人間を誇らない
埃をかぶって汚れた500円玉も
墨汁に浸かってしまった500円玉も
箪笥の裏におちてしまった500円玉も
500円玉には変わりありません。
それを洗えば、ちゃんと使えるようになります。
私たちもそれと同じで、いろいろな罪を犯したからと言って
それで自分自身の価値が変わってしまうわけでは、ありません。
価値は変わりません。罪という余計なものが付着しているだけなのです。
要は、罪が解決できればいいのです。
イエス・キリストは、その罪を完全に赦してくださいました。
十字架の血潮で、罪を赦してくださったのです。
どんなに汚れた500円玉でも、きれいに洗えば500円として使えます。
同じように、イエス・キリストによって赦されたら
どんな過去を持っていたとしても、神の子供とされて神の元に戻れるのです。
元々持っていた人間本来の価値が、発揮できるようになるのです。
あなたの価値は、あなたの過去とは何ら関係ないのです。
パウロが良い例です。クリスチャンを迫害していたという過去があっても
イエス・キリストに出会って、罪のゆるしをいただいた後は
大伝道者として、大きく用いられているのです。
私たちも500円玉のようです。
みんな同じ500円玉なのです。価値は同じです。
けれども、そこに汚い罪という汚れが付着してしまっているのです。
それを洗えば、本来の正しい価値に戻って用いられてゆくのです。
パウロとあなたの価値は、等しいのです。ペトロとあなたの価値も、等しいのです。
全員の価値は、みな同じで比較できないのです。
そもそも神に造られた存在なので、神の前にみんなが尊い存在なのです。
能力の差や、持ち物の差など、取るに足りないことなのです。
ですから、誰も人を誇ることはできないのです。
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
コリントの信徒への手紙一 1章29節
誇るべきお方はただ一人、神だけなのです。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
コリントの信徒への手紙一 1章31節
このことは、繰り返し記されています。
「誇る者は主を誇れ。」
コリントの信徒への手紙二 10章17節
私たちをお造りになられた主なる神をこそ、誇りとするのです。
自分を誇ったり、ある特定の人物を誇ったりすることは、
してはならないことなのです。
【今日の聖書】
ですから、だれも人間を誇ってはなりません。
コリントの信徒への手紙一 3章21節(前半)