同盟福音基督教会 古知野キリスト教会

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礼拝メッセージ

古知野キリスト教会の主日礼拝で語られたメッセージ集です。
是非、みことばを味わってください。

◆◆◆ 索 引 ◆◆◆

発行日  
 説教題
「神と人と、神の国を生きる知恵」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.9.25

箴言 30 章 7 ~ 9 節

麗しさは偽り。美しさは空しい。しかし、【主】を恐れる女はほめたたえられる。箴言31:30

 聖書において信仰を持つことは仕事を捨て、家族を捨てることではありません。【主】なる神は、世捨て人として生きる事を願ってはおられません。むしろ神と人と-隣人また私たちの中に在る自分自身でも受け入れがたい性質(我が内に住まう他者?!)とも!付き合う-生きる事が求められています。金八先生が黒板に書いて語り出すように、「人」という字は支え合う関係性を表しているのかもしれません。共に生きる生活に、私たちが人として造られ、神の栄光を現すようにデザインされた本質と祝福があるのです。神学校で牧会に出る時、気を付けなさいと言われる3つの注意喚起があります。少し昔の言葉遣いになりますが、「金と名誉と女(異性との関係)」です。名誉については先週「王の箴言」との題で、何を本当に王が、そして神と共にこの地を治める神の民・信仰者が名誉・栄誉とすべきかを聞きました。それは神の福音の奥義を見出し、その救いに与り、証しして生きることです。(箴言25:2)箴言30章と31章には、ソロモンとは異なる知者アグルと、別の王レムエルによる箴言が綴られています。しかしこれもまた聖書の知恵の書に収められる、信仰者また主なる神の金言です。(両者に共通する「マサ」はイシュマエル人の居住したトランス・ヨルダンの一地方の地名とも、ヘブル語「マッサ―」と理解するならば「【主】の宣告、神の啓示」とも訳すことが出来る。後者と考えるなら「…すなわち神の啓示のことば」となる。)「私が満腹してあなたを否み『『主』とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことがないように。(30:9)。ここにお金をどう扱うか、富との付き合い方について書かれています。人類の救いの歴史の中で、神の民として生きる心構えとして、すでに奴隷生活の出エジプトから解放される時、富の中にも主を認めて、崇めて生きるように語られています。(申命記8:11,17)知恵の書は、更に貧しさの中にも、神を崇めて生きることを教えています。確かに神の民イスラエルは‘荒野’にて、土地を持たず、耕すこともなく、全て神と神のみことばによって生きることを学びました。質素倹約のシンプルライフは自分で選択できるライフスタイルですが、これが貧困となれば話は別です。生活の保障が揺らぎ、命が危ぶまれるとなると、品性も保たれなくなり、心もすさびます。先人達は貧も富も経験してきました。そこに私たちの主は祈りを教えて下さいます。天の父よ、み名があがめられますように。み国がきますように。みこころが天で行われるように地上でも行われますように。わたしたちに今日もこの日のかてをお与え下さい。…(讃美歌21-93-4a)知恵なる神はここに問われるのです。そこに神は、わたしはいるのか、と。富んでいようが、貧しさの中に在ろうが、そこに主は共におられるのだろうか、と。生活の場、祈り、家の中、心の中。あなたの貧しさ、祝福、誉れ、人間関係(異性との付き合い)、喜びや笑い、苦しみや悲しみの中に、主なる神はおられるのかと。「【主】とはだれだ」と言わないように。-これは今も生ける知恵の言葉です。「心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6;ソロモンの箴言)「まっすぐにする」とは、一心に主なる神とそのみことば、知恵と親しみ、むなしいことと偽りのことばを遠ざけることです(30:8)。私の人生に、神がおられることを知って、認めて日々暮らす。そこには世の富や貧しさが与える「むなしさ」(手の業の空虚さ)を越えた、神の真実と満たし(足るを知る、満足も含め)、実りがあるのです。きっと、必ず。『箴言』の最後の章は、家庭訓を扱う箴言らしく「母の教え」(1:8)です。単なる異性関係への指南書ではなく、誰と共に生きるのかが問われています。(31章10~31節は覚えやすいよう、あいうえお作文・いろは歌になっています。)在位70年、96歳で召されたエリザベス女王の葬儀が先週月曜日に英国で執り行われました。葬儀の説教では、女王の生涯かけての奉仕(serviceinlife)と信仰ゆえの希望ある死(hopeindeath)が語られました。その中でイエス様は弟子たちに何と言ってご自身の許に招かれたかも教えられました。イエス様はどのように従うのか(howtofollow)ではなく、どなたに従うのか(whotofollow)と仰られ、「道であり、真理であり、いのち」である「わたし」に従いなさいと告げられました。(ヨハネ14:6)王にはしっかりした、たくましい妻が求められています。信仰に生きる健全さ、力と気品、ほほえみ、知恵と恵みの教えが伴う女性です。(31:10、25-26)家(家庭)を築き治めることは、国を治め平和を築くことに等しいと聖書は告げています。どうやって生きるかよりむしろ、誰と共に生きるかが鍵のようです。「人がひとりでいるのは良くない」として、女性が造られます。神と親しんで生きる者にも、人との交わりに生きることは必須です。(植物や動物ではどうも足りない。創世2:18)それが私たち人間の健やかさを育むのです。箴言31:30にはまた異なる「むなしさ」が綴られています。これは次の知恵の書『伝道者の書』にも登場する「空」、束の間とも訳すことができる言葉です。人生にはさまざまな空しさが襲ってきます。業績や財産、人間関係や限られた時間をどう用いるか。知恵の書はその用い方を、‘ふくみ’(私たちの信仰を働かせる余地)をもたせて指南します。『箴言』は私たちのツボを刺激し、元気にします。聖書の知恵は私たちを懲らしめる為ではありません。信仰者すなわち神の民として、神の国をどう生きるかの知恵です。ただしその根本には、誰と共に生きるかが問われているのです。箴言の入り口は「【主】を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(1:7)でした。出口には再び「【主】を恐れる」(31:30)ことが言及されています。‘たいじん’(対神また対人)関係には、知恵が必要です。ここに私たちは規律や規程ではなく、歩むべき方向性を見出します。【主】を恐れるとは、主の眼差し、神の御心、イエス様ならどうするだろうか(W.W.J.D.?)を念頭に置いて、判断し決断して生きることです。そんな知恵はないなぁと思う者に、朗報・福音!があります。「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人があるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」(ヤコブ1:5)シャローム!

「王の箴言」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.9.18

箴言 25 章 1 ~ 5 節

事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。箴言25:2

 箴言25~29章は、ソロモンの箴言ヒゼキヤコレクションです。ヒゼキヤもイスラエル(分裂後の南ユダ王国)の王で、主なる神を信じる者すなわち神の民でした。ソロモン王の治世から約200年後、既に北王国イスラエルは新アッシリア帝国により滅亡し、その強靭な敵の手はヒゼキヤの国の都エルサレムがもはや陥落がという所まで迫っていました。ヒゼキヤは【主】なる神、万軍の【主】、唯一の地の全ての王国の神、天地の造り主であるお方に主の宮で祈ります。すると翌朝18万5千ものアッシリア兵が、御使いに打たれ、その陣営で息絶えていた。また病気になった時には涙ながらに祈りました。神は彼を回復させ、寿命を15年延ばされました。(イザヤ36-38章)『箴言』は、ソロモンやヒゼキヤといった王たちが親しんだ神との関係に基づく知恵の言葉です。絶対的な規範である律法とはまた異なり、その言葉には頭や心を働かす余地、含みが多分にあります。相反する箴言には一瞬戸惑いますが、これもまた知恵なのです。「愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。」(箴言26:4-5)王の箴言は、この地を治める為の知恵に満ちています。全ての人は「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。」(創世記1:28)と世界のはじめに人が創造され、祝福された神の仰せの通りに地を治める使命が与えられています。殊に王は国という器の統治者として、神から召命を受けた者です。ドイツ語で(より専門的な)職業をBerufベルーフと言いますが、召命、天性の使命(天職)という意味を備えています。聖書には神の民イスラエルの王の地位は、自らの手で獲得し得るタイトルではありません。あくまで王は神の召しによるのです。支配者として与えられた力、能力・賜物、‘いのち’をどのように発揮すればよいのか?王たちはその知恵を、主なる神に祈り求めました。神を礼拝して生きる王の愛した言葉が箴言です。国を支配し、隣人なる人民を慈しみ、自分の家と心までも治める金言がここに綴られているのです。そのヒゼキヤコレクションを飾る一言目が冒頭の神と王とのかくれんぼのような対句です。神は事を隠すのが栄誉、王は事を探すのが栄誉と、それぞれの栄光・特権が語られます。神は知恵(真理を知り、神を知ること)を時に隠されます。そして特権として、ご自身をも隠される神なのです。「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自分を隠す神。」(イザヤ45:15)全信頼を、丸ごと命をかけている神に隠れられたらたまったものではないと思います。けれども、ここにこそ箴言が箴言たるゆえん、神の民(イスラエル)の生き方、‘いきる知恵’があります。王は、その栄誉(栄光・特権)として事を探る道が開かれているのです。真理や神を知る手がかり、知恵へのアクセスがあるのです!ご自身を隠される神は、実に救い主であられます。神の民イスラエルの神なる救い主は、ご自分を隠す神ですが、イスラエル(偶像を細工する者と対極にある者-つまり真の神を主と信じる者)を救い、恥を見ることも、辱めを受けることも永遠にさせないと宣言されるお方です。(45:16-17)神は虚しく尋ね求めさせることもさせない。神は正義と公正-さばきと救いの両面-をもたらす為に、ご自身とその御心を神の民イスラエルに現わして下さる、語られる神としても君臨されます。「わたしは【主】。正義を語り、公正を告げる者。」(45:19)王は神の代理人としての使命を果たします。神(御顔またその庇護)を求めて、真理を求めて、探究します。神は隠される故に、王は探すのです。但しそれは空を打つような手ごたえなく、虚しい営みにはされません。王に、更には神を求める全ての者(聖書には神の民、イスラエルと言われます)に、救いの道を、みことばの啓示を与えられるのです。イスラエルの特権は神の創造のみわざを知り、それを証しできることです。神の民は、遂には神の国の相続者となり、主と共に統べ治めるようになるのです。(エペソ1:11)救いの御言葉に与り、これを窮め、実行することが神に召された者の栄誉です。私たちには隠されている秘密を探し、見出す使命と特権が備えられています。昨年秋から今年の初夏にかけて行われた渡辺睦夫師による『ジャンルを大切にして聖書を読む』のセミナーでは、礼拝のみことばの外食(愛餐)と共に、日々のディボーションの自炊がおススメされました。この霊的自炊の恵みは、みことばの普遍的な真理を自ら発見する喜び!と分かち合う素晴らしさです。探求された知恵は、生活の現場に適用されることが期待されています。この知恵は愛の神から発せられるゆえに、慈しみに満ちています。王は常にこの知恵に親しみ、天の神の御心を知り、高ぶることなく、忠実に遂行することが求められます。(申命記17:18-20)地においては、今何が起こっているかを知る行政的な調査が「事を探る」こととして賞賛されているとも理解できるようです。こんな政治家は嫌だという人物が目立つ世だからこそ、為政者の為に祈ることと忍耐を覚え、私たちが主に在って支配者(主の慈しみ深い御姿を映し、隣人を支え配慮する者)として召されていることも、福音としてしかと心に刻むのです。「隠されていることは、私たちの神、【主】のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」(申命記29:29)シャローム!

「ひとりでいることを用心しなさい。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.9.11

箴言 18 章 1 節

自らを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべての知性と仲たがいする。

 鍼(ハリ)のように、私たちのからだに元気や回復を与える『箴言』。「ソロモンの箴言」を続けて聞きます。聖書の知恵は、私たちを生かし、‘人’本来の生き方を支えてくれます。主なる神は、人間を交わりに生きる存在としてデザインされました。神との交わり、隣人や共同体との繋がりの中に生きることによって、いのちは輝くのです。『箴言』と呼ばれる知恵の書には「見知らぬ女」(箴言7:5)に気を付けよ!と何度も何度も戒められています。これは単なる不倫や浮気への警告ではありません。「見知らぬ女」とは、いのち溢れる‘人’たらしめる知恵を捨て、離れるよう誘惑する存在の譬えです。親しむべき知恵を捨てて、あなたを誘惑し、人生を狂わせ滅ぼし、死へと至らせる言葉といちゃつくな!「私の教えを、自分の瞳のように守れ。」(7:2)と戒められています。(ソロモンの、箴言というのは皮肉な気も…反面教師?!)知恵をもって天地を造られた神であり知恵を授けられる神とその御言葉に親しむことが、私たちの暮らし方、人生、いのちを決定する肝だと懇々と教えています。それは生活の現場・私たちの目に見える日常では、他者との関わり、教会では兄弟姉妹の交わりに繋がっているのです。世の中では家庭が一番小さな社会と言われます。教会では兄弟姉妹の関係が最小単位の神の御国の構成となるでしょう。聖書は知恵に生きる者は、交わりに生きる。否、交わりに生きる者こそ、知恵と親しむ者だと告げるのです。私たち教会の主、イエス様は「すべての中で、どれが第一の戒めですか」と律法学者に尋ねられた時、こう答えられました。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし(たましいのすべてをもって)、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」(マルコ22:28-31)愛するとは、関心を持つことです。「愛の反対は無関心である。」マザー・テレサの名言としてしばしば紹介されますが、実はエリ・ヴィーゼルというホローコーストからの生還者であるユダヤ人作家によるノーベル平和賞受賞時のスピーチでの言葉です。その続き「人々の無関心は常に攻撃者の利益になることを忘れてはいけない。」「自らを閉ざす者」(箴言18:1)とは、人と交わりをしない者です。孤立を選ぶ者は、神の心で隣人に関心を寄せて生きる道より、自己中心・わがままな生き方となります。本来の‘人’らしく生きる知恵から遠ざかり、信仰を捨て、与えられたいのちを錆つかせ、私たちの内に主が拓いて下さった恵みに溢れる神の国を台無しにし、廃墟と化してしまうのです。「心を転じた」(I列王11:3)ソロモン王の国が分裂し、やがて捕囚と亡国に見舞われていったように。ドイツの牧師であり神学者であったボンヘッファーは、「ひとりでいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。」と述べ、「しかしこれとは逆の命題も真実である。-交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。」(『共に生きる生活』)とも記しました。召し(信仰決心)も死もひとりで神の前に立って行う。けれども召しも死も、教会(イエス・キリストの大きな共同体)の内の出来事なのである。自立と孤立は違うのです。また自立なくして交わりはないし、交わりなくしての自立もないのです。「ひとりでいることなしに交わりを望む者は、言葉と感情の空しさに陥り、交わりなしにひとりでいることを求める者は、虚栄心と自己陶酔の絶望の深みに落ちて滅びるのである。」『箴言』には夫婦や親子関係の家庭訓があり、友についての訓戒も目を引きます。ときに恋人より慕わしく、男女の愛より深い友情がある。「友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。」(17:17)他に27:17,18:24.友が社会への扉となり、人との交わりを大いに助けてくれるのです。兄弟姉妹の交わりは神の国の窓です。福音書に言及される教会の姿(結構珍しい)に、「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいます。」(マタイ18:20)とのイエス様の言葉があります。神はいつも一人ひとりと共におられることは確かですが、ここに交わりの中に臨在される主が宣言されています。思えば、私たち教会の信じる神は三位一体の愛の交わりの主です。キリストに倣いて信仰に生きる道は、神と人との繋がりを意識して暮らすことでもあります。教会の交わりの中で、知恵を戴く。すなわち真理を神を知るのです。オンラインでどこにいても繋がれる幸いと、部分的限定的な交流になる危険があります。信仰の話が出来、膝付き合わせて祈る友はいるでしょうか?自力で一人で、神と隣人をそっちのけで過ごしでないでしょうか?そこに信仰の死が忍び寄ってはいないでしょうか?箴言1:32-33.今日の知恵の鍼(ハリ)が、信仰を支え、疲れたからだを癒し、健やかないのちへと導きますように。シャローム!

「ソロモンの箴言」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.9.4

箴言 14 章 1~2 節

まっすぐ歩む者は【主】を恐れ、曲がった道を行く者は主を侮る。箴言14:1

 箴言の「箴」は、鍼灸院の「鍼」ハリという字です。元気や回復を与える言葉です。刺さる言葉、耳の痛い句こそ、いのちが通い、血行を良くし、私たちを元気にするかもしれません。先日マッサージ院に行くと鍼の説明が書いてあり、鍼を刺す時は実際は蚊に刺された程度の痛さであるそうですが。また痛んでいる所にこそ、隔週、毎週、毎日等、定期的な治療が必要だとも記されていました。同じ箇所を読まなくても、箴言は続けて読んでいると、結構同じ意味の訓戒が、繰り返し出て来ます。時には全く同じ言葉で。鍼は定期的に通うのがよいように、箴言も反復され、人を生かす知恵の言葉が私たちを刺激します。10章からは、「ソロモンの箴言」です。『箴言』の構成は、初めに知恵について1~9章、ソロモンの箴言10章2216、知恵ある者たちの言葉22:1724章、ソロモンの知恵・ヒゼキヤ王コレクション2529章、アグルのことば30章、レムエルの母の戒めのことば31章となっています。並行法を用いて、同類もちくは反対の言葉が対句で列挙されます。皆さん、お気づきでしょうか最初の知恵について19章で、かなり頻繁に出て来るのが「見知らぬ女」に気を付けよです。21619、5章、6:2035、7章、9161318。「わが子よ。私の言葉を守り、私の命令をあなたのうちに蓄えよ。私の命令を守って生きよ。私の教えを、自分の瞳のように守れ。自分をよその女から守り、ことばの滑らかな、見知らぬ女から守るために。」7:1,2,5ソロモンの箴言には、女性に言及した句が沢山あり、ある言葉は不快に思わせる言葉も見つけます。良い表現では、11:16,18:22,19;14。辛辣で注意喚起も含める句だと、11:22,19:13,21925:2422:1427:1516。反語を用いて、12:4,14:1,29:3。どこかの企業の川柳に応募できそうな秀逸な句、なるほどと思わずクスっとしてしまう訓戒や顔をしかめたくなる例えもあるでしょう。鋭く刺さるには、そこに真理が含まれているからでしょう。ところで、ソロモンの箴言というのは皮肉にも聞こえます。「見知らぬ女」に捕まるなとソロモンが言うかいや、反面教師で実践的とも考えられると、ソロモン王を知る人は思う節が出てきます。ソロモンはイスラエルの黄金時代を築いた王、森羅万象に通ずる知恵を持つ当代きっての知者として、世界に遍く知られていました。その治世や栄華が、異国人の女性達との政略結婚に支えられていたことも聖書は記します。I列王11:12政略結婚や国際結婚が問題だというのではありません。問題は、「その妻たちが彼の心を転じた。ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、【主】と一つにはなっていなかった。」11:34ことです。一時の品行方正さの欠如や失敗ではありません。父王ダビデもバテ・シェバとの不倫スキャンダルや実子によるクーデター等の倫理道徳や政治的な問題を抱えたこともありました。それでもダビデは心転じることなく、時に預言者の語る御言葉に諫められた後悔い改め、主なる神へと一心に心を向けていたのです。一方、ソロモンは「こうしてソロモンは、【主】の目に悪であることを行い、父ダビデのようには【主】に従い通さなかった。」11:6のです。主なる神はソロモンが離れたことに怒り、二度も彼に現れ語られ、遂には国家分裂を招く事態となるのです。11:913生活の場であり、神の臨在と栄光の証しの場である、国や家を治めることを思う時、「知恵ある女は家を建て、愚かな女は自分の手でこれを壊す。」箴言14:1そして、対比的に記された「思慮はあなたを守り、英知はあなたを保つ。それらはあなたを悪の道から、ねじれごとを語る者たちから救い出す。また思慮と英知は、あなたをよその女から、ことばの滑らかな見知らぬ女から救い出す。」2:11,12,16との箴言を覚えます。「見知らぬ女」は、自身が神との契約を忘れ、関わる人を死へと誘い、いのちの道から外れさせます。女性蔑視に聞こえますが、文化的な表現において、人を誘惑する存在として、こういった女の描かれ方がされています。『箴言』に著される神は、知恵をもって天地を造られたお方です。知恵を授けられる神によって、人は知恵を与えられます。知恵真理を知ること、神を知ることは私たちを生かします。神に造られた、神と共にこの地を治める人として、この人を生かす知恵を奪う者に気を付けよと何度も、何度も、繰り返し、教えられます。知恵から心をそらし、獣のように分別なく愚かな存在人でなしに対して、私たちを、いのち溢れる人たらしめる知恵を奪う者が、誘惑する「見知らぬ女」に例えられ、『箴言』の初めの知恵の言葉に登場しているのです。「心を転じた」とは、神からの知恵を捨てた。真理と神を知る、そのいのちの交わりと源を後にし、死と滅びへの曲がった道をゆく者となったことを言います。冒頭の箴言14:1の通りです。「このような仕方でいのちを探し求めようと思う者は、死といちゃついている。」キドナーデレク『ティンデル聖書注解箴言』いのちのことば社、2012、p53知恵は私たち本来の人らしさを支えるものです。そして、よみ救いの届かない暗闇の支配・死・滅び・悪から私たちを助けます。人として豊かないのちを生きる道は、主なる神と一つとなること。その一つに、天地万物を造り治める方の知恵と親しむことです。箴言7:2「私の教えを、自分の瞳のように守れ。」御言葉によって、生かされ、導かれ、守られる。実践することに、祝福がある。知恵なる神は語られます。「浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。」箴言1:32-33シャローム!

「怠け者よ、蟻を見よ。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.8.28

箴言 6 章 6~11 節

怠け者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ。箴言6:6

 怠け者と、それに対照的な蟻と言えば、イソップ寓話『アリとキリギリス』を思い出すでしょう。元々の話は『アリとセミ』だったそうです。何ともこれからの季節に合ったお話です。生き物や自然に学べと聞こえますがそこは聖書であり、箴言ここで私たちが悟るべきことは、真理と神についてです。信仰的な生き方、霊的な在り方です。私たちは今日蟻から一体どのような信仰者としての生き方を学ぶでしょうか霊的な教訓は何でしょうか聖書を開くと厳しい言葉が目に入ることがあります。箴言を聞くと、ときに耳が痛くなります。なぜ厳しい言葉が語られるのか。それは神に、また社会や隣人にそっぽを向く私たち人間の乏しい姿や愛のなさに対する、神様からの応答だとも言えます。そういった人間のあり様の一つが「怠け者」箴言6:6です。怠け者の性格は、1物事を始めようとしない。2物事を完成しようとしない。3物事に直面しようとしない。4結果として、願いが満たされずに平安がない。また無力や役立たずとなる。「なまけ者は拒絶しようとしているわけではない。しかし、ほんの小さなことに降参しているだけなのだから、と自分を欺いている。こうして少しずつ少しずつ、好機を逃している。」4344そして、「先延ばしにしているうちに、無秩序な人生は後戻りが出来なくなっている。こうしてすべてが荒れ地となっている。」45のです。また怠け者が知るは快い眠気だけ。つまり、怠け者は時を覚えず、眠っている者をも指すのです。6:910キドナーデレク『ティンデル聖書注解箴言』、いのちのことば社、2012、p4345どうして「怠け者」は蟻を見よ、と言われるのでしょうかここに出て来る蟻は、収穫アリと言われる種類です。植物の種を拾い集めて食糧にします。「夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。」6:8とあります。イスラエルでは収穫の春、過越祭イースター頃に大麦、五旬節ペンテコステ頃には小麦と、晩春初夏46月に、夏の果物は最も暑い時期78月に刈り入れとなります。蟻は時を知って働きます。時機を逃して眠りこけてはいません。この収穫も単に自分の生きる糧を得る為ではありません。集めた種は、幼虫のごはんとなります。「蟻には首領もつかさも支配者もいないが、」6:7蟻は誰に言われるわけでもなく、自発的に、次世代の群れの為に、コツコツと今できることをします。食糧調達以外にも、食糧管理、幼虫の餌やり、蛹の世話となる空調管理、新しい部屋の建設と時に適って巣作りに励みます。ただのイソップの話のような勤勉のススメではありません。蟻を見て、信仰者と群れの、クリスチャンと教会の在り方について学べと言われるのです。先週臨時役員会を開きました。会堂の修繕について話し合いました。蟻の巣作りのように、将来を見据え、次世代の為に場所を設けることを考えました。現状でできることは、改築・改装リフォーム・移転の可能性について、各案にかかる費用を調査することです。来年の教会総会に、皆で話し合える材料としても。浪費か投資か、私たちは今賢く考え、備える必要があります。‘種を蓄えることも大事です。それはお金かもちろん会堂や土地については、お金が動くことです。ただ聖書をみると、「種」という言葉は、神のことばと関連して語られています。マルコ4:14「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」地に落ちた種のたとえ、Iペテロ123私たちが「怠け者」のように眠るのではなく、起きていること、目を覚ましていること。神様との交わり、人との繋がりに関心を持っていることが問われます。神様は私たちが豊かないのちを保って生きることを願っていてくださいます。その豊かな祝福は、世界に、次の命・世代へと流れてゆくはずです。一方で、世にはこのいのちの祝福や救いを阻もうと働く力もあります。サタン悪魔の力です。霊的に眠る「怠け者」にやってくるのは、貧しさと乏しさです。箴言6:11「【主】のことばを聞くことの飢饉」アモス81113も然りですそこに時に適って種を確保する蟻を見るのです。私たち信仰者は聖霊に導かれて、自発的に、神の平和な御国が続けてこの地に広げられ、続く世代にも豊かにされてゆく為に、今目前のすべきことをコツコツ行います。礼拝という義なる務めを果たし、みことばの養いを受けそれを蓄え、教会に導かれた人々の受け皿となる人材を育てます。面白いことに、蟻の収穫は、種蒔きにもなっているのです。乾燥地帯に住む蟻が、巣に運び蓄える種の中には、地中の程良い湿気で芽吹き、育つ植物があるのです。蟻は洪水や熱波寒波、敵などに襲われます。しかしそれでも蟻はまた明日働き出すように、私たちも神の治める世界の中で、困難に遭っても尚も信仰者として起き歩み続けるのです。蟻んこのように生きるよう、数々の教会を巡り、開拓を担い、福音のバトンを次世代に託していった使徒パウロも教会に勧めています。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」ロマ12:1神と人とに仕える祭司のごとく、神の御前に忙しく立ち働く様が「霊的な礼拝」と表現されています。それは「理に適った」礼拝でもあるのです。続く言葉の一つは「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」ロマ12:11です。ここに私たちの将来を展望する秘訣があるのです。シャローム!

「いきる知恵」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.8.21

箴言 1 章 1~7 節

【主】を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。 箴言1:7

 今日から箴言を聞きます。『箴言』とはどんな書でしょうか?「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。」(1:1)とあります。多くの詩篇を歌い捧げたイスラエル国のダビデ王の息子、ソロモン王は栄華を極めた、大変な知者として知られています。このソロモンの知恵と判断の心は神に与えられたものでした(I列王3:12)。「箴」という字は、鍼灸院のハリを表す言葉です。ツボを刺激し、元気にします。親から子、師から弟子へ、人格的な交わりの中で伝えられる、生活で活かせる実用的かつ経験から紡ぎ出された格言集。聖書では「知恵文学」というジャンルになります。生の現場でいきる知恵であり、天から届く地に足の着いた言葉です。ただ奇跡物語よりも聞きやすいかもしれませんが、単なる処世術ではありません。むしろ、生活の中でいかに信仰を働かせるのか。御言葉を実践する所に見出し、人生経験を通して身に着くのが聖書の語る知恵なのです。かのソロモンがいただいたように、私たちも今、神から、御言葉から知恵をいただくのです。ただし箴言を聞いていると一筋縄でいかない箇所も出てきます。現在学生達は夏休み真っ只中ですが、大人になった私が今取り組むならやりたい課題は、読書感想文です。(自由に書けるから!)休みも後半ともなってくると日誌やワークブックの答えがあるのは救いでしょう。宿題をやるとは問題を解くのではなく、答えを写すことになりかねませんが。(学識における)知識には答えがあります。正解があります。(解明途上であっても、答えはちゃんとあります。)けれども、知恵には答えがありません。これと言った正解はないのです。知恵にはインスタントな解答はありません。なぜなら知恵は関係性であり、また経験が伴うからです。言葉の発信者とその力を知り、信頼している。良いお方であり、その言葉に聞き従うことに間違いはない、いやこれこそ祝福だと信じる信仰を働かせるのです。聖書においては、神との関係性・交わりの中で、この世をどう生きるのかが問われます。箴言は知恵そのものであり、知恵を探り深める手引きをしてくれます。なぞなぞのように、ユダヤ式教育法は考えさせ、自ら答えに出会う、体得型なのです。学生時代の根尾山荘でのキャンプで、朝一番に目に入る言葉が「【主】を恐れることは知識の初め。」(箴言1:7)でした。女子洗面所の鏡の横に立てられた色紙に書かれていたからです。この箴言は一日を始めるだけでなく、聖書を開く初めに聞いておきたい御言葉です。どのように神の言葉を聞いて生きるのか、その人としての姿勢が問われます。箴言には、同じ内容を表現の似ている別の言葉で表現する対句法(並行法)がよく使われています。あるいは正反対の言葉を対照的な言葉を並べて用います。するとセットにすることで表したい事が一層明らかになります。ここに箴言を聞いていくコツがあります。「【主】を恐れること」とは何ぞや?と考えるでしょう。そこで「愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」と続く、セットとなっている言葉を紐解きます。「愚か者」とは愚鈍と頑固さを表す暗さが滲み出る言葉です。このまぬけな者には道徳的横柄さがあり、人の助言には耳を貸しません。(自分の意見を正しいとし、知識をひけらかしますが。)忍耐し、知恵を探し求めることはしません。愚か者にとって知恵は、カウンター越しに渡してもらえるインスタントなもののようです。この愚か者は、知恵と訓戒(訓練、教育やしつけとも訳せる。その共同体の中でのみ会得可能。)を蔑みます。一方「【主】を恐れること」は愚か者とは逆で、一見厳粛な響きがしますが実に明るい様子が見えてきます。「初め」とは最も根底にある原則をも言います。「【主】を恐れること」は、知識-ここでは学識ではなく、真理や神を知っていること-の土台となる。もっと言えば、愚か者の様ではなく、自分の考えに凝り固まらず、絶えず神による照明とブレイクスルーを求めていく。そんな信仰共同体に生きる者の姿勢が見えてきます。箴言における福音とは、「浅はかな者を賢く」(1:4a)することでしょうか。「浅はか」の原意は「開く」です。その心が感化の為に開かれていて、良い方向にも悪い方向にも導かれやすい未熟な者を指します。(「若い者」1:4bも同じ。)しかし指導如何で望みがあるのです。だれが浅はかな者を良い道に導くのか?それは「エパタ」(アラム語で「開け」;マルコ7:34)と言われた主イエス・キリストです。実に、知恵の源なる神であり、知恵をこの地で実践して生きる人である「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されている。」(コロサイ2:3)のです。神のことばは、キリストなのです。そこで箴言を聞きながら、「私はどう生きるか」を考える折に、私たち教会は「イエスさまならどうされるだろうか」(W.W.J.D.?~WhatWouldJesusDo?)と思い巡らし、祈り、従います。箴言とは、ヘブル語でミシュレーと言いますが、元はマーシャールという語で、たとえや謎、格言、諺の意です。たとえ話は、主に弟子たちに語られ、聞く耳のある者は聞きなさいと、主イエスはいつも招きの言葉をかけられました。この格言の羅列のような、ある時は謎解きのような箴言を開く中に、主の物語を、福音の文化をぜひ思い出していただきたいのです。そこには頭でっかちにならず、心と体を使って生きる豊かないのちが備えられているからです。エパタ!

