I見会堂

日本イエス・キリスト教団


鶴見緑地教会

Tsurumi Green Church

 

説教要旨




2018年3月11日:説教題:「悪の存在と神の存在」、聖書:イザヤ53:6
 @人に自由意志が与えられた。神様は最初の人間アダムを、善でも悪でもどちらでも選べる、自由意志を持つ者としてお造りになりました。さらに、自由意志があることで、人は愛を経験できます。断ることも、受け入れることもできる関係の中で初めて、人は愛する喜び、愛される喜びを経験できるのです。

 A人間は神から離れる選択をした。聖書こそは、人間の本質を明らかにする神の基準なのです。先ほど読んだ聖書の言葉に、人間は、羊飼いという保護者の下から離れて、自分かってな自己中心主義、自分さえ良ければよい、という考えで生きるようになりました。神から離れた人間、これがこの世に悪が横行している理由なのです。

 B神は人を見捨てられない。聖書は、私たち人間のすべての咎をキリストに負わせた、と語っています。それはこの世で理不尽な扱い、不条理な人生、不当な仕打ちを受けている人々に寄り添うため、そして、それらのすべての人々の罪を負って、神の刑罰を引き受けくださるためだったのです。キリストは、あなたのために苦しみ、あなたのために死んで下さった方、そしてよみがえられ苦難を引き受けてくださいました。
 どうぞ、あなたもこのキリストを心の中に受け入れて下さい。心から、お勧めします。



2018年3月4日:説教題:「奥義なるキリスト」、聖書:コロサイ1:21〜29
 @あなたがたのために受ける苦しみを喜び。パウロは多くの苦しみを通過しましたが、コロサイ教会の報告を聞き、手紙を書きながら、この苦しみは自分にとっての喜びだと書いています。

 Aキリストのからだとは、教会のことです。教会は、キリストによって集められた者たちの群れを指すのです。そして、その教会は、キリストのからだなのだと教えています。一人一人が仕え合う心をもって初めて機能する場所です。

 B教会に仕える者となりました。教会に仕えるとは、神の言葉を余すところなく伝えることです。それは神様から委ねられた務めです。それはあなたを通して、神の言葉を伝えるという使命です。奥義とは、神の言葉を伝えることであり、神の言葉そのものが神の奥義だと言います。その奥義とは、「イエス・キリスト、栄光の望み」です。
 Cこのキリストによって一人一人が成長していく。大切な4つのこと。1)宣べ伝えること。キリストそのものを宣べ伝える使命です。2)知恵を尽くすこと。私たちの理解力や判断力、そして、知識や知恵を用いてキリストを伝えるのです。3)戒めること。イエス様に従うということは、二股をかけるようであってはならないこと。4)教えること。聖書から教え、戒め、正されながら、大きな神の愛と恵みの中に生かされていることを喜ぶのです。



2018年2月25日:説教題:「ああ、エルサレム」、聖書:ルカ19:37〜44
 @「イエス様」フィーバー。イエス様はエルサレムへたどり着く直前、ロバの子に乗って行かれます。イエス様は、ロバの子に乗る事で自分がメシアであると発表された訳です。それをうすうす察知していた民衆も、この時とばかり、フィーバーになります。イエス様もそれを受け入れて、ロバの子に跨り、いわば堂々とエルサレムに向かって行進をされます。イエス様の所に連れて行かれたロバの子の背中に、弟子は上着を敷きました。人々もその衣を道に敷き、棕櫚の枝を振り、「ホサナ、ホサナ」と大合唱をいたします。

 Aイエス様の嘆き。エルサレムに近づき、都が見えた時イエス様は泣き始められました。やがて襲ってくるエルサレムの悲劇について泣いておられたのです。イエス様が泣いておられたのは、そのような滅びをもたらす人々の不信仰のゆえです。エルサレムの罪は、自分たちの罪を遠慮なく指摘した預言者たちを殺したことでした。その最後の「預言者」であるイエス様を十字架につけたのもエルサレムの民衆でした。彼らのもう一つの罪は、神の憐れみと愛を無視したことです。

 主の憐れみと愛を「当たり前」と見過ごさないように。主への賛美が私たちのすべてとしてくださいますように。



2018年2月18日:説教題:「私が帰って来る時まで」、聖書:ルカ19:13
 @今持っているものを固く守れ(黙示録2:25)。テアテラの教会は、実にすばらしい教会だったのです。ところが、そのテアテラの教会にも、主が御心を痛め、心配されたことが一つあったのです。それは、大切なものを失いかけていたからです。何を失って行ったか。それは「救霊の力」です。そのままで行くならば、ついには今持っている愛も奉仕も忍耐をも失ってしまいます。

 Aわたしが帰えるまで…しなさい(Tコリント11:26)。?聖書は、主イエス様の再びお出でになるまで、十字架をおぼえよ、と命令しておられます。?聖書は、この十字架の前で、「自分をよく確かめたうえで」と言っています。?「その死を告げ知らせる」ことです。

 Bこれで商売しなさい(ルカ19:13)。マタイ25章のたとえ話との共通点は、福音が私たちに依託されている。「わたしが帰るまで商売せよ」と言われた主は、「わたしはすぐに来る」と言われたのです。

 Cあなたは、私に従ってきなさい(ヨハネ21:22)。私たちが、キリストの御像に変えられるには、キリストに従って行くより他に道がありません。私たちが体験し、成長して行くことではありません。主イエス様が再びおいでになる、その時まで、ひたすら、従っていましょう。




