どうせ赦されるのだから罪を犯してもいいのか?
はじめに.どうせ赦されるのだから罪を犯してもいいというのは誤り
イエス・キリストが、十字架の血潮で罪を赦して下さるのは確かなことです。
けれども、だからと言って「どうせ赦されるのだから、どんな罪を犯しても構わない」
という思いになってはなりません。
1.アナニアとサフィラは故意の罪を犯して命を絶たれた
キリストを信じて赦されたにもかかわらず、罪だとわかっていながら罪を犯すことは、
神の裁きを招きます。アナニアとサフィラが、その例として私達に示されています。
ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
使徒言行録 5章1〜2節
堂々と教会の中で献金をごまかして、
さも素晴らしい献げものをしているかのように、ふるまっています。
「私は土地を売った代金の全額を献金します!」と言いつつ、実は一部でした。
どうなったでしょうか?
この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。
そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
使徒言行録 5章5節
これは、旧約聖書の時代の出来事ではありません。
イエス・キリストが十字架にかけられ復活した後の出来事なのです。
そして、アナニアとサフィラはイエス・キリストを信じるクリスチャンだったのです。
2.悔い改めたのに故意の罪を犯し続けることは悔い改めを否定する事
どうせ赦されるのだから故意に罪を犯そうというのは、恐ろしい結果を招きます。
その結果は、予想以上に恐ろしいものになります。
それは、敵に扉を開いてしまうことになっているのです。その最後は滅びです。
「キリストを信じて罪のゆるしを受けとる」ということは、「もう罪を犯しません」という決断です。
「罪を赦してください」と願うならば、そこには当然「もう罪を犯しません」が含まれます。
このように「悔い改めて救いを体験した」はずなのに、「平然と故意の罪を犯し続ける」のであれば
それは、「真実に悔い改めていなかった」ということと同じになります。
「私は悔い改めていませんでした」というのと、同じことなのです。
自分の救いを、自ら放棄することになってしまいます。その最後は滅びです。
3.真の悔い改めは持続するもの
悔い改めは、一時的なものではありません。
一旦悔い改めて神に立ち帰ったならば、それが生涯持続していくのです。
「昔悔い改めたから、もう今は何をしても赦される。だから罪を犯してもいいんだ」
というものではないのです。
神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、
その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。
神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
ヘブライ人への手紙 6章5〜6節
「救われた後、一度でも信仰から離れたらもうダメです」ということではありません。
「救われたにもかかわらず、その後で罪だとわかっていることを堂々と犯し続ける人を
再び悔い改めに立ち帰らせることは、できません」ということなのです。
その人が、故意に罪を犯し続けているにもかかわらず
「自分はすでに悔い改めたので、私の今の罪も赦されてます」と言うなら、
その人に対して「悔い改めなさい」とは、もはや言えないわけです。
悔い改めというのは、過去一回悔い改めたからそれでいいというものではありません。
悔い改めの姿勢が持続するのが、真実な悔い改めです。
そうでなければ、それは口先だけの不誠実なものになってしまいます。
むすび.真の悔い改めは故意の罪を捨て去るもの
真の悔い改めは、「昔悔い改めたから、もう今は何をしても赦される。」ではなく
悔い改めて罪が赦されたものとして、ふさわしく生き続ける事です。
一生涯、悔い改めた姿勢が持続するのが真の悔い改めなのです。
【今日の聖書】
悔い改めにふさわしい実を結べ。
マタイによる福音書 3章8節