今日のできごと


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2024/1/11(木)

 

ぶよは漉してラクダは飲み込む

1.イエスの指摘「ぶよは漉してラクダは飲み込んでいる」

 イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対して
 「ものの見えない案内人」と、指摘しています。
 人々を導かなければならない案内人であるにもかかわらず、見えていないというのです。

 そして彼らのしていることを、次のようにたとえています。
 「あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」
 小さな虫である「ぶよ」は、一匹も残さずに取り除くにもかかわらず

 大きなラクダは、そのまま飲み込んでしまっているというのです。

2.「几帳面な十分の一の献げ物」対「正義・慈悲・誠実」

 「ぶよ一匹さえも、漉して除く」ということですが
 たとえば、「ほんのわずかな小さなものに対する
 正確な十分の一の献げ物」も、それに該当します。

 「薄荷、いのんど、茴香」の十分の一も、きちんと正確に十分の一になるように
 几帳面に測って神に献げていたのですが、律法の中で最も重要な
 「正義」「慈悲」「誠実」はないがしろにしていたのです。

 「薄荷、いのんど、茴香」の十分の一を、几帳面にささげることで
 「自分は神に忠実に従っている」と自己満足していたのですが、
 ぶよと比べればあまりにも大きい、「ラクダ」は飲み込んでいたのです。

 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
 薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、
 律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。
 これこそ行うべきことである。
 もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
 マタイによる福音書 23章23節

3.小さな「ぶよ」より大きな「ラクダ」

 まずラクダを取り除いた後、ぶよにとりかかるべきでした。
 まず「正義」「慈悲」「誠実」をしっかりと行った上で、その後で
 「薄荷、いのんど、茴香の十分の一」を几帳面に測って、ささげればよかったのです。

 おそらく、「正義」「慈悲」「誠実」をしっかりと行うことの難しさを感じて
 「薄荷、いのんど、茴香の十分の一」を几帳面に測るどころではなくなっていたことでしょう。
 本来やるべきことをするということは、罪人の私たちにとって非常に力が必要になることなのです。

 そこに、神の助けがどうしても必要となって来るのです。
 自分の無力さに、打ちのめされるのです。
 けれども神はそこから助けて下さり、神の力強い助けを体験して神を賛美することになるのです。

むすび.神が最も求めておられることに力を注ぐ

 今やっていることは「ぶよを漉すこと」か、それとも「ラクダを退けること」か
 絶えず、そこのところの吟味が必要です。
 ぶよを漉すことよりも、ラクダを退ける事の方が重要で大きな力が要ります。

 しかし、神が求めておられることは「まずラクダを退けること」なのです。
 「まず『ラクダ』次に『ぶよ』」この順序を、間違えないようにすべきです。
 今日もラクダを退ける力を神に求めて、進んで行きたいと願います。

 【今日の聖書】
 ものの見えない案内人、
 あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、
 らくだは飲み込んでいる。
 マタイによる福音書 23章24節


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