今日のできごと


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2024/2/26(月)

 

敵を憎まず心から愛する

1.敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
 これが、イエス・キリストの与えられた命令です。
 自分をあざけりののしり傷つける人を、愛しなさいと言われているのです。

 1.1 報復してはならない

 報復行為は、禁止されています。

 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。
 お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
 テサロニケの信徒への手紙一 5章15節

 悪をもって悪に報いてはならないのです。
 やられたらやり返すではなく、やられてもやり返さないことが大切です。
 「こんなことをされたから、やりかえすしかない」ではいけないのです。

 愛する者たちよ。
 自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。
 なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。
 わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 ローマの信徒への手紙 12章19節

 正しい裁きは、人ではなく神がされるのです。
 神がすべきことを、人が勝手にやってしまってはならないのです。

 1.2 善をもって悪に報いる

 悪を行ってきた人に対しては、善いことで報いることが必要です。

 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。
 ローマの信徒への手紙 12章17節

 悪口を言われたら、すぐに悪口で言い返してしまうのがよくあるパターンですが
 悪口を言われた時こそ、良い言葉を語りその人に良いことをしてあげるのです。
 憎しみをもって怒鳴りつけられたり、物を破壊されたりした時にも

 決して怒らず憎み返さず、逆に親切にするのです。

 しかし、聞いているあなたがたに言う。
 敵を愛し、憎む者に親切にせよ。
 ルカによる福音書 6章27節

 呪いの言葉を投げかけられても、決して呪いで返してはならないのです。
 全く逆です。祝福で返すのです。
 侮辱されたり無視されたりして辱められたら、その人のために祈るのです。

 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。
 ルカによる福音書 6章28節

 1.3 右の頬を殴られたら左の頬を出す

 右の頬を殴られたら、思いっきり殴り返したくなる場合もあるかもしれませんが
 左の頬を出すのです。顔をガードするのではなく、頬を差し出してしまうのです。

 あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、
 あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。
 ルカによる福音書 6章29節

 何かを奪い取られたら、取り返すのではなく
 さらにもっと、与えてしまうのです。「いやいや、それはおかしいですよ!」
 「やられっぱなしで、そんなのはおかしいよ」と思うかもしれません。

 しかしイエス・キリストの十字架の姿は、まさにこれだったのです。
 やられっぱなしで、なんの報復もせず最後には殺されてしまったのです。
 何も悪いことは、していなかったにもかかわらずです。

2.敵対し攻撃してくる人はわかっていないだけ

 敵対し悪い行動で攻撃してくる人は、自分が何をしているのか理解していないだけなのです。
 悪口や暴力は、実際に人を殺していなくても殺しているのと同じなのですが
 それに気づいていないので、やってしまっているだけなのです。

 まさか殺しているのと同じだなどとは、思ってもいないので
 正当な行いだと思ったり、これ位は別にいいんだと思いながら
 人を傷付けてしまっているのです。

 どんなにひどいことをしているか、わかっていないだけなのです。
 理解できるように、とりなし祈ればよいのです。
 イエス・キリストの十字架の姿が、模範になります。

 そのとき、イエスは言われた。
 「父よ、彼らをお赦しください。
  自分が何をしているのか知らないのです。」
 ルカによる福音書 23章34節(前半)

3.敵対してくる人も神に造られ愛されている大切な人物

 敵を愛しなさいと言われていますが、元々敵として生まれてきたわけではなく
 罪の結果、敵対するようになってしまっただけなのです。
 要は、その人が罪から離れればいいだけなのです。

 それはちょうど、ダイヤモンドが糞尿で汚れてしまっているようなものです。
 糞尿はきれいに洗い去って捨て去るべきものですが、ダイヤは貴重な存在なのです。
 汚いからと言ってダイヤまで捨ててしまうのではなく、外側の糞尿を取り除けば良いだけなのです。

 ダイヤについている糞尿を見て、ダイヤまで否定してしまってはなりません。
 悪を行っている人を見て、逆に自分も相手をあざけったりののしったりする場合
 そのののしりは、ダイヤそのものに対してしていることになります。

 たとえどんなにあざけられようとも、ののしられようとも
 それをしている人も、神に造られ愛されている尊い人物だと認めなければなりません。
 これを忘れては、ならないのです。

 そしてそのような悪を行っている人のために、イエス・キリストは来られたのです。

 イエスはこれを聞いて言われた。
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 マルコによる福音書 2章17節

 神はキリストの血潮で「ダイヤの汚れ」すなわち私たちの罪を取り除き、
 中の「ダイヤ」すなわち私たちの魂を、受け入れて下さるのです。

むすび.敵を憎まず心から愛することが重要

 イエス・キリストに対して、人々はひどいことをしました。
 あざけりののしり、鞭打ち冤罪で十字架につけて殺してしまったのです。
 その時イエス・キリストは、十字架の上で人々を愛して赦されるようとりなして下さったのです。

 ひどいことをしてくる、恐ろしい敵の様な人がいるかもしれません。
 しかしその人を恨んだり憎んだりすることは、ゆるされていません。
 逆に、心から愛さなければならないのです。

 彼らは、自分が何をしているのかわからないだけなのです。
 自分が何をしているかがわかった時、はじめて自分からそれをやめようと思うのです。
 報復しても解決はないのです。真の解決は、敵を愛することにあるのです。

 【今日の聖書】
 しかし、わたしは言っておく。
 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 マタイによる福音書 5章44節


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