親しくなればなるほど
聖書には、すべての人は罪人と明言されています。
自分自身を見るときに、事実その通りであることを認めざるを得ません。
誰が何と言おうと、罪人に間違いありません。
もし聖書の言うように、他の人も同様に罪人であるとするなら、
どういうことになるでしょうか?その人に近づけば近づくほど、
その罪もよく見えてくるようになる、ということになります。
親しくなればなるほど、共にいる時間が長くなればなるほど
その罪が詳しく詳しく見えてくる、そういうことなのです。
事実、同居している家族であれば、そのことがよくわかるはずです。
子供であれば親の罪が、親であれば子供の罪が、
兄弟ならば兄弟の罪が、夫であれば妻の罪が、妻であれば夫の罪が、
姑であれば嫁の罪が、嫁であれば姑の罪が、よくわかるはずなのです。
もし罪人でない人が一人でもいるのなら、そうならないですが、
すべての人が罪人であるなら、当然すべての家庭で
そういうことになるはずなのです。家庭だけでなくグループや団体でもそうです。
そうならない方が、不自然なのです。もしなっていないとするなら、
それ程近い関係になっていないか、一緒にいる時間が極端に短いか、
一生懸命、罪を隠して装っているか、そのいずれかでしょう。
すべての家庭で、必ず起こることは、
「同居している人の、良いところがわかってくると同時に
その人の罪もまたよくわかってくる」そういうことなのです。
そこで、こんな人とは一緒にはやっていけません
と思ってしまったら、みんなが一人で住むことになってしまいます。
そうではなくその人の罪がよくわかってきた時から、
その人を、愛して赦すという愛の行動が始まってゆくのです。
まず一番近い家族から、それが始まってゆくのです。
家族でできないことは、他の人でもできないことになります。
人と親しくなればなるほど、家族のような関係になってくるからです。
近い関係になればなるほど、その人の罪が良くわかってくるということを
想定の上で、愛して赦すことを準備している必要があるのです。
その人が「罪人でなく良いことしかしない人だ」という前提に立つと
罪を犯された時に赦せなくなり、トラブルに発展していきます。
「必ず自分に対して罪を犯すはずだから、その時は絶対に赦そう」
そういう覚悟をして、生活していればトラブルにはならないはずです。
聖書の言葉は、真実な言葉です。
聖書のいうように、事実すべての人は罪人なのです。
【今日の聖書】
人は皆、
罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、
その血によって信じる者のために
罪を償う供え物となさいました。
それは、
今まで人が犯した罪を見逃して、
神の義をお示しになるためです。
ローマの信徒への手紙 3章23〜25節