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   12/2update


 

当教会は、聖書に基づく伝統的なプロテスタント教会です。エホバの証人(ものみの塔)、
統一教会、モルモン教とは一切関係ありません。

毎週日曜の集会

☆☆コロナウイルス感染防止のために☆☆

各自マスク着用の上、玄関で手指のアルコール
消毒を行ってください。
 発熱のある場合は集会出席を控えてください
・受付で検温し、受付簿に記名と検温結果を記載
願います。

・礼拝堂の人数は15名までとし、超過した場合は
食堂などへ分散します。
・席については前後左右を空けるようにし、
1テーブルにつき1名が座るようにします。
窓やドアの開放に加え、換気扇により常時換気を
行います。
・各テーブルに週報を置きますので、その位置に
着座してください。
 ↓白紙で例示しました  飛沫防止用のアクリル板
       


 
9:30〜9:45  教会学校
(乳幼児から大人まで対象)月刊誌「ハッピー月号掲載
 
10:30〜11:15 礼拝
  







☆クリスマス礼拝
 12月24日(日)10:30〜11:30 
      礼拝後にティータイムを持ちます。

☆クリスマス・イブ礼拝
 12月24日(日)16:00〜17:00 
      講師:後平一師・真紀子師(関宿チャペル)
                                   




12月24日聖日伝道・クリスマス礼拝 
    救い主キリストの誕生をお祝いします
説教題
 「救い主誕生の身近なしるし」
聖書箇所
  ルカ2章11〜20節



12月17日聖日礼拝 
    救い主キリストを待ち望む期間:アドベント 第三週
説教題
 「最初に知らせを聞いた人々」
聖書箇所
  ルカ2章8〜10節



12月10日聖日礼拝 
    救い主キリストを待ち望む期間:アドベント 第二週
説教題
 「救い主のための余裕」
聖書箇所
  ルカ2章1〜7節



12月3日聖日礼拝 
    救い主キリストを待ち望む期間:アドベント 第一週
説教題
 「救い主を捜し求めた人々」
聖書箇所
  マタイ2章1〜11節



11月26日聖日伝道礼拝 
説教題
   「死んで生きる」
聖書箇所
  ガラテヤ2章19〜20節
 モーセの十戒(律法:神と人、人と人との基本的な戒め)が石の板に刻み
込まれたように、神はすべての人の心の板に「良心」という律法を刻まれました。
 古来から、人は何とかして良く行きよう、天国に入れるよう修行を積もう、
と努力して来ました。しかし、神の目にはすべての人は罪びとなのです。
「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)

 パウロと言う人は、律法の定めを完全に守り行おうと厳しい生活を送って
来たのでした。しかし、イエス・キリストに出会って、自分の罪を知らされ、
律法を守り行うことの限界を知らされ、イエス様の十字架による救いに導かれ
ました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。」(20節)
 キリストは、私たちの律法違反の罪を身代わりに背負い、十字架で死んで
よみがえられました。その結果、キリストを信じる者は律法を完全に守り行った
とみなされます。こうして、行わなければ罰を受けるという律法の呪いから解放
されたのです。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる
のです。」(20節)
 生まれつき罪に支配されていた自己中心的な古い「私」は、キリストと共に
十字架につけられて死に、キリストと共に生まれ変わった新しい「私」がキリストと
共に生きているのです。もはや罪に支配されることなく、キリストが私たちを
治めて下さっており、犯した罪は悔い改めを通して赦し、きよめられるのです。
キリストの下さった新しい命は、肉体の死を乗り越えることのできる永遠の命です。


11月19日聖日礼拝 
説教題
   「この時のため」
聖書箇所
  エステル記4章12〜17節
 ペルシャの有力な大臣ハマンの策略によって、ユダヤ人絶滅計画が実行に
移されようとしていました。それを知ったユダヤ人モルデカイは、王の妃になって
いた養女エステルに告げます。「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、
この時のためであるかもしれない」(14節)

 モルデカイは同胞のいのちを救うために、心血を注ぎます。これを現代に当て
はめますと、隣人の魂が救われるために心血を注ぐということになります。
なぜなら"私たちは救わんがために救われた"、つまり隣人(同胞)を救うために、
少しだけ先に救われたからです。
 そして現代の私たち一人ひとりにも必ず「この時のため」(14節)という場面が
やって来ます。そういう役割を神が与えられるからです。

 エステルは危機に瀕した同胞の救いのため、自分のいのちを犠牲にする決心を
しました(16節)。このような言行は神の助けがあって初めて成せるわざです。
神は人の自由意志による信仰の応答を用います。この応答があって、はじめて
神のみわざが実現していくのです。エステルの姿は十字架のイエス様に通じる
ものです。(ピリピ2:6〜8)

 また、エステルは自分と侍女たちだけでなく、同胞のユダヤ人たちにも断食の
祈りを呼びかけました。祈りを通して神様の特別な力が与えられなければ、この
ような働きはできないことを知っていたからです。

