2010年度説教 2月14日 主日礼拝
「信仰の高嶺をめざして」シリ−ズ(6)


題「ギデオンと300人の勇士たち」

「主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。ギデオンはマナセの全域に使者を遣わした。それで彼らもまた呼び集められ、彼に従った。彼はまた、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリに使者を遣わしたので、彼らは合流して上って来た。」(士師記6:34−35)

「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」(ヘブル11:32−34)

1.序

110才の生涯を全うしたヨシュアによってカナンの地に住む7部族31人に王は征服され、カナンの地はアブラハムに約束されたようについにイスラエル12部族にそれぞれの土地が分け与えられました。約束の地を治めてゆく戦いの歴史の中でイスラエルの民が学んだことは、「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(ゼカリア4:6)とあるように、人の戦いではなく神の戦いであり、信仰による戦いであったことです。

むろん武力によって敵を倒す戦争の理論は旧約聖書における倫理であり、新約聖書においては「敵のために祈れ」といわれたキリストの倫理によって克服されていることは理解しておきましょう。

さて、イスラエル12部族はそれぞれの地で部族ごとに長を立てて生活しましたが、周辺諸国からの侵略に悩まされるようになりました。特にマナセ族はミデアン人の悪質な攻撃に悩まされていました。彼らは収穫の時期になるとまるで、「いなごの大群のようにしてやって来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。しかも、彼らは国を荒らすためにはいって来たのであった」(士師6:5)と記録されている状況でした。そんな中で、神様はイスラエルを苦悩から救うために若者ギデオンを召し「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか」(6:16)と呼びかけました。

2.主の霊がおおった時

「ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな連合して、ヨルダン川を渡り、イズレエルの谷に陣を敷いた」(6:33)時、「主の霊がギデオンをおおい」(34)ました。おおうという言葉は「捕らえる」とも訳され、旧約聖書に見られる特徴的な表現で、神に召された人々に神の御霊が臨み、特別な力が与えられたり、預言活動を始める場合をさします。

「ギデオンはマナセの全域に使者を遣わした。それで彼らもまた呼び集められ、彼に従った。彼はまた、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリといった北部に住む部族にも使者を遣わしたので、彼らは合流して上って来ました。」(35)。こうしていよいよ一大決戦の火ぶたが切られようとしていました。ギデオンのもとには彼の思いを越える3万2000人(7:32)のイスラエル兵士が召集しました。一方、ミデアン人連合軍は13万人5000人(8:10)にふくれあがりました。単純計算しても1:4の厳しい戦となります。少しでも援軍がほしいところです。

3.300人に厳選された兵士

ところが神様はギデオンに兵の数が多すぎるので、「恐れ、おののく者は帰りなさい」(7:3)と命じました。神様は兵士の頭数ではなく兵士の信仰と勇気をごらんになられたのでした。そうすると2万2000人が帰り、ギデオンのもとには1万人が残りました。ギデオンは内心驚いたことでしょう。義勇軍の兵の数が3/1にまで激減してしまったのですから。帰還した兵士たちは勇気はあったけれどあまりの敵軍の数の多さにしりごみしてしまったのでしょう。兵士の人数という戦力である程度、戦は戦う前から勝負が決まるものだからです。

ところが神様はさらにギデオンに「まだ民が多すぎる」(7:4)と言われ、ハロデの泉で彼らに水を飲ませてテストをするように命じました。そのテストとはいつでも戦える姿勢を崩さずに水を飲む真の勇士たちを見極めるという内容のテストでした。のどの渇きに負けて膝をついて武器を手放して水をがぶ飲みする兵士たちは除外されました。

少しでも多くの兵が合格するようにギデオンは願ったことでしょうが、なんと1万人の内9700人が不合格と言い渡され、わずか300人しか残りませんでした。ついに300/32000、1%を切ってしまいました。ギデオンのもとに残された兵士は100人中1人という結果になりました。そのわずか300人で3万人を越える敵と戦おうとするのですから、人間的にいえば勝ち目のない戦といえます。人間的に勝ち目がない戦いに進もうとするのですから、この300人は真に勇気のある者、さらに戦を導く神への信仰にみちた者たちだったと言えます。

4.弱いときこそ強い

それでは彼らを率いて指揮を執る大将のギデオンはどういった人物だったのでしょう。驚くことにもともとギデオンは勇猛果敢な若者ではありませんでした。神様がギデオンを召されたときギデオンは情けないほど否定的なことばかりを口にしていました。「神は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました」(6:13)と、神様への不満さえ口にしています。

それでも神様は忍耐をして彼に向かって仰せられました。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(14)。まだギデオンはぐずって言いました。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」(6:13−15)と。

ギデオンは「私は一番、弱く、一番、若輩者です」「イスラエルを救うなど私には無理です」と、しりごみ逃げ回っていました。できないことの言い訳をさがすことはやさしいことです。信仰とは、神にできないことないと信じることにあります。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

