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   6/2update

 

当教会は、聖書に基づく伝統的なプロテスタント教会です。エホバの証人(ものみの塔)、
統一教会、モルモン教とは一切関係ありません。
毎週日曜の集会

☆☆コロナウイルス感染防止のために☆☆

各自マスク着用の上、玄関で手指のアルコール
消毒を行ってください。
 発熱のある場合は集会出席を控えてください
・受付で検温し、受付簿に記名と検温結果を記載
願います。

・礼拝堂の人数は15名までとし、超過した場合は
食堂などへ分散します。
・礼拝は10:30-11:15と時間を短縮します。
・席については前後左右を空けるようにし、
1テーブルにつき1名が座るようにします。
窓やドアの開放に加え、換気扇と扇風機により
常時換気を行います。
・各テーブルに週報を置きますので、その位置に
着座してください。
 ↓白紙で例示しました  飛沫防止用のアクリル板
       
・各自水筒などを持参し、水分補給してください。

昼食や午後の集会は当面見合わせます。


 
9:30〜9:45  教会学校
(乳幼児から中高生が対象)月刊誌「ハッピー月号掲載
 
10:30〜11:15 礼拝
   

6月4日聖日礼拝 
説教題
    「祈り続ける教会」
聖書箇所
   使徒の働き12章1〜10節
5月28日聖日ペンテコステ伝道礼拝 
説教題
    「神ご自身が主権者として」
聖書箇所
   エゼキエル書36章25〜28節
聖霊が弟子たちに注がれ、教会が誕生していったことを記念するペンテコステ礼拝。
正統的なキリスト教の教理は「三位一体」の神(父なる神、イエスと呼ばれていた子な
る神、聖霊なる神)です。
父の約束:聖霊が与えられる
復活されたイエスが昇天する時に「父の約束」である聖霊降臨を待ち望むことを弟子
たちに言われました。なぜなら「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは
力を受けます。…地の果てにまで、わたしの証人」となる(使徒1:4〜8)からです。力、そ
れは証人へと押し出す原動力:いのちではないでしょうか。神を信じる者にとって、いの
ちとなるのは、聖霊である!と。他の箇所でも「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)とイエス
は弟子たちに息を吹きかけて言われました。創世記においても人が「その鼻にいのちの
息を吹き込まれた」(創2:7)ことによって生き物になった、いのちが与えられたとあります。
聖霊は私たちを肉体面だけでなく、霊的にもいのちを注ぎ、私たちを生かすのです。どの
ように私たちを生かすのでしょうか。旧約時代においても預言されていた聖霊の働きから
学びます。
インマヌエルの恵みとしての回復
イスラエルの民が散らされた原因は、偶像を礼拝し、神のことばに耳を傾けなかったこと
です。回復の時が与えられても霊的な変革がなければ本当の回復にはなりません。本当
の回復のために必要不可欠なのが「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがた
の神となる」と神が共におられるインマヌエルの恵みとしての回復に生きることです。それ
は「新しい心が与えられ:罪赦され、神を信じる生き方」「新しい霊:聖霊」が授けられ、「わ
たし(キリスト)の霊によって」導かれることです。この回復は@石の心が取り除かれ、肉の
心が与えられるA神の教えに従って生きる者となるB神の契約の祝福が与えられる、で
す。この4節の中に9回も「わたし」が出て来ますが、「わたし」である「神ご自身が主権者と
して」おられることを私たちはしっかりと捉えるべきです。
神ご自身が私たち、また教会に聖霊を注いで原動力:いのちを与えて下さっているゆえに、
生かされていることを私たちはしっかりと見据えて、主の証人として生きる者とならせて頂
こうではありませんか!
5月21日聖日礼拝 
説教題
    「いのちのみことば」
聖書箇所
   申命記30章11〜17節、19〜20節
@みことばを身近に置く (11〜14節)
 神のみことばは、私たちの生活から遠くかけ離れたものでもない。誰でも理解して聞き従う
ことができるものです。神は私たちが必要なことをみことば(聖書)を通して明らかにされてい
ます。

神は日常生活の中でみことばを身近に置く工夫を促しています。目につくところに掲げたり、
口に出して言う習慣が大事です。みことばは生きた現実生活の中で語られたものであり、そ
の中で読まれるものだからです。
 
 みことばを口に出して繰り返し読むと、それは心に深く刻み付けられ、私たちの知識や感情
の底にあって支えて下さいます。私たちはみことばを明らかにして下さる聖霊の助けを求めつ
つみことばを読む時、目が開かれ心開かれる体験をします。みことばに聞き従おうとする時に、
体がそれについて行き、いつの間にかみことばを行う者へと変えられて行きます。これがみこ
とばの力です。

Aみことばを選んだ結果 (15〜16、19〜20節)
「きょう」と繰り返されている通り、一日がいかに大切かが示されています。毎日の歩みは選び・
選択の連続です。何を基準に選び取るか、その基準や物差しが大変重要になります。イエス様
は言われました。「どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです」「神の国とその義を
第一とする時、それに加えてやがてすべてのものが与えられる」と。

「主はいのち」だと語られています。主が語られることばは、いのちのみことば。このみことばを
選んだ結果は、「あなたもあなたの子孫も生き、・・・長く生きて住む」と。私たちの毎日の生活は
食事によって支えられています。それが習慣になっているように、みことばのパンを毎日口にし
たい。そうして主と交わり、生活が支えられ、イエス様に似た性質が私たちの人格のうちに形作
られるようなお歩んで参りたい。
5月14日聖日礼拝 
説教題
    「ダビデの最後のことば」
聖書箇所
  Uサムエル記23章1〜5節
全世界に祝福をもたらす道は、ダビデの家系を通してであることを神は、ダビデに約束され
ました。
すなわち、ダビデから「1人の永遠の王」「偉大な王」に至る歴史が始まるのです。ダビデの
選び、ダビデに対する嫉妬、ダビデの罪、悩み、感謝が記されています。多難な生涯の終
わりに、ダビデは何を感じていたのでしょうか。ダビデの最後のことばから学びます。
@神とダビデの関係(1〜2節)
21〜24章全体に、ダビデの生涯を総括する最後の厳粛な言葉が書かれています。「いと高
き方によって上げられた者」とダビデは自分の事を言っていますが、これは羊飼いの身分か
ら王になったということではなく「神の前にひれ伏して、目のおおいを除かれた者」つまり、
神の前に罪を赦され救いの喜びによって、神に仕える関係が与えられていることを意味する
のです(詩篇51:1〜3,10〜12)。「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌にある」
つまり自分の言葉、生活、存在のすべてにおいて神に仕える為であり、常に神に動かされて
語ることを言っているのです。このことからも神とダビデの関係が伝わってくるのではないで
しょうか。
A救い主を見ていた(3〜5節)
3〜5節に書かれているのは、永遠の契約(7:15,16)によるメシヤの王イエス・キリストを賛美
した詩です。ダビデの心には、神に約束されたイスラエルの王(救い主:イエス・キリスト)の出
現とその王国以上には何もなかったのです。正義と神への恐れをもって治める方は「太陽の
上る朝日の光:義の太陽」のように輝き出る。また長い夏の乾期の後、雨が降って若草をもえ
出させるように、世の中を新しくして下さる希望が与えられていたのです。ダビデは数多くの詩
を残していますが、これらすべてにおいて、詩の中心はイエス・キリストだったのです。ダビデが
何よりも救い主を見ていた、待ち望んでいたのです。神と自分の関係が与えられ、救い主を見
据えていたからこそ「まことに我が家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立て
られているからだ。このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、
すべて、育て上げてくださる」との賛美につながったことです。
K姉証し
私が教会に導かれたのは高校2年生の時、通学帰りの電車の中で、大学生風の男性から「良
かったら来て下さい!」と1枚のチラシを渡されました。それは教会の高校生会の案内でした。
教会の雰囲気や温かさは、今までに経験したことのない独特なもので又、聖書の学びにもどん
どん引きつけられて行き、軽井沢の夏季聖会で救われました。放蕩息子のメッセージに続き、
次のみことばが与えられました。「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。
彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』また与えられた聖歌は176番「イエスは汝
を呼び給う」イエスは汝を呼び給う いと物静かに「愛の神の許より などで去りし」と「帰れや 
帰れや 帰れや」と主は今呼び給う。そしてその年のクリスマスに23才で受洗。また、私が受洗
にいたるまで牧師先生、牧師夫人、多くの兄弟姉妹のお祈りがあった事を後で知り、深く感謝し
ました。そして一番先に来て、一番前に座って礼拝をしている夫との結婚が与えられ、息子の成
長が喜びです。夫はパーキンソン病を抱えていますが、今までそうであった様に、主に全てをお
委ねしていきたいと思います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救わ
れます」
5月7日聖日礼拝 
説教題
    「霊的食欲の必要性」
聖書箇所
  Tペテロ1章23〜2章2節
今朝は肉体的な食欲の話ではなく、私たちの魂、心を満たしたいという「霊的な食欲」について
学びます。心を満たしたい思いは、神様が私たち人間に与えて下さった救いへの手がかりでは
ないでしょうか。心を満たすために人間は、求め続けています。
ペテロの手紙が書かれた時代は「さまざまの試練の中で」「信仰の試練」とあるように、キリスト者
に対するネロ皇帝の迫害の中にありました。ローマの内外で多数のキリスト者が捕らえられ、
残忍極まる方法で殺されたのです。その試練の中にあるキリスト者への手紙で、今この時こそ
「霊的食欲の必要性」を「乳飲み子」のたとえを通して力強く語られています。乳飲み子の成長
は、旺盛な食欲にあるようにクリスチャンは、神のことばによって「新しく生まれ」さらに、成長過
程に欠かせないのが霊的に満たされている、つまり神のことばが、生きる原動力となっているこ
となのです。霊的食欲によって私たちの心が満たされるためにキリスト者がするべきこと学びます。
@捨てるべきもの…罪を悔い改める   
「すべての悪意、ごまかし、偽善、ねたみ、悪口」を捨てること。捨
てて…「決定的に、断固として離れなければならない」と言う意味が含まれています。自分にある
罪を示される時それは、自分の中にある姿を知らされる時であり痛みが伴うのです。「わかっちゃ
いるけど、やめられない」また、罪を正当化するのが人間の姿なのではないでしょうか。私たちの
心に、いつまで捨てるべきもの、罪が残っているとそれは次第に、私たちの神を信じる心を食い
尽くしていき、神に背を向ける者になってしまうのです。自分にとって「捨てるべきもの」が何である
か、神のことばによって照らされて捨てる…神に悔い改めようではありませんか。
A得るべきもの…神のみことばによる成長
乳飲み子が慕い求める母乳は、最もバランスのとれた栄養食品と言わ
れています。「混じりけのない霊の乳」と表現され神のことばには、不純物が入っていないばかりか、
免疫、悪への抵抗力さえも宿っているのです。救いを得るためにも、みことばを慕い求めて生きよ
うではありませんか!
4月30日聖日礼拝 
説教題
    「信仰から出た言葉」
聖書箇所
  民数記13章25〜31節 14章 6〜 9節
神はパランの荒野にてモーセに命じられました。イスラエルの12部族からそれぞれ1人ずつ選び、
約束の地カナンの偵察するようにと。そこでモーセはそれを実行しました。12名の偵察隊は40日
間偵察を行って帰り(25節)、モーセとアロンと会衆とに報告しました(26節)。
彼らはこう報告し、その地から切り取ってきた果物を見せました。「・・そこにはまことに乳と蜜が
流れています。そしてこれがそのくだものです。しかし、その地に住む民は力強く、その町々は
城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました・・」(27節)。

ところが、この事実に対して偵察隊の解釈が二つに分かれた。一方はヨシュアとカレブです。
「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」(30節)。
もう一方は他の10人です。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強
いから。」(31節) さらに悪い条件と思えることを追加しました(32〜33節)。

これら相反する二つの解釈の違いはどこから生じたのでしょう。それは「神への信頼」です。神
に信頼しない不信仰は、自分の力だけに判断の基準を置き、人を恐れるようになります。会衆
はそれを聞いて泣き叫び、荒野で死んだ方がましだ…エジプトに帰ろうと言い出しました。今も
昔も、悪いニュースやデマはものすごい勢いで拡散するのです。

しかし、ここでヨシュアとカレブが再び立ち上がります。「私たちが巡り歩いて探った地は、すば
らしく良い地だった。もし、主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ・・」(7-9節)
このように信仰は、「主の御心にかなえば」という信頼をもって困難に立ち向かおうとします。
現実の問題がどんなに困難で前例もなく、強力であっても、「神が共におられ」(9節)、神がそれ
を望んでおられるならば必ず道は開かれ、困難に勝利することができる。それをイエス様は「あ
なたがたはこの世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に
勝ったのです」(ヨハネ16:33)と言われたのです。
4月23日聖日伝道礼拝 
説教題
    「教会を見る」
聖書箇所
  イザヤ書40章9〜11節
皆さんは「教会」と聞いて、どのようなイメージをお持ちでしょうか。聖書から私たちが知るべき、
見るべき「教会」を聖書から、直接学びます。
@福音を伝える教会(9a)
 福音とは「良い知らせ」のことです。これは戦争で勝利したことを知らせることや、王に世継ぎ
が生まれた時の報知のように大歓喜を表わす言葉です。ここで言っている「良い知らせ」は、
キリスト再臨のことを指し示しているのです。キリスト再臨は、キリスト者にとって大いなる喜び
であり希望です。この良い知らせを、私たちは大いに伝える、知らせる使命、喜びが与えられ
ています。教会は何をすべきか。それはキリスト再臨を、完全なる救いを力強く伝えることです。
今は福音を伝える事が難しい時代であることを思います。難しさ、これはどの時代においても
難しさ、困難さはありました。聖書にはその事実が多く記されているではないでしょうか。しかし、
神は私たちに「伝えよ」とおっしゃるのです。それは多くの魂が一人も滅びないために。また
出エジプトにおいて生きて働かれた神が、今も生きておられるから、「恐れるな」とイザヤを通
して言われるのです。教会は、どのような時にも「福音を伝える」のです。
A神を見る教会(9b〜10)
ここに3度「神を見よ」と出て来ます。@あなたがたの神:私たちと関係を持って下さっている
A大能者としての神:全知全能なる神が主権をも持って治めて下さるB慈しみに満ちた愛の
神:救い(53章)を与えて下さるのです。このことを私たちは心に据えて、神に委ねて生きるの
が神を見る教会なのです。
B主に導かれている教会(11)
羊飼いが、迷いやすい羊を、その胸に抱いて導くように、神は私たち
を導き養って下さっているのです。失敗や失望、苦しみ、悲しみ…打倒されそうな時にも「下に
は永遠の腕がある」とモーセが言ったように、神はどん底のどん底にまで、御手をさし伸べて
救いへと導いて下さるのです。
私たちは真の「教会」のあるべき姿をしっかりと「見る」者とならせて頂く時に、教会から多くの
賛美が奏でられていくのです。
4月16日聖日礼拝 
説教題
    「与えられた焼き印」
聖書箇所
  ガラテヤ人への手紙6章14〜18節
パウロは「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と力を
込めて断言しています。つまりパウロにとって信仰の中心は「主イエス・キリストの十字架」である、
と言うことです。イエス・キリストの十字架を2つの面から学びたいと思います。
@新しい創造である(15)
「割礼」を強調するのは、救いの為でなく自分たちの勢力を拡張する
為、手段化していたのです。つまり律法、十字架を通して啓示された神の真理の光を理解できて
いなかったことがわかります。ユダヤの人々は、ローマ帝国の公認宗教であったユダヤ教にいれ
ば、迫害を受けずに済み、多くの人々から良く思われると考えたのです。そこでパウロは、自分の
十字架体験を「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているののではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです」(2:20)と言っています。十字架を霊的に体験したからこ
そ、世界(14):自己中心の「肉」の思いに支配された生き方は十字架上で死に、神中心・キリスト中
心の「聖霊」の支配下に生かされる生き方が与えられたのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Uコ5:17)。
まさに「新しい創造」ではないでしょうか。イエス・キリストの十字架は、私たちの生き方を根本から造
りかえて下さるのです。
A与えられた焼き印である(17)
焼き印は高温に熱した金具で印をつけ、所有者を明確にします。パウロは、自分自身はイエスの
焼き印、イエス・キリストの十字架によって罪赦されキリストの者となった、キリストによって生かされ
ていることを強調していているのです、また福音を伝える中で迫害のために受けた数々の傷跡(Uコ
リント11:23?25)を指しています。この迫害の中にあってもパウロは変わらず、福音を伝えていきました。
それはパウロのただ中に復活されたイエス・キリストが生きておられ、自分にも復活の力が与えられ
る!と言うのです。イエス・キリストから与えられた焼き印は、私たちにどのような時にも復活の力を
与えて下さり、前進していく者とならせて頂くのです。「十字架、十字架、わが力!! わが救い!! わが
誉れ!! わが望み!! わが平和!! わがいのち!! グローリーハレルヤ!!」
4月9日聖日イースタ―礼拝 
説教題
    「復活のみわざ」
聖書箇所
  エゼキエル37章1〜9節 
神は預言者エゼキエルに干からびた骨の幻を見せました。それは滅ぼされ散らされたイスラエル
の現在の絶望状態を表わしていました。国は南北に分裂し、今やバビロンに捕囚とされています。
国家としては再起不能の状態のイスラエルが神によって復活させられるとの幻です。全能の神は、
まるで絶望し死んでいたような彼らにいのちを吹き込んでそこから引き揚げ、元の地に戻し、民族
として息を吹き返らせます。

これは後にこの世に来られ、十字架から復活されたイエス様のひな型です。神は私たちの復活の
先駆者・初穂として、イエス様を死者の中から復活させられました。「神はその全能の力をキリスト
のうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ…」
(エペソ1:20)
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きて
いて私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
(ヨハネ11:25-26)

私たちもかつては罪の中にまるで枯れた骨のようであったのですが、神の御言葉(キリストの福音)
を聞き、いのちの息である聖霊を吹き込まれ新しく生きる者となりました。また、世の試練に遭って
まるで枯れた骨のようになっても、再びいのちの息を吹き込んでやり直すことが出来るのです。

福音伝道に際して自分の無力さを感じることも多くあると思われます。そんな時、謙虚な心で神に
より頼み、神のみことばを語り続けていると、神の息である聖霊が働いて下さいます。その結果、
たとい干からびたような心の持ち主であっても、神によって霊的復活のみわざが起きるのです。

4月2日聖日礼拝(受難週)
説教題
    「自己防衛がイエスを」
聖書箇所
   ルカの福音書23章10〜25節
今日から「受難週」が始まりました。イエス・キリストによる十字架による死までの受難の日々に
心を向け「イエス様と私」の関係を、様々な型の人物像から学びたいと思います。
@ヘロデとピラト
この2人はある権利上の問題から、または様々なこと(使徒5:37、ル
カ13:1)から対立していましたが、イエスを嘲弄することにおいて親しくなりました。イエスの
奇跡を見たいと単なる好奇心から、イエスを見て非常に喜んだヘロデ。ピラトは、自分の責任
を免れようとしてイエスをヘロデに送り、ユダヤ人に「引き渡して」ユダヤ人が「好きなように」(25)
したことにしたのです。その中「罪は何も見つからない」(4,14)と、かすかながらも良心の光に従お
うとしましたが、民の歓心を買うために「懲らしめてから」(16)と提言したのです。「人を恐れると、
わなに陥る」(箴言29:25)。2人とも人を恐れ、自分の地位、名誉を守る自己防衛を選んだのです。
A祭司長、律法学者たち
 偽証をもって激しく訴えていた(10)ユダヤ人たちは、律法を基準に、それを守れない人々を
罪人として見下し、自分たちが神の国にふさわしいとしていました。このことを指摘されるたびに
態度を硬化させ、イエスに対して憎悪をつのらせ、逆恨みがイエスを十字架へと押しだしていった
のです。自分たちの社会秩序を守る、自己防衛のためイエスを十字架に追い詰めました。
B民衆
律法学者たちとともに「十字架につけろ」と叫び続けた狂気は人を
恐れ、自分の立場やプライドなど、自己防衛によるのではないでしょうか。皆さんは、ご自身の
姿をこの中から見つけられたでしょうか。
救世軍の創立者ウイリアム・ブースが見た夢…十字架の前で、苦しまれているイエスを助けたい
と願っているのに足が動かない自分。1人の人がイエスの手に打ち付けられた釘をさらに深く打ち
付けていた。その人が振り返って笑った。その人は自分であることに気づいた。
聖書の中の登場人物がイエスを…でなく、自分の「自己防衛がイエスを」十字架に打ち付けたとし、
真の救いを信じる時となりますように。
3月26日聖日伝道礼拝 
説教題
    「涙を流すイエス」
聖書箇所
   ヨハネの福音書11章32〜35節
マリヤはイエス様を見るなり、足元にひれ伏して言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、
私の兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。彼女は兄弟ラザロを亡くした悲しみで泣きました。
彼女と一緒に来たユダヤ人たちも一緒に泣きました。人の死に際して、私たちは慰めの言葉を
かけることしかできない。人の力や言葉の無力さを思い知らされます。

イエス様はその様子をご覧になると「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」(33節)ました。"よみが
えりでありいのちである"イエス様にとって、死はけっして容認できないものでした。イエス様の怒
りは、私たち人間に悲しみとあきらめをもたらす死への怒りでした。同時に、罪と死の力をもって
世を支配しているサタンへの怒りでした。

イエス様は涙を流されました。ここにイエス様がまことの神であり、まことの人間であることが示さ
れています。イエス様は喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣かれる方です。たとい人が分かってく
れなくても、この方だけは心の悲しみも喜びも分かっていて下さる方。それゆえ私たちはイエス様
に対して正直な気持ちを知って頂くことが大事です。

しかし、イエス様の涙には勝利が込められていました。アダムとエバ以来、人類を支配してきた死
に対する勝利の力が込められていたのです。やがてイエス様ご自身が十字架で私たちの罪を背
負って死なれ、三日目に死人のうちよりよみがえられます。私たちを死からいのちへと移して下さ
るのです。

3月19日聖日礼拝 
説教題
    「み言葉に聴く」
聖書箇所
   エレミヤ29章12〜14節
29章は、捕囚にあっている人々への手紙であり、当分バビロンを自分の国として落ち着いて
生活するように(5〜7)エレミヤは勧めています。「エレミヤはユダの真夜中の預言者であった」
と言われるほど、民はあえて闇の中に進もうとし、神のことばを聞こうとしませんでした。その中
エレミヤは「主のことばを聞け(20)」と力強く語っています。どうしてそこまで「主のことばを聞」く
ことを強調したのでしょうか。主の「み言葉に聴く」とは、いかなることか具体的に学びます。
@祈ること
 「呼び求める、探し求める」時って、私たちがどのような状態の時でしょうか。捕囚の民となった
人々は、希望を失い暗い試練の日々でした。そこでエレミヤは「そこから、あなたがたは、あなた
の神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるから
である。あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あな
たは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神
であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない(申
命記4:29〜31)」のみ言葉に立って、まず試練の時には、神の計画の実現と、神のことばの成就を
待望し、真剣に「呼び求めて歩く」、祈ることをエレミヤは伝えたのです。
A主に会うこと
 「わたしを見つけるだろう、見つけられる」とは「わたしに会う、わたしはあなたがたに会う」とも
訳されます。「心を尽くし」「一心,全心」で神を訪ね求める時、神は私たちに会ってくださる約束を
与えて下さっているのです。「聴く」は,身を入れて聴くとあります。捕囚の民となり、神のことばを聞
かず「先祖以上に悪事を働き、しかも、おのおの悪い、かたくなな心のままに歩み、わたしに聞き
従わない(16:12)」でいた民。心の頑なさ、強情な心、腐敗した心の姿は、まさしく罪の姿ではない
でしょうか。人間の力ではどうすることもできない罪を打ち砕いて下さるのが神のことばなのです。
神のことばに一心で聴く時に、私たちは平安と希望が与えられます。これは主にお会いしている
からなのです。
「み言葉に聴く」時、神の救いが実現する祝福が約束されているのです!
3月12日聖日礼拝 
説教題
    「神の聖さへの招き」
聖書箇所
   レビ記19章1〜3節
本書は3,400年ほど前にモーセを通して記されました、主題は罪ある人間がいかにして
神を礼拝し、神に属する者として相応しい性質にされるかです。私たちの罪は動物の血
によって贖われ、聖くされ、神との交わりが回復されます。これは新約時代のイエス・キリ
ストの十字架のひな型になっています。

@聖さへの招き(2節) 「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、
あなたがたも聖なる者とならなければならない」

「聖さ」は人間的な清さの程度ではなく、神のご性質のことを指しています。救われて神の
民となった者は、神に属する者に相応しい性質を持っていなければなりません。神は私た
ち一人一人をご自分の性質に似るように招いておられます。

A母と父を敬う(3節) 「おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない」
神の聖さは、まず私たちの家庭から始まります。神が両親を通して自分をこの世に誕生さ
せた、その両親の権威を認めることによって造り主である神を恐れ敬います。目に見える
両親を敬うことになしに真の神礼拝は有り得ないのです。両親を尊敬できる方は、そのよ
うに自分を生み育てて下さった両親にますます感謝し、造り主である神をほめたたえましょ
う。
しかし、親を敬うことができずに労苦している人は決して少なくありません。それを解決する
のがイエス様の十字架の愛と赦しなのです。生い立ちの呪縛から解放され、両親を批判し
ていた口が両親に感謝のことばを語り、神をほめたたえることができるのです。そのために
は他のクリスチャンの助けと祈りが必要です。

B安息日への招き(3節) 「わたしの安息日を守らなければならない」
安息日は、神が全世界を作られ七日目にその完成を祝って休まれたこと、そして神がイスラ
エルの民をエジプトの苦役から救い出されたことを記念する日です。それはイエス様が十字
架の死から日曜の朝に復活されたことによって、毎週日曜日を安息日として仕事を休み、相
集って神を礼拝するようになっている。両親を敬うことと、安息日を守ることが神の民としての
基本です。それは必ず個人だけでなく家庭への祝福となって実現していきます。神の示される
真理はいつも単純明快です。
3月5日聖日礼拝 
説教題
    「目からうろこの人生」
聖書箇所
   エペソ人への手紙1章15〜19節
パウロが開拓して生み出したエペソ教会。教会の信徒の為に絶えず祈っていたのが今日
の聖書個所になります。経済、学問、健康の為でもなく「心の目が開かれますように」でし
た。どういうことでしょうか?これは神が私たちに与えて下さった生き方です。「目からうろ
この人生」を具体的に学びます。
@目にうろこがある状態
コロナ禍が始まってマスク生活になり、メガネが曇りやすく見えづら
くなります。これを私たちの心と照らし合わせることができるのではないでしょうか。生まれ
ながら神との関係が壊れた状態であり、神を信じるのもなかなか難しさを感じてしまいます。
神を信じたクリスチャンであっても気をつけていないと、知らないうちに目がうろこでふさが
れてしまうのです。神より自分の価値観、体験を頼ってしまう。その結果が,不平,不満,つぶ
やき,争いとなるのです。これは心の目がふさがっている危険信号と言ってもいいかも知り
ません。目にうろこがある状態、それは神より自分中心な生き方です。
A目からうろこが落ちた状態
心の目が開かれている時、どのような時でも「知恵と啓示の御霊」によって救いの道が必
ず開かれていくのです。ですからパウロもまず「心の目が開かれるように」と祈っています。
白内障の手術は、曇ったレンズから、新しいレンズに入れ替えます。曇ってしまったレン
ズは打ち砕く必要があるのです。私たちの曇ってしまいやすい心の目のレンズは知恵:イ
エス様の十字架によって打ち砕かれ、啓示の御霊:みことばによって神を認める時が与
えられるのです。パウロも厳格なユダヤ教で神について多く学んでいましたが、ダマスコ
途上で救い主イエスに声をかけられ、神を知る、認める時が与えられました。イエスの
ことばによって、自分の間違いに気づかされ生き方が180度変わったのです。どのような
時にも揺らがず、救い主イエスを宣べ伝えていきました。このように神を神として認める、
信じた状態が「目からうろこが落ちた状態」です。
心の目が開かれる時、神が私たちに与えて下さった望みがどのようなものか、聖徒の受
け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、神を信じる者に働く神の力の偉大さを知る
時が与えられるのです。ハレルヤ!!
2月26日聖日伝道礼拝 
説教題
    「きょう救いがこの家に来た」
聖書箇所
   ルカの福音書19章1〜10節
1.失われた人ザアカイ
 ザアカイは、人や物資やお金が集まって繁栄したエリコの町で、取税人として成功した
人でした。彼の名前は「純粋」「正しい人」「清い人」という意味でした。しかし、親が願いを
込めてつけた名前とは裏腹に、彼の成功は貧しい人々への愛の心を閉ざし、税の取立
てにはごまかしの手法をとって、真実の心を犠牲にして得られたものでした。彼は人々か
ら「罪びと」「売国奴」と呼ばれ、孤独でした。その孤独を金銭で埋めようとしていたのです。
しかし、愛と真実を犠牲にして成功を収めても、神の目にはその人は「失われた人」(10節)
なのです。ザアカイの心に真実の幸せが宿ることはなかったのです。

2.イエス様の招き
 イエス様は「失われた人」を捜しておられました。ザアカイは背が低かったのですが、
彼はイエス様を一目見るためには、人の目を気にせず木に登るような元気で、純朴な面
があったのです。イエス様は木の下に来て、「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、
あなたの家に泊まることにしてあるから」(5節)と呼びかけました。この時、ザアカイは、
イエス様よりも高い木の上にいたのですが、この"背の高いいちじく桑"は私たちが、無
意識のうちに持っている高慢やプライドの姿です。ザアカイのようにイエス様の招きのこと
ばに素直に聞き従ってこの"プライドの木"を降りてイエス様の前に立つとき、イエス様が
私たちに新しい心を下さるのです。それは現代の私たちにとっては、イエス様の十字架の
血によって、古い罪の性質がきよくされるされ、救われることなのです。

3.救いときよめ
 イエス様が「あなたの家に泊まる」とはどういうことでしょうか?それは、イエス様に出会っ
て救われた後で、今度はイエス様が私たちの生活の中にとどまる(滞在する)ことです。私
たちのありのままの姿(日常生活)が入っている心の部屋に、イエス様が入って来て下さる。
すると、何が起きるでしょうか。
それまでザアカイの心を占めていた様々な部屋の一つ一つをイエス様がきよめて下さる。
すると「わたしの財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからも、私がだまし取った
物は、四倍にして返します。」(8節)という新しい生き方に変えられて行くのです。彼は愛と真実
を犠牲にして得た"金銭の束縛"から解放され、自由にされたのです。彼は真に豊かな者へと
変えられたのです。
2月19日聖日礼拝 
説教題
    「確信の時」
聖書箇所
   マルコの福音書1章9〜11節
イエス様は人の子として誕生され、30歳頃からいよいよ神の御子としての使命「ひとり
として滅びることなく、永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3:16)を貫くためにバプテスマ
を受けることを願われたのです。この時の状況を通してイエス様は、ご自身が「救い主
である」と、「確信の時」が与えられ、さらに宣教の生涯へと突き進まれたのです。「確
信の時」となった状況を学びます。
@バプテスマを受けた(9)
宣教を始めるにあたって罪の世界に生きる民衆と共に生き、彼らを罪の世界から救い
出すためであり「すべての正しいことを実行する」(マタイ3:15)ためでした。正しいこと、
それは神の救いを完了させることでした。また「彼は私たちの病を負い、私たちの痛
みをになった」とあるようにイエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架上で死ぬ
ために、人の子が罪びとと同じ立場に立って下さった(へブル2:17)のです。
A御霊が下った(10)
 イエス様がバプテスマを受けた「すぐそのとき」に御霊が下られました。「天が裂けて」
とは、神からの啓示として捉えることができます。「神の霊が、わたしの上にある。主は
わたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、
わたしを遣わされた」(イザヤ61:1)。御霊が下られるのを「ご覧になった」イエス様は再
度、ご自身が神から「遣わされた」者であることを確信したのではないでしょうか。
B天からの声がした(11)
「天からの声」があった…となると「天からの声」「御子イエス」「御霊」、この短い箇所に
三位一体の神が啓示されたことになります。イエス様が神からの救い主であると共に、
神に愛されていることを強調している「あなたは、わたしの愛する子」。また「わたしは
あなたを喜ぶ」は、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたし
の選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公儀をもたらす」(イザ
ヤ42:1)に基づいていると言われています。つまりイエス様ご自身は、神のしもべであり、
神の御心にかなう者であり、神に遣わされた救い主であり、このことは神の喜びその
ものなのです。
イエス様の「確信の時」が、十字架上での「完了した」イエス様の叫びへと展開していった
のです。神の救いがこの地上で展開していきますように私たちも突き進む者とならせて
頂こうではありませんか!
2月12日聖日礼拝 
説教題
    「主の救いを見る」
聖書箇所
    出エジプト記14章10〜14節
イスラエルの民は、エジプトで主による10の災いの奇跡を見ました。また彼らは、神の
臨在の象徴である雲の柱・火の柱を毎日見ていました。そして彼らが海辺に宿営しなけ
ればならない理由を、「主の栄光が現わされる」(4節)ためだと言われているにも関わら
ず、エジプトの軍勢を見て恐れ、つぶやいたのです。
このことは、現代の私たちも過去に主が成して下さった素晴らしい救いの御業を忘れて
しまい、目の前の不安な環境に飲み込まれやすいことを物語っています。

目の前には海、後ろにはパロの軍勢…こうした状況で彼らは主に向かって叫んだ(10節)。
しかし、彼らの叫びは祈りではなく、不平と不満と恐れとの叫びだった。指導者モーセに対
しては、エジプトに帰らせろと言ったのです(11-12節)。人の目には八方ふさがりでも、イン
マヌエルの主の前にはいつも道が開かれていることを忘れてはなりません。また、私たち
は祈ってはいるが、自分の口でつぶやいて不信の罪を犯し、自らの祈りを帳消しにしてしま
わないことが大切です。

一方、モーセは民とは違っていました。この出来事は主の栄光が現わされるためだと堅く信
じていました。困難の背後にある神を信仰の目で見ていました。彼は民に「恐れてはならな
い」(13節)とのみことばに続き、「しっかり(信仰に)立って、きょう、あなたがたのために行わ
れる主の救いを見なさい」(同節)と告げました。これは私たちの日常生活のことを指している。
日々本当に神様がおられる、共にいるという生活をしているか問われている。日頃の生活の
各場面で神を認めて生活をしていると、今度はその姿を通して家族や周囲の人が神の救いを
見ることになるからです。

そして私たちは信仰が自己中心になると恐れます。神中心の信仰かどうかが試されます。こん
な時は口を閉じて、心を静め、主が共にいて下さることを信じ、祈ることです。そうすれば、「主が
あなたがたとともに戦われる」(14節)。神の導きがあればいつでも応答する態度でいれば良い
のです。主は強い東風で海を分け、イスラエルは乾いた地を進んで行きました。後を追ったパロ
の軍勢は元の状態に戻った海にことごとく飲み込まれてしまったのです。
2月1日聖日礼拝 
説教題
    「祈りは主と共に」
聖書箇所
     ヨハネの福音書15章7節
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でも
あなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかな
えられます。

イエス様は「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われました。さらに枝で
あるクリスチャンが実を結ぶための秘訣は「あなたがたがわたしにとどまり、わたしの
ことばがあなたがたにとどまる」ことを何度も語られています。キリストと共に、キリスト
のことばと共に生きる。これはまさしくインマヌエル、神とともにある生き方であり、その
時に「求めなさい」と祈りへと導かれるのです。そこで「祈りは主と共に」とタイトルにしま
した。祈りは常に自分一人でするのでなく「主と共に」神にささげるのが祈りなのです。
「祈りは主と共に」あることを、今日のみ言葉から学びます。
@「とどまる」とはイエスとつながること
「イエスとつながる」とは、枝は木から十分な栄養が生き、実を結
ぶように、イエスから実を結ぶに必要な原動力が与えられるのです。「わたしの肉を食べ、
わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています(ヨハネ6:54〜58)」とあるように、
永遠のいのちを与える為にイエスは十字架上で完全なる救いを全うして下さったのです。
救い主イエスにつながった枝(イエスを救い主として信じる者)として、豊かな実を結ぶため
にも、イエスを通して語られた神のことばを私たちは常に聞いて、従うことが必要不可欠
なのです。そのことによって、私たちはより神に信頼する力が大きくなり、平安と確信をもっ
てイエスにつながる者とならせて頂くのです。
A「求める」とは祈ること
神のことばを聞いて従って行く時に、私たちはどのような時にも平安と確信をもって何でも
祈り求める者(信仰の叫び)となるのです。祈り求めることができるのは、それは必ず神が
祈りに対して答えてくださる確信が与えられていくからです。「あなたがたのためにそれがか
なえられます」とは、私たちの祈りに必ず答えて下さる、という事です。その時私たちは、
実を結ぶのです。祈りに対する答えは、神の前では「実」であり、その実は神を賛美すること
につながっていくのです。このことからも実を結ぶことと祈りは、切り離せない関係であること
胃をが伝わってくるのではないでしょうか。
救いを完成して下さったイエスにつながって、多くの実を結んでいくためにも「祈りは主とともに」
神にささげていこうではありませんか!
1月29日聖日伝道礼拝 
説教題
    「ご自分のいのちを与える主」
聖書箇所
     マルコの福音書10章42〜45節
イエス様は本当の意味で偉い人、またかしらである人とは、仕える精神を持っている人
だと言われました。実際にこの態度で生活していると、自然にその人の生活は高められ
て行きますし、イエス様に似た者に変えられて行きます。イエス様ご自身がその模範とな
られました。イエス様は多くの人々に愛の労苦をもって仕え、また苦難のしもべとしてすべ
ての人々の罪の贖い(身代金)としてご自分のいのちを与えられました。
ところが、本日交読したようにイザヤ53章では、はじめは誰一人としてイエス様を尊びま
せんでした。弟子たちですら最初はそのことを分からなかったのです。

「人の子」(45節)とは、イザヤ53章の「苦難のしもべ」のことを指し示しています。人類の
贖罪のために十字架上で苦しむ救い主の姿を表します。しかし、今や全世界の教会は
イエス様を救い主と仰いでいます。人に仕え、人のしもべとしてなって、罪の贖いを成し
遂げられたイエス様は全世界の王となられました。そこに神がこの全世界を治められる
御手があります。この隠れた神の御手を知ることなくして、真の仕える精神としもべの思
いは私たちのうちに生まれることは無いのです。

「仕える」(43,45節)と訳された語は、原語ではディアコニアと言います。本来の意味は
「給仕をする」「食卓に仕える」で、それは奴隷が全く自分の意志を殺して、ただひたすら
主人の幸福を願い仕える心を表わす言葉です。私たちがイエス様のお姿に目を留め、
そのみことばに従って歩んでいくならば、
@相手にとって何が本当に必要なのかを見分ける洞察力が養われます
A差別や報酬を求める思いから解放されます
B労苦や忍耐を通してキリストの愛が養われます 

