Satte christ church



   

幸手キリスト教会のホームページへようこそ!
 教会や集会に関する情報を掲載しています。
 ご質問がありましたら、お気軽に教会へ
お問い合わせ下さい。

                                                                   

お知らせ

          日曜の集会



  

9:30〜10:00  教会学校
(乳幼児から中高生が対象)
月刊誌「ハッピー月号を掲載しました!




聖日礼拝 毎週日曜10:30〜12:00
 
 
3月17日
 聖日(日曜)礼拝

説教題
「一粒の麦がもし死ねば」


聖書箇所
 ヨハネ12章20〜26節


どなたでも
  お気軽にお越しください。







<過去の説教要旨>


2月24日聖日伝道礼拝
「その水を私に下さい」
 Tヨハネ4章1〜15節

イエス様は、炎天下で井戸のそばに腰を
掛けていました。そこでサマリヤの女が
水がめを抱えて水を汲みに来ました。
通常は朝夕の涼しい時間帯に水を汲みに
来るのが普通でした。女は心の闇を抱えて、
人目をはばかっていたからです。

イエス様はのどの渇きを覚え、女に「私に
水を飲ませて下さい」(7節)と語り掛けました。
この姿は神であるお方が人間の世界に来て、
私たちに救いの言葉をかけて下さる謙遜さ
(へりくだり)を物語っています。イエス様の
渇きは人の魂を救わんがための激しい渇望
でした。
一方、水がめを抱えた女の渇きは、魂が
渇いていることを物語ってます。 

 女はユダヤ人のイエス様が声を掛けて
下さった事に驚きました。当時、ユダヤ人と
サマリヤ人の間には憎しみと対立があった
からです。イエス様は神と私たち人間の
架け橋となって下っただけでなく、人間同士の
架け橋にもなって下さったのです。

 続いてイエス様は女が誰にも触れられたく
ないと頑なになっていた、心の闇に光を当て
ます。女は過去に5人の夫を次々に変え、
いま一人の男と同棲しています。しかし、夫を
替えても魂の渇きは致されませんでした。
なぜなら罪の解決なくしては、神から祝福された
人生を歩むことが出来ないからです。それは
自分の力では解決できないのです。イエス様
だけが十字架で解決して下さったのです。

 彼女の抱えている水がめは、彼女の人生
そのものだったのです。「自分」の象徴が水がめ
でした。井戸の水は一時的には渇きを潤す。
しかし、井戸の水を汲んでも汲んでもまた渇き、
孤独は癒されなかったからです。
 渇いた魂に新鮮な水を注いで潤して下さる
お方は、イエス様です。霊と真実(聖霊と
イエス様)によって、神を礼拝する場所する時に、
尽きない恵みの泉がその人の内から湧き出て
くるのです。
 
 彼女はイエス様が自分の悩みを見抜かれ、
罪を赦して下さっているkとを知ると、水がめを
イエス様のみともに置きました。それは人生に
おける罪の重荷をイエス様のみもとに捨て
置いたことを意味します。やがてイエス様はこの
重荷を負い、十字架に掛かられました。


2月17日 聖日礼拝
「心を注ぎ出す祈り」
 Tサムエル1章10〜20節

エルカナには二人の妻がいました。ハンナと
ペニンナです。ハンナには子供が無く、ペニンナ
には複数の子どもが与えられました。ペニンナは
ハンナを憎み、子どものことでハンナをいじめた
のです。
 そこでハンナは神殿で泣きながら祈りを神に
ささげました。彼女の姿から神に喜ばれる祈りの
姿勢を4つ。

1)舌を制した
 ハンナはペニンナの愛の無い言葉に傷ついて
いました。しかしハンナは仕返しをしたり、神や
夫に不平を言うことはありませんでした。彼女は
舌を制する人でした。
言葉にならないような深いうめきをもって祈りを神に
ささげていたことによって、祭司エリからは酔っぱ
らっているのだと誤解されます。しかし、誤った
見方をした相手を感情的になって責めず、自分の
気持ちや祈っている理由を説明しました。

