今日のできごと


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2024/9/28(土)

 

天の国を閉ざすからだ

1.律法学者たちは天国を閉ざしていた

 律法学者たちとファリサイ派の人々は、聖書を学んでいました。
 そして、聖書を人々に教えていました。
 しかし、彼らは天国に入れない状態でした。

 ファリサイ派の人々や律法学者たち、救われていなかったのです。
 そして彼らの教えを学んでいた人たちもまた、救われていませんでした。
 イエスは律法学者たちとファリサイ派の人々に対して、次のように語っています。

 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
 人々の前で天の国を閉ざすからだ。
 自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
 マタイによる福音書 23章13節

 「天国を閉ざしている」
 「自分自身、天国に入らない」
 「人も天国に入らせない」

2.罪があるのに自分は正しいと自己義認していた

 とんでもない話です。
 聖書を一生懸命学んで、聖書を人にも教えていたのに
 それが、天国に入れないことだったというのです。

 彼らの何が、間違っていたのでしょうか?
 神の言葉である聖書を一生懸命学び、人にも教えていたのに、
 天国に入れないとは、一体どういうことなのでしょうか?

 それは、聖書に示されている「罪の問題」を軽視していたからなのです。
 聖書に示されている人間の罪を、自分の事として受け止めず
 自分自身の罪の解決ができていなかった、という点に間違いがありました。

 「律法を完全に行なおうとしても、それができない」という点に目をつぶり
 正しく律法を行えないのに、あたかも正しく行なえるかのようにふるまい、
 人にもそう教えていたのです。律法を行えないのに、行なえているふりをしていたのです。

 これを指してイエスは、「あなたたち偽善者は」と言っているのです。

3.聖書を学ぶことと聖書の言葉に従うこととは異なる

 ここからわかることは、聖書を一生懸命勉強しても
 それで天国に入れるわけではない、ということです。
 ファリサイ派の人々や律法学者たちも、一生懸命聖書を学んでいたことでしょう。

 聖書の解釈においても、彼らはよく知っていたはずです。
 イエス降誕時に、ヘロデから「メシアはどこで生まれるのか」と質問されると
 すぐに「それはベツレヘムです」と、答えられるほどだったのです。

 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、
 メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
 マタイによる福音書 2章4節

 その時の答え方も、きちんと聖書の言葉を引用して答えています。

 彼らは言った。
 「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
  お前はユダの指導者たちの中で
  決していちばん小さいものではない。
  お前から指導者が現れ、
  わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 マタイによる福音書 2章5〜6節

 それでもファリサイ派の人々や律法学者たちは、天国に入れない状態だったのです。

むすび.聖書の言葉を受け入れて自分自身に正しく適用する

 聖書をよく知っていても、天国に入れない場合があります。
 聖書の理解が深く、知識も豊富にあり、暗唱していたとしても
 それで救われるのではありません。

 聖書に書かれている神の言葉を、そのまま受け入れて
 その言葉を、自分自身に当てはめて従うか否かにかかっているのです。
 たとえば、すべての人が罪人であることを示した詩編の言葉を見てみましょう。

 主は天から人の子らを見渡し、探される
 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。
 善を行う者はいない。ひとりもいない。
 詩編 14編2〜3節

 ここを見て、「ああ、当時の人々は罪深かったんだな」「でも私は違う、私は正しい」
 と解釈してしまうと、天国に入れない状態に陥ってしまうのです。
 「ああ、私も同じ罪人だ。良いことを行うことができない」と自分に適用するのです。

 パウロはこの箇所を、次のように引用して語っています。

 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。
 全くありません。
 既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
 次のように書いてあるとおりです。
 「正しい者はいない。一人もいない。
  悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
  皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
  善を行う者はいない。ただの一人もいない。
 ローマの信徒への手紙 3章9〜12節

 パウロは「当時の人だけでなく、今の私たちもユダヤ人もギリシア人も全て罪人だ」
 と解釈して、詩編を自分たちに適用して語っているのです。
 聖書に書かれている神の言葉を、そのまま受け入れて自分は罪人ですと語っているのです。

 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、
 わたしの中に住んでいる罪なのです。
 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、
 善が住んでいないことを知っています。
 善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
 ローマの信徒への手紙 7章17〜18節

 パウロのように、聖書を自分に適用することが必要なのです。
 一番大事なことは、「私の罪のためにイエス・キリストが、
 十字架で血を流して死んでくださって、私を赦して下さった」と信じる事です。

 イエス・キリストは、十字架で死なれ墓に葬られた後三日目によみがえって
 今も生きておられ、私たちのためにとりなしておられます。
 イエス・キリストは私たちに永遠の命を与えて下さったのです。

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
 すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
 コリントの信徒への手紙一 15章3〜5節

 聖書を読むこと学ぶことは、とても大切です。
 しかし、それを自分自身に当てはめて読まないならば学ばないならば
 それは救いにつながりません。自分自身に当てはめて、

 素直に聖書に書かれていることに従うとき、私たちは救われるのです。
 「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」を
 その通り自分のためだったと信じれば、私たちは救われて天国に入れるのです。

 【今日の聖書】
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
 人々の前で天の国を閉ざすからだ。
 自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
 マタイによる福音書 23章13節


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