悪からは遠ざかる
1.人を受け入れても、その人の悪は退ける
もし誰かにだまされたとしても、その人をゆるさなければなりません。
ただし、その人のした「だます」という行為は悪ですので受け入れません。
その人を受け入れても、「だます」という悪い行いは退けます。
その人を受け入れると共に、その人の「だます」行為も受け入れてしまって、
一緒になって、他の人を「だます」ようになってはならないのです。
人を受け入れることは、その人の悪い行動も一緒に受け入れることではないのです。
2.悪を捨て去るように戒め諭す
ですから「戒める」ということが、必要になってきます。
自分をだました相手をゆるすとともに、相手を戒めて二度と
そういう行為をしないように、諭します。
そしてその行為をやめるなら、問題はありません。
たとえ、過去に人をだましてばかりだったような人であったとしても
やめてくれれば、共に行動することができるようになります。一緒にいられます。
3.悪を捨てないようであれば距離を置く
けれども戒めても、だます行為をやめない場合は一緒に行動できません。
その人からは、遠ざかる必要があります。
その人をゆるしはしますが、その人の悪からは離れていなければなりません。
ゆるすことと、悪を容認することとは違うのです。
その人が、次の人をだましにかかっている時に、
自分もその人と一緒にいて止めなかったら、共犯者になります。
むすび.悪から離れない場合は距離を置く
そういう場合の分離は、差別とは違います。
「なぜ、あの人たちの仲間に入らないのか?」
自分も、同じ悪に陥ってしまわないためです。
「なぜ、あの人だけ仲間外れにするのか?」
自分たちが、同じ悪に陥ってしまわないためです。
「あの人たちとも、仲良く一緒に行動しましょう」ではないのです。
悪を行い続けるならば、最終的には永遠の滅びが待っています。
誰一人滅んではならないのです。
その人も、自分も、誰一人滅んではならないのです。
パウロはテモテに対して、悪を行い続けている人々を避けるように
命じています。
【今日の聖書】
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。
そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、
高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、
神を畏れなくなります。
また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、
善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、
信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。
こういう人々を避けなさい。
テモテへの手紙二 3章1〜5節