この徴税人のような者でもないことを感謝します
1.ファリサイ派の人と徴税人の祈りのたとえ
徴税人とファリサイ派の人の祈りについて、イエスはたとえで語っておられます。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、
不正な者、姦通を犯す者でなく、
また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
わたしは週に二度断食し、
全収入の十分の一を献げています。』
ルカによる福音書 18章11〜12節
たとえで話されていたということですので、
ノンフィクションではなく、フィクションだったと考えられますが、
そこには、祈りの内容の明確な違いがみられます。
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譬え,たとえ話,比喩,ことわざ |
用語解説
必ずしも修辞学上の厳密なparableだけでなく,
連直喩や寓喩も含めた、広い意味の修辞表現を言う。
自然界と人間生活の卑近な例に材料を取った福音書の譬え話は
(ミシュナ等に例はあるが)イエスの説教独特のものである.
(c) 織田昭 電子版「新約聖書ギリシャ語小辞典」改訂第4版
2.徴税人の祈り
徴税人の祈りは、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
という祈りでした。
自分の罪を認めて、自分を低くした祈りでした。
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、
胸を打ちながら言った。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
ルカによる福音書 18章13節
徴税人の祈りの特徴は、自分を罪人として認めていることです。
さらに、神の前に罪人として認めたその上で、それでも神様は
「こんな私をも憐れんでくださる」という信仰がそこに見られます。
「自分は罪深すぎてもうだめだ」「神はもはやゆるして下さらない」
「神は私を裁かれ捨てられる」という思いではありませんでした。
だから「神様」と祈っているのです。
@罪人のわたしを 自分の罪の認識
A憐れんでください 神の憐れみを信じる信仰
B神様 こんな私の祈りも神様は聞いて下さるという信仰
3.ファリサイ派の人の祈り
しかしファリサイ派の人の祈りは、次のようなものでした。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、
不正な者、姦通を犯す者でなく、
また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。...』
自分が正しいことを感謝します、という祈りです。
そして徴税人を見下し、徴税人は自分よりも罪深いとみなしていました。
人と比較して、あの人よりかは「自分は正しい」だろうという祈りです。
しかしこの祈りは、神に受け入れられなかったのです。
人と比較して自分の方が正しいということは、できないことなのです。
すべての人が罪人であるので、人のことは置いておいて
自分自身が罪人であるということを、しっかり認識する必要があります。
私たちは、罪を犯した人を見て「あの人より私の方が正しい」という思いを
決してもたないよう、気をつけなければなりません。
神様、私はこの「ファリサイ派の人のようでないことを感謝します」
ということのないように、徴税人のように
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈る者となっていきたいと願います。
4.パウロの告白に見られる罪認識
パウロも言っています。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は
真実であり、そのまま受け入れるに値します。
わたしは、その罪人の中で最たる者です。
テモテへの手紙一 1章15節

最たるもの
用語解説
@〔時間的・位置的に〕
一番前の,一番先の,先の,最初の,初めの,前者,第一の,一番(初め)の
[副詞的対中単]初めに,最初に,第一に,前に
[副詞的主格](主語と同格,述語的位置で)
「はじめに」「まず」(=第一の者として),
[与格の語と同格の副詞的用例]まずこの私に(私を使って)明示するため
A(地位・重要性・順位的に)
最上(位)の,最重要な,主要な,大事な,重大な,有力な
(c) 織田昭 電子版「新約聖書ギリシャ語小辞典」改訂第4版
むすび. 自分自身の罪認識の重要性
自分自身が罪人の最たるものであるという認識こそが、
神の前に求められている、姿勢なのです。
そこに隣人の関与する余地は、まったくないのです。
【今日の聖書】
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、
胸を打ちながら言った。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
ルカによる福音書 18章13節