証し3
「私の話」
日本では、他の国々同様、多くの人が、すべてのアメリカ人がクリスチャンだと思っています。アメリカの多数の人でさえそう思っています。彼らは、すべての人が神様と御子イエス様を知っていると思っているのです。しかし、それは真実ではありません。
私の話をさせてください。私がまだ幼い頃、母と父は離婚しました。私は一人っ子でした。私は本当に父のことを知りませんでしたし、彼のいかなる援助をも受けていませんでした。母と私は、祖父母とともに住んでいました。母は働き、祖母が私の世話をしてくれました。祖父母と母は、とても私を愛してくれました。母は私たちを養うために、一生懸命に働きました。祖母は寛大で優しい人でした。彼女は他人を助けました。たとえアメリカが大恐慌で私たちがあまりお金を持っていなかったとしても、彼女は貧しい人に食べ物を与え、お金を施しました。母は良い人でした。祖母もまた良い人でした。彼女たちは優しく寛大な人でしたが、私の家族にイエス様を知っていた人は誰もいませんでした。神様と御子イエス様について、私に教えてくれた人はいませんでした。日曜日は特別な日ではなく、私たちは教会にも行きませんでした。私たちはただリラックスして楽しんでいました。私は神様が誰であるかを知りませんでした。人々がクリスマスに語り、歌った赤ん坊が誰であるかを知りませんでした。私の罪から私を救うために、イエス様が十字架で死なれたことを知りませんでした。
中学校のとき、私の特別な女友達が私たちの住んでいたイリノイ・ゲールズバーグからシカゴへ引越し、祖父母もテキサスへ引っ越しました。これは私にとって辛いことでしたが、神様は──私がそれを知らなかったとしても──私の面倒を見ていてくれていました。私はジェラルディンという新しい友達と出会いました。彼女もまた一人っ子で、彼女の両親も同じくクリスチャンではありませんでした。しかし彼らは、自分たちは行かなかったとしても、彼女を日曜学校と教会に行かせました。彼女は一緒に近くのバプテスト教会に行くように私を誘いました。私はそこで素晴らしい人々に出会いました。彼らは慈愛に満ち、親切でした。多くの若者がこの教会に来ていました。ジェリー(ジェラルディン)と私はそこにいるのが好きになりました。彼らは私の人生に欠けている何かを持っていました。彼らはイエス様を知っていました。
私は、ローマ3章10節「義人はいない。一人もいない。」、ローマ3章23節「すべての人は、罪を犯したので、※神からの栄光に達しない、」、ローマ6章23節「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」というのを聞きました。罪の許しを求めたとすれば、私はクリスチャンになるだろうと聞きました。WOW! これが私が理解したすべてでした。私は良い人でした。私は心の中で罪人ではありませんでした。救いが無償の賜物であるとは信じがたいものでした。それはあまりにも易しく、あまりにも簡単すぎました。私は何かするべきだと思い、高校を通して苦闘していました。
高校を卒業すると、私は看護学校へ入りました。教会へ行くのをやめ、より世俗的なライフスタイルで生活をしていました──またはそう思っていました。私の生活には、何かが欠けたような虚無感がいつもありました。私はクリスチャンであることが必要なのだと知っていましたが、実のところ私の心の目は閉ざされていました。看護トレーニングを卒業した後、私は家へ帰りました。
その間に、私の隣人は、私の通っていた教会に行き始めていました。彼らはクリスチャンになっており、私に必要なのはキリストを知り、彼らと一緒に教会へ行くことだと言うようになりました。彼らは何度も私を誘い、ついに私は折れて教会へ戻ることになりました。数週間が経って、私は歌を聞きました。「私は世界を得た。しかし救い主を失ったならば、生命に何ら価値はないだろう」私の心の目は開かれました。私の心の中に光が灯りました。その日私は、私の生涯をイエス様に授けました。聖書の中にこの歌の元になった一説があります。「彼は全世界を得た。しかし、彼自身の魂を失ったならば、人に何の利益をもたらすだろう?」私は、世界が私に少しの満足しか与えないことを知りましたが、イエス様は私に生きる新しい目的を与えてくださいました。私はその時、喜びと平和を持ち、永遠の命を持つだろうと知りました。WOW!!でした。
私は教会で3つのことを学びました。 1)自分の時間、才能、十分の一税を主に捧げなさい。 2)教会に出席し、他の信者と共にしなさい。 3)クリスチャンと結婚しなさい。
−後記: 私がラスに出会ったのは、1952年の夏、彼が私たちの牧師のアシスタントとして教会に来たときです。私たちは1年半後に結婚し、私は牧師の妻になりました。これが私の話のすべてです。
−私の祖母と母は、私の13歳の娘が主に導き、クリスチャンになりました。彼女は母と祖母が彼女とともに神の国に行くことができないであろうことを心配していました。今はできるでしょう。
−私たちの子供たちは皆クリスチャンです。これは私たちの子供たちが常に良い行いをしていることを意味するのでしょうか? いいえ。これは私たち家族が苦闘しないことを意味するのでしょうか? いいえ。クリスチャン・ファミリーであることで私たちは豊かになったでしょうか? いいえ。では、私たちはクリスチャンになったことを後悔しているでしょうか? とんでもない。それらすべてを経て、神様は私たちから離れたり、見捨てたりはしませんでした。彼は忠実で、生命は意味を持ちました。素晴らしい神様をたたえてください。
※新改訳では「神からの栄光に達しない」を別訳としており、本文では「神からの栄誉を受けることができず」となっています。証し4