「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで 進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜ん だ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏 して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた(マタイ2:9−11)









神様からの贈り物

キリストが誕生した時、東方ペルシャから博士たちがはるばる旅をして、エルサレムに到着しました。生まれ故郷ベツレヘムに帰ったヨセフとマリアは住民登録も済ませ、生まれたばかりの赤ちゃんとともにしばらく暮らすために旅館の馬小屋からベツレヘムの小さな家に移り住んでいました。この家でさらにすばらしいできごとがおきたのです。博士たちが夜空に輝く星に導かれ、エルサレムからベツレヘムへ旅を進め、ついに幼子キリストが住む家を見つけたのでした。家に入った博士たちは母マリアに抱かれた幼子をうやうやしく礼拝し、黄金、乳香、没薬を贈り物としてキリストに捧げました。

1 価値ある贈り物

博士たちは当時の世界で最も高価な宝物であった黄金・没薬・乳香をキリストに捧げました。彼らはユダヤ人の王としてお生まれになった方にふさわしい贈り物としてはるばるペルシャの国からこれらの宝物を携えてきたのでした。「神様に最高に価値ある贈り物を捧げる」ことは、ユダヤ人にとってもペルシャ人にとっても、神を敬い礼拝する人々に共通する心構えであったと思います。

神様に古くて腐ったものを捧げようとする人はいません。残り物や余り物を神様に捧げようとする人もいません。もっとも価値ある美しいものをささげたい願うのは心からの敬意と愛の表れと言えます。

ユダヤ人にはモ−セによって「小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。」(出エジ12:5)との戒めが与えられていました。犠牲の供え物を携えて礼拝をする時に、ユダヤ人には神様に初穂を捧げるだけでなく最高のものをささげることが律法として命じられました。

私たちクリスチャンはモ−セの律法によって支配されて生きているわけではなく、キリストの愛の戒めに導かれて生きています。私たちは律法には死んだ者ですが愛の戒めには生きる者とされています。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

(ヨハネ13:34)

互いに愛し合うためには何よりもキリストを愛すること、神様を愛することが前提となります。神を愛さない者に愛はわからないからです。そして愛はもっとも良き物を愛する人に与えることを願います。ですから神様を愛する人は神様に最高に価値あるものをささげることを喜びとするのです。

強制されるからではなく、義務からではなく、愛と喜びから最高の贈り物をキリストにささげたいものです。

2 キリストへの信仰告白のしるし

博士たちがキリストに捧げた黄金・乳香・没薬にはそれぞれ宗教的な意味がありました。特に「乳香」はアラビア半島が原産地であり、産出地が限定されていました。乳香の木の表皮を剥がし、内部の幹の部分をナイフで削って傷つけるとそこから乳白色の液体がにじみ出て固まります。それを丁寧にはがして採集するのだそうです。アラビアでは「砂漠の真珠」とも呼ばれ、アラビアに経済的な繁栄をもたらしました。エジプトでは神殿で神々に香をたくときに用いられましたから乳香は特別に高く引き取られました。現代では植物性アロ−マオイルエッセンス商品名「フランキンセンス」として販売されています。ほのかな高貴な香りがして、私もたいへん好きなかおりです。

宗教改革者のマルチン・ルタ−は、黄金は王なるキリスト、乳香は礼拝と関係しているので神なるキリスト、没薬は葬りと関係するので購い主であるキリストを表していると解釈しました。1857年に作られた新聖歌96番「われらは来たりぬ」の歌詞もそのような理解を土台にしています。

実際、ペルシャから来た博士たちが黄金・没薬・乳香に対してそこまで理解していたかどうかはわかりませんが、ユダヤ人の王として生まれたおかたにふさわしい贈り物として用意し、うやうやしくささげたことはまちがいありません。

博士たちの贈り物は、栄光に満ちた神の御子キリストに最高に価値ある贈り物を捧げて心から礼拝をする礼拝の本質を美しく現していると思います。

クリスマスを前にもう一度、自らに問いかけ直してみましょう。イエスはどなたなのでしょう。あなたにとってこのお方はどなたなのでしょうか。あなたの心の中でどのような位置をしめているでしょうか。最高の価値ある捧げものを受けるに値する唯一のおかたでしょうか。

この方は活ける私の神であり、救い主であり、癒し主であり、王の王、主の主なのです。このお方の御名と栄光にふさわしい礼拝をささげ、良き物をささげているでしょうか。イザヤはやがて誕生するメシアをこのように預言しました。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
(イザヤ9:6)

ベツレヘムの小さな家で、3人の異邦人たちによって最も高貴で気高い礼拝がささげられました。それはソロモンの神殿が栄光の雲に包まれる中でささげられた礼拝にまさる礼拝でした。ヘロデ大王が建てた神殿で大祭司たちによって形式的に繰り返される形骸化した儀式的な礼拝にはるかにまさる礼拝でした。 日曜日の朝ごとに、小さなこの会堂で私たちがささげるキリストにささげる礼拝もキリストへの信仰の告白と祈りに満ちた礼拝でありたいと心から願います。

3 贈り物を受け取ること

さて今まで博士たちが贈り物をキリストにささげたという視点から学んできましたが、視点を変えると、キリストは異邦人である博士たちの贈り物を受け取られたことになります。

ベツレヘムの馬小屋で誕生された時も、馬小屋を探し出して最初に礼拝をささげたのは貧しさと無学さゆえに社会から阻害されていた羊飼いたちでした。神の御子は羊飼いたちの礼拝を受け入れてくださったのでした。イエス様のなかに私たちは「受け入れる」ことの大切さを学ぶことができるのではないでしょうか。

ヨハネはキリストの誕生についてこのように記しています。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」
(ヨハネ1:11−12)

久しく待ち望んだキリストがこの世界に来られたにもかかわらず、神の民イスラエルはキリストを受け入れることができませんでした。飼い葉桶で生まれ十字架の上で死なれたイエスはメシヤではない、メシヤがそのように誕生しそのように死なれることは断じてあり得ないと彼らはかたくなに拒絶しました。しかし、御使いの知らせを聞いた貧しい羊飼いたちや星に導かれた異邦人の博士たちはキリストが眠る家を探し求め、心からの礼拝をささげ、この幼子を救い主と信じ、受け入れ、罪の赦しと永遠のいのちの祝福にあずかる者とされました。

信じることは受け入れることです。神がなさった救いの御わざを感謝して受け入れることを意味します。アダムが罪を犯し神に背を向けて生きる堕落の道を歩み出したその時から、罪深い私たち全人類の為に「罪の赦しと永遠のいのち」という最高の贈り物を届けようと神様はご計画を立ててくださいました。そしてついにクリスマスの日に神様からの愛の贈り物として御子イエスキリストが誕生されたのでした。イエス様を救い主として受け入れることこそが神様が願っておられる最高の信仰のありかたなのです。

クリスマスそれは神様からの最高の愛が届けられた日です。あなたのために贈られた神のひとり子イエスキリストをあなたの心に「救い主」としてお迎えしませんか。神様からあなたに贈られた贈り物を感謝してそのまま受け取らせていただきませんか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)