赦しを信じていることを行動で表す
1.神に赦されている信仰をどう表すか?
1.1 赦すという行動によって赦されている信仰を表す
私たちは、イエス・キリストの十字架による
罪の赦しを信じています。
その信仰を、どうやって表すでしょうか?
それは、人を赦すという実際の行動によってです。
自分が、完全に赦されているのだから、
同じように、どんな人のどんな罪も完全に赦すのです。
赦すというその行動をもって、
「神が私を完全に100%赦してくださっています」
という信仰を表していきます。
1.2 信仰は行動を伴う
信仰には必ず、行いが伴います。
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
ヤコブの手紙 2章17節
信仰は行動で表すものなのです。
1.3 赦されていると信じるなら赦すという行動が現れる
主が赦してくださったと信じていなければ、赦せませんが、
赦して下さったと信じていれば、主が赦してくださったように
赦すという行動が現れてきます。
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、
赦し合いなさい。
主があなたがたを赦してくださったように、
あなたがたも同じようにしなさい。
コロサイの信徒への手紙 3章13節
十字架による赦しを受け取った人は、
「赦し合いなさい」というみ言葉を、実行に移していくのです。
そして、「人を赦す」という実を結んでいくのです。
2.人を赦さないことは何を表わすことになるか?
2.1 人を赦さないことは、私は赦されていないと表明することになる
「人を赦さない」というのは「私は神に赦されていません」という
信仰告白をしているのと同じです。
「あなたを赦せないのは、私は神に赦されていないからです」
こういう告白をしてしまっていることになります。
しかし、もし人を赦さないなら、
あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイによる福音書 6章15節
「人を赦さない」と「神もあなたをお赦しになりません」ということですが
「人を赦さない」というのは「私は神に赦されてないので赦さないのです」
と言っているのと同じですから、自ら神の赦しを否定してしまっているのです。
2.2 赦しを信じながら人を赦さないということはあり得ない
私たちは、イエス・キリストの十字架によって、
無条件に赦されています。
それは、ただ信仰によってのみ受け取るものなのです。
しかし、もし私が「人を赦しません」というのであれば、
それは、「私は十字架によって赦されていません」と、
言っているのと同じなのです。
「イエス・キリストの十字架の赦しを信じません」ということになり
赦しの信仰を否定してしまうことに、なってしまうのです。
十字架の赦しを信じますという信仰告白に、矛盾してしまうのです。
信じる者だけが、赦しを受け取り救われるのですから、
「信じない=赦しを受けとれない」ということになってきます。
「あなたがたの過ちをお赦しにならない。」ということになるのです。
十字架の赦しを信じながら、人を赦さないということはあり得ないのです。
2.3 心から兄弟を赦さないなら神は私にも同様にされる
そして、口先だけでなく心から赦すのです。
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、
わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書 18章35節
3.赦さない人にならないためにどうすればよいか?
3.1 自分の罪の大きさを認識すること
イエスは、罪の赦しを借金の免除にたとえて説明しています。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。
ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、
王の前に連れて来られた。
しかし、返済できなかったので、
主君はこの家来に、自分も妻も子も、
また持ち物も全部売って返済するように命じた。
家来はひれ伏し、『どうか待ってください。
きっと全部お返しします』としきりに願った。
その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、
その借金を帳消しにしてやった。
マタイによる福音書 18章23〜27節
このたとえ話では、1万タラントという
借金を抱えている人が出てきますが、
どのぐらいの金額になるのでしょうか?
「1タラントン=6000ドラクメ」です。
「1ドラクメ=1デナリ」なので、
「1タラントン=6000デナリ」になります。
1日1デナリの約束で労働者を雇うという記事がありますから
1日の給与を1デナリとすると、1タラントンは6000日分の
給与になります。週休1日で計算すると19年分以上の給与になります。
1万タラントンは、その1万倍になります。
週休1日で計算すると19万1540年分以上の給与になります。
今の金額に直すとどうなるでしょうか?
1デナリを1万円とすると、1万タラントンは、
「10,000×6,000×10,000=600,000,000,000」円です。
6000億円となります。ものすごい額です。
莫大な金額の借金のたとえ話なのです。
それほど、私の罪は大きいのだと、気が付く必要があります。
自分自身の罪の大きさを、正しく認識する必要があるのです。
3.2 すべて赦されていることを確信すること
このたとえで主君は、家来の借金をすべて帳消しにしてあげています。
返済額は半額になったのでもなければ、10分の1になったのでも
ありません。0になったのです。まったくなくなったのです。
このことを、疑わずに信じる必要があります。
あの時は、帳消しって言ったけれども、後でまた返済を迫られるかもしれない、
いや借金は免除されても、無償労働か、財産をよこせとか言われるかもしれない、
などと疑っていたとしたら、どうでしょう?
不安でたまらなかったでしょう。
家来にとって必要だったことは、赦しの確信です。
3.3 赦されたことを忘れないこと
自分が赦されたことを忘れていると、人を赦すことができなくなります。
周囲の人たちが、赦すことをしない人たちであると、
どうしてもその影響を受けてしまいやすいのです。
いつも腹を立ててばかりいる人たちと共にいると、
自分までイライラするようになりがちです。
たとえ周囲の人すべてが、そういう人たちであったとしても、
神はその人たちも、そしてもちろん私も、完全に赦してくださったのだと
信じるのです。神を見上げて、神の赦しをいつも心の中に満たすのです。
忘れないというより、いつも心の中で赦されたことを覚え続けていることです。
赦されたことを、賛美にして神に感謝をささげていくのです。
赦されていることを常に感謝して、賛美で神にささげていくのです。
賛美し続けるとき、赦しを忘れてしまうことはないでしょう。
むすび. 感情に負けずに意志で、心から赦す
罪を犯されると、どうしても怒りの感情が沸き上がります。
怒りの感情に負けて、腹を立てっぱなしになって、
憎しみを抱いたり、恨みを抱いたり、復讐心に燃えてしまったら負けです。
憎しみも恨みも罪ですから、
そこから罪の行動が派生します。
暴力や暴言で人を傷つけたり、最悪の場合殺人につながります。
けれども、そこで自分自身が赦されていることを思い出すのです。
どれだけ大きな罪を、赦していただいたかを思い出すのです。
そして赦しを信じていることを、赦すことによってあらわす決断をするのです。
その時は、感情がついていかないかもしれません。
しかし信仰を持って、自分の意志で赦す決断をするのです。
そして、口先だけでなく心から赦すのです。
必ず神様の祝福が、やってくると信じます。
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、
わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書 18章35節
【今日の聖書】
そのとき、
ペトロがイエスのところに来て言った。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、
何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。
「あなたに言っておく。
七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
マタイによる福音書 18章21〜22節