今日のできごと
2016/8/17(水)

今日は、祈祷会でみんなで心を合わせて祈りました。
聖書個所は、ヨハネの黙示録2章1〜7節、
メッセージタイトルは「初めの愛に立ち返れ」でした。
1.労苦に耐えつつ愛から離れたエフェソの教会
エフェソの教会は、労苦と忍耐の教会でした。
キリストの名のために忍耐し、
疲れ果てることがなかった、といわれています。
あなたはよく忍耐して、
わたしの名のために我慢し、
疲れ果てることがなかった。
ヨハネの黙示録 2章3節
ところが、それほどの苦労に耐えてきた教会であったにもかかわらず
イエス様から、大きな叱責を受けています。
しかし、あなたに言うべきことがある。
あなたは初めのころの愛から離れてしまった。
ヨハネの黙示録 2章4節
労苦に耐え、疲れ果てなかった中で、
「愛から離れてしまった」といいます。
キリストの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった教会で
「愛から離れてしまう」ということが、
同時に起こり得るということが、わかります。
2.悔い改めを迫られるエフェソの教会
そして悔い改めを迫られています。
だから、どこから落ちたかを思い出し、
悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。
もし悔い改めなければ、
わたしはあなたのところへ行って、
あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。
ヨハネの黙示録 2章5節
悔い改めなければ「あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」
とまで言われています。1章を見ると、燭台が教会を表していることが
わかりますから、教会を取り除けてしまおう、ということになります。
愛から離れるということは、
教会存在の根幹に関わる、重要事項であることがわかります。
なぜ、愛から離れてしまっていたのでしょうか?
3.正しさの追及が愛から離れてしまった原因か?
エフェソの教会は、教会の中に入り込んだ偽物の使徒を調べあげ、
彼らのうそを見抜いていた、といいます。
悪者どもを調べ、うそを見抜いていく中で、
人を愛するのではなく、人を疑い、
人を裁く思いが大きくなっていったということは、十分考えられます。
教会の中の間違っている人々を見つけて、正そうとするあまり、逆に
人を受け入れるのではなく、裁いて除外する思いが強くなり
罪人を愛して受け入れてゆるしていく姿勢から、
離れてしまったのではないでしょうか?
たとえ偽使徒であったとしても、その誤りを素直に認め
悔い改めるならば、主はゆるしてくださることを忘れ
悔い改めのチャンスを与えず排斥していたのではないでしょうか?
むすび.現在の教会にも起こり得る
これは、現在の教会にも十分起こり得る状況です。
私たちも、間違いを容認することはできません。
悪いことをそのままにしておくことはできませんが、
どんなに間違っていた人でも、その罪を悔い改めれば、
完全にゆるされるということを忘れずに、
その人を裁くのでなく、どこまでも愛していく必要があります。
そういう教会を目指して進んでいきます。
【今日の聖書】
しかし、あなたに言うべきことがある。
あなたは初めのころの愛から離れてしまった。
だから、どこから落ちたかを思い出し、
悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。
もし悔い改めなければ、
わたしはあなたのところへ行って、
あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。
ヨハネの黙示録 2章4〜5節