玉葱が忘れられない
イスラエルの民は、昔エジプトで奴隷状態でした。
そこから、モーセによって率い出されて出エジプトするのですが、
エジプトでの食べ物のことが、聖書には記されています。
エジプトでは奴隷状態ではありましたが、
魚をただで食べていたと言います。
さらに野菜や果物では、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくを食べていたようです。
エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、
葱や玉葱やにんにくが忘れられない。
民数記 11章5節
出エジプト後の荒野では、これら一切のものが食べられなくなっています。
けれども神は、その代わりにマナを備えられたのです。
夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、
朝には宿営の周りに露が降りた。
この降りた露が蒸発すると、見よ、
荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。
イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。
彼らはそれが何であるか知らなかったからである。
モーセは彼らに言った。
「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。
出エジプト記 16章13〜15節
主はイスラエルの民のための食べ物として、マナを与えて下さったのです。
けれども民はつぶやくのです。
「誰か肉を食べさせてくれないものか。」
「どこを見回してもマナばかりで、何もない。」
マナが与えられているにもかかわらず、「マナばかりで、何もない」と言っています。
その姿に自分自身の反省も、促されます。
せっかく、良い物が与えられているにもかかわらず、
「こんなものばかりで、ほかに何もない」と言ってしまう罪がなかったか?
罪の奴隷から解放されたことの素晴らしさを、過小評価していなかったか?
永遠の命よりも、食べ物に代表される日常生活の必要の方を重要視していなかったか?
感謝よりも、不平が出ていなかったか?
出エジプトしたイスラエルの民の姿は、現代の私たちの姿を如実に表しています。
いつの時代であっても、人間は同じ罪人です。
その時代の人々が、特別罪深かったのではなく、同じなのです。
私たちは、彼らを反面教師にして、
神に与えられている良い物を、心から感謝し
罪の奴隷から解放されたことの素晴らしさを、しっかりと認識し
食べ物に代表される日常生活の必要よりも、永遠の命を重要視し
不平・不満ではなく、
いつも、すべてのことについて感謝する生活をしていきたいと願います。
「マナばかりで、何もない」と言われたそのマナで、
イスラエルの人々は、食糧のなかった荒野を乗り切ったのです。
神は栄養満点のマナを、愛するイスラエルの民に与えておられたのです。
【今日の聖書】
エジプトでは魚をただで食べていたし、
きゅうりやメロン、
葱や玉葱やにんにくが忘れられない。
民数記 11章5節