「神のドレイとして生きる。えー!」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.8.14

ローマ人への手紙 6 章 16~18 節

神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。17・18節

 かなりインパクトのあるタイトル。今年の夏の学生キャンプのテーマでした。奴隷という響きは現代の日本に住む私たちには耳馴染みなく、また心地よい響きではありません。奴隷は人ではありますが、誰かの所有物です。あなたは一体誰のものなのでしょうか?コロナや戦争等で揺らぐ世界において、今日私たちの居場所を確認したい。そして神の平和・平安があることを知っていただきたいのです。奴隷は主人の心を我が心とします。皆さんの心はどこにあるのでしょう?思いや考えはどこから湧いてくるのでしょう?渡辺和子シスターは、『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012、p35-38)で、ある小6の女の子の詩を紹介しています。「王さまのごめいれい」/といって、バケツの中へ手を入れる/「王さまって、だれ?」/「私の心のこと」。そしてこう書いています。「実は、私たち一人ひとりの心の中にも、この“王さま”は住んでおられるのです。ためらっている私たちに、善いことを「しなさいよ」とすすめ、悪いことを「してはいけません」と制止していてくださるのです。」渡辺氏は良心のことを言っていますが、私たちの中に語り掛ける声、また聞くべき声があるのです。人は中立ではありません。何かが心の中にいます。あります。判断する基準として持っています。どこにも、何にも所属しないという事はないのです。聖書の言う心は感情だけではなく、mind考えという意味もあります。あなたはどういった考えで、判断基準で動いているでしょうか?何を参考に、誰の言葉を手掛かりに、物事の決定をしているでしょうか?奴隷とは人ではありますが、誰かのもの(所有物)です。その主人に仕え、その主人の言葉や心を、我が心・判断基準や価値基準にするのです。神を信じる者は、「罪の奴隷」から「義の奴隷」となる。聖書の福音、良い知らせです。罪の反対語は、義です。全く正反対の生き方に変えられるのです。罪-神から離れた生活、義-神と共にある日々。罪-自分だけが良ければいいという狭い心・無関心、義-神と人とを想う広い心・愛、罪-自分の王国を築こうとする、義-神の国を想い、平和を築こうとする。今‘マインクラフト’というゲームが流行っています。自由に自分の思った通りの世界を作ることができるゲームで、オンラインでシェアも出来ます。「自分の思い通りに」というと聞こえはいいですが、自分で自分を縛っており、実は不自由さを覚えることもある状況です。「私らしく、僕らしく」…それっていったい何なんだろうと困惑する。自分だけの世界は相手の見えない世界になってしまうこともあります。トラブルも発生します。トラブルに直面した子どもは、「ゲームをコントロールしていたら、実はゲームにコントロールされてしまった」と話しています。自分で自分を見失うというのは、罪の奴隷の特徴です。自分以外の人をモノとしか見られなくなり、ぞんざいな扱いとなります。戦争は最も的確な例でしょう。逆に義の奴隷は、自分が何者か、誰の者かを知っています。神によって造られ、救われ、命が与えられ、神の恵み・愛の許で、すべての必要が備えられ、満たされ生きるのです。「罪の奴隷」の行先は、罪の報酬である死と滅びです。(ロマ6:23)神様は神のかたちに造られ、神のしるしが付いている人間を、その罪の奴隷から贖い、救って下さるのです。贖うとは、代価を払って買い戻すということです。この買い戻しは、奴隷が解放される一つの大きな手段でした。実に聖書において罪とは、負債・借金を意味します。私たちが神に背き、良心を汚した罪の借金を、唯一罪のない(負債・借金のない)イエス・キリストが、私たち罪人(負債者)に代わって支払い、私たちを御許に買い戻して下さったのです。「義」という漢字は、「羊」と「我」という文字で出来ています。神の怒りを宥め、罪を取り除く犠牲の「羊」として、イエス様はご自分の命を十字架で捧げられたのです。そのキリスト(救い主)の許に、私たちは今在る。このキリストの贖いの‘義’をもって、主なる神は「あなたはわたしのものだ」と宣言して下さいます。主イエス・キリストによって、「罪の奴隷」から「義の奴隷」となったのだと。与り知らぬ運命に翻弄されているのではなく、あなたを造り、あなたを良いと言って下さる愛の神の御手の中にあるのだ、もう安心だと言われるのです。私たちは誰かの奴隷になるなんてまっぴらだ、そんな恐ろしいことはないと思います。しかし、人間はどこにも属さない中立な立場ではいられません。誰かや何かがあなたの心や思い、考えや脳を占領しているのです。私たちの心を占めるものによって、私たちが持てるものの使い方が変わってきます。財産、体、才能(賜物)、時間などなどの使い方に影響があります。人生、いのちの使い方と言っても過言ではありません。あなたは誰の言葉を、誰の眼を気にして生きていますか?あなたが普段生きる上で、気にし、時に大事な判断をする時に頼る人やモノがあれば、あなたは実にその奴隷なのです。それがあなたの‘主人’となるのです。奴隷は主人に仕え、主人の思い・心を我が心とします。あなたの主人は誰ですか?誰の言葉、誰の眼を気にしていますか?一体、誰の奴隷として、何に仕えていますか?ところで、奴隷と聞くと、滅私奉公を強いられ、人権がないようなイメージがあります。神の奴隷はどうでしょうか?最後に、神の奴隷として生きることを考える上で、『三本の木』(アンジェラ・エルウェル・ハント著)という絵本を紹介したいと思います。小高い丘に3本の木がありました。木にはそれぞれ夢がありました。宝石箱になること、大きな船になること、そしてのっぽの木になることです。ある日木こりが木を切りにやって来ます。最初に切り出された木は飼葉桶になります。次の木は漁師の小舟に。最後の木は材木にされていきます。長い月日が経ち、かつての夢を忘れたかのようでした。ある時この飼葉桶には赤ん坊の神の子イエス様が寝かされ、あの漁師の小舟には嵐を静める大きな力あるイエス様が乗られ、その放っておかれた木には丘に立てられ十字架となり、そこにイエス様が架けられたのでした。それぞれの夢は思ったようには叶いませんでしたが、それ以上の方法で、木はお役に立ち、輝いたのです。「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ロマ8:28『新改訳・第2版』)神の奴隷は、自分を無くす滅私奉公ではありません。逆に自分を活かす生き方です。神と人に仕えて生きる、私たちのいのちはそこで輝くのです。神の奴隷として生きる事は、辛くてひもじくて日々修行というような暗いものではありません。むしろ今日神様がどんな声をかけて下さるだろう。明日どんな素敵なことを用意されているだろう。とワクワクドキドキしながら、いのちの保障の中に在るという平和・平安の中を、神様に期待して楽しく生きる事です。神の奴隷として生きることは、私の命は私の物だけで終わらないと宣言する事です。神の為、人の為に生きる、祝福に彩られ、ステキなものを残してゆく歩みです。それは不思議にも自分が与えられた命を丁寧に、そして穏やかに生きる道です。そしてその道は永遠のいのち(6:23)に繋がっているのです。シャローム!

「息のあるものはみな 【主】をほめたたえよ。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.8.7

詩篇 150 篇

息のあるものはみな 【主】をほめたたえよ。 ハレルヤ。 詩篇 150:6

 詩篇 150 篇は、神への賛美で大きく、詩篇全体を締めくくっています。今日の詩篇には、賛美がささげられる場所、賛美する理由や方法、そして賛美をささげるのは誰かという賛美の主体が詠われています。そして最後、ハレルヤ!(主をほめよ)との強いススメと励ましが聞こえ、残響として続く生活に響いていくのです。詩篇の言葉だけが、詩篇という書物だけが間に合うものだ-『詩篇講和』で北森嘉蔵(牧師・「神の痛みの神学」の神学者)は一番伝えたいこととして述べています。未解決の暗闇の中にも、臨終の床にも、唯一間に合う書は詩篇だけなのだと。私に先立って苦しんだ人間がいてくれた。一人で苦しんでいるのではない。そう‘先輩’なる詩篇詩人の存在に深く慰められてもいるのです。今日の詩篇、150篇ではまず、地と天で神がほめたたえられていることが詠われます。「神の聖所」とは神が定められた地上での礼拝の場。「大空」とは天を指す言葉です。(1節)黙示録を読むと、地での大混乱や迫害、天変地異とさばきの最中にも、ヨハネが天に目線を向けると、天の御座ではいつも礼拝がささげられています。賛美は今もささげられ、そして永遠にささげられるのです。この地でも賛美が起こっています。賛美によって天と地が一体となる幻(ビジョン)を見、賛美は天地が神に在って一つであることを教えてくれるのです。詩篇は祈りとして知られますが、祈りの極みは賛美なのです。(詩篇は祈りの書であり、祈りは讃美に極まるのである。-関根正雄『聖書註解(下)』)『主の祈り』で、御心の天になるごとく地にもなさせ給え、と祈る通りに、天と地はセットなのです。次に賛美の理由ですが、「大能のみわざ」と「比類なき偉大さ」(2節)ゆえに賛美をします。神のいのちを与え豊かに育む救いと絶対的主権のゆえです。賛美は強いられるものではありません。自然と口をついて出るものです。『旧約聖書のこころ』(雨宮慧)の中に、子どもは誰かに物をもらっても、母が「ありがとうは?」と言わないとお礼を言わない。けれども、父が目を見張るような素晴さを発揮すれば、見ていた子どもは「すごい」という言葉が口から漏れる。「感謝は強いられて起こるが、賛美はそうではない。…神への賛美も同じことで、人が神の慈しむまなざしに照らされたとき、賛美が口をついて出る。賛美の背後には、かならず救いの出来事がある。」(p68-69)賛美の方法は、角笛、琴、竪琴、タンバリン、踊り、シンバルといった楽器と身体です。(3~5節)まるで大編成のオーケストラ、豊かな音色とハーモニーを味わうようです。音楽の力も神は用いられます。今注目のロシア界隈ですが、1991年のバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)の独立にも、音楽の力が一役買っています。「歌と踊りの祭典」が各国で開催され、運動の原動力となる民族のアイデンティティーを掻き立てたのです。残念ながら詩篇の標題に出て来る調べは失われていますが、詩篇を見ると沢山の楽器が用いられ、賛美されていることが分かります。今でもそうですが、音楽は雰囲気作りをして心の準備を助け、歌詞であるみことばや教理を教える役目を果たしています。代表的な詩篇詩人といえば、ダビデですが、彼ははじめて‘ハレルヤ’と賛美させた人物です。(I歴代16:4)王となったダビデは、政治や軍事面の強化だけでなく、賛美に彩られた礼拝によって国の霊的な守りと力、豊かさも育んでいったことでしょう。イスラエルの、ダビデの強さの秘密の一端を賛美が担っていたでしょうか。賛美は「息のあるものみな」(6節)」によってささげられます。息のあるものとは、人間のことです。換言すれば、いのちあるものはみな-神にいのち・救いを与えられた者は全てと言えるでしょう。動物は含まれません。体と魂(心)の他に、霊的な存在として造られた人間に対して呼びかけられています。この人間とは何者でしょうか?人とは、ギリシャ語でアンソローポスと言い、「上を見上げて生きる者」を指します。上、すなわち天では、この詩篇の最初でも詠われているように、賛美がささげられています。天を仰ぐ存在とは正に賛美して生きる者です。旧約聖書には、生きている者だけが、賛美をすることが出来る。裏を返せば、死人に賛美なし!と言います。(イザヤ38:18-19)賛美が出来ることは、実に生きているということ、その証拠です。詩篇全体は賛美に彩られています。詩篇はまたキリスト信仰に入信するか否かとはそう関わらず、人間として生きることと直結している、と北森嘉蔵は綴っています。作者不明の「戦死したロシア兵の祈り」があります。そこには激戦区での突撃の合図を前に、満天の星を見上げて初めて神を知った者の平安と神への願いが綴られています。天を見上げ、神と出会う時、人は死の先にも広がる永遠の命に与るのです。この詩篇も、詩篇全体も「ハレルヤ」との言葉で終わります。「あなたがたは主をほめたたえよ。」ここでは命令ではなく奨励形だそうです。「主をほめたたえて生きるのだ」という強いススメと励まし。神をほめたたえてこそ、私たちのいのちは真に輝くのだと言わんばかりの表現です。信仰者、息のある者には、四方八方塞がれる地において、忍耐を求められる場において、唯一開いている天に思いを向けられる幸いがあります。閉塞感を突き抜ける道が、賛美にはある。賛美は今いる場所限定、また一時的なことではありません。地にいる私たちに天を開き、光が満ち、全地・全世界の救いを見せてくれます。すなわち救いの完成、平和(シャローム)の実現、この世界の回復(新創造)、そして永遠を垣間見せ、味わわせてくれるのです。この詩篇のゴールは、私たちの信仰のゴール、更に希望と平和を求める全ての人のゴールでもあるのです。ハレルヤ!

「主を知り、成長する!」(岩倉キリスト教会牧師:武川仁哉) 2022.7.31

マルコの福音書 6 章 30~44 節

主を恐れる者たちよ 主に信頼せよ。主こそ助け また盾。 詩篇 115 篇 11 節

 まず最初にお話することは、「イエス様は私たちの必要を知っておられる!」ということです。この五千人の給食と言われる箇所ですが、この前に、イエス様は12人の弟子たちを二人一組にして、町や村へと遣わしていました。
6章7節「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。」
弟子たちはイエス様から、特別な神の御子であるイエス様の権威が与えられて、人々から悪霊を追い出したり、病気の人々を癒したりしました。様々なところへ出ていき、多くの働きをしました。イエス様は、神様の働きを広げるために、弟子たちを遣わします。同じように、私たちもイエス様によって、この場所から毎週それぞれの場所に遣わされているのです。弟子たちと同じように二人一組とはなりませんが、かと言って、ひとりぼっちでもありません。一人で遣わされているようで、実は神である御聖霊がともにいてくださいます。心強いお方が私たちとともにおられるのです。また、弟子たちのように悪霊を追い出す権威だったり、癒しを行う力はないかもしれませんが、私たちは誰かが抱えている困難や・癒しのために祈ったり、家族や友人や同僚のために仕えたりして、そのように遣わされた場所で私たちは主にあって仕えています。様々な形で主を証ししています。
ですが、日々、主に仕えていくときに起こる私たちの体の反応はなんでしょうか?それは疲れです。神様に仕えているなら、全く疲れることがない、なんていうことはありません。神様のために働いているなら、いつも喜びがあって、心も体もいつもエネルギーに満ち溢れているわけでもありません。やはり、私たちたちの体は疲れを感じます。感じるだけでなく、実際に疲労がたまります。私もリポビタンDを飲まなければ、モンスターやレッドブルを飲まないと体や気持ちが動き出さない、ということもあります。十二弟子たちもそうです。多くのわざをなし、心には喜びがあり、イエス様のもとに帰ってきました。ですが、やはり体は疲れていたはずです。食べる時間もないほど多忙だったと言われています。そんな弟子たちに、イエス様は休むように言いました。
6章31節「するとイエスは彼らに言われた。『さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。』出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。」
人がたくさん出入りするところ、人と関わるところでは、どうしても落ち着いて休むことができません。そして休まなければ、疲れは取れません。なので、イエス様は弟子たちに”人のいないところで休むように”と言いました。イエス様は、人には休みが必要なのだ、ということを知っているのです。旧約聖書でも、休みについての律法があります。安息日という規定です。
申命記5章12節「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。」
申命記5章14節「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。」
安息日というのは、神様が定めた休みの日で、一週間のうち7日目は休むようにとサイクルを神様が作りました。これは、人を造った神様が、人にとって必要なものとして与えたサイクルです。別に今私たちが完全にこのサイクルで生きなければ、罪人だとかそういうものではありません。二日以上休んだら罪とか、そういうことではありません。ただ、一週間に一度も休みなしで、それが何ヶ月も、何年も続く場合、私たちの体はそれに耐えられるように造られていません。神様は人が休みを必要としていることを知っているし、むしろ神様は私たちを休みが必要な存在として造ったのです。
しかしながら、私たちは神様をどのように理解しているでしょうか?これまで、どんな神様だと理解していたでしょうか?みことばを見ますと、従いなさい!みことばを行いなさい!と書いてあります。神様は、私たちを奴隷のように休みなく働かせるお方だ、そのように理解しているでしょうか。私たちが休んでいればムチ打って、無理やり働かせる、そのような厳しい神様だと理解しているでしょうか。もしそうであるならば、改めて神様のイメージが変えられなければいけません。安息日の規定同様、イエス様があらわしているのは、神様は私たちの必要を知り、ケアしてくださるお方だ、ということです。イエス様は弟子たちだけでなく、周りにいた群衆たちをどのようにケアしたでしょうか。
第一に、霊的な飢え渇きをケアした、ということです。
6章34節「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。」
群衆たちは、自分たちの人生のともしびとなる、神のみことばを求めていました。神に頼らなければ生きていけない、そのような飢え渇きがありました。イエス様は、その群衆たちに真理のみことば、神の国の希望を分かち合い、彼らの心をケアされました。
そして第二に、肉体的な必要をケアした、ということです。群衆たちがイエス様と時間を過ごしているうちに遅い時間になり、お腹も減っていました。
6章41節「イエスはパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。」
少なくても男だけで5千人はいましたから、女性や子どもたちも含めたらもっといたはずです。イエス様はその群衆たちに食事を用意してくださいました。彼ら一人一人が満腹になるまで・満たされるまで、パンと魚が与えられたのです。
ですから、霊的なことだけが神の領域で、肉的なことは人の領域だということではありません。
神様はそのどちらの必要も知り、またケアしてくださるのです。同じように、イエス様は私たちの必要を知り、ケアしてくださいます。第一に、私たちは霊的に飢え渇いています。私たちは、どうしても神を必要とし、神の赦しを必要としています。私たちは自分の罪を自分でどうにも処理できず、死と滅びに向かっている者たちです。しかし、イエス様は「いのちを得よ」と、私たちの代わりに罪の刑罰を受け、十字架で死んでくださいました。私たちに神とともに生きるいのちを与えてくださいました。イエスを信じる者の内側に生ける水の川が流れると言われているように、永遠のいのちの源である御聖霊を与えてくださいます。神と共に生きる喜び、平安、本当の自由を与えてくださるのです。そして、第二に、私たちは肉的な必要も覚えています。日々の疲れ、またそれぞれが抱えている困難があります。病や貧しさ、人間関係の問題、家庭の問題、神様は一つ一つをご存知です。神様は無視しません。神様はそこにも必要な助けや備えを与えてくださるのです。
私たちの今の必要はなんでしょうか?霊的な飢え渇きでしょうか?肉的な必要でしょうか?みなさんが今必要としているのはなんですか?神様は霊的な必要も、肉的な必要もどちらも、みてくださいます。まず、そういう神様であることを知りましょう!そして、私たちをケアしてくださる神様を信じましょう!
後半にお話することは、「イエス様は私たちの成長のためにチャレンジを与える」ということです。
イエス様は弟子たちに急にものすごいことを言いました。
6章37節「すると、イエスは答えられた。『あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。』・・・」
先ほども触れましたが、弟子たちの周りには5千人以上の人々がいました。ですから、言われた方からしたら、”どうやって?!”という言葉が頭に浮かんできます。こんなにたくさんの人たちにどうやって食べさせることができるだろうか、と反射的に考えるわけです。ですから、弟子たちは、「200デナリ分のパンを買ってきて、群衆たちに食べさせるのですか?」と言いました。1デナリというのは、丸一日働いた賃金に相当する金額ですから、それが200デナリとなると、大金です。弟子たちは”じゃあ買ってくればいいですか”と言っているのではなく、ここで言いたいのは、「お金ないっすよ~、無理っすよ~」ということです。
でも、そもそもイエス様は弟子たちにパンを買いに行かせようとしていたのではありません。部活の先輩みたいに、後輩たちにお金も渡さず、無理やりパンを買いに行かせたいわけではないのです。ヨハネの福音書を見ますと、これはピリポという弟子を試すために言われた、と書いてあります。イエス様は弟子たちを試すために言われたのです。そして、それはまた部活の先輩みたいに、後輩が自分に従順に従うかテストしているのとも意味が違います。イエス様は弟子たちが神であるイエスを信頼しているかを試したのです。ここにお金もないし、食べ物も十分にあるわけではないけども、イエス様が言うなら食べ物がちゃんと備えらるはずだ、というイエス様に対する信頼が試されたのです。イエス様が神であり、不可能がないという神の力と偉大さを信じているのかを、イエス様は試したのです。
しかし、弟子たちはイエス様への信頼もなく、神の御子のうちにある力を信じていなかったのです。あとで弟子たちのことがこのように書かれています。
6章52節「彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。」
彼らの心は”頑なだった”とあります。これは「石のように固い」という状態です。彼らの心は固く、これまでもどんなにイエス様の力やしるしを見ても、その出来事が心の外側にコンコン当たるだけで内面には響きません。外面的には動かされても、心の中には変化がないのです。なので、弟子たちは本当の意味でイエス様が神であることを信じることも、信頼もできていなかったのです。
だから、弟子たちの口からまず出てきたのが、「お金ないっすよ~、無理っすよ~」という言葉だったわけです。イエス様への信頼がない、キリストのうちにある神の力を信じられない、それが弟子たちの問題でした。そして、私たちも同じ問題を抱えていると言えます。私たちは確かに、イエス様を救い主として信じて救われています。けれども、日々身の回りの出来事や困難で神様への信頼が揺れ動いてしまうのが私たちではないでしょうか。多くの困難、なかなか解決へと向かわない問題、希望が見えてこないトンネルの中にいるとき、時間も心にも余裕がないとき、お金がないとき、自分に力がないとき、私たちの口から出てくるのはなんでしょうか?「無理っすよ~」という言葉ではないでしょうか。もちろん、自分の弱さや限界を認めて、神様に正直に打ち明けるのは悪いことではありません。でも、その先が大事なのです。その無理だと思うときにこそ神様を信頼できるか?今まであなたを導き、キリストによってあなたを救った神が今日もあなたを助けると信じるか?神様は私たちにチャレンジしているのです。私たちがますます主を信頼し、さらに信仰において成長するために、神様はチャレンジを与えているのです。
みなさんは今、神様が与えておられるチャレンジの中におられるでしょうか?もしそうなら、神の許しによって、神の御手から与えられているチャレンジの中で、不可能のない偉大な神を知り、この神様に信頼し続けることを学んでいきたいのです。
詩篇115篇11節「主を恐れる者たちよ 主に信頼せよ。主こそ助け また盾。」
私たちの必要を知り、助けてくださる神様を知りましょう。ただ知識として知るのではありません。私たちの生活のために備えられたものが神様が備えてくださったものと信じるのです。実際に日々の生活の中で、主を認め、主の愛を受け取り、主を崇める。これが神を知るための秘訣です。神を知ることを通して、私たちの神様への信頼・信仰が成長していくのです。神が許されたチャレンジの中で、信仰においてますます成長していくことを求めていきましょう。

「私を囲むもの」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.7.24

詩篇 142 篇

私のたましいを牢獄から助け出し私があなたの御名に感謝するようにしてください。正しい人たちは私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。」 7 節

 一人の神の民、信仰者がいます。この人には神の祝福が約束されています。自分の明確な使命や賜物も知っています。けれども今目の前に広がる光景はおよそ約束された祝福とは程遠く、悲惨な状況に置かれています。孤独で、追われています。命の危険にあります。正に洞窟の中にいるのです。ただし、この人は信仰を放り出さず、与えられた祝福また使命を諦めないのです。そこで彼が神に祈るのです。詩篇142篇の詠み手なる祈り手は、イスラエルの王として立つことを約束されたダビデです。一人の信仰者としても、王としても、御心に適う歩みをし、神と心を一つにし、主なる神の御国をこの地に実現することを願い、これを祝福また使命として生きていました。ダビデのマスキール。ダビデが洞窟にいた時に。祈り。と標題にあります。マスキールとは、黙想の詩という意味があります。教訓であったり、(失敗からの)悟りであったりします。詩篇におけるダビデのマスキールは、人生の最も苦しい時期に詠われたと言われています。ダビデは苦しみの時に、神の助けがあったことを一生涯忘れずに思い巡らしていた。黙想していた。そしてこれは想像ですが、この詩を教えとし、悟しとし、ダビデの許に集いイスラエルの黄金時代を支えた仲間たちに語り、ダビデ軍、後のダビデ王朝の信仰的な力も養っていったのではないかと思うのです。苦しみの時ダビデは祈るのです。私たち信仰者もそうです。今あなたはどこにいますか?今日あなたの内にどんな祈りがありますか?昨日CSC(クリスチャン・成長・センター)で、講師に早矢仕じょ~じ師を迎え、『福音とアート』というテーマでワークショップを開きました。じょ~じ師曰く、福音とは美しくなることだ。美しくすることがアートならば、アートは福音なのだと、神による新しい創造(IIコリント5:17)の御業を交えて語って下さいました。CSCでは、これまで様々な礼拝スタイルがあることを学びましたが、じょ~じ師は自分の礼拝スタイルは呼吸だと仰り、自分の思いを吐ききった時に、神はすぅーっと入って来る。息を吐くと、吸うことを意識しなくても自然に空気を吸うように、私たちの思いを吐き出した時、聖霊の息吹が入って来る。入って来て、私の命となる。これも美しい創造の御業だと(創世2:7)。神のかたちに造られた私たちそのものがアートであり、また私たち自身もアートをして生きているのだと知りました。神を信じる時、私たちの人生、私たちの物語は、神の伴なう人生、神の物語となっていきます。-十戒といったみことばを人生の判断基準とし、主の祈りを祈り願っていきます。ここには永遠の安息、約束の地・神の国が備えられているのです。御国をこの地に!と、主なる神の御心・救いの御計画を成し、平和に彩られた神の国を築き上げるのに信仰者は参与していきます。実に、今日の詩篇の最後の祈りに見られるように、そこには神を信じる仲間が必要なのです。世界を創造し、今も生きて天と地を治められる神ご自身ですら、御国をお独りで造り上げることはされないのです。私たちを美しくも平和な御国に招かれ、神の国を展開していく一員としての働きを与えて下さるのです。ここに神の期待が、すなわち愛があるのです。神は私の避け所(5節)である-神との交わり、確かな救いがあります。信仰は‘汝と我’の関係、神と私との関係です。しかしまた神が思い描かれる救いの姿は、ひとりでは成し遂げられるものではありません。共に働く者が必要なのです。いみじくも私たちは自分が信仰の窮地に陥り、祝福から遠ざかっていると思い込んでいる時、神様からまた主の集まり、信仰の交わりから離れがちになります。良いコンディションにない。自分が憧れ、期待する信仰(者の姿)にない。そんな時に、恥、恐れ、おくびょう、神や人、社会や自分への失望、人間関係の億劫さや煩わしさが私たちの心を占めることがあるのです。様々な理由があるでしょうが、神と人との交わりから遠ざかるのは案外たやすいのです。この詩篇の詠み手ダビデはどうだったでしょうか?身内にも(Iサムエル17:18)、仕える王サウルにも、疎まれる者でした(18:6-9)。嫉妬も働いていたことでしょう。心の友ヨナタンとの別れ(20章)もありました。主君サウル王の手から逃れる為に逃亡しました。敵国ペリシテへの亡命も願えば、許されたかもしれません。しかしダビデは、神と彼の国でありも神の国なるイスラエルに戻り、留まるのです。ダビデは、神に魂の救いを祈ります。正しい者たちに囲まれて生きる事を願うのです。正しい者とは、神を信じ、望みを置き、神の物語を歩む人です。ダビデは、神が良くしてくださると信じて、神に信頼して祈るのです。牢獄(7節)の原意は「囲い」です。今あなたを取り囲むものは何でしょうか?誰も囲む者がいない孤独、予期せぬものに囲まれる牢獄-洞窟から神は、正しい人に取り囲まれる祝福の輪へと信仰者を導いて下さるのです。結果ダビデの主、イスラエルの神、また聖書の神の物語は、ダビデの許にまずサウルの下では成らず者とされた約400名がやって来、最終的には人の入れ替わりもありますが常時約600名が集い、生涯彼の治世を支えてゆくのです。ここからあのイスラエルの黄金時代を築き、憧れの神の国をこの地に表したダビデ王朝は始まるのです。ダビデは、汝と我~神と私の関係に終わりません。それは‘私と隣人~世界’との関係に、日常生活、目に見える社会や人間との関係性に反映されるものです。縦と横の糸-神との関係と人との関係・社会的な営み-で、神の国という美しいタペストリーは紡がれるのです。私の物語以上に、神の物語は、大きく豊かなのです。聖書を開くと自分の内面を知らされると共に、神が築こうとされておられる、外に大きく開かれている御国の扉とその奥に広がる世界も見えてくるのです。実際に玄関から外へ出られなくても、私たちの信仰、心は自由です。ディボーションから礼拝へ、個人的な願いから、教会、隣人、世界の為に祈ること。私たちは、どこにいても、どんな状況に置かれていても、麗しい神の物語、神の国を生きる事が叶うのです。この詩篇は嘆きから始まりました。誰にも気にかけられていない、見捨てられた、命が危ぶまれる状態でした。しかし、主なる神はここにも祈りを与え、神の国・神の物語へと招いてくださるのです。ダビデは神の祝福を諦めませんでした。神を信じ、神の物語を生きる彼には、祈りが常にその口に、神の約束がその心に保たれていました。これが神が伴われるという事です。ダビデの主は今、私の主、私たちの教会の主であられます。私たち教会も、洞窟の中、牢獄、厳しい時期を過ごすかもしれません。けれども私たちは神の祝福を諦めません。神が私たちのことを気にかけて下さり、今日も主は生きておられ、私たちに息を与えて下さるからです。神は私たちの祈りの守備範囲を広げて下さいます。魂の救いに続く、‘正しい人’が集められる-神の国が新たに造られてゆく御業と使命・祝福を、主に叫び、憐れみを乞う信仰者に備えて下さるのです。シャローム!

「神から発し、神に至る」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.7.17

詩篇 139 篇

神よ、あなたのみ想いはわたしにいかに貴く、いかに数えがたく多いことか。それをわたしが教えようとしても 砂よりも多いのです。わたしが終りだと思う時もあなたはなおともにい給う。詩篇 139:17・18(関根正雄訳)

 詩篇139篇には生命の神秘が詠われています。キリスト教は人を罪人呼ばわりするから、いい気がしないと思われることがあります。しかしこの詩篇を聞き始めますときっと、罪人一辺倒の見方を聖書はしていないことが分かるでしょう。また人の功績が神の眼を惹くのではなく、真の命の初めから既に神の眼差しが私たちに注がれているのを知るのです。人はどこから来て、そこに行くのか―という人類の抱く大きな問いへの答えも見出せます。詠み手(標題には「ダビデでの賛歌」とある)は、主なる神は私を知り尽くしておられる。言い方を換えれば、私は神に知られていると告白しています。神の圧倒的かつ遍く臨在に畏れおののいてもいます。ただそれは詠い手の安心であり、平安なのです。私を庇い(5節)、導く(10節)御手が確かにあると歌うのです。天にも、よみにも、海の果てに住んでも、闇にまぎれようとしても、神はそこにいたもう。詠い手はこの不思議な神の臨在に、恐怖ではなく、全知の主、偏在の神の確かな、揺るがない守りを覚えています。次に人が、私が、奇しく造られたことに驚きを隠せません。常に神が伴う生(せい)に、不思議さと貴さを見、私も神の作品、創造物(被造物)であることを認めています。命の業は正に神業!主なる神のみがおできになることです。人間は人知れず、神によって造られ、神の書物にすべてが記され(16節)、計り知れぬ多大なご計画が成されているのです(17・18節)。神はお造りになられた生命に、プラン・お計らいを持たれます。(エレミヤ11:29)人の行く末はどうでしょうか?「私が目覚めるとき私はなおもあなたとともにいます。」(18節)目覚めるときとは、信仰者の甦りの朝が意識された言葉です。「果てに至っても」(日本聖書協会共同訳)また「わたしが終わりだと思う時も」(関根正雄訳)とも訳されています。この地上の生涯の終わり(ゴール)まで、そして永遠の住まいなる天の御国に至るまでも、神は見捨てず、見離さず、信仰者と共にいて下さるのです。つまり、人は神から発し、神に至るのです。「神よどうか悪者を殺してください。」(19節)キラキラと眩く輝く生命の神秘に心惹かれ、感動している処に、突如耳を疑うような人のダークサイド、呪いの言葉が聞こえてきます。神から発し神に至る道には、こう祈らざるを得ない時もあるのです。悪しき者、血を流す者ども、企みを抱いて語り、神を憎み神に敵対する者があるのです。神の栄光を映し輝く者としての道を閉ざそうと妨げる力が働くのです。そこに神の名に懸けて報復してほしいという祈りも湧いてくるのです。神の敵、すなわち私の敵に復讐をと心で願うのです。けれども、この詠い手はその思いを行動には移しません。復讐は主のもの(ロマ12:19)とわきまえているからでしょう。むしろ、私の思いを、私の悩みを知っていて下さりと祈り、神に私の心を預け、全てを委ねているのです。私たちは恨みや復讐心に生きる時、人生を棒に振ってしまいます。神はこの恨みや復讐心までわたしに委ねよ、任せよと仰って下さる。「復讐はわたしのもの」と引き受けて下さるのです。私たちが傷つかないように。深く痛手を負わない様に。祈ることを許されるが、ダークサイドをそのままにはしておかないのです。神から発し、神に至る道は、その真ん中、途上に、神が成すことも知られています。(ロマ11:36)だからこそ最後にこう祈ることが叶うのです。「私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。」(24節)「傷ついた道」は、「不信の道」(フランシスコ会口語訳)や「偶像崇拝の道」(聖書協会共同訳)、「痛みの道」(同・別訳)であり、それは「とこしえの道」また「古の道」(エレミヤ6:16)対する、‘新しい道’です。私たちはキリスト信仰を‘新しい道’と考えます。その一つの理由は性悪説でこの世を見ているからです。罪が入った時に人類の歴史がスタートしているように思えますが。実は神の天地創造より人の歩みは始まっているのです。その意味では、神がその似姿に素晴らしく造られた栄誉ある人間で、ある種性善説で考えられるのです。(創世1:31)聖書の信仰は、本来の神に造られた人の道‘昔からの道・古の道’に歩む(戻る)ことです。それは元来神が人に備えられた奇しくも輝かしい道なのです。私たちは与り知らぬ運命に翻弄されているのではないのです。常に全知偏在かつ復讐心すらも引き受けて下さる神の介在が傍らに伴うのです。シャローム!

「神が認める信仰」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.7.10

ルカの福音書 8 章 43~48 節

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」 8:48

 12年間―大変長い間、血が止まらずお腹が痛い病気を持った女性がいました。子宮内出血を伴う婦人病と思われます。その為にあまり外にも出られず、人と会うことも仲良くなることも自由にできなかったでしょう。会堂(ユダヤ人の集会場。地域社会・コミュニティの中心であり、交流の場)にも行くことが許されていませんでした。差別もありました。種類にもよりますが当時病気にかかるという事は、罪と関りがあるとされ、隔離が必要だったからです。長期療養を余儀なくされることは、社会的な価値が失われてゆくことでもありました。ひとりぼっち、ずっと痛みがあり憂鬱だったことでしょう。どうにか病気を治したい!と、良い医者の噂を聞き、良く効く薬があると耳に入れば、すぐさま出向く。けれどもちゃんとした薬ではなかったり…他により優れた治療法と思って手を出してみるも、実は騙されていて高いお金だけとられたり…「医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった」(43節)のです。医療に用いるお金があったことから考えると、家柄も悪くはなかったでしょう。しかし、今や彼女は孤独で、価値を失っているのでした。社会にひっそりと生きる者でした。この長血を患った女性は、ある日イエス様の噂を聞いたのではないでしょうか。「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」(マタイ9:21)と、心の内に思っていました。イエス様が対岸の町ゲラサからガリラヤに戻ってくると、こそっと人だかりに紛れてイエス様に近づき、その衣の房に触ったのです。そうしたら何と!ただちに血が止まって、病気が治ります。奇跡が起こったのです。イエス様はその時「わたしにさわったのは、だれですか」(ルカ8:45)と尋ねられます。孤独に生きる彼女をそのままにはしておかれませんでした。その女性を捜されるのです。弟子たちはこんな大勢の人だかりの中では、そんなの分からないでしょうと言いますが、イエス様は確かに触れられたこと、自分から力が出て行くことが分かったのでした。助けを、救いを求める者を、イエス様は放ったらかしにはしません。きちんと顧みて下さるのです。するとこの女性は「隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒された次第を、すべての民の前で話した」(47節)のです。教会でいうところの、証と信仰告白でしょうか。ここにイエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(48節)と告げられました。いと高き神の子イエス(8:28)が、神が彼女の信仰をお認めになったのです。信仰とは、私たちが良い者だ、優れた人材だと神の信頼に足るものとしてアピールして、認められた上に成り立つものではありません。むしろその逆です。全く自分では自分を救うことが出来ない、正に救いようのない者だとの告白が伴います。この長血を患った女性は救いを求めていました。「助けて」というのは最も人間らしい言葉です。私たちはひとりで、そして神なしで生きていくことは本来できません。そのように人は神によって天地創造の初めからデザインされているのです。イエス様は彼女が一心に救いを求めてすがる所に、信仰を見出されました。「衣の房」に触れようとしたこと、これは神の民ならではの、神を求める証でした。かつてモーセに率いられて、出エジプトを果たし、荒野で宿営していたイスラエルの民は、衣服の裾の四隅の房に青いひも(ツィツィヨット)を付けるように命じられました。【主】なる神の全ての命令を思い起こし、これを行い、神に対して聖となるためでした。(民数記15:37-41)聖書では、信仰生活を送ること、聖とされることは、信仰共同体において、つまり神と人との交わりの中で成立することです。神に、人に、認めてもらう所に、その人の価値が回復されるのです。信仰はその人一人のものではないのです。神は病を癒すことで彼女の恥をすすいで下さり、また公に人前で告白することにより、社会的な価値を回復されたのです。この一人の救いを求める人間を、決して見世物にされたのではありませんでした。むしろ病が癒され、社会復帰が叶う者として公然でお墨付きを与えられたのです。(ユダヤの風習では、宗教指導者の病が治った宣言と共に、社会復帰が認められました。)今もどん詰まりで打つ手がもうないという状況でも、全く救いようがないという絶望に直面していても、私たちには、主なる神、イエス・キリストにすがることが出来るのです。それを主イエスは、信仰と認めて下さるのです。教会では、証と信仰告白をし、洗礼が授けられます。公のこととして信仰が取り扱われるのです。ある信仰者に神の救いが訪れたことを知り、その存在を認めるのです。ここに新しいいのちの誕生を喜ぶのです。「安心して行きなさい」-イエス様は癒された彼女にそう告げられ、送り出されます。その場しのぎの気休めではなく、これからもこの救いが保証されるものであることを示しています。最後に、何よりもこの主イエスこそが、人間の命を重く見、救い、価値を回復しようと願いって下さる救い主であることを、しかと覚えたいのです。私たちを救う為に、十字架で私たちの罪の代償として、ご自分の命を捧げられたのです。神の独り子の命を賭す程に、神は私たちの存在を価値あるものと認めて下さるのです。シャローム!

