私たちの現状

2013年4月21日 礼拝

過去のメッセージ蔵

片山 進悟 牧師

 先週に引き続きハガイの預言から神の御言葉に耳を傾けましょう。

 神は日本を選ばれました。神がお選びになるのは、ある働きをさせるためです。神は、この地域も選んで下さいました。それは今まで見て来たとおりです。しかし中々そのようには見えない現状です。それは何を意味しているのでしょうか。


 この教会に集う神の家族は増えています。そして、それは山陽福音教会でも、山陽聖約教会でも同じです。神は、この地域で何事かをしようとしておられます。
 そんな時に私達は自分が祝福を受けることで満足していて良いのでしょうか。
 世間並みに暮らせる。そこそこ満足できる状態だ。そのように目が自分にだけ向いていて良いのでしょうか。神の呼びかけに耳を傾けなくて良いのでしょうか。

 今日の個所に「あなた方は、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。稼ぐ者が稼いでも、穴のあいた袋に入れるだけだ」とあります。気が付いているのかと言われています。

 自分なりに満足しているかもしれないが、実は、このような状態なのだ、もっと大きな祝福を逃しているのだと神は言われます。

 あるいは皆さんも、働いても働いても生活が楽にならないと思っておられるかもしれません。その場合、状況が良くならなかったり、苦しい目に合うのは私達が言うことを聞かないから、神が意地悪をしておられるのでしょうか。祝福してくださらないのでしょうか。

 そうではありません。神は人に悪や害をもたらす方ではありません。
 では、なぜ私達に労苦があり、また良くないことが起こるのでしょうか。
 その理由はこうです。神は法則を定められました。世界は、それらの法則に従って動いています。例えば物を持っている手を離せば、地面に向かって落ちていきます。それは法則です。ですから大切なものはしっかりと持って、放さないようにしなければなりません。世の中には、このような決まりが色々あります。神が私達のために、そのように決められたのです。

 これよりは少しはっきりしない決まりもあります。たとえば、ほっぺたをつねると痛い。これも大体誰でも分かります。
 でも、中には、やせ我慢をする人がいて、つねっても痛くないと言い張る場合があります。または、ある種の病気で、つねられても痛いと感じない人たちがいます。私も最近大分耳が聞こえ難くなってきました。電子体温計のピッピという音が聞こえません。そうすると、他の人には当たり前のことが、私には当たり前でなくて、何の反応もしないということが起こります。


 そう考えると、ある人には分かるのに別の人には分からないということが結構あることが分かります。でも、そういう状況になってみないと案外、自分の状況が分からないものです。そして、もっと分かり難いことが、人生には沢山あります。
 だから教会に来て、メッセージを聞き、聖書から色々なことを学んで、ああ、そうだったのかと気付くことが必要なのです。

 この手を緩めるとボールペンが落ちてしまうように、人と人との関係にも定めがあります。神は人を良くご存知ですから、人のために定めを作ってくださいました。今どきの言葉で言えばガイドラインです。その定めに従って生きれば自分も周りの人も幸せになります。その定めを守らなければ周りの人を苦しませるだけでなく、自分も幸せになれません。
 家族の中なかでもとくに大切な夫婦の関係を例にしてみます。
 神は夫と妻は一体となると言われました。一体でなければおかしいのです。でもなかなかそうはなっていません。壊れた家庭が増えているのが現状です。どんなに神は残念に思っておられるでしょうか。
 なぜ、そうなってしまうのでしょうか。
 結婚した時は誰でも幸せです。しかし、しっかりと持っていなければ壊れてしまうのに多くの人は手に入れたらもう安心と手を緩めてしまうのです。

 結婚して間もない時でしたが、釣った魚にはエサはやらないものだと言ったことがありました。家内と自分の関係について言ったのではなかったのですが、家内は自分が釣られた魚だと思ったそうです。おまけに気持ちでは大切にしていたのに、行動が伴っていなかったので随分悲しませたようです。しかもそれさえ気が付かないほど鈍感でした。心の目がよく見えず、耳が良く聞こえなかったのです。
 もっと注意深ければ、結婚生活がもっと楽しかったのではないかと思いますが、今さら戻れません。離婚しないで済んだことは、本当に神の憐れみです。今では自分なりに努めてはいるのですが、相変わらず不十分なようです。
 仕事はどうでしょうか。仕事なら毎日決まった時間に出かけて行き、どうすれば良い物が作れるか、どうすれば良く売れるかと考えます。それが自然にできます。