 「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士は、米国に帰国後、大学経営や
事業に失敗します。召天間際に「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も
輝かしい時だった」と言い残しました。札幌で学生たちに与えた人格教育や
キリスト信仰はその後の日本やキリスト教会に大きな影響を与えました。
 まさにクラーク博士にとって札幌滞在が、人生を賭けた「この時のため」だった
のです。

 「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで
聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れに
ならないのです。」(ヘブル6:10)


11月12日聖日礼拝 
説教題
   「主を喜ぶことは力」
聖書箇所
  ネヘミヤ記8章5〜10節
 バビロンからイスラエルに戻った民は、総督ネヘミヤと律法学者・祭司である
エズラをかしらとしてエルサレム神殿の再建を成し遂げました。
 しかし、神殿工事で心を一つにした民は、城壁が完成したことで大きな目標を
失い、関心が個人の生活に移ってしまう可能性がありました。 
 また、神に頼るのではなく城壁に頼ってバラバラになる危険性がありました。
 そこで広場に集まって来た民に、エズラは律法(創世記〜申命記)を読んで
聞かせたのです。

 神の御言葉である聖書は、読まれ、説明され、その時代の人々に理解され
なければなりませんでした。「信仰は聞くことから始まり」(ローマ10:17)、「人は
パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ
4:4他)からです。

 すると、民は律法のみことばを聞いてみな泣きました(9節)。祖先の罪を思い
起し、また自分たちの代の罪と祖国滅亡、捕囚と帰還、エルサレム再建を思い
巡らしたからです。

 このように律法は私たち人間に罪を明らかに示し、救いに至る悔い改めへと
導きます。すると今度は神による慰めと赦しの恵みを感謝し、喜び祝うべき時が
訪れるのです。

 神を喜ぶことは私たちの力になります(10節)。主を喜び祝うことこそ、私たちの
力の源です。イスラエルの民は、食べ物を貧しい人と分かち合って主を喜びお祝
いしました。


11月5日聖日礼拝 
説教題
      「再出発」
聖書箇所
  エズラ記9章9〜10、15節
エズラ記はイスラエルの罪からの回復の歴史が記されています。
イスラエルは、バビロンによりついに滅ぼされて、ほとんどの人々がバビロンへ
捉え移さ7ました。紀元前538年にペルシャ王により、イスラエルの民は故郷に
帰ることと神殿を再建することが許されました。

故郷に帰った民が神殿再建(9節)の次に行ったことは、「神との関係の再建
(たてなおし)」でした。15節の悔い改めの祈りは、イスラエルの新しい出発の
しるしでした。新しい生活は、神との関係を立て直す中で始まるべきであることを
告げています。
イスラエルの民は、「神の前に立つことが出来ない罪深い」者であるにも関わ
らず、「あなたの御前におります」と祈っています。これは彼らの信仰告白であり、
彼らの再出発が神の愛によって支えられていることを表わしています。

これを現代の私たちに当てはめますと、まさにイエス・キリストの十字架の血潮
のゆえに、神の裁きから「のがれた者」(15節)です。
この悔い改めによる再出発の恵みは、今やイエス様を通していつでもすべての
人に与えられているのです。


10月29日聖日礼拝 
説教題
   「各器官の調和」
聖書箇所
  Tコリント12章20〜27節
 当時のコリント教会は、内部で分裂していました。そこで神は、使徒パウロの
口を通して、互いにいたわり合い、調和するよう促しています。
 教会をキリストの体にたとえると、キリストをかしらとして信徒一人一人がその
器官となって調和するというのです。

 そこで大切なのが、各器官である私たちが互いに「いたわり合う」(25節)こと
です。各器官が調和し、互いにいたわり合うことが出来るのは、神の愛
(アガペー)によって実現するのです。
 私たちは罪によって愛される資格を失っていましたが、神の愛ゆえにイエス様の
十字架によって買い戻されました。そしてキリストの体である教会の一員に加え
られました。互いに愛し合う関係に入れられたのです。


10月22日聖日伝道礼拝 
説教題
   「新しく生まれる」
聖書箇所
  ヨハネ3章1〜5節
 ニコデモは、ユダヤの最高議会の3人の長の1人で、パリサイ人と呼ばれる
ユダヤ教のエリート集団に属していました。彼は人目を忍んで、「夜」に
イエス様のもとを訪ねたのでした。この「夜」とは彼の心の状態を指しています。
「夜」として示される私たちの虚しさや後ろめたさは、イエス様を通して神と出会う
機会となります。

 イエス様はそんなニコデモに告げます。「人は、新しく(上から)生まれなければ、
神の国を見ることができません」(3節) 神の国(神のご支配)を日常生活で体験
するには、神によって上から生まれなければならないのです。すると、神に祝福
された生涯に入ることが出来るのです。