これらの「仕える姿勢」の最終的な目的は「互いに愛し合いなさい(Tヨハネ4:11)」の実現
です。この天国(神の国)が部分的に地上の教会に実現するためなのです。
1月22日聖日伝道礼拝 
説教題
    「神の救い」
聖書箇所
     創世記3章21節
人類のはじめとしてアダム、そしてエバが神によって造られ「非常に良かった」存在で
あり、「地のすべてのもの、地のはうすべてのものを支配するように」と。その中、神か
ら「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と命令が与えらたのです。しかし
狡猾な蛇が「神は、ほんとうに言われたのですか」、食べると「神のように」なることを言
うと、エバはその実をとって食べ、アダムにも与えたのです。「食べたら本当に死ぬのか」
神のことばを疑い、神のようになりたい、といった欲望が豊かなエデンの園においても、
人の心には様々な思いが溢れ出て来ることを思わざるを得ません。神に「どこにいるの
か」と問われても裸であることを知った2人は恥ずかしく、滲めさと恐れで隠れました。さ
らに「あなたが私のそばに置かれたこの女が」「蛇が私を惑わした」と罪の責任転嫁を
アダムはエバに、エバは蛇に。そして2人とも神に罪の責任転嫁を押し付けたのでした。
この罪の結果2人はエデンの園から追放されることになりました。2人に対する神の姿か
ら「神の救い」を具体的に学びます。「神である主は,アダムとその妻のために,皮の衣を
作り,彼らに着せてくださった」(21節)
@「あなたのため」である
天地創造を通して、神はご自身の主権を明確に宣言されておられます(ローマ1:20)。全
知全能なる創造の神に不可能はない。「神である主」とは、神と人との関係を恩寵の恵
みで明確にされておられます。人は神に「いのちの息を吹き込まれ」(7節)て生きものと
なった。これは人の生命は神により授けられたもので、神を知る知らぬも、人は皆「神の
中に生き、動き、存在している」(使徒17:28)のであって、神によらなけらば人の救いはな
いのです。「神である」わたしこそ、あなたを救う「主」、救い主であり、この救いは「あなた
のため」なのです。
A「与えられる贖い」である
神の命令に従わなった2人を神は、見捨てることなく「皮の衣を着せてくださった」のです。
皮の衣を作るには、動物の犠牲が必要です。天地創造の業を喜ばれた神が、ご自身が
創造された生き物を殺さなければならない。そこまでして人を救いたかった神の情熱が
伝わってくるのではないでしょうか。犯してしまった罪に対して罰が必要です。この地上に
おいて罰を受けたとしても、心に潜む罪は残ります。また人は罪を犯す…悪い循環を生み
出してしまうのです。皮の衣が与えられ、2人は新しく生きる希望が与えられたのです。血
を流すことによって作られた皮の衣が与えられるとは、贖い(身代わり)による救い、イエス・
キリストの贖いによる救いを暗示していて、福音の原型と言われています。「神は、罪を知
らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方
にあって、神の義(救い、神との正しい関係)となるためです(Uコリント5:21)。罪なき神の子
が、罪人の負うべき呪いを身代わりに受け死なれた。イエスの十字架が自分の罪の為で
あることを信じる時、神の救いがその人のうちに実現するのです。神の救いを受ける者とな
らせて頂こうではありませんか!
1月15日聖日礼拝 
説教題
    「主の山に備えあり」
聖書箇所
     創世記22章6〜14節
神はアブラハムを試練に遭わせました。息子のイサクを全焼のいけにえとして捧げる
よう命じました。アブラハムは火と刀を手に取り、イサクにはたきぎを背負わせ、エル
サレムにあるモリヤの山へと進んで行ったのです。神はアブラハムの信仰をご覧に
なり、イサクには手を下してはならないと告げました。アブラハムは一頭の雄羊がや
ぶに角をひっかけているのを見つけました。
アブラハムとイサクの姿は、神とイエス様の関係のひな型になっています。神はアブ
ラハムを祝福しておられたが、さらに恵みの高嶺に引き上げようと、試練に遭わせら
れた。試練を神(イエス様)と共に乗り越えたところに必ず祝福が用意されているの
です。

「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名付けた。今日でも、『主の山
の上には備えがある』と言い伝えられている。」(14節)
 アドナイは「主」、イルエは前もって見られる・現れるという意味もあります。私達が現
実に目で見えるように、神は必要を備えて下さるのです。
神がアブラハムをお救いになる愛を、目で分かるように示して下さったのが、一頭の雄
羊であり、現代の私達にとっては十字架上のイエス・キリストです。イエス様は私たちを
罪の滅びから救い出して永遠のいのちを与えるため、全人類の罪を背負って十字架
上で死に、三日目によみがえって下さったのです。

へブル11:19「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えま
した。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」
ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは
御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

@神は、私達にはるかに先行して、祝福の備えをしておられる。いつも、主の山に備
えあり、との信仰を持って歩みましょう。

A神に委ね切る信仰者には、いつの時代にも変わらず、子孫への祝福と世の敵に勝
利する神の祝福が約束されています。

B神の愛は痛みに基づく愛です。神の最大の痛みと愛であるキリストの十字架を通し
て神の愛が示され、この十字架の痛みにより、私達は罪の痛みから救われるのです。

1月8日聖日礼拝 
説教題
    「クリスチャンの幸せ」
聖書箇所
     マタイの福音書5章13〜16節
マタイの5〜7章は、有名な山上の垂訓と言われるイエスの説教で、クリスチャン
の道徳を教えています。クリスチャンとは神が共にあって下さるインマヌエルの
生涯に生かされる人であり、まず幸いな人生が与えられるのです。「クリスチャン
の幸い」は「幸いです」の言葉に示されています。英語で見てみると「Blessed」で
あり「神の祝福を受けた」につながってくるのです。幸せは、自分の努力次第で
はなく、神から与えられ更に、神はクリスチャンに「あなたがたは」と呼びかけて
おられる。これは「あなたがたこそが」「あなたがただけが」と強調的表現であり、
イエス様が熱い思いで私たちに使命を与えて下さったことが伝わってこないでしょ
うか。イエス様はクリスチャンの使命を分かりやすくお話し下さいました。
@地の塩となる
古代社会では、塩は貴重であり、ギリシャ人は塩を神と呼んだそうです。また
塩には3つの特質があると考えていました。まず、塩は太陽と海からできるので、
すべての中で@清らかなものであること。またよく使われたA防腐剤として。最
後にB味付け、調味料としての特質です。物をきよめ、腐敗を防ぎ、また味をつ
けるのに欠かせない塩としての特質が、クリスチャンに与えられているのです。
私たちの社会は、神の御心とはかけ離れ、罪によって腐敗しています。この社会
の中にあって、私たちクリスチャンが、罪赦され救われたように、今後も多くの魂
が救われるべきなのです。その為にも、先に救われた私たちは、この地において
「塩」としての使命が与えられているのです。塩はわずかな量でも、全体に大きな
効き目があります。ですから私たちは、祈りつつ神のことばに聞き従っていく時に、
塩として役割を果たす者とならせて頂くのです。
A世界の光となる
 イエス様ご自身も「わたしは世の光です(ヨハネ8:12)」と言われました。私たちクリ
スチャンは世の光であるイエス様から光を頂いて(主の光を世に反射させる)輝く者
とならせて頂く(Uコリント3:18)のです。光は暗黒を照らし、道を示し、人の目にも明
らかです。枡の下に置いていませんか?隠れクリスチャンになっていませんか?私
たちの心を照らして下さったイエス様の光を多くの方々にも知って頂こうではありま
せんか!
 「クリスチャンの幸せ」は、神から与えられる祝福のただ中に生きることです。また
「地の塩となる」「世界の光となる」この大きな使命が、自分の幸いとなり、私たちを
通して御名が崇められますように、と祈るのです。アーメン!!     

1月1日元旦・聖日礼拝 
説教題
    「インマヌエル」
聖書箇所
     マタイの福音書1章23節
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと
呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

「インマヌエル」はイン(共に)、マヌ(私たち)、エル(神)という三つの言葉から
成り立っており、聖書中には3回記されています。イザヤ書7章14節、同8章8節、
そしてイザヤ7章14節を引用する形でマタイ1章23節に登場します。

@罪から救うところのインマヌエル 
イザヤの預言から約700年後、このみことばはイエス・キリストの誕生によって
実現しました。イエス様はまことの神であり、まことの人間です。イエス様によっ
てのみ、神は私たち罪びとと一緒においでになることができます。イエス様は私
たち人間と同じ姿をとり、私たちの間に住まわれました。罪ある私たちは生身の
ままでは神に近づくことができないが、イエス様を通して私たちは神に近づき交
わることができます。それは究極的にはイエス様の十字架と復活によって実現
しました。

A祈りを聞き、執り成し、応えて下さるインマヌエル
マタイ18章20節「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を
一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます」、
イエス様は、私たち人間の弱さや悩み、苦しみをも私たちと同様に味わって
下さり、助けて下さいます。私たちが助けを求めれば、いつでも助けて下さる
身近な存在です。

B宣教を支えて下さるインマヌエル
マタイ28章19、20節「…あらゆる国の人々を弟子としなさい。…見よ。私は
世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」
イエス様は世の終わりまで私たちと共にいて、宣教(伝道)を支えて下さい
ます。私たちは、明日の天気ですら100%正確に予想できません。しかし、
絶対なる方がおられ、私たちを助けて下さいます。それがイエス様です。
賛美『明日を守られるイエス様』
"明日はどんな日か私は知らない 晴れか曇りか嵐になるか だけど私は
心配しない イエスが私とともにいるから 明日は私には分からないけど 
明日を守られるイエスがおられる"


12月25日聖日クリスマス礼拝 
説教題
    「博士たちの礼拝」
聖書箇所
     マタイの福音書2章1〜12節
輝く星を見つけた時に、神が預言されていたことを心に留め、何か自分の人生が
変わるのではないだろうか、こういった思いに押し出され博士たちが約千六百km
の旅をしてエルサレムにやってきました。場所を尋ねるために聞いたヘロデ王は、
自分の王位を奪われることを恐れて「私も拝むから」と言って、幼子として生まれた
救い主を突き止めようとしたのですが、これは失敗に終わります。神は星を通して
特別に導かれ、ついに博士たちは救い主イエスを見つけ、ひれ伏し拝んだのです。
博士たちを礼拝へと押し出したの何でしょうか。

@神の導き(9)
博士たちは、ペルシャ地方の占星術の学者であったと言われています。「私は
見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの
星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり(民数記24:17)」と言われていた、救い
主出現の星を頼りに旅に出たのです。優れた支配者を指し示すのは一つの星、
輝く星であることを信じていたのです。救いは私たちの心を照らす真の光であり、
イエスご自身も「明けの明星である(黙示録22:16)」とはっきりと言われています。
博士たちは神の約束の言葉である預言を信じていたからこそ、神が超自然的な
星を通して導かれた時も約千六百キロの道をも突き進んでいくことができたので
はないでしょうか。神は私たちが救い主にお会いすることができるように神のこと
ば(聖書)、私たちが迷う人生において確かに前進できるよう、救いの光として神の
導きを与えて下さいます。

Aこの上もない喜び(10)
「彼らはこの上もなく喜んだ」とあります。自分たちが求めていた救い主にお
会いすることができたのです。博士たちにとって救い主とは何であったのか。
博士たちが捧げた宝の箱にその思いが隠されています。宝の箱には「黄金,
乳香、没薬」が入っていました。王のしるしとしての黄金、礼拝に用いる、神に
仕えるしるしとしての乳香。没薬は葬りに使われる。すなわち十字架にかから
れる救い主のしるしです。博士たちにとっての救い主はお金、名誉、地位、学
識でもなく「王であり、神であり、死:十字架による救い」だったのです。ですから
救い主イエスを王として、神としてひれ伏すことが真の救いを体験することにつ
ながったのではないでしょうか。救いそのものがこの上もない喜びであり、さらに
感謝に満ち溢れ、捧げる行為になったのです。

 私たちも人生において、自分の救いを求めない方はおられないのではないで
しょうか。救いを求める中、神は私たちに救いの星を聖書を通して、人を通して、
出来事を通して与えて下さいます。またそれは博士たちと同じように超自然的な
形からかも知りません。その時、私たちも救いの星を頼りに前進していく時、必ず
救い主イエスにお会いすることができるのです。救い主イエスにお会いし、日々主
の前に礼拝を捧げる者とならせて頂こうではありませんか。




12月18日聖日礼拝 (アドベント第4週)
感染が拡大してきました。本日の教会学校、聖日礼拝は中止します。
メッセージを下記に掲載しましたので、ご覧ください。

新聖歌  76「諸人こぞりて」
交読   39 詩篇第122篇
新聖歌  122「たたえよ救い主イエスを」

説教題
    「平和の根源」
聖書箇所
     ミカ書5章1〜6節
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、
あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」と旧約時代から救い
主のご降誕は、預言されていたのです。預言者ミカが活躍した時代、ユダ王
国が直面していた問題が1節にそのまま伝えられています。敵の王が権力の
象徴である杖で、イスラエル(ユダ王国)の王を公衆の面前で侮辱したのです。
このような国家的危機の最中、ミカは新しい支配者の登場を預言したのです。
新しい支配者(救い主)の姿を具体的に見ていきます。
@出身地:小さな村ベツレヘム・エフラテ(2,3)
他の同名の町ベツレヘムと区別するためにエフラテと呼ばれました。エフラテ
はこの地に住む民族であり、ダビデの父の出身地でもありました。都エルサレ
ムとは比べものにならないほどの小さな村:ベツレヘムでダビデ王も生まれ、
神に選ばれイスラエルの王となったのです。またさらに来るべき新しい支配者
である救い主も小さなベツレヘムにおいて「わたしのために」…あなたのため
に、お生まれくださるのです。救い主は都でなく、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉
おけに寝かされました。神の救いのご計画は人間の考えとは違い、小さき者を
通して成し遂げられる(3節:産婦が子を産む時)のです。それは人々をそのまま
にせず、滅びより救い出すため(帰るようになるため)です。
A治世:主の牧者として(4)
 来るべき救い主の働きは「主の力と、彼の神、主の御名の威光によって」成さ
れ、羊を飼う牧者にたとえられています。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことが
ありません(詩篇23:1)」と牧者である救い主は、私たちのいのちを守り、支えて
下さるのです。それゆえに私たちは「安らかに住まう」時が与えられ、救い主によ
る治世は「大いなる者」となって地の果てにまでその名声と影響力が及ぶのです。
B目的:真の平和の成立(5〜6)
まず、この時代の世界を圧する大国であるアッシリヤからの平和の約束が具体
的に書かれています。アッシリヤが攻めて来て「私たちの宮殿を踏みにじる」時
「七人の牧者」「八人の指導者」によって完全な勝利がある、と。真の平和の実
現は武力、名誉、地位、権力、お金で実現していくのでしょうか。アッシリヤから
の完全な勝利もこの地上においての勝利、平和でしかありません。しかし神が
私たちのために与えて下さる真の平和は、永遠のいのちへとつながります。
「平和は次のようにして来る」と書かれていますが、これを他の訳で見てみると
「この人は平和となる」「これは平和である」と訳され、救い主が平和をもたらす
だけでなく、平和の根源そのものであることを言っているのです。真の平和は、
救い主イエスが来てこそ成立するのです。
平和の根源であられる救い主イエスのご降誕を喜びお祝いするクリスマスが
近づいてきています。「あなた」のために救い主イエスが平和を成立して下さった
のです。平和の根源であられる救い主イエスを心に迎える時が与えられますよ
うに。あなたの人生に、真の平和が実現されていくのです。ハレルヤ!感謝します!!

12月11日聖日礼拝 (アドベント第3週)
説教題
    「この目で見た救い」
聖書箇所
     ルカの福音書2章22〜38節
御使いによって語られた受胎告知の通りに、約束された救い主イエスはマリヤから
誕生し、律法で決められた期間が過ぎ、さらに律法の規定を満たすためにエルサ
レムに向かった時のことです。そこで救い主を待ち望んでいたシメオンとアンナに
出会います。シメオンは、救い主イエスを腕に抱き、神をほめたたえて「私の目があ
なたの救いを見た」と言いました。@どうしてイエスが救い主であることがわかったの
か。Aまたどのような救い見たのか。シメオンとアンナの姿から学びます。
@神の救いを待ち望んでいた
ユダヤ人は神から選ばれた民として当時、民族主義的救済者を待ち望む人が大
勢いました。ローマ帝国に独立戦争を起こす天的な戦士がこの地上に、またある人々
はダビデの家系から王が立つ、または神が直接歴史に介入する…と信じていたのです。
しかし、これらとは対照的に暴力や権勢、軍隊に期待するのでなく、ただひたすら神が
現れるまで祈りと用心深い生活をし、生涯かけて静かに忍耐強く神を待ち望んでいた
人々もいたのです。シメオン(25)とアンナ(37)も、そのような人でした。2人とも常に神の
救いを待ち望んでいた(イスラエルの慰められるように)のです。それゆえに2人は、
忠実に祈りと礼拝を神に捧げ、聖霊の導きが与えられていたのです。聖霊の導きに
よって明確に示され(Tコリント12:3)、「私の目があなたの御救いを見た」と、神を
ほめたたえることができたのです。
A救いを見た
シメオンは聖霊から示され平安と確信をもって「異邦人を照らす啓示の光、御
民イスラエルの光栄」(31)であることをヨセフ、マリヤに伝えたのです。イスラエル
のみでなく、異邦人にも救いを届ける救いは、多くの反対を受ける。しかしこの救い
にこそ勝利がある。救い主イエスを信じない者は倒れる(滅びる)が、信じる者は新しい
いのちが与えられ、立ち上がる時が与えられる、この勝利のために「剣があなたの心
さえも刺し貫く」ほどの痛み、悲しみがある。それはイエスがそしられ、苦しめられ、辛い
十字架につけられるのを見て、母なるマリヤの心に起きる苦痛を預言したのです。シメ
オンは救い主を腕に抱き、人の子としてお生まれになった救い主、信じる者は立ち上が
らせて下さる救い主、十字架による救いの勝利を与えて下さる救い主であることをしっか
りと悟った、つまり「救いを見た」のです。
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」
Tコリント12:3

 幼子イエスを抱き、救い主を「この目で見た」シメオンとアンナ。二人とも神を
ほめたたえたのです。シメオン「神をほめたたえた」、アンナ「神に感謝をささげ」た
のです。神をほめたたえる、この喜びは伝道に自然とつながっていくのではないで
しょうか。また救い主が誕生したからには、信じる全ての人が必ず救われるという信仰
を確かに受け止めたいと思います。そして日々、聖霊の導きによってこの目で見た
救いを通して「イエスは主です」と告白する者とならせて頂こうではありませんか!

12月4日聖日礼拝 (アドベント第2週)
説教題
    「マリヤの姿から」
聖書箇所
    ルカの福音書1章26〜38節
「ダビデ家系のヨセフのヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤ」と家系が記さ
れているのは、救い主がダビデ家から出ると神の約束が到来したことを告げ知る
ためには、重要な情報となります。また「処女(おとめ)」を2回繰り返しあるのは、
聖霊によって与えられた命であり「すぐれた者」「いと高き方の子」、神のひとり子
であることを明確にしています。処女懐胎の御告げ「あなたはみごもって、男の子
を産みます。名をイエスとつけなさい」とも伝えました。その時のマリヤの姿から私
たちが倣うべき姿を見ていきたいと思います。
@恵みを受けたマリヤ(30)
「マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」と天使ガブリエルが言いまし
た。「恵みを受けた」を直訳すると「恵みを見出した」となるそうです。見出した、つ
まりマリヤが救い主の到来を祈り求めていたことが想像できるのではないでしょう
か。救い主到来の預言は旧約時代から与えられ、マリヤも知っていたことでしょう。
天使ガブリエルが「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と主が
マリヤと共におられるとの言葉は、マリヤが神の御心に適う人であったこと(出33:16)
と、主との交わり(祈り)があったことを思わざるをえません。
それ故に、マリヤが主のため用いられたのではないでしょうか。
A神の力を信じたマリヤ(37)
 御告げを聞いてマリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう」と問いますが、
これは確かに、子を宿す可能性が無いマリヤの心の声であったかも知りませんが、
不信感からきているのでなく神のことばの実現を前提に「それがどのように実現する
のでしょうか」と言った経過と方法をさらに詳しく知ろうとする問いになったのです。こ
の思いに至ったのも、マリヤが神のことばの確かさ、力を信じきっていたことが伝わっ
てきます。それがマリヤの「神にとって不可能なことは一つもありません」と言った告白
につながったのです。
 私たちも困難な中にも神の守りと、全能の力が働くことを信じていこうではありません
か!「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)
B主のはしためであるマリヤ(38)
マリヤが「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばど
おりにこの身になりますように」と伝えると、御使いは去って行きました。「はしため」は
「奴隷」の意味があり、全き献身、服従をあらわすのです。聖霊によって身ごもること
は特別な神の業ですが、それを知らない人々からは罰せられる危険性もありました。
夫となるヨセフもそのことを心配してマリヤとの婚約を破棄することも考えたほどでした。
救い主の母になることも簡単なことではなかったと思います。しかし、すべてマリヤは神
を信頼し、お委ねしていたからこそ、御告げを「この身になりますように」と受け止める
ことができたのです。
 神のことばにいつでも従えるように、日々の祈りを積み重ねる者とならせて頂こうでは
ありませんか!


11月27日聖日礼拝 (アドベント第1週)
説教題
    「あなたのところに」
聖書箇所
    ゼカリヤ9章9〜17節
ゼカリヤは、神からの幻によってエルサレム神殿の再建、繁栄、そして将来の
キリスト再臨を見据えて活躍した預言者でした。今日の9章はキリスト再臨:未
来に関するメッセージが書かれています。このメッセージは「あなたのところに」
来られる救い主の約束であり、信じる者の勝利そのものとなるのです。救い、
勝利を具体的に見ていきます。

@平和の君としての救い(9〜12)
9節は、平和の君イエス・キリストを預言した箇所であり、主イ
エスのエルサレム入城(マタイ21:5)で実現しました。またその週の
うちに十字架につけられ、その血によって新しい契約をたてられたのです。
イエス・キリストの救いは、欲望,不安,絶望,死の恐怖や罪につながっていた
私たちを解放して下さった、十字架による贖いです。罪からの解放を待ち望む、
救いを待ち望む人は「とりでに帰れ」と。つまりキリストを仰ぎ、キリストのもとに
隠れよ、と命じられたのです。神を信じる生き方に方向転換することです。する
と「二倍のものをあなたに」返して下さる、十分な慰めと祝福、勝利が与えて下
さる神の祝福は、私たちの想定外なのです。生涯かけて罪の赦しを「大いに喜
び」「喜び叫ぶ」生涯へと押し出されていく、平和の実現そのものではないでしょうか。
A与えられる勝利(13〜17)
神の裁き、勝利は私たちを「勇士の剣」のようにして圧倒的勝利を与えて下さる。
どのような暴風の嵐の中にあっても、その民を助け、神の平和が実現していくの
です。「万軍の主が彼らをかばう」平和が完成するのは、キリスト再臨の時です。
キリスト再臨の時、神の民が敵に対して完全なる勝利を得るのです。私たちの敵
は、罪と死の力によって神から引き離そうとする悪魔です。主は私たちを養い、
良き牧者のもとにあって平和と豊かな実りの幸福な「なんとしあわせな」「なんと
麗しい」時を与えて下さいます。栄光に満ちた中に「きらめく王冠の宝石」のよう
に輝き「穀物」である神のことば、そして「新しいぶどう酒」である聖霊によって私
たちは、栄えさせられるのです。
 
イエス・キリストのご降誕は、この救い、平和、勝利が「あなたのところに」与えら
れるためです。クリスマスは自分の救いのためであることを信じて、クリスマスを
待ち望もうではありませんか!
「見よ。あなたの王があなたのところに来られる」(聖書)

11月20日聖日礼拝 
説教題
    「渇いていませんか?」
聖書箇所
    ヨハネの福音書7章37〜38節
大きな声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わた
しを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生け
る水の川が流れでるようになる」と言われたのです。渇きは肉的な渇きでな
く、人間の魂の渇きです。この渇きの原因、渇きの満たし方、渇きを満たし
た結果が今日の聖書箇所に書かれているのです。
@渇きの原因(38)
「わたしを信じる者は…生ける水の川が流れ出る」とあるように、渇くのは「わ
たしを信じない」ことなのです。わたし:イエス・キリストを救い主と信じないとい
つまでも、神との関係が壊れたままです。人は神のかたちに似せられて「はな
はだ良かった」と神も人の存在を喜んで下さっていましたが、アダムとエバが
神の言われたことを無視していのちの木の実を食べてしまった。それゆえに神
との関係が壊れ、罪が生じてしまったのです。罪は私たちの魂を渇いた状態に
します。この神との関係を拒んでいると心の奥底は、何をしていても心が満たさ
れない、空しい思い、渇きになるのではないでしょうか。
A渇きの満たし方(37)
この地上において、自分の心を満たすための手段は、個人によって違います。
しかし神は、私たち人の心を満たすのは唯一「生ける水」であり、それは「私の
もとに来て」とあるように、イエス・キリストから与えられるのです。その水は、イ
エスの十字架の死と復活によって、私たちに与えられた賜物:聖霊です。イエス・
キリストを信じる時に生ける水、聖霊が注がれ魂は慰めと、平安、喜び、希望と
川のように押し出され渇きが満たされていくのです。
B渇きを満たした結果(38)
「生ける水」は、わき出る水と言う意味が含まれていて、まさに「水のかれ
ない源のようになる」(イザヤ58:11)のです。生ける水を飲む、つまり聖霊が与えら
れるとわき出る、枯れない泉が「かわいた地に豊かな流れ(洪水のような)」(イザ
ヤ44:3)となって、自分の渇きが癒されるだけでなく、他の人々も潤す者とならせて
頂くのです。聖霊は神のことばと共に働かれます。神のことばを体験する者となら
せて頂き渇きが満たされる日々となりますように。
 日々の生活のただ中で「渇いていませんか?」と自分自身に問いかけてみませ
んか!そしていつもイエスのもとに来て、いつも生ける水を飲む者とならせて頂こ
うではありませんか。そこに神の祝福が展開されていくのです。ハレルヤ!!

0姉証し
 いつもお祈り頂きありがとうございます。私は優柔不断の性格で何事をするにも
考えすぎてしまう傾向があります。また色々と診断を受けている中、仕事を辞めた
らどうなるか強い不安に襲われました。ある日デボーションで「何も思い煩わない
で、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによってあなた方の願い事を
神に知っていただきなさい。そうすれば人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(神の庭より)の、
み言葉が与えられ真剣に祈る日々が続きました。すると不思議に道が開かれ「主
は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」(聖書より)、この
み言葉の通りですね。そしてはっきりと決断をしてから、5月末に21年間勤務してい
た仕事を退職しました。同僚にも恵まれて働くことができ、感謝でいっぱいです。「い
つも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい」(聖書より)。現在は身体も楽に
なりました。犬の散歩、通信講座に挑戦していますが、何より聖日礼拝を守ることが
でき本当に感謝しています。これからの私の歩みのためにお祈りして頂けたら感謝
です。最後に私の好きな賛美を紹介します。
「主よ感謝します 今のこの時を 試みの中にも 主の平安がある
何が私を主から離すのか 悩みか 苦しみか 飢えか剣か 
何者も私を離すものはない 主の深い愛から離すものはない」


11月13日聖日礼拝 
説教題
    「心に留める人々は幸いである」
聖書箇所
    黙示録1章8節〜2章7節
「イエス・キリストによって示された黙示」とは、イエス・キリストによって示された啓示、
神の啓示が超自然的幻によって示されることを意味しています。「すぐに」は、神の
「一日は千年のようであり、千年は一日のよう」な時間であり「すぐに」なのです。「時
が近づいているから」「わたしはすぐ来る」と記されていのですから、どの時代におい
ても、この黙示を「心に留める人々は幸いです」とあるように、熟読することが求めら
れているのではないでしょうか。私たちが心に留めるべきことを具体的に見ていきた
いと思います。
@神は万物の支配者である(8)
「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方」は、神が永遠なる存在であり「わ
たしはアルファであり、オメガである」も、神が無限であり、究極的な
存在であることを示す。それは神が、万物の支配者であり、歴史も支配されておられ
ることを言っているのです。万物を支配されている神が黙示をお与えになったことを
心に据えて、黙示を確かに受け止める、心に留めることが私たちの使命ではないで
しょうか。
Aキリストは教会の真ん中におられる(13)
ヨハネが最初見た「七つの金の燭台」は七つの教会(エペソ、スミルナ、ペル
ガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ)を指している。また
次に見た「人の子のような方」は、キリストであり、ヨハネが地上で見たイエスの
姿とはあまりにも違っていた(14〜16)のです。これは主が罪を滅ぼし尽くす決意
を示しているのかもしれません。またキリストの足は、すべての者をその足の下
に踏みつける偉大な力を持っている(Tコリント15:25〜27)ことです。キリストの声
の力強さ、そして「右の手」は神の愛と守りを表わすがゆえに、主の「右の手の中
に見えた七つの星と、七つの燭台」がある、なんと力強い守りでしょうか。そして
「恐れるな」わたしは「生きている者」「いつまでも生きている」と仰ってくださったの
です。キリストは教会の真ん中におられるのです。
B初めの愛に立ち返る(4)
 エペソの町は、アジヤ州で最も重要で最大の都市であり、商業、宗教も盛んでした。
アルテミスの女神の神殿では、宗教的売春、魔術も盛んで不道徳な都市でもあった
のです。その中、パウロの伝道によってアジヤ最初の教会がエペソの教会でした。
その教会の中に偽りの教えを説いた使徒(「狂暴な狼があなたがたの中にはいり込
んで」使徒20:29)を見抜いた使徒たちに「よく忍耐して、わたしの名のために耐え忍
んだ」と賞賛して下さいましたが「非難すべきことがある」と言われ「初めの愛から離
れてしまった」ことを叱責されました。偽の使徒を見分けるために、追放することに熱
心のあまり、神学的な問題に関心を注ぎすぎ、正統派の信仰が批判的で冷たくなって
しまった。そこで、どこから落ちたか「思い出す」「悔い改める」「初めの行いをする」こ
とを招かれたのです。キリストの愛から離れてしまうと、自分が神になり、自己中心的
な愛になってしまうのではないでしょうか。私たちにとって、生涯「初めの愛、キリストの
愛」から離れないことが勝利の秘訣であり、将来パラダイスにて「いのちの木の実」を
頂く祝福への道なのです。
11月6日聖日礼拝 
説教題
      「イエス・キリストを見る」
聖書箇所
    ルカの福音書7章11〜17節
イエスが、ナインの町の門に近づかれると葬列が見えました。亡くなったのはある
やもめの一人息子でした。イエスのひと声によって死んだこの青年が生き返ったこ
とに、人々の反応も大きく広まりました。さてこの奇跡を通して皆さんは何を感じられ
たでしょうか。この奇跡を通して指し示されているイエス・キリストの姿を通して、確か
に「イエス・キリストを見る」時となりますように。
@イエスを見る                   
イエスは愛する息子を亡くし、深い悲しみの中にいる母親を見てかわいそうに思い
「泣かなくてもよい」と声をかけられました。「深い同情を寄せ」の言葉は、ギリシャ語
で「はらわたが痛む」という意味があります。悲しみを共感して胸が痛み、腸が突き
動かされるほどの憐れみの感情です。十字架にかかる自らの死を覚悟されていた
イエスは夫を早くに亡くし、さらに息子イエスの死を受け止めなければならない母マ
リヤの姿と重なったのでしょうか。また救い主イエスを預言するイザヤ53章には「悲し
みの人で病を知っていた」とあります。この「悲しみの人」は「痛みを知る人」とも訳せ
るそうです。イエスご自身、この地上において様々な痛みを体験され「私たちの痛み
をになった(イザヤ53:3)」「ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受けいれな
かった(ヨハネ1:11)」とあるように、痛みを体験されてきたことが伝わってきます。私
たちの悲しみに同情を寄せて下さる、私たちと同じ情をもつ人の子としての「イエス
を見る」ことができるのではないでしょうか。
Aキリストを見る                                                     
棺に手をかけ「青年よ。あなたに言う、起きなさい」とイエスが言われると、青年
は起き上がってものを言い始めました。死と悲しみの葬列は、180度の方向転換を
したのです。死人に命じてひと言で起き上がらせたところに、権威と力ある救い主
なる「キリストを見る」のです。キリスト:救い主がもつこの権威とは政治的武力的な
権威ではなく、学識、学歴、地位によるものでもなく、神の子としての権威です。イエ
スもこの権威、すべてのものが「わたしの父から、わたしに渡されています」(マタイ
11:27)とはっきりと言われました。また「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、
また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたので
す」(コロサイ1:16)とあるように万物の創始者であられる、つまりイエスご自身が「神
のかたち」(コロサイ1:15)そのものなのです。それゆえにイエスのひと声によって、
青年は生き返ったのです。
 私たちにも近づいて深い同情を寄せて下さるイエスが、今日も私たちに180度変わ
る救いの言葉を与えてくださっています。日々の生活のただ中にあって「イエス・
キリストを見る」時が与えられますように。その時こそ私たちはイエスの言葉によっ
て、いのちが与えられ喜びと感謝をもって立ち上がれるのです。ハレルヤ!!
10月30日聖日礼拝 
説教題
      「真の知識:エピグノーシス」
聖書箇所
    Uペテロ1章1〜11節
当時異端者(2:1)が、教会内をかき乱そうとしたことに対して信者に警告したのが、
この手紙です。まず、ペテロは「神と私たちの主イエスを知ることによって」と、祈
りをもっての挨拶から始まります。知る、それは私たちの内に知識となって蓄積さ
れます。書店に行くと、ネットを開くと…様々な知識(グノーシス)に出会います。聖
書の中に書かれている「知識:エピグノーシス」は、この地上の知識と別の意味が
あるのです。エピグノーシスのエピとは、前方へ、〜の方向に向かって、とかの前
置詞で「知識を追求するという方向に常に深く進んでいる」と解釈することができま
す。イエスをよく知れば知るほど恵みと平安の体験も増し加えられて霊的な「いの
ち」を持ち「敬虔」な生活を送るための「真の知識:エピグノーシス」なのです。真の
知識を2つの点から具体的に学びたいと思います。
@信者の受けた特権:すばらしい約束に生きる(3~4)
すばらしい約束とは「いのちと敬虔」に基づいて、私たちがキリスト再臨の時
に神の国に入ることができることです。いのちはキリストを信じた時に与えられる新
しいいのちであり、敬虔は、真の神に対する態度、信心であり私たちの生き方です。
「いのちと敬虔に関するすべてのことを与え」て下さったのは、私たちが神のご性質
にあずかる者となる為です。神のご性質にあずかるとは、神になる、と言うのでなく私
たちも日々、聖を求めて生きる者とならせて頂くこと(Tペテロ1:15,16)です。これは値
なしに与えられた神からの賜物であり、まさしくキリスト者の特権ではないでしょうか。
聖なる方にならって、聖なる者とならせて頂く。イエス・キリストが十字架による死と復
活によって救いを完成してくださった栄光と徳(キリストに備わる性質:使徒26:18)に
日々、生きることです。
A信者に対する勧め:あらゆる努力をして備えて生きる(5~11)
この世にあって「信仰には徳を、徳には知識(グノーシス)を,知識には自制を,自制には
忍耐を,忍耐には敬虔を,敬虔には兄弟愛を,兄弟愛には愛を加えなさい」とあらゆる徳
で人生に備えるようにペテロは言っています。最後に「愛:アガペーの愛」があげられて
いるということは、愛がすべての基であることを示しているのです。どんなにすぐれた信
仰にもイエスが示されたアガペーの愛なければ何の値うちもないのです。その為にあら
ゆる努力(熱心さ)が必要で、ますます豊かにされ、自分が召されたこと、選ばれたことを
確かなものとする。そこでキリスト者は、目指すべきことを見据えて進んで行くことができ
るのです。
この真の知識は、私たちを「イエス・キリストの永遠の御国に入る恵み」へと押し出してい
くのに必要不可欠です。真の知識を与えてくださる主を崇めます!!
10月23日聖日伝道礼拝 
説教題
      「イエスは誰か」
聖書箇所
    マタイの福音書16章13〜28節
十字架を目前にひかえたイエスは、できるだけ多くの時を弟子たちと過ごしたかった
のでしょうか。この時もカイザリヤ地方の人目を避けた場所でイエスは語られたので
す。そして「わたしをだれと言うか」…「イエスは誰か」と問われました。この問いかけ
は、私たち1人1人にも問いかけられているのです。「イエスは誰」なのか、学びます。
@生ける神の御子キリストである(16)
この時代人々はイエスを「旧約時代メシアの先駆者であるエリヤ」「神の国で
特別な役割を持ち、神の民が苦しむ時に神が遣わしたエレミヤ」等と言ったり、政治
的な救済者であると信じていたのです。それに対してペテロは「生ける神の御子キリ
ストです」と答えました。「キリスト」とは、ギリシャ語で神に油注がれた者、救い主の
意味です。ペテロは12人の弟子の中の1番弟子で、かつては漁師でした。イエスの弟
子になって共に過ごし、教えを聞く中でペテロが出した信仰告白でした。「イエスは誰
か」、偉大なる教師、宗教家…でもない。それらを超えての「生ける神の御子キリスト
である」と告白したのです。しかしペテロもイエスのすべてをこの時はまだ、分かって
いませんでした。ペテロは生涯かけて、イエスが救い主であることを体験していくのです。
A教会の土台であるお方(19)
生涯かけてイエスが誰であるのかを知り「生ける神の御子キリストである」救
い主である、イエス様が私の罪を贖って下さった、私の罪を赦して下さったと信仰告白
したペテロにイエスが「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」と言われました。
これは地上においての信仰告白が天国に入るためのカギであることを言っているので
す。天の御国のカギ、それはペテロの信仰告白であり、私たち1人1人の信仰告白とな
ることをイエスは願っておられます。この告白こそが教会の土台であることを私たちは
忘れてはいけないのです。
Bまことのいのちを与えてくださるお方(26)
イエスは、ご自身が救い主であることを示されるために十字架への道を歩まれ、
救いを全うされたのです。それゆえに私たちは、まことのいのち、永遠のいのちが与え
られるのです。「人はいったい何を差し出せばよいのか」…私たちが差し出す、それは
自分自身ではないでしょうか。自分中心の自我を神に差し出す。それは自分には救い
主が必要であることを認め、悔い改める時となり私たちはまことのいのちに日々生きる
者とならせて頂くのです。
 イエスに「あなたは幸いです」と言われる生涯を歩みだしませんか?
10月16日聖日礼拝 
説教題
      「真の基準に生きる」
聖書箇所
    ピリピ人への手紙3章8〜16節
私たちは、知らないうちに自分の「基準」といった物差しで行動、判断をしている
のではないでしょうか。皆さんにとって、生きていく上での基準は何でしょうか。パ
ウロは「すでに達しているところを基準として」と言っています。達している、到達
しているとは、私たちに「新しい創造」を可能にしてくださるキリストの十字架の福
音を信じ、その新しい創造、キリストの救いに生きることです。キリストの救いを真
の基準として生きる生き方を具体的に学びます。
@キリストを知るすばらしさに生きる(8)
パウロはかつての自分は、割礼を受け,律法をしっかり学ぶと同時に律法と儀
式を厳守し、その熱心が教会を迫害したほどであったと言っています。このよう
な生き方が神の祝福に与かれると信じていたのです。しかしキリストを救い主と
信じたゆえに、今までの自分にとっての自信と生きがいであった@8日目に割礼
を受けたAイスラエル民族に属するBベニヤミンの分かれの者C生粋のへブル
人D律法についてはパリサイ人Eその熱心は教会を迫害したほどF律法の義に
ついては非難されるところがない者である。このことがすべて損と思うようになった
のです。これはパウロがイエス・キリストに出会った(救われた)ことによって、パウロ
の生きる基準が全く違ってしまったということです。パウロにとって「私の主であるキ
リスト・イエスを知っていることのすばらしさ」と言っているように自分とイエス様の関
係が「キリストを得」ることであり、自分の生きる基準になったことの絶大な喜びとし
て伝わってきます。しかし、一度キリストと出会って救いを知ったからキリストを完全
に知り尽くすことではないのです。それゆえに、生涯かけて私たちは「キリストを知る
すばらしさに生きる」時が与えられるのです。
Aキリストの中にある者と認められる希望に生きる(9)
キリストの中にある、つまりキリストにつながっていることです。キリストに
つながっている時こそ、私たちは自分を見い出す、見い出されるのではないでしょ
うか。キリストの姿、ことば、十字架を通して自分の姿が示され、悔い改め、そこに
新しい救いのわざが進められて行く。そして新しく創造される(救われる)ことは、か
つての自分が死んで、キリストによって復活の時が与えられる(Uコリント5:17)こと
です。パウロも生涯にかけて「どうにかして、死者の中から復活に達したい」と願い
ました。つまりキリストの復活に生かされる希望が与えられているのです。私たち
はこの大いなる希望に生かされているのです。
この地上で真の基準に生きる者とならせて頂こうではありませんか。キリストが私
たちを捕らえて下さっているのです。ハレルヤ!!
Uコリント5章17節
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いもの
は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

10月9日聖日礼拝 
説教題
      「救いの確かさが神にある」
聖書箇所
    ピリピ人への手紙1章1〜11節
この手紙はローマの獄中からの手紙ですが「喜びの書」とも呼ばれるほど「喜び」が
多く使われています。この喜び、それはパウロにとって「イエス・キリストの十字架に
よる救い」すなわち「福音」でした。祝福の祈りから始まっている、この手紙から、パ
ウロの心にある「堅く信じている」(6)ことが何であるかを学びます。

