明治24年の松江の出来事
1.明治24年にバックストンが松江にやってきた
1.1 英国人宣教師バックストンが松江にやって来た
明治24年4月に松江に来た外国人と言えば、
バークレー・F・バックストン(Barclay Fowell Buxton)です。
当初は、松江の今の内中原小学校の前の、内中原女児小学跡に住んだそうです。
1.2 祈祷会に40人、劇場の集会に700人が集まった
バックストンは、松江に到着後すぐ教会で祈祷会をもちました。
そうすると、その時ですでに40人が集って祈ったと言われています。
その翌日早速、和多見永楽座で集会を行うのですが、
何と700人が集まり熱心に話を聞いたそうです。
2年後の明治26年には、赤山に純和風の自宅が完成し
早朝5時からの聖書講義を、自宅で開始します。
1.3 バックストンは当初迫害を受けた
バックストンは、劇場を借りて集会を行っていたそうですが
石を投げ込まれたり、大提灯を破られたり、
暴力学生が劇場いっぱいになったりもして、
学生たちが演壇に押し寄せ引きずり降ろそうとされ、
屋根伝いに逃げたこともあったと言います。
始めの2年間は、困難を極めたようです。
2.市民に好感を持たれるようになったバックストン
2.1 バックストンは台風による水害で被災した人々を支援した
ところが、明治26年に松江を台風が襲います。
この台風で、低地の浸水は3mに及び、松江の8千戸が浸水被害にあいました。
この時バックストンたちは、2週間にわたって千人の炊出しを行います。
彼は75円を米購入代金として寄付し、信徒たちも煎餅8000枚を配給し
このことによって飛躍的に市民が、好意的になったそうです。
「バックストン大明神」と呼んで感謝したということです。
当時の貨幣価値ですが、参考までに、明治23年8月から翌明治24年11月まで
松江に滞在していた小泉八雲の月給が、100円だったと言います。
75円というと、八雲の月給の75%にあたります。
2.2 松江を中心に広がった宣教
その後、各地に集まりがもたれるようになり、米子、広瀬、隠岐、境、
上道、淀江、三刀屋、木次、大東、八代、頓原、今市、石見にまで、
福音宣教が広がっていったと言います。これを松江バンドと言います。
松江と大田が宣教の中心となったそうで、
そこから、大田の教会が始まっていったといいます。
松江の教会は、日本聖公会の教会で今でもお城のすぐそばにあります。
その日本聖公会の教会では、当時、年間平均40名ほどが洗礼を受けたそうです。
2年目の明治25年に会員が、70人ほどになり、
9年目の明治33年までに、310人の受洗会員となったそうです。
2.3 赤山の聖書講義に早朝から多くの人が集まった
バックストンはイギリス在住の父親の支援によって、
赤山に、純和風の自宅を建てますが、
そこで早朝5時から聖書講義を行うようになります。
この赤山の聖書講義には、常時30名程の出席者がいたということです。
その内容が、今でも残っており、書籍になって出版されているのです。
3.なぜバックストンはわざわざ松江にやってきたのか?
それではなぜバックストンは、松江に来たのでしょうか?
それには、次のような経緯があります。
明治時代には、日本各地で自由民権運動が盛んになりました。
松江市では大工町に公道館というものがあり、そこの館長をしていた野口敬典が、
ちょうど浜田に来ていた聖公会の宣教師エヴィントンを招いたのです。
1885年(明治18年)野口敬典がエヴィントン宣教師を招き演説会を開く
3夜に渡る演説会では、立錐の余地もなかった
宣教師なので内容は聖書のメッセージ
1886年(明治19年)5月30日にエヴィントン師より10名が洗礼を受けて
松江にも教会ができる(聖公会)
その後教会に対して、迫害が起きる
1889年(明治22年)迫害が激しさを増し、
信徒が城山で「定住牧師を与えよ」と祈る
松江の迫害を新聞記事でバックストンが知る
バックストンは松江行きを決断
むすび. 今もなお生き継ぐバックストンの精神
松江のキリスト教会の歴史を紐解くとき、バックストンなしには語れません。
今もなお、バックストンの意志を継ぐクリスチャンたちが、
ここ松江の地において、日夜祈りに励み、神の愛を伝えているのです。
【今日の聖書】
御言葉を宣べ伝えなさい。
折が良くても悪くても励みなさい。
とがめ、戒め、励ましなさい。
忍耐強く、十分に教えるのです。
テモテへの手紙二 4章2節