2)神に心を注ぎ出した
 ハンナは神の前に出て、心の中にある真実をあり
のまま涙と共に注ぎだしました。確信を得るまでは
退かない決意をもって祈り続けました。
その結果、目に見えるところでは何一つ解決して
いないにも関わらず、ついに彼女は祈りの内に勝利
を得、また祭司エリの言葉で確信を強めたのです。
イエス様も十字架上で祈りの手本を示されました。
 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を
死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と
涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔の
ゆえに聞き入れられました。」(へブル5:7)

3)神に子供をささげる素晴らしさを知っていた
 ハンナは神と共に歩む人生の素晴らしさを体験して
いました。それゆえ彼女は神の前に誓願を立て、
与えられた子供の一生を神にささげることにしました。
彼女が子供を求めたのは、子どもを通してますます
神に仕えるためでした。

4)神の恵みを忘れなかった
 ハンナは与えられた子供に「サムエル」と名付け
ました。「サムエル」とは「神の名」、「私が神に願った
から」という意味があります。子供の名を呼ぶ度に神の
恵みを忘れないようにしたのです。


2月10日 聖日礼拝
「愛のとりなし」
 使徒19章26〜28節

サウロはかつてクリスチャン達を激しく迫害した
人物でした。ダマスコの町へクリスチャン達を
迫害しに行く途中、突然イエス様の御声を聞き、
心を照らされ、彼は回心しました。すると彼は
すぐに伝道を始めました。

 その後サウロがエルサレム教会に行き、
弟子たちの仲間入りをしようとしたところ、弟子
たちの方で彼を恐れました。彼の回心が本物
だとは信じてもらえなかったのです。
回心した人の古い悪を覚えてその人を疑ったり、
恐れたりするのはイエス様から出た態度では
ありません。人の狭い心から出たものです。
 
 そんな時、バルナバは愛をもって忍耐強く
サウロが仲間に入れるようとりなしをしてくれました。
サウロの回心後の言動を証言したのです。
バルナバは聖霊に導かれ、サウロが将来イエス様に
よって大いに用いられる器であることを見抜いて
いました。
何よりもバルナバは"自分がどんなところから救われた
のか"を思い、イエス様による救いを喜んでいたので
しょう。

バルナバのようにイエス様にしっかりと結びつき、
聖霊の導きに聞き従う人はイエス様の愛を深く受け
止め、疑いや恐れることなく、すべてを期待し相手を
信頼することが出来るのです。(Tコリント13章参照)

 サウロがいくら有能であり、旧約聖書に通じていても、
教会の交わり無くしては信仰が成長しないし、霊の
状態が衰えて行きます。それは教会のかしらがイエス様
だからです。バルナバのとりなしによって異邦人に福音を
宣べ伝えるすばらしい器が見出されたのです。

 サウロの名前は、イスラエルの初代の王の名に
ちなんでいます。「サウロ」とは「求める者」との意味
です。ところがサウロは後に自分のことをニックネームで
「パウロ」と紹介しています。「パウロ」とは「小さい者」
という意味です。彼がどれだけイエス様の救いを喜び、
そのしもべとされたことを感謝したかが伺い知れます。

 私たちも自分がどんなところから救われたのかを
改めて思い返して喜び、今度はバルナバのように
イエス様から頂いた愛と忍耐をもって、後に続く人の
ためにとりなす者とされたい。