2018年2月11日:説教題:「神に生かされる人生」、聖書:エレミヤ29:11
 @生きていく上で欠かすことのできないもの。私たち人間が生きていくうえで絶対に欠かすことのできないものがあります。それらのものは、私たちとは関係のないところで、私たちがこの世界に生まれる前から、すでに存在していたのです。実はそれらを存在せしめた方がおられるのです。

 A人生の始まりと終わりは選択できない。私たちは誰もが、ある時気がつけばこの世界に生まれていました。そしていずれの日にか私たちにはこの世を去っていく時が来ます。私たちは自分の人生と言いながら、その始まりと終わりを選択できません。生きている間も自分の思い通りにはなりません。では何によって生かされているのでしょうか?それは創造主なる神です。神は私たちを生かしておられる命の主権者なのです。

 B的を持って生かされている私たち。私たちの存在は決して偶然ではありません。私たちは大きな意志によって、目的を持って生かされているということになります。私たちを造られた方は、私たちの人生に目的を持ってくださっています。希望を与える素晴らしい計画は、既に神の御手の中に存在しているからです。それをあなたが信じ受け入れるのかどうか、それが問題です。
 私たちはそのどちらでも選択できます。是非、幸いな道を選び取って下さい。



2018年2月4日:説教題:「言葉が人となった」、聖書:イザヤ50:4〜11
 @神に聴く。神のメッセージを語る時、神に聞くことから始めなければなりません。この僕は、朝毎に聞きます。聴くということは、自分を主張しない心から始まります。

 A耳の開かれた僕。「耳が開かれたこと」が、4節では神の言葉を聴く僕となることに、5節では試練や迫害にたじろがずにぶつかっていく姿勢に繋がっています。苦難を受ける僕となることが示唆されています。

 B迫害に耐える僕。この僕は、大変な困難や迫害の中を避けないで真正面からぶつかります。それは、彼を助け弁護してくださる方は、神ご自身であるという固い信仰があったからです。これこそ正にイエス様が示された生き様でした。僕は苦難や迫害の真っ只中にあって、神の助けと励ましとを与えられます。神ご自身が僕を侮辱から守り、彼を弁護し、彼をいじめる人々を滅ぼされることによって、彼の立場を正当化します。僕は自分が助けられた経験を通して、多くの人々に対して神を信頼するようにと勧めます。

 主は僕としての道に徹底しておられ、その犠牲の上に私たちの救いがあります。人生に苦難は付き物です。その苦難が主の定めならば、避けてはいけません。主は共にあって助けてくださいます。




2018年1月28日:説教題:「忠実な奉仕者テキコ」、聖書:エフェソ6:21〜24
 @「便利屋さん」テキコ。第3回伝道旅行の最後に登場します。「使徒20:3〜6」60年:パウロの使者として、エペソ書、コロサイ書、ピレモン書の運び屋。「コロサイ4:7〜9」テキコの役割は、@パウロと生活を共にする。A手紙を運ぶ。さらに、パウロに代わって諸教会への励ましを行いました。63年:「テトス3:12」テトスの代理牧師としてクレタ島で奉仕。67年:「Uテモテ4:9〜13」パウロの殉教直前の幽囚の前に、テキコはローマからエペソに派遣されました。テモテに代わってエペソ教会の牧会に当たりました。
 Aテキコの人となり。「21〜22節」アジヤで誰にでも知られ、愛されていた。何よりも神に愛された人物だったのでしょう。パウロの代理としての仕事、テトスやテモテの代行牧師としての仕事を見事にやり遂げました。これは野心をもった人には出来ない仕事です。テキコは全く己に死んだ器だったのでしょう。テキコの使命は、パウロの獄中生活を知らせ、それによって信徒たちを励ますことでした。
 私たちも目立たなくても、忠実に主に仕える者とならせて頂きたいものです。主はそれを可能にしてくださいます。




2018年1月21日:説教題:「苦難を受けるしもべ」聖書:エフェソ6:14〜20
 @全ての聖徒のために祈る。「18節、コロサイ4:2」祈りとは、神への信頼と愛の表現であり、神との会話です。願いとは、個別的な願いのことです。主により頼む気持ちを持って過ごし、定められた時間、特別な場所と形で祈ることは、それに力を添えます。聖霊の助けを頂きつつ祈るのです。目を覚ましてとは、祈りの必要を知り、祈る姿勢に向おうという姿勢です。祈った後は、主の御心がなるようにとより頼みつつ委ねる。全ての聖徒のためにとは、私たちの小さな交際範囲の人々を超えて祈るようにという挑戦です。直ぐに答えられない祈りもあり、それによって失望せずに絶えず祈るべきことが勧められています。
 A伝道者のための祈り。「19〜20節、コロサイ4:3〜4」パウロは、この手紙を獄中から書いています。しかし、それに囚われず、神の言葉を大胆に語る知恵と勇気を求めたのです。パウロは、自分はキリストの大使なのだ、特にその福音をもたらす特命大使なのだと主張します。パウロは、世界の首都のローマの上告裁判で、この福音を伝えるには最適の場所と考えました。
 
様々な祈祷課題が出される一番の場所は祈祷会です。説教者のために、神の言葉を真っ直ぐに、効果的に語れるよう、真実に祈り続けましょう。