自分に死ぬ体験
自分がしたくないことを、しなければならなくなった時
自分が行きたくない所に、行かなければならなくなった時
「何でこんなことをしなければならないのだろう」と思うかもしれません。
他人が汚したものを、自分が洗わなければならなくなった時
「自分が汚したもの位、自分で洗えばいいんじゃないか」と思うかもしれません。
「私はあなたの奴隷じゃありません」と言いたくなるかもしれません。
けれどもそんな時、イエスを思い起こすのです。
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、
腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
ヨハネによる福音書 13章4〜5節
そうか、イエス・キリストも弟子達の足を洗われたんだ
自分が汚したわけでもない、弟子達の足を全員分洗われたんだ
と思い起こすのです。
その姿こそ、自分に死んだ姿であり、愛の姿なのです。
愛というのは、犠牲が伴います。
その犠牲を払うには、自分に死ぬ必要があるのです。
自分に死ぬときに、他人を生かすことができるのです。
そして他人を生かす時、隣人愛がそこに表されて行くのです。
自分に死んで人を生かす愛をもって、隣人を愛していきたいと願います。
【今日の聖書】
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、
そのほかに、どんな戒めがあっても、結局
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
ローマの信徒への手紙 13章9節