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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2021年5月 2日 9日 16日 23日 30日 目次に戻る
 2021年5月30日 
「生きた言葉」加藤誠牧師
ペトロの手紙一 1章22−25節



 ペトロは私たちキリスト者は神の言葉によって新たに生まれたのだと語ります。その神の言葉について2つの事が言われています。



 第一は「永遠に変わることがない」ものである、という事です。コロナ禍において私たちは「緊急事態宣言」という言葉が随分と「軽い」言葉であるとの印象を持ったのではないでしょうか?自分の事を顧みれば、気分や状況によって一貫した言葉を語れない事があります。自らの言葉の軽さを感じることがあります。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(25節)とペトロは約束します。「変わることがない」とは「裏切らない」事と私は理解します。神様は私を裏切りません。勿論、祈ったことが全て叶った訳ではありません。失敗も経験しました。しかし神様が私を裏切ったと思ったことは一度もありません。



 第二は神の言葉は人を新たに生まれさせる力を持つ、という事です。神学生時代にある教授が「福音は人を生かす」と語りました。それは彼の信仰告白だと思いました。そして私も「神の言葉は人を生かす」と信じています。



 オリンピックの活動はすべてオンラインで行うことにしました。毎日10か国語でメッセージに触れることができるようにユーチューブ番組を作ります。状況から言ってキリスト教だけがそのような番組を提供できます。たくさんの牧師、宣教師の協力なくしてはできません。神の言葉には人を生かす力があると信じているからこそ、コロナ禍であっても「神の言葉」を届けたいと願っています。
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 2021年5月23日 
「聖なる生活」加藤誠牧師
ペトロの手紙一 1章13−16節



 テレビで決まった番組を見ることはほとんどないのですが、最近ネットで面白い番組を見つけました。「ジュピターズレガシー」という超人的な力を持つヒーローたちとその後継者の物語です。彼らには強力なルールがあります。「極悪人でも殺さない」というルールです。しかしそのルールのために仲間が犠牲になり、仲間内で殺人が起きます。そのルールを頑なに守ろうとするチームリーダーは家庭崩壊の危機を迎えます。早送りして最終回を見ましたが、「殺すなかれ」のルールは最後でも破られます。



 「聖なるものになりなさい」と言われて「ハイ、なります」と即答できた人を私は知りません。「聖」とは本来神様に属するもので、人に属するものではないことを私たちは本能的に知っているのかも知れません。



 ここで言われている「聖」は儀式的な「聖」ではありません。少し前にユダヤ教の会同に伺い、ラビから「手を洗う事」を教えていただきました。これは石鹸で手を清潔にすることが目的ではなく、神様の前に聖くなるための儀式でした。勿論単なる儀礼ではありません。心を込めて行うことが必要です。



 「聖なるものになりなさい」と語ったペトロは、福音書を読むと人間味豊かな人物で、失敗も記されています。十字架の場面では3度主を「知らない」というペトロの姿を私たちは目撃します。恐らく年と経験を重ねても失敗から無縁だったとは思えません。しかし彼は「聖なるものになりなさい」と語ります。主イエスと共に生活し、主イエスを神の子と信じたペトロだからこそ、主イエスを慕い一生懸命彼の後を追いかける中で「聖なるものになりなさい」とのメッセージが生まれたのだと思います。
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 2021年5月16日 
「恵みの探求」加藤誠牧師
ペトロの手紙一 1章10−12節



 この箇所はキリスト教と聖書に対してある程度の理解力を有していないと、すんなりとは読みにくい。「この救い」とは主イエスが私たちに与えてくださる「救い」である。預言者たちが登場します。この場合は旧約聖書の預言者と考えて間違いないと思います。預言者と予言者は違います。預言者とは神の声をその時代に生きる人たちに分かる言葉で伝える存在です。そこには自らの思想や分析が入る余地はありません。ペトロは旧約時代に神の言葉を預かり語った預言者も、伝えた内容を注意深く調べ探求したのだと語ります。



 しかも12節ではその救いは「天使たちも見て確かめたいと願っているもの」だと語られています。「キリストの救い」とは何なのか?を探求することは私たちの信仰生活において大切なことだと思います。何故ならば「いろいろな試練に悩まねばならない」(6節)からです。試練の中で私たちは「キリストの救い」を探し求めます。そしてそれは「恵み」として今を生きる私たちにやってきます。