 それではなぜ人は新しく生まれないと神の国(ご支配)を経験することができない
のでしょうか。それは私たち人間が徹底的に神の前に罪深いからです。根本的に
上から、つまり神から新しく内側から作り変えてもらわないとどうにもならないのです。
 ですから、「水と御霊」(5節)に表わされる、悔い改めと刷新が必要です。罪を
悔い改めてきよめられ、聖霊による新しい命に生かされます。


10月15日聖日礼拝 
説教題
   「本当の祝福とは」
聖書箇所
  U歴代誌9章1〜4節
 ソロモンとは「平和」という意味で、彼はイスラエルの3代目の王となりました。
彼は初期の頃は、神を畏れ、民を正しく裁くために神に知恵を求め、良い政治を
おこなうよう努力しました。シェバの女王は、ソロモンの名声を耳にし、はるばる
エルサレムまでやって来て、莫大な香料と宝石とをソロモンに贈り届けました。
彼女がソロモンの知恵を求めた熱心さをイエス様は賞賛しています。
(マタイ12:42他)

 栄華を極めたソロモンでしたが、神の目に彼は王としての高い志を失い、
高慢に覆われた姿と映ったのです。
(Tサムエル記16:7「人はうわべを見るが、主は心を見る。」)

 ソロモンは、神殿や王宮の建築のため、外国貿易を盛んにしました。軍備を
拡張して国の四方を征服しました。王になるために兄弟の1人を殺し、多くの
人の命を奪いました。
 さらにソロモンは、多くの妻やそばめを囲った豪華な生活の費用をまかなうため、
民に重税を課し、強制労働を行わせました。このことがやがて国の分裂につながる
のです。
 そんなソロモンの晩年は虚しい晩年を迎えたのです。(伝道者12章)

 イエス様はソロモンを引き合いに出し、次のように語っておられます。
「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような
花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」(マタイ6:28〜29)

 ― ソロモンが着飾っている服や宮殿などには命はないが、いま咲いている野の
ゆり(花)には命が満ちている。なぜなら命ある神の創造物だから。そのままで
100%神の目には美しい ―
 野のユリは明日には炉にくべられ燃やされてしまうかも知れません。だけれども
最後まで美しく咲いています。ましてや私たち人間には神の恵みがもっともっと
注がれています。
 神の愛に気づき、神と人とを愛する人生こそ本当の祝福であることを日々学びつつ
歩んで参りたい。


10月8日聖日礼拝 
説教題
   「悲しみの秘密」
聖書箇所
  T歴代誌4章9〜10節
ヤベツの母は、わが子に「悲しみ(ヤベツ)」という名をつけました。神の不思議な
摂理のうちに命名されたのでした。
 そんなヤベツが神にささげた単純で率直な祈り・願いが、彼の人生を変え、
イスラエルの歴史書に永遠の記録を残したのです。

(1)神への素直な信頼と大胆な祈り
 ヤベツは悲しみの中で生まれ、彼にとって一番の重荷は、名前が将来を決定する
と言う事でした。彼はイスラエルの神について聞きながら成長し、新しい始まりを
与えて下さる神に祈ることを学びました。やがて彼は、兄弟の中で最も重んじられ、
母に慰めと喜びを与える者となりました。彼の祈りは次の通りでした。

@「私を大いに祝福し」 素直に神に信頼し、大胆に祈りました。神の本質は祝福
(愛する)することだと悟ったからです。
A「私の地境を広げてくださいますように」 イスラエルの神をもっと世に知らせる
ための影響力や機会を得て、神に栄光を帰するためでした。
神は無限のお方です。自分で限界を設けないことが大切です。
B「御手が私とともにあり」 神の臨在(インマヌエル)こそ祝福の基です。
C「わざわいから遠ざけて…私が苦しむことのないように」 謙遜になって悪の試み
から回避されるように願い求めました。

(2)悲しむ者は幸い
 この悲しみに込められた秘密は、やがてイエス様によって「悲しむ(悔い改める)者は
幸いです。その人たちは慰めら(救わ)れるから」(マタイ5:4)とのメッセージとなって、
現代の私たちにまで届けられたのです。イエス様ご自身が「悲しみの人」(イザヤ53:3)
となって十字架にかかり、私たちの救いを成し遂げて下さったからです。

10月1日聖日礼拝 
説教題
   「放蕩息子のたとえ」
聖書箇所
  ルカ15章11〜24節
@人間本来のあるべき姿は神と共にあること (11〜16節)

「父」(12節)は神様。「弟(次男)」(12節)とは私たち自身のことです。父は弟の求めに
応じ、財産を生前分与します。すると、弟は父との縁を切って財産を手にし、遠い
異邦人の国へ旅立ちました。
 ところがそこで財産を乱費して使い果たすと、誰も助けてくれませんでした。そこで
ある人のもとに身を寄せると、豚の世話をさせられ、まるで奴隷のような扱いを受けます。
これは私たちが父なる神様から離れると、神以外(この世)の奴隷になることを示して
います。

