なぜ松江には「かぎ十字路」が多いのか?
松江市内には、江戸時代からの道路が多く残っています。
拡幅されている道路や、新しく造られた道路はそうではないのですが
江戸時代に造られたであろう道路は、「かぎ十字路」がふんだんに使われています。
直進すると突き当り、少しずれないとさらに直進することができないのです。
京都にもこのような「かぎ十字路」が、複数存在しています。
松江と京都の違いは、京都は江戸時代以前からそのような十字路が存在しており
江戸時代以降は、徳川政権が町家の壁面をそろえるように命じたことで
新たに造られなかったようですが、松江はまさにその江戸時代に
城下町として道路を整備し、そこに「かぎ十字路」が造られているのです。
一般にはこれは、敵が直進して攻めてくるのを防ぐためと言われているのですが
実は、戦いの防御のために「かぎ十字路」を造ったのではなく
もっと違う理由があったと言われています。
それは、松江の城下町形成の根底をなす基準に基づくものなのですが
いわゆる「鬼門」とか「裏鬼門」を忌む、「風水思想」だったと言います。
「鬼門」の思想は中国の風水思想にはない、日本独自の風水思想だそうです。
そのような思想に基づき、松江城の本丸の北東方向の鬼門には「千寿院」を移設建立し
南西方向の裏鬼門には宍道湖を横断し、現在の松江市玉湯町湯町に
「報恩寺」を建立したということです。
そして邪気が直進する性質を考慮して、十字路である「辻」をあえて造らず
「かぎ十字路」にして、邪気の直進を防御するようにしたと言います。
松江の城下町は基本的に、このような風水思想を土台として造り上げられているようです。
白潟のスティックビル周辺は、江戸時代の街並みが残っており
このようなかぎ十字路と、突き当りが多く残っています。
普通の十字路交差点が少ないのが、特徴です。
「辻」の交差部は、邪気が交わる最も忌み嫌う場ということにされていたそうです。
天神橋の北詰も、変則的なY字形をしていますが、昔からずれていたようです。
結局今となってはそのような個所は、直進できないため通りにくい道になっています。
悪魔や悪霊は、道路をどう作ろうが防ぐことはできません。
唯一、イエス・キリストの名前によって追い出すことができるのです。
パウロも、イエス・キリストの名前で悪霊を追い出しています。
パウロは第二回目の伝道旅行で、マケドニア州第一区の都市で
ローマの植民都市の、フィリピという町に行っています。
この町に数日間滞在して、イエス・キリストの福音を伝えます。
そこで占いの霊に取りつかれている女奴隷に、出会うのですが彼女に邪魔されるのです。
パウロが「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」と言うと
即座に、霊が彼女から出て行き彼女は占いの霊から解放されました。
その後、彼女は占いができなくなってしまうのです。
悪霊は、イエスに勝てません。イエス・キリストの名前によって出ていくのです。
イエス・キリストを信じている以上、恐れる必要はありません。
【今日の聖書】
彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、
パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。
「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」
すると即座に、霊が彼女から出て行った。
使徒言行録 16章18節