「たましいの安らぎ」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.7.3

詩篇 131 篇

むしろわたしはわが心を静め、黙せしめた。その母から乳離れした子のように、わが心はわがうちに静まった。 2節(関根正雄訳)

 たましいの安らぎの秘訣を歌った詩篇です。その信仰者の得る平安は、乳離れした子の味わう安きのようだと詠われています。(2 節)連日の体温を超える程の暑さにはバテますが、自分の抱える内なる烈しさにも参ってしまうことがあります。如何に治めればよいのでしょうか?穏やかな生活の秘訣はどこに?私たちは乳離れしないうちが、まだ手の中にあるので扱いが楽だと考えるかもしれません。乳離れ-今は卒乳というのでしょうか-も、母親が復職することもあってか、1 歳から 2 歳半が多いかもしれません。乳離れした子は‘魔の二歳’と言われるイヤイヤ期?!の真っ只中ではないか、自分の足で歩き出し、周りの大人は目が離せない。憩うどころか、毎日が運動会と思われるかもしれません。けれども、この詩篇に見る乳離れした子は乳児よりも穏やかです。確かに乳児は、乳やその他のケアを認めて、何かあるとすぐ泣きじゃくります。対して、乳離れした子は何もわめき散らさなくても、母親がケアしてくれることをちゃんと知っています。少しくらいお腹がすいても待つことが出来る。静まる間をとれる。そういった信頼が育まれた故の安心があるのです。ちなみに聖書のイスラエルに限らず、古代オリエントでは乳離れした子とは 3 歳以上を言うようです。当時は疫病等の災いから守る為にも母親の保護下で過ごすことは必要な習慣でした。そして乳離れをすると、律法(トーラー)の教育が始まったのです。詩篇 131 篇の詠み手も、神に烈しく求めた時があったのでしょうか。乳児が必死にケアを欲して叫ぶように。祈っても、考えても、怒っても、悩んでも、コロナは終息せず、世界や自分を取り巻く状況は変わらない。導きだと思ったのに、祝福があると信じているのに…自分の願い・野望と、信仰者としての私が乖離している。自分の力で事を成そうとする私と、主にお委ねして生きようとする心がバラバラになるようにも思える。しかし今や和らぎ、静まっています。関根正雄(無教会主義の伝道者、旧約に長けている)は、「わが心は わがうちに静まった」と訳しています。「静まった」とは元の言葉では「乳離れさせられた」だそうです。母の許で安心安全に暮らすことを知った乳離れした子は、自制を覚え始めています。律法を学びはじめ、何が御心かを知り始めたのです。そこで、この詩篇を歌う信仰者は、乳児がその母親に訴えるような烈しさから解放され、乳離れした子が体得した落ち着き、「私のたましいは 私とともにあります」と自分を治めることが叶ったのです。詩篇の詠み手は、心のおごりと目に高ぶりがいかに心に烈しさを宿すことになるかを知っていたのでしょう。これまでの人生で体験したかもしれません。思い上がって自分の願いを通そうと、わがままな振る舞いをする。また自分を誇り、自分こそ正しく優れていると、人を見下す態度をとる。それは自分を高みに、それこそ神に押し上げ、人や神をコントロールしようとするものです。自分の力が及ばない領域に侵入しても、思い通りになる訳がなく勝手に心を乱す。あれこれコントロール不可能な自己の範疇にない物事を、どうにかしようと思い悩むと、心が散り散りに乱れていく。そこで詠み手はおごらず、高ぶらず、「及びもつかない大きなことや奇しいことに 私は足を踏み入れません。」(1 節)と決心するのです。神の領域に立ち入らず、むしろその主権とご性質を認め、信じ、委ね、お任せする。そこにかつての烈しさから解放された、乳離れした子の様な魂の安らぎを得るのです。もちろん、これは神の御業には関与しないというスタンスではありません。この世の課題や、自分の心や生活の中に生じる問題に目もくれないというのでもありません。逆に乳離れした子が母の懐で育まれ、信頼と安心を得たように、どっぷりと【主】の霊に浸され、満たされてある信仰に基づくところの誓いでしょう。自制を働かせ、【主】に信頼し、神の成さることに常に期待をするのです。それが最後の節に表明されています。「イスラエルよ 今よりとこしえまで 【主】を待ち望め。」(3 節)先週一つの告別式の司式をさせていただきました。召された方は、生前ベッドの上で、自分の内に宿る烈しさを告白して下さいました。そこでイエス・キリストの十字架の罪の赦しの福音をお伝えして一緒にお祈りをしました。その方の口から「アーメン」という言葉を聞くことができました。別れの時には、たましいの安らぎを得た、その清々しい穏やかな表情が見られました。キリストの 12 弟子のペテロはその烈しさがしばしば表に現れる人でした。が後にその手紙にこう綴っています。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」(Iペテロ2:1-3)乳飲み子として【主】は良いお方であることを味わい、神への信頼・信仰を育むことは、乳離れする、つまり烈しさから静まることへの大切なステップです。神を我が主と謙り、その御心に沿って仕えるという詩篇 131 篇にある敬虔への誓いは、たましいの安らぎを得る秘訣です。そこには神が下さる落ち着き・静けさがあるのです。シャローム!

「たましいの安らぎ」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.7.3

詩篇 131 篇

むしろわたしはわが心を静め、黙せしめた。その母から乳離れした子のように、わが心はわがうちに静まった。 2節(関根正雄訳)

 たましいの安らぎの秘訣を歌った詩篇です。その信仰者の得る平安は、乳離れした子の味わう安きのようだと詠われています。(2 節)連日の体温を超える程の暑さにはバテますが、自分の抱える内なる烈しさにも参ってしまうことがあります。如何に治めればよいのでしょうか?穏やかな生活の秘訣はどこに?私たちは乳離れしないうちが、まだ手の中にあるので扱いが楽だと考えるかもしれません。乳離れ-今は卒乳というのでしょうか-も、母親が復職することもあってか、1 歳から 2 歳半が多いかもしれません。乳離れした子は‘魔の二歳’と言われるイヤイヤ期?!の真っ只中ではないか、自分の足で歩き出し、周りの大人は目が離せない。憩うどころか、毎日が運動会と思われるかもしれません。けれども、この詩篇に見る乳離れした子は乳児よりも穏やかです。確かに乳児は、乳やその他のケアを認めて、何かあるとすぐ泣きじゃくります。対して、乳離れした子は何もわめき散らさなくても、母親がケアしてくれることをちゃんと知っています。少しくらいお腹がすいても待つことが出来る。静まる間をとれる。そういった信頼が育まれた故の安心があるのです。ちなみに聖書のイスラエルに限らず、古代オリエントでは乳離れした子とは 3 歳以上を言うようです。当時は疫病等の災いから守る為にも母親の保護下で過ごすことは必要な習慣でした。そして乳離れをすると、律法(トーラー)の教育が始まったのです。詩篇 131 篇の詠み手も、神に烈しく求めた時があったのでしょうか。乳児が必死にケアを欲して叫ぶように。祈っても、考えても、怒っても、悩んでも、コロナは終息せず、世界や自分を取り巻く状況は変わらない。導きだと思ったのに、祝福があると信じているのに…自分の願い・野望と、信仰者としての私が乖離している。自分の力で事を成そうとする私と、主にお委ねして生きようとする心がバラバラになるようにも思える。しかし今や和らぎ、静まっています。関根正雄(無教会主義の伝道者、旧約に長けている)は、「わが心は わがうちに静まった」と訳しています。「静まった」とは元の言葉では「乳離れさせられた」だそうです。母の許で安心安全に暮らすことを知った乳離れした子は、自制を覚え始めています。律法を学びはじめ、何が御心かを知り始めたのです。そこで、この詩篇を歌う信仰者は、乳児がその母親に訴えるような烈しさから解放され、乳離れした子が体得した落ち着き、「私のたましいは 私とともにあります」と自分を治めることが叶ったのです。詩篇の詠み手は、心のおごりと目に高ぶりがいかに心に烈しさを宿すことになるかを知っていたのでしょう。これまでの人生で体験したかもしれません。思い上がって自分の願いを通そうと、わがままな振る舞いをする。また自分を誇り、自分こそ正しく優れていると、人を見下す態度をとる。それは自分を高みに、それこそ神に押し上げ、人や神をコントロールしようとするものです。自分の力が及ばない領域に侵入しても、思い通りになる訳がなく勝手に心を乱す。あれこれコントロール不可能な自己の範疇にない物事を、どうにかしようと思い悩むと、心が散り散りに乱れていく。そこで詠み手はおごらず、高ぶらず、「及びもつかない大きなことや奇しいことに 私は足を踏み入れません。」(1 節)と決心するのです。神の領域に立ち入らず、むしろその主権とご性質を認め、信じ、委ね、お任せする。そこにかつての烈しさから解放された、乳離れした子の様な魂の安らぎを得るのです。もちろん、これは神の御業には関与しないというスタンスではありません。この世の課題や、自分の心や生活の中に生じる問題に目もくれないというのでもありません。逆に乳離れした子が母の懐で育まれ、信頼と安心を得たように、どっぷりと【主】の霊に浸され、満たされてある信仰に基づくところの誓いでしょう。自制を働かせ、【主】に信頼し、神の成さることに常に期待をするのです。それが最後の節に表明されています。「イスラエルよ 今よりとこしえまで 【主】を待ち望め。」(3 節)先週一つの告別式の司式をさせていただきました。召された方は、生前ベッドの上で、自分の内に宿る烈しさを告白して下さいました。そこでイエス・キリストの十字架の罪の赦しの福音をお伝えして一緒にお祈りをしました。その方の口から「アーメン」という言葉を聞くことができました。別れの時には、たましいの安らぎを得た、その清々しい穏やかな表情が見られました。キリストの 12 弟子のペテロはその烈しさがしばしば表に現れる人でした。が後にその手紙にこう綴っています。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」(Iペテロ2:1-3)乳飲み子として【主】は良いお方であることを味わい、神への信頼・信仰を育むことは、乳離れする、つまり烈しさから静まることへの大切なステップです。神を我が主と謙り、その御心に沿って仕えるという詩篇 131 篇にある敬虔への誓いは、たましいの安らぎを得る秘訣です。そこには神が下さる落ち着き・静けさがあるのです。シャローム!

「夢かと思うほどの大業成就」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.6.26

詩篇 126 篇

涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え 泣きながら出て行く者は 束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。 5・6節

 屋根の十字架は現在緑に光っています。(週報と同じ三位一体節のカラー?!)先週の月曜日6/20は国連の定めた「世界難民の日」でした。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によってブルーライトアップが行われ、東京のスカイツリーや138タワーでも実施されました。ロシアのウクライナ侵攻も拍車をかけ、紛争や迫害による難民は、世界で1億人を超えている。難民とは政情によって故郷を離れなければならなかった、つまり移住を強いられた人々のことです。UNHCRの発表によると2/24以降にウクライナから近隣国への避難者は750万人以上、国内避難は700万人超という推計だそうです。日本にもウクライナの戦火から避難して来た人達の様子が度々報道され、少しは難民問題が身近になりつつあります。聖書にも難民の話が出てきます。かつて神の民イスラエルがバビロンに強制移住させられたことがありました。同じ詩篇の137篇には故郷を思い出して、バビロンの川のほとりで座って泣いたことが詠われています。「シオンを思い出して泣いた」(137:1)「シオン」とはイスラエルの都エルサレムの別称で、詩篇では特に礼拝の場を表しています。今日の「都上りの歌。」と呼ばれる巡礼歌の一つ126篇には、憧れの「シオン」(1節)を【主】なる神が復興してくださった、そのほとばしる喜びが詠われています。神は約束されていた‘70年の時’が満ちるころ(エレミヤ29:10)、神の民イスラエルの帰還を果たされたのです。彼らが願っていた独立国家ではありませんでしたが、次に興ったペルシア帝国のキュロス王の命令により故郷への帰還と自治が叶ったのです。突如政変が起こり、「夢を見ている者のようであった」(1節)というように、神の奇跡によって「シオン」なる礼拝の場が回復され、礼拝者の口は笑いで、舌が喜びで満たされます。【主】の民も、その周りの諸国の民も、口々に、昨日まで難民であった者が、再び故郷に帰り、再起を果たしていることに、【主】が私たちのために、彼らのために大いなることをなさったと告白するに至ります。難民となり、その故郷・ホームを追われた神の民の憧れた「シオン」への夢が現実となり、礼拝への飢え渇きが満たされたのです。居場所を取り戻したのです。実に人はある意味で皆、難民です。罪故に私たちの魂の故郷なる神の御許を離れているからです。別の言葉でいえば、ホームレスです。ホームレス支援に長年従事されている奥田知志師は「ハウスレスは家に象徴される、食料、衣料、医療、職などあらゆる物質的困窮を示す。もうひとつは、ホームレス。それは家族に象徴されてきた関係を失っている。すなわち関係的困窮を言う」(『もうひとりにさせない』、いのちのことば社、2011、p171)と述べています。詩篇に登場する「シオン」は単なるエルサレムの別名ではありません。礼拝のために取り分けられた特定の場を指します。「シオン」は安息です。【主】なる神と神の家族との出会いと交わりの場です。笑いと喜びに満ちる慰めと憩いの場です。我が家(ホーム)、居場所です。その「シオン」に、私たちはどれほど憧れているでしょうか?【主】を待ち望み、神に期待しているでしょうか?後半4~6節は違う連ですが、前半とどのように繋がるのでしょうか?この詩篇を貫く筋は、人知れぬ神の御業です。夢かと思えるほどの大業成就の喜びと期待が詠われています。「【主】よネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください」(4節)ネゲブはイスラエルの地の南の沙漠です。乾いた地、涸れ川(ワディ)に突如水が溢れます。そして、その水が引いた後には、緑が生い茂ります。これは人為的にはできません。種蒔きの話も出てきますが、種蒔きと刈り取りの間に、穀物を成長させるのは神であって人ではありません。復興・回復には大いなる神の介入と支えがあるのです。やっとバビロン捕囚から帰還した神の民イスラエルでしたが、そこにあったのは瓦礫や荒れ果てた畑であったでしょう。穀物の種とはすなわち食料です。本当に実るか分からないけれど、蒔かないと余計貧しい生活となる。「シオン」が復興されたときに、直面したのは枯れた地であって、涙だったのです。そこでは、神に期待し、主を待ち望むこと、すなわち信仰が問われることでしょう。尚も続く厳しい生活また現状にしかし、神の支えと祝福の約束があるのです。礼拝に集い、そこで知るのは、荒野を一面緑とする神が私たちに豊かさをもたらし、泣き面を笑顔に変えられるお方が将来と希望を与えて下さるということです。礼拝の【主】は私たちの人生に信仰者ならではの喜びと豊かな実りをもう備えていて下さるのです。シャローム!

「いざ巡礼」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.6.19

詩篇 121 篇、122 篇 詩篇 122:1

「さあ 【主】の家に行こう。」人々が私にそう言ったとき 私は喜んだ。

 昨年の秋から消えていた教会の屋根の十字架の光が遂に戻って来ました。先週木曜日にLED化の工事が終わり、早速点灯しました!「都上りの歌。」と呼ばれる巡礼歌が、詩篇120~134篇の15篇に詠われています。モーセの律法には、年に3度、【主】の前に出ること、つまり巡礼が定められています。(出エジプト23:14-17)過越祭、七週祭、仮庵祭です。いずれも大麦、小麦、葡萄などの果実や穀物の収穫祝いであり、その農閑期に行われます。【主】の御前に出ること、すなわち礼拝は、本来「都」なるエルサレムの神殿で行われるものこそを言うのです。イエス様の最後の晩餐で知られる過越祭がありますが、ローマによって都を追われたユダヤ人たちは、その時から散らされた各地でこの祭りの終わりに、皆で「来年こそはエルサレムで」と口にし、締め括ります。都上りは今尚憧れなのです。イエス様も弟子たちを伴いガリラヤからエルサレムへと巡礼に出かけられました。(ヨハネの福音書において、過越祭2:13,12:12、仮庵祭5:1,7:14)そして神の民であるというアイデンティティをより呼び覚ます祭りを好機と捉え、神の国の福音を宣言して行かれました(7:37-39)。巡礼のルートは、ダビデの町から糞門へ、シロアムの池(下の池)からのびる階段を上り、オフェルの丘にある儀式用の沐浴槽へ行き、そこからエルサレム神殿のある神殿の丘へと上って行ったと考えられています。イエス様の時代のエルサレムの人口は約5万人と推定されていますが、祭りの際には一気に膨れ上がり、倍の10万人にも上った可能性もあります。エルサレム神殿で真の礼拝を捧げるのは、いつの時代でも栄誉であり、憧れです。ユダヤ人だけでなく、様々な国からの巡礼者がエルサレムを訪れる様子が旅行に行くと見られ、自分たちも相まってイザヤの預言(イザヤ2:2-4)の前味を覚えることが出来ます。【主】の家なる神殿に詣でることは喜び(詩篇122:1)です。けれども巡礼は大変な危険を伴う道程であったのも確かです。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。」(121:1)「山」は強盗の住処ともなり、危険な場所であった。困難や試練、不可能を象徴する言葉でもある。巡礼の旅人は「目を上げる」。恐怖や不安に対峙し、助けの出所・源を探るのだ。すると「私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。」(121:2)とその答えを見出すのである。礼拝に行く道帰る道に、更に永遠までも【主】なる神の守りがあると繰り返し語られ、念押しされている。「守る」という言葉を、私たちはこの一つの短い詩に6回も聞く。礼拝に集い、そこから派遣されていく者から、神の守りは決して離れることはないのです。さて、エルサレムへ到着した旅人は「ひとつによくまとまった都」(122:3)を目にします。「天幕を繋ぎ合わせて一つにする」(出エジプト26:11)と同じ言葉が用いられています。「家々の連なるエルサレムよ」(聖書協会共同訳)、「人々の群れ集う町」(フランシスコ会・口語訳)とも訳され、正に家々が軒を連ねる‘下町’の風景を見ているようです。それか要塞都市としての堅固に立て上げられ、秩序も整えられている様子か、信仰による神の民イスラエルとしての一致による、まとまりでもあるでしょうか。巡礼の目的は「【主】の御名に感謝するため」(4節)です。「イスラエルである証」-罪の奴隷から救い出され、【主】のもの・神の民とされ、恵みや祝福の内に歩むしるし(収穫物を携えて詣でているはず)として、主なる神の御性質と救いの御業に感謝するのです。「そこにはさばきの座ダビデの家の王座があるからだ」(5節)と。さばきは社会秩序の維持や回復を意味します。真の礼拝の場にこそ、神の民イスラエルを必ずや守り導く力強い主権者なる神の臨在があります。確かな守護者・支配者の臨在を覚え、その日々の守りと恵みに感謝を表すのです。巡礼のもう一つの目的は、平和を祈ることです。エルサレムのために(6-7節)、私の兄弟や友のために(8節)、私たちの神【主】の家のために(9節)。「平和」(ヘブル語で、シャローム)があるようにと。シャロームとは完全さ(欠けなく、満たされていること)や健全さ(正しい関係にあること)を表す語です。エルサレムはシャロームと響き、掛け詞となっています。一連の巡礼歌を続けて聞くならば、巡礼者は平和を憎む者とともに暮らす所に身を寄せなければいけない立場にあり、また平和を求めれば戦いを挑まれるような‘シャローム’のない状態にある者であったとも考えられます。(詩篇120:6-7)その者がエルサレム神殿で御前に出て、平和(シャローム)の神の臨在に触れることによって、祈りが湧いてきたのでしょう。礼拝において、平和の神による満たしと健やかさが与えられた故でしょう。真の平和の秘訣が、その町や家の中に、その人の人生の中に助け主、救い主なる神がおられることと知り得たのではないでしょうか。すなわち神の許に来て、安らぎと希望を得ることだと。私の友人は会社の顧客サービス部門で働いています。最近は従業員満足度を上げる事にも並行して努めているということを聞きました。働く者が満たされていなければ、お客様を満足させることは難しいからだそうです。逆に従業員が満足を得ていれば、それだけ顧客への良いサービスが提供できるのだと。両者は連動していると。これは教会の礼拝や伝道にも大きなヒントとなるのではないでしょうか。巡礼の目的は神の都エルサレムの健全さ(エルサレム〔イェルシャライムと発音〕がシャローム(平和)たるように)や、人々の満たしを祈る為でもあったのです。但しまず巡礼者自身が神の平和に満たされる所から始まるのです。最後に、新しく点った屋根の十字架の光は誰の為でしょうか?それはまだ教会に来たことがない人の為、救い主の光を必要としているこの町の人達の為ではないでしょうか。かつての巡礼者がエルサレム神殿で、神の平和に心満たされ、隣人の平和を祈り出したように、私たちも主日礼拝でみことばと交わりに満たされ、人々の平和や町の平和の為に遣わされていくのです。シャローム!

「これは【主】がなさったことだ。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.6.12

詩篇 118 篇 22 ~ 27 節

家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石となった。これは【主】がなさったこと。私たちの目には不思議だ。詩篇118:22・23

 今日の詩篇は‘エジプトのハレル’と名付けられた一連の巡礼歌の最後の詩です。詩篇113~118篇が、‘エジプトのハレル’です。イスラエルの祭りの際に歌われてきました。イエス様も十字架前夜に弟子達とこの賛美を歌い、ゲッセマネの祈りで知られるオリーブ山に出かけて行ったと言われています。イスラエルの祭りでは、主なる神のなさった大いなる救いの御業が思い出され、礼拝が捧げられます。今日の詩篇は礼拝の招きの詩ともいえましょう。イスラエルよ-神の民よ、アロンの家よ-神殿で仕え礼拝を司る者たちよ、【主】を恐れる者たちよ-異邦人でも聖書の神・イスラエルの主を信じる人々よ、すなわち全ての信仰者よ。そう呼びかけられ、主に感謝捧げ、賛美する礼拝へと誘っています。

 あなたにとって、主日、この日曜日の礼拝はどのようなときでしょうか?礼拝に集う者は、「主は私の救いとなられた」(14・21節)と告白しています。元々は奴隷の苦役から救け出された出エジプトや第2の出エジプトとも言われるバビロン捕囚からの帰還と解放を祝い、その救いの恵み(神の一方的なお取り計らい)に感謝が捧げられています。また苦難を知る信仰者にとっての救いの詩でもあります。詩篇118篇は、宗教改革者マルチン・ルターの愛唱歌でした。(5節、13節)

 礼拝への招きであり、喜びの日に歌われる詩篇において、どんな福音が賛美されたのでしょうか?一つの大きな喜びは「家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった」(22節)ことです。聖書の神の民イスラエル、今はユダヤ人と言われる民は、苦難と迫害の歴史を通って来ました。古のダビデ王やソロモン王が治めた黄金時代も100年にも満たない。ずっと見向きもされない、それどころか忌み嫌われ、拒絶され、ひどい虐げを受けて来た(ここで語られる「捨てる」の意味)者たちが、脚光を浴び(27節)、またなくてはならない要人として重用されていく。みじめな者が、神に見捨てられたのではない。むしろ、神の国を築くに大切なものとして、神はそのご自身の栄光の為にも用いて下さることが信仰者の慰めとなりました。
 「要の石」は、「礎の石」(cornerstone、建物の土台となる礎石)、「要石」(keystone、アーチ状の建造物のアーチの真ん中の石)、また「隅の親石」(quoin、建物の出隅部分に積む石.隅角の補強目的で比較的大きな石が使われる)と様々な訳が考えられてきました。原語では「ローシュ・ピンナー」、「ローシュ」(頭、かしら)、「ピンナー」(角の、隅の)となっています。

 後にイエス様はこの詩篇の御言葉を、「ぶどう園の悪い農夫たちのたとえ」(マルコ12:1-12)にて引用されました。ぶどう園(イスラエル)を任された悪い農夫たち(当時の神殿管理者である祭司長、ユダヤ人指導者など、預言者の言葉を聞かない人達)は、収穫の時(主の日、神の御前での裁き・清算のとき)にやって来たしもべ(主の預言者たち)だけでなく、その主人の一人息子(神のひとり子なるイエス様ご自身)をひどい目に遭わせ、殺し、外に投げ捨てた。そこでやってきたぶどう園の主人は、悪い農夫らを殺し、ぶどう園を他の人達に与えるというのです。これは神の国の主権者の招きを無視するものは厳しい裁きを受けることを伝えるたとえ話なのです。最後に、主イエスは今日の詩篇118篇22-23節を告げられました。‘悪い農夫’たちは自分たちのことを言われていると知り、イエスを捕え殺そうとしますが、居合わせた群衆たちを恐れ、その場を立ち去ります。「捨てた石」の「石」は「エベン」という言葉で、単数「(ひとつの)石」です。このたとえ話に出て来る、悪い農夫たちが「捨てた」、「一人、愛する息子」こそ、この「要石」であると説き明かされています。十字架の出来事がここに暗示されてもいます。

 イエス様は神殿を壊してみろ。わたしはそれを三日で立て直すと宣言されました。(ヨハネ2:19)神と出会う、祈りの場であった神殿が、悪徳商人の巣窟となっていたことに怒りを覚えられた主イエスは、宮清めをなさいました。この時の「神殿」(ナオス)という言葉には、神と出会う場所という意味が込められています。(単なる建物の神殿は、ヒエロンという。)主イエスは「要石」となり、真の神殿(神との出会いと交わりの場)を、築いてくださるのです。

 使徒ペテロもその手紙の中で、主イエスこそ要石と語っています(Iペテロ2:4)。そこでイエス・キリストは、あなたにとって、苦しむ者を救い、神との交わりの場を回復する「尊い生ける石」(7節)なのか、それとも「つまずきの石、妨げの石」(8節)なのかが問われています。この主イエス・キリストこそ、私の救い、私の岩、私の味方と信じ、感謝し賛美するならば、主日・日曜日の礼拝は、あなたにとって喜びの日となるのです。この救いの出来事を聞き、信じることができる信仰も、その不思議も、「【主】がなさったこと」なのです。主の救いの御業を祝いに主の許にやって来た礼拝者には、神の祝福と光が与えられるのです。シャローム!

「キリストの証人となる」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.6.5

使徒の働き(使徒言行録)1 章 8 節、2 章 1~4 節

しかし、聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。使徒1:8

先週可児教会で、聖書考古学セミナーをさせていただきました。質問で、何か意外性のある聖書考古学の話はありますかと、お尋ねがありました。考古学的には(文献は別とし、遺物の発見や分析においては)、イエス・キリストの存在は証明できないことかと答えました。では何がイエス・キリストの存在を証明するのでしょうか?何をもって、私たちの信じる、聖書特に福音書や使徒の働き(ルカの続編)を、それと捉えることができるでしょうか?それは目撃情報-人々の証言・証しです。もちろん福音書がイエスの言行録たる所以は、「史実性」、「使徒性」、「真実性」の3点に支えられています。史実性は、考古学や文献学の照合から分かる資料や環境。イエス(クリストゥス)やピラトは、ヨセフス『ユダヤ古代誌』『ユダヤ戦記』やタキトゥス『年代記』らの歴史書には登場する。使徒性は、基本的なコンセンサス(合意)である「イエスは主」という使信。真実性は、イエス・キリストの使信に生かされる人々の迫害と殉教に見られます。福音が嘘だったら、命を懸けることはしないでしょう。この内、史実性は目撃証言拠る所が大きいです。福音書と使徒の働きを記したルカも目撃者の証言に基づいてこの書を記したと最初に述べています。(ルカ1:1-4,使徒1:1)証人はただ法廷で口頭で目撃情報を話すだけを言うのではありません。聖書において、証人は人格的な意味を持ちます。その生き様において、証言・証拠を伝えるのです。聖霊降臨祭(ペンテコステ)の福音は、「イエスは主」と信じる者が、キリストの証人とされることです。(使徒1:8)それは御霊・聖霊が天より降り、一人一人の上にとどまり、満たされ、御霊・聖霊が語らせるままに話したという出来事として起こります。これまでは王、祭司、預言者など対象が限定された、この御霊の働きがありましたが、今や御霊は「イエスは主」と告白する全ての人に降り、とどまり、その信仰者を満たすのです。(Iコリント12:3)聖霊なる神の現れ・お働きにより、私たち人間は神のことばをきくことが出来、語ることができるようにされたのです。言葉を聞くことが出来るというのは、言葉を語る相手との関係性が築かれていることをも意味します。ことばの主(ぬし)である神との関係が回復されたと。主イエス・キリストの十字架の死によって、関係を妨害していた罪が全て取り除かれました。主の復活の福音として新しいいのち・心が私たちに与えられました。そして御霊が降ったことにより、新しい生き方としてキリストの証人として任命されるのです。ペンテコステは、ユダヤ人はモーセがいわゆる十戒の石板を神から与えられた記念日としてのお祝いの時でした。律法は人を生かす素晴らしいものです。けれども、人は不信仰故に、律法を行うことが出来ず、律法違反で罪に定められました。また人の間でも律法を持って人を裁き、排除していったのです。この時代に神は聖霊により人に信仰を与え、信仰によって律法(神のことば)に聞き従き、罪から離れ豊かに健やかに生きる道を備えて下さいました。(エゼキエル36:26)人々が、主なる神は比類なく偉大で、完全な、つまり聖なるお方であると知る為にです。ここに本来の人を活かすいのちの道が回復されたのです。私たちが今キリストの証人として遣わされる所は、戦いが止まぬ世界です。パブロ・ピカソは「私は戦争を‘描いた’ことはない。…戦争は常に‘起きているものだ’私の絵の中に」と言いました。『ゲルニカ』の語る戦争の「終わりなき分断」、「終わりなき声」を聴き続ける。かつて『ゲルニカ』のメッセージが甦える為にと、ベトナム戦時下の米国において、この絵に‘KILLLIESALL’(嘘を抹殺する)と落書きがされたことがありました。これはベトナムのソンミ村で米軍が仕掛けた大量虐殺の合言葉であった‘KILLTHEMALL(皆殺しにせよ)’への反撃の一言でした。今日のペンテコステに知るは、神があのモーセの石板に、主イエスの十字架に、‘KILLSINSALL’(罪を完全に消し去る)と聖霊によって書き記されたということではないでしょうか?古の律法(命の御言葉)の声、十字架の祈りと叫びを、私たち信仰者、そして教会が再び聞くようにと。神の言葉を聞くことができ、語るように召された私たちは、まるで自分には罪がないように生き、神の声・主のみことばに耳を傾けないでいきる人々またこの世界へ、救いのメッセージに暗幕をかけず、むしろ宣教してゆくのです。シャローム!

