見えないものに目を注ぐ
わたしたちは見えるものではなく、
見えないものに目を注ぎます。
わたしたちは見えるものではなく、
見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、
見えないものは永遠に存続するからです。
コリントの信徒への手紙二 4章18節
私たちが目を注ぐべき、見えないものとは何でしょうか?
1.見えない神に目を注ぐ
まず、私たちの目には見えませんが
見えていなくても確実におられる、神に目注ぎます。
霊の目をもって、神をそしてイエス・キリストを見るのです。
こういうわけで、わたしたちもまた、
このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、
自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、
恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、
神の玉座の右にお座りになったのです。
ヘブライ人への手紙 12章1〜2節
2.見えない自分自身の内なる人に目を注ぐ
続いて、自分自身を見ます。
自分自身の見える肉体ではなく、自分自身の内側にある
内なる人に目を注ぎます。
だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、
わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
コリントの信徒への手紙二 4章16節
外側の体は、20代までは成長していきますが、
それ以降は徐々に徐々に、衰えて行きます。
ピークを過ぎたら衰えてゆく、目に見える体を見るのではなく
目に見えていない、内なる人を見ていくのです。
たとえわたしたちの「外なる肉体」は衰えていくとしても、
わたしたちの「内なる人である霊」は日々新たにされていきます。
最終的に肉体は朽ち果てるか、焼かれて滅びますが
内なる人は、永遠に生きるのです。神によって備えられている、
人の手で造られたものではない、天にある永遠の住みかに住むことになるのです。
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、
神によって建物が備えられていることを、
わたしたちは知っています。
人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
コリントの信徒への手紙二 5章1節
3.今は見えていない神からの報いを見る
最後に、目に見えない神の報いを見るのです。
この地上における「目に見える報い」ではなく
やがて天において受けるであろう、目に見えない報いを見るのです。
主人は言った。
『忠実な良い僕だ。よくやった。
お前は少しのものに忠実であったから、
多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
マタイによる福音書 25章21節
通常患難は、辛いだけです。早く終わってほしいと思うだけです。
けれども、主のために受ける患難は、天の報いに続いているのです。
目に見える患難ではなく、その先にある見えない報いを望み見るのです。
わたしたちの一時の軽い艱難は、
比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
コリントの信徒への手紙二 4章17節
目に見える患難を見るだけであれば、それは落胆・失望を招くだけかもしれません。
しかしそれを乗り越えた先にある、永遠の栄光を見る時に
たとえどのような患難が襲ってきたとしても、乗り越えることができます。
むすび.見えるものではなく見えないものにこそ目を注ぐ
見えるものは、確実に過ぎ去ります。
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
ルカによる福音書 21章33節
この世の有様は、永遠ではないのです。
やがて、終末を迎えることになるのです。
見えるものは一時的なのです。
世の事にかかわっている人は、
かかわりのない人のようにすべきです。
この世の有様は過ぎ去るからです。
コリントの信徒への手紙一 7章31節
この世の中の富も一切の建造物・製造物も、権力構造・支配構造も
人間が編み出したすべての仕組みも、海や山や川や湖などの大自然も
何もかも、すべて消え去っていくものなのです。
消え去るものだけに全エネルギーを費やして生きることは、虚しいことになります。
永遠に続くものにこそ、全エネルギーを注いで生きていくのです。
目に見えない神、内なる人、神の報いこそ永遠に存在するのです。
【今日の聖書】
わたしたちは見えるものではなく、
見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、
見えないものは永遠に存続するからです。
コリントの信徒への手紙二 4章18節