2月3日 聖日礼拝
「神の国とその義とを
まず求める」
  マタイ6章30〜34節


今日あっても、明日は炉に投げ込まれる
野の草さえ、神がこれほどに装ってくだ
さる。まして、あなたがたに良くしてくださ
らないわけがありましょうか。
 
2/3玄関先に咲いて(生えて!?)いた野花


1月27日 聖日伝道礼拝
「神が与える真の愛」
  Tヨハネ4章7〜10節

@神は愛の根源
「愛は神から出ているのです」(7節)、「神は愛だからです」
(8節)と、愛の根源は神であることが示されています。人の
愛情は神の愛の反映にすぎません。しかし、人は愛する時に、
いちばん神のご性質に近いのです。
 しかし、神の愛が無ければ人の愛(家族愛や兄弟愛、
男女の愛)などは自己中心的でみにくいものに簡単に変わる
可能性があります。人が神の愛を持つ時に、これらのものは
真に良きものとなるのです。

A神の愛とは救い
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、
いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに
示されたのです。」(9節)

 神の愛は相手を尊敬し、相手が生きられるようにしてあげる
ものです。このように相手を第一に考えられるような愛を人は
生まれつき持っていません。神の愛は神のひとり子イエス・
キリストがこの世に遣わされたことによって、私たちに示された
のです。

 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの
罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。」(10節)
 私たちが神を知るようになるのは、ただ神の愛によるほかは
ありません。それは"イエス・キリストがこの私の罪の身代わりに
十字架に掛かった"という事実を認め、その救いを信じることです。
ですから、「神の愛」とは「救い」のことなのです。神からの最高の
プレゼントはイエス様なのです。

 イエス様によって自己中心の罪を赦しきよめて頂いて、神が人の
心に宿る時にのみ人は真に愛し合えます。イエス様によって
自分の価値を真に見出す(自分を受け入れる)と、もはや自分
自身にこだわらず、人の益を喜んで優先できます。そして隣人たち
にも神の愛を知って欲しいと願うようになるのです。



1月20日聖日礼拝
 「神の刈り込み」  田沼師
   ヨハネ15章1〜9節

 イエス様はブドウの木のたとえ話をされました。
ブドウの木はイエス様、私たちはその枝、刈り込みをする農夫は
神だと言われたのです。

 イスラエルは神がお植えになった純良種の良いブドウでした
(エレミヤ2:21)。しかし、イスラエルは神を捨て去り周辺国の偶像を
拝みました。イスラエルは質の悪い雑種のブドウに変わって
しまったのです。

 イスラエルだけでなく現代の私たちを含めて、枝であるすべての
人々が信仰によってイエス様というブドウの木につながらないと
良いブドウの実を結ばせることが出来ないのです。

 ここで「実」(2節)とは次の3つを指します。
@悔い改めの実(マタイ3:8)   悔い改めにふさわしい歩み
A品性の実  (ガラテヤ5:22〜24)御霊に導かれ品性が備え
                     られる
B奉仕の実  (ピリピ1:22他)  奉仕として働きが表わされる

私たちがこうした実を結ぶためには、ブドウの木であるイエス様に
つながっていなければなりません。「つながる」とはブドウの木と
枝が結びつき、樹液が循環するように、日々イエス様と交わること
です。具体的にはイエス様の十字架の救いに表わされた愛の中に
生活することです。すると必ず良い実が結ばれるのです。

農夫である神は、私たちに良い実を結ばせるために剪定されます。
実を結ばない枝を刈り込まれるのです。もし刈り込みをしないと枝
ばかり自分勝手に伸びて養分が分散し、貧弱な実しか結ばないの
です。
実際生活の中で起きた「損失」を思い巡らして下さい。その多くは
神がこの刈り込みをされたがゆえに起きたことではないでしょうか。

農夫である神は最後にブドウの実を収穫されます。私たちは多くの
実を結んで神の栄光を現わすために生かされています。私たちは
ブドウの木であるイエス様を離れては何もできません(5節)。自分の
無力を真に知ると共に、いよいよイエス様と固く結びつき、もっと豊か
に実を結ばせようと祈り求めて歩んで参りたいものです。

 


                           



※当教会はエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。
お困りの方はご相談ください。

幸手キリスト教会

〒340-0121
埼玉県幸手市上吉羽97−4

TEL 0480-42-1075