A我に返って心から悔い改める (17〜19、21節)
弟はこの世で頼るべきものをすべて失い、空腹の中で我に返ります。
自分の姿、自分の罪と向き合った時に、本来自分のいるべき「父のところ」(18節)を
思い出したのです。神への信頼と謙遜さが大事であることが示されています。

B父なる神の喜び (20、22〜24節)
父は、弟がみもとを離れている間も変わらず弟を愛し、帰りを今か今かと待っていました。
これは、父なる神にとって放蕩息子が悔い改めて帰って来るのは、まるで死んでいたのが
生き返ったような喜びだと示しています。

イエス様は私たちを父なる神に立ち帰らせるために、私たちの身代わりに十字架で死なれ、
死から復活されたことによって信じる私たちに永遠のいのちを与えて下さったのです。
「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)

9月24日聖日伝道礼拝 
説教題
   「イエス様の招き」
聖書箇所
  マルコ2章14〜17節
故・日野原重明医師は「人間というものは色々な病気の遺伝子を持っている。だから、
全くの健康人なんていない」と言われました。同じように全ての人が生まれながらに"罪"
という魂の病気にかかっています。そこでイエス様はこの魂の病気を治し、永遠のいのちを
与えるために今日も全世界中の人々を聖書のみことばを通して招いておられます。
 
収税所に座っていた取税人レビ(マタイ)は、世間からの差別と自分が行って来た法外な
税金集めのことで心は暗くなり、喜びを失っていました。イエス様は彼の心を見抜かれ
「わたしに従って来なさい」(14節)と招かれました。すると彼は「立ち上がって従った」
のでした。彼はイエス様の12弟子の一人となり、マタイによる福音書を書いたと言われて
います。彼のように立ち上がって、つまり心を方向転換してイエス様に従って行くと、愛なる
神に出会うのです。

イエス様は罪びとの中から弟子を選んだだけではなく、積極的に彼らと交わりを持たれた。
その象徴が彼らと一緒に食事をすることでした。それは彼らと共に生きることを表わして
いました。イエス様は「罪人(つみびと)」だと差別されている人々の中に真実を見、逆に
自らは義人であると言いながら他人を差別している者たちの中に偽善の罪を認められました。

イエス様は言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは
正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(17節) 人は病気になった時に
医者が必要です。同じように、自分は清くない者だ、罪人なのだと気が付いた人がイエス・
キリストを必要としているのです。
イエス様は罪人を招き、その愛のゆえに罪人と共にいて下さる。罪人が医者を必要とする
ように、罪人はイエス・キリストを必要とします。なぜならイエス様は魂の医者であるからです。

9月17日聖日礼拝 
説教題
   「上よりの知恵」
聖書箇所
  U列王記5書15〜19節
当時、イスラエルの隣国にアラムという国がありました。その将軍ナアマンは重い皮膚病に
かかり、その癒しのためイスラエルに出かけて行きました。彼は預言者エリシャの言葉に従
い、ヨルダン川で7たび身を浸すと癒されました。彼はこの出来事を通して「私は今、イスラ
エルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました」(15節)、「しもべはこれからは
もう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげま
すから」(17節)と告白しています。

さらにナアマンは「どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように…」(18節)と続け
ます。故郷のアラムに戻れば自分は将軍として主君であるアラム王に仕えねばならない。ア
ラムではリモンの神殿で宗教的な儀式が行われるので、自分は立場上多くの補佐的な役割
を努めなければならない、というわけです。
特に王が神殿で拝む時にこの自分の腕によりかかる。立場上、自分も神殿で身をかがめる
が、それは決してリモンの神を拝むためではない、と言っています。これは彼が考え出した言
葉ではなく、上から(神から)与えられた知恵であり、異教世界で生きていくクリスチャンにとって
の知恵です。

それに対し、預言者エリシャはナアマンに言います。「安心して行きなさい。」(19節) エリシャは
言葉だけではなく、神の恵みがナアマンにあるよう祈りを込めて言ったのです。人が不安に思
う時、友が言葉に出して言ってくれることはとても大事です。これは"横"の関係です。

 神は上から「平安」を与え、横からは「安心」を与えます。イエス様は神として「あなたがたに
わたしの平安を与えます」(ヨハネ14:27)と言われ、人としては「安心して行きなさい。」(ルカ7:50
他)と言われたのです。

9月10日聖日礼拝 
説教題
   「まことの友」
聖書箇所
  Uサムエル12書1〜7節
ダビデは部下のウリヤの妻バテ・シェバを強奪し、その罪を隠蔽しようとウリヤを激戦地に
送って戦死させました。しかし、ダビデは昼も夜も罪の罪責感に苦しみ、暗黒の日々を送っ
ていました。
 そこへ神から預言者ナタンが遣わされ、たとえを語ります。ある貧しい人が一頭の雌の子
羊を大事に飼っていたが、富める人がこの貧しい人の飼っていた子羊を取り上げて調理し
てしまったというのです。
ダビデはこのたとえ話を聞いて正義感に駆られて非常に怒り、「そんなことをした男は死刑
だ…」(5〜6節)と言いました。私たちは人の罪には厳しいが、自分の罪には鈍感です。