@神が、完成させてくださる(6)
何を完成させて下さるのか。キリストの再臨の時、神の前に立つ時が
与えられ、からだの復活の時が与えられます。その時まで、私たちは信仰を持ち続
けなければなりません。その為にも神ご自身が「良い働き」つまり、救いの働きを始
めてくださったのです。主イエス・キリストを信じて、新しく生まれ変わらせて頂く時に
終わるのでなく、始まるのです。そしてキリスト再臨の時に完成に至る。神が完成さ
せてくださる、ということは私たちの救いの確かさが神にある、ということなのです。
「見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ。あなたがたも、
わたしの手の中にある。」エレミヤ18:6
Aキリスト・イエスの心をもつ(8)
パウロはここで、ピリピ教会の人々をどんなに慕っているかを宣言し
ています。自分の思いを神が証しをして下さる!とまでの愛はどこからきているの
でしょうか。「あなたがたのことを思うごとに」「あなたがたすべてのために祈るごとに」
とパウロの心にいつもピリピ教会の兄弟姉妹のことが覚えられていた。その原点は
「キリスト・イエスの愛の心」をもっていたからです。自分の価値観でなくイエスの愛の
心をもって人を愛する時、神があかしをして下さり、教会としての一致が生まれ、救い
の確かさが神にあることを確信するのです。
B祈り求める(9〜11)
1人も滅びることのないように…イエスの愛の心がパウロの祈り(9)となった
のです。@愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになりますように。
A真にすぐれたものを見分けることができるように。B義の実に満たされますように。
「救いの確かさが神にある」ことを確信していたからこそ、神に祈り求めたのではない
でしょうか。「救いの確かさが神にある」確信をもって、日々福音を伝えるクリスチャン
として「神に御栄と誉れが現わされますように」と祈りつつ、福音宣教の為に前進する
者とならせて頂こうではありませんか。
10月2日聖日礼拝 
説教題
      「主に喜ばれる生涯」
聖書箇所
    第Uコリント5章1〜11節
パウロはイエスが救い主であることを伝道する中、多くの手紙を書きました。この
Uコリントの手紙の中で牧会者としてのパウロの姿が明確に現わされています。
愛の訴えに満ちていて、気落ちし、悩んでいる人々を慰め、励ますことばが至ると
ころに出て来ます。パウロ自身も多くの苦難を体験しましたが、常にパウロを主に
喜ばれる生涯(9)へと押し出されていたのは何であるのか、パウロの生き方から
学びます。
@天にある永遠の家を望んでいた(1〜4)
「地上の幕屋」とは、この地上で与えられている「血肉の体」であり、名前の
ごとく「幕屋」は一時的な仮住まいであることを示しています。その対象として「天に
ある永遠の家」は「御霊のからだ」のことです。地上において誰もが、死を通してこの
地上においての生活が終わりますが、キリストを信じる者は死で終わらない、のです。
キリストの再臨の日に「ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる」(ピリピ3:21)、
つまりからだの復活の時が与えられるのです。イエス様が復活された時のからだの
ように目に見え、手で触ることもできる。しかし幽霊のような単なる霊の顕現ではない
(ルカ24:39)のです。「裸の状態になることはない」とあるように血肉の体がなくても、私
たちの霊は御霊のからだと結合される「天からの住まいを着る」時が約束されていま
す。パウロはこの地上より遥かに超えた、天にある永遠の住まいを望みとした生涯
でした。
A保証として御霊が与えられていた(5〜8)
「このことにかなう者としてくださった方は神です」と救いのみわざを完成し
て下さるのは神であることを非常に強調しています。御霊が与えられるということは
「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされ、測り知れない重い栄光をもたらす、
私たちの死ぬべきからだをも生かして下さる」(Uコリント4:16〜18、ローマ8:11)ので
す。「そういうわけで」とパウロが言うように「私たちはいつも心強」く生きることができる
のです。これこそ信仰によって歩む生涯であり、主に喜ばれる生涯ではないでしょうか。
B主を恐れることを知っていた(9〜11)
キリストの再臨は実に願わしいものですが、同時に神の裁きがあることも覚
えなければなりません。キリストの裁きの前に立たされることを確信していたパウロ。
神の前に私たち1人1人は立たされるのです。私たちも日々、主を恐れることを知る者
とならせて頂こうではありませんか。その時、神の前に、人々の前にも責められること
のない生涯、主に喜ばれる生涯へと展開していくのです。
9月25日聖日伝道礼拝 
説教題
      「ハガイが見た神殿再建」
聖書箇所
    ハガイ書2章1〜23節
神のことばによって、心奮い立つ時が与えられたイスラエルの人々は、神殿再建を
開始しました。ハガイが見た神殿再建を神のことばを通して具体的に見ていきたい
と思います。
@神の臨在(1〜9節)
工事中、昔の神殿の壮麗さを知っている多くの老人たちは、大声をあげて泣いたの
です(エズラ3:12)。過去のソロモン神殿と比べて、今再建している神殿は「まるで無い
に等しいのではないか」と失望落胆が忍び寄っていたのですが「強くあれ(勇気をだせ)」
「仕事に取りかかれ」と神は預言者ハガイを通して力強く励まされたのです。その原点
が「わたしがあなたがたとともにいる」「わたしの霊があなたがたの間で働いている」か
らです。私たちが勇気を出せる時(物おじせずに立ち向かう気力)は、何か確信がある
時であり、この確信こそ神の臨在を指し示しているのではないでしょうか。確信は信仰
となり、勇気を出す生き方へと押し出されるのです。神の臨在を常に確信する者となり
ますように。
A神の祝福(10〜19節)
工事が再開しても、民には不安、失望、迷いなどが忍び寄る隙がある
状態でした。その為にもまず、供え物について祭司たちに尋ね、汚れと聖があることへ
の警告と自覚を与えようとしたのです。儀式を守っても悔い改めのない単なる儀式では
人の心は清められないこと、神への信仰も小さな汚れ、罪から崩れていくのです。ハガ
イは繰り返し神のことばを語る事によって民を支え、再び不従順に堕ちないようにする
のが使命でした。「きょうから後のこと」つまり、神の祝福が失われていた状態から「わ
たしは祝福しよう」と神の祝福が与えられる状態へと変わったことです。神に悔い改め
をもって従う時こそ、神の祝福の回復の時です。
Bキリストの王国(20〜23節)
神からのメッセージは民全体からゼルバベル1人に絞られました。神
殿再建は単なる建物の問題だけでなく、神の救いの計画も実現に向かっていることを
明らかにするためでもありました。ゼルバベルの選びを通して「後の栄光」であり未来、
キリストの王国が完成することをハガイは見たのです。 私たちも日々の生活の中で、
神殿再建を過去の事実として捉えるのだけでなく、現在、未来においても自分自身に
関わる出来事として待ち望む者とならせて頂こうではありませんか!
9月18日聖日礼拝 
説教題
      「心奮い立つ時」
聖書箇所
    ハガイ書1章1〜15節
70年の捕囚後、約5万人がクロス王の勅令によって帰還し、宮(神殿)の再建を
始めました。しかし、宮の土台を据えるより前に近隣の敵によって中止させられ、
その後15,6年失意、無気力、怠慢の闇をかぶる日々でした。その中、神は預
言者ハガイを通して語られたのです。

@現状をよく考えよ(4〜7節)
自分たちは屋根のある家があるのに神の宮が廃墟のままで「自分の
家のために走り回って」いることに対して「現状をよく考えよ」と投げ掛けました。
また「多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが…飲んだが…着物を
着たが暖まらない。かせぐ者が稼いでも、穴のあいた袋に…」と神の祝福を失っ
ていることを指摘し、この原因は何か「現状をよく考えよ」であって、熟慮反省する
ことを勧めたのです。「空回りの人生の原因は何であるか」に心を向ける。民が第1
にすべきものを第1にしていなかった現状、民の生活にするどくメスをいれたのです。
私たちも立ち止まって、静まって「現状をよく考える」必要があるのではないでしょうか。
A主の宮を再建せよ(8〜15節)
「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそ
れを喜び、わたしの栄光を現そう」と神が仰せられたのです。神の祝福を失った
日々の生活で虚しさを感じる人々もいたのでしょうか。ハガイを通して語られたことが、
神のことばとして受け止めた人々は「主の前で恐れた」つまり、神を神として崇めたの
です。恐れるとは「主の御名に信頼し、自分の神により頼(イザヤ50:10)」むことでは
ないでしょうか。神のことばを聞いて従う時、神の祝福は私たちに与えられるのです。
「わたしは、あなたがたとともにいる」(13)保証は、なんて大きな救いでしょうか!!
この感動がイスラエルの人々の心を奮い立たせ、神殿再建が再び始まったのです。
心奮い立たせて、神は御心を遂行させてくださいます。
.私たちも日々の生活の中でまず、現状をよく考え、神のことばに聞き従う、実行する
者とならせて頂こうではありませんか。その時、私たちは失意、無気力、怠慢などから
解き放たされ、神のことばに平安と喜び、確信が与えられ・・心奮い立つ時が与えら
れるのです!!
9月11日聖日礼拝 
説教題
      「主が私と共にいてくだされば」
聖書箇所
    ヨシュア記14章6〜15節
カレブは、イスラエル12部族のユダ部族の族長であり、モーセによる出エジプト
の中にいた1人でした。カレブの人生の中で起きた2つの出来事を通して、カレ
ブの信仰を学びます。
@「私の神、主に従い通した」信仰(7節)
これは口語訳で「自分の信じるところ」と訳されています。「心の中にある」
「信じるところ」それは、まさしくその人にとっての「生き方」となるのではないで
しょうか。カレブにとっての「心の中にある」のは何であるか。カレブが40歳の時、
主がモーセを通して命じられた12人の族長が約束の地カナンを探りに行きま
す(民13:1~14:25)。そこで見たのは「まことに乳と蜜が流れて」いる、果物も
実っている地でしたがカレブ以外の族長たちは「あの民のところ(背の高い者たち)
に攻め上れない」と目に見える恐怖に陥ってしまったのです。この恐れが不信仰と
なり、荒野で40年間さまようことに(民14:26~37)なったのです。その中カレブは「私
たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができる」「主が私た
ちとともにおられるのだ」と強く主張したのです。神の約束は必ず成就するこという
カレブの心の中にあった神への信頼、確信が、どのような時にも「私は私の神、
主に従い通しました」の生き方になっていったのです。
A「しかし、主が」の信仰(12節)
85歳になったカレブが「私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日
常の出入りにも耐えるのです」と身体は壮健であることを宣言しています。旧約
時代は今より長生きしているから…当たり前!ではなく、旧約時代も確かに年齢
を重ねると、全般的な機能の低下を経験している(伝12:1〜5)のです。カレブに
とって85歳になる歩みの中で、戦いと労苦の日々であったことでしょう。しかし壮健
であること、さらに「この山地を私に与えてください」と先住民がいるにも関わらず、
神の約束を信じ求める勇気と積極的な姿に圧倒されます。カレブの姿を通して
圧倒されるのも、カレブの揺るがない信仰の力強さがあるからではないでしょうか。
「主が私と共にいて」下さることが確かな信仰となっているのです。カレブの信仰に
よって、ヘブロンもカレブの相続地となりました。
40歳、85歳のカレブの「私は私の神、従い通した」信仰の姿を通して、一貫して言える
のは、カレブを奮い立たせているのは「主が共にいてくだされば」の神への信頼と
確信です。私たちも目の前の恐れに支配されることなく、常に「主が共にいてくださ
れば」の神への信頼と確信によって、祝福を勝ち取っていく者とならせて
頂こうではありませんか!
9月4日聖日礼拝 
説教題
      「救いの系図」
聖書箇所
    マタイの福音書1章1〜17節
系図」はユダヤ人にとって血の純潔の潔白を意味し「神の民」であることを示す
重要な文化の1つでした。また旧約時代から預言されていたイエス・キリストの
救いが成就する、旧約時代から新約時代への大きな節目です。「救いの系図」
から、私たちが見るべきものは何であるかを学びます。
@アブラハムからダビデまで14代(1〜6a節)
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いな
る者としよう」(創12:2,3)と「祝福の基」となる祝福を約束されたのがアブラハム
です。これは神が人類を罪の中から救うために、アブラハムとその子孫である
ユダヤ民族を選び、彼らを通して全人類に福音が伝えられるという意味です。
この祝福は選民イスラエルだけでなく異邦人を含め、時代を超えた私たちに
まで約束されているのです。マタイはイエスが「アブラハムの子孫」(1)であるこ
とを言うことにより、イエスこそ神がアブラハムに対して約束されたことを成就
するため来られた方であるということを伝えたかったのではないでしょうか。
Aダビデからバビロン移住までが14代(6b〜12節)
この約束は王国時代のダビデまで続きます。ダビデはユダヤ人の歴史で最大
の王となりました。またダビデの子孫から救い主が出る(Uサムエル7:8?16)とい
う神の約束があったのです。ダビデ王国が神の約束どおり「その王国の王座を
とこしえまでも堅く」立てられていくと思いましたが、預言者によって罪を指摘され、
悔い改めを迫られながらも心を頑なにしていた人々。ダビデの子ソロモンの死後、
王国は2つに分裂します。やがてはアッシリヤ、バビロンに滅ぼされ長い捕囚時代
へと展開されていきます。その中ダビデの子孫を通して救い主が現
れる預言(エレミヤ23:5,6)を信じ、救い主を待ち望む信仰が生まれたのです。
Bバビロン移住からキリストまでが14代(16,17節)
捕囚時代となり、神に捨てられたかのような、神の祝福からこぼれ落ちたかの
ように感じてしまいます。アビウデ(13)からヤコブ(15)までの名も旧約聖書に記録
はないのです。しかし、最後のヨセフから「キリストと呼ばれるイエス」が起こされ、
神の「祝福の基となる」約束は成就される時へと導かれていっていたのです。この
系図に4人の女性タマル(創38章)、ラハブ(ヨシュア2:1〜24,6:22〜25)、
ルツ(ルツ1〜4章)、ウリヤの妻(Uサムエル11〜12)が記されています。不道徳ゆ
えに罪を犯し、異邦人ゆえの暗い過去を持っていた彼女達は、信仰によって系図
に記される恵みが与えられたのです。イエス・キリストによる完全な救いによって、
神の「祝福の基となる」約束は成就されたのです。主の御名を賛美致します!
8月28日聖日伝道礼拝 
説教題
   「あなたの人生の土台は何ですか?」
聖書箇所
    マタイの福音書7章24〜29節
今日の聖書箇所は、イエス様がお弟子さんたちに向けて語られた山上の垂訓
(マタイ5章〜)全体の結びであり、2種類の土台のたとえをもって話されました。
2人の人が家を建てます。1人は岩の上、1人は砂の上です。皆さんはどちらを
選びますか?また1人1人が建てる家とは人生そのものであり、生涯かけて私た
ちは自分の人生において様々な出来事や経験を通して「選択」をし、自分の人
生を築いていきます。つまり自分の築く人生の家(1つの枠)の中に生きるのです。
ですからパウロも「どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければな
りません」(Tコリント3:10)と言っています。このことは宗教関係なく、自分の人生
(家)をしっかりと築きたいと1人1人が求めていることではないでしょうか。2種類の
土台について学び、自分にとっていのちの選択をする時とならせて頂こうではあり
ませんか。

@砂の上(26)
砂の上とは「土台なしで地面に家を建てた」(ルカ6:49)ともあります。イスラ
エルは雨季があり、普段乾いた砂漠のような土地にくっきりと川の場所があるのです。
雨季になると突如鉄砲水の通り道になり、岩を削り取る濁流が通るからです。乾いた
川底を見て、これは最適な場所と目先の事だけを考え、土台を軽んじた事により思い
がけない濁流によって家は倒れてしまいます。そこで「愚かな人」とイエス様は言われた
のです。「砂の上」つまり「わたしのことばを聞いてそれを行わない」人であり、この地上
において自分の知識、義、富などに頼って生涯を送る生き方です。
A岩の上(25)
自然災害の事も含めてしっかりと先を見据えて、地層の岩石を掘ることを選択した「賢い
人」の家は、嵐がきても耐えることができます。これは一目瞭然ではないでしょうか。私たち
の人生の土台、それは岩にすべきである!とイエス様は教えて下さっているのです。「岩と
はキリストです」(Tコリント10:4)と聖書に明確に書かれています。「岩の上」つまり、イエス様
に頼って「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う」生き方です。その時私たちの人生に
おいて、何か嵐のような出来事があっても私たちは崩れることなく、しっかりと生きていくこと
ができるのです。
「岩の上」であるイエスキリストを頼って生きていくことが「いのちの選択」になることを神様は
約束して下さっています。「わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは
脂肪で元気づこう。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは
生きる」(イザヤ55:2,3)。人生の土台としてイエス様のことばに聞き従って行こうではありませ
んか!神の祝福が約束されているのです!

8月21日聖日礼拝 
説教題
      「希望を与えて下さる神」
聖書箇所
    ローマ人への手紙15章7〜13節
昔も今も変わらないのが人間中心となったこの世界の歴史の積み重ねであり、年々
問題が大きくなり希望が持ちにくくなっている気配を感じないではいられません。では
どうしたらよいのでしょうか。聖書で言う希望は、自分で作り出すものでなく「望みの神」
つまり希望を与えて下さるのは神であると明確に言っています。私たちに「希望を与え
て下さる」ために神はイエス・キリストを、お遣わし下さいました。イエス様の生涯によっ
て示された神の栄光、神の真理は何でしょうか。
@互いに受け入れる(7,8)
ローマの教会では強い者(異邦人のクリスチャン)と弱い者(ユダヤ教から改宗したユダ
ヤ人のクリスチャン)との間に対立があったのです。両者の一致も緊急の課題でした。
対立がある所には軽蔑や憎しみ、裁きあい、争いで満ち溢れます。対立がある所に希
望はあるでしょうか。そこでまず「互いに受け入れる(心から歓迎する)」ことをパウロは
勧めています。ユダヤ人には神の約束が真実であることを明らかにするため、異邦人
にはあわれみを与えるためにイエス・キリストは、両者のしもべとなられた(8)のです。相
手がどのような状態であってもイエス様は心から歓迎して下さり、寄り添って下さり、十
字架を通して1人も滅びないように永遠のいのちへの道を開いて下さいました。私たちも
イエス様によって受け入れられたのですから「互いに受け入れる」イエス様の愛を実践
していく者とならせて頂こうではありませんか。イエス様の愛を実践していく時、そこに対
立でなく平和が実現し希望が与えられていくのです。
A神を賛美する(9から11)
「異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようにため」(9)と、今度は異邦
人が救いに導かれることを語っています。異邦人は汚れた者、神に捨てられた民であり
殺しても構わないというのが当時のユダヤ人達の考え方でしたが、ユダヤ人だけでなく、
異邦人も救われてともに神を賛美する時が与えられる異邦人への希望です。アブラハム
に約束された「あなたの名は祝福となる。〜地上のすべての民族は、あなたによって祝
福される」(創12:1~3)。この世界中の人々が救われる世界宣教の祝福の約束です。アブラ
ハムに語られた祝福の約束は、時を超えて今を生きる私たちにも実現し続けているので
す。救われた私たちが望むこと、希望は私たちを滅びより救い出して下さった神を賛美
することでないでしょうか!
B希望に満ち溢れる生き方(12から13)
イエス様が示された神の栄光、真理は世界中のすべての人の救いであり、「希望を与え
て下さる神」を指し示すことでした。また神を信じる者が喜びと平安で満たされるのは聖
霊の力によって希望が溢れるためです。どのような絶望的な状況に追い込まれても神を
信じる時、私たちには必ず希望が与えられ、神を賛美する日々が約束されているのです。
イエス様に倣って私たちも日々「互いに受け入れる」「神を賛美する」生涯へと「希望に満
ち溢れ」て突き進もうではありませんか!
8月14日聖日礼拝 
説教題
      「堅く信仰に立つ」
聖書箇所
    ダニエル書6章16〜22節
   Tペテロ5章8〜9a節
ダニエルは預言者ではなく、政治家として活躍しながら神のメッセージを語り、神の幻を
見て伝えるという大きな働きをしました。そのダニエルを他の高官たちが妬み、ダニエル
を失墜させるために、ダニエルの真実な信仰生活を逆手にとって罠にはめることにしま
した。王崇拝を強固にする法律を提案し、王の気を良くさせ署名させ、偶像崇拝をしない
ダニエルを処罰へと追い込む作戦でした。この作戦は順調に進みダニエル達は、獅子の
いる洞穴に投げ込まれてしまったのです。しかしダニエルの「堅く信仰に立つ」という姿勢
は変わりませんでした。ダニエルを通して現わされた「堅く信仰に立つ」姿勢を聖書から
学びます。
@いつも仕える(ダニエル6:16、20)
「あなたがいつも仕えている神」と王はダニエルに話しかけます。王から見てもダニエル
が「いつも仕えている」と捉えることができたのも、日々の生活でダニエルがどのような時
にも、自分の信仰の姿勢を変えないでいたことが伝わってきます。王崇拝を強固した時
にも「いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝」(6:10)していたの
です。ダニエルのこの姿勢はどこからきているのか。バビロンに連行されたのが605年な
のでヨシヤ王の時代に生まれ育ったことがわかります。621年にヨシヤ王による宗教改革
(U列王23:1〜30)は「主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、
主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行
する」と誓ったものでした。その影響を受けたダニエルにとって神のみを崇める、神の支配
を信じることが「いつも仕えている」姿勢となり、異国の地で神以外をも恐れない勇気となっ
て、信仰を貫き通すダニエルの信仰姿勢として築き上げられたのではないでしょうか。
A立ち向かう(Tペテロ5:9)
私たちのこの地上に置いての敵は「ほえたける獅子のように、食い尽くすべきもの」を捜し
求め、滅びへの道へと押し出そうとする悪魔ではないでしょうか。悪魔に対して神は「身を
慎み、目をさます」時に「立ち向かう」ことができると言っています。誘惑に陥らない為にも
身を慎む:酒に酔いしれたように無感覚な状態になってはならない。肉眼が覚めているだ
けでなく、心の目も覚めるべきである。その時にこそ私たちを通して神の栄光が現わされる
のです。私たちも自分が気づかないうちに思いがけなく、ほえたける獅子に囲まれているの
です。ですから「いつも神に仕える」者となり、揺らぐことのない神の救いにしっかりと踏みと
どまる者とならせて頂こうではありませんか。神を信じ「いつも仕える」ことが、悪に「立ち向
かう」ことが、生ける神の御名が崇められる時となるのです。ハレルヤ!!
8月7日聖日礼拝 
説教題
      「これでは終わらない」
聖書箇所
    イザヤ書43章18〜21節
イザヤ43章は「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」と神の臨在と救済を示す
神のことばから始まっています。聖書には神の救いが明確に書き記されています。
イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から、モーセによって連れ出された「第一の
出エジプト」。バビロン捕囚生活を強いられていたイスラエルの民がペルシャ王ク
ロスよって解放された「第二の出エジプト」。しかしこれらの救いは完全なる救いで
はなかったのです。イザヤが語る「これでは終わらない」完全なる救いは「第三の
出エジプト」です。「これで終わらない」完全なる救いについて学びます。
@先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。(18)
出エジプトの奇跡をなさった神は、不思議なことに「思い出すな、考えるな」
と出エジプトを忘れるように勧めておられるのです。出エジプトを体験した人々に
とっては、忘れることのできない、この思い出の上に人々の宗教は成り立ち、希
望が与えられていたのではないでしょうか。しかしかつての経験ばかりにしがみつ
いていて「私たちはあのエジプトから救い出された栄光の民だ」と言った思いが「れ
んがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の
木でこれに代えよう」(9:10)と言って神の裁きをあざ笑う高ぶり、傲慢となり、神に背
を向けてしまう罪につながっていったのです。私たちクリスチャンは、どんなに素晴ら
しい神のわざを経験しても、その恵みを神におささげし、神に向かっていつでも新し
いわざを期待していくべきではないでしょうか。
A新しい事をする.(19)
「新しい事をする、設ける」とあるように、イザヤ書には「創造する神」が強調されて
います。またこの「新しい」は、時間的、方法論的、現象的な面での「新しさ」ではなく、
全知全能なる神が救いの御手を伸ばして生じる創造のみわざをいう「新しさ」なので
す。これがまず、イエス・キリストを通して完成した救いであり、また日々新たに与えら
れる神の救いのみわざなのです。神は私たちを「出エジプト」「出バビロン」の時のよう
に,「罪」の奴隷から解放してくださいます。それは、目の前にある荒野、荒地をくつが
えす創造のみわざによる救いです。出バビロンでは「神があなたがたのしんがりとなら
れる」(52:12)から、堂々と出て行くように、とイザヤは預言をしました。「これで終わらな
い」神の救いを待ち望みつつ、恐れず日々歩ませて頂こうではありませんか。主の御名
が崇められますように!!

感染予防の為礼拝中止でしたが、8月3日お祈り会、
8月7日教会学校、礼拝を再開します。自粛される方の
為に8月いっぱい日曜日の朝からホームページに
メッセージを掲載します。


7月31日聖日礼拝 (感染予防の為礼拝中止)
説教題
      「勝利を収めるのは誰か」
聖書箇所
    イザヤ書41章1〜7節
新 聖 歌 216 ここに真の愛あり
交  読 49   イザヤ書第40章
聖  書     イザヤ41章1〜7節
新 聖 歌 459 世びとは敵に

 イザヤ書41章は「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。
近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう」と力強い神の
ことばで始まります。これは「さあ、裁判の証人になるのだよ。これからわたしのわ
ざを見よ」と神がイスラエルの民に、そして私たちに語られたことばです。裁判長と
しての神が、神の民(イスラエル)の敵:バビロンを被告とし、その敵から必ず勝利を
収めるというのです。実際200年後にこの預言が実現し「彼の行く先々で勝利を治め
させる」姿は、何者にも妨げられず進軍し、国々を征服する破竹の勢いでした。バビ
ロン帝国から救い出されることがイスラエルの民にとって1つの勝利でした。私たちも
人生において様々な出来事、問題、罪…に対して勝利を得ていく必要があるのでは
ないでしょうか。「勝利を収めるのは誰か」、今日の聖書箇所から学びます。
@わたしの前で静まる人(1)
「わたしの前で静まれ」とは、神の厳粛な裁きを受け止めてひれ伏すことであ
り、神が共におられる臨在を指し示すことです。破竹の勢いで国々を攻め、バビロン
から解放したペルシャのクロス王に目を注ぎやすくなりますが、神の前で静まる人は
違うのです。神の前で静まる人は、その背後に働かれる神を見るのです。出来事の
積み重ねによって時間が過ぎ、私たちの人生が展開されて行きます。その中で、私た
ちは何を見ているのでしょうか。どのような時にも、どのような状態においても、まず私
たちは、そこで働かれている神の臨在、神が共にいてくださることを信じ、神の前にひ
 れ伏すことなのです。
A神の御手の中にあることを信じる人(4)
「わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ」(4)、つまり神
が初めを定め神が終わりを決定されるという意味であり「すべては神の御手にある」と
信じる事。神の御手にあって、敵が打ち砕かれて勝利を得る時でさえ神に背を向ける
人々は互いに助け合い「強くあれ」(5~7)と言って偶像造りに精を出します。それほどま
でに人間の内には神を神と認めない罪は根強いのです。
 私たちは先ず目の前の事実でなく神の臨在を信じ、すべて神の御手の中にあること
を感謝していこうではありませんか。私たちは、勝利を収める時が与えられるのです。
神の勝利は徹底的な完全なる救いです。イエス・キリストによって完全なる救いが成就
しました。神が今日も私たちの勝利の為に語りかけて下さっているのではないでしょうか。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」ハレルヤ!!
7月24日聖日伝道礼拝 (感染予防の為礼拝中止)
説教題
      「御手の中で」
聖書箇所
    詩篇62篇1〜2節
新 聖 歌209  慈しみ深き 
交  読34    詩篇第108篇
聖  書     詩篇62篇1〜2節
新 聖 歌474  主がわたしの手を

 父が「神の庭」で書いていた1ページを姉が共有してくれました。タイトルが強烈で
ありましたが、何か共感できるようなタイトルでした。詩篇62篇1節「私のたましいは
黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」より「激しい沈黙」です。沈黙…
だけでも十分、その時の状態が伝わってきますが、さらに「激しい」によって沈黙は
沈黙でもさらにその奥深さを思わざるを得ません。父:高橋養二師は次のように言っ
ています。「沈黙には、平穏な沈黙と激しい沈黙とがあります。ここでダビデが言う
沈黙は、静かな平穏なものではないでしょう。なぜなら「襲う」「殺そうとしている」「た
くらんでいる」「偽り」「のろう」者がいるという彼を取り囲んでいる、激しい状況がある」
からです。このように心揺れ動き、時間が止まった様な「恐ろしい危険に囲まれて、
恐怖と敵意で渦巻き騒ぐ」時、皆さんはどうしますか?目を閉じて、心静めて想像して
みようではありませんか。

 目を閉じると暗闇です。一筋の光もありません。人の気配も感じず、ただ一人になり
ます。暗闇でも光を探しませんか。自分がこの暗闇から救われる手立てはないものか。
しばらく目を閉じていると、なぜか自分を取り囲んでいる恐怖…現実にとらわれること
よりも、自分を救い出してくれる方に激しく祈り求める、心を注ぎだすのではないでしょう
か。ダビデも目の前の自分を恐怖へと突き落とす出来事でなく神様に心の焦点をあわせ
ていきます。神の救いは真であることを確信していたからです。神の愛は永遠です。私た
ちの状態にあわせて変わるような愛ではないのです。既に私たちは神の御手の中に、神
の時の中に生かされているのです。

御手の中で(In His time)
御手の中で すべては変わる賛美に 
わが行く道を導きたまえ あなたの御手の中で

御手の中で すべては変わる感謝に
わが行く道にあらわしたまえ あなたの御手のわざを    ひむなる114より
                      
 神の御手の中に生かされている、つまりすべて神様にお委ねをすることです。すると
涙が、不安が、悩み…全て賛美に、感謝に変わっていくことに気づかされます。皆さんも
神様の御手の中ですべてをお委ねする生き方に、方向転換してみませんか!
7月17日聖日礼拝 
説教題
      「勝ち抜く祈りの力」
聖書箇所
    ルカの福音書18章1〜8節
17章後半には「神の国はいつ来るのか」と言った質問を受け、イエス様は「神の国は、
あなたがたのただ中にある」と答えられました。つまり主に従う者たちの内に神の支配
としてすでに実現している、そしてこの神の支配が究極的に完成して姿を現すのは、
イエス・キリストの再臨の時であり神の裁きの時なのです。ですから私たちクリスチャン
は再臨を見据えて「いつも祈るべきであり」「失望してはならない」ことをやもめの姿から
お話しくださいました。ではやもめの相手は何を指し示しているのか。その祈りの力は
何であるか学びます。
@「相手」は何を指し示しているのか
「私の相手をさばいて、私を守ってください」と言っていたやもめの姿から、
相手によって、やもめが恐れと恐怖、不安で満たされ、ただひたすら救いを求めている
執拗な求めであることがわかります。再臨を見据えた時の「相手」は患難時代「そのと
きには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもな
いような、ひどい苦難がある」(マタイ24:21)を指し示します。また日々の生活においては
数々の祈りの課題です。肉体的、経済的、人間関係…と私たちは苦難という「相手」と
向き合うのではないでしょうか。
A勝ち抜くための祈りの力は何であるか
聖書で「やもめ」は、すべての貧しい者、弱い者の象徴でした。この時代の裁判では、
原告はコネと賄賂を使って有利な判決にもって行くのでなければ。訴訟を解決する望み
はありませんでした。つまりやもめには、これといった貯えもなく、有利な判決を引き出す
ことは、どう考えても無理なことでした。しかし彼女には、一つの武器があったのです。
その武器は裁判官を「うるさくてしかたがない」「面倒をかける」「悩ます」と言った気持ち
で満たしてしまうほどのやもめの執拗な求めでした。日々の生活の中で救いの為に、
癒しのために、道が開かれるため…と神に祈ります。その中で私たちが「祈る」ことが
分からなくなる、祈りをやめたくなる時はないでしょうか。それは何年も祈り続けても答え
が神から与えられない時。時には山の頂上が見えているのに、自分がしっかりと登って
いるのにも関わらず頂上にたどり着けない状態。しかしあきらめない執拗な求めは、自分
の心を注ぎだす信仰の祈りであり神にすべてを委ねる祈りとなるのです。その時、神の
みわざが、神の国が実現していくのです。「はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(8)
というチャレンジに応える者として日々神の国、みわざをあきらめず祈り求める者となら
せて頂こうではありませんか!
7月10日聖日礼拝 
説教題
      「一致の原動力」
聖書箇所
    ヨハネの福音書17章20〜26節
大祭司イエスは、弟子たちの宣教によってクリスチャンとなった
人々、つまり教会の一致の為に祈られました。今日の短い箇所においてイエス様は
「一つとなる」ことを5回も繰り返し祈り求めておられます。その姿からも「一つとなる」
ことが、いかに重要であるかが伝わってきます。イエス様が言われているクリスチャ
ンにとっての「一つとなる」とは何を指し示しているのでしょうか。また、この目的を全
うするための原動力を聖書から学びます。

@「一つとなる」目的(21〜24)
イエス様が言われる「一つとなる」は、形式的、表面的、組織的な一致ではないのです。
父なる神は救いの為に御子イエスを遣わし、御子イエスの十字架によって救いが完了
し、慰め主、助け主である聖霊によって、真理に導かれています。三位一体の神の交
わりの中で「人々を救う」と言った同じ目的をもった働きが実践され続けている。そして
そこには、ひとりも滅びることなく永遠のいのちを得るための「神の愛」があることを忘れて
はいけません。父なる神と子なるイエスの関係のように「あなたがわたしにおられ、
わたしがあなたにいる」(21)ことであり「わたしの栄光を、彼らが見るようになるため」(24)
である、とその真意が明確に書かれています。イエス様は弟子である私たちクリス
チャンが「一つとなる」ための目的は、神の愛が伴った「人々を救う」ためなのです。
A「一つとなる」原動力(24〜26)
イエス様が神から遣わされた救い主であることを信じているクリスチャンはさらに、
神の救いが実現していきますように、人々が救われますように心一つとなっていきます。
しかし一致は、人間同士の関係によって破壊もされてしまいます。クリスチャン同士が
「一つとなる」ことを実践していくための原動力はお金や地位、名誉でもないのです。
「神の愛」(24)なのです。「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたために」
とイエス様も神に愛されていることに触れて祈られています。「神が私たちを愛し、私た
ちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるの
です。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちも
また互いに愛し合うべきです」(Tヨハネ4:7~11)。一致の原動力は、イエス様を通して
現わされた神の愛です。幸手教会のビジョン「十字架を仰ぎ、神を愛し、人に仕える」
であり、まさしく「一つとなる」時の私たちの姿そのものではないでしょうか。ここに
「神の愛がある」一致は、人々の救いの為であり神の、イエスの、聖霊の喜びとなり、
私たちの喜びとなるのです。
7月3日聖日礼拝 
説教題
      「大祭司イエスの祈り」
聖書箇所
    ヨハネの福音書17章6〜19節
旧約時代、祭司の務めは神と人の間の橋渡しをする役目であり、祭司の中の大祭司
であられるのは、完全なる救いを完了してくださったイエス様です。今日の聖書個所は
イエス様の告別説教の後の祈りであり「すでに世に勝った」(16:33)と確信をもった大胆
なとりなしの祈りです。ご自身の為に祈られた(1?5)後、神から与えられた者であり、
みことばを受け入れている弟子たちの為に祈られました。このとりなしの祈りを通して
私たちが与えられている使命を学びます。
@キリストと1つとなる(6~13)
弟子たちは神から与えられた存在であることを断言されている。弟子たちは1人
1人イエスの招きに応答して弟子となったが、その背後には常に神の働きがあったこと
を言われているのです。また弟子たちに「御名を明らかに」した、つまり神がどのような
お方であるかを知らせたのです。イエス様のわざと教えが「神からのもの」と信じ、イエス
のうちに神を認める、イエス様が神から遣わされた方であると受け入れている人こそ
「弟子」なのです。それゆえに神を信頼し「あなたのみことばを守」る生き方へと展開し
ます。神のことばは救いの言葉であり、そこで守る、聞き従う生き方は、救いの為に生
きる生き方でありキリスト・イエスと心1つになることです。この関係があるからこそ「わ
たしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのもの」であり、「わたしは彼ら
によって栄光を受け」(10)る、主に栄光を帰す時、主の喜びが私たちの間で全うされる
のです。
A神に助けを求める(14~16)
みことばを受け入れないこの世から、悪の支配から弟子たちを取り去られるよう
には求めなかった。逆に弟子として勝利を得るように「みことばを与えて」くださり、イエス
の証人としてしっかり立つことができるように祈られたのです。「正しい者の悩みは多い」
(詩34:19)とあるように、神との関係が回復し、正し関係とされたキリスト者にとって、この
世では悩みが多い、悪との戦いが多いのです。イエス様はご自身がこの世からいなくな
るので、神に悪からの守りをお願いしたのです。神は「すべてから彼を救い出される。主
は彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない」(詩34:19.20)お方です。
この地上において私たちも、神の守りを信じ、助けを求める者とならせて頂きたい。
B真理によって生かされる(17^19)
真理によって…「イエス様によって生かされる」つまり「キリストが傷のない
ご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たち
の良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とする」
(へブル9:11?15)生き方に生かされるのです。それはこの世、悪から聖め別たれること
です。キリスト・イエスの証人として聖別され、真理によって導かれ召しを全うすることを
イエス様は、弟子である私たちに願っておられるのです。
 大祭司イエスの祈りによって与えられた使命に日々、生きる者となりますように。
6月26日聖日伝道礼拝 
説教題
      「輝く明けの明星」
聖書箇所
     マルコの福音書6章45〜52節
イエス「この人」は誰であるのか。この問いは過去だけでなく今も、そして未来も
問われ続けていくのではないでしょうか。イエスは誰であるのか、黙示録の最後
でイエスはご自身のことを「輝く明けの明星である」とはっきりと断言されておられ
ます。「明けの明星」つまり「ヤコブから1つの星が出る」(民24:17)とあるようにイエ
スは神によって約束された星、救い主であることを言っています。また明けの明星
は一番明るい星で、夜の闇を追放して朝の到来を告げるように、イエスによって罪
と死の闇が消えていく、完全なる救いを指し示しているのです。きょうの聖書個所か
らも「輝く明けの明星」であるイエスの姿を学びます。
@まず祈られた主(46)
イエスの奇跡の1つ「5つのパンと2匹の魚」で満たされた人々は、イエスがロ
ーマの圧政から救い出してくれる方と信じ期待して、イエスを直ちに王にしようとして
いたのです。そこで群衆が熱狂する前に彼らを鎮めて解散させたイエス。多くの働
きをされ心身共に疲れもあったと思い浮かべますが、まず求めたのは「祈る」ことで
した。聖書にはイエスが祈られた姿が多く記されています。祈りを通して神の時を常
に備えておられるのです。
A導いて下さる主(50)
弟子たちは夜中の3時ごろ向かい風に悩まされ漕ぎあぐねていたのです。弟子たち
は働きの後の休息の時として船に乗ったはずが、船は暗い夜、揺れる波の上で木
の葉のごとく激浪にもてあそばれた状態になってしまったのです。私たちの人生に
おいてもこのような、漕ぎあぐねている状態はないでしょうか。私達の経験、技量、
才能では解決できない、不安、恐れに満たされて、疲れ切ってしまう状態です。船は
暗い波の上を漂い続けているのです。私たちはこのような時、孤独を感じてしまいや
すいですが、私たちの姿を見ていて下さる(48)お方がおられるのです。さらに救うた
めに近づいて「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と導いて下さるのです。
その時、不安や恐れによって見失っていた自分を取り戻して、今自分がなすべきこと
は何かが見えてくるのではないでしょうか。
B舟に乗り込まれた主(51)
イエスが舟に乗りこまれた時、弟子たちは「喜んで迎えた」(ヨハネ6:21)のです。そして
風がやんだように私たちの心にも主を迎える時、すべての風波はやみ平安と喜びが
与えられるのです。この地上での風波から私たちを完全に救うために自らおいで下さ
るのが再臨の時です。夜中の3時の夜更け。これを霊的に捉えると「夜はふけて、昼が
近づきました」(ローマ13:12)。夜更け、それは再臨の時が近づいていることを意味して
います。
 私たちは、どのような状態にあっても恐れず「輝く明けの明星」であるイエスを待ち望
む者とならせて頂こうではありませんか。「輝く明けの明星」は1人1人に約束されている
完全なる救いなのです。
6月19日聖日礼拝 
説教題
      「ただ信じる」
聖書箇所
     創世記12章1〜9節
神の救いの歴史が人類全体という視点からの記述で聖書に書かれていま
したが、この12章からイスラエルの族長たちを通して救いの歴史の事実が
展開されていきます。まず主は、75歳になるアブラム(後のアブラハム)に
「わたしが示す地へ行きなさい」(1)と仰せられました。アブラムは「どこに行
くのかを知らないで、出て」(へブル11:8)行ったのです。アブラムはなぜ、いで
立つことができたのでしょうか。アブラムの心を探りたいと思います。
@唯一の神を信じていた(1〜4)
神がアブラムに語りかけているこの箇所で、神を「主」と書いてあるこ
とからも神とアブラムの関係が明確に伝わってきます。「主」とは、自分にとっ
て救い主であるという信仰告白が含まれているのです。他の箇所でアブラム
は「神、主よ」と呼びかけています。アブラムの父テラは「ほかの神々に仕えて」
(ヨシュア24:2)いて、偶像崇拝の世界に生きていました。初め人類は「唯一神」で
したが、罪によって神との関係がくずれ、多神的偶像的文化が発展していった
のです。しかしアブラムにとって神は唯一であり絶対者だったのです。この思い
が明確に現わされているのが「主がお告げになったとおりに出かけた」(4)アブラ
ムの行動です。故郷を離れ、親族の関係を断ち切り、行先の不明確さ、自分自
身の老齢といった現実もありましたが、神を「ただ信じ」て行動に移したのです。
ここに神とアブラムの関係の確かさがあるのです。
A主のために祭壇を築いた(7〜8)
 「カナンの地に入った。〜シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た」(5,6)
とは「カナンの全土を歩かせた」(ヨシュア24:3)とあるようにアブラムにカナンの全
土が与えられることのしるし(創13:17)です。またそこにカナン人がいましたが「あ
なたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた主のことばをただ信じた
のです。それゆえに「祭壇を築き、主の御名によって祈った」(8)とあるように主を
礼拝しました。この時代祭壇が築かれたのは、築いた人が神との特別な関わりを
持った出来事を記念するためでした。祝福の約束を与えられたアブラムは、その
応答として祭壇で自分を神に捧げたのではないでしょうか。神の祝福に与かるた
めには、今の自分の生き方から離れる、断ち切ることが必要だったのです。アブ
ラムはすべての必要を満たすことのできる、祝福を与えて下さる唯一の神を「ただ
信じ」、神に従って生きる道を選んだのでした。その思い全てがこの祭壇によって
現わされているのではないでしょうか。
アブラムの信仰が個人的なもので終わるのでなく、民族の、神の民の救いの歴史
が展開していくのです。「あなたの名は祝福となる」と私たち1人1人にも神は約束を
与えて下さっています。この地上において神をただ信じて、生涯を全うする者となら
せて頂こうではありませんか。

