聖であるということ
1.祭司ナダブとアビフは規定に反し死んでしまった
祭司であったアロンの子のナダブとアビフは、
主の命じられたものではない、規定に反した炭火によって
香をたき、主の御前にささげました。
アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、
その上に香をたいて主の御前にささげたが、
それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。
レビ記 10章1節
その結果、主の御前から火が出て二人を焼いてしまい
彼らは主の御前で、死んでしまいます。
すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ。
レビ記 10章2節
非常に恐ろしい結果に、なっています。
2.規定違反がなぜそれほど重大な結果を招いているのか?
なぜ彼らは、死ななければならなかったのでしょうか?
それは、規定に反して「主の命じられたものではない方法」を用いてしまったからです。
その結果神は、彼らの命を絶たれてしまっているのです。
それではなぜ、それが命を絶たれなければならない程の
重大な行動だったのでしょうか?
厳重注意で、「次回から気をつけなさい」で済んでいないのはなぜでしょうか?
それは、主に近づくものである祭司は
主が聖であることを、固守しなければならなかったからです。
主が聖であることを、彼らは犯してしまったのです。
モーセがアロンに、
「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、
すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」
と言うと、アロンは黙した。
レビ記 10章3節
3.聖であるということはどういうことか?
聖であるとは、一体どういうことでしょうか?
聖であられる方は、神おひとりです。
神だけを神とすること、神の領域を侵犯しないことが「聖」の定義です。
ですから、たとえば神以外の偶像などを神とすることは、
神の領域を侵犯してしまいますから、神の聖性を犯してしまうことになります。
人間も同じで、人間を神としてしまうと神の聖であることを侵犯してしまいます。
神の領域には、神以外何ものも立ち入れないということ
それが「聖」ということなのです。
神が定められたことは、神にしか変えることができません。
神が定められたことに対して、人間が自分勝手に変更してしまうことは
それは神の聖であることを、犯してしまうことになってしまうのです。
神に仕えるべき祭司が、神の聖なることを犯してしまったので死んでしまったのです。
この点においては、非常に厳しい線引きがあります。
神の聖性を犯すことは、死に至る結果になるのです。
何らの、妥協もありません。
イエス・キリストを、神の子と信じられなかったイエスの時代の人々は、
イエスはただの人間なのに、自分を神の子としていると誤解してしまい、
神の聖なることを犯しているとして、十字架で殺そうとしてしまったのです。
神の聖であることに関する理解については、当時のファリサイ派や律法学者たちの見解は
正しかったと言えます。
彼らの間違っていたのは、イエスを神の子と認識していなかったことです。
むすび.神の聖であることを犯してはならない
モーセの時代、アロンの子である祭司ナダブとアビフは
それぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげてしまいました。
それは、主の命じられたものではない規定に反した炭火でした。
自分の考えで、自分のやり方で「神の定めではないささげ方」をしてしまったのです。
そして神によって、命が取られてしまいました。
「たったそれだけのことで」と普通は思えてしまいますが、そうではなかったのです。
神の定めを自分の主観で変えてしまうことは、神の前では命にかかわる罪だったのです。
私たちはどんな些細に見える場合であっても、神の領域に踏み込んではならないのです。
神の言葉に付け加えたり削除したり、神の言葉を自分勝手に変えてしまってはなりません。
神の言葉を変えてしまうことは、神の聖であることを犯すことなのです。
神の聖なることは、人間である私たちが犯してはならない重大なことです。
神は愛のお方ですが、同時に聖なるお方です。
私たちは神に近づくとき、神の聖であることをしっかりと固持しなければなりません。
神を畏れかしこむことは、神の聖であることを堅く守る事でもあります。
神が聖なるお方であることを、忘れてはならないのです。
【今日の聖書】
モーセがアロンに、
「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、
すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」
と言うと、アロンは黙した。
レビ記 10章3節