イエスは1回目の悪魔の誘惑を退けられた
悪魔は、断食して空腹になっていたイエスに対して
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と
誘惑してきましたが、イエスは見事にこれを退けておられます。
1.イエスは、自分の欲を満たすためには神の力を使わなかった
1.1 イエスは神の力で石をパンにすることができた
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と
誘惑されていることから、イエスには石をパンに変えることぐらい簡単にできた
ということがわかります。神の力によれば、石もパンに変えられるのです。
1.2 食欲からすればすぐにでもパンを食べたい状況だった
この時イエスは、空腹でした。
今すぐにでもパンを食べたい、というような状況だったのです。
しかし荒野には、パンはなかったのです。石ばかりです。
石をパンに変えてしまえば、それを食べることができます。
そして、空腹を満たすことができるのです。「食欲」との戦いです。
しかしイエスは、食欲に負けることなどなかったのです。
1.3 イエスは、自分の欲を満たすためには神の力を使わなかった
イエスはどんなに空腹であっても、欲に負けて悪魔の言葉に従って
罪を犯してしまう、ということはなかったのです。
極限の状況でも自分の欲を満たすためには、神の力を使わなかったのです。
神の力による奇蹟を、ご自分の欲望の満たしのためには使わないという
イエスの基本姿勢が、ここに表されています。
2.イエスは、ご自分を生かすためでなく人を生かすために来られた
2.1 パンを食べることは自分だけを生かすこと
自分の飢えを満たすためにパンを食べるというのは、「自分を生かす」ことになります。
しかしそれは、「隣人を生かす」という点に対しては何も効果を及ぼしません。
そこには自分の満足があるだけで、隣人には何の良い結果ももたらしません。
2.2 石をパンに変えることは自分のためにしかならなかった
ですから本来パンになり得ない石を、神の力によってパンに変えるというのは
与えられた神の力を、自分のためだけに使っていることになってしまいます。
「人のためではなく、自分だけのため」になってしまうのです。
2.3 イエスの世に来られた目的は自分が死んで人を生かすことにあった
これは自己中心であり、「人のために自分の命を捨てる」目的で来られた
イエスご自身の使命の、逆になります。
イエスの使命は、自分に死んで人を生かすことにあったのです。
3.イエスは、悪魔の言葉ではなく神の言葉に従った
3.1 肉の糧であるパンよりも霊の糧である神の言葉が重要
「パン」すなわち食事は、生きるために必要不可欠です。
しかしそれよりももっと重要度が高いのは、霊を生かす霊の糧です。
その霊の糧こそが、神の言葉なのです。
パンのために、神の言葉を第二第三にしてしまってはならなかったのです。
神の言葉の優先順位を保つことこそが、必要でした。
そこでイエスは、神の言葉をパンよりも優先させたのです。
3.2 人はパンだけで生きるものではない
神は、何と語っておられたでしょうか?
『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と語っておられるのです。
たとえ十分な食事があったとしても、神の言葉がなければ
霊的には死んだものです。神なしの人生は、死を意味します。
パンをたらふく食べれたとしても、神に従うことが皆無であれば最後は滅びです。
ありあまるパンを得ることが、悪魔の声に聞き従うことによるのであるなら
それは、神の言葉に聞き従うことにはならなかったのです。
神の言葉に聞き従わないことは、生きることの逆すなわち死を意味します。
3.3 イエスはパンよりも神の言葉を優先させた
神の言葉に従い、悪魔の言葉を退ける事こそが神の願いだったのです。
イエスは、悪魔の言葉を退けて神を優先したのです。
決して、悪魔に従うことを選び取りませんでした。
たとえ空腹で、パンを必要とする時であったとしても、
肉の糧であるパンよりも、神を優先したのです。
悪魔の言葉ではなく、神の言葉を取ったのです。
むすび.イエスが「誘惑に負けるような罪人ではない」ことが証明された
イエスが悪魔の誘惑に会ったのは、
悪魔から誘惑を受けるため、神の霊である聖霊に導かれたからでした。
荒野に御霊がイエスを導かれたのは、悪魔の誘惑に会わすためだったのです。
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
マタイによる福音書 4章1節
あえてイエスが「悪魔の誘惑に会う」ように、御霊が導いたのは
一体なぜだったのでしょうか?
何の目的があって、わざわざ悪魔に会わせて誘惑を受けさせたのでしょうか?
考えられることの一つは、イエスが悪魔の誘惑になど決して負けることのない
「罪のない正真正銘の救い主」であることを、人々に示すためだったということです。
もしイエスに罪があったら、繰り返される悪魔の誘惑に負けていたことでしょう。
罪を持っていなかったからこそ、どんな誘惑が来てもはじき返していたのです。
イエスこそ罪のないお方で、正真正銘の救い主なのです。
罪を持っておられなかったからこそ、私たちのために贖いをなすことができたのです。
【今日の聖書】
イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」
マタイによる福音書 4章4節