もうだめだ!から始まった
1.パウロの通った「もうだめだ」体験は益に変わった
1.1 パウロは「もうだめだ」という体験をしている
パウロは、異邦人宣教に大きく用いられていますが、
決して、すべてが順風満帆だったわけではありません。
その働きは苦難の連続で、「もうだめだ」という体験をしています。
兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。
わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、
生きる望みさえ失ってしまいました。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。
コリントの信徒への手紙二 1章8〜9節(前半)
1.2 パウロの「もうだめだ」は自分の力を頼らない姿勢につながった
この生きる望みさえ失ってしまうような「もうだだめだ」という体験が
パウロたちに、自分を頼りにすることなく、
死者を復活させてくださる、神を頼りにする姿勢をもたらしたのです。
それで、自分を頼りにすることなく、
死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
コリントの信徒への手紙二 1章9節(後半)
1.3 パウロの「もうだめだ」は100%神に頼る姿勢につながった
「もうだめだ」体験こそ、「神を100%信頼する信仰」をもたらす
素晴らしい体験だったのです。
もしもこの体験がなかったら、ただでさえ優秀なパウロでしたから
どこかで自分の力を信じてしまう行動をとってしまっていたと、考えられます。
この体験こそパウロに、神を100%信頼する信仰をもたらし
そこに、「神が大きく働かれるパイプ」が築かれていったと考えられます。
2.ラザロが死んでしまって「もうだめだ」という体験は益に変わった
2.1 ラザロの姉妹たちは「もうだめだ」という体験をしている
マルタとマリアは、兄弟ラザロが死んでしまって、
「もうだめだ」という、絶望と悲しみに陥ってしまいました。
イエスがやって来ても、その絶望感は変わりません。
マルタはイエスに言った。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、
わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、
わたしは今でも承知しています。」
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
ヨハネによる福音書 11章21〜24節
2.2 ラザロの姉妹たちは死人が生き返る信仰までは持っていなかった
マルタは、「イエスが神に願うことは何でもかなえられる」と信じてはいましたが
ラザロがその場で生き返るとは、夢にも思っていませんでした。
それはマリアも同じです。
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、
わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
ヨハネによる福音書 11章32節
ここにイエスがいて下さったら、ラザロは死ななかったはずなのに、
いて下さらなかったから死んでしまって、もうだめですという意味の言葉です。
この言葉の中にも、絶望感と悲しみがあふれています。
2.3 ラザロの姉妹たちは死人の生き返りを直に見ることになった
しかしこの「ラザロは死んでしまってもうだめだ」という体験は、
その後に続く、信じられないような出来事によってひっくり返されます。
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。
顔は覆いで包まれていた。
イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
ヨハネによる福音書 11章43〜44節
ラザロは、イエスによって生き返らされたのです。
「ラザロは死んでしまってもうだめだ」という体験は、
死んだ人をも生き返らすことのできる、イエスの素晴らしさを目の当たりにするために
必要なことだったのです。
「ラザロは死んでしまってもうだめだ」という体験がなかったら、
死んだ人をも生き返らすことのできる、イエスの素晴らしさは体験できなかったのです。
3.イエスが十字架で死んでしまって「もうだめだ」という体験は益に変わった
3.1 弟子たちはイエスの十字架上の死の時「もうだめだ」体験をした
弟子たちにとって、一番の「もうだめだ」体験は、
何と言っても、イエス・キリストの十字架の時だったでしょう。
王になるはずのイエスが、あろうことか十字架にかけられてしまった。
そしてそのまま、死んでしまった。
そして、墓に葬られてしまった。
弟子たちにとってこの時の絶望感は、どれだけのことだったでしょうか?
3.2 弟子たちの「もうだめだ」体験は復活と共にひっくり返った
しかしイエスは、3日目によみがえられたのです。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、
弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。
ヨハネによる福音書 20章19〜20節
弟子たちは、死に打ち勝ち復活された主を見て喜んだのです。
もし、「イエスが十字架で死んでしまってもうだめだ」という体験がなければ
死からよみがえられたイエスに出会って喜ぶ、という体験もなかったことでしょう。
3.3 弟子たちの信仰は変わった「イエスこそ本物の救い主だ」
「イエスが十字架で死んでしまってもうだめだ」という体験こそ、
弟子たちにとって、必要な体験だったのです。
そこで終わりではなく、そこからイエスの復活が続いていたからです。
むすび.「もうだめだ」という経験は素晴らしい
私たちも時には、「もうだめだ」という体験を通ることがあります。
「自分では、もうこれ以上どうすることもできない」という体験を通らされるのです。
でも失望する必要はありません。そこから主への100%信頼が始まっていくのです。
「もうだめだ」という体験は、主を100%信頼し、
主に、「100%委ねきる」またとないチャンスなのです。
聖書の中では、しばしば「もうだめだ」から素晴らしい神の御業が起こっているのです。
【今日の聖書】
兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、
ぜひ知っていてほしい。
わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、
生きる望みさえ失ってしまいました。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。
それで、自分を頼りにすることなく、
死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
コリントの信徒への手紙二 1章8〜9節