2010年度説教 3月7日 主日礼拝
「信仰の高嶺をめざして」シリ−ズ(7)


題「信仰による家族 姑と嫁」

「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」
(ルツ1:16)

1.

いつの時代でも「嫁・姑の人間関係」は難しいテ−マの一つと言えます。「お母さん」と素直に呼べなくてわざわざ「義理の母が」とか「主人の母が」と言い換えて話される言葉をしばしば耳にします。いろいろ葛藤があったんだろうなとその複雑な心境を察します。今日の箇所には今から3000年前、信仰によって結ばれた嫁・姑の美しい人間模様が描き出されています。嫁・姑で悩む人々に新しい気づきとなればと思います。

背景の説明をします。ユダヤに激しい飢饉が起きたとき、ベツレヘム出身のエリメレクは妻ナオミと二人の息子マフロンとキルヨンと共に死海の東側地域にあるモアブの国に逃れ、生活をしました。異国の地での苦労がたたったのでしょうか夫エリメレクが亡くなりナオミは未亡人となってしまいました。異国の地で夫をなくした女性が二人の子供を養い育てる苦労は並大抵のものではなかったことと思います。幸い二人の息子は立派に成人しそれぞれルツとオルパというモアブ人の女性と結婚をしました。ルツもオルパも子供には恵まれませんでしたが母ナオミとの5人の生活は貧しくとも幸福な日々であったと思われます。母ナオミの信仰に根ざした考え方や思いやりの心に触れるにつれ、ルツやオルパの心には母ナオミへの尊敬の思いが深まったことでしょう。こうして10年の歳月が流れました。

ところがナオミにまたしても悲しい出来事がおそいました。ナオミの二人の息子、マフロンとキルヨンが相次いで死んでしまったのでした。母ナオミと兄嫁ルツそして弟嫁オルパは悲しみを分け合いつつそれでもけなげに力を合わせて生きていました。

1.母ナオミの信仰

度重なる試練の中、ナオミを支えたのはイスラエルの神を信じる信仰でした。いつしかルツもオルパも母ナオミの信仰の感化を受けていたことでしょう。

神はかつてアブラハムに「あなたの名は祝福となる」(創世122)と語り、アブラハムを通して祝福が全治に広がることを約束してくださいました。新約においてもパウロは「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」(1コリ714)「ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った」(使徒1631)と語っています。

そんな時、ナオミの耳に故郷ベツレヘムでは飢饉も過ぎ去り食料も十分に配給されるまで回復しているとの知らせが届きました。ナオミは10数年ぶりに帰国する決心をしました。ルツもオルパもナオミについてきました。ところがナオミはこのまま二人の嫁たちをユダヤの国につれて帰るのは忍びがたく、モアブの地に残り実家に戻って新しい生活を始めるようにと勧めました。まだ年も若く、子もいないので実家で再婚をして家庭を持つことが彼女たちの幸せになると考えた上での行動でした。弟嫁オルパはナオミの言葉を聞いて実家へ戻ってゆきましたが、兄嫁であるルツは最後まで母ナオミと寄り添って生きてゆく道を選びました。

ナオミは母として若い二人の嫁たちの将来を熟慮して、実家に戻り再婚の道を歩むように勧めました。このことはナオミの嫁たちへの配慮でした。信仰からくる愛とは思いやりにほかなりません。
   「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)

ところが兄嫁であるルツは母ナオミに、「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(1:16−17)と答え、自らの固い決意を示しました。そこでナオミはルツをつれてベツレヘムに戻りました。

生まれ故郷に無事に帰ったナオミは緊張の糸が切れたのでしょうか、声をかけて迎えてくれ知人に「ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」(20−21)とついつい愚痴をこぼし自分の身の不幸を嘆きました。ナオミは「楽しい」という意味ですがマラは「苦しい」という意味ですから、ナオミも実のところどれほどつらく苦しい思いをしていたかをうかがい知ることができます。

