主の慈しみを待ち望む
1.主は人の能力を望まれていない
陸上競技では、「足の速さ」が求められます。
いかに人より速く走れるか、これが賞を得るかどうかの基準になります。
しかし主は、人の「足の速さ」などの能力を求められていません。
主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
人の足の速さを望まれるのでもない。
詩編 147編10節
主が望まれるのは、「主を畏れる人」であり
「主の慈しみを待ち望む人」なのです。
能力は、まったく関係ないのです。
2.主は「主を畏れ主の慈しみを待ち望む人」を望まれる
主が望まれるのは主を畏れる人
主の慈しみを待ち望む人。
詩編 147編11節
いかに優れた能力を有していても、
「主を畏れず」「主の慈しみを待ち望まない」ならば
主が望まれる人とはなり得ないのです。
逆に、優れた能力をもっていなくても
「主を畏れ」「主の慈しみを待ち望む」ならば
その人こそ、主が望まれる人なのです。
3.この世は能力で人を測るが主は違う
この世は能力が基準になり、能力で測られる世界です。
優れた能力を持つ人が、表彰される世界です。
能力がある人が、多くの報酬を手にしています。
しかし、能力がないことを嘆く必要はありません。
「主を畏れ」「主の慈しみを待ち望む」ことこそが
主に望まれていることなのです。誰もができることなのです。
むすび.主をおそれて、主の慈しみを待ち望もう
能力があってもなくても、大丈夫です。
主をおそれて、主の慈しみを待ち望めばよいのです。
主を畏れ、主の慈しみを求める人生こそが、最高の人生なのです。
【今日の聖書】
主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは主を畏れる人
主の慈しみを待ち望む人。
詩編 147編10〜11節