「ご在天の神」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.5.22

詩篇115篇

私たちにではなく【主】よ私たちにではなくただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。詩篇115:1

栄光在主、とあると手紙の書き出しか結語のようですが、今日の詩篇115篇の初めにもある信仰者の祈りです。国々は声を上げます。「彼らの神はいったいどこにいるのか」と。(2節)その姿も、その力も見られないではないかと。詠い手は答えます。「私たちの神は天におられその望むところをことごとく行われる。」(3節)姿は見えずとも、確かにおられ、全ての主権を握っておられる。むしろ彼ら国々の偶像は、目に見え触れられる銀や金細工の人の手によってこしらえた代物で、およそ生命の息吹を感じられない。役に立たず、全能なる私たちの神に比しては、全くの無能の長物である。そしてこれを造り又信頼する者もみな、これに同じで、いのちの営みの気配が一切見られない。偶像信仰者は、彼らの存在意義、生きがい自体が失われているのだ。この詩篇は最初、イスラエルの敵となる周辺諸国に囲まれ、都は陥落目前で、あなたがたの神はどこにいるのかと凄まれている場面に、【主】の信仰者を鼓舞する為に歌われたのではないかと言われています。「【主】に信頼せよ。主こそ助けまた盾。」と繰り返し、繰り返し、告げられています。神の民イスラエルよ、祭司として仕えるアロンの家よ、【主】の眼差しの下に日向の道を歩もうとする全て主を恐れる者たちよ。偶像とそれに信頼する者たちこそ、本当は無力な存在で、何の脅威でもないのだ、と。それとは真逆で、イスラエルの神、聖書の神なる【主】を信じる者には、神の似姿へと代えられる恵みがあるのです。罪によって毀損した‘神のかたち’が回復される。栄光へと進む。御助けと御守り伴う。【主】は御心である救いに、御自身に信頼を寄せる者を招き留め、祝福して下さるのだ。これも繰り返し、繰り返し、繰り返し告げられています。【主】なる神に栄光が帰されるように祈られた詩篇は、最後信仰者への祝祷と賛美へ招きで閉じられます。主をほめたたえよう。ハレルヤ!(訳すと、「あなたがたが主をほめたたえるように。」)ここに登場する天は神の領域、地は-もちろん地も神に造られ、神の御手の内にありますが-人が神にその支配・管理を委ねられた領域です。あなたがたの信じる神は何をされているのだ?争うばかりで、平和が全くやってこないではないか。-良い質問ですね、本当にその通りですと言いたくなる問いかけをいただくことがあります。かの古のイスラエルに敵が投げかけた言葉と同じ響きがありますが、私たちの中にもある疑問かもしれません。イエス様ならどうお答えになられるでしょうか?イエス様もこの地で同じ質問を投げかけられました。それも苦しみの十字架の上で。十字架から降りて自分を救ってみろ。キリスト(救い主)、ユダヤ人の王というなら、その力を救いを、今見せてみよ、証明せよ。そうしたら信じてやる。(マルコ15:25-32)イエス様は父なる神様を信頼し続け、十字架に踏み留まられました。十字架の後には、多くの人々の救いと祝福があると、神の恵みとまことを信じていたからです。(イザヤ53:10-12)詩篇115篇は「エジプトのハレル」(詩篇113-118篇)と呼ばれる、ユダヤ人が奴隷の立場からの解放と自由を得た出エジプトを記念し、神の大いなる救いの御業を想起する過越祭に歌われる伝統的な賛美の一篇です。イエス様は十字架前夜ゲッセマネの園に向かう道すがら、弟子と共にこの詩篇を歌われ、神に栄光を!と祈り、ハレルヤ!と賛美を促しておられたのです。(マルコ14:26)この十字架の御業において、神の御心が成り、私たちも今主イエスの救いに与っているのです。私たちの神は天におられ、その御心なる救いの御業はことごとく行われている。今、この時も。-今を生きる私たち信仰者、教会の答えもこの詩篇の詠み手と同じです。最も「神はいったいどこにいるのか」と問われた十字架ですら、神の御心の成就であり、救いの出来事そのものなのです。およそ神などいないではないかという所・時に、【主】なる神に信頼を寄せる。その主権と自由裁量を信じる。【主】の恵みとまことを信じて、みことばに従う。そこに神がおわす天がひらけ、この地に、私たちの生活に切れこんで来る。神の臨在と力が証され、神の救いが成るのを体験する。絶体絶命の折にも、出エジプトのように、水が分かれて道ができ、荒野の試練の先には約束の地が待っている。たとえこの世の命が尽きようとも、その信仰と賛美は御前に尊ばれ、死の向こうには、復活が待っている。主イエスの十字架と復活にこの真理を確かにできます。宗教改革者のカルヴァンは、「…人間の才能は、言うならば、永久的に偶像の製造工場である。」「人間は恐怖をつくりだす工場である。」(『キリスト教綱要I.11.8)と述べています。黙示録と開くと、破壊的なのは神ではなく、実に人であることが分かります。(黙示9:11,「これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物かたはなれるということをせず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くことも歩くこともできないものを、拝み続けた。また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。」20-21節)詩篇115篇における「偶像」(ヘブル語でアーツァーヴ)という語をみると、それに頼るならば、「痛み」や「悲しみ」が伴うという言葉遣いがされています。人は元来礼拝して生きる者として造られています。神を礼拝しないのならば、他の物を礼拝して生きているのです。礼拝とはそこに自分の価値を置いたり、見出したりすることです。コレがなければ生きられないというものが礼拝対象となるのです。それが神以外ならば、拝まれる者全て偶像なのです。偶像の背後にあるのは欲望なる自己愛か、神から人を引き離そうとする悪魔の力です。詩篇115篇は典礼歌として、礼拝の為に作られたようです。1節祭司の祈り、2-8節祭司による賛美(ここに恵みとまことが示される)、9-11節一同で信仰告白(交読文)、12-15節会衆の為の執り成しと祝祷、16-18節会衆による賛美(ここには信仰決心が含まれている)。人が人らしく生きる道は神礼拝にあります。神を神として信じる信仰にあります。礼拝で歌われ祈られる、救いと祝福を私たちに与えて下さる神様に、私たちは価値を置き、いのちを見出すのです。この信仰こそ、この世の破壊的な神(偶像)を信じ、自分が神のように、王のように振舞い、のさばり、ついには身を滅ぼす暮らしからの解放の道なのです。信仰が大切なのは、信じるところに拠り、人は生きるからです。自分を絶対化するところから、神・みことばに絶対的価値を置く。そうすると、偶像という恐怖や呪いを生み出す工場から、真の神を信じ、祝福を与える者へと変えられるのです。私たちの救い、願い、栄光・栄誉の為でなく、ただ神の栄光の為に、神の現す恵みとまことが証されますように。そう祈り信仰に踏み留まることが、また礼拝を捧げていくことが、神の栄光と祝福、人々の救いに繋がっていると信じて。今日もハレルヤ!

「【主】の右に座す」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.5.15

詩篇110篇

【主】は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」詩篇110:1

今日で沖縄返還から50年を迎えます。沖縄の人々が自ら治める国の回復が、また新しく始められる一歩となりました。私たちは第二次世界大戦等の過去の教訓から学んだはずなのに、21世紀になっても人は新しい戦いを日々仕掛け、まだまだ戦火が地球上から絶えません。ウクライナとロシア、引いては世界の緊張感は現実のものです。毎日の暮らしにも影響を与えています。どうして人は争うのでしょうか?国家レベルだけでなく、私たちは日常でも何らかの争いに直面します。一つの大きな理由は、私たちは自分で自分の思う通りに、周りを支配したいと考えるからです。自治権を獲得したいのです。今回のウクライナとロシアの争いは、SNS時代に勃発した新しい戦争でしょう。戦いの初期に空を押さえる制空権を以下に獲るかが話題になりましたが、今や人の脳を支配する制脳権が第6の認知空間(他は陸海空、宇宙、サイバー空間)として新たな領土のように言われています。自治権や認知空間を押さえる戦いは、人が欲望のままに欲する限り、どの時代のどこででも生まれてきます。神の民イスラエルにおいても例外ではありません。主イエス・キリストは復活した後、40日を地上で過ごされ、天に昇られました。弟子たちがその間特に願ったのは、イエスが王としてイスラエル王国を再建し、世界を席巻するかつてのダビデ王時代の栄華を取り戻すことでした。繁栄と権力、勝利と成功、敵国ローマからの解放と自治権の回復!これこそが弟子たちの憧れの国でした。最初はイエスの復活は、この思い描く黄金時代の復興の幕開けと考えた節がみてとれます。(使徒1:6)否実にかのダビデ王であっても、自治権を主張することはありませんでした。むしろ弟子たちに復活の主イエスが答えられたように、神の主権の許に定められた時があり(使徒1:7)、地上の王ではなく、神ご自身が王として揺るがない御国を築くのです。御国・神の国は、神の全き御心と恵みに基づいて治められる場です。聖書の神を、我が主我が神と信じる者は、もうこの御国を生きているのです。詩篇110篇は、ダビデ王による賛歌ですが、ここには自己実現による地上の王の自治権(自分が王となりたい、神となりたい、自分の王国を作りたいと発信する)とは異なる、神の御支配・主権が詠われています。弟子たちが憧れダビデ王ですら…主なる神に召されたダビデ王だからこそ、神の御心・みことばに基づき、救いと恵みを発信したのです。神の使命に生き、神が全ての全てとなり、造られた物全てが神の栄光を放つ世界に、ダビデは憧れていました。ここにこそ真の平和が実現するのです。そしてそれは、人の手によるものではなく、神ご自身によって成し遂げられるものです。それがこの詩篇で歌われています。この詩篇は王の即位式に歌われたとも言われます。一言目は、祭儀預言者の語りです。1節の【主】は真の王なる神、「私の主」はダビデはじめイスラエルの王です。二言目からの【主】の言葉における、「あなた」は即位する王、「わたし」は【主】なる神です。(2・4節も同じ。)「わたしの右の座」とは、憩いの場所、神の大能のかげであり、王としての名誉ある座です。「右の座に着」くことは、神の恵みを受ける姿勢をとり、神の豊かな養いに与ることです。「あなたの敵をあなたの足台とする」ことは、敵をあなたに支配させることで、すなわち勝利を収めることです。(古代オリエントの王宮の壁画には、支配した地の民や敗れた王を、兵や王が踏みつけている場面がたびたび登場します。)2節「力の杖」は王権を示唆し、「シオン」は神の都で玉座のあるエルサレムの別名です。【主】なる神は悪や不正、罪と神の民を惑わすあらゆる敵との戦いの全てにおいて、指揮をとられます。この神に仕え、使命を果たす王に、民は喜び進んで仕えるのです。(3節)また「朝露」のようにフレッシュで力に満ちるのです。一体こんな王が地にいるでしょうか?詩篇110篇はメシア詩篇と理解されています。イスラエルの王として登場する「主」は、新約聖書においてイエス・キリストを指していることが明かされていきます。(主イエスご自身による言及-マルコ12:35-37、使徒ペテロによる言及-使徒2:34-35)後半の4節からその様相がより見られます。「メルキゼデク」は古くは創世記(14:18)に登場する祭司で、サレムの王でもありました。祭司と言えば、モーセの兄のアロンの家系レビ族の出身者ですが、メルキゼデクは人の就ける祭司職以前に在り、その意味で天的な完璧な祭司を表す人物です。(ヘブル5:8-10、7:24-25)「主」は、王であると同時に、神と人を仲介し、御前でとりなす祭司であられます。「右におられる」(5節)とは、力ある援助者となることです。この「主」は「御怒りの日」、すなわち神が時定められた終末時に(黙示6:17)、罪に支配され神に敵対する者全てを打ち砕かれるという勝利と平和宣言が成されています。「主」は私たちの救いと平和の為に、戦いに自ら出向かれる戦人であり、平和の実現者です。だからといって決して戦場に留まり、戦さを生業とするお方ではありません。勝利を収めた王が帰途に休息する姿を最後にみるように、「主」は「その頭を高くあげられ」その都に凱旋されるのです。(7節)詩篇110篇は、【主】なる神、また「主」の主権を認めると共に、全ての立場のある者や使命かつ重荷を負う者にとって、なんと慰めの響きがあるでしょう。自分の力で何とかしなければ、治めなければと思うところに、時にあらぬ争いや暴力が生まれます。しかし、この詩篇は【主】なる神ご自身、我が主が、全ての事を成されるというのです。王として、祭司として、戦人として、御国を治め、神と人との仲介をし、罪と死と人を神から引き裂き平和から遠ざける全ての悪に対して挑まれ勝利をもたされ、戦さを終わらせて下さるのです。【主】なる神を信頼し、このみことばを我が心、生きる土台・規準としてきき従う者-つまり神の右に座す者には、この神の力と平安が常に、また日々新しく望むのです。マタイの福音書11章28~30節を覚えます。シャローム!

「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.5.8

詩篇103篇

わがたましいよ【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。1節

ゴールデンウィークは、いかがお過ごしでしょうかその間も絶え間なく、人が人として扱われることの大切さが、メディアでも叫ばれていました。選別収容所と呼ばれる、ロシア兵がウクライナ人を、親ロシア派か否かを選別する検問所が設けられていると報道されています。またイギリスが自国での難民の飽和状態を理由にこれから難民受け入れ大国ルワンダに難民を送ることを話しています。人が社会システム、国や会社などの組織の駒・道具兵器、臓器、企業の歯車、性的な憧れや欲望を満たす人形にしか見られず、使い捨てのモノ扱いされているこの世界で、私たちは暮らしています。人の言葉で、欲望で作られたこの世界です。そこに神はみことばを発し送り、人が人として扱われること、人本来の姿を、教えて下さいます。詩篇103篇は詩篇の中でも最も麗しい歌として名高いものです。その歌い出しは、「わがたましいよ」と自らへの呼びかけです。「【主】をほめたたえよ。」と続いて、【主】なる神を賛美することを自身に求めています。賛美し、主を崇めることは、換言すれば、神を神とすることです。それは「私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。」と、言い直されている次の言葉で分かります。礼拝で共に祈る『主の祈り』では、「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」マタイ6:9と祈り始めます。聖書における聖とは、分離する、区別するという意味があります。「御名が聖なるものとされますように」とは、名は体を表すと言われるように、天の父ご自身が類なきなきお方であり、唯一の絶対者、至高の神であるという信仰告白。私たちがそう信じて、その信仰の通りに生き、信仰告白した通りに神を証しできるようにとの祈りです。これは天の父なる神が、唯一無二の神として崇められること、もっとシンプルに言えば、神が神として崇められることです。人は信じたとおりに考え、また行動し、生きます。だから信仰は大事です。主イエスは『主の祈り』において、私たちの本来の生き方を教えて下さいました。神を神と崇めて生きること、それは自分を含めた人を人として扱うことに通じています。イエス様は律法の中で一番大切な戒めとして、神を愛し、隣人を自分自身のように愛せよ。ここに人としての全ての則があるマタイ22:3640、と仰られました。これはモーセの十戒の心とも同じです。出エジプト記20:117詩篇の冒頭に在るわが魂へ、我が内なるものへの賛美を促す呼びかけは、神を神として崇めることと同時に、人を人として扱うことにも通じてゆくのです。この世の求める、人が人として扱われる道は、実にこの聖書の神信仰から生まれるのです。先ず【主】なる神が、私たちを人としてお取り扱い下さった恵みまた救いが詠われます。私たちが忘れるべきでない、「主が良くしてくださったこと」とは、咎過ち・しくじりを赦し、病を癒し、いのちを穴から贖われる。恵みとあわれみの冠という栄誉と授け、一生を良いもので満ちたらせ、若さは鷲のように新しくなる詩篇10335ことです。「病」とは単なる心身の不調ではなく、人の存在自体の破れ目です。破れは、神に造られた私たちがその命の源である神から離れている状態です。その破れにより咎が生じます。【主】なる神は「病」を癒し、破れ目を直して下さるのです。これは人をあるべき姿に取り戻す、すなわち罪からの解放が詠われています。「穴」また「墓」は神から離れて生きる者が落ちてしまう、絶望的な状況です。ここから自力で抜け出せない者を【主】なる神はそこから救い出して下さる。そればかりか、冠王のしるしを与えるまでに引き上げて高め、神の恵みとあわれみによって生きることを証しさせて下さるのです。日々、活き活きと力を得て。イエス様の十字架の死で意気消沈した弟子たちは、不思議にも墓でどん底・絶望の場面で復活の主にお会いします。主イエスとの出会いに新しい人生が始まるのです。「【主】は憐れみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。」8節罪咎に報いて、扱われることがないと、今私たちは主イエス・キリストによって信じられます。東と西が決して交わらないほど遠くに在るように、罪と私たちもそのようにされる。ここには罪に苛まれず、神のかたちとして造られた真のいのちを生きて欲しいと願う【主】なる神の御心が示されています。冒頭の呼びかけは、「生きよ」と私自身に呼びかけることでもあります。なぜなら、神は人のいのちを尊び、いのちを与え、「生きよ」と命じ、そう願われるからです。この神を信じて生きるならば、この神の思い御心と御国を我が心・行いとする。神が「生きよ」と願われ求められるならば、私たちも「生きよ」と呼びかけ、また「生きる」のです。もちろん、私たちは命の儚さに直面することしばしばです。ただしその儚さに私たちは留まりません。私たちの儚さを越えて、むしろ永遠という希望、また永遠に立ち・変わらず・終わらない、神のみことばに私たちは拠り所を見出すのです。これこそ真の望みであり、救いなのです。そしてここに私たちのいのちの保証も共にあるのです。だからこそ、私たちはわが魂、内なるものに、賛美し、生きよと呼びかけるのです。そして我が内またこの地上にも留まらず、天にまで賛美を促し、日々を歌いつつ歩むのです。今、あなたの内にどんな賛美がありますか預言者が語った通りに生きるように、信仰者は賛美した通りに生きるのです。その賛美をこの口に与えて下さるのも、【主】なる神です。シャローム!

「戦いは終わった」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.4.17

ヨハネの福音書19:28~30,20:24~31 27・28節

「・・・信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」

「戦いは終わった。」今こそ私たちが聞きたい言葉ではないでしょうか。ロシアのウクライナ侵攻、コロナの第7波、日々の労苦、戦いを挑んでくる者との争い、私たちを疲れさせ、苦しませ、病ませるすべてのものに対して、「戦いは終わった」との良い知らせを待ち焦がれているのです。しかし只今私たちはこの「戦いは終わった」という福音を聞くのです。すべての戦さや争い、苦しみや悲しみの根源である罪との戦い終わったと、主イエス・キリストは十字架で宣言されました。「完了した」ヨハネ19:30と。そして、死からの復活がその戦いに勝利されたことを証ししたのです。イエス様が果たされた勝利の知らせは、私たちにいつ届くのでしょうか私たちの戦いが終わる時は、平和・平安の訪れは、その喜びは、どのようにやってくるのでしょうかそれは礼拝の招詞にある「【主】こそ神」詩篇100:3と知るときです。「【主】こそ神」と知る時、喜びの声が挙がるのです。聖書において「知る」ことは、体験すること、求めること、認めることでもあります。知ることは、人格的な交わりや繋がりといった関係性をも含んでいます。【主】は聖書の神の御名前ヤハウェです。「【主】こそ神」との宣言、この【主】聖書に現されたお方以外に神はいないという信仰告白です。私たち人間を造り、命を与え、養い育み、守り導く者は、【主】の他にはいないだと、「私たちは主のもの主の民その牧場の羊」と続けて告げられています。ただし、なんと【主】は私たちが知る前に、私たちをご存じです。聖書の神【主】は、ナザレのイエスにおいて、御自身を現されました。イエス様は「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。またわたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」ヨハネ10:1415と仰られます。まず先だって一方的にこれを恵みと言いますが、【主】なる神が私たちのことを知っていて下さるのです。主イエス・キリストは私たちを命をかけて愛し、ご自分の命を捨てるまでに私たちに仕えて下さいました。私たちはこの【主】なる神の愛を十字架で知るのです。主は人間を奴隷のごとく支配する罪との戦いに勝利し、贖いを成し遂げて下さったのです。死んだ者は罪から解放され、死はもうキリストを支配しません。「同じように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと認めなさい。」ローマ6:11私たちを苛む罪からくる欲望、恨み、妬み、怒り、苦しみ、悲しみ、敵意、汚れた思いと行いまたこの世の考えや力が私を支配するのではなく、我が内には我が主なるキリスト救い主がおられる。その主なるキリスト・イエス、その愛が、平和が、真理が、自由が、我が心を占めるのです。ここに勝利があります。また戦いが止むときは、私たちがイエス様を「私の主、私の神よ」と信じ、告白する時です。その時私たちは、主イエス・キリストの勝利を共にするものとなります。罪と戦いが終わるのです。信仰を確かに告白することは、私たちに平和・平安をもたらします。イエス様の十二弟子の一人のトマスが「戦いは終わった」という知らせを聞くのは、復活から8日後のことでした。主イエスの逮捕と十字架を過ぎた後でも、彼以外の弟子たちは、鍵のかかった部屋に集まって、イエス様だけでなく彼ら弟子たちをも陥れようというユダヤ人を恐れて、潜んでいました。そこに復活されたイエス様がやって来られ、「シャローム」と平安を祈り告げられました。手と脇腹の傷跡を見、弟子たちは真にこのお方が主イエスであると知り、喜ぶのです。一方その時一緒にいなかったトマスは、この甦りの主イエスが現れた出来事を彼らから聞くことになります。トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」ヨハネ20:26と言い放ちます。見るだけでなく、確かめて本当に主なのか知らなければ、信ぜぬと。疑い深く、不信仰のトマスと言われますが、彼だって信じたかったに違いないのです。でも信じられない悲しみの中にあった。再会の喜びを告げる弟子たちに、疎外感も覚えたでしょう。その8日後、未だ鍵がかけられている部屋に、主イエスは現れ、真ん中に立ち、「シャローム」と言われます。それからトマスに、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。27節トマスは自分が言い放った言葉に応えるように掛けられるイエス様の言葉に、自分自身もイエス様に知られていると分かるのです。彼は一人忘れられているのではなかったのです。イエス様はトマスの心をご存じで、彼にも心を配り、見つめておられたのです。トマスはイエスに答えます。「私の主、私の神よ。」ドイツの彫刻家エルンスト・バルラハは、このイエスとトマスを『再会』という作品で表しました。今にもくずおれそうになりイエスの肩に手を置くトマスを、イエス様はその信仰までも抱きかかえるようにガッチリと大きな手で彼を支えています。「私の主、私の神よ。」この神との一体感、主との一致が、私たちの平和・平安なのです。ギリシャ語で平和はエイレーネ。これは一致という意味もあります。ここに罪との戦いの終わりがあるのです。不信仰にも終止符が打たれたのです。「戦いは終わった」との良い知らせを聞きなさい。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と復活の主イエスは今日私にも語って下っています。あなたが「私の主、私の神よ」と告白する所に、全地が「【主】こそ神」と知る時に、全き平和が訪れるのだと。鍵のかけられた部屋に来られた主は告げられます。シャローム!

「【主】こそ王です。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.4.10

詩篇93篇

【主】こそ王です。威光をまとっておられます。【主】はまとっておられます。力を帯とされます。まことに世界は堅く据えられ揺らぎません。1節

詩篇93篇は、王の詩篇と呼ばれます。99篇まであるいは100篇がそのまとめ、この一連の王の詩篇は続きます。「【主】こそ王です」は、王として即位する、振舞う、また統治することを意味しています。この主であり王とは、イスラエルの神ヤハウェです。数多の神々偶像ですががある中で、イスラエルの神こそ真の王と詠われています。どうも最初の歌い手は、バビロン捕囚それは神の民イスラエルの背信に対する、神の裁きと神の民の悔い改め・回復のときであったの後に、エルサレムを中心としたイスラエルの地に帰還した神の民であったと考えられています。神の民が神とやり直し、国を再興しようとする際での礼拝、その祝いの席で交わされた信仰告白の賛美です。詩篇93篇の特徴は同じ詞がリズムよく繰り返されていることです。本当に詩篇は声に出して歌われていたということが味わえます。「まとっておられます」1節、威光みいつ、とも読むを、そして力を。世界や御座は堅く「立ち」また「据えられ」ています。12節「川はとどろかせています」3節、轟音を、激しい響きを。大水の轟きや力強い海の波に「まさって」【主】は力に満ちておられる。4節ここに【主】なる王が、如何なるお方で、その支配が如何ばかりかが告げられています。【主】なる王は、光と力をまとわれるお方であり、その王権は揺るがず永遠であまねく全地に渡る、と御代の長さと治める領土の広さが詠われています。川や大水、海の波は、底なしの深淵や滅びへと押し流す混沌カオスの激流を表します。人にとって川や水、海は恐ろしいものです。特に古代オリエント世界では、こういった水の塊は、隔てや道が絶たれる場。そして海は神から遠い場所を示し、悪魔の住処とも考えられました。黙示21:1「もはや海はない」は福音です。こういった人にとって脅威となるものにまさりまさって、主なる王は力強いお方なのです。海は世界の下の下に存在するものと考えられていたことを知ると、「いと高き所で」4節と詠われているのは、地の低い所と天の高き所の対比でしょうか。天から手を延べ、大水から引き上げられる御助けは他の詩篇でも歌われています18:16。「【主】こそ王です。」詩篇93:1という告白は、今この詩篇を信じ歌う私たちに何をもたらすのでしょうか誰が私たちの主であるかを告げるこの詩は、正に国歌のようです。王とその王が治める国の有様を、理想的にも国歌は歌いあげます。詩篇93篇では【主】なる王と神の国が賛美されています。国歌を斉唱する者たちはその国に属す者・国民であり、その王のもの所有また庇護の対象であるとされます。同じように、この王の詩篇の歌い手は【主】・イスラエルの神に属する者、神のもの、神の民であり、神の国を生きるのです。光にまとう王によって治められる国の民は、この光に照らされ、恵まれ、守られるのです。とこしえまでも「王」ヘブル語で「メレク」は、特に力の「所有者」であり、知的能力の保有者としての「カウンセラー」を意味するとされます。ここに思い出すはアドヴェントやクリスマスに聞く預言です。「その名は『不思議な助言者カウンセラー、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イザヤ96・7本日は棕櫚の主日。ルカの福音書における、イエス様のエルサレム入城シーンでは、群衆は「ホサナ主よ、お救い下さい」と叫ぶのではなく、クリスマスに天使の歌った天の調べをここに再び響かせています。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」ルカ19:38、2:14参照受難を前にクリスマスの賛美を歌いたくなる者がいるのだ実にそれは福音の本質なのだ。ダビデの町でお生まれになった救い主こそ主キリストであり、飼葉桶に寝かされている嬰児がそのしるしであった。ルカ2:1012今日の栄光の王のしるしは、ろばの子に乗られるということです。ゼカリヤ9:910ろばに乗られることで、この世とは全く異なる王権を主イエスは体現されました。栄光の王は、柔和な王です。戦士の様に馬にまたがるのではなく、愛と平和の象徴であるろばに乗られた高貴なお方です。「柔和な」とは「貧しく、哀れで、悩み多く、謙った様」ヘブル語で「アーニー」を言います。誠に謙って、天からのまばゆい光を伴って地に下られた神の御子は、十字架を担がれる王となられたのです。栄光の王としてエルサレムに入場された主イエス・キリストは、イスラエルに現わされた神の国の王に求められた王の役割を果たされました。同胞を見下して高ぶることをせず、質素な生活を送り、貧しい人や乏しい人の権利を庇護されました。神の思い御心を知り、成し遂げられました。王は神の僕であり、また救いの代理人でした。子の栄光の主は栄光を帯びた柔和な王であり、かつ苦難のしもべとなり、私たち人類の罪の苦しみを共に負われました。十字架で罪・咎罪の報い・代償究極的には滅びと呪いを一身に負われました。神なく生きる故の罪の闇を、呪いを断ち、罪の赦し、いのちの光、祝福をもたらす為に、私たちの【主】なる王は、十字架を担がれたのです。王として罪と戦い、その死をもって私たちの持つ邪悪さ、その罪の力に打ち勝たれたのです。この栄光の王は、私たちに光の道、救いの道を開かれたのです。この詩篇を神の国の国歌を歌う者が、決して罪の闇の中に留まらず、光に照らされて生きるようにと。十字架の受難と死により、クリスマスの預言が成就を見るのです。夜明け前の空が一番暗いように、一番暗い闇を経た後の揺るがない復活の輝きに、我らも【主】と共に与るのです。「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」イザヤ9:1・2シャローム!

「闇の前の闇」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.3.27

詩篇88篇

しかしわたしは【主】よあなたに叫び求めます。朝明けに私の祈りは御前にあります。詩篇88:13

先週の詩篇83篇は、神の民イスラエルが四方八方を敵に囲まれ、「お前はもう包囲されている」という声が聞こえてきそうな詩篇でした。今日は波のように、神の憤り・燃える怒り7・16節が波・大水のように7・17節詠い手を取り囲んでいるようです。ウクライナのゼレンスキー大統領の国会での演説に注目が集まっていましたが、まるで津波のごとくロシア軍がウクライナに押し寄せていると、その国の悲惨で危機的な状況を訴え、共に人道的な支援を持って戦い、復興を目指して手を携えてゆきたいと日本の人々にお願いしていました。御顔それは恐れ多くも人の光で、恵みで平安で、祝福と守りとなっているは、神ご自身は隠れられ、苦しみ恐れ、今にもくずおれそうになっています。15節よみ、穴、墓、最も深い穴、暗い所、深い淵に36節、墓の中、滅びの地、闇の中、忘却の地1012節まるで今この中にいるかのように祈っています。どれをとっても光が差してくる要素はありません。御顔の光が、神の臨在が、主の栄光が現れるような場所ではないのです。神の微笑も、私の笑顔もない所が、この詠い手の現在地でした。波のごとく繰り返しこの暗い情景が詞ことばとして出て来るのです。聖書は色恋に破れるよりも、一文無しになるよりも、友から見離されることをより悲劇的に、いや最も酷い苦しみや悲しみとして語っています。ダビデ王が信友ヨナタンとの惜別やヨブが友人たちに責められる場面は、かなりの分量でしっかり物語られています。友の愛の深さも語られます。ヨハネ15:13この詩篇においても、そうです。親友から遠ざけられ、閉じこもり、今や暗闇が私の親しい友となっていると。詩篇88:8・18これまた繰り返し叫ばれているのです。しかし詩篇88篇の標題をみると、「歌。コラ人の賛歌。」とあります。コラ人とはイスラエルの祭司の家系の一つで、神殿に門衛や聖歌隊として仕えていました。なんとこれも賛美・神への讃歌なのですただしその声色は明るく透明なソプラノではなく、重低音のつまり音としては聞こえず、振動で感じるような重々しいバスといったところでしょうか。目に見え、手に取れる祝福は、ソプラノで、しかし目に見えず実感できない隠れた神に対する信仰告白はバスで、人は歌うのです。北森嘉蔵『詩篇講和・下』教文館、2004、p1417,2021キリスト教会において、この詩篇がより多く朗読される日があります。それは受難日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える日です。主イエスが十字架に架けられた日、その時全地は闇に覆われます。そしてイエス様は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」マルコ15:3334と大声で叫ばれました。ただこの闇の前に闇がありました。エルサレムに鶏鳴教会と呼ばれる旧大祭司カヤパ邸跡に建てられた教会があります。オリーブ山で逮捕されたイエス様が冒涜罪で尋問を受けて拘束され、ペテロが鶏の鳴く前に三度主イエスを否んだとされる場所です。鶏鳴教会の地下には約3mの深い穴があり、十字架前夜イエスはこの牢に幽閉されたのではないかと言われています。観光スポットとしても知られていますが、その深い穴の底には書見台があり、誰でも朗読できるようにこの詩篇88篇が各国の言葉で記されたファイルが置かれています。十字架の暗闇それはい神の怒りとさばきのしるしの前に、主イエスは暗闇を味わっておられたのです。叫び、孤独、放置、断絶、苦しみ、死、恐れ、脱力人の絶望を引き起こすありとあらゆる闇が、津波のように襲い、もう息も絶え絶えである。人が人生で出くわすであろう、あるとあらゆる苦しみ、悲しみを主イエスはその身に覚えられたのです。神様はいつも私たちに先立って恵みを与えて下さっています。また私たちに先立って苦しみをも味わって下さっています。そして深い穴の中、友からの別離、死、墓の中、よみの先にある、奇しい御業である復活の救いへと導いて下さるのです。主イエスは、闇の前の闇を越えて、朝あしたの前の闇へと塗り替えて下さるのです。だからこそ、神とその救いを昼も夜も叫び求め、祈り続けることが出来る。朝明けに祈りが御前に届くからです。金曜日にゴッホ展に行ってきました。印象的だったのは、ゴッホと同じオランダ出身のヨハン・トルン・プリッケルという画家でありデザイナーの『花嫁』という作品です。後姿の花嫁のヘッドドレスと、正面に向きながらも十字架に架かり頭を垂れているキリストの茨の冠が一つに結びつき、輝いている絵全体は落ち着いたグリーン調だが、ヘッドドレスと冠は白で描かれている。キリストの花嫁教会また信仰者は、信仰告白という婚約でキリストと結ばれ、恵みと喜びと共に、辛苦をも共にする存在となりました。キリストの受難を『花嫁』として描いた面白くも、福音の真理が現わされた一作でした。最後に、イエス様は引き渡される夜に、最後の晩餐の後で祈っています。ヨハネの福音書17章では、一致について祈られています。父と御子が一つであるように、その弟子達、信仰者もそうであるようにと。主のおられる所に、私たちもおり、父なる神が御子を世界の始まる前から愛した愛ゆえに輝く主の栄光を私たちが見、その光に共に与るようにと。信仰の創始者であり、完成者である主イエス・キリストは、私たちの信仰の同伴者でもあります。それは苦しみ、孤独、暗闇の同伴者でもあるのです。ここにわたしはあなたを一人にしない、見捨てないというメッセージが、滅びの淵での真実、忘却の地での義神に良しとされることがあるのです。だから変な言い方かもしれませんが、安心して涙に暮れ、失望の日々を送ることが出来るのです。あなたの前の闇は、主に在って朝の前の闇なのですから。シャローム!

「神の沈黙と平和の祈り」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.3.20

詩篇83篇

神よ沈黙していないでください。黙っていないでください。神よ黙り続けないでください。詩篇83:1

教会の屋根の十字架のネオン管が昨年の秋頃破損しました。先月の教会総会を経、やっと修繕、LEDへの付替に向かっています。昨今リモコン一つで十字架が七色に変わる仕掛けもできるそう。今世界では緑色があちこちに用いられ、ウクライナ支援とロシアによる侵略停止と軍の撤退を求めるイメージカラーとなっています。ウクライナの国旗の色である黄と青を混ぜた緑。大統領の名字ゼレンスキーが緑の家という意味からか。私たちも日本や世界の教会の繋がりの中で、祈祷課題が分かち合われ、平和の祈りを捧げています。今日の詩篇は神の民イスラエルの平和を求める祈りです。牧師であり神学者である、北森嘉蔵は『詩篇講話上』の詩篇の特色として、聖書を読んだからといって即効力が与えられるとは思っていなかった。しかし詩篇を読んで驚いたのは、自分が一人苦しんでいたのではなく、先だって苦しんだ人間がいてくれたという実感と語っています。だからまず詩篇を読みなさいと勧めるのだと。「詩篇は、キリスト教信仰があるとかないとか、また信仰に入るか入らないか、とはそう関わらないのです。人間として生きることと直結しているのです。」いのちのことば社、2004、p14今日の詩篇もまた私たちの祈りに通じるものがあるに違いないのです。詩篇83篇では周辺の諸民族が神の民を取り囲み、一つの軍事同盟をなし、イスラエルの侵略と滅亡を企てている緊迫した様子が詠われています。24節南にエドム、イシュマエル、ミディアン、アマレク。東にモアブ、ハガル、ゲバル、アンモン。西にはツロやペリシテ、北にはアッシリア。ロトの子とは、モアブやアンモンを指します。58節中には遊牧民族として生活の場を広く取る民もありますが、現代のイスラエルを取り巻く中東世界の構図に似通っています。ヨルダン、UAE、エジプト、イラク、パレスチナ、シリア、イラン、レバノンといった国々の名が浮かびます。聖書に記される神の民イスラエルは、四面楚歌の危機に直面し、神に向かって祈るのです。まずはすでに起こった敵からの救いの御業を覚え、再び神の守りと敵の滅びを願っています。910節シセラはカナンの将軍、ヤビンはその王。オレブトゼエブはミディアンの首長で、ゼバフとツァルムナはその王たちです。昔々、士師と呼ばれるさばきつかさが治める世に、預言者デボラとバラクが現れ、彼らの指揮でイスラエル北西にあるキション川の流れるイズレエル平原にて20年苦しめられていたカナン軍の鉄の戦車900台を破った物語。勇士ギデオンとわずか300人の兵によって、ミディアン人に一泡吹かせ、屈服を余儀なくした物語。いずれもその後40年の平和がイスラエルに戻って来ました。ゼレンスキー大統領は先週、米国やドイツの連邦議会でスクリーンに登場し、オンラインで演説を行いました。とても言葉巧みなスピーチで、アメリカには真珠湾攻撃パールハーバーや9.11ナインワンワン、米国同時多発テロを思い出して欲しいと述べ、公民権運動を指揮したキング牧師のごとく「私には夢がある」と語り、飛行禁止区域の設置への協力を強く求めました。ドイツには、ベルリンの壁を壊せと当時の米国レーガン大統領がソ連ゴルバチョフ書記長に訴えたように、今立ち上がった自由と不自由の壁を撤廃するように促していました。最後にウクライナに栄光をと締めました。今週は日本の国会での演説が予定されており、関心が寄せられています。さて詩篇で歌い祈り、神の民イスラエルは主なる神に、イスラエルに勝利と栄光を見せて下さい。そうすれば、御名が全世界で崇められ、平和が訪れるでしょうと。1318節この信仰者の祈りに神はどのように応えられるのでしょうか神様からの応答は、開口一番に詠われています。それは沈黙でした。この沈黙は信仰者やお造りになった世界への無関心を意味するのではありません。神は私たちの如何なる祈りの言葉にも、耳を傾けていて下さるお方です。神が沈黙する時、すなわち私たちが御言葉を聞けない時には、私たちの方が自分の訴えを止め、沈黙する時かもしれません。そして、自分の考えや思いに支配されるのではなく、まず神の御心を求め、御言葉に耳を傾けるのです。こう聞くと、祈るのが途端に恐ろしくなるかもしれません。果たして私たちが祈るのは、本当に平和の祈りなのか無意味な独り言や戯言にも思えるかもしれません。どう祈ればよいのか、次に口を開けなくなる。けれどもそこに神はこう祈りなさいと祈りの言葉を、聖書を通して、神ご自身が教えて下さるのです。「主の祈り」は主の栄光と真の平和への祈りです。そこから私たちは再び祈り始めることが叶うのです。「主の祈り」を教えられたキリスト・イエスは、軍馬ではなく雌ロバに乗って神の都エルサレムに真の平和の王として入城されました。人を傷つけ、世界を壊す剣を収めることを教えられたこのキリストこそ私たちの主、私たちの平和です。「剣をもとに収めなさい。剣をとる者はみな剣で滅びます。」マタイ26:52改めてイスラエルと神との関係に着目して詩篇をきくと、信仰者は主なる神にとって「あなたの民」であり、「あなたにかくまわれている者たち」3節なのです。他方敵側からも神の民の置かれた場所は「神の牧場」12節なのです。四方八方苦しめらえる危機の中にあっても尚、神に導かれ、養われ、豊かに暮らし、祝福に与る民なのです。シャローム!

