祈りの中で願いが変えられてゆく
1.神は「あなたの願いは私の願いとずれているよ」と教えたい
神の願っておられることと、私たちの願っていることには
大きなずれがあります。私達には当初、それがわからないのです。
神に祈る時、私たちは神の願いとずれている自分の願いをそのまま神に求めます。
それはちょうど、神がパンを与えたいと願っているにもかかわらず
「空腹なので石を与えてください、満腹するまで与えてください」と
願っているようなものなのです。
「お前が求めるべきものは、石ではなくパンだよ」
神はそれを、私たちに教えたいのです。
私たちはしばしば「石が必要だ」というような見当違いをしてしまうのです。
2.祈りは私の願いが神の願いに近づくプロセス
ひどい目に会わされた時、祈りは次のようになりがちです。
「神様こんなひどいことをされました。あの人を赦さないでください」
これは極めて、自分中心の祈りです。
「私の罪は赦してほしいけど彼は赦さないでください」そういう願いだからです。
しかし、神の願いは「7度を70倍するまで赦しなさい」なのです。
まったく逆なのです。
神は、私の願いが「あの人を赦せない私を、神様どうか赦してください」
「私はあの人を赦します」という願いになるように、してくださるのです。
それが祈りの中で起こっていくのです。
祈りは、神の願いとずれている私の願いが答えられるというのではなく、
神の願いとずれている私の願いが、神の願いに徐々に近づいていく
そのプロセスなのです。
3.神は、私が神の御心を知ってそれを自分の願いにすることを願っている
始めは「どうしても赦せません」という祈りだったのが、祈りの中で
「父よ彼らを赦してくださいと言われたイエス様のように赦します」
という祈りに変わっていくのです。
これが祈りです。自分の願いが、神の願いに近づいてゆくのです。
祈りとは自己中心な願いがかなえられる、欲望の満たしの手段ではなく
当初の自己中心な願いが、神の願いへと限りなく近づいてゆく
そのプロセスなのです。人はいつも交わっている人に似てきます。
祈りの中で神と交われば交わるほど、その願いが神の願いへと
どんどん近づいてゆくのです。
むすび. なぜ祈るのか?
絶えず祈るべき理由の一つは、ここにあるのです。
神の願いとずれた私の願いを、神の願いへと近づけてゆく、
それこそ神が私達に対して願われていることなのです。
神はこの地上で、私たちの自己中心的な願いを行いたいと思っておられません。
神はご自身の御心を、私たちを通して行いたいと願っておられるのです。
ですから私たち自身の願いが、御心とぴったり合っている必要があるのです。
それを実現するために必要なのが、私たち自身の祈りなのです。
【今日の聖書】
だから、
こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
マタイによる福音書 6章9〜10節