6月12日聖日礼拝 
説教題
      「救いに生きる」
聖書箇所
     使徒の働き2章36〜47節
イエス様のことを3度も「知らない」と言ったペテロでしたが、聖霊に満た
されたペテロは「声を張り上げ」「人々にはっきりと」神の救いについて語っ
たのです。神との関係が罪によって破壊された私たち人間は「救い」が必
要であり「この曲がった時代から救われなさい」(40)と勧めました。救われ
るためにまず神の「ことばを受け入れ」(41)ることから始まり、「救いに生き
る」生き方に展開していくのです。「救いに生きる」生き方を具体的に学び
たいと思います。
@ 悔い改めに導かれる(36~41)
 ペテロは説教で「イエスを、あなたがたは十字架につけた」(36)ことをはっ
きりと言いました。これは人間の罪をイエスが身代わりに引き受けてくださっ
たことを意味しています。イスラエルの人々はこれを聞いて心刺された、つま
り非常に激しい衝撃を受けたのです。ペテロの説教を通して、人々の良心に
罪の自覚が生じたのではないでしょうか。人々は「私たちはどうしたらよいで
しょうか」と神の前にひざまずき、悔い改めざるをえない状態でした。そこで
ペテロは「悔い改めなさい」と、イエスを救い主として認めなかった生き方から
「イエスは主である」と180度の方向転換をする生き方、悔い改めに導かれる
ことが「救いに生きる」ことなのです。イエスの宣教開始においてもまず「悔い
改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)と言われました。「自分に罪
がない」と言うのでなく「自分の罪を言い表す」悔い改めに導かれることを恥と
思わず、恵みとして受け取る時、私たちの心は平安と喜びに満たされるのです。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちに
ありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方です
から、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめて下さいます」(Tヨハネ1:8,9)
A信仰に導かれる(42~47)
信仰、それは神の救いの「ことばを受け入れ」(41)て、バプテスマを
受け、聖霊によって導かれる生き方です。この生き方をしている「者たちはみな
いっしょに」(44)いて、共に喜ぶ場として、神様は私たちに教会を与えてくださった
のです。教会では「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをし
ていた」(42)とあります。それはイエスの十字架による救いによって「心を一つに」
(46)するためではないでしょうか。「使徒たちの教えを堅く守」るとは、使徒を通して
語られた神の教えに生きること。「交わり」とは、神の臨在を覚えての交わり。「パ
ンを裂く」ことにより、イエスの十字架による救いを深く覚えつつ、イエスにお会い
する時とする。祈りは、イエスとの交わりの手段でありました。これらの信仰に導
かれる時、私たちは共に心を一つ(イエスが主である)にして、キリストを証する者
とならせて頂くのです。
 救いに生きる生涯へと押し出してくれるのが、聖霊の導きであり、私たちの喜び
であり、すべての民に好意を持たれる姿なのです。
6月5日聖日礼拝 
説教題
      「混乱と回復」
聖書箇所
     創世記11章1〜9節
   使徒の働き2章1〜4節
混乱(ヘブル語でバベル)と回復は、神様がこの地上に与えられた歴史
事実です。この事実を比較することによって、今日のペンテコステ(聖霊
降臨)礼拝において主の御名が崇められますように。
@混乱(創世記1:1〜9)
全地(古代の人が知り得る全ての地)が「一つのことば、一つの話しこ
とば」(1)だった時代、東の方から人々の大移動があり、シヌアルの地で
いつしか「人の心の思い計ること」(8:21)の悪が「天に届く塔を建て、名を
あげよう」(4)と神ではなく、自分たちの名のために建て始めたのです。こ
れは人間の高慢野心な姿、神に背を向けた生き方を通して、異教・偶像
礼拝の存在が見えてくるのではないでしょうか。「われわれが全地に散ら
されるといけないから」(4)と、神に背を向ける誤った一致を求めた結果、
神が降りてこられ「彼らのことばを混乱させ」(7)たのです。「混乱」はお互
いの気持ちが理解できず、不信、対立、敵対の関係となり、地の全面に
散ることに。神の御名が崇められるためでなく、人間が崇められる生き方
は「混乱」した状態になるのです。しかし神は「生めよ。ふえよ。地に満ち
よ」(9:1)と言われた祝福の言葉が実現するように、混乱によって生じた
「散った」状態をも祝福の一環としてくださった。それゆえにバベルの塔
における事実をも救いの歴史が再出発する時とされたのです。
A回復(使徒2:1~4)
 イエス様が十字架上で死なれ、3日後に復活されてから50日後の五旬
節(ペンテコステ)のお祭りで世界中の人々がエルサレムに集まっていまし
た。その時弟子たちは、イエス様に「父の約束を待ちなさい」(1:4)と言われ
1つところに集まって祈り求めていたのです。するとみなが父の約束、聖霊
で満たされ「他国のことばで」(4)話しだしたのです。その言葉は福音(イエス
・キリストの救い)のために用いられる、相手の心に届く言葉(ヨハネ1:1)です。
そして多くの人々が「イエスは主なり」と告白したのです。かつてバベルの時
代に、人々は混乱し全地に散っていきました。しかしイエス様によって神との
関係が回復へと導かれ、さらに聖霊が与えられ、キリストを証しする共同体
として教会が誕生しました。私たちを通して、また教会を通して神の御名が
崇められますように。日々聖霊に満たされますように祈り求めていこうでは
ありませんか!
5月29日聖日礼拝 
説教題
      「わたしを見る」
聖書箇所
       
   ヨハネの福音書14章15〜26節
14~16章は「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、ま
たわたしを信じなさい」と語られたイエス様の告別説教です。弟子た
ちを慰め、励まし、また彼らの目を天に向けさせ望みを与えられました。
その中で「わたしを見る」ことが、神を信じる者の生きる力になる(19)こ
とを話されました。「わたし(イエス・キリスト)を見る」とは、どういうことで
しょうか。

@わたし(イエス・キリスト)を愛する時(15節)
 「わたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守る」ことであり、
他の箇所でも言われています。「守る」と言われると私たち人間にとって
難しさ、抵抗を感じますが、イエス様が言われる「守る」は「わたしの愛の
中にとどまる」(15:9~12)ことなのです。イエス様の愛は、私たち1人1人が
「高価で尊い」(イザヤ43:4)存在であり、その愛を十字架で完全に現わし
て下さいました。このイエス様の愛にとどまって生きる時イエス様の戒めが
自分の喜びとなるのです。「イエス様の愛にとどまる」つまり、イエス様の
の体験です。イエス様の愛に触れ、感じることであり、自分の喜びへと
展開していくのではないでしょうか。その時こそイエス様にお会いする「わ
たしを見る」時となるのです。

Aわたし(イエス・キリスト)自身を現す時(12節)
イエス様がご自身を「現す」と言われた時、イスカリオテでないユダ
がすべての人々に現さないのはなぜか質問をしました。そこでイエス様は、
どんな顕現に対しても無感覚なのがこの世の姿であることを言われました。
自分中心に物事を捉える時、イエス様が目の前におられるのに、みわざが
与えられているのに「なぜ、どうして」「神はいない」となってしまうのです。
これは誰にでも起こりえる危険な状態です。その為にも私たちに「助け主」(16)
であり「真理の御霊」(17)である「聖霊」(26)を与えてくださったのです。聖霊は
「すべてのことを教え」イエス様が話されたすべてを「思い起させて」下さる
のです。その時こそイエス様にお会いする「わたしを見る」時となるのです。
 日々の生活のただ中で「あなたは今、何を見ていますか?」と自分に声を
かけてみませんか?イエス様を見る、イエス様にお会いする時となりますように。
5月22日聖日伝道礼拝 
説教題
「必ず生きる」   
聖書箇所
       
    申命記4章1〜8節
申命記はモーセの告別説教であり、説教が主要部分を占めています。
また申命記全体の鍵語となるのが「聞け」「従え」「覚えよ」です。モーセはイスラエル
の民に「必ず生きる」ために必要なことを明確に示しました。自分にとって「生きる」
とは、どういうことでしょうか。聖書で言う「生きる」は、私たちが1人も滅びることなく
「必ず生きる」生き方です。

@神のことばを聞く(1)
 申命記で語られている重要な教えの1つに「主は私われわれの神、主はただ一人
である」(申6:4)と唯一の主であることです。その上で、神が願っているのは「ひとりと
して滅びることなく、永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:16)こと、つまり「必ず生きる」です。
そのために必要なことは「神のことばを聞く」ことである、と言うのです。「聞く」とは、ヘ
ブル語で「聞いて具体的な行動に移すこと」の意味が含まれています。神のことばに
生きることが「必ず生きる」永遠のいのちへとつながっていくのです。歴史の事実を
振り返って、バアル(偶像の神)に従った者は根絶やしに。しかし神にすがって…しが
みついてきた者は生きている!と。神のことばを聞く(聞き従う)時に、人間は神に反抗
してしまうのです。自らの経験、地位、価値観などを優位にし、神のことばに背を向け
てしまいやすいのです。自分のありのままの姿を認めて神の前に悔い改め、神のこ
とばに聞き従う時、私たちは知恵と力を頂き、所有しようとしている未来の地(永遠の
いのち)の真ん中に、知らずの内に歩む者とならせて頂くのです。

A神がいつも近くにおられる(7)
 「神のことばに聞き従う」ことを自分の決断や、力で成し遂げることは難しいことです。
自分1人でできる!と言い切れる方は、神を必要としていないのではないでしょうか。
神の前に救いを求める(悔い改め)があってこそ、神のみわざが大いに実現していくの
です。その為にも神が「近くにおられる」のです。私たちを裁くためでなく、救うために
「いつも、近くに」です。このことをこの地上で実現して下さったのがイエス・キリストです。
イエスの十字架による救いによって、偉大な国民とされたのです。まさしく「このような
神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか」(7)ではないでしょうか。「必ず生きる」生
き方を示して下さった神に感謝します!ハレルヤ!!
5月15日聖日礼拝 
説教題
「神への賛美」   
聖書箇所
       
   ヨナ書2章1〜10節
逃避の預言者、祈りの、服従の、不満の預言者としての姿が聖書から読み取るとが
できるヨナ。神にニネベへ行くように命じられましたがタルシシュに逃れたのです。そ
のタルシシュに向かう途中、海に激しい暴風が起こり、難破しそうになりました。そこ
でだれのせいで、この災いが私達に降りかかったかくじを引くことにしました。すると
ヨナに当たりました。ますます荒れてきたので、ヨナは「私を海に投げ込みなさい」と
言い、彼らはヨナを海に投げ込みました。すると、海は静かになり、ヨナは神が備え
てくださった大きな魚に飲み込まれたのです。ヨナはそれから三日三晩、魚の腹の
中にいました。魚の腹の中で、ヨナはどのように過ごしたのでしょうか。

@祈ったヨナ(1)
 「水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつき」(5)
と言うように、死をも覚悟せざるを得ない状態です。何もできない自然界での恐ろしさ以
上に、ヨナは神の裁きであることも「あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。
〜あなたの波と大波がみな私の上を超えて」(3)と祈りの中で強調しています。死の絶望
の中で、ヨナは祈ったのです。それも神に対しての悲しみ、怒りではなくまず神に「もう一度、
私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」(4)と救いを求めた(悔い改め)のです。ヨナの
祈りには、詩編が9つ引用されています。ヨナは聖書に書かれているみことばを用いて
祈った。つまり、神のことばであるみことばを信じ、みことばには力があることを確信して
いたからではないでしょうか。みことばは祈りの力であり盾です。
 ヨナの祈りは救いを求めた、神の前にへりくだった祈りであり、神のことばを信じた
力強い祈りだったのです。

A神への賛美(9)
 死の絶望の中で、最後の瞬間とでも言うべき時に「主を思い出した」(7)と。思い出した
のは、主のみわざや約束でなく、主ご自身だったのです。「私の神、主よ」ともあるように、
自分にとって神がいかなる存在であるか、神への信頼を思い出した時に、自分の祈りは
神に届いた、という確信に押し出されたのではないでしょうか。その時ヨナは「感謝の声を
あげて」と神への賛美に満たされたのでした。さらに「救いは主のものである」、救いは主
から来ることを確信したのです。ヨナの悔い改めが神への賛美へとつながっていきました。
「私の誓い」(9)は具体的に書かれていませんが、後のヨナの行動を通して知ることができ
ます。それは神の命令に従って、どこにでも行きます、ではないでしょうか。祈りの後にヨナ
は、神の命令によって魚の口から吐き出されました。そして、最初に行かなかった神の命令
「ニネベの町に行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ」に、従ってニネベの町に行っ
たのです。
 私たちも日々の生活の中で、神を賛美するには、まず神の救いを求める悔い改が必要で
あることを学びました。主の前にひれ伏し、神への賛美で満ち溢れさせて頂こうではありま
せんか!
5月8日聖日礼拝 
説教題
「目を開いて、見えるように」   
聖書箇所
       
    第U列王記6章8〜23節
アラムの策略を見抜きイスラエルの王に忠告を与え、アラムの策略は何度も失敗に
終わってしまいます。自分たち中に密告者がいるのではないか、アラム王は怒りに
燃える中、家来が預言者エリシャが策略の失敗の原因であることを伝えました。
アラム王の怒りの矛先は、エリシャに向かいました。多くの馬、戦車、大軍を送り、
一夜にしてエリシャがいるドタンの町を包囲してしまいました。さあ、この戦いの結末
はどうなったでしょうか。
@目が見えない状態(15)
 「目が見えない状態」とは、肉体的に考えると暗闇です。光が全くない暗闇です。
霊的に考えても「目が見えない状態」とは、光がない、つまり救いがないと捉えるこ
とではないでしょうか。アラム王の怒りによって送り出された強力な軍備の大軍が
自分たちを包囲している、逃げ場がない、どうすることもできない押し迫った状態。
召使ががエリシャに「どうしたらよいのでしょう」と恐怖の叫びを挙げます。目の前の
現実のみを見て、何を見るべきか、わからなくなってしまっている。「死の綱は私を
取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。よみの綱は私を取り囲み、死のわなは
私に立ち向かった」(詩篇18:4,5)。これは敵のサウルの手に恐れを抱いていた時の
ダビデの思いです。目の前の現実のみに心を奪われてしまう時、私たちは恐ろしい
恐れ、不安に支配されてしまいます。そしてエリシャの召使のように「どうしたらよい
のでしょう」と叫ばざるをえない、目が見えない状態になってしまうのです。
A目が開かれた状態(17)
 目が見えない状態にいる召使に「恐れるな」とエリシャは言います。これは自信を
持て!ということではなく、見るべきものを見なさいと言う事なのです。そこで「彼の目
を開いて、見えるようにして下さい」(17)と、エリシャは神に祈ります。するとどうでしょ
うか。「火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」(17)のです。これは神
の臨在、守りとは、いかなるものかを幻で見る時が与えられたのです。何か出来事
に合う時、私たちはついつい、目の前の出来事に圧倒されてしまわないでしょうか。
目の前の出来事をしっかりと捉えることも大事ですが、まず私たちが見るべきものは
「火の馬と戦車」である神の臨在なのです。肉の目でなく、霊の目が開かれていると、
どのような時にも神の臨在が最大の武器、力であることを確信し、平安のうちに進め
るのです。
B最大のもてなしをした(23)
 攻めて来たアラムの軍勢は、エリシャの祈りによって目が見えなくなって、イスラエル
の捕虜となってしまいました。エリシャの言葉に導かれて目が開かれた時には、勝利者
としてサマリヤの真ん中に立つ予定でしたが、捕虜として立つことになったのです。しか
し、そこで最大のもてなしを受け、アラムの国に帰ることができました。私達を最大のも
なしで迎えて下さったのは、イエス・キリストです。罪ゆえに滅ぶのが当然である私た
ちに、全き愛イエス・キリストを与えてくださいました。1人でも多くの方が救われるため
にも、キリストの愛をもって最大にもてなしをする者とならせていただこうではありませ
んか。その為にも「わが目を開いて、見えるように」と日々祈ることができますように。
5月1日聖日礼拝
説教題
「からの器を」   
聖書箇所
       
    第U列王記4章1〜7節
エリシャのしもべであった夫が死に、借金も返せないでいると債権者
が2人の息子を奴隷にするためにもうすぐ来る、といった切迫感のただ中でやもめは、
エリシャに救いを求めたのです。エリシャは「あなたのために何をしましょうか」と叫びに
応えた時、やもめは自分の家には何もない事、あるのは油の1つぼであることを伝えま
した。そこで「からの器を」人に借りてでも、数多く持ってくるようにエリシャは言いました。
この箇所から多く学び取ることができますが、今朝は3点学びたいと思います。

@油のつぼが1つある(2)
 夫が死に生活が困窮していた中、エリシャに持ち物を聞かれて「油のつぼ1つしかあり
ません」と答えました。彼女にとっては「1つしか」だったかも知りませんが、神の前には、
そうではないのです。「1つある」ことが大事なのです。イエス様も多くの群衆(約5千人)の
人々に対して、1人の少年が差し出したパン5つと2匹の魚に対して「それを、ここに持っ
て来なさい」と言われ祝福し、集まった群衆のお腹を満たすほどになったのです(マタイ
14:13~21)。困窮している現実のみを見るのでなく、今自分に与えられている現実も見るこ
とが大切ではないでしょうか。神の前に自分が持っているもの、立場、才能など神の前に
差し出す時、神のみわざが始まっていくのです。

Aからの器であること(3)
 エリシャは1つや2つではなく、できるだけ多くの「からの器を」隣の人みなから借りてくる
ように指示したのです。「からの器」である、ということはそれだけ器の中には沢山、油が入
ります。神様の祝福を待ち望む時、私たちは先ず自分自身が、神の前に「から」になること。
つまり神の前に謙遜になって、神に全てをお委ねすることです。「まことに私は、自分のたま
しいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れ
した子のように私の前におります。」(詩篇131:1,2)
「うしろの戸を閉じなさい」とは、神に求める時は密室で祈ることであり、エリシャが同じ部屋
に入らない、と言う事は人の助けでなく、神のわざのみであることが明確にされているのです。

B器がいっぱいになった(6)
 2人の子どもたちが次々に、器を隣りの人から借りて持って来ました。「もう器がありません」
と言うまで、油は器につがれていったのです。器にいっぱいになった油を売ることによって「負
債を払」うことができ、さらに「あなたと子どもたちは暮らしていける」とエリシャは告げました。
エリシャの言葉を信じ従って行ったときに、神のわざが成就したのです。それは負債返済だけ
でなく、生活まで潤すほどでした。神様は、私たちを常に恵みで満たして下さるのです。神の
ことばに従い、どのような時にも神を信頼し、神の恵みを受け取れますように。
4月24日聖日伝道礼拝
説教題
「すべての人を生かすキリスト」   
聖書箇所
       
  Tコリント人への手紙15章20~22節 
20節 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
聖書は人間の死を、魂と肉体が分離することとして取り扱っています。死者が「眠る」とは、
肉体が滅んで裸の状態になった魂が世の終わりの復活の時まで自由な活動を停止した
状態を指しています。キリストは眠った死者を代表する初穂として死からよみがえられました。
初穂には二重の意味があります。
@神のもの:作物だけでなく人間の場合も長子は神のものです。すべてのクリスチャンは
神の前に長子です(へブル12:23)。
Aそのあとに沢山の収穫が続く:実際に、現代の私たち一人一人も沢山の収穫のうちの
一員です。

21節 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して
来たからです。

人類の祖先アダムは悪魔(サタン)にそそのかされ、神に背いて罪を犯してしまいました。
その結果、この世界に死が入りました。けれども神様は万が一の時のために安全装置を
あらかじめ用意しておられました。それがイエス・キリストというお方だったのです。
キリストの使命は、全人類の罪を一つ残らず背負って十字架上で死に、罪と死を滅ぼして
復活することでした。キリストは先駆者として、罪と死に打ち勝つ道を切り開いて下さったの
です。

22節 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべて
の人が生かされるからです。

全人類はアダムから罪と死を生まれながらに相続してしまいました。これを「アダムにあって
全ての人が死んでいる」と表現しています。
しかし、キリストが十字架上で身代わりの死を遂げた瞬間、救いの安全装置のスイッチが
入ったのです。永遠のいのちに生きる歩みへと再度造り変えて下さいます。死の問題が
解決すると日々の生活に平安と希望が湧いて来ます。
この恵みを自分のものとするには、たった一つだけ条件があります。イエス・キリストの十字
架は自分のためであったと「信じる」ことなのです。
4月17日イースター聖日礼拝 
説教題
「非常な喜び」   
聖書箇所
       
    ルカの福音書24章32〜53節
イエスが十字架上で死なれ「暗い顔つき」だった弟子たちが「神をほ
めたたえ」る姿に変わったのはなぜでしょうか。神をほめたたえるこ
とになった「非常な喜び」を具体的に見ていきたいと思います。
@心はうちに燃えていた喜び(32)
 エマオへの途上にある2人の弟子に近づかれたイエス。2人の弟子から
エルサレムでの出来事(イエスの十字架)を聞き、復活されたイエスは聖
書を説き明かされました。イエスとの交わりを通して「私たちのそばに…」
と言う思いが込み上げてきたのでしょう。まだ旅を続けようとするイエスに
「いっしょにお泊りください」と無理に願いました。イエスがパンを祝福し裂
かれた時、ようやく彼らは一緒にいた方がイエスであること、「心はうちに
燃えていた」自分たちの姿にも気づかされました。心が燃やされるために
必要なのは、聖書によってキリストを示されることです。燃やされた心は力
で満たされ、喜びへと押し出されます。この喜びこそ、私たちの想定外の
非常な喜びとなるのです。
Aまさしくイエスである喜び(39)
 弟子の2人は、エルサレムに戻って11人の弟子と仲間たちに報告します。
これらのことを話している間にイエスご自身が真ん中に立って「あなたがたに
平安があるように」と言われました。しかしまだ、イエスが復活されたと信じが
たい弟子たち。イエスは「まさしくわたしです」と宣言され、焼いた魚も召し上が
られました。ご自分が復活されたこと、み言葉が成就したことを弟子たちに示
されたのです。肉眼で見ることができなくても、私たちは聖書を通して「イエスが
生きておられる」ことを確信し「まさしくイエスである」と気づかされた時「非常な
喜び」であり、平安で満たされます。
B祝福された喜び(50)
 地上においての贖罪を完成し、復活され、さらに手を上げて祝福のお祈りを
してくださったイエス。それゆえに私たちは守られ、力づけられ、信仰の戦いを
戦うことができるのです。信仰の戦い、それは神と私たちの関係を壊そうとする
悪魔との戦いです。死に勝利を得られた復活の主(キリスト・イエス)によって、私
たちも勝利の「祝福された喜び」に生かされ「いつも宮にいて神をほめたたえる」
者とされるのです。この上もない喜びを与えられご降誕され、非常な喜びを与え
られて昇天されたイエスにハレルヤ!と賛美しつつ復活の主を賛美致します。
4月10日聖日礼拝(受難週)
説教題
「十字架による救い」   
聖書箇所
       
    マルコの福音書15章25〜39節
イエスを殺そうと宗教家、学者が、指導者たちに捕らえられたイエスは心騒ぐことなく
「こうなったのは聖書のことばが実現するためです」(14:49)と、はっきりと言われました。
聖書の言葉が実現する、つまり神のみ心が実現することを願われたのです。イエス・
キリストが与えてくださった「十字架による救い」を具体的に学びます。

@全人類の罪を受けられた救い(34)
 兵士たちは十字架上で苦しむイエスの姿を目の前にしても、イエスをののしり、あざ
けった。この姿を同じ人間として理解しがたいですが事実なのです。兵士以外にも宗教
家、学者、指導者たち、群衆たちがイエスの十字架をみて勝ち誇っていたのではないで
しょうか。罪は、人間の心を破壊してしまうのです。「十字架につけろ!」と叫ぶ多くの群
衆の中にもし、自分がこの現場にいたら…どうしていたでしょうか。「君もそこにいたのか
 主が十字架に付くとき ああ何だか心が震える 震える 震える 君もそこにいたのか」
(新聖歌113)。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(34)と言わ
れたイエスの言葉。これは神を呪ったのではなく、全人類の罪を、すべてご自身の身に受
けられた叫びです。罪を負われたゆえに、神との関係が壊れたのです。罪は、人を破壊す
る恐ろしい存在であり、神が聖なるお方であることが伝わってくるのではないでしょうか。

 A完了した救い(37)
 「完了した」は、旧約聖書の預言をすべて成就して、贖いのわざを「成し遂げた」勝利の
雄叫びです。イエスはこの地上において、常に神のみ心が成就することを願われて、成し
遂げられてきました。その集大成が十字架による救いだったのです。この「完了した」と叫
ばれた時のイエスの心は、喜びで満ち溢れていたのではないでしょうか。「神殿の幕が上
から下まで真っ二つに裂けた」(38)とは、救いが完了したことにより、神と人との関係の道
が回復し、新しい父と子の関係が与えられたことを意味します。十字架による救いが「我
がため」であることを受け入れていく時に、自分がこれほどまでに神に愛されていることが
わかり、希望をもって神の国の実現を待ち望む者とならせて頂くのです。
「十字架による救い」に日々生きる者とならせてください。アーメン。
4月3日聖日礼拝 
説教題
「新たなる生き方」   
聖書箇所
       
    ガラテヤ人への手紙5章16〜25節
イエス・キリストを信じる者は「神の子」とされ、新たなる生き方が与えられるのです。
「新たなる生き方」を具体的に学びます。
@肉の願うこと(16)から
 肉(神との関係が壊れた人間の我)と御霊は「互いに対立」しています。では肉は、
罪なのか…そうではありません。しかし「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を
生みます」(ヤコブ1:15)とあるように、御霊に対立する肉は、罪を生み出してしまうの
です。様々な日常生活の中にあって、私たちの心にある肉の思いが「不品行、汚れ、
好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ,酩酊、
遊興、こういった類」の行いとなって明らかになってくる、とパウロは言っています。この
肉の思いは、クリスチャンになってからでも、なかなか縁をきることができない難しい問
題ではないでしょうか。パウロも「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したく
ない悪を行っています」(ローマ7:19)と、自分の心にある肉と向き合っています。肉の願
うこと、それは「肉に従って生きる」ことであり、これは私たちを死(滅び)へと突き進ませ
るのです。「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(ローマ8:6)。
Aキリスト・イエスにつく者(24)へと
 肉の思いが行いとなり、結果が罪に。「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、
十字架につけてしまった」者は「神の子ども」(3:26)とされるのです。罪に連鎖する肉の
思いは、生涯私たちを追いかけてきます。しかしキリスト・イエスを信じる者は「肉の思い」
と決別する聖化の恵みが与えられています。キリストの十字架が私の罪のためだった、
身代わりであったと言うだけでなくキリストと共に十字架につけられた「十字架経験」へ
と導かれるのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きて
いるのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(2:20)まさに、キリスト・イ
エスにつく者の生き方であり「御霊によって導かれて、進む」(25)新たなる生き方です。
キリストと共に十字架について死ぬ時、私たちは御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、
親切、善意、誠実、柔和、自制」を結ぶ者とならせてくださる。「割礼を受けているかい
ないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(6:14~18)。キリスト・
イエスの十字架によって与えられた新たなる生き方に日々、生きる者となりますように。
3月27日聖日伝道礼拝 
説教題
「永遠のいのちの保証」   
聖書箇所
       
    ルカの福音書21章18〜19節、33節
本章はイエス様が世の終わりについての語られている場面です。エルサレムを
引き合いに、イエス様が世の終わりに再臨して救いを完成されます。この預言の
一部は紀元70年に実現したのです。

18節 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
  世の終わりに、イエス様を信じる者(クリスチャン)は必ず栄光(復活)のからだ
によみがえらされます。それゆえ、最終的に髪の毛一筋すらも失われないのです。

19節 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
イエス様を信じ救われたならば、その信仰を地上生涯の最後の日まで忍耐をもっ
て持ち続けなければなりません。

33節 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
クリスチャンがなすべきことの第一は、世の中の動きをみことばを通して判断する
ことです。他人の意見や噂に惑わされて恐れが残るのであれば、それは自分の内
にはっきりとした判断基準がないためです。
昔も今も、そしてこれからも変わらぬ明確な基準は「わたし(イエス・キリスト)のこと
ば」(33節)だけです。

私の母はスキルス胃がんを患いました。私は母への悔い改めの思いとイエス様の
十字架による救いのみことばを手紙にして手渡しました。母はそれを何度も繰り返
して読んでくれました。そしてついに、「よし、分かった。お母ちゃんもイエス・キリスト
を信じる!」と告白したのです。母は病床で寺田先生より洗礼を授けて頂きました。
すると心に平安が与えられました。それから間もなく母は地上生涯を終えましたが、
母に与えられた平安は、魂に永遠のいのちの保証が与えられた証拠でした。
3月20日聖日礼拝 
説教題
「2つの律法」   
聖書箇所
       
    ローマ7章15節〜8章2節
聖書は昔に書かれた書物ですが「変わらない人間の姿」、時代の流れがあっても
人間そのものは変わらない…と何とも複雑な思いに立たされます。そして自分の
姿を思っては、主の前にひれ伏す者です。
 パウロは、自分の中に2つの律法があることを見い出し、そこから救い出してくれ
るのがイエス・キリストであることを明確に言っています。この2つの律法について学
びます。
@罪の律法(7章21節)
 律法と言うとモーセが神から直接与えられた十戒ばかりでなく、すべての規則、しつ
け、教えを指し示しています。律法があることによって、私たちは「決意、確認」する時
が与えられるのではないでしょうか。さあ、いかかでしょうか!律法…等、私たちを真理
に導くこれら全てを守りきれるのか。それ以上に「自分のしたくないことをしている」こと
はないか。パウロはこれを「罪」であると断言しています。パウロでさえ「自分のしている
ことがわかりません」「実行することがないから」「したくない悪を行って」と言っています。
これは、パウロだけでなく、人間のありのままの状態であリ、イエス様も十字架上で「彼
らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言われました。そこで「自分でした
いと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行」う時、罪ゆえに死(滅び)」への道
に踏み出して行くことになるのです。罪の律法とは、自分のしていることがわからない
「悪が宿っている」(21)状態です。
A神の律法(8章2節)
 神の律法は、クリスチャンに与えられた聖化の恵みです。罪が宿っている状態から、
イエス・キリストと共に生きる状態へと新しく生まれ変わるのです。移植をすると新しい
細胞の働きが体内で与えられていきます。イエス・キリストと共に、移植したように新し
い状態が与えられ、永遠のいのちにつながる生涯へとつながるのです。そこで律法を
守りきれなかった不可能が可能へと神が成長(聖化)させてくださるのです。
クリスチャンは、この2つの律法の間で様々な葛藤があります。その時パウロも「私は、
ほんとうにみじめな人間です」(24)と嘆きますが「ただ神に感謝します」と賛美に変えられ
ています。「主イエス・キリストのゆえに」「罪と死の原理から解放された」からです。この
聖化の恵みを頂き、主の再臨を待ち望む日々となりますように!
3月13日聖日礼拝 
説教題
「みことばの処方箋」   
聖書箇所
       
   詩篇119篇41〜50節
 神は聖書のみことばを通し、日々私たちを導こうとされます。どんなみことばの
処方箋が出されているか見て参りましょう。

@みことばが成就するようにとの祈り(41〜48節)
 神の憐れみと救いを祈り求めています。本篇の作者は敵からそしられておりま
すが、そうした相手に対してもみことばは対処できるようにして下さると証ししてい
ます。
 みことばにより頼んで祈ると心の中に希望が湧いて来ます。みことばを口に出し
て習慣化しますと、その人の周りにはみことばに相応しい状況が実現していきます。
 みことばに立った生活をしていれば、何も恐れるものはありません。そこには喜
びがあり、確信が与えられます。

Aみことばを通し逆境に打ち勝つ力が与えられる(49〜50節)
 神のみことばは悩める心に光と慰めを与えます。時に人からあざけられるのは辛
いことですが、みことばに従って行くと、いずれ良い結果が得られます。神は前もって
人の思いにまさる良きものを備えて下さっているからです。

 昨年の6月の入院中、私は体調も思わしくなく、主治医からの経過説明も良くない内
容でした。そんな時、私を担当して下さったヘルパーのAさんが5年間の勤務を全うし、
挨拶にやって来られました。Aさんは、泣きながら「倍生きてください」と言われました。
これは今までの人生の倍生きて下さいという意味です。私が永遠への目が開かれた
ような気がしました。
 そのAさんはキリスト教主義の高校を出ており、その高校は次のような教育方針を
掲げています。「神様を敬うとは、まず神様の御心・ご意志を聞くことではないでしょう
か。そこで礼拝時には必ず聖書が読まれ…。」
 Aさんの心の中にみことばを中心とする生き方が入っているので、とっさに前述の
ようなことばがサッと出て来たのではと感じたのです。神は人を十分に用いてみわざを
なさるお方です。なぜなら神は人を愛しているからです。その表れがイエス・キリストの
十字架だったのです。そのひとり子イエス様を十字架につけてまでも、私たちを罪の滅
びから救い出して下さったのです。
3月6日聖日礼拝
説教題
「主の御手に」   
聖書箇所
       
   ヨハネの福音書6章1〜13節
少年が持っていた5つのパンと2匹の魚で大勢の人の群れのお腹を満たされた
イエス様。その数は、男だけで5千人ほどで、女、子どもも合わせるとさらに多く
の人数になったことでしょう。この出来事は、イエス様がピリポに「どこからパン
を買って来て、この人々に食べさせようか」と言われたことから、始まって行きま
した。この箇所から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。
@忘れていませんか?(7,9節)
 突然イエス様に難題を与えられ、ピリポは「200デナリあってもパンは足りませ
ん」と、さらにアンデレがパンと魚を持っている少年を見つけ出し「それが何にな
りましょう」と計算をしたのです。このように私たちは日々の生活の中で、解決す
るのが難しい生活の、人間関係の…様々な問題があります。皆さんは、その時
どうでしょうか。まず目の前の問題をどのように解決するか、ピリポたちの姿に私
たちも近いように思います。計算もとても大切です。しかし、それ以上にまず、する
べき事があったのです。ピリポ、アンデレに「忘れていませんか?」と声をかけるこ
とができたらハッと気づいて「イエス様!」と叫んだかも知りません。そうなのです、
目の前に今まで多くの奇跡を起こされてきたイエス様がおられるのです。イエス様
がおられるのに、人間の頭の中で解決法を計算してしまっていたのです。日々の
生活の中で問題と向き合う時「主の力」をまず求めることを忘れないようにしたい
です。
A余るほどのパン(12,13節)
 少年が捧げたパンと魚を受け取られたイエス様は、神様に感謝をささげました。
そしてパンを分けられると、人々は「食べて満腹した」のです。少年が持っていた
パンと魚は、多くの群衆から見たらとても小さなものに見えたかも知りません。し
かし、少年が捧げた時にイエス様は豊かに用いてくださったのです。少年にとっ
てこのパンと魚は、自分のまたは家族に必要な食べ物だったと思いますが
少年は、ささげたのです。自分にとってのパンと魚は何でしょうか。生活スタイル、
人間関係、様々な悲しみ、問題…1つ1つを神様に捧げていこうではありません
か。主の御手に捧げられる時、神が祝福して下さり神のわざが始まっていくの
です。それは神の奇しいみわざ、奇跡そのものです。
 「主の御手に」ささげることができる恵みを感謝致します。
2月27日聖日伝道礼拝
説教題
「感激の涙に」   
聖書箇所
       
   詩篇84篇5〜7節
詩篇は、全て神を信ずる者たちの、その時々の心から溢れた信仰の歌であり、
祈りです。詩篇84篇は、神を礼拝する者たちの歌であり「心の中にシオンへの
大路のある」神の国(神を礼拝する)を目指してこの地上生涯を生きる者は何と
幸いなことであるかを歌っています。ここでいう「涙の谷」「泉」の奥義を学びます。
@涙の谷
 神を礼拝するためにエルサレムへ向かう時に通過する実在の谷であり「バル
サムの木の谷」とも呼ばれています。木の名前の正確なことは明白でないので
新英訳では「渇ける谷」とも訳されています。エルサレム(神を礼拝する)までの道
は、乾いた、荒れ果てた地で飢えとの戦い、盗賊の難など、涙も伴う困難な道筋
があったのです。私たちの人生においても涙の谷を通る時が、あったのではない
でしょうか。聖書の中にも多くの方々の涙が記録されています。イエス様の涙は
「悲しみのあまり死ぬほど」でした。十字架にかかられる前の祈りにおいての涙で
す。また十字架上で「わたしは渇く」と言われました。イエス様もこの地上において、
死ぬほどの悲しみを体験され、渇くほどに神を慕い求められたのです。イエス様の
姿を通しても、私たちが様々な出来事を通しての涙の谷にある時は「神を、生ける
神を求めて渇いている」(詩篇42:2)時となるのではないでしょうか。
A泉
 幸いなことに、涙の谷を進む時も、私たちの目的「神を礼拝する」を変えずに進
んでいく時にこそ、神が涙の谷を泉としてくださるのです。水がわき上がる泉は喜
び、平安であり永遠のいのちにつながります。永遠のいのちを与えて下さったのが
イエス様の十字架による完全な救いです。イエス様も涙の谷を過ぎる時「神のみ心
がなりますように」という目的を変えず十字架の道を突き進まれました。シオンへの
大路(神の国:神を礼拝する)を目指して人生の道のりを進んでいく時、どのような
涙の谷においても、私たちは力から力へと押し出されていくのです。この力は、私た
ちにとって「感激の涙に」なるのではないでしょうか。
神の祝福は、雨が降らない夏の乾ききった大地を秋の始めに潤した「初めの雨」の
ように私たちを生かすのです。神の祝福の原点は、イエス様の十字架による完全な
救いです。ハレルヤ!!
2月20日聖日礼拝
説教題
「おごそかに命じた事」   
聖書箇所
       