それに対しナタンは「あなたがその男です」(7節)と直言し、面と向かってダビデの罪を示し
たのです。ダビデは、このナタンの直言によって罪を悔い改め、人生の危機から救われた
のです。罪が分かっていながら、陰で批判する人は多くいても、面と向かって直言し、悔い
改めを勧める人は稀です。
しかし、そのような人こそ神の人(神の遣わしたもう人物)であり、一生涯のまことの友です。
まことの友がいてくれたことによって、私たちはどれだけ助けられ、転落の危機から救われ
るでしょうか。究極的には、イエス様が私たち一人一人のまことの友です。イエス様は、私
たちを「友」(ヨハネ15:15)と呼び、罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さいました。

〇まことの友を大切にする    友の直言は本当にありがたい
〇まことの友は備えられている  どこへ行っても神が備えて下さる
〇自分自身がまことの友となる  相手を思い、時を逃さず一言を

9月3日聖日礼拝 
説教題
   「心をご覧になられる主」
聖書箇所
 Tサムエル16書6〜7節 
預言者サムエルは、イスラエルの国で新しく王様が選ばれる時にその人の頭に油を注ぐ役目が
ありました。イスラエルの最初の王はサウルでした。民の要求に応えて、外見が美しく身長も肩一
つ高いサウルが選ばれました。しかし彼は「主のことばを退け」早々に失敗したのです。

神はサムエルにベツレヘムのエッサイと言う人のところへ行くよう命じ、その子供たちの中に新し
い王様となる人がいると言われました。サムエルは一番上の子エリアブを見た時に「この人こそ、
神がお選びになった人だ」と思いました。ところが神は違うと言われました。末子のダビデが、サウ
ル王の後継者と選ばれたのです。ダビデは当時15歳くらいの紅顔の背の低い少年でした。
「人はうわべを見るが、主は心を見る」(7節)。神が王を選ぶ基準は「心」なのです。この「見る」の
原意は、「矢を放つ(ヤーラー)」で、「心を射抜く」という意味。神は心を見抜いておられる、という
のです。

ダビデはやがて王となり、立派な仕事もしました。しかし、時に過ちや失敗を犯しました。サウルと
違うところは、神の助けを信じて素直に罪を告白し、悔い改めて神の御言葉に聞き従おうとしたと
ころです。
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受け
る。」(箴言28:13)

サウルは最初の内は良かったのですが、途中で主を求めることをせず転落してしまいました。しか
し、ダビデは数々の過ちにも関わらず、素直な心で一生涯、主を求め続けたのです。
「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あな
たが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」(詩篇130:3〜4)
これはイエス様の十字架による罪の赦しへと通じる告白です。

8月27日聖日伝道礼拝 
説教題
   「信仰の手がかり」
聖書箇所
  へブル書11章1節
「信仰」とは文字通りには「信じて、仰ぐこと」ですが、もう少し詳しくは「目に見えないものが真実
であると保証し、期待しているものがすでに現実だと確信する」ことです。まるで映像のように現
実のものとして先取りして受け取ることを示します。
 
心から信じるものがある人は幸いです。どんな時も迷うことなく、希望を失うことなく、くじけること
なく進むことが出来るからです。
しかし、何でも信じれば良いのではありません。いたずらに信じるのは、迷信とか盲信と形容さ
れ、人を危険と不幸に陥れるのです。人が何かを信じるには手掛かりが必要なのです。

それでは、イエス様を信じるにはどんな手掛かりが必要でしょうか。
イエス様を信じる手掛かりは、次の2つの事実(に基づくもの)です。

@イエス様が私の罪のために死んで下さったという、イエス様の事実
A私には罪があるという、私の事実

この2つの事実によって、イエス様と私とが結びつくのです。イエス様を自分の罪からの救い主
と信じると、罪の赦しと永遠のいのちが即座に与えられるのです。

 ある若い人が牧師のもとを訪れ、持てる知識をもって質問攻めにしたそうです。ついに牧師が
返答できなくなり、その人は帰ろうとしました。その時、牧師が「君にへりくだりの心があったなら
ばなぁ」とつぶやきました。すると「へりくだり」という言葉が彼の心を捉えました。彼は自分には
へりくだりがない、つまり神の前に高慢であることを示されました。彼はそこから真剣にイエス様
の救いを求め始め、イエス様の十字架が自分の罪の救いのためであったことと、自分には罪が
あることを明確に信じ、やがて立派なクリスチャンになったのです。