「しかし 神の近くこそが良いのです」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.3.6

詩篇73篇

しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。詩篇73:28「まことに神はいつくしみ深い。イスラエルに心の清らかな人たちに。」(1 節)

神は良いお方である。Godisgood「けれどもこの私は足がつまずきそうで私の歩みは滑りかけた。」2節「私の足はほとんど滑っており、私の足場もほとんどなくなってしまった。NEB訳」とも言える状況に、詠い手は陥ってしまっています。なぜでしょうかそれは悪しき者が栄えるのを見たからです。そして、妬みが起こったからです。3節何の苦労もなく、高慢と暴虐を振りかざし、我がままに振舞う者。嘲りと悪意に満ち、高飛車に物を言い、人々からは搾取する。神をも恐れず、我こそが賢いと宣う者たちがやたら健康で、幸せそうで、富を増し、人生潤っている。けれど、神を信じる私の心の内には、それを羨み、その安らかな様が魅力的に感じる思いが沸き起こってくる。信仰者としての自分の姿をみれば、その熱心さが空しく思え、信仰が無駄にも、無力にも感じる。こんな考えを吐露しては、きっと他の信徒のつまずきとなるだろう。必死で口をつむぎ、神を信じて何になるのだ、神なしに生きる者がより幸せを味わっているではないかというやるせなさと不信仰を、腹の内へと飲み込む。そんな自己憐憫からの自暴自棄。もうそんな世の中の不条理を考え、理解しようとするのも苦しい。全てをかなぐり捨てたくなってくる。詠い手の心情がありありとみえてきます。この詩篇の標題には「アサフの賛歌。」とあります。アサフはダビデが編成した神に仕える聖歌隊の一員で、また預言者でもありました。I歴代25:1この信仰者、奉仕者聖職者であるアサフにもこんな信仰の葛藤があったことに驚かされますが、否しかし信仰者であり、神に仕える者だったからこそ一層苦しんだのかもしれません。アサフに湧いてきた揺らぎや葛藤また誘惑は、私たち信仰者の陥るスランプを代弁してくれているのではとも考えられるのです。神学者であり牧師であった北森嘉蔵は『詩篇講和』教文館、2004において、「詩篇を読んで驚いたのは、わたしに先立って苦しんだ人間がいてくれたという実感です」と述べています。詩篇73篇は、旧約の放蕩息子ルカ15:1132とも言われるそうです。放蕩息子父なる神の御許に、子として慈しまれ育まれながらも、神から遠くへ離れていき、この世の楽しみに心惹かれてゆく。しかしそんな考えと人生に行き詰まり、虚しさを覚えた時、その息子は我に返り、父なる神の許に帰ることを決心します。家に近づくと既に父は彼を見つけ、走り寄って、帰還を喜び、変わらず息子として迎えてくれる。そんな物語です。今日の詠い手アサフの転換点は、「神の聖所に入っ」たことです17節。聖所は礼拝の場です。神またみことばに出会う所です。その神の臨在の御前で、教会の礼拝で、みことばに触れる時、私たちは神ご自身のお姿とそれに似せて創造された私たちの本来の姿を回復します。創世1:27妬みや不満は人に分別を失わせ、愚かにします。神はその妬みから私たちを解放し、御救いと御計画を告げ知らせて下さいます。神の真実とこの世の真理が説き明かされ、神と私たち神に造られた者の本当の姿を見るのです。そこで信仰者は告白します。私の心に苦みに占められ、妬みに駆られて愚かで考えなく獣の様な時も、絶えず神が私の歩みに伴っていて下さったと。「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。あなたは私を諭して導き後には栄光のうちに受け入れてくださいます。」2324節こうも簡単に解決があるでしょうか厳しい現実の中、この詩篇は現実から目をそらせて、そう神の救いの夢物語を歌い、浸っているだけでしょうか今月のクリスチャン新聞福音版通巻546号【2】では、元ワーナーブラザーズに勤めておられた信仰者、小川政弘氏によって『ライフ・イズ・ビューティフル』という映画が紹介されています。幸せに暮らしていたユダヤ系イタリア人の夫妻と息子が戦時下ナチスに捕まり、強制収容所に入れられてしまいます。そこで父は息子にこれはゲームだと、ユーモアたっぷりにしかし真剣に伝えます。良い子にして、沢山ポイントが貯まれば、ごほうびで彼の憧れであった戦車に乗せてもらえると。ラストでこの子の夢は叶います。父が身を挺して彼を守ったからです。これを見てこの父親が子どもを騙し、世の惨状をごまかそうとしたと考えるでしょうかいいえ、父はその子に本来の世界や人生の素晴らしさユーモアと喜びがあり、実に人生は美しいと知ってもらいたかったのです。その父の想いはこの伝わります。青年になったその子は映画の最後に「父が命をささげて贈り物をしてくれた」と語るのです。礼拝、みことばは、私たちにまやかしを教え、盲目にするのではありません。むしろ、真理、本質、本物の幸い神の祝福を教えるのです。神は苦しむ信仰者から妬みと言う罪の覆いを取り除き、足を滑らし神から遠ざかるという危うさから助け出し、再び確かな土台・信仰に立たせて下さるのです。神が良いお方であって、神の近くこそが良い28節と知って欲しいのです。「心の清らかな者」1節とは、神に全く身を委ねている人の事です。神を信じ、その身を委ねる者は、神ご自身とその御手の業を見るのです。マタイ5:8神は自分が哀れだと自己憐憫に陥り、自暴自棄に、信仰も希望も愛もなく生きるのを望んでおられません。実にあの映画で描かれた父親の様にどんな悲惨な世界・生活の中にあっても、愛するイスラエル・神の民、わが子には、よい神が伴う人生は素晴らしいと知って、いのちを喜んで生きて欲しいと願っておられるのです。その為に神は、全てを、いのちをかけて、私たちを罪から救い出して下さったのです。受難節に。シャローム!

「祝福を!~祝福の循環」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.2.27

詩篇67篇 詩篇67:6・7

大地はその実りを生み出しました。神が私たちの神が私たちを祝福してくださいますように。神が私たちを祝福してくださり地の果てのすべての者が神を恐れますように。

祝福で始まり、祝福で終わる。祝福で彩られた詩篇です。最後の2節6・7節は、ルターの考える祝祷としても知られています。福音・喜びの知らせが、「エルサレム、ユダヤ、とサマリアの全土、さらに地の果てまで」届く使徒18ように、信仰の父アブラハムに約束された神の祝福創世12:13が、もっとさかのぼると天地創造のとき人間に与えられた祝福創世1:28が、地の果てまで満ちる様が祈られています。またこの詩篇は収穫の歌でもあります。「【主】が良いものを下さるので私たちの大地は産物を産み出します。」詩篇85:12とも詠われているように、大地が実りをもたらすのは、主なる神様のお働きがあってこそ神は良いものを下さる良いお方です。更に私たちの生涯を、そしてこの世界を良いもので満たし、祝福したいと常に願い、その御心通りに事を成して下さるお方です。その神をほめたたえ、祝福を祈っているのが今日の歌です。「祝福し」1節は、原語のヘブル語では「バーラフ」という言葉です。行為を受ける相手が、人ならば「祝福する」。神ならば「賛美する、ほめたたえる」という意味になります。神が私たち人間を祝福されると、私たちは神をほめたたえ、賛美する。祝福が天から地へ、地から天へと行き来するのです。祝福は私たちから「諸国の民」、「国々の民」に及びます。「すべての国々の間」で、神の祝福は「御救い」として知られてゆくのです。神の御顔の光が地を照らし、やがて救われた神の民によって、神の栄光として主に帰されるのです。これが祝福の循環です。神の祝福は私たちに喜びを与えます。主の喜びは私たちの生活に何をもたらすのでしょうか『主の喜びが心にあれば』ミクタムジョイフルシンガーズという賛美が心に浮かびます。「主の喜びが心にあれば主の喜びが心にあれば悲しみは笑いに苦しみは喜びに嘆きは踊りにすぐに変わる」小学生の時、教会学校で覚えた賛美です。どこで神の祝福をいただけるかというと、それは礼拝です。神様の都の交わりの中に与えられます。礼拝に集い、みことばをきく時、ただのいい話で終わるのではなく、主の喜びが、喜びの歌が生まれるように悔い改めの後に訪れるかもしれませんと、お祈りしています。ある人は古代教会のテルトゥリアヌスの『殉教者らの血は教会の種子である』と名言にヒントを得、「『神の教会は諸国の祝福の種子である』と言っているのがこの詩篇である。」富井悠夫『新聖書講解シリーズ旧約11詩篇172篇)』いのちのことば社、p426と言います。私たちは神の祝福を伝える媒体となることが出来ます。神の祝福の器となり、祝福を持ち運び、芽吹き、花咲かせることが出来る。まずもって、私たち自身が神の祝福に与る初穂として、各家庭に、地域に、職場や学校、あらゆる場に遣わされているのです。ここに神の救いという祝福が、私たち個人的なものに留まらず、全世界の救いと祝福に繋がっていることが分かってきます。せっかく与えられた神からの祝福を腐らせてしまってはもったいない。種が芽吹く為には、光が必要です。祝福の器としてこの世界での務めを果たす為に、私たちには常に神の眼差し、御顔の光が伴うのです。イスラエルには2つの湖があります。一つはガリラヤ湖、もう一つは死海です。ガリラヤ湖は生態系が豊かです。一方死海は生物が棲めません。ガリラヤ湖はヘルモン山の雪融け水が流れ込み、その水はヨルダン川へと流れ出ていきます。死海はヨルダン川の水が流れ込みますが、出て行く出口がありません。神様からの祝福を活ける水に、湖を私たち人間にたとえるならば、入り口があっても、出口がなければ、祝福は滞り、他のいのちを生むことは叶わなくなってしまいます。それは非常に残念です。祝福は主の御言葉に聞き従う者に約束されています。神の祝福は、農作物の豊作、平和な生活、契約の確立、救い主なる神と歩む自由で幸いな生涯といった良いものをもたらします。他方、祝福の反対に神を認めず背いて生きる生活は呪いとなります。その実は、肉体的・精神的病い、飢饉、野の獣の繁殖による人口激減、戦争と極度の食糧不足、国土の荒廃です。この世界や私たちの人生に及ぶ痛みや苦しみ、欠損があり、私たち教会や信仰者もこの傷んだ世に生きる故に苦しむことがあります。レビ26章それでも、いやそれだからこそ、私たちは救いの初穂、祝福の種子として祈り続けます。教会で祈られてきた祈りに、モーセの兄で祭司であるアロンの祝祷あります。民数62427その最後27節には、神の救いの御業平和を築く働きへ招く呼びかけがなされています。イスラエルの担った救いの使命は、今やキリストによって、主を信じる神の民・神の子どもにも開かれ、教会は主の祝福に基づく平和を築く者となりました。マタイ59今ウクライナの平和の為に祈り始めたでしょうかユダヤ教の祈祷書には、この詩篇は安息日が終わる時に歌うものとして載っているそうです。礼拝で味わった主の憩いと安き、また慰めと活力すべての祝福が、私たちの内だけでなく、世界の人々、国々の間にありますように。これが私たち教会の今日の夕べの祈りです。シャローム!

「地の果てでの誓い」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.2.20

詩篇61篇

私の心が衰え果てるとき私は地の果てからあなたを呼び求めます。どうか及びがたいほど高い岩の上に私を導いてください。詩篇61:2

詩篇の詠み手ダビデ王は、「地の果てから」61:2神様を呼び求めています。この時彼は玉座のあったエルサレムから遠く、ヨルダン川を越えたマナハイムという町にいたのかもしれません。愛息アブサロムが謀反を働き、実の父ダビデから王位を奪おうとした事件が起こります。ダビデはオリーブ山の坂を泣きながら、頭を覆い、裸足で登り、ヨルダン川の川向う、かつての荒野へと都落ちしたのです。IIサムエル15:30「私の心が衰え果てるとき」2節と詠っています。「心が挫けるとき」新共同訳、「心のくずおれるとき」口語訳とも。地理的に首都から離れなければならなかった以上に、幕屋のあった神の都エルサレムと神の用意された祝福から遠ざかっていると思える現状に、ダビデは「地の果て」換言するならば、どん底を覚えていたのでしょう。このどん底の「地の果て」で、彼は祈ります。「どうか及びかたいほど高い岩の上に私を導いてください。」2節なんと自分よりも若く力があり、民心を掌握していた今をときめくアブサロムが政権をとった、ありえない復権の状況の中、王座から陥落したダビデです。権力、住まい、これまで築いてきた財産全てを奪われ、しかもこの玉座はダビデに永遠に与えられると言われたIIサムエル7:16のにもかかわらず陥落してしまった。神の祝福から遠のいていると思われるようなこの折に「及びがたい程ほど高い岩の上」といった、神から与えられた確かな王座・権力と親しい神との交わりの場エルサレムに戻ることを神の御前に訴え出たのです。「あなたは私の避け所敵に対して強いやぐら」3節とダビデは信仰告白します。そして誓いを立てるのです。「私はあなたの幕屋にいつまでも住み御翼の陰に身を避けます。」4節幕屋は荒野から神殿が建てられる前までに用いられた、神の臨在の場であり、主との会見また礼拝の場でした。幕屋は友人の中にいることの安全性を示しています。神が幕屋に集う者の友となり、絶対的な味方となっていて下さる。神がもてなし、仕えて下さるまた信仰共同体、神の民・兄弟姉妹の交わりの中に憩い、慰め、励まされることによるからでしょうか。御翼の陰は、親鳥が雛を守るように、神が神の民イスラエルに用意された場所です。聖書には神の確かな庇護と御心を表す常套句としてしばしば登場します。ルツ2:マタイ23:37ダビデは幕屋に住み、御翼の陰に身を避けることを「地の果て」で誓います。神とその信仰共同体との交わりに生き、世の何物にも代えられない、比類なき主なる神の守りの許にその身を置くことでした。確かな守りは、みことばに聴き従い、神の約束を信じて生きることに尽きます。伝道者12:13・14信仰告白と誓いに用いられた物事が徐々に神の守りの確かさを強める表現になっています。興味深いのは、私たちの住む世界、目に見える社会また考えとは、真逆の順になっていることです。「避け所」ダビデはサウル王に追われる際に洞窟に身を隠しました、「やぐら」町の城門に木などを組んで高く建てられた台、守備・見張りと攻撃に用いられた、「幕屋」移動できるよう折り畳み式の住まい、テントちょっとやぐい面もある、「御翼の陰に」鳥の羽の中、雛が外敵から守られ育つ。神の眼また神の国はこの世とは異なった見方を私たちに提供します。一体私たち人間は何に頼みを置いて生きているのかを、御前に探られる思いです。詩篇61篇の祈りと2つの誓いに、神の備えられた約束の祝福を諦めないダビデの決心が見て取れます。これこそ神への信仰・信頼の現れです。冬季北京五輪は諦めないことを学べました。モーグルの堀島行真選手は予選16位からの銅メダル。カーリングの吉田知那美選手の座右の銘は「笑顔は諦めないという覚悟である」だそう。フィギアスケートでフリーでボロボロだったワリエワ選手を迎えたコーチのエテリ氏からの第一声は「なぜあなたは諦めたのか」でした。さて都落ちしたダビデ王はその後どうなったでしょうかアブサロムはマナハイムに逃亡した父ダビデを追って進軍します。ダビデの従者たちヨアブ、アビシャイ、イタイ将軍率いる兵たちは出陣し、エフライムの森でアブサロムを迎え撃ちます。アブサロムはらばに乗っていましたが、その頭を樫の木に引っ掛け宙吊りになっている所を、ダビデ軍の将ヨアブらに槍で心臓を突かれて絶命します。ダビデはエルサレムの王座に返り咲くことができたのです。ダビデは賛美し、誓いを加えます。永久に主を賛美し、日々誓いを果たしますと詩篇61:8主は良いお方一番シンプルかつ絶大な賛美と信じ、常に信頼し、お任せして生きる決心を新たにするのです。ダビデは誠にこの3つの誓いに生涯生きました。幕屋に住み、御翼の陰に身を避け、日ごとに主を賛美して生きる。「地の果て」での誓いは、神の用意されていた祝福の道を生きる糧となりました。どん底での祈りや誓いを、神は忘れておられません。ダビデ王の生涯に主なる神様はことごとく実現して下さいました。神は人生のどん底にある信仰者を見捨てられません。むしろ雛を何としてでも守る親鳥の様に御翼を伸べ、尚もいのちを与え、生涯を守り導こうとされるのです。愛息の死を伝令の言葉から悟ったダビデは、「わが子アブサロム、わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」IIサムエル18:33とまで泣き崩れます。このエピソードはダビデ物語において心を打つ場面です。王は神の代理人として、王の御心を表します。ダビデのアブサロムへの嘆きは、神様の神の子どもへの愛を語ります。神に反逆し滅びに向かう人々の為に、都落ちした王が後に聖書に登場します。呪いの木を背負ってエルサレムの都の郊外に追いやられた主イエス・キリストです。この十字架こそ神の愛の証です。神のいのちを大切にされ、決して諦めない愛は、私たちの救いです。また私たちに人生を諦めないで生き抜く力を、誓いを与えるのです。受難節はもうすぐです。シャローム!

「わたしの涙をあなたの 皮袋に蓄えて」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.2.6

ヨシュア記13章1節

ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。【主】は彼に告げられた。「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。

2月6日は元祖いちご大福が初めて販売された日だそうです。諸説あります。生みの親は東京新宿区にある大角玉屋の三代目大角和平さん。昭和60年のある日、新聞で「洋菓子・ケーキの時代がそろそろ終わり何かのきっかけがあれば和菓子の時代が来るだろう」電通の今年の流行コラム欄という一文が目に入った。店の立て直しの為に試行錯誤。結果「いちご豆大福」が生まれたと。古知野教会が宣教師から日本人牧師にバトンタッチした時代と重なってくるでしょうか。新しい時代の幕開け今日の聖書でヨシュアが主なる神から聞いた御言葉もそんな響きがあります。神の民イスラエルは、モーセに率いられて出エジプトの奴隷生活からの解放という救いを経験します。荒野での40年を経て、遂にヨルダン川を渡ります。約束通り神が彼らの父祖アブラハム・イサク・ヤコブに与えようと誓われた地を獲得していきます。出エジプト6:19モーセ亡き後、リーダーとして立てられたヨシュアは「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を受け継がせねばならないからだ。」(ヨシュア1:5・6との御言葉に、神の臨在の保障と使命を得て、約束の地を進んだのです。そして彼はその地をことごとく奪い取り、その地に戦争は止んだと聖書は記しています。11:23次に与えられたのがイスラエルの部族への土地の分配でした。戦争が止んだにも拘らず、今日の御言葉にある「取るべき所なお多し」とは矛盾に思えます。未だ占領すべき地が多くあったとしても、既に神の約束の地として与えられているという、預言とその成就を成し遂げる神をヨシュアや聖書の民は信じていました。今私たち教会が、主イエスのもたらされた神の国既に到来したが、未だ完成に至らずを生きていると同じです。ただ神の国は神の主権によってもたらされると信じます。ヨシュアたちはこれが「主の戦い」であると知っていました。だからこそ彼は最期「あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。あなたがたの神、【主】があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。」23:14と大胆にも語ったのです。冒頭の呼びかけは、年を重ねたヨシュア少なくとも90歳は超えていたは、何と容赦ない言葉でしょうか。その後のリストには今後ダビデ王に至るまでイスラエルを苦しめた列強たちの民族名が鉄を持つペリシテ人を筆頭に連なっています。海洋貿易で栄え、木材資源も豊富なシドン人、けれどもこれもまた主が追い払って下さるというのです。神の言葉の権威に信頼する。私たちの当惑を置いて「しかしお言葉ですから」と御言葉に従う時、神のご計画が見え、その秩序と恵みのご支配を味わう。御国がこの地に、この生活の中に訪れるのです。なぜ約束の地をイスラエルに与えられたのかは、神の御計画としか言えません。ただそこで神は民が皆平和に生き、まともな生活をすることが願われています。土地を所有することは、奴隷と対比された自由の民として生きるしるしでした。カナン約束の地を獲得する戦いは、偶像すなわち自分の欲や恐れの奴隷からの解放をも意味しました。故に民を惑わし、神に背き、結果いのちを失うという罪をもたらす偶像に仕える民を聖絶せよと命じられています。申命20:1618これは神の真理・信じるによって、神のかたちに造られた人間が、本来の人間らしく生きる為でした。あらゆる恐れやしがらみから解き放たれ、神と人との平和を喜んで生きるという自由を得させる為でした。永遠普遍の神の御心をこの世界で実際に示すには、ある時代のある人物を通して成される必要がありました。神の真理により自由にされる福音を告げる器として、イスラエルが神によって選ばれていました。もう充分やって来たというヨシュアは今度約束の地の征服から分配という役割が与えられました。戦後の宣教師によって開拓されたキリスト教会は日本社会で文化的インフルエンサー影響のある発信者でもあったでしょう。ただ今も、福音のインフルエンサーとして私たち教会はこの地に立っています御国をこの地に尚もたらす為に。「ワッフルにバザー、英会話クラスや賛美バンド、大スクリーンでの映画の上映…戦後のキリスト教会は日本社会において、インフルエンサーでした。教育、医療、福祉の理念と施設建設にも多大な貢献を残しています。さて今はどうでしょうか?オンライン化の波に向かって一生懸命手で漕いでいる、つまり時代の流行や変化に追いつき、取り入れるのに必死な姿が見えるでしょうか。福祉の面でも、地域包括センターや病院、近所の老人福祉センターや入居施設とのコンタクトや手助けが鍵となることも多々生じています。地域社会への発信者であった教会は、地域と共に歩み助け合う存在として、地域にこれからも根差す者でありたいと願います。しかしやはり主イエス・キリストの福音を宣言して生きる意味でのインフルエンサーとしての使命は変わりません!どなたでもお越し下さいとうたいながら、建物の造りや集会形式においても健康な方しか集えない現状にはテコ入れが必要です。(できれば早急に⁈)新会堂について捧げられた長年の祈りや献金を覚えつつ、皆でアイデアを出し合ったりたり他の教会に見学に行ったり…神の国を真摯におもい楽しく続けてこれからの教会を共に祈り考えられると幸いです。」月報『シャローム』2021年11月号よりコロナからの出口戦略は、これまで宣教がなされてきたように再びコツコツ開拓伝道してゆくことでしょう。再出発これは単なる出発よりも負うところが大きく、骨が折れることかもしれません。しかし、恐れることはありません。宣教の主が私たちと共にいつもいて下さるからです。「目を上げて畑をみなさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちの至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(ヨハネの福音書4:3536これまで沢山の種が江南の地にも蒔かれてきました。またもう私達刈る者には神が救いの恵みと祝福を保証して下さっています。「『取るべき所なお多し』と言われても、このコロナ禍、自分の生活だけでもやることは沢山ある、と思われるかもしれません。確かに、それぞれの人生やこの世界には様々な課題に満ちています。だからこそ「約束の地」を取る為に、主が部族ごとに領土を振り分けたように、賢くどこを治めるのかを祈り知る必要があります。けれども一方で、入植し開拓して行く際は、神の民が一丸となって出陣し、勝利と領土を得ていったのです。現代のキリスト教会の、御国をこの地に広げてゆく宣教も同じでしょう。主イエス・キリストはその宣教の初めに「…しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネの福音書4章35節)と仰られました。これまでの宣教において蒔かれた種があります。刈り取る者は別かもしれませんが、蒔く者と刈る者がともに神の救い、永遠のいのちを喜ぶ為に、私たちは今ここに遣わされているのです。コロナ禍で弱った社会や人々に漬け込むのではなく、真のいのちの糧を提供し、永遠の神の国に招き入れる働きを、私たち教会は尚与えられているのです。」2022年教会総会資料「総括報告」より現代における「主の戦い」とは何でしょうか神との平和が未だ築かれていないこの世に、神の国と御言葉を提示することだと言えます。それは破壊された神の秩序と神との関係を回復し、維持し、生み出す働きではないでしょうか。その機会を作ろうと今年も行事計画を立てましたが、オミクロン株による感染の大流行で出鼻をくじかれた気分です。こんな時こそ逆に、神に委ねる心もより育ちます。ヨシュアたちが新しい地で直面したことは、神への信頼がより求められる生活でした。今まで荒野で毎日食べ物となるマナが与えられていた暮らしから一変自分たちで種を蒔き、育て、地の産物を収穫する生活となりました。農業はギャンブルとも言われます。天候次第で生きるか死ぬかの世界です。何が起こるか分からない。ただ神に信頼し出来ることを計画し、時に適って成してゆく。「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。」ヤコブ4:15宗教改革者のマルチン・ルターは、「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える」と言ったそうです。私たち教会は今次の世代にどんな言葉を残すでしょうか?本日の午後は教会総会です。未だ去らぬコロナ禍においてもコツコツ取るべき所取り、信仰を働かせて治め、神の平和をこの地に築いてゆく。既に得ている、御言葉の約束と成就を覚えて。それが尚も変わらず私たち教会の姿です。「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、【主】があなたとともにおられるのだから。」ヨシュア1:9とヨシュアに呼びかけられた神は、今も活ける私たち教会の主です。さぁいちご大福の次には何が来るでしょうか主に期待して。主と共に。シャローム!

「わたしの涙をあなたの 皮袋に蓄えて」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.1.30

詩篇56篇 詩篇56:8

あなたはわたしのさすらいを記しておられます。どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください。それともあなたの書に記されていないのですか。

涙に暮れる日々があるけれど、どこにも蓄えられず、誰にも受け止めてもらえない。全く非生的、無意味、不毛に思われる。涙を流しながら、悲しみや苦しみの淵に追いやられる思いになることもあるでしょう。誰にも理解されず、覚えられず、助けとなるものはいないのだと悲嘆にくれる。人は何か人生の不条理や厳しい状況に直面すると、神などいないと呟くこともある。けれどもこの詩篇の詠い手の信じる神は、流れ落つる涙を、皮袋に蓄えて下さると言うのです。涙は主の皮袋にコロナ禍において、どれだけの涙が流されたかと思うのです。死別、孤独、助けたくても叶わない人間の非力、あっという間に世界がこの恐ろしい疫病に飲み込まれてゆくのを止められない無力さ。今までの生活の基盤が崩れ、職や居場所を失い、生きる希望も気力もなくなる。明日に期待して立てた計画も、感染拡大の波がやってくると一夜にして水泡に帰す。日常の、社会の、活動の変容を余儀なくされる。もう3年目ここ2年の行きつ戻りつは、必死な様で手応えも実りもなく、何と不毛な年月だったかと思わされる。実際に流せたかは分かりませんが、私たちにとって涙に暮れることが多い旅路ではないでしょうか。今日の詩は、指揮者のために。「遠くの人の、物言わぬ鳩」の調べにのせて。ダビデによる。ミクタム。ペリシテ人がガテでダビデを捕えた時に。と標題が付いています。後にイスラエルの王となるダビデが、さすらう中に詠んだとされています。彼は神との関係が破綻し、心弱った君主サウル王から命を狙われます。猜疑心に駆られたサウルは、3度もダビデを亡き者にしよう試みます。そこでダビデはこれまで得たもの、その生活の全てを置いて、亡命を謀ったのです。逃げた先はイスラエルの宿敵ペリシテの5都市の中のガテ、その王アキシュの許でした。ダビデはサウルの勢力が及ぶ範囲から逃れることにしたのでしょう。標題にはダビデがペリシテに捕まったとありますが、実際は投降したような形で自ら出向いたようです。しかし、そこでアキシュ王の側近の家来たちは、自らの町の戦士・巨人ゴリヤテを倒し、イスラエルの英雄となったダビデではないかと言い出すのです。ダビデはさぞかし肝が冷えたことでしょう。王に対して非常な恐れが生じます。ダビデはそこでおかしくなり、気がふれたふりをし、狂人を演じます。するとアキシュ王は彼を門前払いし、ダビデは何とかガテから脱出したのでした。Iサムエル21:1015別の詩篇34篇でも同じ状況下で、恐怖や苦難からの救いと主に身を避ける者の幸いを詠っています。「【主】の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り彼を助け出される。」7節、「正しい人には苦しみが多い。しかし、【主】はその全てから救い出してくださる。」19節」といった印象的な信仰の言葉が綴られています。背後には主なる神以外のものに頼り、狂人のふりを敵の王の前で必死に演じなければならなかったダビデの失敗、苦い経験があったでしょう。ペリシテに下る前、サウルから逃れたダビデはまず先に祭司の町ノブに行き、祭司アヒメレクの許に行きました。神の導きや庇護を求めて行ったのでしょうか。サウル王の特命でやってきたとアヒメレクにはまやかしを言い、密使の働きの為に何かないかと求め、聖別されたパンと剣を得ます。奇しくもそこにあった剣は、サウルに見染められたあの日ダビデがエラの谷で討ち取ったゴリヤテのものでした。ガテに向かう道中の食料とガテの巨人戦士ゴリヤテの剣はダビデに力を与えたのでしょうか。その後、ガテのアキシュをダビデは訪れます。ただこれは大変な失策でした。単身のダビデは飛んで火に入る夏の虫の様。危険こそあれ、何の助けにもなりません。物語は遡って、サウルとの決別と亡命をダビデが決めた時、それは彼の信友なるヨナタンとの惜別の時でもありました。サウル王の息子で、王の座も望めば手に入ったかもしれない王子ヨナタンはけれど徹頭徹尾ダビデの味方でした。人生の伴侶以上に慕ったヨナタン、腹心の友にもう会うことが叶わなくなったダビデでもありました。味方を失い、助けと思ったものこそまやかしであった、そんな人生の荒野をさすらうダビデはきっと涙に暮れたことでしょう。しかし不毛とも思える旅路を神は記して覚え、そのこぼれ落ちる涙を受け止めて下さる。乾燥した地における大変貴重な水の様に、皮袋これは旅人の水筒にもなりましたに蓄えて下さる。また搾りたてのぶどう酒が、皮袋に入れられ、発酵代謝し、つまり古いものが新しいものに次々と入れ替えられ、エネルギーを作る過程を経、良いぶどう酒が醸成されるように、その涙も主なる神に在って、人生を喜び潤す良き物へと代えられる希望を持てるようにして下さる。その涙が無駄ではないと知るのです。ダビデは「私は知っています。神が味方であることを。」詩篇56:9と告白し、神を恐れ敬います。正しく神を畏れる者は、他の何物をも恐れる必要はなくなるのです。いかなる恐れからも解放されるのです。411節みことばをほめたたえて生きる信仰がそこに働くのです。私たちも地上ではさすらい人かもしれません。但し、こぼれ落つ涙を受け止め、蓄えて下さる主は、私のいのちを死から、私の足をつまずきから助けて下さいます。そして常に神に覚えられ、神の御前を、その眼差しの中に守られ生きる者として下さるのです。このコロナ禍の涙の日々においても。シャローム!