  Uテモテ4章1〜8節、16〜18節
獄中にいたパウロから愛するテモテへの手紙。その遺言とも言われる手紙の最後
には、何が書かれているのでしょうか。おごそかな思いで自分の心にある思いを書
き始めます。
@みことばを宣べ伝える(2節)
 みことばは、神が私たちに委ねてくださった和解のことば(Uコリント5:19)です。神
とこの世(神に背を向ける生き方)を和解させるためにキリストの十字架と復活によっ
て救いを完成させてくださったのです。この福音を伝えることが大事なのです。なぜな
ら、健全な教え(キリストの教え)に耳を貸そうとしない時代、自分に都合の良いことを
言ってもらう、空想話の時代になるから!とパウロは先を見据えて言っています。時
が良くても悪くても、神の寛容に基づき、絶えず教えながら悔い改めてキリスト者にな
るように自分の務めを果たすことを命じたのです。
A信仰を守る(7節)
 「私が世を去る時はすでに来ました」とパウロは、自分の殉教が目前であることを
言っていますが、パウロにとって「世を去る」とは、単なる死ではなく神の国への出発
でした。ですから殉教の苦しみを遥かに超えて「いのちの冠」に望みを置いたのです。
イエス様も十字架の苦しみを超えて救いの完成を望みにされました(へブル12:2)。
いのちの冠を受ける為にも走るべき道のり(神から与えられた人生)において、信仰を
守り(見張り)通すことであることを自らの体験からも勧めています。いのちの冠を望み
とすることが信仰を守る生き方となるのです。
Bキリストの臨在(17節)
 ローマ法廷では最終判決が出るまで何回かの尋問が行われます。そこで被告人は
弁明の時が与えられるのですが、古き友人たちはパウロを見捨ててしまったのです。
孤独であったパウロですが「しかし、主は、私とともに立ち」とキリストの臨在を確信し
ていました。現実としての孤独、誤解、中傷などがあっても「力を与えて」「助け出され
た」と喜んでいます。それは判決の結果が問題でなく、パウロにとっての勝利は天の
御国に入ることだったのです。その思いがあるからこそ「主に、御栄えがとこしえにあ
りますように。アーメン」と主への賛美が書き記されているのです。「おごそかに命じた
事」を実行する為にもまず、自らが福音に生きる者とならせて頂こうではありませんか!
2月13日聖日礼拝
説教題
「再び燃え立たせる」   
聖書箇所
       
  Uテモテ1章1〜8節
パウロが殉教前に書いた遺言と言うべき最後の手紙であり、異端を警戒し、
後輩の牧師であったテモテに励ましと共に、福音の真理に堅く立つことを勧
めたのです。その為にもまず、パウロが伝えたのは「神の賜物を再び燃え立
たせる」ことでした。「燃え立たす」は、ギリシャ語で「十分な炎に保ち続ける」で、
「消えかけている火を燃やし続ける」ことを意味します。具体的に学びたいと思
います。
@消えかけている状態(4節)
 テモテが牧会している教会の中で、テモテの牧師としての権威を疑い。偽りの
教えを説く人々がいました。また先輩であるパウロが、残虐と言われたローマ皇
帝ネロによって殉教に追いやられる時が目前に迫っていました(Uテモテ4:6)。
このような状態の中にあってテモテの心情はどうだったでしょうか。パウロは獄中
からテモテに、私たちが神から与えられているのは「おくびょうの霊ではなく」と言っ
ています。テモテが勇気を失い、恐れにおののいている姿が見えてきます。 
消えかけている状態、それは全能の神が共におられる平安以上に、目の前の出
来事に圧倒されて恐れてしまっている状態です。
A火を燃やし続ける状態
 消えかけている火を再び燃やすには、まず火力を弱めてしまっている原因を取り
除き、更なるエネルギーを追加するのではいでしょうか。イエス様が、私たちの助け
主として御霊を約束して下さいました(ヨハネ14:16~19)。御霊によって私たちは、どの
ような時にも燃やし続ける、生きる時が与えられるのです。その御霊は「おくびょうの
霊ではなく、力と愛と慎みとの霊」であるとパウロは言っています。人生の困難、試練
においてどんなことをもすることができる「力」です。この力は絶えずキリストが示してく
ださった「愛」によって動かされるのです。また自分の心の状態に気づかせて自制へ
と導いて下さるのが「慎み」の霊です。テモテをはじめ、私達クリスチャンにとってエネ
ルギーは、神の賜物としての御霊なのです。

燃え立たせ続けていたら、必ずその熱、温かさは伝わっていきます。福音を伝える時
に、御霊によって「力と愛と慎み」の霊を大胆に用いていく者とならせて頂こうではあり
ませんか!
2月6日聖日礼拝
説教題
「主の喜びの中に」   
聖書箇所
       
  マタイ25章14〜30節
      
天の御国」についてイエス様は「自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです」と
話されました。この財産は「タラント:賜物」であり、神から与えられたもの、恵みとし
ての贈り物の意味です。それは様々な形で与えられていますが、神からの最大の
賜物は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは
御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」と
ヨハネ3:16に書かれているように、キリスト(イエスによって与えられる救い)ご自身
です。キリストから救いを受けたクリスチャンに更なるタラントを預けて下さったのです。
@タラントを預けた主人の思い
 おのおのその能力に応じて、5・2・1タラントが預けられたのです。預けられた時、
最初に何を考えるでしょうか。タラントを預けて下さった方のことではないでしょうか。
どうして自分に…と、主人(神)の心を探らないでしょうか。神のみ心は「ひとりも滅び
ることなく」です。ですから、自然と神のみ心が実現する為にも、先に救われたクリス
チャンが「福音を伝える」使命へと押し出されていくのです。
Aタラントを預けられた者の使命
 福音を伝えるため1人1人に必要なタラントを預けて下さったのです(Tコリント12:11)。
そのタラントを用いて増やすことが主人の喜びであると書かれています。このことから
も救われた私たちは、神と共に生きる中で与えらえた愛、喜び、平安、寛容、親切、
善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22,23)用いて、福音を伝えることがタラントを預け
られた者の使命なのです。その時にこそ、タラントはさらに増えて、満ち溢れていくの
ではないでしょうか。
B主人の喜びの中に
「よほどたってから」主人が突然帰る、と言うのは再臨の時と捉えることができます。
いつ主にお会いしてもいいように、日々忠実に使命に生きることを神は求めておられ
るのです。忠実は原語で真実です。信仰において主の心を求めて、忠実(真実)に生
きることが、主人の喜びそのものとなり、自分の喜びともなるのです。タラントを隠し
てしまう恐れでなく、感謝をもって忠実に主の喜びの中に生きる者とならせて頂きま
しょう!(Tペテロ4:10~11)
1月30日聖日礼拝
説教題
「必要なのは今」   
聖書箇所
       
  マタイ9章35〜38節
      
イエス様は、ガリラヤ地方をめぐって福音(神の国と救い)を宣べ伝えられました。
その中にあってイエス様は弟子たちに、人々の状態についてはっきりと言われま
した。その状態は、真の救いを必要としていることです。この状態に対して「必要
なのは今」であることが強く伝わってきます。何が必要であるのか学びます。
@キリストのまなざし (36節)
人々を支え、導く政治家、宗教家は、律法に関する専門的な議論で人々を当惑
させ、支えよりむしろ重荷でした。イエス様はこの状態(エゼキエル34:1~6)を見抜
き「かわいそうに思われた」のです。この思いは、はらわたの底から出て来る思い、
非常に強い感情をもってあわれまれたことを意味します。私たちも目の前の人々の
状態、出来事を外見で判断してしまうのでなく、キリストのまなざし(人はうわべを見
るが、主は心を見る:1サムエル16:7)をもって見る時に、真の救いを求めている人の
状態が見えるのではありませんか。
A収穫のための働き手(37節)
 パリサイ人は人々を焼き捨てるもみがらと見なし、罪人の滅亡を待ち望んでいま
した。しかしイエス様は、刈り入れて保存すべき収穫であると捉えられたのです。収
穫は刈り入れる人がいなければ、収穫はできません。収穫のための働き手を必要
とされたのです。収穫、それは福音(神の国と救い)を信じることです。福音を信じる
ためには、聞くことが必要です。その為にも福音を宣べ伝える人(収穫のための働き
手)が必要なのです。「弟子たちに言われた」つまりイエス様に従うクリスチャンに収穫
のための働き手になることをイエス様が求めておられるのです。
B祈り求める(38節)
 「祈りなさい」と言われたイエス様。「祈る」と言うことは、その祈りの課題を自分の
こととして重荷を負うということにつながります。自分の祈りとして祈っていく時に、
その祈りに対する神のみ心が実現していくのです。(神は、みこころのままに、あなた
がたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。ピリピ2:13)「必要
なのは今」であることを心に刻みつつ、 先に救われた者として「はい、私を収穫のた
めの働き手として用いてください」と主の前に告白する者とならせて頂こうではあり
ませんか。
1月23日聖日伝道礼拝
説教題
「どうしても必要なこと」   
聖書箇所
       
  ルカ10章38〜42節
      
イエス様は、十字架を目前にひかえ、エルサレムにのぼる途中でした。その中で、
2人の性格が全く反対のマルタとマリヤ姉妹に出会います。2人のおもてなしも正
反対でした。2人の各おもてなしを通して「どうしても必要なこと」を学びます。
@マルタのおもてなし (40節)
 マルタは主をお迎えするにあたって、気が落ち着かない状態で働いていました。
掃除や料理など細やかな配慮が見えてくるようです。そしてその愛のおもてなしが、
妹マリヤへの批判へとつながってしまいました。
それはどうしてでしょうか。マルタの性格から出て来る様々なおもてなしの数々は、
愛による(相手を思う)おもてなしから、自己満足のおもてなしへと変わっていった
からではないでしょうか。それゆえに自分のおもてなしに賛同して働かないマリヤ
に対して、批判となってしまったのです。マルタにとって主のことばよりも、主ご自身
をおもてなしする、外側のことに心が満たされてしまって、自分の心の渇きに気づ
かなかったのです。
Aマリヤのおもてなし(39節)
 マリヤは「主の足元にすわって、みことばに聞き入っていた」のです。
足元にすわる、と言うのは「弟子入り」としての姿勢です。熱心に神に仕えてきた者
として、まず「主」のことばを求めたのでした。この姿からもマリヤが求めていたのは、
心の満たしであることが伝わってきます。主が来られる前から、神のことばを日々
思い巡らし、求めていたことでしょう。救いのことばを主から直接聞ける、その時を
マリヤは喜んだのでした。
B良いほうを選ぶ(42節)
 イエス様は「いろいろなことを心配して、気をつかって」とマルタのおもてなしに気づ
いて見てくれていました。ここにイエス様の愛、優しさを思わざるを得ません。しかし、
主は私たちを罪の滅びより救うために「どうしても必要なこと」をはっきりと示してくだ
さったのです。みことばを慕い求めて聞くという「良い方を選ぶ」マリヤの姿勢です。
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています」詩篇42:1,2。
このみことばに生きる者とならせて頂きましょう。
1月16日聖日礼拝
説教題
「悲しむ者は幸いです」   
聖書箇所
       マタイ5章4節
       イザヤ6章1〜8節
イスラエルを昔のように回復してくれたウジヤ王でしたが、高ぶりと不信仰の
罪により、神に打たれて死にました。これはやがて下されるユダ王国へのさば
きの前触れでした。しかし人々は、無関心で、不信仰と不道徳の生活を送って
いました。イエス様が「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」と
仰いました。「悲しむ」という事について、また「慰め」の原意について預言者
イザヤの姿から学びます。
@「主を見た」時に(1~5節)
 このような状況にあって、イザヤは「主を見た」のです。主は「栄光は全地に満」
つ聖なるお方であった。ここで明確にされているのは「イザヤが主を見た」事実
です。その他の日時、場所、主の外見については不明です。このところからも、
イザヤは肉眼で見た、と捉えるよりも、神の栄光と聖さをはっきりと示された、幻の
うちに神に出会ったということではないでしょうか。「主を見た」時に、イザヤは「ああ。
私は、もうだめだ」…私こそ滅ぶべき存在である、自分が聖なる神の前で罪人であ
ることを嘆き悲しんだのです。「悲しむ」の原意は、「悔いる、悔い改める」という意味
もあるのです。
A「口に触れ」た時に(6〜7節)
 5節でイザヤは、自分が滅んでもおかしくない罪人であることに気づかされ、霊的に
「死」の状態を意味しています。そこに「すると」と6節は始まりますが、神の救いがイザ
ヤに実現したのです。「祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭が…私の口に触
れ」た時に、キリストの十字架のひな型、罪が贖われ(原意は、覆われる)たのです。
B「幸い」に押し出される時(8節)
 罪によって霊的に死んでいたイザヤが、罪の赦しの行為とことばによって、復活した
のです。それゆえ神が「だれを遣わそう」と仰った時にイザヤは、はっきりと「ここに、私
がおります」と答えました。「慰められる」は、神からの慰めを受ける、つまり「救いを受
ける」につながります。
悲しむ(神の前で自分のが罪人であることを知る)者は、神の慰め、救いを受け、新しく
いのち(永遠のいのち)が与えられるゆえに、「悲しむ者は幸い」なのです!!
1月9日聖日礼拝
説教題
「神の助けA」   
聖書箇所
 
     イザヤ41章14〜16節
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる(2022教会年間聖句)」と仰って下さった
「神の助け」を具体的に見てきました。さらに「神の助け」は、私たちの生涯にお
いて、どのような結果となるのでしょうか。
@虫けらのヤコブに対して(14節)
 ここで神は「虫けら」と言ってイスラエルの民を軽蔑したのではありません。弱い
惨めな状態に置かれていることの強調です。バビロンにて捕囚生活を70年、さら
に神に背を向けて与かるべき神の祝福をも拒絶してしまっている姿ではないで
しょうか。イザヤは「罪」の本質を「高ぶり、汚れ」(イザヤ9:8~10)と見ていました。
聖なる神の前では、その罪の状態がいつ滅んでもおかしくない「虫に等しき者」と
なるのです。しかし、神は「恐れるな。わたしはあなたを助ける」と仰って下さるの
です。
A新しいもろ刃の脱穀機とされる(15節)
 罪の状態にあって、本来の姿を見失っていたイスラエルの民を神は、捨てるこ
となく、新しく力強くして下さる!と言う意味が含まれているのです。人生において
私たちは「山」と言われるような問題と向き合いますが、その山々を私たちは主に
在って、「山々を踏みつけて粉々に砕く」「丘をもみがらのように」する勝利の人生が
約束されているのです。神の助けは、徹底的な助け、勝利であり、私たちを「強め、
助け、勝利の右の手で守」って下さる(10節)のです。
B喜びが与えられる(16節)
 「かぜが運び去り、暴風がそれをまき散ら」されるとは、全く無くなる、完全なる救い
です。完全な救いによって、神の前では何も隠れおおす(へブル4:13)ことのできない
私たちですが、新しい生き方、力が与えられるのです。これが私たちの大いなる喜び
となり、神を讃える「誇り」へと展開していくのです。「わたしは主によって大いに楽し
み、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、
正義の外套をまちわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾って
くださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が
義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」(イザヤ61:10,11節)
1月2日聖日礼拝
説教題
「神の助け@」   
聖書箇所
 
     イザヤ41章8〜13節
イザヤが神のことばを書き記した時は、まだバビロン捕囚になって
いませんでした。イザヤが神のことばを伝えてから、200年後に歴史上に
実現したのです。イスラエルの民が70年間バビロンで捕囚生活を送る中、
神は私たちのことを捨てたのではないか…と神に疑念を抱き、偶像の神を
拝する人々の姿がありました。その時「恐れるな。わたしはあなたとともに
いる(2022教会年間聖句)」
と仰って下さった「神の助け」を具体的に見てい
きたいと思います。
@「わたしのしもべ」と呼んで下さる(8,9節)
 「わたしのしもべ、イスラエルよ」(8)、これは神とイスラエルの関係を示して
います。イスラエルは、今日でいうならば「神を信じるクリスチャン」のことです。
「しもべ」は、神に徹底的に従う、神のわざを遂行する忠実な姿の呼び名であり、
イスラエルの民全体に、また個々に対して神は「あなたは、わたしのしもべ」(9)
である、つまり神のみわざをあらわす存在、大切な尊い存在である!と仰って
下さるのです。
Aともにいて下さる(10節)
 私たちがどのような状態であっても神に捨てられず、ともにいて下さる、臨在
して下さる神です。日々の生活で「強め、助け、義の右の手(勝利)で守る」と力
強く宣言して下さいました。神は、ご自身を証明する為にも、時には歴史の中に
おいて、また人を通してご自身を現わされます。ですから私たちは、1つ1つの出
来事でなく、その背後に働かれる神を見るべきなのです。
B完全なる救い(11~13節)
「無いもののようになって滅びる」「全くなくなってしまう」、完全なる救いです。バビ
ロンはその後、ペルシャ王クロスによって滅ぼされます。「あなたの神、主である
わたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と」
仰って下さっているのです。神から"あなた"へのメッセージです。力強い愛の奨励
に日々、耳を傾けていこうではありませんか。この神の奨励をことばだけでなく、
イエス・キリストを通して完全に指し示して下さいました。神の助け、それは完全
なる救いであり、イエス・キリストです。
1月1日(土)元旦礼拝
説教題
「”あなた”へのメッセージ」   
聖書箇所
 
     イザヤ41章10節
神は、歴史の中でご自身の力を現わすために敵をも用いられる時があります。
バビロン捕囚にあったイスラエルの民をまず解放する為にペルシャ王クロスを
起こしますが、クロス王は破竹の勢いで更に国々を征服していきます。そこで
諸国は、偶像の神に頼ろうとします。しかし神は、イスラエルの民に力強く奨励
されたのです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」(2022年年間聖句)。
偶像の神を拝していたにも関わらず、神は民が滅びることのないように、ねんご
ろに「あなたとともにいる」「あなたの神である」「あなたを強くし」「あなたを助け」
「義(勝利)の右の手で、あなたを守る」と激励してくださったのです。この神の
ことばは、今の時代を生きる「あなた」に神が語りかけてくださっているのです。
永遠に変わらない神のことばを心に据えて、新しい年を歩み出そうではありま
せんか!
12月26日聖日伝道礼拝
説教題
「クリスマスの続き」   
聖書箇所
 
     ルカ2章8〜20節
皆さんは「クリスマスの続き」があって、今を生きる私たちに続いて
いるのをご存知でしょうか。羊飼いの姿を通して「クリスマスの続き」
がなぜ、私たちに続いているのか、イエス様がお生まれになった時代に、
心をワープさせて読み解いていきたいと思います。
@告げられた神のことば(10~13節)
羊飼いは、羊の世話の為、祭儀律法のすべてを守り切ることができず、
人々から軽蔑され、礼拝からも締め出されることがあったそうです。しかし、
その羊飼いに主の御使いが現われ、神のことばを告げたのです。
「恐れることはありません。〜きょうダビデの町で、あなたがたのために、
救い主がお生まれになりました〜」と。神は私たちにことばを通して語り
かけて下さいます。今の時代は、聖書を通して神が語りかけてくださるのです。
A神のことばを信じた羊飼い(15節)
 神のことばを聞いた羊飼いは互いに「話し合った」とあります。口語訳聖書
では互いに「語り合った」とあります。話し合った…議論し合ったのではなく、
語り合ったのです。私たちはどのような時に語り合うでしょうか。羊飼いたちが
興奮気味になっている姿が見えてくるようです。御使いが告げた神のことばを
単純に信じたことがわかります。信じた思いがお互いに「救い主がお生まれに
なった出来事を見に行く」ことに一致団結したようです。「信じる」その時、
神のことばが信じる者に実現していくのです。
B喜びに押し出された羊飼い(17,20節)
 「飼葉おけに寝ておられるみどりごとを探し当てた」羊飼い。そして「見聞きし
たことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っ
て行った」のです。単純に信じて、単純に喜ぶ姿に、何か、自分自身が忘れか
けている姿を思い浮かべないではいられません。
みどりごイエス様にお会いして、言いようもない感動を受けた喜びが
伝わってこないでしょうか。
私たちは、羊飼いたちの喜びのバトンを受け取っているのです。神のことばを
信じ、救い主イエス様にお会いする時、自分にとって大いなる喜びとなり、神を
崇め賛美する思いへと押し出されるのです。ハレルヤ!!
12月24日(金)16:00〜17:00
クリスマスイブ礼拝
竜ケ崎教会:大塚満師、治美師による特別賛美
をはじめ、キャンドルサービスによって灯りがともる中、賛美、
聖書朗読を通して、救い主イエス様のご降誕を待ち望みます。
どなたでも自由に参加できます。心より、お待ちしています。

12月19日クリスマス礼拝
説教題
「イエス様を心に」   
聖書箇所
 
     ルカ2章1〜7節
マリヤに受胎告知がなされ、マリヤは「神のみ心がこの身になります
ように」と御使いガブリエルに告げます。神のみ心、救いのご計画は、
どのように実現していったのでしょうか。
@ベツレヘムへ(1〜4)
皇帝アウグストから「住民登録せよ」との勅令、クレニオがシリヤの
総督であった時。この2人の名前と出来事からも、イエス様のご降誕の
時期を特定できるようになったのです。また御子イエス様がこの世に送
られたのは歴史的事実であることをルカが強調したかったのではないで
しょうか。人々が自分の町に向かっていった中に、ヨセフもマリヤと一緒
に120キロほどあるベツレヘムに向かったのです。勅令が出される前から、
イエス様が誕生されるのは、ベツレヘムであることは決まっていたの
です(ミカ5:2)。
Aダビデの家系から(4〜7節)
ヨセフは「ダビデの家系であり血筋でもあった」とあります。この記
述は、旧約時代に預言された神の御計画を指し示しているのではない
でしょうか。「1人の偉大な王によって」「揺らぐことのない王国」の確立が
預言される。救い主イエス様の誕生の預言(Uサムエル7:12)です。全世
界に祝福を与える道は、ダビデの家系を通してであること。神の御計画
「ダビデの家系から偉大な王がでる」が、ヨセフを通して、さらに進められ
ました。
B飼葉おけの中に(7節)
 ローマは世界的な帝国としての経済力、軍事力を高めようとしていま
した。それに対比して救い主イエス様が誕生し、寝かされたのは、飼葉
おけの中です。飼葉おけがあるのは、馬、ロバがつながれる場所であり
出産にはむかない場所、ふさわしくない場所ではないでしょうか。でも
そこに、赤ちゃんがいたら…輝きます。喜びになりませんか?この飼葉
おけは、私たちの心をあらわします。このクリスマスに救い主イエス様
を心にお迎えしようではありませんか。
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を
聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事
をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)
12月12日聖日礼拝〜アドベント第3週〜
説教題
「汝の言のごとく」   
聖書箇所
 
     ルカ1章26〜38節
今日の箇所は「マリヤへの受胎告知」とも言われる個所です。そ
の前には、エリサベツへの受胎告知があり、救い主イエスの誕生
の前に、ヨハネが誕生します。ヨハネとイエスの関係は密接であり、
どちらも神の力による誕生であり、両者とも神の救いの働きの為
に用いられるのです。
まず2人の誕生の共通点は、神の御告げがあったことです。思い
がけない受胎告知に対して、マリヤはどのように応答したので
しょうか。
@思い巡らしたマリヤ(29,34節)
マリヤの親戚エリサベツが身ごもってから「6か月目」に、御使い
ガブリエルがマリヤのところに来て「おめでとう、恵まれた方」と挨
拶をしました。「おめでとう」の直訳は「喜びなさい」です。さらに自分
が結婚する前に身ごもることを聞き、人間の域を超えた御使いの
知らせに「どうしてそのようなことになりえましょう」と、どうしても理解
できない思いを伝えました。しかしマリヤは、戸惑う思いだけに捉わ
れていなかったのです。そこで「考え込んだ、思い巡らしていた」から
です。理解できない中で、あちらこちらと思いを伸ばして語られた
神のことばを理解しようとする姿です。マリヤは自分の思いだけで
なく、共にいて下さる神の御心を求めていたのです。
A心静めたマリヤ(38節)
 御使いが3つの返事をします。@聖霊が特別に臨む。A老齢のエリサ
ベツが妊娠している事実。B神の全能性。これらの御使いの励ましによ
ってマリヤが出した答えは「汝の言のごとく」でした。この言葉は、マ
リヤの神に対する信頼そのものではないでしょうか。石打ちの刑にあう
かもしれない、ヨセフが去ってしまうかもしれない等、多くの不安、戸
惑いに打ち勝つことができたのです。神が計画されていることが実現す
ることを心から願った瞬間でした。
「汝の言のごとく」とマリヤが応答したことによって神の救いのご計
画、救い主イエス様のご降誕が実現したのです。「やめよ。わたしこそ
神であることを知れ」(詩篇46:10)やめよ‥静まれとも訳されています。
自分の心の中にある様々な思いを静める時、「汝の言のごとく」と神を
信頼する応答へとつながります。さらに神の栄光が現わされ、私たちは
神を知る、崇める時が与えられるのです。ハレルヤ?
12月5日聖日礼拝〜アドベント第2週〜
説教題
「知恵であるわたし」   
聖書箇所

箴言8章12〜21節
先週「神のことばであるキリスト」と題して、キリストは「永遠なる
お方である」ことを学びました。そのヨハネ1:1〜3と符合している
箇所が今日の聖書個所です。知恵の擬人化と解し、それがキリ
ストを指し示しているのです。「キリストは神の力、神の知恵なの
です(Tコリント1:24)」「キリストのうちに、知恵と知識のとの宝が
すべて隠されています(コロサイ2:3)」「知恵であるわたし」と言わ
れた神の子キリストの姿を見ていきたいと思います。
@知恵の性質(12〜14節)
「分別を住みかとする」とは、悟り、真理を日々の生活の中で体得す
ることで「主を恐れること」につながります。知恵と対立するのは、高
ぶり、おごり、悪の道、ねじれたことばです。また摂理(はかりごと)と
すぐれた知性、分別と力があると書かれていますが、これらの性質は、
救い主預言「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、
はかりごとと能力の霊(イザヤ11:2)」において救い主が完全に備えて
いることと合致しています。つまり知恵はキリストである、ということです。
A知恵の感化(15〜17節)
わたしによって治め、正義を制定する。つまり知恵であるキリストを
信頼した人たちの姿です。彼らは、いよいよキリストを切に求め、
見い出す、キリストにお会いする時が与えられるのです。なぜそこまで
求めるのか、それは彼らが自分の悟りにたよらず、キリストの守りと導
きを信じているからではないでしょうか。「神と人の前に好意と聡明を
得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(箴言3:4~5)」
B知恵の与える祝福(18〜21節)
「わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす(21)」
と書かれています。この祝福は、物的な表現の中に、それを超えた
霊的なものを指し示しています。知恵、キリストの教えに従う時、
私たちを光り輝かせる。そこに真の幸福があるのです。
 「知恵であるわたし」イエス・キリストを通して、私たちはどのよう
な時にも、平安と喜び、希望をもってしっかりと歩み出していくことが
できるのです。なぜならイエス・キリストが語られたことばは、私たち
を永遠のいのちの道へと導いて下さるからです。(箴言3:13~18) 
11月28日聖日伝道礼拝〜アドベント第1週〜
説教題
神のことばであるキリスト」   
聖書箇所
ヨハネ1章1〜14節
「ことば」とは何か。ヨハネ1:14に明白に書かれています。「ことばは人と
なって、私たちの間に住まわれた」と。「ことば」は、イエス・キリストを示し
ているのです。「ことばは神とともにあった」は、イエスは、神ときわめて親
密な関係で、イエスのことば、わざを通して私たちは神がどのようなお方
であるかを知ることができます。イエス・キリストを通して、私たちは神に
導かれるのです。イエス・キリストの姿を具体的に見ていきたいと思います。
@永遠なるお方である(1節)
「初めに,ことばがあった」の「初めに」は創世記の「初めに」(創1:1)と同じ
で「創造のわざが開始された時」を意味します。また「あった」は継続性を
含むので「すでにことばは存在していた」と解することができるのです。つ
まり「ことば」であるイエスは、被造物の一部ではなく、創造以前から存在
する永遠なるお方なのです。
Aいのちがあった(4節)
 「この方に(このことばに)いのちがあった」とは、生まれながらの命、動物
的な命だけでなく、それ以上に人間を永遠のいのちへと押し出す豊かな
いのちなのです。イエス・キリストを信じて永遠のいのちが与えられ、新しい
生き方が与えられる。これこそが、神の子どもとされる特権(12)です。
B人の光であった(4節)
 イエスは、私たちにとって「光」なのです。罪ゆえに人の魂は、救いを求め
てさまよい、闇のただ中に生きているのです。しかし「ことばは人となって、
私たちの間に住まわれた(14)」とあるように、イエスがこの闇のただ中に
おいで下さり、人の子としてお生まれくださったのです。イエスを救い主と
して信じる時に、私たちの光となって導いてくださる。私たちは、光のうちを
歩む日々が与えられるのです。
 「神のことばであるキリスト」が人の子としてお生まれくださり、私たちに
いのちと光を与えてくださったことを喜び、感謝する時が「クリスマス」です。
11月21日聖日礼拝
説教題
「あらゆる境遇に対処する秘訣」   
聖書箇所
ピリピ4章12〜13節

 ヤコブ5章13〜18節
パウロは、あらゆる境遇を「貧しさの中、豊かさの中、飽くこと、飢える
こと、富むこと、乏しいこと」、つまりあらゆる種類の災難や不幸など生
活問題であることを言っています。救ってほしい、助けて欲しいと、この
救いを求めるのが、祈りとなります。祈りは、人間誰もが持っている、
救いを求める姿です。パウロは、救いを求める時、あらゆる境遇に対し
ての「救われるための秘訣を心得ている!だから、私はどんなことでも
できる!」と力強く言っています。パウロの力強い確信が伝わってきます。
これほどまでの「あらゆる境遇に対する秘訣」が何であるかを具体的に
見ていきたいと思います。
@祈りと讃美である(ヤコブ5:13)
生活問題は、私たちの心身の命であり、生き方につながってくるのでは
ないでしょうか。あらゆる境遇に対して、まず「神に祈る」ことを勧めてい
ます。イエス様も十字架にかかられる前夜「苦しみもだえて、いよいよ切
に」(ルカ22:44)祈られました。また喜んでいる(あらゆる境遇の中で、神
が最善に成して下さることを信じている)人は、賛美する(神に感謝する
こと、神が喜ばれる)ことです。神は、賛美を先頭に立てて事を進められ
ようとされています。祈りと讃美、ここから「詩篇」という名が由来している
のです。
A主の御名による祈り(ヤコブ5:14)
 オリーブ油が強調されているのではなく、1つの方法として書かれてい
ます。それ以上に主の御名による祈りこそ力強い祈りです。私たち人間
は罪ゆえに神との関係が壊れましたが、イエス様によって、完全なる救い
は完成し、私たちは神に祈る特権が与えられ、神が私たちの祈りを聞い
て、応えて下さるのです。
B信仰による祈り(ヤコブ5:15)
 信仰とは、神との正しい関係が与えられている状態です。神に祈り求め
る時に、求める祈りが、いつしか自分の心のための祈りに変わることがあ
りませんか。私たちが神に近づき、祈る時に私たちは、神に立ち帰り、日々
神との関係が新しく与えられていくのです。
この祈りに生かされていく時、私たちは、あらゆる境遇においても、神を
信頼し、神の祝福のただ中に生かされるのです。
11月14日聖日礼拝
説教題
「王妃エステルの祈り」   
聖書箇所
エステル記3章13〜4章3節

     4章10〜17節
1人のハマンというペルシャ帝国において皆がひれ伏すほどの大臣の
憤りが満ちて、ユダヤ人虐殺法令へと発展したのです。ハマンの憤り、
それはユダヤ人モルデカイが自分に対して、ひれ伏すことをしなかった
からです。しかし、このユダヤ人虐殺法令は実行されませんでした。そ
こに1人の女性、王妃エステルの祈りがあったのです。でもエステル記
には「神」と言う言葉がでてきません。祈りの言葉も具体的に書かれて
いないのです。しかし、読んでいくと自然に「神」の摂理を信じ、信仰
をもって力強く生きている姿を思わざるを得ません。
 王妃エステルの祈りを具体的に見ていきたいと思います。
@勇気と覚悟をもった祈り(4:16)
ユダヤ人虐殺法令が発令されてからモルデカイに「王に憐れみを求め
るように」と王の宦官ハタクを通して伝えられたエステルは、躊躇します。
この30日間、王からの召しもない中、自ら王の元へ行くと殺されてしまう
かもしれないからです。するとモルデカイは、エステルが王妃となったのも
「もしかすると、この時のためであるかもしれない」と神の摂理(providence
、あらかじめ備える)を伝えます。自分を育ててくれた従兄弟のモルデカイ
の言葉に、エステルは躊躇していた思いから、気持ちが解き離れたのか
「このために断食をしてください」と何か力強さが伝わってくるエステル
でした。この勇気は、今の虐殺という恐ろしさに心を留めるのでなく、全て
をご支配しておられる神に心を留めた瞬間だったのではないでしょうか。
そして「死ななければならないのなら、死にます」と、神の摂理に全てを
お任せする覚悟をもったのです。まだ救われていないのに、なぜここ
まで力強く言うことができたのでしょうか。
A神の摂理を信じた祈り(4:14)
エステルの「勇気と覚悟をもった祈り」に、神が全てを最善に導いて下さる
ことの確信が伝わってきます。神に全てをお任せする、委ねる思いが原点
となっていたのです。どのような時にも神が最善になして下さることを信じ、
勇気と覚悟をもって祈る者とならせて頂こうではありませんか!
 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の為
には、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを知っています」
(ローマ8:28)
11月7日聖日礼拝
説教題
「神殿の大掃除」   
聖書箇所
ヨハネ2章13〜25節
過越しの祭りが近づき、イエス様と弟子たちは宮の中に。その状態を
ご覧になりイエス様は、細なわでムチを作りお叱りになられました。
イエス様のムチは牧者のムチで羊飼いが使う、音で誘導する導きの
ムチであり、暴力的なムチではありません。イエス様は何を示され、
導かれたのでしょうか。イエス様がご覧になられた神殿を具体的に
見ていきたいと思います。

@神殿としての建物(13~17)
 宮(神殿)に入って、最初に見たのが牛、羊、鳩を売る者たち、両替
人達でした。そこで不当な利益をむさぼっており、人の利益や便宜を
図ることを看板にして私腹を肥やしていたのです。神の臨在の場所、
祈りの場所として神聖であるべき神殿に俗気が満ち、金銭欲がみな
ぎっていました。神を礼拝するところ(祈りの家)であるのに、商売の家
になっていたのです。
A神殿としてのイエス様(18~22)
ユダヤ人たちはイエスに、宮きよめをする権威があることを示す「し
るし」をもとめました。質問に対してイエス様は「神殿を壊してみなさい。
私は3日でそれを建てよう」と、十字架で殺され死んでも3日目によみが
えられることを言われました。すなわち救いは、昔ながらの犠牲制度
では不完全であること、完全な救いはご自身が完全に建て上げることを
言われました。そして礼拝の中心となるのは、イエス様ご自身であり
「神殿」そのものであり、完全な救いについて示されたのです。
B神殿として与えられた体(23~25)
神を信じる者のただ中に、神がご臨在下さる「神殿」としてくださる
(Tコリント3:16.17)のです。ですから、私たちは神が喜んで下さるよ
うに、「人のうちにあるもの」を知っていて下さるイエス様に自分自身
の心を砕いて頂き、きよめて頂こうではありませんか。
神殿の大掃除(宮きよめ)によって、私たちは完全な救いが与えられ、
さらに私たち自身も生涯かけて「金のように、銀のように純粋にされ
る(マラキ3:1~3)」のです。その為にも心砕き、悔いた心で神の前にひれ
伏す者とならせて頂こうではありませんか!