8月20日聖日礼拝 
説教題
   「とどまる」幸い 
聖書箇所
  Tヨハネ2章24〜29節
「今は終わりの時です」(18)と記されています。今から2千年ほど前にも「今は終わりの時」と
思わざるを得ない混沌とした世の中であり、哲学、思想、イエス・キリストの福音を混合しよう
とする動きもありました。その1つにグノーシス主義が諸教会を分裂させていたのです。そこ
でヨハネは「私たちの喜びが全きものとなる」(1:3,4)、「罪を犯さないようになる」(2:1)、「永遠
のいのちを持っていること…をよくわからせる」(5:13)ことを目的に、この手紙を書きました。
そして真のキリスト者の生活の健全な姿を提示し、そこにある救い、真理こそが、偽りの教え
に対する最善の解答であると信じたのです。ですからこの手紙には。父なる神、御子なるイエ
ス、真理に導く聖霊が何度も明確に記されています。今の時代も、私たちを分裂させようと多く
の偽預言者、半キリストが数多くあり、活動を広げています。あまりの多さに肩を落としてしま
いますが、しっかりとこの手紙を読み、今自分が何をなすべきなのかを捉えていきたいと思い
ます。
@福音にとどまる(24,25)
「初めから聞いたこと」とは、福音の基本メッセージです。福音は私
たちを滅びより救うための、イエス・キリストを通して現わされた神の全き救いであり、神のこと
ばです。この福音から離れてしまっては、様々な教えに揺らいでしまうのです。ですから常に神
のことばを聞いて「御子および御父のうちにとどまる」、交わりを継続させること。その交わりが
「永遠のいのち」として、私たちの生きる原動力となるのです。
A教師である聖霊に導かれる(27)
私たちを福音から引き離し、滅びへと向かわせようとする偽預言者、
半キリスなど「惑わそうとする人たち」(26)は、巧みに神のことばをも用いて挑んできます。その
中で私たちがなすべきこと、それは教師である聖霊に導かれる、ことです。導かれる、とは聖
霊が福音を思い起こさせ、真理へと導いて下さるのですから、私たちは信じて従うのです。そこ
に私たちの「信仰生活」が始まっていくのです。

 私たちが、この世にあって信仰生活を常に続けていく時、主の「来臨のときに、御前で恥じ入
るということのない」(28)結果となり、私たちの全き喜びとつながるのです。ハレルヤ!!

8月13日聖日礼拝 
説教題
    「神との平和」
聖書箇所
  ローマ5章1節
@私たち個人のうちに平和が保たれること
「信仰によって義と認められた私たちは」

聖書には、神が最初に造られた人間であるアダムとその妻エバが罪を犯し、それ以来神と
人間の間には罪という隔たりが出来てしまったと書かれています。人は罪ゆえに神の敵とな
り、怒りを受ける者となりました。この罪の隔たりを取り除くために神はご自分のひとり子イエ
ス・キリストをこの世に送り、すべての人の罪を償うために十字架にかけられました。この事
実を信じる人は誰でも神と和解することができます。これを「信仰によって義(正しい)と認め
られる」と言っています。その結果、この世の人生を終えた後にも永遠に続くいのちを与えら
れます。

A隣人との間に平和をつくる
「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」

 平和は神との和解の結果与えられるものです。罪赦され、神のみもとに帰ることができました。
この平和をイエス・キリストを信じる信仰を通して、持っている(与えられ持ち続けている)のです。
イエス様は「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5:9)と言われました。あいさつや会話(交わり)も
心掛けましょう。家庭の中に平和を、隣人や社会との間に平和が実現しますように。
また、神と和解するということは、死んだ後のことだけでなく、その人の人生を根本から変えてしま
う素晴らしい出来事を意味します。それは赦せないと思う人を赦せる力が与えられたり、自分のこ
としか考えられない人が人のことを思いやれるようになることだったりします。

B祈る
 そして神との平和な関係を持っていると、希望を持つことができる(4節)。たしかに困難がある、
患難があるけれども、神にある希望を持って喜んでいる、とあります。この希望は失望に終わる
ことがありません。神にある希望を持って教会や国家の指導者たちのために祈りましょう。(Tテ
モテ2:1、詩篇122篇)
8月6日聖日礼拝 
説教題
    「回復への道すじ」
聖書箇所
  T列王記19章1〜8節
預言者エリヤは、バアルの預言者450人との戦いに勝利しましたが、心身共に疲れていました。
彼は"燃え尽き(スランプ)"に陥っていたのです。そこへアハブ王の妃イゼベルから脅迫の言葉
が届けられます。彼は恐れを覚え、自分の命を保とうと逃げてしまいました。しかも先祖の信仰
者たちと自分を比較し、死を願っています。そんなエリヤを神は回復へと導きます。

1.食べて、飲んで、寝る
 神は御使いを遣わし、エリヤに「起きて、食べなさい」(5節)と命じ、エリヤは「食べ、飲んで、横
になった」(6節)のでした。十分に栄養と休養を取るよう導かれたのです。