「きよい心を造り揺るがない霊を」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.1.23

詩篇51篇 詩篇51:17

神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。

友人からの寒中見舞いに「わたしのこころだきよくなれ」という御言葉を見つけ、神の愛に感動しました。聖書によると、人は清くなく罪があるままに、神の御前に出ることが出来ないと明らかです。しかし不思議にも私たちは今日も礼拝に招かれ、御前に出ることが許されています。ただ御言葉によって知るは、神が私たちに「わたしは望むきよくなれ」と常に願っていて下さるということです。自分では拭えない汚れ、汚さがある。神はそれに光を当て、探り、介入し、触れて下さり、清めて下さる。私達人間には臭い物には蓋をしたいという思いがどこかにあります。直視できず、隠し、遠ざけたい、二度と見たくないと。対して神は、これは健全ではない、不健康だと、この私達の直視できない辛さ、苦さ、苦しみ、汚れの根っこを言い当て、御手を伸ばして、清めまた癒すことができるのです。今日はこの神を信じながらも、道を外れたある信仰篤い王の叫びの歌、祈りです。神の民イスラエルの王として黄金時代をもたらしたダビデ王は主を愛し、賛美して生きる者の模範です。他方ダビデは自分ではどうしようもできない醜さ、弱さ、欲望を抱えて生きざるを得ない人間のありのままの姿をも見せてくれます。彼の身に起こったことが標題に記されています。「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。」ダビデは人妻であることを知りながらバテ・シェバを召し入れ、子が出来たと分かると、その夫ウリヤダビデ軍の忠実な兵であったを戦場で前線に送るという悪だくみによって最終的に殺してしまいます。不倫、殺人、嘘罪に罪を重ね、「主のみこころを損なった」IIサムエル11:27のです。神はダビデの許に預言者ナタンを遣わします。ナタンは、ある町の貧しい人が大切に慈しんで娘の様に育てたただ一匹の小さな雌羊を、同じ町に住む富んでいる人が旅人をもてなす為に自分が沢山所有する羊と牛を惜しんだ故に、奪われ失くしてしまった話をダビデに聞かせます。すると彼はその富んでいる人は死に値すると激しく怒り、あわれみの心がないその男は4倍の償いをと息巻くのです。するとナタンはあなたこそその男だダビデにと告げるのです。憐れみの心なく、私の目に悪であることを行ったと指摘する御声を、ダビデは聞いたのです。するとダビデは「私は【主】の前に罪ある者です。」と即座に告白します。ナタンはダビデに「【主】も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。」と答えるのでした。IIサムエル12:13詩篇51篇にはこの時のダビデの祈りが綴られています。隠して隠して隠し通そうとするダビデに、主がその心の闇に光あてられ、介入された。その醜い部分にメスを入れ、触れて、正し治して下さったのです。この主なる神の介入なしに、そして罪を知ることなしに、悔い改めの心は生じてきません。神はそこに単なる手当ではなく、抜本的な改革、心機一転を図って下さるのです。それはきよい心の創造です。揺るがない霊を新たにすることです。聖書の初めの創世記に出て来る、天地創造と同じ言葉です。世界が造られたと同じ御業によって、私たち人間の内に、神によって新しい創造がなされる。「神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。」詩篇51:10この霊は神が人に与え、神との交わりの中で養われ、整えられ、人が人らしく生きる為に、あらゆる生き物の中でも人間独自に神から授けられ、備えられたものです。また主なる神が選ばれた人を用いて、神の働き・救いを成される時に使われています。本来人は罪を犯せば、その代価を支払わなければなりません。血には血、命には命。創世9:5・6罪の赦しの為には、いけにえが捧げられました。ただ神に反逆するという故意に犯した罪の赦しに有効ないけにえは律法にはありませんでした。しかし神は背きの罪を認めて告白し、あわれみを求めて祈る、砕かれた心を動物の犠牲に優るものとして喜び受け入れて下さるのです。主なる神は人の真心を受け入れて下さるのです。こんな事はゆるされるべきではない、ゆるされるはずがない、そんなこと出来っこないと思う人間の考えと限界をはるかに超えて、神は働かれます。自分にはどうしようもできない生まれながらの罪が人にはあります。詩篇51:5原罪と呼ばれるものです。また初めの「きよくなれ」と主イエスが発せられ、触れされた先には、ツァラアトという汚れた病を負い、神の前にも人の前にも出ることが許されなかった者の姿がありました。マタイ14042面白いことにこの詩篇の「きよめて」1節、「ヒソプ」7節汚れを取る灰汁抜き作用のある液を出す植物、「聞かせてください」8節にも、ツァラアトの病による汚れからの公的なきよめ、守り、断絶からの交わりの回復を詠んだ言葉が登場します。主イエスの現した救いは、天の父の御思いそのものです。そしてその神が「きよくなれ」と願っていて下さる。新たな揺るぎない霊「風」とも訳されるが我が内に造られ、神との風通しの良い関係が築かれ、元気になる。砕かれた、悔いた心をあなたは蔑まれません。17節とは、なんと慰めに満ちた言葉でしょうか。謝罪を受け入れてもらえる。罪が分かる程、こんな者が今更謝ったところで受け入れるだろうかと恐れが生じます。そこで勝手に諦めるか、居直ってしまう。そういう堅さや頑なさを抱く私たちに、神は「きよくなれ」と願って語りかけて下さる。砕かれた柔らかな心を尊ばれ、悔い改めつまり方向転換して神の御許に帰る道を備え、その道を歩みだす時喜んで迎えて下さる。この神が共におられるから、私達は安心して罪を告白し、罪の赦しと聖さを愚直にもこいねがえるのです。シャローム!

「静まり知れ」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.1.16

詩篇46篇

静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。詩篇46:10口語訳
神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。1節

こう歌い出す詩篇の詠い手は、苦しみを経験し、戦いの中にありました。あなたは今どんな戦い、緊張関係の中に置かれているでしょうか国の危機が詠まれているこの詩には、生活の場が揺るがされ、明日の命すら分からない状況が見て取れます。不安や恐怖におびえ、緊迫したとき、おじ惑い揺るがされてもおかしくない環境において、神への信仰が告白されています。神を求めて生きるならば、神を認めて歩むならば、他の何処かにではなく、そこに強き助けがある。神を避け所また力と知るならば、そして戦いの最中にも私たちが力を抜き、争いから手を引くならば、戦いやそれに伴う恐れは、神によって止むのです。苦しむとき、戦いの中にあるとき、これが神を信じるあなたの歌です。詩を詠むときには、何かしらの体験や出来事が背景にあります。地震や洪水のような天変地異を思わせる表現が詠まれています。2・3節「セラ」とは楽譜でいう休符、小休止を意味する言葉だそうです。朗読の時、読むか読まないか迷う。一呼吸置くことを意識して読めばよいか。地が揺るがされ、流されそうな状況がありながらも、ここで一呼吸置かれています。そして「川がある」4節と、神の豊かな守りを思い出すような言葉が次に紡がれています。また「神の都」「いと高き方のおられる聖なる所を」という舞台設定が見えてきます。聖書における神の都はエルサレム、聖なる所はその神殿です。エルサレムの町に川はありません。けれども地下には、ヒゼキヤ王がトンネル工事によって、城外のギホンの泉の湧水を、城内のシロアムの池に引いた水路がありました。1880年「シロアム碑文」の発見で考古学的にもヒゼキヤ時代のものだと確認されています。神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。5節「神は朝明けまでに」と詠われています。ヒゼキヤ時代のエルサレムに何が起こったのでしょうかヒゼキヤがトンネル工事を行ったのは、敵国アッシリアの侵略から町を守る為でした。II歴代32:24破竹の勢いで南下する北の大帝国アッシリア王セナケリブを目前に、彼は崩れていた城壁を立て直し、やぐらを立て、強固な要塞へと町の防備を整えていきました。戦さの時は特に、水は生命線です。ギホンの湧水を敵に利用されないように隠し、エルサレム城内へと引き入れました。ヒゼキヤの治世第14年、紀元前701年、アッシリアは南王国ユダのあらゆる町々を陥落させ、目指すはただ都なるエルサレム。泣く子も黙るアッシリア兵はその数18万5千。アッシリアの将軍で司令官なるラブシャケは、エルサレム住民に分かる言葉で説き伏せようとします。無血開城狙ってのことでした。II列王18:1925ヒゼキヤ王は主なる神の御前に出、祈ります。神は預言者イザヤを遣わし、町の行く末を伝えます。万軍の主の熱心によって、エルサレムの町を守り、これを救おうと。II列王19章その夜、主の使いによりアッシリア陣営は壊滅します。翌朝夥しいアッシリア兵の死体が城外にあるばかりでした。19:35「神は朝明けまでにこれを助けられる。」詩篇465とはこの敵の侵入前に、敵が人知を超えた不思議な方法で打ち砕かれ、国また都が守られたという正に神業!の出来事を知って詠まれた句でしょうか。神が共におられるインマヌエルという恵みへの信頼により、恐れが消え、神は昔から私を守り導かれるイスラエルの祖「ヤコブの神」であることを告白しています。神は戦いを止めさせるお方、平和をもたらすお方。神を信じる者と共におられる主であり、私たちの隠れ場、力、強き助けです。この神が共におられるならば、我らは恐れないと告白し、あらゆる戦いや緊張関係による恐れから解放されるのです。何よりも神がそれを願い、救いを平和を成し遂げて下さるのです。この福音はエルサレムにとどまらず、「国々の間」「地の上」、全世界に及びます。10節「やめよ。知れ。」と声が響きます。「やめよ」とは口語訳では「静まれ」と訳され、「力を抜く、手や翼を下ろす、引っ込める」という意味です。水戸黄門のクライマックスの名台詞「静まれ、静まれー」が頭をよぎります。自分の戦いの中で一息つき、祈る。救いと約束の御言葉を思い巡らし、神を想うのです。力を抜くと立っていられるはずもないと考える私たちが手をとめ、自力で何とかしようとする考えをやめるとき、神が働かれる余地が生まれる。そこに熱心に私たちを救い守ろうと介入される万軍の主が共におられ、私たちを支えておられることを知るのです。これこそがあらゆる戦いが止む事に尽力される、平和の神が与える世とは異なる全き平安なのです。シャローム!

「谷川を慕う鹿のように 神を待ち望め」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.1.9

詩篇42篇、43篇

わがたましいよ/なぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。/私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。詩篇42:5

詩篇は5巻から成る書です。第2巻目はエロヒーム(ヘブル語で「神」)詩篇と呼ばれています。42篇と43篇は、43篇に表題がないことや「わがたましいよ」(42:5・11,43:5)で始まる同じ句による呼びかけがあることから、一つの詩篇と考えられています。表題「指揮者のために。コラ人のマスキール。」とありますが、コラ族は主の宮に仕える門衛や賛美隊であり、マスキールははっきりとは分かりませんが「教訓的な歌」という意味ではないかと言われています。どんな教え、誰への教示でしょうか?それは繰り返される「わがたましい」へであり、救いなる「神を待ち望め」という教えです。どのように神を待ち望むかと言うと、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」(42:1)です。どの動物もやって来る水辺は、草食動物にとっては襲われる危険が常に伴う場所です。しかし同時に水は何にもまして生きるに必要な大事ないのちの糧です。イスラエルは明確な雨季(10月~3月)と乾季(4~9月)がある気候ですが、川は乾季には涸れ川・涸れ谷にもなります。するとこの水溜りの様な水場は、より危険度が増します。また水がないと余計喉の渇きが助長される。より求めが高まるのです。鹿は出産時に数日間絶食状態になり、出産後はしばらく谷川の水だけを飲んでいきるという話しも聞きます。絶食、産みの苦しみ、そして大仕事で体力を奪われた後、谷を降ることは通常よりままなりません。けれどこの時が一番水が恋しいピークなのでしょう。水のにおいはするけれど、喉を潤すことがなかなか叶わない。極限状態における渇望感がここに示されています。詩篇の詠み手がこれ程までに渇望するのは何を求めてでしょうか?何に渇いているのでしょうか?「私のたましいは神を/生ける神を求めて/渇いています。/いつになれば私は行って/神の御前に出られるでしょう。」(42:2)ここに鹿が水を求めて大声で喘ぎ鳴くように、私は生ける神を求めて憔悴した状態で涙を持って嘆き祈っていますと歌われています。それは神の御前に出る、群れと共に神の家へ喜びと感謝の声をあげて、神の祝い事なる礼拝に集う。その一点です。この作者や歌い手は「神の家」(42:4)「聖なる山」(43:3)「神の祭壇」(43:4)に今はもう出向けなくなってしまっている様子が伝わってきます。周りからは神とその神との関係・信仰をも全否定される虐げを受けています。唯一無二の礼拝の場であるエルサレム神殿を失い、異国バビロンに捕囚されていった神の民イスラエルの姿が見えて来るようです。以前の様に共に大路を行き、神殿で神の御顔を仰ぐことが叶わない。それは神の民、いやもっと言えば、上(天、神)を見上げて生きる者として造られた人としての在り方を見失ったに等しい有様でした。親の顔を見ると安心して生きられる子どもの様に暮らすことが出来なく、平安を失う。涙と敵の虐げ、欺きと不正の中で過ごさなければならなくなってしまった苦境が綴られています。時折、あの楽しく集った礼拝の風景、一緒に歌った賛美や捧げた祈りが思い起こされる。すると余計に現状にうなだれ、渇望感が高まるのです。先週2年ぶりに施設で暮らしておられる一人の兄弟を訪ねることが出来ました。お金や家族、健康の心配はあるけれど、おおむね健やかに安心して過ごしておられる。生活には何の過不足もないように思えるのですが、話している内に「先生、いつ教会に行けるかなぁ」と尋ねられました。いつものように聖書(詩篇23篇)を共に聞いて祈りの時を持つと、教会や牧師、良くして下さる兄弟姉妹や自分と同じ独り身の兄弟や病の床にある姉妹の名前を挙げて祈って下さいました。私は礼拝への渇望と教会への愛に胸にジンと来るものを感じながら、あぁこれが教会なんだなと思いました。交わりの中に神の臨在を味わいました。どういう訳か礼拝に集えない状況に置かれる。人の手、自分の手ではどうにもできない、成す術なしの現状である。喜ばしい過ぎた礼拝の数々、楽しかった信仰の日々を思い出しては辛くなる。けれども、歌い手は人生諦めてはいません。諦めを促す絶望感襲われながらも、その諦めに支配されてはいません。過去の美しい思い出だけはなく、将来への希望を口にしています。我がいのち、巌、救い、力、光とまことなる神を信じています。その主の恵み、主の歌、神への祈りが今日もあります。それが今を生き抜く糧となっている。礼拝で与えられた御言葉が今も我が内に宿り生きている。うなだれ、思い乱れているわがたましいに向かって、私自身が呼びかける言葉を与えられている。私たちには今やこれが聖霊なる神のお働きだと明らかにされています。そして私たちも「神の家」に導かれていくのです。「神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。」(Iテモテ3:15)礼拝が私たちを支える信仰の要です。そして生活の中で何にもまして求める場です。これがなければ生きた心地がしない-そんな信仰者の集い、神との出会いの場が礼拝です。礼拝で私たちは御顔を仰ぎます。「わがたましいよ…神を待ち望め」礼拝を喜びとせよ!共に慈しみ深い神の眼差しに触れ、渇きが潤され、平安に満たされる。ここに人らしく生きるいのちがあるのです。シャローム!

「神の喜んで迎える文化」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2022.1.2

ヨハネの福音書6章32~40節 ヨハネ6:37

イエス・キリストは言う :私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。

明けましておめでとうございます。新しい一年の祝福をお祈りします。冒頭は今年の『ローズンゲン(日々の聖句)』です。この時、主イエスは「わたしがいのちのパンです。」わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35節)と仰られました。このみことばを聞く時私は、皆が大好きアンパンマンを思い出します。アンパンマンは「ぼくの顔をお食べよ」と、お腹がすいている子、困って助けを求めている人に自分の顔の一部を取って与えます。その生みの親のやなせたかし氏は、戦争を体験し、人にとって一番辛いことは食べられないこと、究極の正義・ヒーローとはひもじい者に食べ物を与えることである、と語っています。イエス様は5つのパンと2匹の魚で5千人を満たし、その余りのパン切れで十二かごがいっぱいになった御業を行われたたことも同じヨハネ福音書6章に記されています。イエス様は「わたしは…です。」と自己紹介されます。聖書における神様特有の言い回しです、古の大いなる救いである出エジプトのはじめに、神の民の苦しみを見、叫びの声を聞き、神の民を救う為にモーセに現れた主なる神様。(「わたしは『ある』という者である。」出エジプト3:14)また直前の場面では、強風で荒れた湖に翻弄される舟にいた弟子たちに「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハネ6:20)とガリラヤ湖上を嵐の中歩いて来られたイエス様に通じる言葉です。全能の主、天地を治める万能の神を思い出します。この主を喜んで迎えると目的地に着くことを弟子たちは経験します(21節)。殊にこの「いのちのパン」は「わたしの父が、あなたがたに天からまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」(32・33節)。いつかは朽ち無くなる地上の糧、そして人の手の業ではなく、永遠の朽ちることも尽きることもない神による天からの贈り物。そして世にいのちを与え、まことに私たちの生活を確かに築き上げるもの(者)であると紹介されています。「いのちのパン」である「わたし」即ち主イエスを信じることは、いのちの糧(『主の祈り』にある、日ごとの糧の「糧」は英語ではパンbreadとも訳される)に日々与ること、そして「永遠のいのち」(40節)を得ることであると宣言されています。イエス様がお生まれになられた町の名ベツレヘム~「パンの家」(ヘブル語)も関係あるでしょうか。聖書のいうことは本当かな?、と思う私たち人間の心があります。今年一年どんな年になるかは分かりませんが、苦しく辛く躓き思い通りに行かない時、普段そんなに信心のない者も不思議なもので、神様なぜですかと呟いたりするのです。けれども、疑いを抱く余地を与えないような、主イエスの確かな御声がここに響くのです。「決して」飢えることがなく、「どんなときにも、決して」渇くことがありません。「そして、わたしのもとに来る者を、わたしが決して外に追い出したりはしません。」(37節)と、何度も「決して…ない」と断言されるのです。更に私たちを神の御子キリスト(救い主)の許に導く父なる神の御心がここに明かされます。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」(39節)命が失われること、人が滅びることを神はよしとされません。むしろ飢え渇きのない真のいのちの中に招き入れ留まる様に、全てを尽くして下さるのです。御許から迷い出た瀕死の者を探して連れ帰り、神の愛を知らず背を向け、主を蔑ろにして出て行った者の帰りを待つ主のお姿をここに見るのです。御許に(帰って)来る者を、神は天的な爆発的な喜びを持って歓迎されるのです。その日しのぎの命・糧に終わらず、永遠のいのちが、復活の希望までもが用意されているのです。『ローズンゲン2022』巻頭言には、今年の聖句には神の喜んで迎え入れる文化が刻みつけられているとあります。「みなさんは神のもとで喜んで迎えられると理解されてかまいません。私たち皆に言われています:私たちがこの方のところへ行けば、この方は私たちを追い返さない。いつもいつも自分を証明し、能力を提供し、強さをしめさなければならない時代にあって、このことを知ることは気分がよいものです。……けれども、この方は私が受け入れられないような他の人のことも追い返されません。イエスのところへ来るものはだれでも喜んで受け入れられるのです、どんな人でも。」(292版の序、ヘルンフート兄弟団)共に主の食卓につく恵みとチャレンジが教会にあります。アンパンマンは困った人のお腹を満たし、元気を与える為に、自分の身体の一部を取って与えます。「本当の正義と言うものは、決して格好のいいものではないし、そしてそのために必ず自分も深く傷つくものです。」とやなせ氏は絵本のあとがきで述べています。イエス・キリストはご自分の体とその血、生涯・命の全てを私たち人間の救いの為に差し出して下さいました。十字架を鍵として、いのちのパンを頂ける憐み溢れる主の食卓に今日も招いて下さるのです。もちろん悪い教え、教会を荒らすもの、霊的に疲れされる者から教会を守るべきです。ただし、御心が天で行われるように、地でも行われますようにと祈る私たち教会は、天で喜んで受け入れられている者を、地~私たちの日常~でも互いに受け入れ合う、‘神の喜んで迎え入れる文化’を醸成する。決してあなたを見捨てず、見離さないという主の決心に、私たちも与る救いの恵みと愛を覚えつつ、私たちも立つことができますように。ここに信仰と宣教がはじまるのです。シャローム!

「ひとつの福音」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021.12.26

ルカの福音書2章8~14節

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」 ルカ2:10~11

昨日2年ぶりに対面で教団学生会クリスマス会を開くことができました。恒例?!の映画鑑賞は『スヌーピーのクリスマス』。チャーリー・ブラウンは、クリスマスが楽しめないことを悩んでいます。スヌーピーはじめ仲間達は、クリスマス‘らしい’ことをして楽しみしている様子。そしてルーシーには、今時皆クリスマスを本気で祝おうとしていない、金儲けとしか思っていないの、と言われてしまう始末です。チャーリー・ブラウンはしかし気が付くのです。クリスマスを楽しめないのは、皆が思い思いに自分のクリスマスを過ごそうとしているからだと。確かにクリスマスが何かを知らなければ、ワクワクできません。最後にライナスが登場し、クリスマスの出来事を聖書から語ってくれます。聖書はこの世界と人間を造り、今も治めておられる神様の言葉です。この聖書の言葉・御言葉を聞くことからすべてが始まるのです。クリスマスを楽しむ秘訣は、思い思いの過ごし方をするのではありません。聖書に聞くことです。チャーリー・ブラウン達は「クリスマスはキリストの誕生を祝う日だ」と知って、クリスマスにワクワクし、ラストは皆で賛美を歌うのです。今年のクリスマスはもう終わってしまったでしょうか?いいえ。クリスマスとは‘Christ-masキリスト礼拝’です。日々キリストを礼拝して生きるならば、クリスマスは過ぎたものにならず、毎日がクリスマスになるのです。クリスマスが楽しくないならば、毎日がつまらないことと同じです。日々喜んで暮らせないならば、その原因はクリスマスを喜べないのと一緒で、私たち自身の思うままに生きようとするからです。解決策ももうご存じでしょう。みことばに聞けばよいのです。「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。」(箴言29:18)幻は預言とも言えます。神からの啓示です。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(士師21:25)真の王は神ご自身であると神の民イスラエルは知らされますが、他の国々の様に目に見える王が欲しいと訴えるのです。神はこれを許容し、地に神の憐れみの代弁者として、また救いの代行者として、民を愛し、庇護し、養い導く王を立てられました。王は油注ぎによって任命されます。有名なのはダビデ王です。そしてダビデ亡き後は、メシア(ヘブル語原意=油注がれた者;ギリシア語でキリスト)待望へと神の民の救いの歴史は動いてゆきます。そして遂にキリストなるイエス様がお生まれになるのです。このお方こそ真の王、救い主です。この王に出会う時、一致して神の眼に良しとみえる事を行うようになる。みことばのある所に、分別が生まれるのです。この一年で沢山耳にした言葉があります。それは多様性です。今巷では多様性が叫ばれ、支持されています。何か全ての問題を片づけてくれる魔法の呪文のようで、危険な響きもします。もちろん特にマイノリティー(少数派)も大事にされ、教会の声も一票として聴いてもらえるのは有難いことです。けれどもこの曲者感、危うさは何だろうかと考えるのです。そこにはチャーリー・ブラウンが悩み気付いたのと同じ、皆が思い思いに自分の良いことをやり、欲しいままに振舞うことで見失ってしまう幸いがあるように思うのです。教会も然り、土台がなければ、一致がなければ、繋がり・交わりがなければ、多様性は豊かさではなく、分断や孤立を招きかねません。それは後に貧しさ、疲弊、失望をもたらします。それぞれの思い思いの生き方が、社会を、交わりをバラバラにしてしまう恐れがあります。根無し草は一時は華やかでもすぐに枯れてしまうのです。つまらない、楽しくない日々が将来やってくるのです。クリスマスに轟く福音は、「この民全体」に与えられる大きな喜びです。世界の、人類の御救いの共通項は、真の王で救い主なるキリストによってもたらされ、築かれるのです。(時の皇帝、「人類の救い主」と称したアウグストゥスではなく。)主イエス・キリストというひとつの福音によって、天と地が、神と人が、人と人とが結び合わされるのです。それがクリスマス‘らしい’ではなく、クリスマス(キリスト礼拝)そのものに私たちを導き、活かすのです。それはキリストに倣って、神と人との前に責任を取って生きる歩みです。この土台・基礎に立ってこそ、それぞれがどうやって生きるかという各自の多様性が花開くのです。私たち人の思いではなく、まず神の御心、御言葉が先立つ。みことばが土台となり、キリスト礼拝がそのプラットホーム(共通項・基盤)となるのです。神と人との前に責任を取って生きようとするとき-そう主が導いてくださるのですが-その私たちのみことばへの応答が、人々がひとつの福音につながり、救いに生きる道を証しすることになるのです。聖書のクリスマス物語に登場する、ザカリヤとエリザベツ、マリアとヨセフ、羊飼いや東方の博士達、シメオンやアンナ…全く異なる人達ですが、同じひとつの福音を信じ、キリストに連なった者達です。ナチス支配下の厳しい時代を生きた牧師ボンヘッファーは、このひとつの福音に生きる、その神の民の・教会の交わりを「主のよき力に守られて」という詩に綴り、また祈っています。「主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、不思議にも守られ、慰められて、私はここでの日々を君たちと共に生き、君たちと共に新年を迎えようとしています。…あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、どうか今こそ暖かく、明るく燃やしてください。そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度、結び合わせてください。あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。」(村椿嘉信訳)一つの福音、キリストに連なる者として共に祈り、賛美しつつ。シャローム!

「Merry Christmas メリークリスマス!」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021.12.19

ルカの福音書1章26~38節

御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおれます。」 ルカ1:28

クリスマスおめでとうございます。…さて何が喜ばしい事なのでしょうか?聖書のクリスマス物語で、おめでとうと御使いガブリエルから告げられる人物がいます。それはマリアです。一体何事なのでしょうかと戸惑うマリアに「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」(1:30)と御使いは続けます。有名な受胎告知です。神の子を身に宿すということが知らされたのです。神の心に適う者に御子が宿る-クリスマスの奇跡はここに始まるのです。十代半ばのマリア、しかもヨセフと婚約して結婚を待つばかりの処女(おとめ)が妊娠を宣言されたのです。そんな事態は人間的に考えれば‘ない’、つまりあってはならないこと、また不可能な話です。しかし「神にとって不可能なことは何もありません。」(1:37)神が「語られたことば」・「語られた事柄」が実現しないなんてことはないのです。マリアは御使いの伝えた御言葉に応えます。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(1:38)聖書の言葉が我が身に成就する。聖書の出来事が私に今起きた。神の救いが私を訪れたとマリアは知り、突然の衝撃的な御告げを神に信頼して恵みとして受け入れました。私が後に牧師になることに繋がる神学塾の専門科進学を決心した一つにこのマリアの献身があります。あるアドヴェントの礼拝の中でマリアへの受胎告知のメッセージが語られ、自分の救いも神の御計画の中にあると知った時、聖書の言葉が自分へのメッセージとして、私の心に、人生に入って来ました。神の御業の為に、人々の救いの為に用いられる喜び、幸いな道をマリアにみました。そして何よりも主の臨在のある所・神が共にいる場に、真の平安があることを知ったのです。クリスマス(キリスト礼拝)がなぜ嬉しく、喜ばしいのか。それはそこに神との出会いがあるからです。礼拝では御言葉が語られます。御言葉との出会い、神との出会いがあります。私を救って下さる方、愛して下さる方、いのちを与えて下さる方と出会う。そして、この世には神様が存在し、その神が私と共にいて下さると知るからです。実にめでたい!マリアは恐れから「主のはしため」(1:38)である喜びと献身へと導かれました。はしためとは女奴隷のことです。主人と奴隷は運命共同体です。奴隷は主人によって保障された身分にありました。主人の仰せの通りに生き、そこに生活が守られ築かれていました。奴隷に何かしらの過失があったら、それを主人が負う。そんな主人の為ならばと、労苦をも顧みないで主に仕える奴隷がありました。必要とされ、仕える喜びがそこにあったのです。マリアは自分が幸いな者だと悟ります。「力ある方が私に大きなことをしてくださったからです。」(1:48・49)と。神の民の救いの御業に私も加えられたのだと、とてつもない大きな恵みを知ったのです。アブラハムにしろ、モーセにしろ、イスラエルの民にしろ、無名の非力な者を用いられる神の「あわれみ」「真実な愛」(1:50)にマリアは出会ったのです。クリスマスには「受肉」と呼ばれる、神のことばが人となってこの地に生まれた出来事が起こりました。イエス・キリストの誕生です。受肉によって、神のことばなるイエス・キリストが、私たちの間に住まわれ、神の心に適う者の内に宿るという救いが明らかにされました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)神が私たちを愛し、罪から闇から救い出し、共に生きる為に、人となって私たちの世界に神御自身が天より降って来て下さったということが明らかにされたのです。(ヨハネ3:16)これは教会(信仰共同体)と信仰者への受胎告知です。メリークリスマスとは神様の存在を信じ、礼拝する者達が真に交わせる喜びの挨拶です。祝福です。私たち人間は、ことばによって造られます。人格が形成されます。私たちは御言葉に出会う時、人としてのいのちの光、輝きを得るのです。そして行くべき道が示され、御言葉により人生を築いていくことが出来るようにされるのです。神のことば・御言葉に直面した時、戸惑いや格闘、試練や痛み、窮地に立たされ、絶望や無力を味わうこともあります。マリアにとって御使いからの受胎告知はこれからの人生が左右されるものでした。婚約者のヨセフがお腹の子を不貞の産物とみなし訴えたならば、マリアは石打ちの刑に処せられても仕方ない(申命22:23-24)状況も想定されました。しかし、人には「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」(ルカ1:34)と考え込む事態を、神は恵みの手段として用いることができるお方です。神には何一つ不可能はないのですから。御言葉を恵みとして受け取るか。ここに私たちの信仰を働かせる余地があります。ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんは、’One child, one teacher, one book, onepen can change the world.’と教育の大切さを語りました。私たち教会は、’One child can changethe world!’クリスマスにお生まれになったひとりの御子が、そのいのちのみことばが、世界を変えると信じています。もう既にそれは始まっているのです。そしてマリアのように一人の献身が神の救いの御業の前進に大いに用いられてゆくのです。神様は私たちに御言葉なるイエス・キリストを送り、神と人と、また人と人とを繋いで下さいました。神の思いが、情熱が伝わるようにと、神のことばなる御子イエス・キリストを送って下さったのです。そして御言葉に応えることができるように、私たち人間が失ってしまっていた言葉とその交わりを回復されたのです。一体何事かと思われる状況の中であっても、みことばを聞くことができる恵まれた方よ、主があなたと共におられます。メリークリスマス!古知野キリスト教会牧師岩田 直子

「クリスマスへのご招待」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021.12.5

ルカ伝2章8~20節、エペソ書2章14~17

実に、キリストこそ私たちの平和です。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。エペソ書2:14a・17

主を待ち望むアドヴェントを迎えています。聖書を信じるユダヤ人は一体どのように、メシア(救い主;ギリシャ語でキリスト)を待望しているのかと思います。エルサレム神殿なき今、全世界の会堂(シナゴーグ)で礼拝をしながらかと考えていましたが、何とラビ(ユダヤ人指導者・教師達)の見解によると、約2000年間礼拝出来ていないそうです。なぜかと言うと、ユダヤの民にとって、神の臨在の場であり犠牲のささげ物とするエルサレム神殿だけが唯一の公的な礼拝の場であると考えられ、紀元70年の神殿喪失後は礼拝が捧げられていないからだと。メシアの到来と共に、神殿が回復され、礼拝が叶うのだそうです。ちなみに、会堂(シナゴーグ)での集いは、‘祈り’の場とされ、聖書朗読、説教、賛美(詩篇)、祈りが行われています。(『神の定めた礼拝の場所と時』2021.11.27.菊池実師講義より)ではなぜキリスト教会では‘礼拝’をしていると言っているのでしょうか?それは私たちが既にメシアなる主イエスが到来され、救いの道、礼拝の道を開いて下さったと信じるからです。イエス様は、神の御子なるお方として神殿(神の臨在の場)となられ、大祭司として人々を代表して神に仕え、罪の赦しの為のいけにえを神の子羊として実に御自身がたった一度限りの完全な犠牲の捧げ物となられました。そこに私たちの礼拝の道が開かれているのです。この尊い犠牲はイエスの十字架での裂かれた体と流された血潮です。また礼拝が世界中の人々に開かれた象徴的な出来事は、主イエスが十字架で絶命する時に、エルサレム神殿の幕が真っ二つに裂けたことです。(ルカ23:45)神殿の幕は神と人との隔たりを表していました。神殿の至聖所(神の臨在の場)と聖所の間に、高さ25m弱、幅7.2m、厚さ9cm弱(一手幅)の垂れ幕が設けられていました。これを裂くとは正に神業!神しかできないことです。神殿には他にも様々な隔たりがありました。外から異邦人の庭、女性の庭、男性の庭、祭司の庭、聖所、至聖所と実際の建物により入ることが許される場所が決まっていました。そこに神は最深部の至聖所と聖所の幕を裂き、神と人、そして人と人との隔たりを取り除いたのです。エペソ書にはキリストが神との和解、人同士の交わりを回復させ、平和を築かれたことが宣教され、このキリストこそ私たちの平和と宣言されています。更に、イエスを救い主と信じる者は今や、神ご自身なる聖霊が内住されたことにより、神殿とされ、神共にいます(神の臨在、インマヌエル!)ところとされ、信仰者の集いは神が臨在される礼拝の場とされているのです。まことに礼拝が全ての者に解放される、この救いの御計画の成就は、受肉すなわち神が人となられたことに始まりました。この時を私たちはクリスマスとしてお祝いします。クリスマスの言葉の意味を考えると、大変興味深いです。クリスマス(Christmas)は、キリスト(Christ)と礼拝(masミサ)という言葉で出来ており、キリスト礼拝と言えるでしょう。イエス様は十字架を待たずとも(十字架は救いの道、礼拝の道の完成ですが)、世に人としてお生まれになった時から、私たち人間を分け隔てなく、礼拝に招いておられたのです。社会的な立場(統治者と被征服民、主人と奴隷)や経済的な豊かさのレベル(貧富の差)、人種(神と民イスラエルと異邦人)や性別、年齢など、聖書の世界でも、現代社会でも、私たちには目に見える形だけでも多種多様な隔たりが存在します。しかし、神はどなたにでもクリスマスへのご招待を送って下さるのです。そこに壁は存在しません。クリスマスの招きに応じた、羊飼いの物語が聖書に登場します。当時羊飼いは神殿税などの税金を納めない故に戸籍のない者でした。数に数えられず、生きていても死んでいても構われない人達でした。3K(キツイ、汚い、危険)な仕事で、羊の番で神殿に詣でることもなかったでしょう。いやそもそも礼拝や神のこと、メシア待望にも関心などなかったかとも思うのです。けれども、そんな無関心な日々を送る羊飼いに、神の方から語り掛けて下さった。天の使いは神の言葉を伝えるメッセンジャーです。また神ご自身が彼らの近くにやって来て下さった。主の栄光で照らし、救い主の存在を知らせ、見出すことが出来るようにしるしまで教えて下さり、その誕生が全世界の~あなたの大きな喜びとなると、福音を告げ知らせて下さったのです。念押しか⁈恵みの先取りか⁈天の軍勢が福音の調べを地に響かせるのです。(ルカ2:8~14)羊飼い達は、さぁダビデの町ベツレヘムへ行き、御言葉を確かめようと駆けて行ったのです。そしてしるしである飼葉桶に寝ているみどりごを見て、その御言葉が出来事となったことを確認したのです。手ぶらで、ありのままで、‘クリスマス’にやってきた羊飼いは、賛美と御救いの知らせを持って帰っていきました。これが‘クリスマス’(キリスト礼拝)で体験する出来事です。聖書の言葉が真実であり、あなたの心を神に向け、神を崇め賛美して歩く日々へと招く。新しい人生という大きな大きなプレゼントをいただくのです。ルカは人伝いにでしょうか、この羊飼いのおじさんの回心の証を聞き、既に受けた教え・ことばが確かであること(ルカ1:4)を理解していただきたいと福音書を綴るのです。さぁ今日この‘クリスマス‘のご招待があなたの許に神様から届いているはずです。本当のクリスマスは、教会の礼拝にこそあるのです。シャローム!