さらに臆病なギデオンは本当に神様が共に戦いに勝利させてくださるかいなか、しつこいほど、「しるし」を求めました。神様は懇ろにギデオンに約束されました。「主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。」(6:16)

「しるし」を求めることは信仰ではありません。むしろ「私がともにいる」「I will be with you」との神の約束のことばを求め、神のことばに立つことが信仰なのです。神様に取り扱われつつギデオンは整えられてゆきました。

「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」(ヘブル11:32−34) と、新約聖書ではギデオンの信仰と成長が取り上げられています。

弱く臆病で慎重なギデオンでしたがこのように「強くされた」のです。「強くなった」のではありません。信仰によって強くされたのでした。御霊におおわれて強くされたのでした。
『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』(Uテモテ1:7) 

神様は初めから強い人を用いるわけではありません。自分の力を誇り自分の能力を自慢しいつしか高ぶって罪をおかすことがないように、自分を偶像化することがないように、弱い者を小さな者を神様は用いられるのです。

「神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者を辱めるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。・・・・無に等しい者を選ばれたのです」(Tコリント1:27,28

5.信仰の勝利

ギデオンは300人を引き連れ夜中、敵兵が寝静まっている時に奇襲攻撃をかけました。300人をさらに100人づつ3班に分け、角笛をいっせいに吹き鳴らし、空っぽのツボを一斉にたたき割り、大音声で雄叫びと時の声を挙げさあせました。闇に突然輝き出す無数のたいまつの明かりと「主の剣だ」(21)と響き渡る大声に、ミデヤン陣営は大混乱に陥りやがて同士討ちを初めて、雪崩のように崩壊し敗走してゆきました。数はそろえてもミデアン軍は寄せ集めの混成部隊であった弱点が暴露してしまったのです。

このような戦法は御霊の知恵でした。また戦術のすばらしさばかりでなく、ミデアン軍が建て直しをはかれなかった中に、人知を越えた神の奇跡的な御介入があったことも容易に想像できます。そうでなければ敵がここまで壊滅することはなかったと思われます。

ギデオンが300人を率いて自ら先頭に立ち、信仰によって敵の陣営のただ中に進み入った時に、神様も大いに働いてくださったのでした。かつてモ−セによってエジプトから救出されたイスラエルの民が紅海の中を通ったことも信仰であり、ヨシュアによって契約の箱をかついだ祭司たちが雪解けの大水で渦をまいて流れるヨルダン川に足を踏み入れたことも信仰によってでした。ギデオンと300人が敵の陣地のただ中に進入したことも信仰による行動でした。

私たちがここで教えられることはなんでしょう。神様は人の数を求めているのではなく、信仰を求めておられるという原則です。自分の弱さを受け入れる信仰とともに、神の力と霊が覆ってくださり、無力な者を強めてくださると信じる信仰を、神様は求めておられるのです。

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリ12:9)

さてここで私にはひとつの素朴な疑問があります。ギデオンのもとから離れて帰った31700人の兵士たちはどうなったのでしょうか。彼らは戦を前に戦線離脱をした臆病者というレッテルを貼られ周囲から非難されて自分のふがいなさに失望していたのでしょうか。

奇襲戦法を実行し敵がちりぢりになって離散したとき、ギデオンはすぐに彼らの所に伝令を送り、敵兵を追撃して聖絶せよとの命令をくだしました。ミデアン軍にすればここでいよいよイスラエル軍の主力部隊が現れて追撃を開始してきたのですから完全に戦意消失となり完璧なまでにうち破られてしまいました。

ギデオンと300名はいわば秘密指令を与えられた特殊部隊と言えます。人数が多くては目立ってしまい奇襲戦法が通用しなくなります。先に戦場を離れた31700名の兵士たちがいわばイスラエル軍の本隊なのです。31700名の兵士たちも奇襲攻撃によって敵が敗走した時に、追撃し彼らを聖絶するために用いられました。彼らにも戦いの場が用意され、勇敢に戦ったのでした。神に用いられる戦場(いくさば)が備えられたのです。神が必要としない人はどこにも存在しません。安易なレッテル貼りは神に代わって人を裁く大きな罪であることを覚えましょう。

そして、私たちクリスチャンにもまた一人一人の「いくさ場」があると思います。中学生たちは明日から高校入試ですが今日も礼拝に出席しています。その勇気と信仰もギデオンの300人の一人の姿と言えます。家庭の中で職場の中で人間関係の中で、私たちはひとりひとりの「こころの戦場」をもっています。入試もその一つです。主婦には主婦の、サラリ−マンにはサラリ−マンの、経営者には経営者の、学生には学生の、老人には老人の、それぞれの「いくさ場」があります。

そこは臆病さと信仰、否定的な思いと信仰、人間的な思いと信仰、物質的な欲と信仰が激しくぶつかりあう戦場といえるにちがいありません。けれども、みことばと御霊におおわれ、「弱い者であっても戦いの勇士とされる」喜びに預からせていただきましょう。

「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント12:10)


神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。




   

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