいません。みなここにいます。自害してはいけません」と。全く信じがたいことでした。囚人たちは逃亡することなく、パウロのそばに全員とどまっていたからです。
看守長は、職務上、パウロとシラスがどのような人たちでどういう理由で投獄されたか分かっていたはずです。彼らが遠いシリア州からやってきたユダヤ人宣教師であることやルデア一家がキリストを信じたこと、有名な占い女が悪霊を追放され正気に戻った事実も知っていたことでしょう。あるいはパウロたちの語る神の言葉をすでにどこかで聞いていたかもしれません。ですから「先生」と呼びかけ、「どうしたら私たちはすくわれるでしょうか」と率直に彼の切実な願いを告げたのでした。すると、パウロは端的に「主イエスキリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(1631)と答えました。今日は家族の救いについてこの聖句から2つのポイントを学びます。

1      信じなさい

信じるという世界には、女性実業家ルデアの場合のように「神様が心を開いてくださる」(使徒1614)という側面と、看守長に対するパウロの勧めのように「主イエスを信じる」(31)という側面があります。この両面が呼応して「新しいいのち」が生まれるのです。それは親鳥が卵からひなをかえす時に、ひなが内側から卵を破ろうとするタイミングと親鳥が外から殻を突っついて割ろうとするタイミングがほどよく呼応してひなが孵ることとよく似ています。

「主イエスを信じるという英語表現は、NKJV訳では、"Believe on the Lord Jesus Christ, and you will be saved, you and your household.となっています。キリストの上に自分をそのまま安心して置く、身を任すというニュアンスが現れています。「信じる」という表現は、頭の理解だけではなく、信頼して全面的に自分と自分の人生を投げかけるというダイナミックな意味をもっています。

ある宣教師が「信じる」という言葉を現地のことばにどのように翻訳したらよいか苦心していました。あるときヤシの木のあいだにハンモックをつるして気持ちよく昼寝をしている人を見かけました。付き人に、あの状態を指す言葉を何かと聞き、宣教師は「信じる」とうことばに「ハンモックに身をゆだねる」ということばを当てたそうです。十字架で身代わりとなって死なれるほど罪人を愛しぬいてくださった救い主キリスト、死の力を打ち砕いてよみがえられた復活のキリスト、全能者なるキリストに丸ごと委ねきるあり方こそ、キリストを信じる信仰の基本的姿勢なのです。あなたもキリストに身を置ききってみませんか。躊躇、迷い、ためらいがあるならば、委ねきってイエス様の胸に飛び込んでみませんか。

2. そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる

クリスチャンを励ますすばらしい言葉ですが、この言葉は少し誤解されているようです。誰か家族の一人が信じたら自動的に他の家族も救われるという教えではありません。「あなたも、あなたの家族も、主イエスを信じるならば、救われますよ。」という意味の言葉です。それゆえ、看守は全家族を集め、パウロは「彼とその家の者ぜんぶに主のことばを語った」(32)のでした。その結果、全員が信じ、「彼と家のもの全部がバプテスマを受けました」(33)。つまり、一人一人がみことばを聴き、イエス様をキリスト・救い主と信じたから、全家族の救いが実現したのでした。ロマ109において示された救いの原則は一貫しています。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」

ですから、さまざまな形で、あなたの家族が神のことばにふれる機会を思慮深く、用意することが大切です。また、神様の愛とゆるしをあなたの家族が信じるためには、あなた自身が愛と赦しに生きていることが最大の証となることでしょう。イエス様が弟子たちを最後まで愛し、守り、見捨てることも見放すこともなく寄り添ったように、あなたがあなたのもっとも身近な隣人である家族を守り、最後まで味方となって信じ、見捨てることなく寄り添うならば、そのとき家族はあなたを通して神の愛に出会っていくのではないでしょうか。

携帯電話には家族割引の制度があるようです。個人入会よりも家族入会の方が携帯電話会社にとって望ましいことだからです。さきほどの「あなたの家族も救われます」というパウロのことばは、キリスト教の救いが「家族そのものを対象にしている」ことを示唆していることも否定できないと思います。イエス様が最初になさった奇跡は「カナの村の結婚式」だったことも、家庭や家族を神様が祝してくださっている証拠といえます。もし、あなたが家族の中で最初の救いの実であるとしたら、そこには神様の目的があります。それは偶然の出来事ではなく必然的出来事です。神様はあなたの全家族を、あなたを通して救いへ導こうとご計画されておられます。あなたの存在は、大いに祝福されているのです。
「信者でない夫は、妻によって清められており、また信者でない妻も夫によって清められているからです」(
1コリント714

全家族の救いのために「神様は私を初穂として召してくださったのだ。私が全家族の祝福の基とされているのだ、こんな感謝なことはない」と肯定的に考え方を変えましょう。そして、家族の救いのために、忍耐のかぎりをつくして祈り、みことばを聴く機会を提供し、キリストの福音(罪の赦しと永遠のいのちの希望)をことばと生活そのものを通して伝えましょう。