10月31日聖日礼拝
説教題
「シャロームの完成」   
聖書箇所
黙示録21章22節〜22章5節
「新しいエルサレム」(黙21:2)は、イエス様の再臨の時に神から与え
られる神を礼拝する神の国(教会)であること。神は、私たちを喜び、
楽しんで下さる、つまり「シャローム」を完成させて下さったのです。
シャロームは、平安、平和と訳される個人的な救いだけではなく、
神との罪による隔たりが天地宇宙において完全になくなる「神の
平和」と捉えるべきです。神の平和、シャロームが、新しいエルサレム
においてどのように与えられるのかを見ていきたいと思います。
@栄光と誉れとを携えて来る(21:26)
新しいエルサレムは、太陽も月もいらないほど、神の栄光が都を
照らし、子羊イエスが都のあかりだからです。そこに夜(暗黒や影)が
ないのは、夜を支配するサタンが完全に滅ぼされたからです。そこで
神であられる主と子羊なるイエスに「栄光と誉れを携えて来る」とは
栄光を帰す、神のみを崇める、賛美する者とならせて頂くという
ことです。主の祈りで「願わくは、御名を崇めさせ給え」と祈りますが、
新しいエルサレムにいる者にとっての願いがこのことに尽きるのです。
ハレルヤ!ハレルヤ!と叫ぶ多くの喜びと感謝の叫びで満たされて
いるのではないでしょうか。
Aいのちの水の川といのちの木がある
エデンの園を潤すために、1つの川が与えられました。いのちの水の
川は天地を潤し、その恵みが人を豊かにしたのです。その後、人が
罪を犯したゆえにエデンの園から追放され、永遠のいのちを与える
いのちの木(創3:22)への道も遮断されて(創3:24)しまったのです。しかし、
新しいエルサレムでは、神の平和が完成し、いのちの水の川といのちの
木が再び与えられるのです。いのちの水の川、いのちの木は、そこに
いる人々に永遠のいのちの感謝と喜び、賛美となるのです。さらに
神を、子羊イエスを永遠の王として崇める特権に与かれるのです。
そこで「子羊のいのちの書」に名が書かれていない(自分の罪を悔い
改めず、神との関係回復に背を向けた)人々は、この新しいエルサレム
に入ることができないのです。「子羊のいのちの書」に名が記入される
方々が1人でも多く与えられますように日々、シャロームの完成を待ち
望みつつ、私たちクリスチャンは、祈りの手を上げ続けようでは
ありませんか。
10月24日聖日伝道礼拝
説教題
「新しい天と新しい地」   
聖書箇所
黙示録21章1〜4節
黙示録は、世の末に神の裁きが起きる…と何か、恐ろしい書と
いうイメージがありますが、実はそうではないのです。むしろ
「幸い」というキーワードが7回も出て来る「希望の書」でもあるの
です。神様が私たちに与えて下さった希望、それはまさしく「新
しい天と新しい地」なのです。具体的に見ていきたいと思います。
@以前の天と以前の地が過ぎ去った後に(1)
 現在の地球は、罪によって汚染された天地です。罪の世界
での生活は、神を信じる者にとって、悩みが多い(詩篇34:19)
ことでしょう。神様は私たちのことを心配していてくださり、このまま
放棄されることはないのです。既に「新しい天と新しい地」を備えて
くださっているのです。その為にも、まず以前の…罪に汚染された
天と地は、滅ぼされる(Uペテロ3:7~10)のです。
A新しいエルサレム(2)
 新しい天と新しい地の中心が「新しいエルサレム」なのです。
これはキリストのからだである教会の象徴です。ですから、
現在のエルサレムでなく、新しく造られた神の民の中心地なの
です。その新しいエルサレムの目的は、神様の「喜び」であり、
その民、神を信じる者を「楽しみ」として(イザヤ65:18,19)
下さる為なのです。
B神の幕屋が人とともにある(3)
 幕屋は、神様のご臨在を象徴するものです。神様が私たちと
ともに住んで下さる、つまり私たちは、神様との新しい交わりが
与えられます。神様と人間の関係は、アダムが罪を犯す前の
状態「非常に良かった」(創世記1:31)の関係に回復されるのです。
私たちの敵である死を始め、悲しみ、叫び、苦しみもなくなります。
神様が「彼らの涙をすっかりぬぐいとってくださる」からです。
神様が創造される「新しい」は、ギリシャ語カイノスで、古びない
新しさを意味しています。
私たちが、この地上での生活のみを希望として生きていくのでなく、
神様が備えて下さっているこの「新しい天と新しい地」を希望として
生きていく時に、私たちの心の奥底から「ハレルヤ!!ハレルヤ!!」と
神様を崇め賛美する日々が与えられるのです。さあ「新しい天と
新しい地」に立っている自分の姿を想像して、日々の喜び、希望
として感謝しつつ過ごさせて頂こうではありませんか。ハレルヤ!!
10月17日聖日礼拝
説教題
「神に委ねる時」   
聖書箇所

Tサムエル記23章1〜5節

  詩篇28篇7節

神に委ねた生き方と自分に委ねた生き方があります。皆さんは、
どちらの生き方を選ばれますか?聖書の中に、この生き方をした
2人の人の生涯が記録されています。サウル王と後のダビデ王です。
2人とも神から選ばれた人でした。しかし、その生涯は2つに分か
れたのです。自分に委ねた(主のことばを退けた)生き方をした
サウルは、王位から退けられ敗北した生涯となりました。ダビデは、
神に委ねる生き方を選んだのです。「神に委ねる時」は、
どのような生き方になるのか、ダビデの姿から学びます。
@主に伺う生き方(2,4)
ダビデに「ペリシテ人がケイラを攻めている」ことが知らされます。
その時、ダビデは自分の考えに頼ることなく、まず「主に伺った」
のです。つまり、主の御心を求めたのです。それはどうしてで
しょうか。「主」と言う言葉に注目したいと思います。「主」とは、
旧約聖書では、創造主なる神です。ダビデにとって「主は私の力、
私の盾」と信仰告白をしています。神様は、自分を生かす原動力
であり、神様によって自分は守られている。主の御心にこそ自分の、
人々の救いがあることを信じていたのです。その信仰があった
からこそ、「主に伺う」ことができたのではないでしょうか。

A主のことばに従う生き方(5)
 部下が恐れて不安な中にあっても、その不安に流されず、ただ
ひたすら主のことばに寄り頼みました。ダビデは主のことばを聞い
てすぐに「ケイラに行き、ペリシテ人と戦い」ました。そして「ケイラ
の住民を救った」のです。もしダビデが、この時主のことばに従って
いなかったらどうだったでしょうか。主のことばを退けていたら、
サウルと同じように敗北していたのではないでしょうか。
主のことばに従う時にこそ、神様の大いなるみわざが実行されて
いくのです。

「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。
それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝
しよう。」詩篇28:7この御言葉は私たちにも与えられているのです。
感謝します!
10月10日聖日礼拝
説教題
「良心が麻痺する時代に」   
聖書箇所

Tテモテ4章1〜11節

「良心が麻痺しており」の直訳は「焼き印を押される」です。サタン
の焼き印のために善悪の判断ができなくなってしまった状態、
これはパウロの時代であり、今の時代でもあり、未来の時代でも
あるのではないでしょうか。人間の儀式だけでは、罪の問題を解
決することはできない。それはサタンの所有物として焼き印が押
されてしまっているからなのです。この人間社会の中で、やはり大
きく取り上げられる問題の根源は、やはり罪とつながるのではない
でしょうか。またこの罪と言う問題は、昔も今もわらない共通問題
です。「良心が麻痺する時代に」それは、どのような時であり、何を
なすべき時なのか見ていきたいと思います。
@心を奪われる時(1)
惑わす霊(人を正統的キリスト教から迷い出させてしまうサタン)と
悪霊の教え(サタンが偽教師を用いて説く教え)によって、私たちの
心は奪われます。1人でも多くを滅ぼそうとするサタンの執念を思わ
ざるを得ません。これは「後の時代(差し迫った時)」なのです。まさに
サタンに焼き印を押されてしまい、善悪の判断ができなくなってし
まって、心奪われた状態です。善悪の判断ができなくなっている例
として…結婚をすることを禁じたり、食物を断つことを命じたり…
様々な教えが、偶像の神を生み出していきました。では心を奪われ
ないためにも、私たちはどうするべきなのでしょうか。
2,敬虔を修行する時(7)
 敬虔(神を敬う)のために自分を鍛錬(新改訳)、修行(口語訳)し
なさいと書かれています。偽りの教えに対する最大の戦略は@良き
教えのことば(キリスト・イエスの教え)によって養われる、自らを訓練
するのです。A俗悪で愚にもつかぬ空想話を避ける。この修行は、
「今のいのち」と「未来のいのち(永遠のいのち)」に有益です。
この時こそ私たちは、今の時代の状態、心を奪われる「良心が麻痺
している」時代であることをしっかりと見据えて、敬虔の修行をする者
とならせて頂きましょう。いかに厳しいものであるかもしれませんが、
生ける神に望みを置く時に、私たちは、この教えに生きる者とならせ
て頂くのです。
10月3日聖日礼拝
説教題
「永遠の大祭司」   
聖書箇所

へブル7章23〜28節

「天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方
です」と言われています。大祭司とは、誰を指し示しているので
しょうか。なぜ私たちにとって必要なのでしょうか。大祭司と私た
ちの関係を見ていきます。

@神から与えられた律法と祭司制度
 恐怖、不安などを取り除くために多くの人々は、超越を超えた
存在、神に近づこうと救いを求めた結果、時代を超えて多くの
宗教が誕生してきたのではないでしょうか。そこで、創造主なる
神は、人間が神と交わりを持つことができるように、律法と祭司
制度を与えて下さいました。
律法は「鏡」のようであり、律法を通して、私たちは自分の姿に
気づかされ救いを求める機会になります。律法は神が私たちを
束縛するためではなく、神との関係を回復するための神からの
救いの手引きなのです。
神から与えられた祭司制度により、年に1度、贖いの儀式が
大祭司によって執り行われていました。祭司は(神と人の間の
橋渡しをする役目)民の罪のためにいけにえをささげるのですが、
まず大祭司本人が、自分自身の罪のためのいけにえをささげる
ことから始まりました。このことからも、人間によってささげられる
犠牲は、不完全であることが伝わってきます。この儀式は毎年繰り
返し行われ、人間の罪を取り除くことはできなかったの
です(へブル7:18~19)。
 私たちを完全に救うために必要な方(ふさわしい方)は誰でしょうか。
A神から与えられた永遠の大祭司
 私たちに完全な救いを与えて下さったのは、大祭司キリスト・
イエスです。罪も汚れもないイエス様は、十字架の死によって、
救いを完了して下さったのです。滅びより救い、いのちを与える
ために、自分自身をささげてくださったのです。それゆえに、私た
ちはイエス様を救い主として信じるだけで、神との関係が回復され、
交わりが与えられるのです。
永遠の大祭司イエス様は、今も生きて、私たちのためにとりなして
くださっています。
 日々の生活において、あわれみと恵みを頂いて、おりにかなった
助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうでは
ありませんか!(へブル4:14~16)
9月26日聖日伝道礼拝
説教題
「すべての人に与えられている」   
聖書箇所

ローマ1章16〜17節

パウロは、この「すべての人に与えられている」のは「福音であり、
イエス・キリストそのものである(ローマ1:2~4)」と語っています。
イエス・キリストを通して現わされた「福音」について、具体的に
見ていきたいと思います。
@神の救い
 神の救いとは、神による恵みのわざを示します。人間が生きる
にあたって災害、不幸、外敵、病気などにおいて神の救いが聖書
に記録されています。「わたしは主、あなたをいやす者である。」
(出エ15:26)救いによって、神がおられることを、神が救い主である
ことを指し示すためでした。そして何よりも救いの中心的な意味は、
罪ゆえに滅びゆく人間に永遠のいのちを与えることです。救いを
完成させるために、イエス様を人の子として遣わされたのです。
A神の力
 神の力は、人間を変え、人生を変えることができるのです。その
例として出エジプトの出来事、パウロやザアカイを始め、聖書の中
には、神の力によって新しい生き方を与えられた人々が、多く記録
されています。イエス様の十字架による救いを信じた時、私たちの
罪は赦され平安と喜び、また罪に打ち勝つ力が与えられるのです。
罪びととして滅んでもおかしくない存在の私たちに、永遠のいのち
が約束された新しい人生が与えられるのです。
B神の義
 神は義なるお方であるからこそ、罪を悔い改める者に対して、
赦しを与えて下さるのです。罪ゆえに神との関係が崩れていまし
たが、神の救いを信じる時、神との関係が正しくされる存在(義人)
となるです。まさに神の義は、神の教えを心に持つ(イザヤ51:1,7,8)、
救いそのものです。

この福音は、どうしたら与えられるのでしょうか。「義人は信仰に
よって生きる」と書かれています。信仰とは「神が与えて下さった
福音を信じる」ことなのです。さあ、神の福音に生きる者とならせて
頂こうではありませんか。信じた瞬間から、神の救い、神の力、
神の義が私たちの生活のただ中で、成就していくのです。ハレルヤ!
9月19日聖日礼拝
説教題
「主に立ち返る時」   
聖書箇所

申命記30章1〜10節

 イスラエルの人々は、エジプトから出て、この荒野を旅する中で、
神の御業を身近で見て体験してきましたが、人々は神との契約を
捨て、他の神々を拝みました。そのような時、神は激しい怒りを
もって滅ぼされるお方でもあるのです。しかし主に立ち返るならば、
再び約束の地に連れ戻し繁栄させて下さる、と祝福を約束して
下さったのです。「主に立ち返る時」とは、どのような「時」なのか、
聖書から学びたいと思います。
@心に留める時(1節)
 神はイスラエルの人々に、祝福とのろい(申命記28章)を告げら
れました。そこで「主だけが神である」ことを知り、心に留める(自ら
反省する、考えてみる)ことを求められたのです。先ずは自分の心
の状態に気づかされることが大切です。
A御声に聞き従う時(2,8,10節)
 神の「御声に聞き従う」ことによって、神の祝福に連れ戻してくだ
さいます。また心を尽くし、精神を尽くして(全心全霊で)神を
愛する(アーヘイブ:神が人を愛される時に用いられる語)ことに
よって人は、生きる命を得るのです。まず心を包む皮(かたくな
な心)を切り捨て、心を開き、みことばを聞いて従うことが、神を愛
することにつながるのです。
B神が私たちを栄えさせ喜ばれる時(9節)
 かつて、神に背を向けている人間の姿を見て「主は、地上に人を
造ったことを悔やみ、心を痛められた」(創世記6:6)にも関わらず、
立ち返る者を神は栄えさせ、喜んで下さるのです。栄えさせるとは、
あなたを幸せにする、その数を多くされることです。罪深い人間
ですが「主に立ち返る」ことによって、主はあわれんで、豊かに赦し
て下さり(イザヤ55:7)さらに、喜んで下さるのです。
 私たちの心がいつも主に立ち返っているか、心に留めながら、
神のことばに聞き従う者とならせて頂こうではありませんか。その時、
神の祝福のただ中に生かされていることを感謝する日々となるのです。
    
9月12日聖日礼拝
説教題
「神の臨在」   
聖書箇所

民数記7章89節

見たこともなく、触ったこともなく、聞いたこともない神の存在…
臨在を私たちは、どうしたら確信することができるのでしょうか。
モーセの姿から学んでいきます。
 @主と語るために会見の天幕に入った
 会見の天幕に主の栄光が満ちた(出40:34)ことから、神が民の
間に住んでくださっていることを確信し、神の御住まいとしてイスラ
エルの人々の宗教生活の中心でもありました。モーセは、神を求
めて会見の天幕に入りました。主と語るために、それは「祈り」です。
祈りは神との会話の時、自分の思いを神に知って頂くだけでなく、
神のことばを聞く時でもあるのです。モーセは自分の為に、あるいは
民の為に、神の指示を待つ為にでしょうか。神からの指示通りに幕
屋の建立、幕屋の礼拝に必要なささげ物をした後に、まず何よりも神
を求めて、祈ることを優先したモーセでした。
A贖いの蓋の前にいた
 贖いの蓋:あかしの箱の蓋。2つのケルビム(人間の顔と獣のような
体をもつものの姿で現わされている)が、その翼で贖いの蓋を覆うよう
にしている。贖いの蓋は、十戒の2枚の石の板の真上におかれ、律法
と恩恵(キリスト)の姿を思わされる。
 モーセは贖いの蓋の前にいました。ケルビムは聖なる神の臨在を示
しています。聖なる神の前で自分は罪びとであることを自覚しつつ、
神の前でひれ伏し、厳粛に神を待ち望んでいるモーセの姿が見えて
くるようです。
B御声を聞いた
 神のことばを聞くことができたモーセ。「聞く」ために必要なことは
聞こうとする姿勢であり、まず自分の思いを静めることです。モーセが
神のことばを聞くことができたのも、神の前で心砕かれ、悔いた
心(詩篇51:17)でひれ伏していたのではないでしょうか。その時に、
神は語って下さるのです。
神の臨在を確信するためにも、まず聖なる神の前で1人祈る時間を
生活の土台としていこうではありませんか。「主は彼に語られた」と
ありますように、私たちにも語ってくださいます。ハレルヤ!
9月5日聖日礼拝
説教題
「モーセの祈り」   
聖書箇所

出エジプト記17章8〜16節

モーセは、イスラエルの人々と共に神の約束の地カナンを目指
して旅を続けていました。その旅の途中、様々な困難と直面しま
すが、モーセは常に、神に祈る人でした。この時には、アマレク人
が突然現われ、イスラエルの人々を攻撃(申命記25:18)してき
ました。モーセはまず、ヨシュアに戦いの準備をするように命令
しますが、モーセは人間の力だけに寄り頼んだわけではないの
です。モーセは何に寄り頼んだのでしょうか。モーセの祈りの姿
から学びたいと思います。
@神の杖を持つ祈り(9節)
 神の杖、それは元々モーセの羊飼いの働きをしていた時の
羊飼いの杖でした。その杖が、神が仰るように蛇となり、杖と
なったのです。このことを通して、神が現われた事をモーセが
信じるためでした(出エジプト4:1~5)。この時から、モーセの杖は
神の杖と呼ばれるようになったのです。神を恐れないエジプトに
10の災いを杖を通して神の裁きが現わされました。また荒野にて
の旅でも、杖を通してイスラエルの人々は救い出されてきたの
です。「神の杖を持つ」ということは、神が共にいて下さっている
「神の臨在」のしるしなのです。
「2,3人わが名によりて集まるところには 我もその中に在るなり」
(マタイ18:20)
A手をあげた祈り(11節)
 神は、戦う方法について言われませんでしたが、モーセは
自分が今、与えられている最大の武器「祈り」を通して、敵である
アマレクに向かったのです。「手をあげる」とは、祈りの姿勢を
意味します。神の力を仰ぎ、その力がイスラエルの人々に与え
られるように祈ったのです。これこそ、とりなしの祈りの基本的
態度です。
B支えられた祈り(12節)
 祈りは、体力も精神力も消耗します。この時の戦いは、
夕方まで続いたようです。その間、ずっと神の杖を持ちあげつつ、
勝利を祈り求めていたモーセの手が下がってきた時、
アロンとフルがそれぞれの手を支えたのです。
3人は心を一つにしてとりなしの祈りをしたのです。

モーセ、アロン、フル3人の祈りによって、ヨシュアを先頭に戦った
イスラエルは勝利を得ました。私たちも神の臨在のもと、
神の力を仰ぎ、共に心を一つにして祈る時、神からの多くの
勝利が与えられるのです。
8月29日聖日礼拝
説教題
「日々更新」   
聖書箇所

テトス3章4〜6節

救い主イエス様の十字架によって、私たちは新生と更新の恵み
が与えられました。新生(イエス様を救い主と信じ、新しい心が与
えられる・クリスチャン生活の始まり)の恵みだけにとどまってい
ませんか?この地上において更新の恵みに生かされていく時、
永遠のいのちを喜び、感謝することができるのです。
「更新」の恵みを具体的に見ていきます。

@聖霊に導かれる更新(6節)
 聖霊は、イエス様が昇天された後、私たちに助け主として与え
られました。聖霊は私たちを真理に導きます。聖霊によって私
たちは自分の心で内戦が起きていること、罪を犯させる力がある
ことを気付かされるのです。その時こそ「更新の時」なのです。
神様の前に悔い改め、さらなる救い(更新)を求めるのです。
更新することによって、私たちの心は、日々新しくされ、造り
変えられていくのです。
「心を新たにすることによって、造りかえられ」(口語訳、ローマ12:2)

A永遠のいのちの相続人としての更新(7節)
 永遠のいのち、それはこの地上を去った後も天の御国に
おいて生かされることと同時に、イエス様ご自身のいのち
(Tヨハネ5:20)が与えられる,つまりイエス様に信頼して従う
という生き方が与えられます。永遠のいのちを相続させて頂い
た私たちの心は、やはり日々更新していくことが必要です。
更新することによって、自分の心にある罪が赦され、この地上に
おいて永遠のいのちを喜び、感謝する日々が与えられます。
神様の御名が崇められるのです。更新、日々新しく心を造り
変えて下さるのは、イエス様のことばです。イエス様のことばに
養って頂く更新の時を祈り求めていこうではありませんか。
 「主のように主のように きよくしてください 
この心奥深く 御姿を写して」新聖歌382心から願うのは

「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せ
られてますます新しくされ、真の知識に至らせるのです。」
コロサイ3:9,10)

8月22日聖日伝道礼拝
説教題
「2つのいのち」   
聖書箇所

詩編23篇1〜6節

星野富弘さんの詩「いのちが一番大切だと思っていたころ生きる
のがくるしかった いのちより大切なものがあると知った日生きて
いるのが嬉しかった」この富弘さんが言われている「いのち」は、
心臓の音からも確認できる肉体的ないのちのことを言われている
と思います。2つのいのちの1つは肉体的ないのち。2つ目のいの
ちは「いのちよりたいせつなもの」です。星野さんは具体的に言わ
れていませんが、聖書から受け止めるとしたならば、霊的ないのち。
すなわちイエス様から与えられた新しい心、生き方ではないかと思
います。富弘さんも「いのちより大切なものがあると知った日生きて
いるのが嬉しかった」と言っていますが、ダビデもその喜びをこの
詩篇23篇で歌っているのです。ダビデは若いころ羊の牧者であり、
神様と自分の関係を牧者と羊にたとえて神様のすばらしさを賛美
しています。イエス様から与えられた新しい心、生き方…私たちの
「いのち」となるのは何か、ダビデの賛美から学びたいと思います。
 @主は牧者である(1~4節)
 「主は私の羊飼い」と、神様と自分の関係を明らかにしています。
つまり、自分は羊…牧者である神様に養われている存在である
ことです。牧者は、羊をあらゆる場面において、命をかけて養い
ます。その姿が、そのまま神様であることをダビデは宣言してい
ます。羊はとても弱い動物です。羊を自分に置き換えるほど、
ダビデは自分の無力さ、弱い者であることを認めていました。
それ故に、自分を養って下さる、共にいて下さる神様がおられる
ことは、何と大きな喜び(緑の牧場、いこいの水;生命を支える
ものを与えられる)であり、平安(救いの道に導かれる)と希望
(神様が共にいて下さるから勇気が与えられる)となります。
A満ち溢れたいのち(5~6節)
この地上においては、様々な問題:敵の前であっても、神様が
私たちに必要な平安(備えられた食事によって心身満たされる)と
喜び(あふれるほど神との豊かな交わり)と希望(いつくしみと恵み
が与えられる)に生かされるのです。さらに主の家に住む:安息が
約束されているのです。
 羊飼いであるイエス様が私たちを罪から救うために十字架に
よって死んで下さいました。それゆえに私たちは、あらゆる日々に
おいて平安、喜び、希望が与えられる「満ち溢れたいのち」に
生かされるのです。
8月15日聖日礼拝
説教題
「ためらう時」   
聖書箇所

第一サムエル記13章1〜15節

ためらう…迷いを断ち切る、高ぶりや悲しみなどで乱れた心
をおさえる意味をもちます。自分自身の心にある思いが乱れた
時に思い切った行動へとつながるのではないでしょうか。
今日は、終戦記念日です。この戦争においても多くの方々の
思いがお互いに、ためらいながら展開していったような気が
します。サウルの「ためらう時」がどのような行動へと展開
していったのでしょうか。
@心の変化
 イスラエルの人々は,全ての王国の手から、救い出してくだ
さった神を退けて(Tサムエル8:5~)王を立ててください」と
サムエルに願いました。サムエルは主に祈り、油を注がれた
サウルは王となりました。突然、王になったサウルは戸惑いが
ありましたが、度重なる勝利は自信を与え、謙遜な思いから
高慢(12:25、13:7)と変わっていったのです。つまり神中心
でなく、自分中心の生き方になってしまったのではないで
しょうか。
A心の現われ
 ペリシテ人との戦いにおいて、その「ためらう時」がきた
のです。ペリシテ人は製鉄技術を持つ強力な民族です。戦車
3万、騎兵3千…を見て、イスラエル人は、ひどく圧迫され、
危険を感じ、隠れたり、逃げ出したのです。サムエルに7日間
待つこと、なすべきことを聞く(10:8)ように言われて待って
いたサウルも、目の前のペリシテ人の存在とその動きに恐れを
抱き、ためらう思いを断ち切って…思い切って(13:12)、祭司
の務めである全焼のいけにえをささげてしまったのです。
B何をするべきなのか
 サムエルが到着した時、サウルは自分がしたことを悔い改め
るのでなく、やむを得なく、仕方がなかったことを強調して、
弁明…言い訳をした(11~12)のです。サウルに対してサム
エルは「愚かなことをした…」と嘆きます。サムエルが言った
「私がなすべきことを教えます(10:8)」とは、主のことばを聞
いて、従うということです。そこに、神様の祝福が備えられ
ているのです。
 自分の心の変化に気づかされ、心の現われが「罪」となら
ないように日々、神のことばを聞いて従う者とならせて
頂きましょう。
8月8日聖日礼拝
説教題
「ただ私だけが」   
聖書箇所

第一列王記19章1〜18節

 17章:民を助けての奇跡的行為によって、18章:バアルの
預言者たちとの対決で賞賛されていたエリヤが、19章では
一変した姿に。そこでエリヤは「ただ私だけが」と神様に
訴えることになります。どうして、そのような叫びになった
のか、エリヤの姿を見ていきたいと思います。
@恐れたエリヤ(3節)
エリヤが一変したのは、バアル崇拝者イゼベルのひと言で
した。今にもエリヤを殺すかのように告げられたひと言に
よって、エリヤは恐れてしまったのです。エリヤは荒野にて
「私のいのちを取ってください」と神様に祈り、眠りにつき
ます。肉体的にも疲れ切っていたのでしょう。御使いに
よって食べ物が与えられますが、食べてまた、横になるの
です。それから充分に休めたエリヤは、神の山ホレブに向
かいました。
A失望したエリヤ(10,14節)
 恐れは失望へと私たちを押し出すのです。神様が「ここで
何をしているのか」と神様に声をかけられても、エリヤは
自分のことだけしか見えていませんでした。恐れがエリヤを
支配してしまっていたのでしょう。自分は神様に熱心に仕え
て来たのに…「ただ私だけが」と自分がしてきたことだけを
神様に訴えることしかできなかったのです。失望している
エリヤに神様は、主の前に立つ…神様のことばを聞くことを
求められました。「大風、地震、火の中にも主がおられな
かった」というのは、神様は自然現象の中におられるのでは
ない、ということを明確に示しています。神様はことばで、
ご自身を啓示されるのです。
B希望が与えられたエリヤ(12節)
 恐れと失望で「ただ私だけが」と叫ぶことしかできない中、
神様を見い出すことができなかったエリヤでしたが「かすかな
細い声」を聞くことができたのです。神様が備えておられる計
画@新しい王がたてられるAエリヤの後継者エリシャが与えら
れるBバアルを崇拝しなかった7千人を残している、と告げてく
ださったのです。その計画は、エリヤにとって大きな慰めで
あり、希望となったのです。
 私たちにとって恐れ、失望に感じるただ中にあっても、
主は細き御声をかけてくださり、私たちは希望が与えられる
のです。

8月1日聖日礼拝
説教題
「実を結ぶ秘訣」   
聖書箇所

ヨハネ15章1〜8節

 旧約聖書では、イスラエルがぶどう畑やぶどうの木に例
えられています。良いぶどうの木であったはずのイスラエ
ルが、悪い実を結ぶ結果となってしまった。そこで神は、
御子イエスを救い主としてこの世に遣わされました。イス
ラエルだけでなく、人間すべてに罪が存在し、良い実を結
ばせるのが難しくなったのがこの世の状態です。そこで
「実を結ぶ秘訣」をぶどうの木を通してイエス様が教えて
くださったのです。神が農夫で、イエスをぶどうの木とし
て今、生かされている枝としての私たちの姿は、教会その
ものの姿です。
実…@悔い改めの実A御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、
親切、善意、誠実、柔和、自制)B奉仕の上に結ぶ働きの実

@刈り込みをする(2節)
 刈り込みは、さらに実を結ばせるために必要な過程です。
注意深く枝を見て、切り捨てるのです。刈り込むという
言葉は、きれいにする、清める意味が含まれています。
私たち1人1人が多くの実を結ぶためにも、農夫である神が、
責任を持って私たちの姿を見、実を実らせるために不必要
な思い、行い、言葉…であることを気付かせて下さり、私
たちは悔い改め、さらなる清めを求めていくことができる
のです。

Aイエス様にとどまる(4節)
とどまる枝に対して木は、常に樹液やいのちの力を供給
しています。イエス様も私たちのために、ご自分のいのち
を捨ててまで、私たちに永遠のいのちを与えてくださった
のです。イエス様からのいのちの水、いのちのパンとなる
のは、イエス様のことばそのものなのです。イエス様にと
どまるためにも私たちは日々、イエス様のことばを聞くこと
です。それが私たちにとって、いのちとなって多くの実を
結ぶ秘訣となるのです。

あなたにしか結ぶことができない実、あなただからこそで
きる実があるのです。自分はどのような実を結ぶことがで
きるのか農夫である神に、木であるイエスに「今この時も
真のぶどうの木につながり、実を結ぶ者としてください」
と祈っていこうではありませんか

7月25日聖日伝道礼拝
説教題
「いのちなるキリスト」   
聖書箇所

ガラテヤ2章20節

パウロにとってなぜ「いのちなるキリスト」なのでしょうか。
@私はキリストとともに十字架につけられた
 パウロは自分を「自分でしたいと思う善を行わないで、
かえって、したくない悪を行っています」「罪人のかしら
です」「ほんとうにみじめな人間です」…つまり罪の奴隷
であると捉えています。神の前で自分が一人の罪人である
ことを自覚した時に、キリストの十字架をただ客観的に受け
入れるだけでなく、自ら一人の罪人として死ぬべき体である
とした思いが「キリストとともに十字架につけられた」と
いう言葉になったのです。しかしパウロが、自らの罪の罰と
して十字架によって死んでも救いにはならないのです。完全
なる救いを与えてくださったキリストとともに十字架にかか
ることに意味があるのです。キリストと1つになって死ぬこと
です。「死ぬ」とは、今までの罪の奴隷となっていた生き方
から解放されることです。
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、
罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷で
なくなるためであることを、私たちは知っています。死んで
しまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:6~7)
Aキリストが私のうちに生きておられる
自分自身の十字架経験をした時に、そこで死んで終わるの
でなく、復活してくださったイエス・キリストとともに生き
る新しい生き方が与えられます。十字架を通して現わして下
さった神の愛に日々生かされていることを思わざるを得ない
日々となります。日々の生活の中で外側から、また自分自身
の内側からでてくる様々な思いが、神から私たちを遠ざけよう
と、罪を犯させようとするただ中にあっても、私たちはそこで
罪を犯さない、いのちを選んで、勝利を得ることができるの
です。そんな自分の生き方に気づかされる時、自分の力で生
きているのでなく、今「キリストが私のうちに生きておられる」
ことを告白せざるをえないのです。
 パウロも多くの患難、苦しみ、迫害、飢え、危険…を体験
しました。しかし、パウロがイエス・キリストを信じ続けた
のも、自分が罪深い弱い人間であることを認め、その古い生
き方を十字架にかけ、死んだことによって新しい生き方が与
えられ続けたからです。「キリストが私のうちに生きておら
れる」生涯を歩んだパウロ。この生涯は、キリストを信じる
1人1人にも与えられているのです。「いのちなるキリスト」
をこれからも信じて、歩ませて頂こうではありませんか。

7月18日聖日礼拝
説教題
「パウロの祈り」   
聖書箇所

エペソ3章14〜21節

この3章に書かれているパウロの祈りは、とりなしの祈り(互いの
ために祈りなさい。ヤコブ5:16)です。どのようなとりなしの祈りだっ
たのでしょうか。先ずパウロの祈りの姿勢から見ていきたいと
思います。
@パウロの祈りの姿勢(14?15、20~21)
「私はひざをかがめて〜父の前に祈ります」とあります。ここから
パウロの信仰が見えてきます。父なる神の前に屈服し「栄光が、
世々にわたって、とこしえまでありますように」と、神に栄光を帰し
ています。神の前に襟を正し、へりくだった思いと同時に、全ての
者の父としての神を信頼しているパウロの信仰が、祈りの言葉と
なっていることがわかります。
A個人に対する祈り(16~17a)
 新しい心、生き方を与えられたクリスチャンとして「内なる人を強
くしてくださいますように」つまり、罪と悪に打ち勝っていけますように。
その為にも一人一人の心に、イエス・キリストが住んでくださいます
ように、という祈りです。イエス様が住んで(永住)下さる時、私たちの
心は常にイエス様のことばによって、生かされていくのです。
様々な罪、悪魔にも打ち勝ち、また多くの悩み、悲しみにも勝利、
感謝が与えられるのです。イエス様に知られたくない心の部屋は
ないでしょうか。自分の心、どこにでもイエス様がおいでになって
も大丈夫でしょうか。日々新たな思いで「イエス様、私の心におい
でくださり、日々新たに力を与えて下さい」と祈る者とならせていた
だこうではありませんか。
B教会に対する祈り(17b~19)
 「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」とは、イエス様の愛に生
きるということです。私たちが一人も滅びないようにご自分の命を
捨てて下さったほどの愛によって生かされているクリスチャンは、
「すべての聖徒とともに」…教会において、神の愛の広さ、長さ、
高さ、深さを理解する事ができますように。個人的にでなく「ともに」
が大切なのです。教会は、ともに神の愛をお互いが理解できるよ
うに、祈り支え合っていく。そして神ご自身の満ち満ちたさまにまで、
私たちが霊的にも成長していくことが大切であることがパウロの祈り
からも伝わってきます。
クリスチャンが表面的な一致によって助けを求めることをやめ、
キリストへの変わることのない献身により、神の御座のもとに一つ
になることを求め、神の御霊の力を求めてやむことのないとりなし
をしていくとき、教会は美しい衣を身にまとい、力をつけ、世に打ち
勝つのです。(アンドリュー・マーレ―「とりなしの奥義」より)

7月11日聖日礼拝
説教題
「アテネ伝道

    〜知られない神に〜」
聖書箇所

使徒の働き17章16〜28節

シラス、テモテよりもひと足先にアテネに着いたパウロが見たもの。
それは多くの偶像であり心に憤りを感じ(心を傷め)ました。アテ
の状況とそれに対するパウロの対応を見ていきたいと思います。
@アテネの状況(16〜21節)
 アテネは、エピクロス派とストア派の哲学者もいて、人々は何か
耳新しいことを話したり、聞いたりして過ごしていました。ゼウスの
神を中心とした12人の神がいて、その他に何千何百という神々が
いる多神教の国家でした。その神々が、人間と同じように罪を犯す
とゼウスが罰を与えるのでした。この宗教は人々に善と悪、命と
死の問題に対して、真の解答を与えることが出来ず、人々は哲学
に自分の思いを向けたり、生きる真の目的を追い求めことでしょう。.
自分たちが拝んでいない神がいないように、拝まなかったゆえに、
その神から復讐されないよう自分が知らない神「知られない神に」
といった祭壇まで築いたのです。

Aパウロの対応 (22〜31節)
 パウロが見(観察し)て、アテネの状況を把握してとった対応は
「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と真の
救い(イエスと復活)を語ることでした。キリスト教の神は@造られ
た神でなく、創造主であること。A神は万物を支配している。つまり
私たちは神によって生かされていること。B神は正しい裁きを行う
方であるから、悔い改めることを教えました。しかし、イエスの
十字架と復活の話を聞いて、あざ笑ったり、またいつか聞くことに
しようと「信じる」ことを延期したりする人々がいました。しかし、
その中にあって信じる人々もいたのです。

パウロのアテネにおいての伝道は、失敗したかのように感じますが、
神様は「信じた人々」を祝福して下さり、時を超え今、ギリシャには
多くのキリスト教会があります。私たちも、現実の状況を見た時、
傷めた心を祈りに変え、真の救いについて語る者とならせて
いただこうではありませんか。

 
7月4日聖日伝道礼拝
説教題
「川辺での出会い」
聖書箇所

使徒の働き16章6〜15節

「川辺での出会い」が、ヨーロッパ最初の教会:ピリピ教会
へとつながっていきます。パウロは、イエス様に出会って
から、多くの人々にもこの救い:福音を伝えたい!と伝道旅行
に3回、出かけます。今日のピリピでの伝道は、2回目の伝道
旅行における出来事です。「川辺での出会い」に至るまで、
どのような道筋だったのでしょうか。
@神の導きがある(6,7,10節)
 パウロ達は、アジヤ(今のトルコ)に行きたいと思って
いましたが、神(聖霊,イエスの御霊)の導きによって予定が
変わりました。閉ざされた理由は書かれていませんが、自分
たちの計画が進まない何か理由があったと思います。その旅
の途中で幻を見ます。マケドニヤ人が「私たちを助けて下さ
い」と懇願したのです。そこでパウロ達は今まで、自分たち
の計画が進まなかったのは、「神が私たちを招いて、彼らに
福音を宣べさせる」ためであったことが分かり、神の導きで
あることの確信へとつながったのです。「あなたの目はあな
たの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、
あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言う
ことばを聞く(イザヤ30:20,21)
A救いがある(15節)
 ユダヤ人は10名程集まるとシナゴーグという会堂を作りま
すが、それ以下だと水辺で祈り会をします。その祈り会の中に
王族、貴族に高級な生地を納品する商人であり、神を敬うルデ
ヤがいました。神はルデヤの心を開いてくださり、パウロの語
る事、福音に心を留めるようにされたのです。そこで、ルデヤ
は心に留めるだけでなく、信じてバプテスマを受けました。
その喜びが家族の救いへとつながったのでした。さらに「私の
家にお泊りください」とパウロ達に申し出ます。ルデヤの喜び、
熱心さによって、パウロ達のこの町における住まい、拠点…
ピリピの家の教会として用いられ、ピリピ教会の礎となった
のです。 
 パウロ達のように、私たちも日々主と共に歩む中で、自分が
歩むべき道に導かれるのです。そして、これこそ神の導きであ
ることを確信し、また人、出来事と出会うこところには必ず
救いへの道があり、ルデヤの救いがピリピ教会の礎となった
ように、大いなる祝福が備えられているのです。

6月27日聖日伝道礼拝
説教題
「クリスチャンの喜び」
聖書箇所

ローマ5章1〜5節

 パウロはユダヤ教の「最も厳格な派に従ってパリサイ人として
生活(使徒26:5)」をし、イエス様の弟子達に対する「激しい怒りに
燃えて、ついには国外の町にまで彼らを迫害(使徒26:11)」してい
ました。キリスト者迫害運動で活躍していたパウロ(サウロ)の生涯を
通して「クリスチャンの喜び」を具体的に見ていきたいと思います。
@神との平和を持っている(ローマ5:1)
 サウロはいつものようにキリスト者を迫害しようと道を進んで
いる時に、天からの光に照らされます。「なぜわたしを迫害する
のか」と復活されたイエス様の声を直接聞いたサウロは、目が見え
なくなります。そこで衝撃を受けたサウロは自分のしてきたことを
振り返り、悔い改めへと導かれます。悔い改めることによって神
との関係が回復したパウロは「神との平和を持っている」と確信
して告白できたのです。また「神の栄光」、つまり神と共に生きる
ことが大いなる喜びとなったのです。。
A神の愛が私たちの心に注がれている(ローマ5:5)
 「患難さえ喜んでいます。〜患難が忍耐を〜忍耐が練られた
品性を〜練られた品性が希望を生み出す(ローマ5:3~5)」のです。
パウロは、伝道であまり成功しない時、共に励んでいたバルナバや
ペテロとの対立。伝道中の投獄だったり、教会内の問題が起き
たり…ある本では「苦難の連続でした」と紹介されています。その
ような患難も喜びにつながるのは、患難を歓迎しているのでも、
自分が強い人間であることを誇示しているわけでもないのです。
そのような患難の中にあっても、喜びを与えて下さるキリスト・イエス
を崇めているのです。
神の愛が心に注がれている…パウロが力強く語っているのも、
パウロ自身が神の愛を感じないではおられなかったことが伝わって
きます。
 クリスチャンの喜びは、「神との平和を持っている」「神の愛が
私たちの心に注がれている」からです。礼拝を通して、日々聖書を
通して神のことばを聞くことによって、またこの自然界を通して、
人を通して神の愛は確かに、注がれているのですから、
神の愛に押し出された人生を歩みだそうではありませんか!

6月20日聖日礼拝
説教題
「主なるクリスチャン」
聖書箇所

ピリピ4章1〜7節

パウロとシラスの伝道によってできたヨーロッパ最初の教会が、
ピリピに誕生しました。その後ローマに捕らわれ、獄中にいる
パウロにピリピの教会から近況報告と心からなる献金が届きます。
その礼状として書かれたのが4章になります。
神様がパウロを通して教会においてのクリスチャンのあり方を
見ていきたいと思います。
@主にあってしっかりと立つ(ピリピ4:1)
 パウロにとって喜び、冠は、ピリピの教会の方々が、イエス様を
救い主と信じる信仰でした。イエス様を救い主と信じて「しっかりと
立つ」とは、イエス様との生きた交わりがあるということです。生きた
交わり、イエス様のことばを日々聞いて、応答する関係です。
その中で、信仰が揺るがされず、しっかりと立つ者とならせて
頂けるのです。
A主にあって一致する(ピリピ4:2)
 一致するとは、機械的に同じ思いになる、ということでは
ありません。かと言って、各自が自己中心にする!という事でも
ないのです。「主にある」この言葉が鍵になります。主の思いを
求める、つまり「主のことばに立ち帰る」ことです。この時、私た
ちは主の前にへりくだり、相手の思いを寛容な心で受け止め、
一致へと展開していくのです。 一致することによって福音を
広めるために、お互いに真の協力者となることができるのです。
B主にあっていつも喜ぶ(ピリピ4:4)
 いつも喜ぶ、寛容な心を示す、思い煩わない勧めがあります。
勧めがある、ということはそれが「なかなかできない、難しい」
ということです。その中、クリスチャンが「できる」秘訣は、
神の平安が私たちの心をキリスト・イエスにあって守ってくださる
からです。
主にあって…救い主イエス様との生きた交わりがあるからこそ
「しっかりと立つ、一致する、いつも喜ぶ」時が与えられるのです。
神様から与えられている教会生活を、私たちは「主にある
クリスチャン」であることを感謝しつつ、自覚しつつ送らせて
頂こうではありませんか!