信仰を持っていたとしてもあまりにつらいことが立て続けにおきれば耐えきれなくなって神様に愚痴や不満をこぼしてしまう気持ちになることは人間として当然のことです。それをもって「不信仰」というのはあまりに人の心を知らないといえます。大事なことはどんな試練の中でも、それでも信仰を失わない、手放さないことであり、もっといえば、神様が試練の中でも愛し続けてくださっているという恵みの事実を信じることといえます。

2.ルツの信仰

ナオミはふたりの嫁を連れて故郷に帰ろうとしましたが、自分に故郷がありようにふたりの嫁にもそれぞれの故郷があることを忘れませんでした。ですから最終的な選択を与えました。彼女たちは若くして夫を失い、子供もいませんでしたから「再婚」という幸福を得る道が残っていましたからナオミは配慮しました(ルツ111-13)。妹嫁のオルパはナオミの勧めを受け入れて、二人と別れてモアブの地へ帰ってゆきました。さらに配慮だけではありませんでした。生まれ故郷ベツレヘムにかえれば彼ら二人はモアブ人・異邦人であり、偶像の神々を拝む人々です。イスラエルの神は、唯一のまことの神をしかも自らの自発的な信仰で受け入れ、「あなたこそ私の神」と告白する者を豊かに祝福されます。義理や人情で信仰していても神様の前には祝福を受けられません。それはあのヨシュアが「わたしとわたしお家族は主に仕える」(ヨシュア2415)と民に宣言した基本的な姿勢と通じます。

ナオミはルツにも勧めました。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」(ルツ115)と。オルパは自分の実家に戻ったというだけではなく、モアブの神、こどもをいけにえとしてささげることを要求するケモシュ(1列王117)の神、むなしい偶像の神のもとに帰ったことを理解していました。

一方、ルツはナオミが信じる神、イスラエルの神を私の神と信じる信仰を告白し、モアブの民に属する一人としてではなく、神の民イスラエルの属する一人として生きる決断をくだしたのでした。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(116)とのルツのことばを聞き、その決意をはっきりとナオミは知ることができました。

「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。」(116

ルツは母ナオミへの愛情からばかりでなく、それ以上に、母ナオミの信じるイスラエルの神、まことの唯一の神への信仰に生きていたのです。

ナオミの信仰はこうしてルツの人生に静かな大きな影響を与えていました。私たちが日常生活の中で裏表のない真実な信仰に生きるとき、信仰の感化はいつしか周囲の人々に及びます。私たちクリスチャンの存在は家族全体の祝福の泉とされているのです。これは神様の恵みといえます。
「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」(1コリント7:14)

家族伝道の秘訣はここにあるといってもよいかと思います。一番、身近な家族への伝道は、「信じろ信じろ!」と声高に叫んでも届きません。静かなぶれない信仰、順境のときも逆境のときも変わらない感謝の心、感情に支配されない穏やかな平安に満ちた態度とやさしいことば、神様に仕えるように家族に仕える謙虚さ、それらが家族の心に最大の無言の証しとして届くのではないでしょうか。

身近な家族は私たちの語ることばを聞いているのではなく、わたしたちが示す生活を観ているのです。私たち自身の存在が神様を示す生きた手紙となってるのです。

「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」(2コリント3:3)

ルツはむなしい偶像の神々の世界と決別し、ナオミの信じるイスラエルの神を「私の神」と告白し、神の民の一員としてナオミとともに生きる道を選択したのでした。信仰によって生きる神の民の一人として自らの人生を歩み始めたのでした。

ナオミとルツの人生にこれから先、何が待ち受けているのか、今の二人にはなにもわかりませんでした。ただ信仰に導かれて今日一日を生きることが彼女たちにできるただ一つのことでした。しかし、もうこのときすでに、神の永遠のご計画は静かに動き始めていたのです。次回、神のすばらしいご計画をお話ししたいと思います。

こうしてモアブ人ルツは信仰によって母ナオミとともにベツレヘムに移り住み、神の民の一人として新しい生活をはじめました。ここに嫁姑の関係は新しく信仰による神の家族の関係へと引き上げられ、たとえ死をもっても決して引き離されることのない永遠の神の家族として二人は結ばれたのです。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)


神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。




   

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