神の愛は罪人を愛する愛
1.イエスは罪人と共に食事をなされた
イエスは、罪人として蔑まれていた徴税人たちなどと一緒に
食事をされていました。それに対してファリサイ派の人々や
律法学者たちは、「どうして罪人と一緒に食事をするのか」と批判しています。
ファリサイ派の律法学者は、
イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、
弟子たちに、
「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
マルコによる福音書 2章16節
2.神の愛は罪人を愛する愛
神の愛は、「その人が罪を犯していたらもう愛しません」というものではありません。
その人が、罪を犯していようがいまいが関係なく愛する愛です。
当然神は罪を憎まれますから、その人が罪を捨てて正しく生きるように導かれます。
けれども、罪を犯している最中であったとしても
神がその人を「愛さなくなる」、ということではないのです。
罪を犯している最中であったとしても、神は限りなくその人を愛しておられるのです。
3.神は罪人に対して愛の鞭を加えられる
神は全力でその人が良くなるように、罪から離れるように働かれます。
ある場合は、厳しい鞭が与えられます。
偶像崇拝に陥って、罪を犯していたイスラエルの人々を
敵の手に陥らせ、アッシリア捕囚やバビロン捕囚という形で戒められたのも
それは、神が愛のお方だったからです。
彼らを愛されたが故に、罪に陥っていた彼らに捕囚の鞭を与えられたのです。
なぜなら、主は愛する者を鍛え、
子として受け入れる者を皆、
鞭打たれるからである。」
ヘブライ人への手紙 12章6節
鞭を控えるものは自分の子を憎む者。
子を愛する人は熱心に諭しを与える。
箴言 13章24節
愛するなら、必ず罪に対しては鞭を与えるのです。
捕囚というのは、神からの愛の鞭だったわけです。
むすび.神の愛は罪人を罪人のままで受け入れ愛する
人が罪を犯してしまった時、または罪を犯し続けている時
それでもその人を愛するのが、神の愛です。
罪を犯している人を、憎み退け見捨ててしまうのではないのです。
逆に、罪を犯している人が罪を捨てて回復するように働きかけるのが
神の愛なのです。そしてそれをして下さったのが、イエス・キリストです。
十字架にかかって、私たちの罪の刑罰を身代わりに受けて下さったのです。
イエス・キリストを信じる者は、誰もが罪を赦されて天国に行けます。
最高のプレゼントである永遠の命が、与えられるのです。
罪人をそのままで愛するのが、神の愛なのです。
【今日の聖書】
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙 5章8節