6月13日聖日礼拝
説教題
「神のことば」
聖書箇所
へブル4章12〜16節

イザヤ55章10〜13節
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰に
よる救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の
霊感によるもので〜(Uテモテ3:15~16)」。 キリスト教では、聖書
を「神のことば」と信じています。神のことばを信じて生きる時に、
神の祝福が実現していくのです。それはなぜでしょうか。
@必ず成し遂げ、成功させてくださる(イザヤ55:11)
 「光があれ」と、神が言われた時に光があり、この宇宙、地球…
ついには、人間を創造されたのです。神のことばによって命が与
えられたのです。命、神の祝福そのものではないでしょうか。神
のことばは、生きていて、力がある(へブル4:12)。つまり「生き
ている」…命があり「力がある」…物事を起こして下さるのです。
人間の目では不可能なことでも、神の前では可能なのです。
神のことばは「必ず成る、成功する」ことを信じ通すことが、神の
祝福につながるのです。
A安らかに導く(イザヤ55:12)
 この「安らかに」には、喜びが伴うのです。神は私たち以上に、
私たち1人1人の心の思い、状態をご存知です。「神の前では隠れ
おおせるものは何一つないのに〜弁明するのです(へブル4:13)」
これが人間の無力さ、罪の姿なのです。しかし、このような罪深
い私たちに与えられているのが「大祭司である神の子イエス」です。
罪赦された喜びを土台として安らかに日々、導かれていくのです。
B永遠のしるしとなる(イザヤ55:13)
 「いばらのかわりにもみの木、おどろの代わりにミルトスが生える」
とは、解放される、救いの結果、大祭司イエスがおられる。神の栄光
があらわされているのです。神のことばによって生かされた、新しい
いのち、生きる力が与えられたことが「永遠のしるし」として残される
のです。
日々の生活において神のことばを信じ、神の祝福のただ中に
生きる者とならせて頂こうではありませんか。


6月6日聖日礼拝
説教題
「愛ゆえの任命」
聖書箇所
マルコ3章13〜19節
 イエス様は12弟子を使命しました。その目的はイエス様の
そばに置いて教育訓練し、派遣して十字架の福音を宣べ伝え
させ、悪霊を追い出すことでした。
 私たちもイエス様を信じる時、この世の立場や職業が何であれ、
この12使徒のように使命が与えられます。それはキリストの
福音をこの世に証言すること。そして心に不自由を覚え、罪に
悩み、慰めを必要としている人々に自由と解放と慰めとを与える
ことです。

 しかし、イエス様が任命された12人は、この世の価値基準では、
最初から意見や社会的立場の対立、性格上の問題がありました。

 なぜ、イエス様はこうした彼らを任命したのでしょうか。そこには
イエス様(神)のご計画と深い愛がある。イエス様は彼らと寝食を
共にし、不完全で未熟な彼らを訓練し、取り扱われた。彼らも
イエス様を愛し、そのみことばに聞き従いました。イエス様はそう
した彼らに力を与え、性格を補い、神の器として用いて下さった
のです。

 彼らがイエス様に従っていく姿は、教会の姿を指しています。
12弟子の集まりは「小教会」です。神は仲間との出会いを愛し
やすい形で用意していません。最も愛しにくい人と、愛しにくい
状態で出会う。そして交わり、一緒に過ごしていく。これをイエス様
が実際にお手本を見せて下さったのです。

 私たちもイエス様を愛し従っていく時に、性格すら取り扱われ、
何の誉れもない者をも神の器としてこの現代に用いて下さいます。
私たちがイエス様と共に歩む時に、キリストにあって一つとなって
いくのです。


5月30日聖日礼拝
説教題
「イエス様から目を離さずに」
聖書箇所
マタイ25章1〜13節
 このユダヤの婚礼のたとえでは、主イエスの再臨を待つ者の
心構えを教えています。「ともしび」(1節)とは信仰。「花婿」(1節)
とはイエス・キリスト。「10人の娘」(1節)は私たち一人一人。「油」
(3節)とは聖霊のことを指しています。

 ユダヤでは先ず花婿が花嫁の家まで迎えに行き、共に花嫁を
連れ帰って結婚式を挙げました。式が一週間ほど続きました。
このたとえでは、花嫁の家では友達が10人出迎えに出た時の
光景が示されています。

 イエス様はこのたとえを通し、私たち一人一人に「油の用意が
出来ているか」を問うています。花婿が来るのが遅いので、10人
の娘はみなうとうとし始めました。しかし、普段から予備の油を
持っている娘は「賢い」と言われています。

 油を持つとは聖霊に満たされることです。そのためには、
普段から御言葉によって心が満たされていなければなりません。
かつて信仰を持って救われ、喜び、信仰のともしびが輝いて
いても、途中で油が尽きてしまうと愚かと言われ、天の御国
(天国)に入れなくなってしまうのです。イエス様から目を離さずに
いることが大切です。

 戦前から当教会を巡回して下さった故井上馨師がこのような
メッセージを残されています。
 「私たちにとって問題なのは、主がいつ来られるかではなく、
今、私たちは主にお会いする準備ができているかということです。
…今という時は私たちにとっては、恵みの時です。今日という日
は救いの日です。」

 
5月23日聖日伝道礼拝
説教題
「悔い改めとバプテスマ」
聖書箇所
使徒行伝2章36〜39節
☆毎月第4日曜日は、はじめての方向けに伝道礼拝を
  行っています。どなたでもお気軽にご参加ください。

 イエス様は、弟子たちに「父(神)の約束(聖霊降臨)を待ちな
さい」と言われました。弟子たちは、イエス様が昇天された後、
一つ所に集まって、祈りに専念していると、父の約束「聖霊降臨」
の時が与えられました。助け主「聖霊」が与えられると、弟子たち
は多くの外国の言葉で、イエス様から教えられたことを伝え始め
ました。そして、教会が誕生していったのです。教会が誕生する
まで、どのような展開があったのか見ていきたいと思います。

 人を恐れて、イエス様のことを三度も知らないと言ったペテロも、
声を張り上げ、はっきりと「イエスを、あなたがたは十字架に
つけたのです」と大胆に語りました。人々はそれを聞いて、心を
刺され「私たちはどうしたらよいでしょうか」と問いかけました。
ペテロはそこで「悔い改めなさい」「バプテスマを受けなさい」と
伝えました。

@悔い改め…イエス様にお会いする
 自分の姿に気づかされ「この状態から救ってください」と、
今までの自己中心的な生き方から、神様に生かされる生き方に
方向転換することです。私たちを完全に救ってくださるイエス様に
お会いすることが、悔い改めなのです。

Aバプテスマを受ける…聖霊の恵みを受ける
 神様と人の前で「主は私の救い主」であると告白するのが、
洗礼式、バプテスマです。バプテスマを受けると、助け主であら
れる聖霊が与えられ、聖霊の恵みを体験することができるのです。
聖霊は、私たちをイエスさまにお会いできるよう、私たちを導く
助け主なのです。「真理の御霊(聖霊)が来ると、あなたがたを
すべての真理(イエス様)に導き入れます。(ヨハネ16:13)

 一人一人が、イエス様にお会いする時、聖霊の恵みを受け、
平安・喜び・確信が力となり、自分がお会いした「わたしの
イエス様」を伝えていくことによって、教会が誕生していったのです。
 日々新たに、イエス様にお会いし、聖霊の恵みに満たされて、
イエス様の証人として生かされることを、共に喜び感謝していこう
ではありませんか。


5月16日聖日礼拝
説教題
「賛美の勝利」
聖書箇所
U歴代誌20章14〜30節
 ユダ王国ヨシャパテ王の時代、モアブ人、アモン人、セイル山の
人々が、おびただしい軍団で攻めてきました。この戦いは、どの
ように展開していったのでしょうか。

@ただひたすら主に求めた
 ヨシャパテは恐れを感じた次の瞬間「ただひたすら主を求め」
たのです。何か作戦を立て直したりするのでなく、全国の人々に
断食を布告し,主に助けを求めたのです。そこには幼子、妻たち、
子どもたちも共にいたのです。この戦いは、心を1つにして主に祈る所から始まっていったのです。

A神の言葉を信じた
 主の霊がヤハジエルに臨み、ヨシャパテ王達の祈りに答えられ
ました。「恐れてはならない」「気落ちしてはならない」「神の戦い
である」「動かずにいよ」「主の救いを見よ」「主はあなたがたと
ともにいる」と。
 神の言葉を聞いたヨシャパテは地にひれ伏しました。人々も
みな、地にひれ伏し、主を礼拝したのです。このひれ伏した、
主を礼拝した、という姿からも「神の言葉を信じた」という確信に
満ちた力強い思いが伝わってきます。

B賛美したその時に勝利した
 戦いが終わっていないのに、大声を張り上げて賛美したのです。
「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と喜びの声、賛美の
声をあげ始めた時、敵の人々は打ち負かされたのです。敵同志の
間で、互いに力を出して滅ぼしあったのです。その分捕りをする
のに3日もかかるほど多くの武具、高価な器具などがありました。
 4日目、ベラカの谷(賛美の谷)で、主をほめたたえました。この
戦いを聞いた地のすべての王国が、神の存在を思わざるを
えませんでした。

 このようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏で神は、周囲の者
から守って、安息を与えられたのです。

 今を生きる私たちにとって、また自分にとって「敵」とは何で
しょうか。敵、自分を滅ぼそうとする人、出来事、病、言葉…と
ありますが、1番の敵は自分自身の心の奥深いところにあるの
です。恐れを感じたその瞬間、私たちもまず、祈りによって賛美の
勝利を得る者とならせて頂こうではありませんか!


5月9日聖日礼拝
説教題
「わたしを通してでなければ」
聖書箇所
ヨハネ14章1節〜11節
 最後の晩餐において「主よ。どこにおいでになるのですか」
「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか」と
動揺し、心騒いでいる弟子達に「あなたがたは心を騒がしては
なりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われた
イエス様。さらに「わたしは場所(天においてのすばらしい場所)を
備えに行くのです〜わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
と。しかし弟子のトマスは「私たちにはわかりません」と言いました。
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、
いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父の
みもとに来ることはありません」(6節)
 どうして、イエス様を通さなければいけないのでしょう。

@道である…贖いの道を与えてくださった
 先ず、神様と人間の関係は罪によって崩されてしまっている
のです。そのために、イエス様は十字架の死を通して、神様と
人間の関係を回復してくださったのです。
 「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちの
ためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(へブル
12:20)

A真理である…イエス様の生き方に現わされている
 ことば=神様=イエス様(ヨハネ1:1,14)であり、これこそ
永遠に変わらない真理、そのものです。イエス様の生き方から
真理を学ぶことができます。
「〜わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが
来ます。」(マタイ11:29)

Bいのちである…永遠のいのちが与えられる
 いのちは、私たちに欠かせない原動力です。この地上だけで
なく、新しい天と地につながる永遠のいのちなのです。永遠の
いのちは、私たちの平安、喜び、希望、感謝につながるのです。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、
死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

 日々の生活の中で、道であり、真理であり、いのちであって
くださるイエス様を、ただ信じる者とならせて頂きましょう!信じる
時に、神様のわざが始まっていくのです。


5月2日聖日礼拝
説教題
「主の日を待ち望む」
聖書箇所
Uペテロ3章1節〜13節
 「主の日」とは、昇天されたイエス様が、再びこの地上においで
下さる「再臨、神の日、神の約束」の時です。その時、イエス様を
救い主と信じる者は、新しい天と新しい地(13節)が与えられますが、
この天の万象は、焼き尽くされるのです(10,12節)。かつてノアの
時代、罪(自分の欲望のままに生きる)ゆえに水で滅ぼされた
ように、次は火で滅ぼされるのです。
 私たちは、どのようにして「主の日を待ち望め」ば、よいので
しょうか。

@知るべきこと(3節)
 キリストの来臨の約束はどこにあるのか…と、あざける者の姿を
通して「今こそ世の末である」と捉えること。まだイエス様は来られ
ない!ではなく、「今こそ」と日々、このことを見据えて生活する
ことが大切です。

A見落としてはいけないこと(8節)
 主がいつ来られるのか、私たちは知ることができません。神様に
とって「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」とある
ように、神様は、時間を超越されているお方です。このことを
見落としてはいけないのです。

B「忍耐深くあられる主」がおられる(9節)
 こうして、私たちが地上において、生活が与えられているのも、
神様の忍耐深さによるのです。すべての人が悔い改めに進む
ことを願っておられます。人を悔い改めに進ませるのは「神の慈愛、
忍耐、寛容」(ローマ2:4)です。

 私たちは、いつ「主の日」がきてもいいように、聖い生き方、
敬虔な人である(11節)ことを求めるようになります。それと同時に
「一人も滅びることがないように」と言う主の望みが、自分の望み
となり、伝道へとつながっていくのです。そして一人の魂が、滅び
から救われた時、神様が喜んでくださいます。神様の喜びが
私たちの喜びとなるのです。これこそ、神様の祝福そのものでは
ないでしょうか!!


4月25日聖日伝道礼拝
説教題
「平安が与えられる」
聖書箇所
ヨハネ14章27節
 イエス様は間もなくご自分が十字架にかかって、全人類の罪の
身代わりに死なれる時が近いことを悟られました。時が迫って
いる中で、弟子たちに語られたのは平安についてでした。

 イエス様の言われた「平安」とは、イエス様がこの世を去った後、
聖霊が与えて下さるキリストの平安(平和)のことです。なぜなら、
イエス様ご自身が「平和(平安)の君」(イザヤ9:6)だからです。

 イエス様の与える平安は、魂の平安のことです。これは罪を
犯して道を見失った者が、イエス様の十字架の血によって再び
神と和解させられたところから来るものです。
 イエス様は「心を騒がせてはなりません」と言われます。この
言葉は、私たちの外部には私たちをおびえさせる事柄が確かに
存在することを示しています。

 しかし、この世の平安と違うのは、どのような状況にあっても
決して失われず、奪われない平安なのです。これは置かれた
環境や私たちの心の状態によって左右されるものではなく、聖霊
によって与えられるものだからです。この平安は信仰を通して、
私たち一人一人に必ず与えられるのです。


4月18日聖日礼拝
説教題
「日々新たにされている」
聖書箇所
Uコリント4章11〜18節
 使徒パウロは、ギリシャのコリント地方に伝道するにあたって
命が危うくなるほどの迫害と苦難に遭いました。しかし、このような
中にあってもパウロは復活のイエス様を信じたことによって、
一つ一つの迫害や苦難を乗り越えることが出来たのです。

 パウロの死の苦難によって、かえってコリントの人々に福音が
伝えらえれ、魂が救われることになりました。宣教における誰かの
労苦が、後の世代の祝福になるのです。
 そして今や、信じる者の内側に与えられる聖霊によって、2千年
前と同じ信仰を今日も証しすることが出来るのです。

 神はイエス様を十字架の死からよみがえらせましたが、
イエス様を信じる私たちをもイエス様の再臨の際には、イエス様と
共によみがえらせて下さいます。そして、神の御前に恐れなく
立つことが出来、苦難に耐える力となるのです。

 信仰を通して復活の命が私たちの内側に与えられ、やがて
天国において永遠の栄光が与えられることを知らされました。
それゆえ私たち信仰者は勇気を失いません。私たちの肉体や、
生まれながらの人間性は衰えても、イエス様によって新しくされた
内なる人(新しい自分)は日々新たにされています。
 そうした私たちの究極的な目的は地上の楽しみでなく、天国に
おける永遠の栄光なのです。


4月11日聖日礼拝
説教題
「わたしの証人となる」
聖書箇所
マルコ15章1〜15節
 復活されたイエス様は、40日間使徒たちに現われ、神の国の
ことを語り、ご自分が生きていることを示されました。昇天される
前に語られたメッセージが「わたしの証人となる」ことでした。
 わたし…イエス様の証人となるとは、まず…

@復活されたイエス様にお会いする(3節)
 証人とは、事実を証明する人、経験した事実を証明する人の
ことを言います。私たちが経験した事実、それは「復活された
イエス様にお会いする」つまり、救いを信じる、イエス様を神の子と
信じることです。私たちが信じるために「数多くの確かな証拠を
もって、ご自分が生きていることを使徒たちに示され」たのです。
イエス様にお会いした経験、自分とイエス様の関係で与えられた
救い、平安、喜び…恵みを語り伝えていくことなのです。使徒たちが
語り伝えたゆえに、今こうして、私たちもイエス様に実際、お会い
していなくても、聖書を通してイエス様にお会いすることができる
のです。

A父の約束を待つ(4節)
 父の約束、それは聖霊(助け主)が与えられるということ(ヨハネ
14:16,26)です。人間の思い、力、情熱は、限度があります。
イエス様と一緒に死ぬことになっても、知らないとは決して言わない、
と力を込めて言ったペテロですが、実際にはイエス様のことを
「知らない」と3回言ってしまう(マルコ14:30,31)のです。この姿こそ、
私たち人間の姿なのです。ですから、私たちは父の約束、聖霊
降臨を待つことが大切なのです。

B再臨を待ち望む(11節)
 昇天されたイエス様は、使徒たちが見た時と同じ有様で、また
この地上においでくださいます。このことを再臨と言います。その時は
いつなのか、わかりませんが、この約束を信じて、私たちはこの
地上生涯を過ごすことが大切です。(新聖歌465)

 復活されたイエス様にお会いした人々は、「みな心合わせ、
祈りに専念」(14節)していました。私たち教会一同、心を合わせ、
祈りに専念し「わたしの証人」として、生かされて頂こうではあり
ませんか!


4月4日聖日礼拝
説教題
「わたしの平安」
聖書箇所
ヨハネ21章1〜14節、14章27節
 一人の罪びととして死んでくださったイエス様。私たちを滅びから
永遠のいのちへと救うために、人の子として働きを成し遂げて
くださったイエス様。十字架の死から3日目、イエス様は蘇られた
のです。それから、イエス様は弟子達の前に現われました。
お姿を見せられて、今回は、3回目。イエス様が与えてくださった
「わたしの平安」について、復活されたイエス様のお姿から、
具体的に見ていきたいと思います。

@共にいてくださる(4節:イエスは岸辺に立たれた)
 漁で、何もとれずにいた様子を、イエス様は岸辺に立たれて
見つめておられました。しかし、弟子たちはそれがイエス様だとは
わからなかったのです。弟子たちの空腹を理解し「子どもたちよ」
とイエス様の親から子への愛のまなざしを思わざるを得ません。
 イエス様がおられることに気づかなかった弟子のように、私たちも
イエス様が、共にいて下さるのに気づかないのが人間の姿では
ないでしょうか。(詩:あしあと)

A教えてくださる(6節:船の右側に網をおろしなさい)
 弟子たちの必要を理解されているイエス様。必要の為に何を
するべきなのか、具体的にイエス様は教えてくださるのです。
イエス様の言われた通りに従った時、弟子たちは自分たちが
必要としていた大漁を体験しました。私たちも日々、聖書を通して
教えて下さるイエス様の言葉に従う者とならせて頂きましょう。

B与えてくださる(13節:彼らにお与えになった)
漁から戻った弟子たちに、イエス様は炭火の上に魚とパンを
すでに備えていて下さいました。私たちの必要を知り、すでに
用意して下さっているのです。そして、私たちに与えて下さるのです。

 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがた
にわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、
世が与えるとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。
恐れてはなりません。ヨハネ14:27


3月28日聖日伝道礼拝
説教題
「完了した救い」
聖書箇所
マルコ15章25〜39節
 受難週に入りました。イエス様が十字架上で発せられたことばを
通して改めて、イエス様の「完了した救い」について学びたいと
思います。                  

@一人の罪びととして死んで下さった(34節)
 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
イエス様は、いつもなら「わが父よ」と神様に呼びかけていました。
それが「わが神、わが神」に代わっている…つまり、神様とイエス様の
関係が崩れたからです。イエス様が全人類の罪を背負って下さった
ゆえに。罪は、神様との関係を崩してしまうほどの恐ろしい存在です。
イエス様は、全人類を滅びから永遠のいのちへと救うために、
新しい救いの道を開くために、十字架で身代わりの罰を受けて、
一人の罪びととして死んで下さったのです。

A人の子としてのお働きを成し遂げて下さった(37節)
 ヨセフ、マリヤの子として30年間過ごされ、伝道されたのは3年間
でした。しかし、その短期間の中でも、イエス様の救いを実現したい!
という情熱は伝わってきます。十字架を前にして「この杯(十字架)を
わたしから取りのけて下さい」「今わたしの心は騒いでいる」と言われ
ています。しかし、イエス様は十字架を決意して、進んでくださいました。
 どのような苦しみ、痛み、悲しみのただ中にあっても、神様の思い
「一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつため」を実現する
ために。
 完了した…とは、完成した、の意味でなく「終わった」「成し遂げた」
の意味です。イエス様は、この地上においての人の子としての働きを
「成し遂げた!!」と痛みの中で、勝利の叫びを大声で言われた
のでした。

 神殿の幕が真っ二つに裂けたのも、神様と人の間に、新しい
救いの道が与えられたことを現わしているのです。またイエス様の
様子を見ていた百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と
言ったように、私たちも日々新たに、イエス様の十字架を通して、
イエス様が救い主、神の子であることを告白する者とならせて
頂こうではありませんか。イエス様から目を離さないでいると、
必ず「わかる」時があります。信じて多くの方々の救いのためにも
お祈りいたします。


3月21日聖日礼拝
説教題
「叫びの結果」
聖書箇所
マルコ15章1〜15節
@イエス様の叫び(1〜5節)
 ローマ帝国の支配下では、ユダヤの最高議会には人を死刑に
する権限がありませんした。そこで祭司長たちは、ローマ総督の
ピラトのもとへイエス様を引き渡し、ローマ帝国へ反逆する政治犯
として訴えたのです。
 ピラトが「あなたが、ユダヤ人の王ですか」とイエス様に尋ねると、
イエス様は「そのとおりです」(以上2節)とお答えになられました。
イエス様は「霊的な王」の意味でお答えになりました。
 イエス様は祭司長たちが多くのことで厳しく訴えても、何もお答えに
なりませんでした。イエス様は十字架につくことを覚悟しており、
沈黙の叫びをもって裁判に臨んだのです。

A群衆の叫び(13〜14節)
 つい数日前、イエス様に向かって「ホサナ」と叫んだ群衆は
「十字架につけろ」(13節)と叫びました。何と変わり方の早いこと
でしょう。これは祭司長たちが扇動したことにもよりますが、群衆は
期待が裏切られたことによって怒ったのです。イエス様を政治的な
解放者だと期待していたからです。期待が外れたというだけの
理由で担ぎ上げた人を投げ捨てる私たち人間の性質は昔も今も
変わりありません。それゆえ人の評価は真には当てになりません。
神に信頼を置くことが大事です。

B叫びの結果(14〜15節)
 「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことに、
気づいていた」(10節)にも関わらず、「群衆のきげんをとろうと
思い、バラバを釈放し・・・イエス様を十字架につけるようにと引き
渡し」(15節)ました。彼は正当な裁判よりも、自分の権力を守る
ことを選んだのです。
 しかしここに救いの真理が隠されています。イエス様が十字架に
付けられることにより、強盗殺人の罪を犯したバラバが死刑を
免れ救われました。イエス様が十字架に掛けられることによって、
私たちの罪が赦され、救われるという十字架の福音のひな型と
なったのです。


3月14日聖日礼拝
説教題
「ロバに乗った柔和な王」
聖書箇所
マタイ21章1〜17節
 本日のテキストにはイエス様が十字架刑を前に、エルサレムへ
入城する際の様子が記されています。

@「主がお入り用なのです」(3節)
 イエス様がお乗りになったのは、大人のロバではなく子ロバでした。
体が小さく、力の弱い子ロバが元大工のイエス様をお運びするのは
大変だったでしょう。しかし子ロバはイエス様への奉仕を全うしました。
 現代の私たち一人一人も、イエス様から「あなたを必要としている」
「神様のご用の一部を担ってくれないか」と声を掛けて頂いています。

Aイエス様は王であり、柔和なお方(5節)
 「柔和なお方」とはしもべとしての救い主を表わします。その使命は
十字架で全人類の罪の贖いのために命を与えることでした。最も
低い所で私たちに仕えてくださったイエス様は、今度は王なる救い
主として私たちの行くべき御国を建てて下さいました。イエス様は
柔和な姿勢で私たちの心を開いて下さるのです。

Bイエス様を心の最も良いところへお迎えする(9節)
 入城されるイエス様に向かって、大人も子供も「ホサナ」(9節)と
叫んで喜びを表わしました。「ホサナ」とは「救って下さい」「助けて
下さい」と言う意味です。神殿に入ることのできなかった盲目の
人々や足の不自由な人々は、神殿の中にいたイエス様のもとに
来て癒やして頂きました。
 一方、エルサレムの指導者たちはプライドゆえにイエス様を
拒絶し、数日後には十字架につけてしまいます。法外な利益を
得ていた神殿の商売人たちは、イエス様に追い出されました。

 私たちも心の門を開き、イエス様を心の最も良い部分(心の
王座)にお迎えし、賛美しつつ歩んで参りましょう。


3月7日聖日礼拝 
説教題
「あらゆる国の人々を弟子とする」
聖書箇所
マタイ28章16〜20節
 本日はイエス様がお命じになられた次の7つのうち、最後の
7番目についてのメッセージです。
@悔い改めて信じる  A信じた人に洗礼を授ける  B神と隣人を
愛する C祈り、神の言葉を学ぶ  D施し(献金)をする  E主の
食卓(聖餐)に与る F弟子をつくる

 「弟子」(16節)とはイエス・キリストの弟子のこと。神は復活された
イエス様に天と地のすべての権威を託されました。(18節)
イエス様の生涯においては、イスラエルの民に福音を伝えることが
目的でした。しかし、イエス様の復活後は、この権威をもってあら
ゆる国の人々を弟子とするよう弟子たちに命じられました。

 次に「父・子・聖霊の御名によってバプテスマを授け」(19節)る
よう命じられました。バプテスマは、神との霊的な交わりに入ることを
意味します。(参照ローマ6:3,4)

 さらに「命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教え」
(20節)るよう命じられています。これはイエス様の教えが、弟子
たちを通して他の人々に正しく教えられ、それが生活の中で生か
されるようにすることです。

 以上のことは、これらは弟子たちも、現代の私たちも自分の
力ではとても成し遂げることが出来ません。そのために、「見よ。
わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます」(20節)
との約束を持って弟子たちを励ましたのです。イエス様はその
お手本として「あなたは見ていなさい」⇒「あなたも一緒にやって
みなさい」⇒「あなたがやってみなさい」と弟子たちを訓練し励ました
のです。

 弟子たちはやがて聖霊の力を受けて全世界へ出て行きますが、
それは世の終わりにイエス様が再び来られる時まで、イエス様の
弟子とされた人々によって忠実に続けられます。先ず各人が神を
礼拝する姿が、次世代を弟子とする大きなきっかけになるのです。


2月28日聖日伝道礼拝  
説教題
「いのちを得る」
聖書箇所
ヨハネ20章26〜31節
 十二弟子の一人トマスは、イエス様が復活された日曜日の
集いに居合わせませんでした。仲間の弟子が「わたしたちは主を
見た」(25節)と言っても、それを信じることが出来ませんでした。
 
 次の日曜日に、イエス様はトマスもいる時に弟子たちのもとに
再び現れて下さいました。トマスは「私の主、私の神」(28節)と
イエス様に向かって告白しています。
 トマスは単にイエス様の復活を認めたのではなく、「私の主」と
呼ぶ関係になりました。イエス様と個人的に親しく交わる関係に
なったのです。

 しかし、現代の私たち一人一人にはトマスよりももっと素晴らしい
約束と祝福が語られています。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は
幸いです。」(29節)
 なんと12弟子のトマスよりも、イエス様を直接見たことはないが
イエス様を信じる現代の私たちの方が幸いだと記されています。

 最後の31節には、このヨハネの福音書が書かれた目的が記さ
れています。
 「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリスト
であることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、
イエスの御名によっていのちを得るためである。」(31節)

 十字架上で私たちの罪の身代わりに死に、死から復活された
イエス様を信じ、永遠のいのちを得て頂きたい。


2月21日聖日礼拝  
説教題
「足の裏」
聖書箇所
ヨシュア記3章6〜17節
 カナン(神様からイスラエルの民に与えられた祝福)の地を目指
した40年に及ぶ旅。モーセの死後、ヨシュアが神様から選ばれて
イスラエルの民の先頭に立ちます。その中でヨルダン川を目の前
にします。どのようにして、渡り切ることができたのでしょうか。

@契約の箱(6節)
 契約の箱には、十戒を刻んだ石の板2枚が収められていました。
十戒は神様から直接与えられた愛の戒めです。これは、単なる
戒めではなく、神様のご臨在と導きを表徴しているのです。ですから
「契約の箱を先頭にして川を渡る」ということは、神様がまず、
私たちの渡るべき道を示し、渡らせて下さる。つまり神様が、私たち
の様々な問題を戦って下さる!ということなのです。

A足の裏(15節)
 「足が水ぎわに浸ったとき…流れ下る水は完全にせきとめられた」
と書かれています。神様のことばを信じて私たちが一歩前に、自分
の足で歩みだす時、足の裏が地面についた瞬間から神様のわざが
はじまっていくのです。ヨルダン川の多くの水がせき止められるとは、
想定外のことだったでしょう。イスラエルの民(100万人以上と家畜
たち)は、ヨシュアを通して語られた神様のことばを信じて自ら、
足の裏を通して歩み始めたのです。

B完全なる救い(17節)
 ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わったのです。渡り終わった…
完全なる救いです。この箇所からも救い主イエス様をみることが
できます。あの十字架上で「完了した」と大声で叫ばれたイエス様。
神様のことばを信じて歩みだす時、私たちに完全なる救いが実現
していくのです。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで
いなさい。」へブル12:2
 1400年後、ヨシュア達が渡り終わったヨルダン川の地点で、
イエス様がバプテスマを受けられたそうです。


2月14日聖日礼拝  
説教題
「ただ、おことばを」
聖書箇所
マタイ8章5〜13節
 カペナウムに、イエス様が入られると百人隊長がみもとに来て、
懇願して言いました。
・「主よ。私のしもべがひどく苦しんでいます。」
・「主よ。あなたを同じ屋根の下にお入れする資格はありません。
ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」
・私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいま
して、そのひとりに『行け』と言えば行きますし〜『これをせよ』と
言えば、そのとおりにいたします。」
 イエス様は、これを聞いて驚かれました。イエス様が驚かれる
ほどの百人隊長の信仰をみてみましょう。

@イエス様を権威あるお方であることを信じていた。
・イエス様のことを「主よ」と2度も呼びかけています。
・「〜資格はありません」と謙遜な姿がみられる。謙遜な姿から、
百人隊長が癒しを切に求めていることが分かります。
・自分の立場から、権威あるお方のことばの力強さを捉えています。
カペナウムにおいて、今までもイエス様の教えを聞いていたのでしょう
か。百人隊長がしもべの癒やしを求める姿から「この方こそ!」と
イエス様が権威あるお方であることを信じていることが伝わって
きます。

Aイエス様のことばが実現すると信じ切っていた。
・「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」
ここで「直るでしょう」でなく「直ります」と言い切っている所からも、
権威あるお方イエス様が言われたお言葉は、実現すると信じ
切っていたことがわかります。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを
苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その
滅びの穴から彼らを助け出された。(詩篇107:19,20)
 私たちが日々の生活で何を求めて、何を必要としているので
しょうか。「ただ、おことばを」とイエス様から直接おことばを頂いて、
おことばを体験(みことば体験)する信仰の歩みを積み重ねて
いこうではありませんか!


2月7日聖日礼拝  
説教題
「書いてある」
聖書箇所
ルカ4章1〜13節、エペソ6章17節
 バプテスマを受けられ聖霊に満ちたイエス様は、荒野にて40
日間悪魔の誘惑にあわれました。イエス様が宣教を開始される
前に、まず悪魔に打ち勝たなければいけませんでした。
 それは、アダムとエバが罪を犯して以来、この世は悪魔の主権
の中にあり、私たちは奴隷となっているのです。人々を悪魔から
解放すること、神様との関係を回復することが、イエス様の使命
なのです。
「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことば
を受け取りなさい。」エペソ6:11,12,17

@悪魔の誘惑
 イエス様の再臨まで、神から一定の主権と栄光(栄誉)が許されて
いる悪魔の目的は、私たち人間を滅びへと追いやることです。
悪魔は、たくみに私たちに近づいてきます。そして神様と人との信頼
関係をくずし、神様に対するおそれをなくさせ、神様を神様と思えなく
させるのです。そこで、悪魔は「少しぐらい…、大丈夫…」と誘惑して
きます。その誘惑が「自分がしたいと思う善を行わないで、かえって、
したくない悪をおこなっています。」ローマ7:19,20、このような罪へと
つながっていくのです。

A剣としての神のことば
 剣は、敵を防ぐ、打ち破ることができる攻撃する武器です。イエス様
は「書いてある」と何度も神様の言葉を悪魔に指し示しました。すると
どうでしょうか!悪魔は、イエス様から離れていったのです。神様の
ことばは、剣のように鋭く、私たちを罪で滅びることのないように、
守ってくれるのです。
 私たちも、神様から与えられた救いのかぶとを自らかぶり、平安と
確信をもって、神様のことばを剣として用いた時、悪魔の誘惑に打ち
勝つのです。そのためにも、まず神様のことばを日々蓄えていこうでは
ありませんか!


1月31日聖日礼拝  
説教題
「その中に切り株がある」
聖書箇所
イザヤ6章8〜13節
 イザヤ6章は、イザヤが聖なる神様を見たことにより、「ああ、
私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で…」と告白します。
すると神様は「あなたの罪も贖われた」と言われ、イザヤは罪赦
される経験をします。すると、どうでしょう、神様が(イスラエルの
民を救うために)「誰を遣わそう…」と言われた時、イザヤは
「ここに、私がおります。」と答えました。イザヤが遣わされたイス
ラエルの民は「その中に」ある状態でした。

@「その中に」とは(9〜13前半)
・神様からイスラエルの民への言葉は逆に「悟るな、知るな、鈍ら
せ、耳を遠くし…立ち返っていやされることのないように」でした。
これはまさしく、心を頑なにしている姿です。神様は人々が、罪に
自ら示され、真の悔い改めに導かれるように、あえて「心の頑なな
ままの状態」にされました。神様の思いを想像する時に、神様の
愛の痛みを思わざるをえません。
「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さに与から
せようとして、懲らしめるのです。」へブル12:5〜11

・イザヤも心痛め「心が頑ななままの状態」が続くのは「いつまで
ですか」と神様に聞くと、町は滅び、バビロンに捕囚される。民も
十分の一が残ってもさらに焼き払われ、少数となる…神様の徹底
した裁きがあることを仰せられたのです。
「その中」とは、イスラエルの民は「心頑なな姿」であり、それは
「滅び」につながっていること。

A「切り株」とは(13後半)
 神様の裁きの中にも…「切り株がある」とは、神様は僅かであっても
残された者に救いの計画を与えてくださったのです。その救いは
「聖なる」性質にあずかる者として下さる、聖化してくださることです。
究極的な「聖なるすえ」こそ救い主イエス様です。

 ご自分の心が頑なになっている所はないでしょうか。私たちの心は
滅びに向かっていないでしょうか。
 常に私たちの心の中に、救い主イエス様がおられることを信じて、
「ここに、私がおります」と救い主イエス様を、家族、友人、知人に
伝えていこうではありませんか!


1月24日聖日伝道礼拝  
説教題
「立ち止まる時に」
聖書箇所
使徒27章18〜26節
  
クリスチャンのS弁護士は、日々を振り返ってこう証ししています。
「…あなたは何をやってもまるで上手く行かないような時がない
でしょうか?そんな時は、立ち止まって何が原因がよく考えて
みる必要があります。神の前に心を静めて祈って行くと、自分の
思い違いや動機の不純を示されたりする。」

 あの使徒パウロも、大きな船に乗ってローマへ向かう途中、
太陽や星が何日も見えない日が続くのを経験しました。激しい
暴風で助かる最後の望みも絶たれようとしました。
 そんな時に、パウロは「元気を出しなさい」「恐れてはならない」
と人々に語りました。なぜそのような言葉を語ることが出来たの
でしょう? それは彼が神のみことばを最優先し、寝る前や
早朝に祈りをし、静かに神のみことばを聞いていたからです(23節)。
真の解決は、祈りを通して与えられるからです。

 パウロは「私の仕えている神」(23節)と言います。普段から
仕えていなかったら、いざという時に神の守りを信じることが
難しいからです。
 そういう彼もかつてはイエス様を迫害する者でした。しかし、
イエス様は彼に赤信号を示してその歩みをストップさせられました。
彼は自分の罪を示されて悔い改め、伝道者となったのでした。
立ち止まる時、それは神に立ち返り、神のみことばを仰ぐ
チャンスなのです。神に立ち返る者を神は決してないがしろには
しません。必ず答えを下さり良き道を開いて下さるのです。

 276名が乗り込んだ船にパウロ一人がいたことによって全員の
いのちが助け出されました。実はパウロに救いの力があった
のではなく、彼のうちにイエス様がいて下さったことによって、
他の275名にも救いの恵みが及んだのです。ぜひイエス様を
「舟」というご自分の人生に迎え入れ、ぜひ幸いな道を歩んで
頂きたい。


1月17日聖日礼拝
説教題
「主の晩餐にあずかる」
聖書箇所
ルカ22章17〜20節
  
イエス様は、十字架に掛けられる前の晩、過越の食事を弟子
たちと共にしました。過越の食事は、かつてイスラエルがエジプト
で奴隷であった状態から、神の恵みによって救い出されたことを
記念し感謝するものでした。

 イエス様は弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えました。
パンはイエス様が十字架上で裂かれ、そのことによって永遠の
いのちが信じる者に与えられること。ぶどう酒はイエス様が血を
流されることにより、信じる者の罪が赦されることを表わして
います。
 これをイエス様が地上に来られるまで行うよう弟子たちに
お命じになり、現在まで世界中の教会で「聖餐式」として継続して
来たのです。

 イエス様が来られる前の時代(旧約時代)には、動物を
いけにえとしてささげれば、神はその人の罪を赦されました。
 しかし、動物の血は完全に人の罪を取り除くことは出来ず、
毎日毎年繰り返さなければなりませんでした。

 しかし、今やイエス様はたった一度全人類の罪を背負って
十字架で血を流されたことによって、罪を取り除いて下さった
のです。イエス様の十字架は、私たちと神との関係を正しい状態に戻して下さいます。

 私たちはこの恵みを忘れないよう、繰り返しパンとぶどう酒
(聖餐式)によってイエス様の十字架による救いの恵みを覚え
続けなければなりません。イエス様の十字架のもとにへりくだり、
砕かれる時こそ神との関係が正しくされる恵みの機会なのです。


1月10日聖日礼拝
説教題
「喜んで与える(施す)」
聖書箇所
Uコリント9章6〜11節
  
使徒パウロは、諸教会の代表と共に献金を持ってエルサレム教会
へ行こうとしていました。かつて福音を伝えてくれたエルサレム
教会が迫害下で経済的に困窮していました。パウロは同教会
からの霊的な恩義に対し、経済的(物質的)なお返しをしようと
献金を呼びかけたのでした。

パウロは6節でこの献金を種蒔きに例えました。「少しだけ
蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取り
ます。」 この「豊かに」という言葉は「祝福をもって」という意味も
あります。この原理は昔も今も変わることがありません。他者
への祝福をもって献金する人は、経済的な祝福だけでなく、
生き方や品性までも神様に祝福されるのです。

次に、献金の姿勢が7節に示されています。「心で決めた通り
にしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」 
自発的な思いで、神を愛し他者を愛する姿勢を、神はご覧に
なっておられるのです。

神はそのひとり子イエス様を、私たちの救いのためにお与え
になりました。富んでおられたイエス様が、貧しい人の姿と
なって地上に来られ、やがて全人類の罪を背負って十字架に
掛かって下さったのです。神の動機は愛のゆえです。神は
惜しみなく私たちに分け与えるお方です。

神は私たちに種まき用の種と食べるパンとを備えて下さいます。
種まきという献金を通し、実際に経済も祝され、品性や愛の
行いという義の実を増し加えて下さいます。その結果、
私たちは「あらゆる点で豊かに」なる(11節)と約束されています。
この恵みを覚え、ぜひますます喜んで与える者とされたい。


1月3日聖日礼拝
説教題
「日々祈り、神のみことばを学ぶ」
聖書箇所
ルカ18章1〜8節
  
イエス様は祈りとみことばを学ぶ姿勢について、次のように
教えています。

@祈り
いつでも祈る姿勢でいること、失望しないで祈ることです。
不正な裁判官ですら、やもめのうるさい(しつこい)求めには
ついに求めを聞き入れます。ましてや夜昼(いつも)神を呼び
求める民のためには祈りを聞き、応えて下さるのです。

神は私たちに最善(ベスト)のものを与えようとされます。
私たちの求めが第二、第三番目のものであったら、あえて
その通りにはなさらないのです。

また、困難に直面すると祈れなくなってしまうことがあります。
その時には「祈りの友」の存在がとても大きいのです。
教会生活の中で自然に祈り合えることは大きな恵みです。

A神のみことば(聖書のみことば)
 イエス様は神の真理をたとえを用いて語られました。
祈りと同じく、毎日聖書のみことばを読み、思いめぐらすなら、
「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた
者となる」(Uテモテ3:17)のです。

 また、みことばが心に蓄えられて行きますと、他の人々に
イエス・キリストを証しする助けになります。(詩篇119:9〜13)


2021年1月1日(金) 元旦礼拝
説教題
「破れ口に立つ者」
聖書箇所
エゼキエル22章30節
  
昨年より現在に至るまで、私たちはコロナ禍の中で様々な破れを
経験しました。神はこうした破れを通し、私たち一人一人に"破れ
口に立つ者は誰か"と呼びかけています。本日の聖書個所は
イスラエルが南北に分裂した時代に、北に続いて南も罪を重ねて
滅ぶ直前に神から発せられたみことばです。

「破れ口に立つ者(修理する者)」とは、イエス・キリストに他なりま
せん。イエス様は罪と死の入り混じるこの世において、十字架上
で私たちの身代わりに死んで救い出して下さいました。自分の
破れをイエス様に修復して頂いた恵みを知っているのがクリス
チャンです。
 私たちもイエス様のしもべとして、破れが覆われるよう祈り、
みことばに従って行動を起こす者としてこの1年間を歩んで参りたい。


12月27日聖日礼拝
説教題
「神の祝福に生かされる」
聖書箇所
イザヤ30章18〜26節

神は、世的な力に傾くのではなく、ご自身に立ち帰る時、大いに
祝福することを約束してくださいました。神は「待っておられ」
「あわれもうと立ち上がられる」「答えてくださる」「主は必ずあなた
に恵み」くださるお方です。

@神の言葉を聞く
神は羊飼いのように、私たちを後ろから見守り、導いてください
ます。私たちは、神の言葉によって生かされる祝福に生かされて
いるのです。

A真理を知る
神の言葉を聞いていく時、私たちは、真理を知らされます。真理を知
る時に、私たちは、人間が作り出した偶像、自己中心的な考え
などから、神中心の生き方へと方向転換するのです。

B主の栄光があらわされる
大いなる虐殺の日…とは、イエス様が再びこの地上に来られる
再臨の時です。キリスト再臨の時、神の敵はすべて滅ぼされます。
そして、主の栄光で輝き、月も日も必要ないぐらいの輝きで満た
されるのです。私たちは、日々の生活において、主の栄光を待ち
望むと同時に、いつその日か分かりませんが、必ず来られる
キリスト再臨の時を待ち望んで行こうではありませんか。


12月24日(木) イブ礼拝
    16:00〜17:00

 特別賛美ゲスト 大塚  満師・治美師(竜ケ崎教会)

  メッセージ   大塚  満師
    
『大きな喜びの知らせ』
         ルカ2章10,11節

 


12月20日クリスマス礼拝
説教題
「この上もない喜び」
聖書箇所
マタイ2章1〜12節

「この上もない喜び」を博士たちはなぜ、体験できたのでしょうか。

@救い主を求めていた(1-2節)
 神様のことについて十分な知識も無かった。けれども、博士たちは、
人づてに聞いた神様の救いの約束を信じていたのです。信じて
いた・・からこそ、「その方の星」の存在に気づき、はるばる砂漠も
こえる長旅を行動にうつしたのです。博士たちは「救い主を求めて
いた」という目的があったからこそ、この上もない喜びへとつな
がったのです。

A星に導かれた(9節)
 博士たちは、星をよく観察し、星の動きによって人や出来事を
占ったり、夢のなぞを解いたり、知識人ともいわれる存在でした。
 10節「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」とあります。
不安が多い長旅の中で、ベツレヘムまで、自分たちを導いて
くれた星に、平安と救い主に必ず会える!と言った確信に博士
たちは、この上もなく喜ぶことができたのです。
 今を生きる私たちにもその、星が与えられているのです。
私たちを救い主イエス様に出会わせてくださる星、それは神様です。

Bひれ伏して拝んだ
 博士たちは、イエス様にお会いして、ひれ伏して拝んだのでした。
この方こそ救い主、ユダヤ人の王である!だからこそ、自分たち
が持っていた、高級な黄金、乳香、没薬を捧げたのです。イエス様
に用いて下さい!とささげたのです。博士たちのこの上もない喜び
が伝わってきますね!
 救い主を求めた、星に導かれた、ひれ伏しておがんだ・・・
今の時代に生かされている私たちも、常に救い主を求めること、
星‥神様に導かれること、日々イエス様の前にひれ伏して拝むこと
によって、自分が想像もしていないほどの「この上もない喜び」に
満たされますように。


12月13日アドベント(第三週)礼拝
説教題
「平和の君」
聖書箇所
イザヤ9章1〜7節

@救いの宣言(2節)
 預言者イザヤの時代、イスラエルは神様に背を向け、悪を行って
いました。国同士の戦いにおいても、神様でなく強くて大きな国に
助けを求めていたのでした。そして、イスラエルは苦しみ、やみの中、
死の陰にいました。そのようなイスラエルにイザヤは、後に回復
して光栄を受ける「救いの宣言」をしました。大きな光を見た、光が
照った、と。
 暗闇にいると光は大きな救いとなります。
 「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に
導く。」ルカ1:79

A神による勝利(3〜5節)
 神の勝利は、刈入れ時の喜び、獲物を分かつ時の喜びに例え
られています。神様が、重荷のくびきと、肩のむち、しいたげる者の
杖から解放してくださった。神様の勝利は、人間の知恵や力、
軍備によらず、徹底的に神の力により頼んだところから生じます。
そして、その結果は、完全な平和となるのです。

B万軍の主の熱心
  やみから光へ、争いから平和へ。これは「ひとりのみどりご」の誕生
によって、完成されるのです。神様が私たちを愛してくださっている
からこそ、私たちの救いのためにイエス様を与えてくださったのです。
 イザヤは、救い主イエス・キリストの姿を伝えました。
「不思議な助言者」…私たちの悩み苦しみを聞き、アドバイスをくだ
さる。
「力ある神」…どのような戦いにも勝利に導くことのできるお方。
「永遠の父」…いつまでも神様が、私たちのお父さんでいてくださる。
「平和の君」…どのようなことがあっても、それを乗り越える平安を
与えてくださる。
 私たちの救い、平和のためにお生まれくださったイエス様を、
心にお迎えしようでは、ありませんか!


