1月の説教 1月1日 元旦礼拝

初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる 水の上にあり、
 神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ」と仰せられた。すると光ができた。」
(創世記1:1) 

              「天地を創造された神への信頼」

毎年、教会では元旦礼拝で創世記1章を朗読していますが、新年にもっともふさわしいことばだと思います。今、日本の景気はリ−マンブラザ−ズの破綻を受け11月以降、つるべ落としのように急激に悪化しています。大手製造業は軒並み仕事がなくて大型の正月連休に入っていますが、休みが明けたら次には大型のリストラが待っているのではという不安が従業員には広がっています。金融・経済の専門家たちは4−5年はこうした混迷が続くのではと悲観的な予測を立てています。またある評論家は「昭和30年代」の生活に戻ることを提唱しているほどです。

創世記の2節は「地はかたちがなく、何もなかった。闇が水の上にあった」と、神が世界を創造される以前の様子を混沌、無、闇という3つの言葉で描いています。お正月早々何となく「は−」とため息が出てしまいそうですが、混沌・無・闇、この3つの言葉はそのまま現代の私たちの厳しい不透明な先行きや不安な心の状態と重なるようなことばではないでしょうか。これから先いったいどうなるのか全くわからないという混沌とした状態、何をどこからどうすればいいのか具体的な解決方法が誰にもまったく見つからないという無の状態、お先まっくらで将来のことを考えると暗澹とした暗い気分になって落ち込んでしまうという暗闇と考えることができると思います。

さて、どこにも出口や光が見えない中にあって、聖書は一つの答えを示しています。創世記は「初めに神が天と地を創造した」(1節)との力強いことばで始まっています。つまり聖書はその冒頭において、神様の存在とその偉大な力を啓示しているのです。聖書の世界は2節の現実から始まるのではなく、「初めに神が」という真理から始まります。ですから「初めに神が」という非常に短いことばが最も重要なことばとなってきます。

「初めに神が」という重要な1句を見失うところから世界の混沌・堕落・罪が始まりました。神様の存在を抜きにしてしまうと、私たちの心も人生もいきなり2節の世界に陥ってしまうかもしれません。神の存在を拒むならば、混沌、無、暗闇・・というむなしさの中に陥ってしまうのです。聖書は人間の罪について明らかにしています。聖書が教える罪とは法律上の犯罪を犯すことや、人から後ろ指を指されるような道徳上の過ちを犯すことではありません。罪とは神様の存在を無視してしまい、人間の力だけに頼って生きてゆこうとする人間至上主義のことであり、その結果は滅びにいたるのだと聖書は教えています。 神の存在を無視すれば、この世界もそして私たち人間の心にも混沌・無・暗闇が待っていることを覚えなければなりません。

しかし、神様の存在を認めるならば、私たちはまず1節のことばによっていつも導かれることとなります。たとえ2節の厳しい現実が待ちかまえていたとしても、無から有を導き出すことができる全能なる創造主が共におられることを信じることができます。混沌とした無秩序の中に救いの明確なご計画を建てあげることができる全能者なる愛の神がおられることを信じることができます。全ての人を照らすまことの光である神がたとえ闇に被われても人生の道を照らし出してくださることを信じることができます。神が初めに力強く「働いて」くださり、全てのことを最善へとつないでくださるのです。

このことは、機関車がついている客車と機関車から切り離されて惰性で動いている客車を想像すればわかりやすいと思います。真っ暗な闇の中を客車だけが下り坂を惰性で進むなら、やがてコントロ−ルできないほどスピ−ドが加わり脱線転覆してしまいます。ところが機関車が先頭で煙をはきながら力強く客車を牽引しているならば、下り坂でも曲がり角でも転覆することはありません。険しい登り坂でさえも乗り越えてゆくことができます。あなたの人生は機関車につながれていない客車のようなものでしょうか? それとも機関車につながれて力強く導かれている客車のようなものでしょうか。「初めに神が」という信仰に引っ張られている人生か、「初めに自分が・・お金が・・学歴が・・」といった自分だけの力で走ろうとしている人生なのかが今、問われているのです。初めに存在しているのはどなたでしょう。あなたの前におられるお方はどなたでしょう? 「初めに神が」という人生でもっとも重要なことばをあなたはしっかり受けとめておられるでしょうか。

