キリストの復活シリ−ズ (2006年7月2日) 
よみがえられたキリストと11人の弟子たち
 
「主の弟子づくり」(マタイ28:16-20)

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに
命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、
世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ28:19-20)


1 大宣教命令

11人の弟子に、よみがえられたイエス様はご自身の権威を宣言し、その権威に基づいて一つの「命令」を与ました。この主の命令は後の時代に「大宣教命令」と呼ばれるようになり、キリスト教がユダヤの宗教という枠を超えて世界宗教へ拡大する原動力となりました。

この命令は「一切の権威を与えられた」イエスキリストからキリストを信じるすべてのクリスチャンに下された普遍的な絶対命令としての特徴を持っています。「従っても従わなくてもどちらでも良い」命令ではありません。復活された主イエスの固い意志として私たちがしっかりと聞き、従うことが要求されている命令です。主の権威に私たちが「服するか服さないか」、2つに一つの選択しかない重要な命令であることを心にとどめましょう。従わないことは主の権威をないがしろにしているのです。主の権威をないがしろにするほど、私たちは傲慢であってはなりません。主イエスは天においても地においても一切の権威が与えられたお方ですから、「主の権威を崇め、主のご意志に服する」という信仰の原点を忘れてはならないと思います。

1 宣教の姿勢としては「行動的・積極的」であることが命じられています。
「行って」と命じられています。そこには「待っていて」という消極的態度はみられません。積極的で行動的で情熱的な姿勢が強調されています。宣教はパッション(情熱)がなければ前進しません。そしてその行動力や情熱は、人間的な熱心さに基づくものではなく、「聖霊の愛」「聖霊の力」を受け、神に動かされ神に促されて大胆に行動する力による働きであると言えます。人間的な熱心さや行動力というものは実にあてにならないものです。ペテロが3度もイエス様など知らないといったあの応答の中に人間の肉なる熱心さの限界ともろさを私たちは見ることができます。人間の熱心さは、熱しやすく冷めやすく、移ろいやすく飽きやすいことを私たちは自分のことに置き換えても実感としてわかるのはないでしょうか。
変わることのない聖霊の愛の満たしを受けて「全世界に出て行く」という宣教の働きは力を持続できるのです。

2 宣教の対象は、「あらゆる国のあらゆる人々」です。
イエス様は「あらゆる国の人々」と宣教の対象を明言されました。宣教や伝道の対象から外れる人々はいません。もちろん、平均会員40名といわれる日本の教会にとって、あらゆる民族、あらゆる年代、あらゆる職業の人々に伝道をすることは実際に不可能です。私たちにできることは、
多様な宣教の働きがあることをまず理解し、導かれた宣教の働きとその働き人を祈りと献金をもってサポートをすることです。どの働きをサポ−トしてゆくかはそれこそ、教会の頭であるイエス様が導いてくださることと思います。

私たち日本バプテスト教会連合はフィリッピンへの宣教師として重荷と使命が与えられた田原先生やボストンにある在米日本人教会への宣教師として召されたミルハウス先生の活動を祈りと献金をもって支援しています。大阪西成区でホームレスの人々への給食伝道をしている牟先生夫妻をサポートしています。教会に行けない人々のためラジオやテレビを用いて放送伝道に携わっているハーベストタイムやライフラインの働きを献金をもって支援し、異端と呼ばれているエホバの証人からの救出を続けている草刈牧師の働きを有志たちがサポートしています。そして何よりも地域に存在している自分が所属している教会の宣教の活動が円滑に進展し、献身して働いている牧師の生活を十分の一とは言い切れませんが精一杯の献金をもって支えています。国内であろうと国外の人々に対してであろうと、祈りと献金をもって宣教の働きを支えてゆくことによって、私たちは主の権威を仰ぎ、主の権威に服しているのです。

宣教は主の権威への服従からではなく、失われゆく人々への愛からなされるわざであると考える人もいるかと思います。もちろん隣人への愛がなければ、伝道の根底が崩れてしまいます。しかしペテロの失敗に見られるように人間の持っている愛や情熱は熱しやすく冷めやすく、あきやすく移ろいやすいものですから、私たちの伝道が気分や感情を土台としているならば非常に危ういものになってしまいます。主観的で移ろいやすい人間的な愛を土台とするよりは、主の権威を仰ぎ、主のご命令に服する姿勢のほうがより堅実な働きを生涯かけてささげてゆくことができるのではないでしょうか。

主の命令であればその命令を私たちクリスチャンは「聖なる義務」として負うのです。聖なる義務を果たさないものに、神の聖なる祝福を願う権利はありません。


「 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、
責め、戒め、また勧めなさい。」(2テモテ4:2)

3 宣教の目的は、福音を信じた人々を、イエスの弟子とすること」です
復活されたキリストはすべての国民を弟子とせよと命じ、さらにイエスの弟子として導くためのコースもお定めになりました。「父と子とイエスの名によってバプテスマを受けること」(19)そして「主の教えを守るように教育を受けること」(20)の二つでした。
この二つは受けなければならない必須科目です。