「飢え渇いた者よ、満たされなさい」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021.11.21

詩篇36:5~10、ヨハネの福音書7:37~39

いのちの泉はあなたとともにあり ←詩篇36:9
あなたの光のうちに 私たちは光を見るからです。

喜ぶべき時に喜べない。主の都エルサレムとその神殿に上って来ても、大きなお祭り・収穫感謝の祝いにも心躍らない。主イエス様は好機を逃しません。むしろこの皆が一堂に会する祭りの時を狙って、招きをされるのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。」(ヨハネ77:37~38)今日のみことばの舞台はお祭りの日。しかもそのクライマックスです!「仮庵祭(かりいおのまつり)」、現地の言葉では「スコット」と呼ばれるイスラエル三大巡礼祭の一つです。イスラエルが昔昔出エジプト後、荒野を巡ったことを覚えます。神の大いなる救いの御業と、神の御助けと見守りよって生き延びた荒野の旅を思い起こします。その為に秋の穀物やぶどうの収穫終わりの1週間、なつめやしや柳などの大木の枝を使いながら家の外に仮小屋を建てます。そこで食事をとったり歌ったり踊ったり、寝泊まりして過ごすのです。仮庵祭はその一年の収穫感謝祭であると同時に、次の一年の収穫祈願祭でもありました。イエス様の時代、祭りの初日にはシロアムの池から汲みだされた水が神殿まで運ばれ、金の酌によって祭壇に水が注ぎかけられました。人々は豊かな実りに欠かせない雨を、神様からのプレゼントだと知っていました。ですので、恵みの雨を降らせてくれるように、との祈りを込めて、このように行ったようです。人々は賛美を捧げ、踊り祈ります。実は皆さんも恵みの雨の為の祈祷を日本でもしたことがあると思います。この時のダンスは、有名な「マイムマイム」です。マイムとはヘブル語で水の事です。♪マイム、マイム、マイム、マイム、マイム、ベッサソーン(水、水、水、水、水で嬉しいな!)(イザヤ12:3「あなた方は喜びながら水を汲む。救いの泉から。」)イエス様はこの祭りの日に大声で語られ、人々を招かれました。人々は次の年の収穫の為の雨を求めていました。しかし主イエスは、わたしはあなたたちに実り溢れる人生・いのちを与え、生涯いや永遠に良いもので満たす、とご自分の許へ、救いの道へと招かれました。喜ぶべき時に喜べない。日々が無味乾燥で、常にどこか満たされない思いがある。焦りや諦めや、慢性的な疲れや虚無感がどことなくある。神様が造って下さった私達人間の、神の栄光を照り輝かせる、活き活きとした姿とは程遠く思う暮らしをしている。詩篇36 篇ではこの的外れ(罪)な生き方が語られています。「私の心の奥にまで 悪しき者の背きのことばが届く。 彼の目の前には 神に対する恐れがない。」(1・2節)誘惑の声が心を襲い、神を神として恐れず、人を人として扱わない、罪人の姿が描かれています。しかし次に人の罪を超えた、神の恵みが確かにあると告げられています。神の恵みと真実、義とさばき、救いがあるのです。御翼の陰に身を避ける-これは鳥のひなが親鳥を大きな翼の下にかくまわれ、あらゆる敵や災いから守られる様子を詠っており、神の民イスラエルが神の庇護の許にあることを伝える常套句です。主の家の豊かさに満たされ、神が楽しみの流れで潤して下さり、そこに人はいのちの泉(尽きぬ満たし)と光(希望)を見出すのです。パソコンでもスマホでも、ふと気が付くとずっと見ていてしまうことがあります。また読書にふけることもあります。記事や物語が面白いのもありますが、長時間何かを読むのは、よい言葉を探しているからかもしれません。私に良いヒントや慰め、元気(喝)や希望を与えてくれる言葉を。仮庵祭で思い起こされる荒野の旅の最後に、これまでの出来事の振り返りと次に進む約束の地(カナン)での暮らし方をモーセを通して、神様に教わります。「…人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出る全てのことばで生きる」(申命記8:3)という有名な言葉も語られます。素直に聞くべき言葉です。みことばは私達を満たし、活かす、天からの良い言葉です。みことばは罪を退け、恵みを注ぎ、希望を与え、心の奥底がいのちの泉とされるのです。人は目先の収穫・実りを求めるのに対して、主は永遠の実りを・満たしを、私達に教え、与えて下さいます。イエス・キリストを信じた人の心に、聖霊なる神ご自身が住まわれる。神のおられる処、すなわち私たちの心が、神の礼拝の場(神殿)、罪からの救いと赦しの現場となる。そのように罪の赦しと神伴う故の、尽きることのない永遠の実りと満足をこの生涯に保証していて下さるのです。天地、人すべてが主の言葉から成り、主の言葉で生かされているのです。(イザヤ55:10~11)天の神のことば(ダバール)は、そっくりそのまま地で出来事(ダバール)となる。ですから、主イエスの招きをもう一度今日、真剣に聞きたいのです。実にこの主イエスこそが天から下り、私達を暗夜から救い、希望のあしたへと導いてくださる神の救いのことばなのです。(ヨハネ1:1~5)シャローム!

「天の 喜び、教会の喜び」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021.11.7

ルカの福音書15章17節

家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。ルカ15:6

召天者記念礼拝では、天に召された神の家族を偲び、いのちと死を治める神様を礼拝します。教会は主イエス・キリストを信じて逝かれた神の家族・兄弟姉妹が、今天の神様の御許にいることを信じています。身体、精神魂・心、霊を持つ者として神に良い者として造られた私たち人間実は性善説は、神に背き、神から離れ、この地上の朽ちる体の命また自分の人生しか気に掛けることが出来なくなってしまいました。御顔を避けるように隠れながら生きるしかできなくなってしまったのです。そこに神は「あなたは、どこにいるのか。」創世記3:9と、人に呼びかけて下さるのです。そして神との交わりに生きる本来神が与えられた霊による、永遠のいのちを回復させて下さるのです。地上で神に生かされていることを知り感謝して命を全うする。それから神の定めた時に、天へと移されるのです。夏目漱石の小説『三四郎』に「ストレイ・シープstraysheep」という言葉が出てきます。菊人形展に出かけた際の出来事、ヒロイン美彌子がその想い人達一行から、意図的にはぐれて、主人公三四郎と河畔の草の上で並んで話すシーン。美彌子が迷子の英訳を知っていらしてと三四郎に聞くのです。彼女は彼に「ストレイ・シープ迷える子、わかって」と告げるのです。興味深いのが、一行からはぐれる直前の彼女を捉えた三四郎の描写です。「その時三四郎は美禰子の二重瞼に不可思議なある意味を認めた。その意味のうちには、霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。」青空文庫より引用身体的な疲れを覚えて、一行からまた雑踏から離れたいのではなく、霊的な疲れがあるとみているのです。悩める満たされない何かを抱える者への絶妙な描写でしょうか。迷子の羊の話は聖書にあります。聖書ではよく神様と私たち人の関係が、羊と羊飼いの話にたとえられて出てきます。イスラエルでは身近な、馴染みのある風景です。この永遠のいのちを与える神の救いがどのように私たちの人生に起きるのか、ルカの福音書15章のイエス様のたとえ話で分かるのです。羊は視力が弱く近くのものしか見えません。距離感が分からずくぼみにはまることもしばしばです。集団(群れ)で行動します。またちょっとやそっとじゃ眠れない生き物で、羊が横になって眠れない条件が4つもあるそうです。空腹、不安、虫を回避し、ソーシャルディスタンスがなければ眠れないそうです。この条件を回避し、より良い睡眠を整えられるのは羊飼いしかありません亀みたいに倒れても自力では起き上がれません。そのままだと他の獣に襲われたり、血の巡りが悪くなり弱ったりで数時間の内に死んでしまいます。しかし起き上がるにもパニックでもがけばもがく程、背中の皮がめくれのたうち回るしかない。もう絶望的です。この羊飼いのお世話なしには生きていけないのが羊なのです。ルカの福音書15章3~7節には1匹の迷子の羊を探しに行く羊飼いの話が語られています。羊飼いは死に瀕している羊を捜し出し、見つけたならば安心し、喜びにいっぱいになるのです。神様もこの羊飼いのようです!どこにいても私たちの心配をして下さっています。それは私たちのことをいつも覚えていて、大切に愛していて下さると言うことなのです。心身共に、そして霊的にもくたびれ、迷子になった私たち人間を、本来の豊かないのち溢れ、活き活き生きる場所そう私たちを造られ養われる神の御許に導く為に、羊飼いなる神様御自身が私たちを迎えに来て下さるのです。「羊をかついで…」(5節喜びのあまり羊飼いは羊を抱きかかえて来ます。神様は私たちが自力で立ち上がれない時に、私たちの元に駆け寄って、手当をして下さる。すぐさま立てないならば、かついでまで私たちのいのちを守り、そのいのちを喜んで下さるお方なのです。更にたとえ一匹でもあきらめない、見捨てられないお方です。「悔い改める」7節とは、神様の方に回れ右し、向き直ることです。神様の許に帰るなら、喜びが沸き起こります。6節このいのちの救いの喜びは天の喜び、地にある教会の喜びなのです実は羊はか弱く、可愛いだけでなく、がんこで言うことを聞かない面もあります。いい加減懲りれば良いのに、羊は尚もよく倒れ転び、せっかく羊飼いが用意してくれた餌であるみどりの草が沢山ある牧場から離れ、あさっての方向へ向かっていく。羊飼いの証言によると、仲間をたぶらかして、一緒に危険なことをする羊もいるのです。聖書はこの羊飼いなる神から離れて、出歩きまた彷徨う羊の在り方を「罪」と言います。羊飼いつまり神様のことばに耳を貸さず、豊かな青々とした良い餌である牧草があるのに、憩いの水の畔からわざわざ危険な方へ出向いてしまう。遂には、仲間までもいのちの危険にさらしてしまう。罪とは、神様と離れる事、緑の牧場や憩いの水際から離れて、本当のいのちの得られない間違った道へ行ってしまうことです。罪とは、私たちを殺し、滅ぼしてしまうもののことです。ではどうすればよいのでしょうか神は救いの道をちゃんと用意して下さっています。良い牧者なる主イエス・キリストです。ヨハネ10:1011十字架で罪の罰を受けて死ぬべき私たちの身代わりとなり、私たちの命を、御自身のいのちを代価として支払い、罪より救い出して下さいました。イザヤ53:6そこで私たちはやっと救い主であり、我が魂の羊飼いなる神様の許に戻ることが出来るのです。Iペテロ22225神様はこの地で生きる私たちに、今日も「あなたは、どこにいるのか。」と声をかけて下さっています。あなたは今どこにいますかそして死後はどこにいくのでしょうか子羊はメーと鳴きますが、大人の羊はバーと鳴くそうです。神様は私たち一人一人の名を覚えて下さり、それを呼び、付いてくる者を導いて下さいます。日々神様の声(みことばを聞くことが出来るように、そして天国までもなるほど、羊には何の力もありません。ただ羊飼いなる神による恵み、アメージング・グレースによるのですシャローム!

「二つのテスト」(岩倉キリスト教会牧師:武川仁哉) 2021.10.31

第一ヨハネの手紙2章1~11節

しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。 5節

まず最初にお話することは、「神を知っているかどうか?」ということです。ヨハネは教会に対して、二つのテストを設けました。その一つが、この「本当に神を知っているかどうか」ということが問われるテストです。なぜテストが必要だったか、と言いますと、教会に惑わす者たちが現れたからです。彼らは反キリストとか偽り者と言われています。この人たちは残念ながら、もともと教会にいた人たちでした。彼らは、自分たちは神について高い知識を持っていると豪語していました。自分たちこそが神を知っているんだと、言っていたわけです。そうやって、教会の兄弟姉妹を惑わし、自分たちの教えに引き込もうとしました。彼らが惑わしていた教えとは何か・・・それは、霊と物質は全く別物。そして、霊はきよいもので、物質的なものはすべて悪であるという教えです。おそらく、ギリシャ文化・哲学の影響を受けて広まった教えだと思います。この教えのどこが悪いのか、と言いますと、これを信じている人はこう考えます。第一に、この体・肉体をもって何か悪いことをしたとしても、それが自分自身の霊を汚すことは全くない、ということです。つまり、罪を犯すことにためらいがなくなります。何か悪いことをしても後ろめたさも感じません。ですので、この考えを持ち、惑わしていた人々は、ますます不道徳な行いをしていた、と言われています。そして、第二に、イエスは神ではないと否定し、イエスが神の御子ではないと考えます。なぜかと言いますと、神は霊ですから、そのきよい霊が、悪である物質・肉体と一つになるはずがないからです。また、霊である神が死ぬはずがない、だから死んだイエスは神ではない、と言う主張をしていたのです。こういうことを触れ回って、惑わしていたわけですが、実際に聖書の教えはどうなのでしょうか?聖書ははっきりと、「イエスは神である」と教えています!
ヨハネの福音書1章1節「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
ここを続けて読んでいきますと、「ことば」というのは、イエス・キリストのことだということがわかります。聖書は、イエスが神だと教えています!ですので、自分たちこそ神を知っていると言っていた者たちは、全く聖書とは違う教えをもち、全く違う神観をもっていたのです。ですから、ヨハネは教会に対して、惑わされてはダメだと、と教えるのです。惑わす者たちの教えは、甘いささやきです。それに従えば、罪を犯しても罪悪感から解放される、自由に好きなように生きられる、そういうものでした。彼らは甘いささやきで教会を誘惑し、また飲み込んでいきます。少しずつ、そして気づかないうちに、教会はみことばから・聖書の教えからずれていき、彼らの教えへとスライドしていくのです。私たちの普段の生活の中でも、これに似たような甘い誘惑が聞こえてくることがあるのではないでしょうか?自分はイエス様を信じて、救われているから何をしても大丈夫。。。どうせ何か罪を犯しても、イエス様を信じているから大丈夫とか、先週あの人を傷つけたけど、会堂やオンラインで神様を礼拝しているから赦されるでしょ、そういう誘惑が頭をよぎることがないでしょうか?罪悪感から解放され、自分が楽に生きるために、自分の原理原則を作って、それに従って生きてしまってはいないでしょうか?自分のした悪を悔い改めず、罪を罪と思わない、罪を重ねていく、それでいいのでしょうか?
第一ヨハネの手紙2章4節「神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。」
箴言3章7節「自分を知恵のある者と考えるな。主を恐れ、悪から遠ざかれ。」

確かに私たちは、イエス様を信じて救われます。ですが、聖書は救われたクリスチャンにも悔い改め続けることを教えています。そして、悪から・罪から離れよ!と教えています。今も、そして、二千年前も私たちの周りには様々な誘惑があります。私たちはいつの間にか、誘惑によって、みことばからずれてしまっていることに自分で気づかないことがあります。ですから、テストが必要だったのです。では、どうやって本当に神様を知っているのか、確かめることができるのでしょうか?
第一ヨハネの手紙2章3節「もし、私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることがわかります。」
その人が神様の命令を守っているかどうかで、本当に神様を知っているかがわかる、ということです。その人が、みことばに従い、生きているかどうか、そこが重要なポイントだとヨハネは言います。なぜなら、「神様を知る」ということは、「神様と交わりがある」ということだからです。神様との交わりがあるならば、その人はみことばのうちに歩みます。ですから、神様を知り、神様との交わりが与えられている私たちも自分自身を点検する必要があります。みことばに従っているだろうか?みことばからズレていないだろうか?みことばではなく、自分の原理原則を作り、それに従って生きてないでしょうか。・・・振り返ってみますと、少なからず、みことばからズレている自分の歩みが見えてくるのではないでしょうか?私自身もズレてしまうことがよくあります。もちろん、私たちには罪や弱さがあり、イエス様が完全にみことばに従って歩んだようには、生きられません。ですが、神の御子が、その私たちの弱さ、罪のために十字架で死んで、赦しを与えてくださいました。神のみことばと命令に生きるように、新しいいのちを与えてくださいました。ですから、赦しを与えるため・私たちのために死んでくださったイエス様に対して、誠実に従って歩んでいきたいのです。あきらめやひらきなおりではダメです。私たちはこの大きな赦しの中で、日々自分自身を点検し、悔い改めとともに、イエス様がみことばに従ったように歩んでいくことが、私たちの目指すところです。
後半にお話することは、「光のうちを歩んでいるかどうか?」ということです。ヨハネのもう一つのテストは「光のうちを歩んでいるかどうか」が問われるテストです(二つ目のテストになります)。ヨハネは、もし人が本当に神を知り、神と交わりがあると言うのなら、光のうちを歩むはずだ、と言います。ヨハネが書いた福音書や手紙の中で、「神は光である」というテーマがよく扱われます。神は光であって、闇とは関係ない、だから、神のうちにある者は、闇から離れ、光のうちを歩む、とヨハネは教えるのです。では、光のうちを歩むとはどういうことでしょうか?それは、古くて新しい命令を守ることが、光のうちを歩むことである、ということです。古くて新しい命令について、ヨハネはこのように言いました。
第一ヨハネの手紙2章7,8節「愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです…。」
ここで言われているこの古くて新しい命令、それが「兄弟を愛する」という命令です。兄弟というのは、自分の家族という意味ではなく、教会の兄弟姉妹や自分の周りの人たちのことです。つまり、隣人を愛しなさい、互いに愛し合いなさい、その命令のことを言っています。確かに、これはすでに教会が受け取っていた命令です。父なる神様の命令であり、イエス様の命令でもあります。
レビ記19章18節後半「…あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」
ヨハネの福音書13章34節「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

これに従っているなら、その人が光のうちを歩んでいる証拠なのだと、ヨハネは言いました。もし、兄弟姉妹同士が互いに愛さず、憎しみあっているなら、いくら私は神様と交わりがありますと言っても、その人は闇の中を歩んでいると言います。この世界と変わらない生き方をしているよ、と結構キビシイ言い方をします。ですが、ヨハネの言っていることはまさに真理です。光のあるところに闇はありません。光が照らされる場所には、闇がなくなります。つまり、教会のあるところ、私たちがそれぞれいる所には光があるはずです。私たちが出会う人たちが主の光で照らされるはずなのです。しかし、もし教会や私たちがいる所に光がない・愛がないのなら、私たちは闇の中を歩んでしまっている、ということに気づかされなければいけません。ですから、私たちは自分自身を点検する必要があるのです。私たちが兄弟愛・隣人愛以上に大切にしているものはないか、しっかりと自分自身を吟味する必要があります。
第一ヨハネの手紙2章16節「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父からでるものではなく、世から出るものだからです。」
私たちは気づくと、目の前のものや、誰か他人が持っているものに憧れ、それを必死に求めようとしてしまいます。これがあれば私の人生に満足できる、これがあれば安心だ、そういうものに惹かれ、飛びついてしまいます。また、今の生活水準よりも、少しでも高く求めていきますと、いつまでもキリがありません。私たちはこの世が求めるものを、同じように求めていないでしょうか?自分の人生の安心や安定、自分の生活をいかに充実できるか、そのことばかりに集中してしまっていないでしょうか。いつのまにか、偶像を追い求めてしまっていないか、自分自身のことをしっかりと点検する必要があるのです。あなたがたは世の光です、とイエス様は言われました。しかし、私たちがこの世界と同じであれば、世の光になることはできません。ですから、私たちは主のうちに歩むものとして、光の中に歩むことをしっかりと意識していく必要があるのです。2010年のローザンヌ世界宣教会議でこのような告白と決意表明がなされました。「神様が世界の国々を祝福するため、そして神の宣教をするための最大の障害物は神の民の中にある偶像礼拝である。もし、私たちのうちにこの世界と同じ貪欲さ、性的混乱、人種差別、社会的偏見があるならば、この世はキリスト教が何の違いをもたらすことができるのかと疑うだろう。ですから、私たちのうちに偽りの神々があることを悔い改める勇気と、主の御名によって偽りの神々を捨て去る勇気を求める!そして、キリストにあって新しい人として、自分自身を神様にお献げし、またそのように歩むことを兄弟姉妹互いに励まし合う!」このようなことが話されました。これは決して、世界のリーダーたちが勝手に話しあって決めたことで、私たちに全く関係のないことではありません。これは、私たち一人一人が告白し、決意していかなければいけないことですし、これはまさにヨハネがこの手紙で言っていることです。私たちは神の光のうちにある者として、その光をあらわすことを求めていきたいのです。このヨハネのテストを私自身に適用したら、私は完璧に落ちてしまいます。落第点です。ですが、このテストに落ちたら、脱落者であるとか、救いがなくなるという事ではありません。どんなに失敗しても、赦され続けている私たちです。
第一ヨハネの手紙2章1節後半「…しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」
私たちには、いつもとりなしてくださり、赦しを与え、再出発の道を用意してくださるイエス様がともにいてくださいます。ですから、この恵みに与り、主のうちにある者として、互いに主の愛をあらわしていきましょう。
第一ヨハネの手紙5章3節「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」
互いに愛し合うこと、隣人を愛すること、これが結局、重要な戒めの一つ目「神を愛すること」につながるのです。

「しかし 【主よ】 私はあなたに信頼します。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021.10.24

詩篇 31 篇 1~24 節

私の霊をあなたの御手にゆだねます。まことの神 【主】よ。あなたは私を贖い出してくださいます。 5節

世間ではハロウィン柄の商品が並んでいますが、教会では召天者記念(ローマ=カトリックでは万聖節AllHallows'Day;オールハロウスディ・イヴが短縮されてハロウィンとなったとも言われる)、また宗教改革記念日を迎えます。イエス・キリストの十字架上の七言に、「私の霊を御手にゆだねます」(詩篇31:5,ルカ23:46)が数えられています。宗教改革者マルティン・ルターも臨終の際、このみことばをあらゆる慰めの神であり忠実なる神様に向かって祈っています。リュートを奏でたルターは、『神はわが砦』(讃美歌21-377)という讃美歌も作りました。1517年の万聖節前夜10/31に、ヴィッテンベルクの城教会の扉に『95か条の提題』を貼り出したとされ、神学的な対話を求めたルターでしたが、結果ローマ=カトリック教会から糾弾そして破門されます。ヴォルムス帝国議会に彼が召喚された時、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と話した逸話は有名です。ルターには破門を宣告したローマ教皇、この詩篇を詠んだダビデにはサウル王という敵がありました。聖書の詩篇を聴くと、結構な割合で背後に敵の存在があります。あなたにとって敵とは誰でしょうか?敵の姿は、「私を狙って隠された網」(4節)、「空しい偶像につく者」(6節)、「私に対して謀議をめぐらし私のいのちを取ろうと図りました」(13節)と表されています。この敵のせいで、目やたましい、からだ、骨も苦悶で衰え果て、悲しみ、嘆き、力が弱まってしまう。隣人にそしられ、知り合いには恐れられて孤立し、誰もが自分から離れてゆく。我が内では「死人のように私は人の心から忘れられ壊れた器のようになりました。」(12節)外では「恐怖が取り囲んでいる」(13節)とまことしやかに噂されているのです。さぁ誰か特定の人の顔や状況が浮かんで来たでしょうか?ただし興味深いことに、ダビデにおいてもサウル王という敵が想定される一方で、詩篇の御言葉においては、その敵が誰かは特定されてはいません。敵について言及されていない故に、誰もが心寄せてこの詩篇を我が歌・祈りとして口に出すことが出来るのです。祈りたくてもどう祈ったらよいか分からない、言葉が出てこない、そんな祈れない時には詩篇をそのまま告げることが出来るのです。苦しみのあるまま、不安のあるままで、疲れと焦燥感の只中で、「あなたの御手にゆだねます」と祈ることが出来る幸いがあるのです。詩篇の関心事は敵が何者かにあるのではありません。むしろ敵が引き起こす結果にあります。しかも敵への恐れはその苦痛ではなく、神への信頼を損なう点、神の否定へと誘う力なのです。だからこそ敵を目の前にして、詩篇の詠み手は「しかし【主よ】私はあなたに信頼します。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』私の時は御手の中にあります」(14節、15節a)と主への信頼を言葉にしています。実にこの神への信頼・信仰を確保した上で、信頼を揺るがし危うくしている敵に向かうことが出来るのです。これが敵の愛し方なのです。(雨宮慧、『続・旧約聖書のこころ』、女子パウロ会、1991、p107)私の悩みをご覧になり、たましいの苦しみを知っておられ、広い所に立たせて下さる神様(7節)。救い主なる神のいつくしみはなんと大きいのだ(19節)。信頼に応えて下さる神に、詩篇を祈りつつ私たちも出会うのです。「御顔の前にひそかにかくまい」(20節)主なる神は敵の手の届かない安全な場所に置いてくださいます。ルターは処分が下される前にヴォルムスから逃れ、ヴァルトブルグ城に匿われます。そこで当時の聖書や礼拝の言葉であったラテン語から民衆に理解できるドイツ語に聖書を翻訳しました。宗教改革は礼拝改革とも言われます。各人が各々の言葉で御言葉を聞き、自国の言葉での賛美を持って応答してゆく救いと礼拝の道がここに開かれていくのです。「【主】はほむべきかな。主は堅固な城壁の町の中で私に奇しい恵みを施してくださいました。」(21節)時に早とちりし、神を見誤ることもあるでしょう。見捨てられた、御前から絶たれたと。しかし神は見捨てず見放さず、私たちの願いの声を聴いて下さっているのです。(22節)人生に起こる沢山の悲惨な出来事のせいで、あまりにも深い苦しみの淵に、神を誤解し否定してしまう思いが沸き上がってくる。敵はわが心にあり⁉そこで尚、我ら信仰者の内に宿る神なる聖霊、また神に与えられた良心の語る声が招き、叫ぶのです。【主】を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。…雄々しくあれ。心を強く(広く)せよ。すべて【主】を待ち望む者よ。(23ab、24節)シャローム!

「【主】は私の光、私の救い。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021.10.17

詩篇 27 篇 1~14 節

【主】は私の光私の救い。だれを私は恐れよう。【主】は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。1節

‘ギャング牧師’と呼ばれる人物が、南アフリカのケープタウンにいます。スラムの再生を目指し活動する、アンディ・スティールスミスという投資家であり牧師です。昨年のコロナのパンデミックの中、ギャング達に停戦を持ち掛けるだけでなく、むしろギャング達に呼びかけ、貧困層への感染拡大やロックダウンによる生活物資の欠乏により苦しむスラムに、彼らのネットワークを生かして食糧配給等の支援を実現させたのです。ピンチは最大のチャンス!銃や麻薬、暴力や殺戮の応酬からやっと抜け出し、本当に変わることが出来るかと思えた…のは束の間でした。コロナ感染が収まってくると再び抗争がはじまったのです。悪いと分かっていても、殺し、盗み、苦しませる生き方へと逆戻り、殺すか殺されるかの日々がまたやってきてしまった。そんな残酷な日常に戻っても変わらず、アンディは「ギャングが必要とするものは‘父親’だ。ただ信じて、正しい道へと背中を押してくれる、そんな存在」と信念を持って、スラムのキャングに寄り添っています。アンディを今や父とし慕うギャング幹部の一人、プレストンは、数年前の友人の葬儀で、土に納められる棺がまるで自分の姿に見えたそうです。その時珍しく白人の牧師が司式を務めており、‘君の中にも光がある’‘いつか暗闇から抜け出せる’と、これまで誰も言わなかった言葉をかけられた。その言葉の主がアンディだったそうです。(『NHKスペシャルREGENERATION銃弾のスラム、再生の記録』)私の暗い心に、生き方に、光を与え、「私の光」となり、心に人生に留まって下さるお方がいらっしゃる。それが「私の救い」だと、詩篇27篇は高らかに歌います。著者ダビデの生涯もアフリカのスラムのギャングの様に、抗争の絶えない道程でした。主君サウル王、敵のペリシテ人、息子アブシャロムとは、欺くか欺かれるか、殺すか殺されるか-緊迫した日々が続くこともしばしばでした。神に選ばれ王となるも、親友ヨナタンを失い、人妻バテ・シェバとの不倫、身内のクーデターによる都落ち…幾度まるで自分の墓穴を覗く様な場面があったでしょうか。一方でダビデは一平和を知らないギャングの様ではありませんでした。詩篇27篇1節の意味が4~6節でより詳しく詠まれています。「【主】は私の光私の救い」と歌うダビデは主の麗しさに憧れ、生涯主の家に住み、主の麗しさを見つめ、主の宮で深く静まることを願い求めています。神の恵みの光が私の心に、人生に注がれていることを黙想するのです。神の御許を私の居場所とするものは何も恐れるものはない、無敵であるというのです。なぜなら「【主】は私のいのちの砦。」だからです。主なる神が隠れ場であり、安全保障、精力、生命線~守るも攻めるもここが要となるからだと告白しています。主の庇護の許に生きるならば、怖いものは何もない。また勝利を得られるという響きも聞き取れます。御許に安らぎ、静まることが、ダビデはじめ私たち信仰者のいのちを守り、活かし、救います。ただの‘逃げ’ではないのです。そこから立て直し、新たに生き直すことができるのです。リトリート(修養、黙想、隠遁)という言葉にも通じています。サッカー用語でリトリートは自陣に引いて守る戦術ですが、ただ退陣するのではなく次の攻撃の為に備える、立て直しの為でもあるのです。そして正に主に呼ばわり、主の許に逃れてゆく、神を求める言葉が次に綴られています。「私の救いの神よ。」(10節)地上の誰もが私を見放し、見放す時にも、私を受け入れ、御許に引き寄せて下さい。敵から守り、あなたの道を教え、平らな道に導いて下さい。神に心許し、信頼する者の祈りです。興味深いことに、この篤い祈りの折にも、主に麗しさを仰ぐこと、また主の御顔を慕い求めることの難しさがあることが詠われています。信仰の戦いとも言えるでしょうか。「あなたに代わって私の心は言います。『わたしの顔を慕い求めよ』と。」(8節)、「もしも私が/生ける者の地で【主】のいつくしみを見ると信じていなかったなら-。」(13節)先程のプレストンは、アンディの家に招かれ、スラムとは違う所で数日間過ごした際、あまりにも静かでその静けさにおびえたそうです。静けさは銃で倒れる死の前触れに思え、思わず銃を手に取り構えたくなると言うのです。アンディは静けさこそ、真の平和だと伝えたいと願っています。静けさに死を覚えるまではいかなくでも、私たちにも御前に出て主の麗しさを仰ぎ見、深く静まることがなかなかできない日常、やるべきことを抱えて、せわしさに飲まれて、この静けさをなぜか避ける日々があります。このスラムで語れる福音はこんな大変な状況だから響くのでしょうか?豊かな?!日本ではこの静けさの福音は合わないでしょうか?最近邦画やテレビドラマにも、牧師役や教会がちょくちょく登場するのをみます。正義や再生、神の存在を問う場、そして光・希望として教会が存在すること、そして信仰者にその福音を証しすることを世間も願っているのではないかと考えています。世の片隅にでも健全に機能してくれている、揺るがない光の世界がある。そういった期待や安心があるかとも思います。実に私をも再生・更生・新生させてくれるみことばが、今日の詩篇でしょう。自分や他人を心の中で殺し、苦しませる生き方。やるかやられるかというプレッシャーの中で、心が一時も休まらない不安定な現状-そんな霊的スラムからの救いの道と信仰の戦いがあります。だからこそ、主なる神からの、我が心からの、最後の招きがあるのです。待ち望め【主】を。雄々しくあれ。心を強く(広く)せよ。待ち望め【主】を。(14節)シャローム!

「わが神 どうして」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021.10.10

詩篇 22 篇 1~11、21b~31 節

わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず 遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。 詩篇 22 篇 1 節

詩篇には「メシア詩篇」と呼ばれる詩が少なくとも16篇収められています。メシアとはヘブル語で油注がれた者を意味します。任職時に頭に油が注がれる王・預言者・祭司を指します。メシアのギリシア語訳がキリストであり、救い主を意味しています。(キリストとは人の名前・苗字ではなく、称号です。)詩篇22篇はそのメシア詩篇です。イエス・キリストの受難の出来事の中で多く引用されています。マタイの福音書27章によると、イスカリオテのユダの裏切りによりユダヤ当局に引き渡され、ユダヤ人議会とピラトの前に裁判を受けたキリストは、刑場となるゴルゴダの丘へと十字架を背負い向かいます。兵士たちは彼を十字架に架けると、くじを引いてその衣服を分けます。(35節;詩22:18)通りすがりの人々は頭を振り、彼を嘲ります。(39節;詩22:7)そして十字架から降りて来たならば信じてやろう、神のお気に入りなのだから救い出してもらえばよいと揶揄したのです。(43節;詩22:8)キリストは十字架上で7つの言葉(十字架上の七言)を発します。ちょうど真ん中の4つ目の言葉が、詩篇22篇の初めにある叫びとなっています。(46節エリ、エリ、レマ、サバクタニ。;詩22:1)この叫びはやはりイエス・キリストもただの人なのだと、十字架の極刑に耐えられず、成す術もなく、弱音を吐いたのだと。人ゆえの弱さと不信仰からつい出てしまった言葉だと思われるでしょうか?果たしてそうなのでしょうか?詩篇の詠み手はこれを不信仰ではなく、信仰者だからこその言葉と理解しています。神を信頼しているが故に、神に向かって叫ぶのだと。(詩22:3-5)自分は虫けらで弱く惨めな存在であり、人に揶揄される者である。けれど私は生まれてくる前より、神様により頼み、あなたをわが神として生きて参りました。どうかお救い下さいと。信仰告白に続く、更なる叫びが綴られています。(6-11節)先日、クリスチャンの友達が罪の意識は神に持って行けるけれど、罪悪感は神に持っていけない。なぜかというと、自分が悪い、自分のせいだと思い罪悪感を抱くのは、そもそも後ろめたさや申し訳なさを覚えており、自分が神から拒絶されているといじけているからだ。と話してくれました。メソメソし、文句を言うが、文句を言っても無駄だと考え、いじける。それも開き直っていじけるに至る。そうして罪悪感を負い切れなくなり、ずっと重たい状態になる。そうすると、神に向かい真っ直ぐに叫ぶことすら怖くなるのだと。私たち人間には、内に内に引きこもり、自己防衛・保身の為にも、自分の考えに閉じこもる習性があります。そこにこの詩篇のみことば、また十字架上のキリストは、私たちの心の内に秘めたくなる思いを、信仰ゆえに外へ外へと、神に向かって叫ぶように導いて下さいます。私たちの内には助けはなく、常に救いは私たちの外から、天・神からやってくるのです。こんな感情的な叫びで良いのだろうかと思われるかもしれません。もっと理性的にいかなくてはと。しかしこの「感情」という言葉は、ラテン語ではパッシオ(英語になるとパッションや受動を意味するパッシブの語源)というそうで、パッシオは自分の内から生じるものではなく、外からの働きかけがあってこそ受動的に生じて来るものだそうです。この感情的?!とも言える叫びさえも、外から、神からやってくるのです。今年私は詩篇22篇1節を芥見キリスト教会の受難日礼拝で聞きました。主イエスが死に際して私たちの全ての願いを代表して叫ばれた言葉がこれである。人の願いが叶えられるのが十字架ではなく、神の意志が貫かれるのが十字架なのである。どうか私を救い、私の願いを叶えてほしいという私たちを代表する祈りが退けられた時、主イエスの十字架の死を通して、私の願いを叶えてほしいという私は死ぬのである。十字架の死は、私たちの死である。私たちは死を賜るのである。救いとは神の御心が成ること、それ以外の何物でもない。そうして迎える全地をおおった闇のような3日間で、主の死の意味(私の死)を問いながら、神の御思いだけが成ると心に刻む。そして復活の朝に、その死が私たちを新しいいのちに生かす為であったことを知らされるのだ。鴨下直樹師が御言葉を取り次いで下さった後、主の死といのちを覚える聖餐に与りました。詩篇22篇は前半と後半がはっきり分かれています。前半~21節aは嘆きですが、後半は賛美と神の義(神との正しい関係)に彩られています。死の次に訪れる新しいいのちは、賛美であふれています。ここで用いられる賛美(ハーラル)は、爆発的な喜び、大声で歌い、踊り出すような様を意味します。まるでダビデが神の契約の箱をエルサレムの幕屋に収めた日の様に。(I歴代15:29)後に、死の試みに苦しまれ、しかしその十字架の死をもって死とその力を打ち破られた主イエスは「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆(教会)の中であなたを賛美しよう」(ヘブル2:12)と言われます。内に内に閉じこもりがちな私たちを、罪悪感また緩やかな死にとどめることなく、ついには外へ外へ、神と人との交わり・いのちの中へ、また神の住まわれる賛美の中へと招き入れて下さるのです。情熱的な賛美も神からやってくるのです。(詩22:25)シャローム!

