律法によっては、罪の自覚しか生じない
神が与えられた律法は、旧約聖書に記されています。
律法は、何が神の前に正しくて、何が神の前に悪であるかを明確に示しています。
しかし、その律法を行おうとすればするほどできないことに気づくのです。
律法を行うことができると考えて、実行に移すのですが
律法の基準は高く、とてもその基準に達することができない自分に気づくのです。
正しいことをやろうとしてもできず、悪を避けようとしても悪を行ってしまい、
正しく生きようとして律法を行おうとすればするほど、逆に罪の自覚が大きくなっていくのです。
律法は人間に対して、「私は罪人だ」と認識させるだけなのです
「私は神の前に正しい人間だ」という自己認識を、律法が崩壊させてしまうのです。
律法を行うことによっては、誰一人神の前に義とされることはありません。
どうしたら、神の前に義とされるか?
それは、イエス・キリストを信じることによってです。
ところが今や、律法とは関係なく、
しかも律法と預言者によって立証されて、
神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。
ローマの信徒への手紙 3章21〜22節
律法とは関係なく、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに、神の義が与えられるのです。
律法を行えない罪人の私たちが、イエス・キリストへの信仰によって神の前に義とされるのです。
【今日の聖書】
なぜなら、律法を実行することによっては、
だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ローマの信徒への手紙 3章20節