@バプテスマを受けることは1度限りであり瞬間的な出来事です。
バプテスマを受けなければ霊的
な生涯のスタートをきることはできません。なぜバプテスマなのか?と問われても牧師である私は「そのように主が命じられたのだから従うしかないのです」とお答えする以外に答えをもっていません。以下の箇所からも繰り返しバプテスマの重要性は強調されていることがわかります。

「信じてバプテスマを受けたものは救われます」(マルコ1616
「エチオピアの高官は「わたしがバプテスを受けるのに何か差し支えがありますか」(使徒837
「人は心の信じて義とされ口で告白して救われる」(ロマ10:10)

主が権威をもってバプテスマを命じられたのですから、主の権威に服し、主に従う。それだけなのです。信仰は決して難しいものではなくシンプルなものです。バプテスマを受けるにあたって牧師が「そろそろバプテスマ受けませんか?」と誘い水を向け、求道者が「では、そろそろ受けましょうか」と阿吽の呼吸でバプテスマを受けるという名人芸?を行うのではなく、主の権威にひれ伏し主のことばに従って主が定められたバプテスマを素直に受けるという、シンプルな信仰に立ちたいものです。

父なる神の前に罪を悔い改め、キリストを救い主として信じ、信仰の告白としてバプテスマを受けるならば、無条件で「神の子とされる」のです。これは聖書が教える圧倒的な恵みのみわざです。永遠の滅びの運命から永遠のいのちの人生へと瞬時に移され、瞬時に立場が変えられるのですから神の恵み以外のなにものでもありません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

バプテスマを受けることによって、神の子としての公の立場が賦与され承認されたのです。これは瞬間的なことです。神の子とされ神の御国の民の一員として迎えられたのです。徐々に徐々に神の子になってゆくのではありません。滅びの子が永遠のいのちを持つ神の子にその身分が一瞬にして認められたのです。

A 守るように教えよ

救いは一瞬ですが、成長は漸次的です。「主のことばによって教育を受け続ける」という継続的なみわざが伴います。主の弟子となることは一瞬で達成できることではありません。弟子づくりとは、主イエスの教えを学び続け、導かれ続け、生涯学習し、成長し、実力を養い続けるというプロセスを意味しています。このように主の弟子となることは継続的な働きを意味し、神の子とされることは瞬間的なみ業であり、両者を神ご自身が成就してくださるのです。そして継続的な教育あるいは養育、もっと端的に言えば訓練が効果的に実を結ぶためには、「教会の交わり」がなくてはならない存在となります。お互いの交わりを通して励ましを受け、あるいは刺激しあい、支えあい、「共育」のプロセスを進めるのです。ですからパウロは「集会につどうことをやめないで」と励ましています。


4 「私の教会にいらっしゃい」こそ最高の伝道・宣教です

今日は「宣教」の焦点をあてて学んできました。1人の人が純粋に1人の人によってのみ導かれバプテスマを受けるというケースは少数だと思います。一人の人の救いは実に多くのクリスチャンたちによる出会い、証し、助け、励まし、伝道などが多彩に織り上げられながら結実してゆきます。伝道には、個人の友情、祈り、カウンセリング、証し、御ことばによる直接的な招きといった「個人の領域」と、教会の交わり、礼拝、他の信徒の証し、交わり、励まし、サポート、牧師の人柄や雰囲気、また時には駐車場があるか、会堂に落ち着いてみ言葉が聞ける十分なスペースがあるか、障害者への配慮が会堂になされているか、相談に来られるかたのプライバシーが守られているか、そんなことまで含めた「共同体的な領域」とがあり、両者の一体となった働きによって実際の伝道は進められています。そして「共同体的」な伝道の力は「個人的」な伝道の力より大きいのです。

ですから、もっとも素朴で力ある究極の伝道は「わたしの教会へいらっしゃい」に尽きると私は信じています。これが言える信徒は心から教会を愛しています。自分の教会を愛しているから喜びをもって「私の教会へいらっしゃい」と招くことができるのです。夫婦喧嘩が絶えないような家庭に子供は自分の友達を招けません。安心して友達を自分の家庭に招ける子供は幸せな子供なのです。「私の教会へいらっしゃい」このことばが健康な教会のしるしです。ちょっと狭くて窮屈なのは辛抱してほしいけど、「私の教会へいらっしゃい」と私は私のお友達に声をかけています。私がそのように言えるのは、すばらしい信徒のみなさんと一緒に教会づくりをさせていただいているからです。宇治教会を私は愛しているからです。

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

教会に「主がともにおられる」。だから喜びをもって私の教会に「いらっしゃい」と人々を招き、共同体伝道を進めてゆくことができるのです。


    

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