 ところが結婚は違います。結婚は仕事よりもおろそかにされています。仕事より大事な結婚が今のままで良いはずはありません。どうすれば相手が喜ぶか、妻は、あるいは夫は何を望んでいるのか、少しは考えて生活しているでしょうか。どうもそうではないようです。それではお互いに傷付きます。

 そして信仰が、まさに結婚と全く同じ状況なのです。
 私たちは、どうすれば神が喜ばれるか、神は何を望んでおられるのかを考えながら過ごさなければならないのですが、中々そのような生き方はしていません。神が喜ばれる生き方をすれば、自然に幸せになります。神が、そのように造ってくださったからです。ところが私たちは、そのような生き方ではなく、自分本位の生き方をします。だから色々な問題が起きるのです。自ら幸せを壊しているのです。

 神が喜ばれる生き方をすれば幸せが、神の望まれない生き方をすれば災いが及びます。なぜかと言えば、神は人間を良く御存知ですから、幸せになるために
は、このように生きればよいと、聖書の中に記して下さったのです。ですから神が教えてくださった生き方に反すれば、当然、災いが及ぶのです。

 災いを避けるためには、こうしなさいと教えてくださっているのですから、それを無視すれば当然、災いがやってきます。子育ての経験のある人は分かりますね。
 それは手を離せば落ちる、あるいは1たす1は2というのと同じ簡単で明らかな法則です。それを神は「見よ。私は、今日、あなた方の前に、祝福とのろいを置く」という言葉で教えられました。(申命記11:26) どちらを選ぶかは私達に任されています。神が喜ばれる生き方をすれば幸せが、望まれない生き方をすれば災いがある。上りの電車に乗れば姫路方向、下りに乗れば岡山方向と決まっているように、どちらを選ぶかは私達に任されているのです。

 人は色々な人間関係の中で生きています。家族や親戚、地域や職場の関係。その中で、何か神の喜ばれない選択をしてしまうなら、必ず自分だけでなく他の人も、その結果を被ります。例えば、中国の人達の自分本位の生き方が大気汚染となって遠く離れた日本に影響を及ぼし、多くの人が病気になったり、外出を控えないといけなくなるなどの不便を強いられています。

 また、昔の人の悪い選択のために色々な災害が起きるようになっています。最初に神が造っくださったとき、地球は非常に良いものでした。ところが人々が悪い選択を続けた、つまり罪を犯し続けた結果、色々な目に見える災いが現れてくるようになったのです。

 山の木を、後先考えずに切っていくと、洪水や地滑りが起きます。やがて砂漠化し、地球が傷んでいきます。日本は神の厚い御守りの内にあって、こうして緑に囲まれています。イスラエルでは人々の努力によって大分緑が回復してきています。しかし地球上の多くの地域で砂漠化が進んでいます。人間のエゴで地球が傷ついているのです。このように自然災害も人間の罪のために起きていると言えます。

 岩の上に家を建てた人と砂の上に建てた人の例え話を思い出しください。
 砂の上に家を建てれば大雨や地震で倒れるのは分かり切っています。神が罰したり、災いをもたらしておられるのではありません。それは当然の結果です。
 すべての法則が私達に分かっているわけではありません。そこで、私達はしばしば賢くない選択をしてしまいます。そして結果として嬉しくないことが起きてしまいます。でも、それは私達がした選択の結果です。私達が選んでいるのです。

 祝福とのろい、どちらを選ぶかは私達に任されています。だから私達は聖書を通して、また聖霊の語りかけを通して、何をすべきか、どう生きるべきかを知る必要があるのです。そうすれば過が減り、災いを招かなくてすむのです。

