今日のできごと


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2021/1/15(金)

 
宇竜谷北(16:54)

イエスにしたことに

 小さなひとりの子供にしたことは、それはイエスにしたのと同じです。
 ですから私たちは、どんな子供に対しても
 その子がイエスであるかのごとくに、対応します。

 もちろんイエスと違って罪を持っていますから、わがままだったり
 悪口を言ったり、怒ったりすることもありますが
 だからと言って、その子を憎んだり蔑んだりはしないのです。

 人格を尊重し、どんなに悪いことをしていたとしても
 叱ることはしますが、見放したりはしません。
 人格と、悪しき行動は別だからです。

 空腹だったら食べさせ、のどが渇いていれば飲み物を与え
 怪我をしていれば手当をし、病気であれば看病します。
 わからないことを教えて欲しいと言われれば、質問に応じます。

 子供に限ったことではありませんが、特に子供たちに対しては
 軽んじる傾向にありますので、私たちはイエスの言葉通り
 イエスにするように、小さな子供にもその通りするのです。

 私たちの行動はいつでも、隣人をその人がイエスであるかのように
 大切にし、敬い、重んじるのです。
 隣人を、まるでその人がイエスであるかのごとく愛するのです。

 私たちは、最終的に神のみ前に立つことになります。
 そして神から生前に行なってきたことについて、宣告を受けることになります。

 そこで、王は右側にいる人たちに言う。
 『さあ、わたしの父に祝福された人たち、
  天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
  お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、
  のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
  裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
 マタイによる福音書 25章34〜36節

 「私がいつ、神に対してそんなことをしたのですか?」
 と疑問に思って、問いかけることになるでしょう。

 すると、正しい人たちが王に答える。
 『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、
  のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
  いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、
  裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
  いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、
  お訪ねしたでしょうか。』
 マタイによる福音書 25章37〜39節

 その時神は、こう答えられるのです。
 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
  わたしにしてくれたことなのである。』

 隣人に対してしたことは、すなわち神に対してしたことと同じなのです。
 隣人を愛したことは、すなわち神を愛したことになっているのです。
 神を愛するというのは、すなわち隣人を愛することにつながっているのです。

 【今日の聖書】
 そこで、王は答える。
 『はっきり言っておく。
  わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
  わたしにしてくれたことなのである。』
 マタイによる福音書 25章40節


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