今日のできごと


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2019/1/2(水)

 

借金の帳消し

 聖書には、お金の話も出てきます。
 イエスは、借金帳消しの話をなさっています。

 イエスはお話しになった。
 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。
  一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
  二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。
  二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
 ルカによる福音書 7章41〜42節

 通貨の単位にデナリオンが使われていますが、円に変えて考えてみると
 例えば500万円の借金と、50万円の借金と
 それぞれの借金が帳消しにされた場合、どっちがより感謝するか?

 という意味あいの問いかけです。
 これに対して、問いかけられたファリサイ派のシモンという人は
 こう答えます。

 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。
 イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
 ルカによる福音書 7章43節

 多く帳消しにされた方が、より感謝することは間違いありません。
 借金を帳消しにされたということは、
 借金していた分の額のお金を受け取ったことと、同じことになるので、

 500万円もらうのと、50万円もらうのとどちらがうれしいか?
 となれば、それは額の多い方になってくるでしょう。
 イエスがこのたとえ話をなさったのは、罪の赦しについて教えるためでした。

 だから、言っておく。
 この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。
 赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
 ルカによる福音書 7章47節

 多く赦されると、イエスを多く愛するけれども、
 少なく赦されると、イエスを少ししか愛さない、
 ということを、イエスは語られています。

 ここで「おや?」と疑問が起ります。
 すべての人は、同じように罪人なのではなかったか?ということです。
 人によって赦しに大小があるのなら、罪の大小があるのでしょうか?

 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
 ローマの信徒への手紙 3章23節

 人は皆、罪を犯して同じように罪人であることはその通りです。
 そしてその罪は、極めて大きく重大なものです。
 その罪は、人によって大小はありません。同じなのです。

 ただ、自分自身のその極めて大きな罪の大きさを、
 私たちは、正しく認識できていないだけなのです。
 私たちが自分の罪として認識しているのは、その極めて大きな罪の

 ほんのひとかけらなのです。氷山の一角なのです。
 ですから、人の罪を見てそれが自分の氷山の一角よりも大きいとみると
 簡単に、人を裁いてしまうのです。

 悔い改める時も、自分の罪の全部を認識して罪のすべてを悔い改めているのではなく
 自分が気づいているほんのわずかな部分を、悔い改めているに過ぎないのです。
 その罪の認識の度合いが、大きいか小さいかということで差が生じているのです。

 1兆円の借金があるのに、その額の大きさに気づかずに
 「私の500万円分の借金を赦してください」と言って500万円赦された人と
 「私の50万円分の借金を赦してください」と言って50万円赦された人と

 その二人の違いのようなものです。
 自分の罪の認識の度合いによって、赦され方が違うだけであって
 そもそもは、みな同じだけの巨額な負債を抱えているのです。

 如何に自分の罪の大きさに気づくかということ、
 ここが、重要なポイントになってきます。
 ファリサイ派のシモンという人は、女性の罪にばかり目がいっていて

 自分自身の罪の大きさに、気が付いていなかったのです。
 本当は同じように罪人なのに、この女性は罪深くて、
 私はこの女性よりは罪が少ない人間だと、認識していたのです。

 【今日の聖書】
 だから、言っておく。
 この人が多くの罪を赦されたことは、
 わたしに示した愛の大きさで分かる。
 赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
 ルカによる福音書 7章47節


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