今日のできごと


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2017/10/25(水)



人を赦さないことは罪

 1.人を赦さないことは罪

 人を赦さないと、自分も赦されないことになると聖書に書かれています。

 しかし、もし人を赦さないなら、
 あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
 マタイによる福音書 6章15節

 要するに「人を赦さない」ということは、
 それ自体が「神に赦されない罪」だということになります。
 ですから、どんな罪であろうと私たちはすぐに赦すのです。

 赦さないままで、いつまでも恨んだり憎んだりしていてはならないのです。
 まして、復讐や報復は、どんな些細なやり方であったとしても
 絶対にしてはなりません。悪い噂や無視や仲間外れは復讐になります。

 繰り返しますが「罪を犯した人を赦さない」ということは罪です。
 被害者が加害者を赦さないのは、法律的にどうであろうと
 神の前には、罪なのです。

 2.赦してくれない人を赦さないことも罪

 更にもっと言えば「謝っているにもかかわらず赦してくれない人」を
 赦さないということも、それも罪になります。
 簡単に言うと、加害者が「自分を赦してくれない被害者」を赦さないことも

 それもまた罪になるのです。
 加害者は、最初の罪に加えて『自分のことを赦してくれない被害者』を赦さない
 という、二重の罪を犯してしまうことになります。

 被害者が陥りやすい罪は、「加害者を絶対に赦しません」という
 赦さない罪です。たとえそれがどんな被害であろうと、
 「人を赦さないこと」は罪になります。被害者はその罪に陥りやすいのです。

 赦しませんと言われた加害者は、その被害者の言葉に対して
 「謝罪を受け入れないとは何事か」と怒ってはならないのです。
 被害者側のその罪を、今度は加害者側が赦さなければなりません。

 3.復讐は神のなさることで人は決してしてはならない

 「ゆるせない!」というのは、どういう行動に続くでしょうか?
 「仕返してやる」という行動、すなわち復讐につながってしまうのです。
 復讐は、究極的には殺人につながってしまいます。

 たとえ自分で復讐の行動をとらなかったとしても、
 「私は絶対あなたをゆるしません」と語ったことで
 その人が悲観して自殺してしまえば、殺人と同じことです。

 「ゆるしません」という言葉が
 その人を、間接的に殺してしまったことになります。
 被害者だったのに、殺人の加害者になってしまうのです。

 裁きは、最終的に神がしてくださるのです。
 神は私たちが何をどういう動機でしたのか、すべてご存知なのです。
 神は私たちが不当に受けた苦しみや被害を、全部ご存知なのです。

 むすび.私は1万タラント赦された者という自覚が必要

 とにかくキリストのように赦すのです。
 赦してくれない人を、裁いてはなりません。何度でも赦すのです。
 イエスは言われました。七の七十倍までも赦しなさいと。

 イエスは言われた。
 「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
 マタイによる福音書 18章22節

 イエスの命令は、無限に赦しなさいということなのです。
 イエスは、1万タラントンの借金を免除された人のたとえを語られています。
 その人にとって、1万タラントンの免除はとてつもなく大きな免除なのです。

 仲間に貸した100デナリの借金などと、比較にならないのです。
 ですから、その人にとって「100デナリの借金を返せ」という資格は
 そもそもなかったのです。(※1タラントン=6000デナリ)

 「赦しません」という資格は私たちにはありません。
 神にのみあるのです。

 もし「貸した100デナリを返せ」などと言ってしまったら、
 その言葉によって自分自身を、裁いてしまうことになってしまうのです。
 自分が赦されたことを、否定してしまうことになってしまうのです。

 100デナリ返さなければならないのなら、1万タラントンはなおのこと
 返さなければならないね!免除はなかったことにしよう!ということに
 なってしまうのです。

 そもそも私たちに、人を裁いて赦さないという資格はあり得ないのです。
 どんな時でも、誰に対しても、何度でも赦しを与えてゆく、
 そういう人生を死ぬまで送り続けてゆくのです。

 キリストは正にその模範を示してくださいました。

 【今日の聖書】
 「この方は、罪を犯したことがなく、
  その口には偽りがなかった。」
 ののしられてもののしり返さず、
 苦しめられても人を脅さず、
 正しくお裁きになる方にお任せになりました。
 ペトロの手紙一 2章22〜23節


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