「私のあの家族が救われるなんてとても無理、ありえない、きっと神様にだって不可能」と固く信じているクリスチャンがいるかもしれません。けれども大地震を起こし、開くことのない牢獄の扉を解き放ってしまうことも神様はおできになります。閉ざされた扉を開くことが神様にどうして不可能でしょう。神様にできないことなどは一つもありません。「私の主人が救われるとはとうてい考えられない」、「息子がイエス様を信じて教会に集うなどおよそ信じられない」と、固く閉ざしてしまっている「あなた自身の心の牢獄の扉」を開きましょう。

3. 官兵衛の友情・家族伝道

さて、再び話しは官兵に戻りますが、黒田官兵衛はキリシタン大名として名高い高槻城藩主高山右近から茶の湯の道を通して強い影響を受け、37歳で洗礼を受けました。右近の洗礼名はジュスト(義)、官兵衛の洗礼名はシメオンでした。右近は父飛騨の守(ダリオ)も、母(マリア)も、妻(ジュスタ)も、一家すべてがクリスチャンでした。1577年には宣教師オルガンチヌスを領地に迎えて伝道会を開き2400人が受洗したとの記録も残されています。25000人の領民中、18000人が信仰に入った(実に72%)というから、高槻はさながらキリシタンの国となっていました。今日の日本の宣教の遅々たる歩みを思うと驚くばかりです。

右近は後にバテレン追放令によっておよそ100名の家族と家臣とともにマニラに移り住みますが、官兵衛は国内にとどまりました。官兵衛は、嫡男黒田長政、弟黒田利高と黒田直之、さらに毛利元就の9男で佐賀城主となった毛利秀包(ひでかね)、大友宗麟の子・大友義統(よしむね)、瀬戸内海を支配する村上水軍の多くの兵士たちを信仰に導いたとのことです。戦国時代の伝道者と呼んでいる研究家もいるほどです。右近には右近の生き方と証しの仕方があり、官兵衛には官兵衛の生き方と証しの仕方があることを私たちは学ぶことができます。

秀吉の右腕・軍の名参謀(軍師)として仕えた官兵衛ですが、敵兵のいのちも味方の兵士のいのちも尊びました。彼の戦略は「和議を第一」とすることでした。城主や藩主ひとりの切腹をもって和議を結び、他の家臣団や領民のいのちを守る保証をすることを基本としました。当時の武士の習わしであった、後追い切腹も禁じたそうです。
「人はたとえ全世界を手に入れても、まことのいのちをそんじたらなんの得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう」(マタイ16:25)という、 キリストの教えを戦国乱世の時代に生きるひとりの武将として、軍師として、現実生活の中で、彼のできうる権限と役割のなかで力の限り実践したのでした。限界や制限のあるなかで、精一杯、神の教えを実践するそんな信仰の持ち主であったといえます。

官兵衛は京都伏見の福岡藩黒田屋敷で軍師・武将としての59年の生涯を閉じました。トマス神父が最後を看とり葬儀を執り行いました。官兵衛はロザリヨと子羊イエスの像が刻まれたタブレットを胸に眠りに就いたと宣教師の報告書に記されています。詳細は不明ですが、福岡藩のお寺の墓地に葬ることは許されなかったようですから、このこともまた官兵衛がキリシタンとして最後まで生きた証左と推察されています。

官兵衛の辞世の句は「思いおく言の葉なくてついにいく道は迷わずなるにまかせて」(この世に思い残すことななにもない。今は迷うことなくこころ静かに旅たつだけだの意味)でした。官兵衛が仕えた秀吉の辞世の句は、「露とおき 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」というものでした。天下を治め、富と権力を手にし、側室6名、女性200名以上をはべらし、この世の栄華を極めた秀吉でしたが、胸中には虚しい風が吹き抜けていたのではないでしょうか。

官兵衛は21歳で結婚した光姫一人を生涯愛し、側室を置くことはありませんでした。嫡男黒田長政は関ヶ原の戦いで家康にその働きが認められ、備前福岡藩52万石の初代藩主となりましたが、嫡男長政がキリストを信じる信仰を持つことを願いつつも決して強制はしませんでした。こんなエピソ-ドが残されています。長政が父親孝行をしたいと申し出たとき、

「そなたが予を父と思い、とりわけ何事かにおいて予を喜ばせようと欲するならば、そなた、ただちにキリシタンの説教を聴いてもらいたい。だが、そなたがキリシタンになることを強制しようとは思っていない。それは、我らの主なるデウス様が、そなたに与え給うはずの御恵みと、聴聞した教えについての理解のほどに待つべきことだからである」と。これを聞いて長政自ら宣教師に教えを請い、入信して洗礼を受けたそうです。こうして、父の信仰は子に継承され、親子2代のキリシタン大名として、その名が歴史に刻まれたのでした。
その後、長政は徳川家康がキリシタン弾圧を強めるに及んで仏門にくだったと言われていますが、父の精神は彼の中に息づいていたのではないでしょうか。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒1632
もっとも身近な隣人である家族のために、神様がこころを開いて下さるめぐみを待ち望みましょう。
愛する家族の救いのために、涙と忍耐をもって祈り続けましょう。

                                      以上



   

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