愛するとは具体的にどういうことなのか?
1.互いに愛し合いなさいと命じられているのだが...
聖書には「信仰と希望と愛の中で最も大いなるものは、愛である」と記されています。
イエスも「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と命じておられます。
わたしがあなたがたを愛したように、
互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。
ヨハネによる福音書 15章12節
私たちが愛し合わなければならないことは、
聖書を読めば読むほど、繰り返し繰り返し教えられる
全ての人にとってとても大切で、重要な事がらです。
2.愛することは、好きになることとどう違うか?
問題は「愛する」ということが、具体的にはどういうことかを理解することです。
多くの場合、「愛すること」を「好きになる」と混同しています。
異性を好きになってそのことを告白して、それが受け入れられると結婚へと進みます。
この時の告白は、「あなたを愛します」ではなくて「あなたが好きです」なのです。
「今私は『あなたが好き』という感情を持っています」ということなのです。
これは意志の領域というよりも、感情の領域なのです。
真の愛は、好き嫌いとは無関係です。
「敵を愛せよ」ですから、自分の感情は無関係です。
しかし、わたしは言っておく。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
マタイによる福音書 5章44節
愛は感情ではなく、意志なのです。
愛は自分の意志による、行動なのです。
3.愛は自分に死んで隣人を生かすこと
3.1 イエスの愛は十字架でご自分の命を捨てるほどの愛だった
「わたしがあなたがたを愛したように」というのがポイントです。
どのように、イエスは私たちを愛してくださったのでしょうか?
それは、「十字架でご自分の命を捨てるほど」でした。
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。
だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
ヨハネの手紙一 3章16節
3.2 隣人のために自分に死ぬのが愛
自分に死ぬのです。自分がしたいことよりも、隣人を優先するのです。
自分を生かそうとするのではなく、隣人を生かすのです。
自分の利益を求めるのではなく、隣人の利益を求めるのです。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
コリントの信徒への手紙一 13章4〜5節
自己中心ではなく、隣人を自分よりも先にするのです。
おのおの、自分のことばかりでなく、
他人のことも考えなさい。
フィリピの信徒への手紙 2章4節
3.3 隣人のために自分を使うのが愛
自分のために隣人を使うのではなく、「隣人のために自分を使う」それが愛です。
「自分がもらうこと」を考えずに、「隣人に与える」ことを考えるのです。
自分の話を聴いてもらうのではなく、隣人の話を聴くのです。
あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、
主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と
言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
使徒言行録 20章35節
むすび.いかに隣人のために自分を使うかが問われている
「互いに愛し合いましょう」と言われても、ピンと来なかったかもしれません。
けれども、「隣人のために、自分を大いに使っていきましょう」と言われれば
なるほどそうか!と思うと思います。
買い物に出た時、「これは誰のために買っているのだろうか?」ということを
考えるのです。「自分のものばかり買っていなかっただろうか?」(欲望の満足を求めてなかったか)
「自分のためだけに、多くの出費をしていなかっただろうか?」と考えるのです。
時間を使っている時も、「一体誰のために、この時間を使っているのだろうか?」
と考えます。「自分の楽しみのためだけに、使っていなかっただろうか?」
祈る時も、「自分のことばかり祈ってなかっただろうか?」と考えます。
虚しい人生にならない秘訣、それはイエスが愛してくださったように
私も隣人を愛することです。そこにこそ、本当の充実した人生が待っているのです。
信仰と希望と愛の中で最も大いなるものは、愛だからです。
隣人を自分自身のように愛して、虚しくない人生を送っていきましょう!
【今日の聖書】
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙一 13章13節