何をしてほしいのか?
1.イエスに向かいふたりの盲人が叫び求めた
イエスの一行が、エリコの町を出た時のことです。
その時、大勢の群衆がイエスに従っていました。
一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
マタイによる福音書 20章29節
するとふたりの盲人が、道端に座っているところに通りかかります。
ふたりの盲人は、イエスが通られると聞いて叫びます。
「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」
そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、
イエスがお通りと聞いて、
「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
マタイによる福音書 20章30節
2.群衆は盲人たちを叱り黙らせようとした
群衆は彼らに対して、叱ります。黙らせようとしたのです。
群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、
「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
マタイによる福音書 20章31節
叱りつけ、黙らせようとしなければならなかった程、
彼らは大声で、執拗にイエスに向かって叫び求めていたことがわかります。
3.イエスは盲人たちに「何をして欲しいか」と尋ねた
群衆の態度とは逆に、イエスは立ち止まってふたりを呼びます。
そして尋ねるのです。「何をしてほしいのか」と。
イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
マタイによる福音書 20章32節
イエスは、盲人たちをご自分の所に呼びます。
その後「
ただちに、盲人たちの目を癒された」というのではありませんでした。
まず彼らの意志を、尋ねたのです。「何をしてほしいのか」と。
イエスにとって、盲人たちがいやされたいと願っていたことは
一目瞭然のことで、そんなことは聞かなくても分かっていたはずです。
けれども、ことさらにその意志を尋ねているのです。
「わたしは癒してあげたいのだが、あなたはどう考えているのか?」
「あなたの願っていることを、私はしてあげよう」というのです。
どんな状況のどんな人に対しても、本人の意志や決断を尊重しているのです。
むすび.愛は相手の意志と決断を尊重する
愛は、本人の意志を無視したり、
本人の願っていないことを、強引に行なったり
強制的に、その人をコントロールしたりすることはないのです。
「私はあなたを癒してあげたいけれども、あなたはどうなのか?」
「私はあなたの意志を、どこまでも尊重しますよ」ということなのです。
これが大事です。真の愛は、相手の決断の領域には決して踏み込まないのです。
相手を強制的にコントロールする事をしないのが、真の愛なのです。
強制することは、本人の意志を踏みにじることであり愛の逆になるのです。
個々人に自由意志をお与えになった神は、どこまでも自由意志を尊重されるのです。
そういう愛で、私たちは神に愛されているのです。
自由意志でどう判断し決断するかは、私たち自身に任せられているのです。
ですから私たちもまた、互いの自由意志を最大限に尊重し
相手の決断の領域には、決して踏み込まないようにしていくのです。
それが、本当の愛の行動なのです。
本来相手が決断すべきことを、私がしてしまってはならないのです。
【今日の聖書】
イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
マタイによる福音書 20章32節