平安時代の出雲がわからない
地方史学者、島根県立大学短期大学部名誉教授の藤岡大拙先生によると、
平安時代の出雲については、平安末期の古文書が残されているだけで、
あとは文献が皆無で、ほとんどわからないそうです。
しかし、平安時代の出雲は、いろんな面で大変革をしているのです。
例えば、それまでの
出雲国造(
意宇氏)が、大庭の今の大草町の国府から
なぜか、
杵築へ西遷(西へ転居)しているのです。
杵築というのは、今の出雲大社の南方の地です。
当時の出雲の中心地から、西のはずれの大社の近所に移りました。
当時の
杵築は、今の
神西湖が、もっと大きく広がっていて、
斐伊川や
神戸川が流れ込み
湖と川しかない、古墳も何もない、湿地帯の不毛の地だったそうです。
なぜ、
国造が、そのような所に住むようになったのか?
その理由がほとんどわかっていないとのことでした。
646年の大化の改新で、
国造の権限が縮小されてしまい、
国の司ではなく、郡司にされてしまい、
国司が中央から派遣されるようになったため、
名前は国造のままなのに、郡司のレベルにまで落とされてしまい、
国司と郡司との間で、軋轢が生じたのかもしれないとのことでした。
また、この時から国造の読みが、
国造でなく
国造となったそうです。
国造は、大庭の時までは「
意宇氏」を名乗っていましたが、
杵築に行ってからは「
出雲氏」になったといいます。
そのほかにも、いろいろと変化があるのですが、
変わったことはわかっているのですが、なぜ変わったのか
その経緯が、皆目見当がつかないとのことでした。
それに比較して、紀元前2000年ごろのアブラハムが、
カルデヤのウルを出立して、ハランを経由してカナンの地へ入った記録は
聖書の中にしっかりと残されており、今でもその経緯がよくわかります。
また、アブラハムが元々アブラムという名前だったのに
なぜアブラハムとなったかということも、聖書の中にしっかりと
記録されています。
あなたは、もはやアブラムではなく、
アブラハムと名乗りなさい。
あなたを多くの国民の父とするからである。
創世記 17章5節
【今日の聖書】
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。
ロトも共に行った。
アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、
蓄えた財産をすべて携え、
ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、
カナン地方に入った。
創世記 12章4〜5節