2.悩みを打ち明ける
 神は真のカウンセラーです。エリヤの悩みを聞き出されました。エリヤは「ただ私だけが残りま
したが…」(10,14節)と告白しています。大きな使命と共に孤独がそこにありました。

3.一人静まり、神の細き御声を聞く
 エリヤは大風や地震、火を体験しましたが、その中に神はおられませんでした。こうした騒ぎの
後の静けさの中で、神の細き御声を聞いたのです。心が騒いでいては神の細き御声を聞き取る
ことが出来ません。雑踏を避け、一人静まり、神に心を向けることが必要です。

4.必ず仲間(友)が与えられる
 神はまるで孤軍奮闘しているエリヤに、「七千人」(18節)の仲間を残しておくと言われました。
仲間に正しく委ねる(頼る)ことを学ばねばなりませんでした。

5.燃え尽きは成熟への入口
 誰でも燃え尽きの経験をする可能性があります。それは自らの不完全さを悟って砕かれ、生き
方を再調整してより成熟を目指す入口です。決して無駄な経験ではありません。回復への道すじ
は成熟への道すじなのです。

7月30日聖日礼拝 
説教題
    「神と人とに従った人」
聖書箇所
  ルツ記1章8〜18節
姑ナオミは飢餓を避けてモアブに滞在中、夫と2人の息子に先立たれてしまいます。この時代、
女所帯になったことは社会的には絶望的な状況に陥ることを意味していました。そんな時、ユ
ダの故郷ベツレヘムで飢饉の状況が改善したことを聞き、故郷に帰ることを決心しました。

1.ひたすら嫁たち(相手)の幸せを願ったナオミ
ナオミは、未亡人となった2人の嫁:オルパとナオミに対し、実家に帰り再婚するよう勧めます。
ここにひたすら嫁たちの幸せを願うナオミの思いと人格が表われています。ナオミは生活の中
でいつも主なる神を見ていました。

2.神と人とに従うことを選んだルツ
ナオミの言葉を聞き、嫁たちは声を上げて泣きました。弟嫁のオルパは実家へ帰って行きま
したが、兄嫁のルツはナオミについて行くと言いました。「あなたの行かれる所へ私も行き、
あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(16節) 
ルツは結婚前は異教徒でしたが、夫や姑との生活を通し、真の神を信じていたのです。

3.神はいまも永遠の救いの計画を進められる
 ナオミは夫や息子たちを失いましたが、いまや信仰で結ばれた嫁のルツが与えられました。
ルツこそ神からの贈り物であり将来への希望でした。やがてルツはユダヤ人のボアズと結婚
し、その子孫からダビデが誕生します。さらにその子孫としてイエス・キリストが誕生します。こ
こにやがてイエス様の十字架の言葉を聞いて、異邦人も救いに入れられ、神の民となるひな型
を見ることが出来ます。

 ナオミの家庭に神が介在して下さったことにより、「互いに愛し合う」ことが家庭に実現しまし
た。そこから異邦人の嫁が救われました。現代の私たちも遣わされたそれぞれの家庭で、神
と人に従う(仕える)ことが大切です。神は先に救われた私たちを通してその家庭を祝福し、救
いの御業を成して下さるからです。

7月23日聖日伝道礼拝 
説教題
    「終わりから始める」
聖書箇所
  伝道者3章11節,ヨハネ16章33節
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし
人は、神の行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道3:11)
私たちはそれぞれ考え、判断し、行動して毎日生活しています。しかし、振り返ってそこに神の
みわざを思うと、神がなさったことはすべて最善の時に行なわれ、美しく調和しています。
人は有限なのに、神はこの有限な私たちの心に永遠を思う心を与えられました。世の初めから
終わりまでをよくご存じの神が、私たち人間の限界を悟らせ、終わり(目標)である天国の勝利へ
と目を向けさせます。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つ
ためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしは
すでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)


これはイエス様が十字架の死を目の前にして弟子たちに語った言葉です。イエス様の勝利は、
私たち一人一人のため。そして私たちに代わっての勝利でした。この後、イエス様は私たちの
罪を背負って十字架にかかられ死なれるが、復活によって死に打ち勝たれました、イエス様は、
罪と死の力をもってこの世の神のようにふるまっている悪魔に打ち勝たれたのです。

イエス様がこの御言葉を語られたのは、私たちも同じ境遇に遭う時に、イエス様にあって平安を
持つためです。いかなる時も父なる神が共におられ、死ねば父なる神のみもとに行けるとの確信
は、私たちに平安を得させます。いざという時に信仰がものを言うのです。私たちもイエス様を信
じ続ける限り、私たちもその勝利に与かることが出来ます。まさに終わり(最終的な勝利・天国)か
ら現在を生きるよう私たちを導いておられます。そこからこの世と戦う勇気が湧いてくるのです。