 「あなた方は、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。」
 今ご説明したように、決して神が意地悪をしておられるのではありません。
 神が定められた道を踏み外す時、当然、私達は泥水に入ってしまいます。そう決まっているのに、そんな生き方を選んでいました。神は、そちらに行くなと言われます。違う方向に進んでいることに気が付くようにと言っておられます。
 それに気が付いて、自分にではなく主に目を向ける時、この御約束があります。「主はあなた方に恵もうと待っておられ、あなた方を憐れもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望む全ての者は。」(イザヤ30:18)
 神は私達を祝福したくてたまらないのです。今か今かと待ち構えておられるのです。「主は正義の神であるからだ」とイザヤは言います。正義の神、約束をたがえるようなことは絶対にできない方。祝福したくてたまらず、うずうずしておられるのが私達の神です。自分や他の人ではなく、主を待ち望みましょう。
 その「万軍の主はこう仰せられる。あなた方の現状をよく考えよ。」(1:7)
 自分の状況を振り返ってみなさい。そして正しい道を歩みなさいと言われます。
 自分本位の道ではなく、神の喜ばれる道を歩みなさい。そして、その上で「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。」(1:8)つまり、具体的な行動をとれと言われるのです。


 少し横道にそれますが、イスラエルの写真を見ると、エルサレムの近くの山に神殿を建てるようなまっすぐな、太い木があるとは思えませんね。
 先ほど言ったように、人間の罪の結果として、今イスラエルの国に木は少ないのですが、当時の山には建築に適する木が青々と茂っていました。

 それは4節を見て頂くと納得できると思います。「あなた方だけが板張りの家に住むべき時であろうか」と言われています。この人達は決して遠くから木を運んできて家を作ったのではありません。捕囚からの帰還民です。遠くから木を買って来れるような経済力はありませんでした。付近の山から切ってきたのです。
 今イスラエル周辺には良い木がないので、家を建てる材料はコンクリートです。でも当時は、そしてイエスの時代も建築資材は、少なくとも個人の場合、より安く上がる木材でした。

 話を戻します。神は、「あなた方は多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなた方が家に持ち帰った時、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。それは、あなた方が皆、自分の家のために走り回っていたからだ」と言われます。
 教会も神の宮ですね。神の宮をほおっておいて自分の家のために走り回っていたから働きの割には収入が得られなかったのだと言われます。

 家に持って帰ろうとした収穫を吹き飛ばしたと言われます。さらに「天はあなた方のために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。わたしはまた、地にも山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手による全ての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた」と言われます。

 それは意地悪でしょうか。罰でしょうか。なぜ神は、そんなことをなさったのでしょうか。
 それは意地悪でも、罰でもありません。警告です。目覚ましです。愛に基づく行為なのです。
 みなさんは子供の手やおしりを叩いたことがありませんか。
 なぜ、そんな子供が泣くようなことをしたのでしょうか。それは子供の身に悪いことが降りかからないようにです。将来の大きな災いを未然に防ぎたいと思うから敢えて一時的な苦痛を与えたのです。それは子供のために必要なことでした。

 神がとられた方法も同じです。彼らに災いが及ばないように、彼らが本当の幸せを得ることができるように、そのままで満足しないように警告されました。
 レビ記26章に神の掟を拒み、定めを忌み嫌うなら、警告として、どのようなことが起こるかが書かれています。そして、それが教えられ、警告が与えられたのにイスラエルは「わたしのもとに帰って来なかった」とアモス4章で神は嘆いておられます。その結果、イスラエルもユダも滅び、人々は捕囚となって行きました。
 ハガイとゼカリヤが神の御言葉を伝えた人達は、直接それを経験していました。聞いた彼らは、どうしたでしょうか。「シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと民の全ての残りの者とは、彼らの神、主の御声とまた、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイの言葉に聞き従った。民は主の前で恐れた」(1:12)と書かれています。そして彼らは立ち上がりました。
 彼らの姿を見て神は言われました。13節「わたしは、あなた方と共にい
る」

 私達が神に従おうとする時、神は喜び、共にいて下さり、祝福してくださいます。御自身が働いて、私達に与えられた任務を果たさせて下さいます。
 ピリピ2:13は言います。「神は、御心のままに、あなた方の内に働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」
 家族のために、神様のために、教会のために、地域のために、誰かのために何かをしたいと思ったら、それは神が与えてくださった志です。それを実行に移したいと願うなら、神が力を与え、必要なものを与えて、実行させてくださいます。

 心を動かされたら立ち上がりましょう。神の御計画に加えていただきましょう。神が成し遂げてくださいます。


岡山県赤磐市桜が丘西1ー7ー9

日本同盟基督教団

本文へジャンプ