神がいないことを前提にした教育
1.学校教育では「神がいる」とは教えてくれない
子どもたちは、「神」について何も教えられずに教育されていきます。
むしろ、暗黙の裡に「神などいない」という前提で教育がなされています。
「神がこの世界を造ったはずがない」「人間が神に造られたわけがない」
そのような考え方で、教育されています。
「人間はたまたま進化して、人間になっただけ」の存在だと教えられます。
「人間は神に特別に造られた素晴らしい存在である」と教えられることはないのです。
確かに愛し合うことの素晴らしさについて、教えられることはあるかもしれませんが
なぜ愛し合うのか、愛し合うことがなぜ素晴らしいのか、
そもそも愛とはいったい何なのか、ということも教えられずわからずじまいなのです。
2.自分の生きる理由や目的を見出すことができない
進化を前提として、歴史の授業も理科の授業も進んでいきます。
「この世界は、偶然突発的にできた」という前提の元、授業は進むのです。
世界が偶然できただけだとすると、世界の存在目的は何もないことになります。
当然そこに生息する生物も、偶然にそこにいるだけで
そこに存在する、何の目的も持ちません。
ただ単に生物は生きて、子孫を残せば良いだけの存在になるのです。
人間にも生きる目的や、存在意義などないことになってしまいます。
そうなると生徒たちは、自分の生きる価値を見出すことができなくなってしまいます。
生きる意味を、見出せなくなってしまうのです。
なぜ自分は生きているのか、なぜ勉強しなければならないのか?
何もわからないままなのです。わからないまま、学校で学び働いて結婚し家庭を築き、
やがて年をとって死んでいく、それが人生ということになってしまいます。
最後まで人生の目的が、見いだせないままなのです。
3.優れていなければ価値がないという人間観が育まれてしまう
さらに進化を前提に考えると、強い者が生き残れば良いという論理になっていきます。
弱い者たちは淘汰されても、一向に構わないということになってしまいます。
弱いものは淘汰され、いなくなっても良いのだということになってしまうのです。
そうなると、どうなるでしょうか?
強く優秀でなければ、生き残る価値がないということにならないでしょうか?
弱く劣っている者たちは、生きる価値がないという論理に発展しないでしょうか?
そういう考えの元で、あるきっかけで劣等感を持ってしまうとどうなるでしょう?
「こんな自分なんて、生きていてもしょうがない存在なんだ」とならないでしょうか?
そうなってしまうと、自分の存在価値が認められなくなってしまうことでしょう。
自分がいかに大切な存在であるかわからなくなってしまうのです。
もし単細胞生物が進化して、今の人間になったとするのなら、
「より優れたものだけが残れば良い」という考え方に、なってしまいます。
能力の優劣で、自分や他人を判断することになってしまうのです。
「学力が優れた者、運動能力に長けた者、特殊な能力を持つ者だけが良くてあとはダメ」
このような考えに、行きつくのです。だから、受験!受験!の学歴偏重、
部活で言えば大会優勝!優勝!の勝敗偏重の、いびつな教育になってしまうのです。
「学歴の低い者、能力のない者たちは価値がない」という考え方になってしまい
「人間は、優れていなければ価値がない」という人間観が、育まれてしまうのです。
これは、明らかに間違っています。
むすび.人間は神に造られた素晴らしい存在
「学力が優れた者、運動能力に長けた者、特殊な能力を持つ者だけが良くてあとはダメ」
これはまったくの嘘です。
「すべての人間は、神に造られた素晴らしい存在である」というのが真理です。
人間は元々、全知全能の神にかたどって創造された素晴らしい存在なのです。
罪がそれを見えなくしていますが、元々は素晴らしい存在として
神によって造られているのです。要は、罪から解放されればよいのです。
「神はおられる」「神がこの世界を造られた」「人間は神に造られた尊い存在」
これが、本来的教育の土台なのです。
ここから、真の教育は始まっていくのです。
【今日の聖書】
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
創世記 1章27節