ある旅客機に乗って子供が一人旅をしていました。ところが嵐に巻き込まれ飛行機はそれこそ今にも墜落するかと思われるほどおおきく揺れ動きました。乗客に不安と恐怖が広がる中、その少年は穏やかな表情で落ち着いて座っていました。「坊や、こんなに飛行機が揺れてるいのに平気かい?」と隣の乗客が聞くと、少年はこういったそうです。「大丈夫だよ。この飛行機は僕のパパが操縦しているんだもの」と。この少年の心の中は尊敬するパイロットの父親への信頼で満ちていたのでした。

私たちもこのようなゆるがない信頼を神様に対してもちたいものです。私たちが信じ信頼している神様は、少年が信頼する父親にはるかにまさる「天地を創造された神」であり、「天におられる父なる愛の神」なのです。信じ信頼する者を決して失望させないお方なのです。

「聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ロ−マ10:11) 

さて、2節では、神の絶大の力を現すことばとして「創造した」という動詞が用いられています。ヘブル語で「バ−ラ−」という特別な動詞が用いられていますが、このことばは旧約聖書において神様にのみ用いられる特別な動詞とされています。材料や原料を加工して作ったり、製造するという意味ではなく、無から有を創り出す力を現しています。無から有を生じさせることができるのは神以外には存在しません。この特別な動詞は、神にあって不可能なことは何ひとつないことを私たちに教えます。したがって創造主なる神を信じる信仰者たちは、できないと考える人たちではなく、神にあってそれはかならずできると信じた人たちでもあるのです。イエス様ご自身もそのようなゆるがない信仰をもっておられました。
「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
                    (マタイ19:26)

「初めに神が天地を無から創造した」という重要な教えは、私たちをいつも挫折や失望のどん底から引き上げ、どんな失敗や敗北からも立ち直らせてくれる勇気を与えてくれます。神にあるならばできないことは何もないのです。できない、むり、むつかしいと3重に嘆くような無力な生き方から、できると信じる信仰の人生へと神様は信じる者を新しく造り変えてくださることができるのです。

さらに神様は創造の力によって無から有を生じさせたばかりでなく、混沌とした世界に秩序と計画をもたらしました。混沌とした光のない闇の世界の中にご計画を立てこれを完遂されることも神の偉大な力の現れといえます。アダムが神様のことばを無視し、神様に反抗して背を向け、堕落の道を歩み出したその時から、神様はアダムの罪の性質を受け継いでしまった全人類を救うための永遠のご計画を立てられました。それは御子キリストの十字架の死において私たちアダムの子孫が犯したすべての罪をつぐない、赦しをもたらすという壮大な愛に満ちた救済のご計画でした。そしてカルバリの丘の十字架においてついに神様は救いの計画を完成されたのでした。
 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
                            (ロ−マ6:23)

創造主である神様は、その絶大な力をもって私たちを危険や困難から守り助けてくださいます。永遠の愛をもって信じる者たちのために救いのご計画を立て、完成に向かってその人生を導いてくださっています。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

「初めに神が」という創世記1章1節は、私たちが最初に学ぶべき人生で最も重要なことばであり、私たちを混沌と無力と闇から救い出す根本的なことばです。この神のことばは、私たちに全能の神と愛のご計画の存在を明らかにし、私たちに希望と喜びをもたらします。

創世記1章1節に記された「初めに神が天と地を創造された」とのことばが、神様からの祝福のことばとして、あなたの人生に届きますように心からお祈りいたします。