12月6日アドベント(第二週)礼拝
説教題
「その名はインマヌエル」
聖書箇所
マタイ1章18〜25節

 マタイの福音書は、系図から始まっています。この系図の意味は
「始まり」の意味が含まれています。そうです、新しい時代イエス・
キリストの誕生によって「インマヌエル」の時代が始まったのです。
インマヌエル(神は私たちとともにおられる)とは、どういうことか。
ヨセフの姿から見ていきたいと思います。

@思いを巡らしたヨセフ
 ヨセフとマリヤは婚約をしていました。イスラエルにおいての婚約は、
法律上において、完全な「夫婦」でした。その中にあって、マリヤが
身重になっていることがわかり、ヨセフはマリヤを思い、内密に去ら
すべきなのか、思い巡らしていました。ヨセフは正しい人だった、
とあります。正しい人は、律法を守る人、憐れみ深い人の意味があります。
神様を信じていたヨセフは、憐れみの心を持って、マリヤのことを思い
巡らしていました。

A主の使いの言葉を聞く
ヨセフが思い巡らしていた時、主の使いが夢に現れて言われました。
・恐れず、妻マリヤを迎えなさい。
・胎に宿っているのは聖霊によるのです(神様のみわざ)
・男の子を産む、イエス(神は救い、の意味)とつけなさい。
・この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
・その名はインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ばれる。
 み言葉が実現する
 主の使いの言葉を聞いたヨセフは、命じられたとおりにしました。
すると、子どもが生まれ、名前をイエスとつけたのです。まだ人として、
理解することが難しく、多くの疑問があったことでしょう。しかし、その
疑問を盾にせず、主の使いの言葉を盾にしました。
 そこで、救い主イエス様が産まれる旧約時代からの神様の約束が
実現したのです。

 クリスマスを迎えるにあたって、もう一度「その名は、インマヌエル」
として、お生まれくださった恵みを心に留めたいと思います。そして、
神様がともにあって下さる、日々の生活において、み言葉が実現
していく時となりますように、お祈りいたします。


11月29日アドベント(第一週)礼拝
説教題
「平和をつくるイエス様」
聖書箇所
ゼカリヤ9章9,10節

 ゼカリヤが預言した王様はロバの子に乗るお方です。ロバは
人や荷物を載せても、戦いには行かないため、平和の象徴です。
 
 本当はお互いに武器が要らない世界が一番安全安心なのです
が、現実を見るとそれが一番難しいのです。平和の王は武器を
すべて無くして真の平和をつくるお方なのです。

 平和の王は、イスラエルだけの王ではなく、世界の国々に平和を
つくる王としてやって来られます。そして私たちの心に平和の王と
して来られるのです。まだ最終的には実現していないが、部分的に、
また信じる者のうちに一部が実現して時の経過と共に完成へと
進んでいるのです。

 イエス様は子ロバにのってエルサレムへ入られました。しかも
まだ人が乗ったことのない子ロバに。これは手なずけるのが大変
なのだそうです。
 しかし、イエス様は子ロバを落ち着かせ、安心させてお乗りに
なられました。この出来事は、私たちの心も武力や権力による支配
ではなく、十字架の愛とあわれみによって治められる時に、平和と
柔和な人生へと向かわせて頂けることを物語っているのです。

 まず神と人との平和を実現するために。つぎに人間同士の平和の
ために。イエス様は十字架に掛かって私たちの罪の贖いを成し
遂げて下さいました。
 それだけでなく、十字架上で死なれてから3日目に、死に打ち
勝って復活されたのです。イエス様は、信じる私たち一人一人の
心に平和の王として住んで下さっておられます。

<祈り> イエス様、あなたは軍馬にまたがる王ではなく、ろばに
乗る平和な王・柔和な王として来て下さいました。私たちも自己中心
やプライド、傲慢、自分へのこだわり、怒りや裁きという目に見え
ない馬に乗ることがあります。こうした軍馬から降りて、子ロバに
乗って私たちのもとに来られた主イエス様を日々、自分の心に
お迎えすることが出来ますように。不満や不安で一杯の時にも、
どうぞ私の心をイエス様の平和で一杯に満たして下さい。アーメン


11月22日聖日伝道礼拝
説教題
「神の気前良さ」
聖書箇所
マタイ20章1〜16節

 イエス様は、天国をぶどう園にたとえて語られました。
神はぶどう園の主人であり、そこで働く労務者を雇いに朝早く
市場(この世)へ出かける姿にたとえられています。

 パレスチナではぶどうの収穫時期が9月で、そのあとすぐに
雨期が来ます。そこで一刻を争って人手を必要とし、たとえ1時間
しか働けない人でも歓迎されたのです。午後6時の定時を前に、
午後5時まで雇い主が現われなかった労務者はどれほど真剣に
雇用を待ち望むでしょう。その人が雇われたならば、どんなに
感謝し喜んで1時間の作業に取り組むことでしょう。

 一日の労務が終わり、主人は後から雇われた人から順に報酬を
支払います。後から雇われた人も、先に雇われた人も同じ1デナリ
でした。このたとえは私たちに次のことを教えさとしています。

1)弟子たちへの警告
 早い段階から、教会とその交わりの中に入る特権を与えられ
ました。後になると他の人たちがイエス様の十字架を信じ、罪を
悔い改めて救われ、この交わりに入って来ます。その時、最初
からいた者として特別な地位や名誉を得ようと思ってはなりません。
神の前にはすべての人の魂が等しく大事なのです。

2)ユダヤ人への警告
 彼らは絶えず自分たちが"神に選ばれた民族"であることを
意識し、異邦人を軽蔑し、滅亡を願っていました。役割が
異なっていても、神に特別に愛される国民は存在しません。
これがイエス様によって明らかにされた福音の恵みなのです。

3)私たちへの指針
 神の国(救い)に入る時期は早い時期の人もいれば、晩年に
なる人もいます。神の立場からは、救いに早すぎるとか遅すぎる
ということはないのです。報酬を考えずに神と人とのために
喜んで奉仕するならば、天国では必ず素晴らしい報酬が与え
られるのです。



☆☆ YouTube動画の更新は暫くお休みします ☆☆

YouTubeの当教会チャンネルアドレス:
 https://www.youtube.com/channel/UC-fFJZs-MuQDsQI5iPKu8Bg

9月6日聖日礼拝
説教題
「とどまる」
聖書箇所
ヨハネ15章7〜10節


ショートメッセージ動画(9/6午前10:30公開)


8月30日聖日礼拝
説教題
「死からいのちへ移っている」
聖書箇所
ヨハネ5章24〜25節


ショートメッセージ動画(8/30午前10:30公開)
https://youtu.be/GwLfrxE6Wus

8月23日聖日伝道礼拝
説教題
「一粒の麦」
聖書箇所
ヨハネ12章24節
 伝道礼拝は教会へ初めて来会される方でも、分かりやすい
内容になっております。どなたでもお気軽にご参加ください。

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/DmgpEpS0m5w

8月16日聖日礼拝
説教題
「しばらく休むがよい」
聖書箇所
マルコ6章30-32節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/6z4hMTycl78

8月9日聖日礼拝
説教題
「平和を追い求める」
聖書箇所
へブル12章14節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/Mg271Ir6D28

8月2日聖日礼拝
説教題
「最後にきよめる」
聖書箇所
Uテモテ2章20〜22節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/JuZ58qhcUXU

7月26日聖日伝道礼拝
説教題
「あなたも家族も救われます」
聖書箇所
使徒16章29〜34節
 伝道礼拝は教会へ初めて来会される方でも、分かりやすい
内容になっております。


ショートメッセージ動画(7/26午前10:30公開)
https://youtu.be/D2l2LL-KYfk


7月19日聖日礼拝
説教題
「試練と同情心」
聖書箇所
へブル2章17〜18節、4章15〜16節

https://youtu.be/ebfJMo9WYX4


7月12日聖日礼拝
説教題
「涙の谷を泉へ変える主」
聖書箇所
詩篇84篇5〜7節

https://youtu.be/N4T5Qb65c0A

<説教要旨>
この詩の作者はエルサレムから遠い外国におり、エルサレム
神殿への巡礼の旅を想像します。彼は自分の人生の歩みをこの
旅路に重ね合わせます。神が祈りに応えて力を与えて下さり、
ついに天の都に到着する様子を歌っています。

@神により頼み、神を思い求める人は幸い (5節)
「その力があなたにあり」とは自分の力に頼らず神の力に頼る姿勢。
「シオンへの大路」とは神を思い求める心、天国の代名詞。

A人生の苦難が恵みに変えられる (6節)
「涙の谷」とは全く水が無く、流す涙しか無いような荒涼とした土地
のこと。そこから人生の苦難を表わします。
「泉のわく所」「初めの雨」とは、秋の初めに降る雨のことで、夏には
一滴も雨が降らない乾ききった土地を豊かに潤してくれまし。

以上から、私たちは人生の途上でまったく水の無いような谷間を
通ることが示されています。しかし、心は常にシオンの大路(天国)
を歩いているから、希望が湧いてくるのです。神により頼み、神を
思い求めていくと、時が来て苦難が一気に恵みへと変えられるの
です。

イエス様はこのことを語られます。「わたしが与える水はその人の
うちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)
イエス様の十字架のゆえに、私たちに決定的な滅びをもたらす罪悪
は取り除かれているからです。

B神の力をその都度頂きつつ天国へ行ける (7節)
作者は神の力をその都度頂きつつ、ついには天国に入れられる。
これは私たちも同じです。天国では神の御前で直接顔と顔を合わせて
礼拝し、永遠にお交わりすることが出来ます。神にある目標を持つと、
その人の人生は輝いて来るのです。



7月5日聖日礼拝
説教題
「イエスはすべての人の主」
聖書箇所
使徒10章34〜36節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/BqhK1CGYAbQ


<説教要旨>
イエス様の福音(十字架と復活の良き知らせ)がエルサレムから
世界へ向けて広がる中で、教会は3つの偏見を解決しました。

@民族
 ユダヤ人はクリスチャンになっても、外国人(異邦人)を「汚れて
いる」と言って、交わろうともしませんでした。しかし、神はローマ
帝国の百人隊長コルネリオの信仰と施しを例に挙げられました。
「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても神を恐れ
かしこみ、正義を行う(神のみことばに聞き従う)人なら、神に
受け入れられる」(34,35節)ことが示され、民族的な偏見が取り
除かれました。
 
A食物
 神はペテロに幻を通し、食物の偏見を取り除かれました。「神が
きよめた物を、きよくないと言ってはならない」と声が掛かりました。
旧約聖書の律法の規定で汚れた食べ物であっても、神によって
きよめられ、食べて良いとされたのです。
       
B職業
 たとえユダヤ人同士であっても職業による偏見がありました。
皮なめしのシモンは、人々からの偏見のゆえに街の片隅で
ひっそりと生計を立てていました。
 しかし、そんな差別に苦しむ彼の家で異邦人のローマ百人隊長
たちと、ペテロたちユダヤ人クリスチャンが出会い、交わることに
なりました。イエス様の十字架と復活のゆえに、ユダヤ人も異邦人も
共に神を礼拝し交わる…これは教会のひな型でした。
 
 私たちもイエス様の十字架のゆえに、先ず罪が取り除かれて
神と平和な関係にされます。そして人間同士の狂った関係も
イエス様が介在して下さる時に、平和な関係にされるのです。
 イエス様こそ全ての人の救い主(36節)であり、救いにおいては
ユダヤ人と異邦人との区別が、イエス様のゆえにもはや存在しない
のです。


6月28日聖日伝道礼拝
 伝道礼拝は礼拝へはじめて出席された方でも
安心して礼拝できるような内容になっております。
説教題
「ひとり子を与えるほどの神の愛」
聖書箇所
ヨハネ3章16〜17節

ショートメッセージ動画(6/28午前10:30公開)
https://youtu.be/aFnRYsKxo9k

<説教要旨>
「そのひとり子」「御子」(16節)とはイエス・キリストのことです。
「世」(同節)とは罪に汚れたこの世界と人間のことです。
神の愛は具体的に次のような形で現わされます。

@関わる
 人は神を知りながら神に背いて罪を犯し、それが全世界に
広がりました。その結果、死と滅びを招きました。しかし神は
世を愛され、どこまでも人と関わろうとされます。神の愛は
様々な恵みの形で、イエス様を信じる人・信じない人、すべての
人に対し今も注がれ続けています。

A応答を求める
 神は人の幸せをひたすら願われます。神はイエス様を
十字架上に付けて、私たちにイエス様を救い主として信じるよう
求めておられます。なぜなら人が神から離れることは自ら滅びを
招くことになるからです。神の御心は私たちがイエスを信じ、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことです。

B怒る
神は罪に対して、不正に対して正義の怒りをもって裁かれます。
神は愛なるお方であると同時に正義のお方でもあるからです。
罪や不正をいつまでも放置することは決してなさいません。
イエス様をこの世に遣わしたのは、世を裁くためではなく
救われるためだと言われます。イエス様は私たち人間を滅びから
救い出すためにそのすべての罪を背負い、十字架上で神の
怒りを身代わりに受けて死なれました。

ここで"裁き"には「滅びる」あるいは「決断」という意味が
あります。イエス様の十字架は私たちにイエスを救い主として
信じるか、信じないかの決断を迫っておられます。
 なぜなら、神の愛の場合とは違って、永遠のいのちはイエス様と
無関係には与えられないからです。驚くべきことに、イエス様を
信じる人は、今この瞬間に永遠のいのちを受け取ることが
出来るのです!


6月21日聖日礼拝
説教題
「神に義と認められる人」
聖書箇所
ルカ18章9〜14節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/O90Eyo-qHyw


<説教要旨>
 イエス様は自称義人で他の人を見下してしまうことへの警告と、
神に義と認められる人の姿勢をたとえ話で語られました。たとえ
では二人の人物が祈るために神殿に上ります。一人はパリサイ人、
もう一人は取税人です。

パリサイ人◇ ・社会的なリーダーで尊敬を受けている
     ・良い行いに励んでいたが、虚栄であり自己防衛の人
     ・お祈りのようだが、実はひとりごと
     ・神を見ずに他の人と自分を比較し、見下した

取 税 人◇ ・職業柄、人々から敵視され嫌われていた
     ・自分の罪を自覚し、神の前に自分を飾らない人
     ・他の人を見ずに、神のみを見上げた
     ・自分を飾らずに素直に神に憐れみを求めて叫んだ

 二人のうち、取税人が神に義(正しい態度)と認められ家に
帰りました。イエス様はこのたとえを通し、私たちは自分が罪人
だと徹底的に知らされる必要があることを示しています。
 イエス様の十字架以外に救いはないことを信じると、「罪の支配」
から解放されます。すると今度は、「復活の経験」をします。
「復活の経験」とは、イエス様にある新しいいのち(生き方)です。
 
 ですから、神の前に自分には「欠け」があること認めることは
恵みです。「欠け」があるから祈れるようになるからです。具体的
には、病になると祈らざるを得ません。人生に嵐が吹くような
問題が起きて心に平安がなくなると祈らざるを得ません。すると、
イエス様がこの欠けを埋めて下さり、平安を与えて下さいます。

 イエス様は「自分を低くする者は高くされる」(14節)と語られます。
神の前で自分を高く見せようとするのは高慢の表われです。
神の前にへりくだってお祈りする人を神は豊かに祝して高くして
下さいます。それは天国での神からの報いにつながっている
のです。


6月14日聖日礼拝
説教題
「信仰と御霊とに満ちた人」
聖書箇所
使徒6章1〜7節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/M6OWAZkVs_Q


<説教要旨>
 初代教会(エルサレム教会)が成長すると、大きな
2つの問題が起きた。一つは、人数の急増による
コミュニケーション不足によるパンの問題。
もう一つは使徒たちが食卓のことで時間が取られ、
神のみことばの奉仕が後回しになってしまったこと。
これは教会の危機であった。

 この背景には、すでに1万を超える人々が教会に
集い、外国生まれでギリシャ語を話す少数派の人々と、
イスラエル国内で生まれ育ち、ヘブル語を話す主流派
の人々との間では言葉や習慣が異なっていたことがあった。


 使徒たちは問題解決のため、「御霊と知恵とに満ちた、
評判の良い人たち7人を選」ぶ(3節)ことにした。
相応しい人物を立て、食糧配給の役割を委任した。
 相応しい人物の不和しい状況は、
・御霊  神に自分を委ね、聖霊のご支配にある
・知恵  神からの知恵に満ち、実際問題に対処できる
・評判  「よく証しされている」が原意。社会生活で信仰と
     人格の証しが立っている

 そして使徒たちは「祈りとみことばの奉仕に専念する」(4節)。
この提案を全員が承認し、使徒たちは祈って手を彼らの
上に置いた(按手した)。
 これらは新しい役割が7人の上に与えられたことを公にし、
必要な恵みが神から与えられるよう祈り、協力していくことを示す。

 今日も教会に集う一人一人には、神からの尊い役割がある。
それは人と優劣を比べるものではない。神は各教会に適材適所、
人を配置しておられる。
 
 ここで問題が何もないのが教会や私たちの人生で理想なの
ではない。教会は宣教を通して様々な人々が集い、養っていく上で
必ず問題は起きていく。
 大事なことは、こうした問題が教会や私たちの人生に起きて
来た時に、神の御言葉に従って問題に向かうこと。
神はむしろ問題や挫折、失敗や病などを通して私たちに悔い改めや
向かうべき道を明らかに示して下さることが多いから。

 初代教会(エルサレム教会)は、起きて来た問題を神からの
聖霊とみことばによる知恵とによって乗り越え、教会が強められた。
 すると、7節には「神のみことばはますます広がって行き、
エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの
祭司たちが次々に信仰に入った」とある。
 かつてイエス様を十字架につけた人々のいるエルサレムで、
本来反対勢力である祭司までが救われ、信仰に入れられたことは
驚くべき出来事であった。


6月7日聖日礼拝
説教題
「初代キリスト者の生活」
聖書箇所
使徒2章40〜47節

    ショートメッセージ動画
    https://youtu.be/dZYZuk1Ap-w


<説教要旨>

 ペンテコステ(聖霊降臨)によって誕生した教会では、初代
キリスト者たちによって次の4つのことが特徴的に行われ
ました。(42節)

@使徒たちの教えを固く守った
 「使徒たちの教え」とは、今日で言う新約聖書を指します。
使徒たちを通して伝えられたイエス様の教えに聞き従いました。
聖書の教えを整理し、また実際生活を学ぶことで神に近づく
ことが出来ます。

A交わりをした
 「交わり」という言葉には「共有」という意味もあります。
お互いに与えられているあらゆる祝福を共有するという、
深い霊的な交わりをしました。

Bパンを裂いた
 通常の食事とは区別し、イエス様が行うように命じられた
パン裂きの儀式(聖餐式)を行いました。そのことを通し、
イエス様の十字架の贖いを思い起こしました。イエス様にあって
一つの家族とされた、親密な交わりをしました。

C祈りをした
 彼らは集まるごとに祈っていました。祈りに真剣でした。

 これら初代キリスト者たちの生活ぶり、その姿は私たちの
模範です。「主も毎日救われる人が仲間に人々を仲間に加えて
くださった」(47節)ほどの著しい成長の理由は何だったのでしょうか?
 それは神を心から敬う敬虔さと温かい交わりだったからです。
その背後には、彼らがイエス様に信頼されるに相応しい魂の
状態にあったからです。

 現代の私たち一人一人も、初代キリスト者たちの生活を手本と
して心に刻みましょう。イエス様に信頼されるにふさわしい魂の
状態にされるよう、悔い改めと祈りをもって願い求めて参りたいもの
です。


5月31日ペンテコステ(聖霊降臨)説教
説教題
「聖霊が注がれる」
聖書箇所
使徒2章1〜4節

https://youtu.be/lBpVc_-pbbc

<説教要旨>

 天から注ぐ太陽の光と熱、降り注ぐ天からの雨に
よって地上のすべての生物が生きています。
 同じように、親の注ぐ愛情によって子供は成長し、
親の注意や保護によって子供たちは守られています。

 愛なる神から遣わされたイエス様は、十字架上の
死をもってご自分の愛をこの世に示されました。
 そして、いのちの水である聖霊を注いで信じる者を
聖霊の宮、すなわち生きた神殿として下さいます。
 このことはエゼキエル47章などのみことばによって
約束されていました。

 父なる神は、「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と
約束され、ついに五旬節(ペンテコステ)の時に、
聖霊が弟子たちにくだり、約束が成就しました。
 本日の聖書個所にあるように、この聖霊の働きに
よって教会は誕生し、育てられ、二千年後の今日に
至っています。

 「風」(2節)は、息や霊とも訳される言葉。
息は人にいのちを与えます。息(あるいは風)が死んだ
ような人にいのちを与えることを象徴しています。

 聖霊を受けた使徒たちは、たった一回聖霊を受けた
だけではなかった。その都度、聖霊の感動と証しの力
を頂いて、イエス様の十字架と復活を唯一の救いとして
証しをし、力ある働きをしたのです。

 また、いつでも求める時に注がれます。人は注がれて
いる聖霊によって、未来に対する神の御心を知り、
無くならない希望を与えられています。そして豊かに
注がれる聖霊によって、神の愛を知らされています
(ローマ5:5)。
 
 「他国のことば」(4節)とは、聖霊に満たされると
外国語を話すようになる、というのではありません。
 クリスチャンだけに分かる会話ではなく、相手が誰で
あれ伝わる話をすることが出来るという意味。聖霊に
満たされる時に!
 その確信が来るまで、平安が与えられるまで聖霊に
満たされるよう祈ることが必要です。

 また、この神の愛を注がれた者は、自分の子のため、
子孫のため、若者たちのため、すべての人のために
心を注いで祈らなければなりません。(哀歌2:19)

 ペンテコステ以来、神の国が完全に実現するまで、
教会は聖霊によって働き続けるのです。
 神は霊の子(信仰の子)をこの世に生み出すために、
生みの苦しみをされます。陣痛をさえれる神です。
 先に救われ聖霊を頂いている人は、他の人のために
苦しみの祈りをし、また自分自身も良き聖霊の器と
されるよう苦しみの祈りをしなければなりません。


5月24日説教
説教題
「エルサレムにとどまる」
聖書箇所
ルカ24章45〜50節
   YouTubeオンライン伝道礼拝 

https://youtu.be/fxYZAS2b-AU
   
<説教要旨>

 イエス様は弟子たちに約束の聖霊を受けるまでは、
エルサレムの都にとどまるよう命じられました。

ではなぜ、エルサレム以外の所へはいけなかったので
しょうか。

@エルサレムは、イエス様が十字架上で死なれ、
全人類の罪の買い戻し(贖い)が実現したところだから


Aエルサレムはイエス様が死んで復活されたところ
だから

 人が救いの恵みを受けるためには、イエス様の十字架の
身代わりの死を信じると共に、イエス様が死から復活された
ことを信じなければなりません。

Bエルサレムとは、「神の平安」という意味だが、真の平安は
イエス様を信じて受ける平安だから

 それはイエス様の十字架を信じる信仰のゆえに、神の裁きから
解放された平安と、復活の希望による死の恐怖から解放された
平安だからです。

 このようにエルサレム、つまり「十字架・復活・平安」に留まる
時に、それぞれの人生また家庭に平安が満ちるのです。


5月17日説教
説教題
「舟の右側に網をおろしなさい」
聖書箇所
ヨハネ21章1〜31節
   YouTubeオンライン礼拝

https://youtu.be/wvaWe2RASd4
   
<説教要旨>

 弟子のペテロたちは、故郷のガリラヤに戻りそこで元の
漁師の仕事をしていました。彼らは夜通し働いたが何も
取れませんでした。収穫が無く、疲れ果てた時に、復活
されたイエス様が現われました。
 イエス様は彼らに「舟の右側に網をおろしなさい」と命じ、
彼らがその通りにすると大漁でした。

 彼らはかつて、同じような経験をしています
    (ルカ5章1〜11節)。
 また彼らの召命のみことばは「わたしについて来なさい。
あなた方を人間をとる漁師にしてあげよう」
    (マタイ4章18〜22節)でした。

 ペテロたちはその時のことを思い出し、再度召命に
導かれたことでしょう。そしてこのイエス様のみことばは、
以降のすべての宣教の働きの根幹を表わしていると言えます。

 また、人を救いに導く宣教の業は、人間の力だけでは
いくら働いても何の実を結ばないことを示しています。

燃え尽きたところへ、イエス様が来て下さいます。
 私たちもイエス様に助けを求め、指示されるお言葉通り
に従うことによってのみ実を結ぶことが出来ます。

 この経験は、その後の弟子たちの働きと歩みにとって
大きな支えになったことでしょう。結果が残らず働きに疲れを
覚える時、すでにイエス様がそばにおられ、助けを用意して
下さっていることを信じることが出来ました。世の終わりまで
共におられる主を見ることが出来ました。

 多くの魚がかかっても網が破れなかったのは、教会が
いつもイエス様によって守られていることを指します。また、
これ以降多くの弟子たちが全世界に出て行って人のたましいを
救いに導き、イエス様にあって一つとされることの約束です。

 さらにイエス様は、彼ら弟子たちのために炭火を起こし、
魚とパンを用意して待っておられた。主のために働く者に
休みと力を与えて労って下さる。行く先々に恵みを用意して
下さっている。
 またこの食事は、イエス様を中心とする聖餐の場であった。
聖餐は、十字架で死んで復活されたイエス様からの招きです。
それゆえ喜びに満ちたものです。


5月10日説教
説教題
「見ずに信じる者は幸い」
聖書箇所
ヨハネ20章24〜31節
   YouTubeオンライン礼拝

https://www.youtube.com/watch?v=nm0pTHCvMg4&t=73s

<説教要旨>

 復活されたイエス様は日曜日に弟子たちに姿を現わされました。
しかし、そこに「デドモ:双子」というニックネームのトマスが
居合わせませんでした。彼は直接イエス様にお会いすることが
出来なかったのです。今、集会を中止しているこのとき、改めて
集会の大切さをかみしめたい。

 他の弟子たちが「私たちは主を見た」(25節)と証ししても、
トマスはそれを信じることが出来ませんでした。彼はイエス様に
触って確かめることを求めました。

 このヨハネ20章で、マグダラのマリヤは復活されたイエス様に
お会いしているのに最初気づきませんでした(14節)。
弟子たちはイエス様を見てはじめて喜ぶことができました(20節)。

 トマスは自分には見えないと思っていたイエス様は、実は彼の
嘆きと悩みをお聞きになっておられたのです。イエス様は
一週間後の日曜には、再び姿を現わされました。それはトマスの
ためと言っても過言ではありません。

 イエス様はトマスに十字架上での傷跡をお見せになり、
「見ずに信じる者は幸いです」(29節)と言われました。トマスを
咎めるのではなく、トマスのところまで降りて来て、彼が信じられる
よう助けて下さいました。現代においても、その人が信じられるように
イエス様は寄り添って下さる場面を度々拝します。

 ここまでして下さったイエス様に対し、トマスはもはや触ることは
しなかったことでしょう。彼は「私の主、私の神」(28節)と告白しま
した。単にイエス様の復活を認めるだけではなく、「私の主、私の神」
と呼ぶ関係になること・・・これこそが31節に記された本書の目的
です。

31節「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、
また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため
である。」

 この栄誉がトマスに与えられた。彼はイエス様を信じ、自分の救い主・
神であると告白しました。まさに後なる者が先になった瞬間です。
 これは現代においても変わりません。イエス様を見て信じたトマスたち
よりも、見ないで信じた者の方がより幸いなのですから。


5月3日説教
説教題
「平安と派遣」
聖書箇所
ヨハネ20章19〜23節
   YouTubeオンライン礼拝
 
 https://youtu.be/rrGe5OgcEXY
 <説教要旨>

 復活されたイエス様が弟子たちに第一になさった
ことは平安を与えることでした。弟子たちはユダヤ人を
恐れ、固く戸を閉めて恐怖におののいていました。
 突然、イエス様が彼らの真ん中に立たれました。
復活されたイエス様は物質や時間に関係なく自由に
お働きになられます。

 イエス様は弟子たちに「平安があなたがたにある
ように」と言われました。これは通常の挨拶であり
ながらも、「神があなたがたにあらゆる良いものを
備えて下さるように」という意味が込められています。

 イエス様はこのみことばに続き、弟子たちに手と
脇腹を示されました。イエス様は十字架に釘打たれ、
ローマ兵に槍で脇腹を刺されました。しかし、イエス様は
復活された証拠として、その傷がいやされた跡を弟子
たちに見せたのです。弟子たちはそれを見て喜びました。
 現代でもイエス様にある復活の約束と喜びは、
私たちに不安と困難を乗り越える力になります。

 イエス様は弟子たちに平安を与えると、続いて遣わす
ことを宣言されました。今日でもキリストの弟子とされた者
には、神様からの尊い役割が与えられています。
 イエス様から派遣されるために必要なのは、聖霊を
受けることです(22節)。神は、人類の最初の人アダムに
のちの息を吹き込まれて、彼は生きる者となりました。
しかし、彼は罪を犯して栄光と地上における永遠の
いのちを失いました。

 そこで神はイエス様を通して私たちの罪を赦し、
イエス様と共に死に打ち勝つ「新しい人間」として
再創造してくださいました。イエス様はそういう私たちに
十字架による罪の赦しを伝える尊い役割を与えて
くださいました(23節)。

 私たちは呼吸を絶えずしていないと窒息してしまうように、
この役割を果たすためには絶えず聖霊の助けを頂か
ねばなりません。自らが罪赦され、きよめられた恵みの
体験を家族や周囲の人と分かち合って参りましょう。


4月26日説教
説教題
「共に歩まれるイエス様」
聖書箇所
ルカ24章25〜32節
    YouTube説教動画

 https://youtu.be/a1U_VM_MV9I

   <説教要旨>

 イエス様は聖書からご自分について二人の弟子に解き明かし
されました(25, 27節)。聖書全体がイエス・キリストを救い主だと
証言しています。イエス・キリストとは「イエスは救い主」という
意味です。神はイエス・キリストをこの地上に遣わし、罪から救わん
とするご計画を聖書に記し私たちに与えて下さいました。聖書
全部が大事です。聖書を千歳飴にたとえますと、どこを切っても
キリストが出て来ます。
キリストは必ず十字架の苦しみを受け、死んで復活される。
これが旧約聖書に予告されたことでした(26節)。

まずイエス様の方から二人の弟子に近づき、交わりを求められ
ました。今度は彼らがイエス様に一緒に泊まって下さるよう無理
に願い求めました(28,29節)。この切なる求めと深い交わりを
イエス様は喜ばれ、祝福して下さいます。

 夕べの食卓でイエス様はパンを割いて彼らに手渡されました
(30節)。イエス様は十字架で裂かれ、ご自身をいのちのパン
として私たちに与えようとされます。日ごとの食卓でイエス様を
覚えたいものです。

二人の弟子にイエス様のお姿が見えたり、見えなかったりする
のは、イエス様がいつも一緒にいて下さることを分かるように
されたからです(31節)。

二人はイエス様との交わりや聖書を開いて下さった時に、心が
燃えました(32節)。今日の私たちも祈りを通してイエス様と交わり、
神が聖書を通して自分に語って下さると受け止める時に、心が
燃やされます。私たちの心を燃やして下さるのは、イエス様の
私達人類への愛の炎です。


4月19日説教
説教題
「イエス様に目を開いて頂く」
聖書箇所
ヨハネ20章14〜18節
    YouTube説教動画

 https://youtu.be/wFA4WMNO1B4

   <説教要旨>

 復活されたイエス様が最初にご自身を現わされたのは、
マグダラのマリヤでした。なぜ彼女はイエス様の復活を
目撃するという栄誉に与かることが出来たのでしょうか。
 彼女はイエス様の体が納められたお墓が空っぽに
なっているのを確認しても、そのまま家に帰ることが出来
ませんでした。彼女は墓のそばで泣き続けていた。
 イエス様は涙を流してご自身を慕い求める者を決して
おろそかにはなさりません。イエス様は彼女の切なる
求めに応えて下さったのです。

 しかし、マリヤは復活されたイエス様にお会いしても、
それがイエス様だとは分からず園の管理人だと思い
ました。生前と復活後ではイエス様のお身体が違っている
からでしょう。
 イエス様が「マリヤ」(16節)と声を掛けられると、彼女は
イエス様だと気づきました。そして「ラボニ:私の先生!」と
返事をしました。現代の私たちもイエス様に目を開いて頂か
ねば、たとえイエス様と出会ったとしてもそれを認識できない
者なのです。

 マリヤがイエス様にすがりつこうとすると、それはよしなさい
と言われました。まだイエス様が父なる神の御許に上って
いないからだと理由を述べられました。そのことを弟子たちに
伝えるようマリヤに命じられました。彼女は確かにイエス様を
慕いつき従っていましたが、人間的な愛情の関係に留まった
ままでした。そうではなく、より高い霊的な関係に引き上げ
なければなりません。イエス様が父なる神の御許に上られると、
今度は助け主として聖霊が与えられることが予告されていた
のです。

 イエス様はもはや「ラボニ:私の先生」ではなく、「復活された
救い主」でした。科学が発達した現代においても、私たちは
死に対して無力です。愛する者の死の現実を前にマリヤと
同じように泣くしか出来ない者です。しかし、イエス様はこの
死という巨大な岩を打ち破って復活して下さいました。イエス様
の復活を世界で最初に目撃した証人として、彼女は弟子たちの
もとへ遣わされました。

 私たち一人一人もマリヤと同じように、きょう聖書を通し
イエス様から名前を呼ばれています。皆さんは何と応答される
でしょうか。それが神と自分(私)という人格の交わりであり、
信仰の原点なのです。イエス様は復活の新しい命を私たちに
与えんとしております。それは信仰を通して受けることが出来る
のです。

          

<過去の礼拝説教要旨はページ左側の
「過去の礼拝メッセージ」からご覧ください>



寺田末治牧師 召天賛美の集い
   2/23日 11:30〜12:00

 20日に召天された寺田師の遺言に従い、
 23日の礼拝に続いて記念会を行いました。



《久保川教授ご講演会について》
  
  時期をみて再度日程調整を行います。


  <昨年(2019)年の催し>


《マジックショー 12月1日()
 プロマジシャンフーガさん&はるかさん
  
 昨年に続き、今年もプロマジシャンのフーガさん・
はるかさんご夫妻がマジショーを行って下さいました。

☆9時30〜10時 教会学校にてテーブルマジック
☆10時30〜12時 礼拝の中でお証し
☆13時30〜14時30 マジックショー
☆14時30〜15時30 ティータイム

           
             
           
                   


 《一般高齢者向けの講演会》
  
日本保健医療大学教授の久保川真由美先生による
一般向けの講演が当教会で行われました。

 ◇タイトル「健康に老いるために
          ――老いと老年病――」
 ◇日時 10月27日(13:30〜14:30
 ◇会場 幸手キリスト教会
 ◇入場無料 

《久保川先生からのメッセージ》
 長寿社会日本では、100歳高齢者が7万人を超え、
国内最高齢が116歳と、人間の限界寿命に達する
状況になって来ました。「ピンコロ」と逝きたいもの
ですが、しかし、高齢期になると、老年病に罹りやすく
健康を害することが多くなります。健康長寿を保つに
秘訣はあるのでしょうか? 一緒に考えてみましょう。

《講師プロフィール》
 日本保健医療大学保健医療学部看護学科 教授
 老年・在宅看護額領域


                     



※当教会はエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。
お困りの方はご相談ください。

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〒340-0121
埼玉県幸手市上吉羽97−4

TEL 0480-42-1075