今日のできごと


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2019/5/31(金)

 
さつき

知識よりも愛

1.偶像の神に供えた肉も、普通の肉と同じ

 コリントの教会では、偶像に供えられた肉について
 食べて良いかどうか、意見の対立が起きていたようです。
 それをパウロに対して、問いかけていたようです。

 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、
 世の中に偶像の神などはなく、
 また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、
 わたしたちは知っています。
 コリントの信徒への手紙一 8章4節

 「偶像の神などおらず、唯一の神以外にいかなる神もいない」事を知っているなら
 偶像に供えられた肉と言っても、それは単に「木や石の前に置いてあった肉」
 ということになるでしょうという意味合いで、パウロは答えています。

 その辺に置いてある肉と、まったく変わらない肉だとすれば
 偶像に供えられた肉を食べることは、偶像崇拝することにもならず
 自分を汚すことにもなりません、というのです。

2.弱い人は偶像に供えられていたという意識が消えない

 ところがここに一つ問題が、存在しています。
 「偶像に供えられた肉だ」という思いが消えない人の場合、
 「こんな肉を食べたら、神に背くことになる」という

 罪責感を抱きながら食べることになってしまうのです。
 わかっていながら、悪いと思いつつもやってしまうことは罪になります。
 本来悪いことでなくても、罪責感を抱きながら行うことは罪なのです。

 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、
 罪に定められます。
 確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
 ローマの信徒への手紙 14章23節

 「神に喜ばれることではない」と自分が思っていることを
 罪責感を抱きながらも、行ってしまうことは
 実はこれは、罪なのです。ここが聖書の罪概念と、私たちの罪概念の大きな違いです。

 それ自体で汚れたものは何もないと、
 わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。
 汚れたものだと思うならば、それは、
 その人にだけ汚れたものです。
 ローマの信徒への手紙 14章14節

 実際汚れた肉でないにもかかわらず、それは汚れたものだと思うなら
 その人にとってその肉は、汚れたものになってしまうのです。
 同じ肉なのにそれをどう見ているかによって、それが汚れているかどうかが変わるのです。

 「私はやってはいけないことをしてしまっている」という思いを持ちつつ
 やってしまうのは、罪なのです。
 何をしたかと言うことではなく、なぜしたかという動機が問われてしまうのです。

3.食べても良いと知っている人が食べるのを見て弱い人が誘われる

 偶像に供えられた肉を食べることは、偶像の神などいないのだから
 単にその辺に置いてあった肉と同じなので、偶像崇拝することにならず、
 自分を汚すことにもならないという、正しい知識を持っている人が

 「こんな肉を食べたら、神に背くことになる」という思いを持っている
 正しい知識を持たない弱い人の前で、その肉を食べてしまったら、
 その弱い人も、その肉を食べるようになってしまう可能性がでてきます。

 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、
 だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、
 偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。
 コリントの信徒への手紙一 8章10節

 そうするとその弱い人は、「神に喜ばれることではない」と自分が思っていることを
 罪責感を抱きながらも、行ってしまうことになってしまいます。
 実はこれは、弱い人にとっては罪なのです。

 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。
 その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
 コリントの信徒への手紙一 8章11節

 そうなると、正しい知識を持っている人の正しい行動によって、
 正しい知識をもっていない、弱い人が滅びてしまうことになってしまうというのです。

むすび.愛をもって行動する

 ですから、本来は自分の中では食べても何ら問題ないことであっても
 弱い人の前では、その人を愛して食べることをしないのだというのです。
 正しい知識を持っているということよりも、隣人を愛することの方が大事なのです。

 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、
 彼らの弱い良心を傷つけるのは、
 キリストに対して罪を犯すことなのです。
 コリントの信徒への手紙一 8章12節

 たとえ、自分の中では罪でも何でもない行為であっても、
 そこに、その行為を罪と認識している人がいる所でそれをしてしまうなら
 その人たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけてしまうことになってしまいます。

 そしてそれは、キリストに対して罪を犯すことになってしまうというのです。
 ですからパウロは、本来は食べてもいい肉であっても、
 私は食べませんと言っているのです。

 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、
 兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。
 コリントの信徒への手紙一 8章13節

 【今日の聖書】
 偶像に供えられた肉について言えば、
 「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。
 ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。
 コリントの信徒への手紙一 8章1節


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