 昨日は「東京自殺防止センター」の総会がズームで持たれました。活動報告では、コロナの影響にどのように対処してきたかが報告されました。そしてコロナの影響で自殺者とくに学生が増加傾向にあることが報告されました。20代、30代を取り巻く環境は戦後最悪のように私には思えます。今のこの時代に「キリストの救い」はどのように証されるべきなのか、教会は問われています。



 先日の多宗教センター会議では、受付担当者をオリンピック村に派遣すべきか否かが話し合われました。命を危険にさらす行為は宗教者として容認できません。原則オンラインで対応することになりますが、知恵を振り絞って現実に対応しなくてはなりません。しかしながら「恵み」は主イエス・キリストから来ることに希望があります。
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 2021年5月9日 
「主を見ずして」加藤誠牧師
ペトロの手紙一 1章6−9節



 「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とペトロは語る。迫害の中にあるキリスト者の試練は「火で精錬される」ような厳しいものであったろう。



 数年前に宣教協約締結のためインドネシアのスラウェシ島のマナドを2回訪問した。ミナハサ福音教会の総会に参加したのだが、空き時間に墓に案内された。400年前に日本を追放されマナドに流れ着いたキリスト者の墓と遺品を見た。日本から約4000キロ離れた異国でどのように暮らしたのかは分からないが、遺品が大切に保管されていることからそれなりの人物であったことが伺える。



 ペトロは6節と8節に「喜び」という言葉を用いている。彼は試練の中を通される時にもキリスト者は「喜び」に満ち溢れることがあると言う。試練と喜びという相反するような事柄を結びつけるものは「信仰」であり、「魂の救い」である。



 信仰は私たちと主イエスをつなぐものである。私たちに喜ぶ力を与えるのは主イエスである。試練は時として人の目を塞ぎ、人への不信を増長させ、未来に期待を持てなくする。しかし主イエスにつながるとき、私たちには喜ぶ力が与えられる。



 日本基督教団に関係するキリスト教主義学校で宣教協力学校協議会という組織が成り立っている。実際に総会に参加するのは数校で後は委任状によって総会が成り立つのであるが、今回はズームを用いて半数近くの学校と繋がった。今年の企画としてオンライン短期留学の企画がスタートした。オンラインのため費用を安く抑え、生徒の参加数が増えると予想している。コロナの打撃は確かに大きいのであるが、主イエスを信じる私たちには知恵と未来と喜びが与えられると信じて歩んでいきたい。
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 2021年5月2日 
「主にある希望」加藤誠牧師
ペトロの手紙一 1章3−5節



 少々大げさな表現をすれば、この短い3節の中で、読み手の過去、現在、未来が語られている。

 私たちが「新たに生まれ」たのは、神の豊かな憐み以外にあり得ない。私たちはそれぞれに洗礼(救い)に至る歴史を持っている。親が既にキリスト者であった場合もあるであろうし、日本のようにクリスチャンは圧倒的にマイノリティーでありながら、キリスト教主義学校で信仰に導かれた人もいるであろう。明治の中期までは全体の半数以上がそうであった。明確な決断をもって信仰に入った人もいれば、教会学校等でいつの間にか信じるようになった人がいても不思議ではない。しかし、どんな過去を持とうと、「神の憐み」以外に私たちを信仰へと導いたものはないのである。



 現在の私たちを生かすものは「希望」である。希望の与え主は神である。その根拠は「死者の中からのイエス・キリストの復活」であるとペトロは語る。

 オリンピックに関わっていると様々な逆風を感じる。「本当にやるんですか?」と何回聞かれたか分からない。これほど感染症を気にしながらのオリンピックは過去にはない。しかし数千人のキリスト者アスリート、イスラム教アスリートの精神的サポートを誰かが行わなければならない。多宗教センターに関わる者にとっては、金銭も名誉も関係ない。あるのは使命感のみであるし、主から与えられる「希望」なくして戦えないのが私の現実である。



 ペトロは5節で「終わりの時」について触れる。私たちには2種類の「終わりの時」がある。個人の「終わりの時」と世界の「終わりの時」であり、どちらも避けることは出来ない。聖書の信仰は個人の「終わりの時」で終わらない。世界の「終わりの時」で終わらない。それはペトロによれば「準備された救いの時」である。私たちの救いが完成する時である。その時まで神の力と信仰によって守られていることを私たちは今朝覚えるべきである。
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