7月16日聖日礼拝 
説教題
   「クリスチャンとは何者か」
聖書箇所
  Tペテロ2章4〜5、9〜12節
Tペテロの手紙は、ネロ皇帝によるキリスト者迫害下にある教会への励ましの手紙です。
教会にとっては、最初の世界的試練としての「火の試練」であり、また敵を「ほえたける獅
子」と表現するほど敵の勢い、残酷極まりない試練でした。ペテロはどのように励ましたの
でしょうか。ペテロは、まず神から与えられている特権を明確にし、「クリスチャンとは何者
か」を力強く伝えています。
@生ける石とされている(4,5)
「生ける石」はキリストを指し示しています。イエスが人格的存在者であり、死からよみがえ
り、信じる者にいのちを与えて下さるお方だからです。さらにクリスチャン1人1人も「生ける
石」とされ、霊の家:教会で築き上げられる(教会を築くために私たちを用いて下さる)のです。
また、キリスト・イエスのもとに行く時(近づく時)、人をとりなす「祭司」の務めが与えられるの
です。人々を神に導く、また霊のいけにえ(祈り、賛美、感謝、奉仕、自分自身)を神にささ
げる生涯へと歩ませて頂くのです。
A神の民とされる光栄が与えられる(9)
旧約時代、まず神はイスラエルの民を選ばれ、神の救いを実現されて
いきました。「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」とこの呼び
名は、すべてイスラエルの民に当てはめられるものです。しかし、主イエス・キリストの十字架
による贖いによって、私たちも神に選ばれた民として、このイスラエルの民の祝福を受け継ぎ、
神の民とされる光栄が与えられるのです。
B福音宣教を委ねられている(9,10)
神に背を向け、神の民でもなく、神のあわれみを受けるにふさわしく
ない者でしたが、「主のもとに」近づき(4)、ただキリストの十字架の血によって救われ「神の民」
「あわれみを受けた者」とされた(10)のです。
それは、私たちがやみの中より、光へと招かれたという神の素晴らしい救いを宣べ伝えるため
です。神は、私たち1人1人に福音宣教を委ねてくださったのです。
 どの様な時にも神が与えて下さった特権を確信し、感謝しつつこの特権に、生きる者とならせ
て頂こうではありませんか。「そうすれば」(12)神に背を向けている人々が、神をほめたたえる
ようになるのです!ハレルヤ!!

7月9日聖日礼拝 
説教題
  「復讐でなく恵みで報いる」
聖書箇所
  士師記16章28〜30節
   ローマ12章19〜21節
サムソンは母の胎内にある時から、神に聖別されたナジル人でした。彼には神の特別な
霊が繰り返し注がれました。彼はイスラエルを20年間導きましたが、その私生活は堕落し
ており、女性に弱かったのです。彼は神の命に反して、自分の力の源が髪の毛に宿った
神の霊であることをデリラに漏らしてしまいます。その結果、彼は髪の毛を剃られて力を
失い、ペリシテ人に捕らえられてしまいます。目をえぐり出され、青銅の足かせをかけら
れ、偶像神殿の柱に立たせて見せ物にされるという悲惨な状況に置かれます。
その時サムソンに信仰が戻り、幼子のような祈りを神にささげます。すると、祈りが聞き
入れられて力が戻り、柱を引くと神殿全体が崩れ落ちました。神はサムソンの失敗と悔い
改めを通して最後に栄光を現わされました。

旧約聖書の主な人物たちはイエス・キリストを指し示していると言われます。サムソンの
生涯から学ぶべきことは、
@ナジル人としての自覚を失い、神から離れて堕落しました。それに対し、イエス様は真
のナジル人であり、生涯救い主としての自覚を持ち続けられました。私たちも救いの自覚
から離れないようにしましょう。
A女性に対する弱さを自覚していなかった。自分は誘惑に強いなどと思わず、誘惑から
遠ざかっているよう心がけましょう。
B賜物の用い方を正しく理解していなかった。賜物は自分の欲徳や復讐のためでなく神
の栄光のため各々に与えられています。
C人に復讐しようとすれば、必ず自身に返って来ます。サムソンは自爆的な結末を迎え
ました。"人を呪わば穴二つ"です。
しかし、イエス様はご自分のためでなく、罪を犯して神に敵対する者となった私たち全人
類のため、罪の身代わりに十字架で死んで下さり救いを成し遂げて下さいました。

以上をローマ12章の光で見れば、神に喜ばれる道は悪に対して神から頂いた恵みで報
いることです。これは私たち生来の復讐感情に反することで、神に従う時に恵みを受けて
はじめて可能になります。
復讐は神がすることで、私たちは善(恵み)をもって悪に打ち勝つよう勧められています。
そうすることで、相手に後悔や悔い改めを促すことになるからです。



 
☆☆ YouTube動画の更新は暫くお休みします ☆☆

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