「物語る神」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021.10. 3

詩篇 19 篇 1~14 節

私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。【主】よ わが岩 わが贖い主よ。14 節

『ナルニア国物語』を著したC.S.ルイスは、詩篇19篇を「詩篇全体の中で最も優れた詩であり、世界に残された多くの詩の中で最も優秀な詩の一つ」と評しています。大自然の中にいると不思議にも超自然的な何か、癒しなり畏敬なりを覚えることがあります。壮大で圧倒的に訴えかけてくる自然界が信仰や礼拝の対象ともなり得てしまうのです。けれども聖書は自然を称えるのではなく、全てを造られた神を賛美しているのです。自然が一番素晴らしく、最も雄々しく、パワースポットやヒーリング効果として人に力を与え、癒すのではありません。自然は神の栄光・御手の業をまるで鏡の様に映すものです。実に自然を造られた創造者成る神が良いお方で、偉大で、私たち人間の救い主なのです。神様は自然や造られた全てのものを通して、御自身の姿を物語っておられます。自然界の上また背後におられる世界と私の主なる神様に向かって目を上げ、また目を凝らしてもっと大きな存在を礼拝することを教えられます。自分の狭い心、家や社会の閉塞感から、偉大な神へと心の向きを変える。造り主なる神を、我が神我が主と礼拝することで、私たちは緊張や束縛から心放たれ、恐れや不安を鎮め、魂の自由を得るのです。ちょっと世に言う‘スピリチュアル’めいた響きに聞こえるかもしれません。どうしても自然を通して神を知ることには限りがあります。ややもすれば、自然自体を拝むことになり、自分の都合の良いように崇めたり、恐れたりする危険をはらみます。聖書が教えるには、私たち人間は自然から語られる神の真理を知ることができると言います。これを啓示といいます。啓示とは、神が人に自力では知る由もない、真理や奥義を物語ることです。啓示は知られざることがまるでベールを脱ぐように神によって日の下に明らかにされ、説き明かされ、それによって人が心や歩みを照らされることです。詩篇19篇には大自然など被造物による啓示(自然啓示16節)とみことばによる啓示(特別啓示710節)を通して、神が語られることを詠っています。夜を司る「天」と昼の「大空」が、生命のないのにも関わらず、万物の創造主なるいのちの根源成る神の栄光と御業を告げ知らせる。そして「昼は昼へ」「夜は夜へ」、絶え間なく、豊かに篤くその言葉をほとばしらせ、偉大な神の栄光を露わにする。(「話を伝え」という言葉は、淡々とではなく、まるで情熱溢れるように、ほとばしる、噴出する、勢いよく流れ出る様を表す言葉で記されています。)自然が発する声なき声が、神の栄光・御業・知恵を物語る啓示となって確かに全地に響き渡っているのです。しかし神は更に【主】の「おしえ」「証し」「戒め」「仰せ」「恐れ」「さばき」を通しても物語られます。自然(この世に映る輝きだけを見て、被造者なる神(輝きの実物を閉ざすならば、それは的を射ていません。真理を見逃し、誤った方向に私たちを進ませます。(ロマ1:2025だからこそ、神はみことばにより天のご自身の姿を、この地に現わされたのです。神を見失って迷子になってしまった私たちを「元の状態に戻す」為に、神はみことばにより、神様と私たち人間とのかかわりや契約を物語って下さるのです。【主】のおしえは完全でたましいを生き返らせ(7節「生き返らせ」(詩篇23:3とは「本来あるべき元の場所へ連れ帰る・戻す」という意味があります。ここにいのちの回復の恵みは語られています。みことばにきき従って生きる時、人は私たちを造られた神の御許に返り、賢くなり、心喜び、目が明るくなるのです。みことばは金よりも値打ちのあるもの、蜜よりも甘い詩篇19:10))!私たちの生活を支え、元気づけてくれるものなのです。ただし、このみことばを私たちが信じられないことがあります。それは人が傲慢の罪に支配されている時です。「傲慢の罪」それは意図的に神の律法を破る罪で、すなわち神への冒涜です。『インディ・ジョーンズ最後の聖戦』では、ジョーンズ親子のやり取りが大きな見所ですが、放任主義の父ヘンリーが‘ジュニア’ことインディを叱るシーンが出てきます。理由はインディの発言が、神を冒涜するものだったからです。隠れた罪から私を解き放ってください(12節)、傲慢の罪から守って下さい(13節)と御前に、受け入れられますように(14節)は、神に対して罪を犯す私たち人間の姿とその解決方法を教えています。「受け入れられますように」という言葉は、いけにえを捧げられる時に使われました。いけにえは、知らずに犯した罪の償いをする時に捧げられました。(民数15:2731一方で故意に犯した罪に求められるのは、悔い改めでした。(詩篇51:17高慢な者は「神はいない」という(詩篇10:4高慢は自分が優れていると思い上がり、相手を心の中で見下すことです。傲慢は相手を見下し侮る心が、生活の端々に、その態度に表われることです。神が造られた人とは真逆の態度です。祝福といのちの道なる律法を破り、みことばが無力となっている。その傲慢な世界に、私に、神は救い主を遣わして下さいました。神を知らずに生き、また犯した罪は、「贖い主」なる主イエス・キリストが十字架によってご自身のいのちをもって償い、私たちを買い戻して下さいました。そして救い【主】を信じて生きる者には、罪を離れて生きる祝福といのちの道詩篇19:710を備え、罪に気付かせ、悔い改めに導く聖霊なる神を私たちの心に宿らせてくださったのです。みことばが聞けなくなってしまう状態に陥らないようにどうか助けて下さいとの、切なる祈りで詩篇は閉じられます。逆に言えば、御言葉が聞けている限り、私たちは生きることが出来る。望みがある。人生終わったということはないという、確かな信仰告白でもあるのです。シャローム!

「神の幕屋に住む者はだれか」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 9.26

詩篇 15 篇 1~5 節

【主】よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが あなたの聖なる山に住むのでしょうか。 1 節

詩篇15篇は巡礼歌です。聖地巡礼と言うと、最近では漫画やアニメのワンシーンや作者にゆかりのある所をファンが訪れることを思い浮かべますが、元々は信仰者が宗教的に重要な意味のある場所を巡ることです。律法では年に3度の巡礼が定められていました。出エジプト23:1417、種なしパンの祭り過越祭、勤労の初穂の刈入祭夏・七週祭五旬節、収穫祭秋・仮庵祭イエス様も巡礼都上りをしています。ルカ2:42、ユダヤの成人式であるバル・ミツバ。エルサレム神殿の門を前に巡礼者らは、神がおられる聖所主の臨在の場所として「幕屋」また「聖なる山」と詠われているに入る資格を神に問います。そして神殿にいる祭司から神からの答えを得るという典礼の歌です。次に神の御許に宿る者、また神のみそばに住まう者の資格が告げられます。宿るという言葉は危険から守られること、住まうというのは神の恵みの只中で日常に生活を送る起居するという意味があるそうです。神に近づくことが叶い、受け入れられる者はだれかそれは全き者として歩み義を行い心の中の真実を語る人2節です。具体的には8つの立ち振る舞いが語られます。1舌をもって中傷せず2)友人に悪を行わず3)隣人へのそしりを口にしない人隣人を傷つけない人4)その目は主に捨てられたものを蔑み(罪を放置せず裁きの場・明るみに出す5)【主】を恐れる者を彼は尊ぶ。6)損になっても誓ったことは変えない7利息を付けて金を貸すことはせず8)潔白な人を不利にする賄賂を受け取らない35節詩篇15篇はユダヤ人に最も愛唱されている詩篇だと聞いたことがあります。お金の話が出てくるとなるほど、とも思います。先週の月曜日にF4Nエフ・フォー・エヌ、日本自由福音教会連盟4団体の青年の働きの合同青年集会がありました。その中で「お金の使い方」という分科会に出席しました。何の為にお金を使うのかどのように使えばよいのか大切なのは、良い働きであること良い働きにはお金が集まる、きちんと必要性を言葉にすること、何よりも信頼がなければならないことそして信頼は勝ち取るものであると学びました。そう、詩篇15篇が告げる神の聖所に受け入れられる者とはだれかと言えば、実に信頼される人なのです。興味深いのは、神との関係が問われる所に、人との関係を顧みるリストが挙げられていることです。まるで十戒のおしえ出エジプト20章、申命5章の様に神の交わりと人付き合いはセットです。巡礼者達は神との出会い・交わりを求めてその御住まいなる神殿にやって来ました。ここには神を信じて歩んでゆく時、私たち信仰者も人に信頼される者となる約束また真理が詠われているのではないでしょうか。主の教えを喜びとし詩篇1:2、神に信頼して日々生きるならば、その人は神から愛され信頼され、人からの信頼も勝ち取る者となる。たゆまず、飽きずに善を行え、コツコツ良い実を結ぶ種を蒔きなさい。特にあなたの隣人に、機会があるたびに、共に神の聖所に集う信仰者にガラテヤ6:910詩篇15篇に見出す真理は、エルサレム神殿に詣でた人々だけはなく、後の教会の信仰者の交わりにも及ぶのです。また食べている物によって、私たちの体や健康に違いが見えるように、霊的な食べ物である御言葉を食し生きる者とそうでない者には、日々の歩み方によって「差」が生じてくるのです。マラキ3:1718ただやはり心のどこかで、私は教会に来ているけれど、神のお眼鏡にかなう者なのだろうかと引っ掛かりがあるかもしれません。ひとつ前の詩篇14篇には、義人はいない14:13とあります。すると余計に、巡礼者・礼拝者のこの初めの問いは真剣なものとなります。聖書を眺めると、不思議にも神様の方から私たち人間の住まう所においで下さったことが分かります。神の御子イエス・キリストが世に現れたクリスマスの出来事は、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」ヨハネ1:14と伝えられています。「住まわれた」とは、テント・幕屋を張られたという意味で、私たちの間に神のことばなるイエス様が宿って下さったことを示しています。実は15篇は教会で、完全な神のかたちとして全き人として地上の生涯を生き抜かれた、キリスト昇天記念の詩篇として覚えられています。私たちの内に義はありません。反対に神を神とせず、人を人とせずモノのように扱う、的外れな在り方である罪にまみれています。しかしその堕落した、哀れな不法者の元に真の神であり、真の人である神の御子がお越し下さった。この主イエス・キリストを信じることで、神の義が全ての人に与えられる、義人となる道を開いて下さったのです。ロマ3:10,2124このように行う人は決して揺るがされない。詩篇15:5神を信じて生きる確かな歩みは、今日ここから、神に招かれ集い、主のみ教えを聞く礼拝から始まるのです。シャローム!

「人とは何ものなのでしょう。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 9.19

詩篇 8篇 1~9節

あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。あなたが心を留められるとは。8:3・4b

プラネタリウム・クリエーター大平貴之さんは、従来富士山で見える約69千の星が見えればよいとされていたのをメガスター(レンズ移動式プラネタリウムのシリーズ)の開発によって、2200万個の肉眼では見えない星を写すに至っています。大平氏は、天文学が人に長期的な視点を与えると語り、皆が少しでもお互いが長い目で物事を捉えられるようになり、最終的に幸せに近づいていくみたいなことが僕の使命だ、と明かしています。『My Method by Document 宇宙を描き続ける理由』今年の中秋の名月(十五夜)9月21日は8年ぶりの満月だそうです。人は星に根源的に憧れます。聖書を開くとそれは私たち人間の造り主である神への憧憬と結びついていることが分かります。讃美『輝く日を仰ぐ時』(『讃美歌21』226のように。詩篇8篇は主なる神の偉大さを称えることばに始まり、賛美に終わっています。【主】よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。(1節・9節)次に詩篇の詠み手は、大きな驚きをもってあなたのご威光は天で称えられています。(1節cと歌います。ここは天の上にあるあなたの輝きを地にお与えになったとも訳せます。天には神の栄光がある、一方で地は神に敵対する者・悪しき者が至る所で横行している。天には完全な神のご支配があり、いのちに満ちているが、地には欠けがあり、死や陰府が存在する。-そう考えるだろうか、けれども驚くべきことに、神の御名は地にあまねく轟き、神の御力が地に打ち立てられている。しかも幼子たち、乳飲み子たち~全く無力な者たち~を神が用いてそれを成されるのだ。天空の鏡と言われるウユニ塩湖のように、壮大な空がそのまま湖に映り込む。雨上がりの水溜りに、青い空、白い雲、時には虹なんかがキレイに映って見えるという風景が私たちの日常にもある。神の天の輝きが、悪のはびこる地にも、脆弱で土くれに過ぎない人間にも現れるとは、まるで天の写し鏡の様ではないかと想像するのです。月や星といった神の造られた大きく、綺麗なものを見て、また私たち人間も天地を造られお治めになられる偉大な神に造られた者であり、神の作品かと思いを馳せる。脆くて、一つの足場が崩れたら、これまでの道程や 生活すべてが奪われ、消えてゆきそうな無力な弱い存在。しかし、神はその弱き人間に栄光と誉れ(重さと輝き)を与え、御手の業を治める使命を託して下さったのです。今度は創世記にある天地創造に合わせて告げられる、‘神のかたち’なる人の創造を覚える御言葉が綴られています。(創世1:26 28、詩篇8:58 神は御使い・神(ヘブル語でエロヒームといった天的な存在にわずかに劣る者として造られ人を造られ、地の統治を委ねられたと、全く不思議かつ光栄な使命が告げられています。ただし果たしてそんな誉れの冠を授かったような人はこの地にいるでしょうか?「人」(4a節)とは肉体をもった死すべき存在、「人の子」(4c節)とはメシア(油注がれた者・救い主)を表す言葉でもあります。「人」(5・6節、万物を彼の足の下に置かれ(6節)の「彼」も含めて、文法的に言えば単数で特定の人物を指し示しています。新約聖書でこの「人」・「彼」はイエス様であることが説き明かされています。ヘブル2:59、14 15この偉大な神への賛歌は、メシア詩篇でもあります。イエス様ご自身も御国の福音が知恵や地位のある者たちではなく、幼子たちに現わされる-巷をのさばっていた宗教家たちではなく主の弟子たちを通して実現し、宣教される-と仰られています。(マタイ11:25 27 、 21:15 16 力が限定された者、非力で弱い者に、天の神は地の支配を委ねられた!という出来事に驚嘆すると共に、 それは 敵対する者 を鎮める為 なのだと 歌われています(詩篇8:2。ここには本体なら神の使命を担い、統治が委ねられている人々(王や宗教家たち)が神に対する敵となり下がっていることへの批判にも及んでいます。そして、そこに神がメスを入れて下さること、邪悪な地への全き神の介入が期待されているのです。これは詩篇を一篇一篇に聞くのではなく、連作としてよんでいくときに見えてくる新しい視点です。神は詩篇が150篇からなる一つの書としてまとめられるその編纂の過程にも携わっておられると信じて聞く時、37篇また9 14篇に登場する「地」や「敵」の姿が浮かび上がり、嘆きの詩篇の様相も見えてくるのです。天を仰ぎ偉大な神を賛美する時に、人とは何ものなのでしょう(4節)と、無力でちっぽけな自分に出会う、がしかし神のかたち・作品として造られ、この地を治めることを委ねられた使命と栄誉が与えられることを知り驚く。天の麗しさに思わず漏れる賛美の傍らで、この地の有様に悲嘆し、真の神の支配がこの地に!と祈り、神の御業に尚も期待する。「ギテトの調べにのせて」(詩篇8篇 表題 この詩はうたわれました。ギデトは一説にはブドウ絞りの仕事の際の労働歌と言われます。ありふれた日常の仕事場で、私たちも賛美と嘆きと救い主なる神を待ち望む詩を歌う。実にこれが信仰者の生きる道なのです。天・神を仰ぐとき、私たちにも大きな心、長い目が与えられる。主イエス・キリストは、詩篇にある本来の人としての生き方を私たちに示し、与え、神の栄光へと招きいれ、神を信じる者を栄光の姿へと日々変えて下さるのです。シャローム!

「主のおしえを喜びとし」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 9. 5

詩篇 1篇 1~6節

幸いなことよ ・・・ 主のおしえを喜びとし 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。 その人は 流れのほとりに植えられ木。 時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。 詩篇1:1a・2・3

詩篇は歴史や物語とは異なり、シンプルかつストレートな詞(ことば)で、私個人また教会共同体といった信仰者の姿や神の御名を表してくれています。‘刺さる’言葉にも出会います。今聞いた 1 篇ではどんな言葉が心に留まったでしょうか?主のおしえが喜びとなっているだろうか-そんな問いが沸き上がってくるかもしれません。詩篇は『新聖書辞典』を引くと、ヘブル語で「テッヒリーム」と言い、ハレルヤ(主をほめよ)の動詞「ハッレール」(賛美せよ)に語源を持つ言葉です。賛美また賛歌集を意味します。信仰者から主なる神に向かって、信仰が告白され、詠み手の心情が吐露されています。私たち詩篇の聞き手は、信仰者の直面している境遇と共に、神の民に昔・今・将来・そして永遠に働かれる神の御姿を知るのです。ある時には丸ごと1篇を諳んじて私の祈りとし、またある時には 1 節から数節をメロディーに乗せて教会の賛美歌とする。詩篇は信仰者の告白でありながら、不思議にも主の御言葉でありみおしえです。詩篇が詠まれた背後には尚、主なる神の臨在とご支配が確かにあるからです。主の御言葉は 私を生かし 私を導き 私を照らす主の御言葉は 力がある 私を励まし 私を満たす今主の前に 心開き 待ち望む主の御言葉『主の御言葉待ち望む」』(作詞・作曲 小坂忠)詩篇の御言葉は他に、信仰者を慰め、奮い立たせ、罪を教え、嘆きを与え、悔い改めに誘い、救いを説き、主の勝利を確信させます。1~2 篇が 150 篇から成る詩篇の序文となっています。「幸いなことよ」で始まるこの詩(うた)は、「悪しき者」すなわち神を失い、主を退けて生きる道に歩まず、立たず、また座すことがない人の幸せを開口一番に告げています。(1:1)その幸いな生き方の秘訣が次に詠まれます。主のおしえを喜びとし、昼も夜も聖書の言葉を口ずさんで過ごすことです。(1:2)おしえとは、ヘブル語で「トーラー」、律法・神が人に告ぐ祝福の道を言います。口ずさむとは思い巡らすことでもあります。黙想といっても良いでしょうか。ある神学者は自分自身に説教をし続けることだと言っています。主のおしえ・御言葉によって、一瞬一瞬、一日一日、人生を築き上げてゆくことは実りある豊かな人生なのです。「その人は 流れのほとりに植えられた木」(1:3)とたとえられています。逆に「悪しき者」の道は、吹けば飛ぶような籾殻のようで、実(み)がない、実(じつ)がない人生であるとも語られています。空っぽで、虚しく、何の価値もない。そして遂には滅び去るのです。(1:4-6)流れは水路とも訳され、人工的に造られた灌漑溝や大きいと運河を指します。また植えられた木も移植されたという意味を持ちます。流れも植えられた木も、自然のままではなく、手が加えられています。明らかに人工的なにおいのすることばで誰かの介入が示唆される表現で、詩篇の作者はここに主の介入、神の御手をありありと映し出しています。自生したままでは水の供給がままならない中東の気候において、水路の側に移し植えられる。それはどんな厳しい陽射しの下にも、枯れることがなく、継続的に実を結び、栄える道です。渡辺和子シスターが『置かれた場所で咲きなさい』という本を書き、ミリオンセラーにもなりました。題は‘Bloom where God has planted you.(神が植えた所で咲きなさい。)’という 30 代半ばで大学長の任を受け、奮闘し、心乱れることが多かった時に、ある宣教師からの送られたこの詩がヒントです。「咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです。」(p3)最後には悪しき者の道に座し、開き直り、諦めるのとは真逆の道です。この木はナツメヤシが想定されていると言われます。100~200 年生きる、15~25m の常緑の大木です。桃栗 3 年、ナツメヤシの「時」は40 年!しかし 150 年程も実を付ける。その実は 1 本平均 6~7 房で、一房には約 1000 個の果実がなります。そして甘く、栄養価が高く、人を元気にする人気のドライフルーツ、デーツとなります。(年老いてもなお実を実らせ.詩篇 92:12-15)主のおしえを喜びとし、愚直にも神と共に歩む正しい者の姿はどっしり水辺に構え、実を結ぶ大木の様です。実のない、命を紡いでいかない、四方からの風にさらされ吹き飛ばされてしまう籾殻のようではないのです。主なる神は実りある者へ、また人生へとする為に、私たちを神の備えたいのちの水のほとりに移し替えて、活かして下さいます。いのちの水を常に得て、主の時に神の輝き・栄光を現す実を結ぶ、私たちの幸いな生き方がこの主のおしえにこそあるのです。シャローム!

「金メダルの先にあるもの」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 8.22

コリント人への手紙第一 9章23~27節

私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。 同9:23

東京2020 オリンピックは終わり、次にパラリンピックが控えています。メダルラッシュから一ヶ月も経ちませんが、祭典の閃々とした記憶はもう薄れかけています。しかし一方で語り継がれるオリンピック秘話もあります。今日はクリスチャン・アスリートのエリック・リデルを紹介します。アカデミー賞を獲った映画『炎のランナー』の主人公の一人でもあるエリックは、エディンバラ大学在学中、1924 年パリ五輪に陸上選手として出場します。当時世界記録を持つ彼は、100m でスコットランド初めての金メダルが期待されていました。けれども、彼は100m には出場登録をしませんでした。100m 競技開催日は日曜日で、聖書の言う安息日。安息日は神様のものであり、人が御前に休まり礼拝する時だからです。(出エジプト記20:8-11、申命記5:12-15)政府やメディアからは祖国イギリスと国王を裏切った者として非難轟轟でした。その時、彼の心には一つの聖句がありました。「わたしを重んじる者をわたしは重んじ…」(I サムエル2:30)エリックにとって神を重んじることは、御言葉に従い礼拝を献げることでした。そして別日開催の200m と400m に出場を決め、約半年間猛特訓しました。エリックの両親はスコットランド長老派教会から中国に遣わされた宣教師で、彼は天津で生まれました。学校教育の為、英国で育ち、勉強は苦手でしたが、走ることは賜物でした。「神が私を速くしてくださった。走る時、神が喜んでおられるのを感じる。」「前半は自分で精いっぱい走り、後半は神の助けでもっと速く走ります。……負けるのは嫌です。」と勝利の秘訣を話しています。また彼は大学生のキリスト教の集いで話しを依頼されたのをきっかけに、走って信仰を証しするだけでなく、度々大勢の前で信仰の話をするようになりました。いよいよオリンピック。英国は100m にもう一人の『炎のランナー』ハロルド・エイブラハムスが出場し、金メダルを獲得。エリックと言えば、200mは銅、400m ではなんと!世界記録47.6 秒で優勝し、金メダルを獲得しました。裏切り者は一躍英雄となりました。400m 競走の日、彼はホテルである信仰者から「わたしを重んじる者をわたしは重んじ…」と書いてあるメモを渡されたことも明かしています。大学を卒業したエリックは人生の岐路に立ちます。このまま英雄として英国で信仰の話をして暮らすか、それとも中国で宣教師として働くか。彼は神様から中国宣教に召されていると感じ、その呼び掛けに応え従いました。五輪翌年に23 歳で中国に渡りました。32 歳で十歳年下のカナダ人宣教師の娘で看護師のフローレンスと共に天津の教会の日曜学校で出会い、結婚し、二人の娘に恵まれました。しかしリデル家の住む中国は、洪水や飢餓に加え、日中戦争が始まり戦禍にひどく見舞われるようにもなりました。エリックは妻と娘たちをカナダに出る船に乗せ、愛情と別れを告げました。その時3 番目の子どもがお腹の中にいました。その後、彼の生活は一変し、1 年の軟禁続いて山東省の敵国人収容所へと送られることになりました。狭く、臭く、汚く、ひもじい収容所の中で、エリックは毎朝聖書を読み、祈りました。スポーツチームを作り、聖書の学び会も開き、収容されている10代の青年達も魅了されました。山上の説教の回では、汝の敵を愛し、迫害する者の為に祈れ(マタイ5:44)について「私たちは愛する者、好きな人のために祈ります。しかし、イエスは好きではない人のために祈りを捧げなさいと教えています。人を憎むとき、あなたは自己中心になります。祈りを捧げるとき、あなたは神中心の人間になります」と教えました。金メダルの先には、福音に生き続ける人生が続いていました。1945 年脳腫瘍により43 歳で召天するまで、信仰のレースを走り続けました。エリックにとってオリンピックでの優勝がゴールでなかったように、学業、仕事、結婚、育児、老後等々、私達の人生の様々なステージでの出来事や転換点、そして洗礼までもが、最終的なゴール・本来の生きる目的ではありません。現在私達はコロナと闘っていますが、その克服がこの世界の真のゴールではないのです。神を信じ、御言葉に従って生きる。今を神の民として生き、信仰者として走り抜く事が求められています。常に福音の恵みを共にし、信仰のレースの只中にあっても「目標がはっきりしないような走り方はしません」。(I コリント9:23・26)務めとして委ねられている、いやそうせずにはいられない様にどんな形であっても福音を宣教して生きるのです。(9:16・17)エリックと一緒に収容所で過ごした青年に、戦後、北海道や青森、千葉で宣教したスティーブン・メディカフ師がありました。彼は靴と赦す模範をエリックから頂いたと述べています。実は同盟福音を開拓期から担う一人の牧師が、このメディカフ師から青年期に福音を聞き、救われています。身近にこういった福音のバトンリレーが繰り広げられていたとは、神様の御計画は不思議で、奥深く、非常に面白い!エリックの御言葉にきき従い、神を第一にする信仰の証がここに一つ実を結んでいるのです。古い権威や伝統からの重圧、色んな世の期待が迫る時に、エリックは信仰の創始者であり完成者である主イエスに、御言葉に目を向けました。(ヘブル12:2)「静けさと勇気と絶えることのない愛が必要となるような広い、過酷な海を越えて進むときは、神が共にいてくださる。」と彼は証しています。「私は戦いを勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主がそれを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」(II テモテ4:7,8) 与えられた永遠のいのち、また賜物によって神の栄光を帰す者に、神が栄誉を与えて下さるのです。シャローム!
『TOKYO-大会の歴史と物語』2020、新生宣教団 参照

「神とヨブとの阿吽の呼吸」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 8.15

ヨブ記 38章1~7節、42章1~6節

主は嵐の中からヨブに答えられた。知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯をしめよ。 ヨブ 38:1~3a

旅行ガイドブック・るるぶがコロナ禍で『るるぶ宇宙』を出版しました。大人気だそう。宇宙飛行士達の話を聞くと、宇宙に行くと世界観が変わるようです。ヨブ記は最終章を迎えます。そこでヨブは世界観が変えられます。ヨブの苦しみの大元であった疑問-神は私の人生にいて下さるのか否か-に関して、実に私の人生・いのちが、いやこの全世界また歴史の全てが神の御手の中にあることを知ったからです。そこにはヨブに嵐の中から答えられる主なる神の姿がありました。神に出会うことは、物凄いインパクトです。世界観、物の見方が一転するのです。聖書において神顕現のしるしである嵐が吹きすさぶ時は、人生の危機です。自分の弱さ、小ささ、儚さ、愚かさに気付かされます。「ああ、私は取るに足らない者です。」(40:4)主なる神は沈黙を破り、知識なく言い分を述べ、摂理・神のはかり事を暗くするのは誰かとヨブに迫ります。腰に帯を締めよ-自分を整え備えせよ、示せ、告げてみよと挑戦的な言葉をかけられます。(38:1-4)地の基、海の源、雲、波、暁、深淵の奥底、死の陰の門、光、闇・暗黒、雪の倉、東風や大水や稲光の通り道、荒野の雨、姿を変える水、十二宮に天の掟、地の法則、獅子や烏の腹の満たし。野やぎや雌鹿の出産の時期、野ろばに住処、野牛の自由、だちょうに愚かさ、馬に力、鷹に翼、鷲の岩場の巣。森羅万象を定め、生き物に不思議な生態を与えた類なき神の知恵が披露されます。そして「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。(40:2)と主はヨブに答えます。神の知恵の前に、ヨブは人とは何者かを知り、もう口をつぐむしかありません。神が造られた世界には、人の知らない不思議な事が沢山あるのです。神の沈黙も人には不可解です。沈黙は神の不在ではなく、何もなかった又起こらなかったことを示すのではありません。神の領域があります。全ての出来事の意味を分かるわけではなく、人が知らなくても良いし、明かされるものでもない。知る権利が主張され、発信力が求められるこの世界で、知ることも神に預けて、委ねて、黙ってみことばを聞く。時に黙して、暗に語られることがある。神は沈黙し、あえて介入せずに、‘神のしもべ’ヨブへの信頼・期待を表明していたのです。次に神はその力を示されます。河馬(40:15 ベヘモテ)とレビヤタン(41:1 鰐)といった海獣が登場します。巨大で御し難く、一目で圧倒され、凶暴な獣たちは、混沌の怪物とも言われ、世の不条理や不義を象徴するとも考えられます。人の力でそれらを懐柔することは間違いなく不可能である様に、この苦しみの一因である混沌~悪人が栄え、善人が虐げられる社会の有様~を制し、治めることは叶わないと暗に語られているようです。そう人の知恵や正義、力では支配できない領分があるのです。とことん神はヨブに問いました。ヨブは神と対峙し、ようやく争える相手ではないことを知りました。(42:2)人は自らの正しさや賢さと言った知恵によっては、神を知ることは出来ません。神と出会うことによって、人は初めて知ることがあります。神はヨブにその知恵と力を示すことにより、人の限界とその高ぶりなる罪を教えています。まるで主権者の様に、神より正しい者の様に振舞っていたヨブはここで、罪-神を神としない誠に的外れな姿-を知り、悔い改め、方向転換したのです。(42:6)ヨブが苦しみから得たことは、神をより深く、大きく知ることでした。しかしこの罪の中にあっても、ヨブは主の眼には「わたしのしもべ」(42:7)でした。神は愛することを止められないお方です。今度神は自分の知恵で、ヨブを責め立てた 3 人の友人に怒りを燃やされます。全焼のささげ物を献げるように神は彼らに告げます。神の怒りをなだめ、赦しを得る為でした。神はヨブを慰めつつも、友人らをただ断罪するのではなく、あくまでも救いの道を提示されるのです。彼らはささげ物をし、ヨブは祈ります。ヨブの執成しにより、友人らは神の恵みを知らずに自らの知恵で信仰者なる友を責め立て神について不真実を語る、という愚行の報いを免れ、赦されたのです。聖書信仰は主の働きの内に罪を知り、悔い改める所に端を発します。ヨブは回復し、以前の倍の財産と長寿の祝福を受けたのです。このしもべヨブの姿は新約聖書においてその忍耐が評価されています。(ヤコブ 5:11)あれだけ嘆き、落ち着かず、揺れに揺れたヨブが耐え忍ぶ幸いのモデルになっているとは?!忍耐とは石の上にも三年と言った不動を意味するのではなく、主の愛と恵みの確かさへの確信を捨てないこと、主を求め、待ち望む信仰に生きる事でしょう。神を待つとはみことばの真実(神の約束・契約)にしっかり立ち、自分の現実を受けてゆく作業です。(ヘブル 10:35,36)苦しみの意味は明かされずとも、この世の混沌の中にも神は知恵と力をもって働かれ、しもべが罪に陥っても、諭し、愛し、祝し、用いようと御心をもって臨んでおられる。ヨブ記は沈黙・忍耐する全知全能の神と口を開き喘ぐしもべヨブの信仰の物語です。最終章では神が口を開き、ヨブは黙し聞くのです。かみ合ってないように思えても、面白いことに阿吽の呼吸で共にサタンの試み(1:9)に立ち向かっているのです。そこにただで、丸ごと信じる信仰と慈愛に富み、あわれみに満ちておられる神が世に証されるのです。シャローム!

「聞け、待て、見よ。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 8. 8

ヨブ記 33章8~18節

「神が見られない」とあなたが言う時には、/なおさらだ。/ しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。ヨブ35:14

五輪サッカーではメダルを逃し残念です。決勝トーナメントでは延長戦が多く見られました。ヨブ記でのエリフの登場はサッカーの延長戦のようです。ヨブの 3 人の友人は彼が見舞われた苦しみの意味を、ヨブの罪に対する神の懲らしめであると因果応報の考えで代わる代わる彼を戒めました。しかしヨブは自分の正しさを主張し、この世の苦悩は全て自業自得ではないと応戦します。友人らは閉口しますが、苦しみの意味はまだ見出せません。そこでどうもこれまで議論の行方を伺っていた一番若いエリフがピッチにやってきます。友人らにはヨブに罪を認めさせられなかった為に、ヨブに向けては「ヨブが神よりも自分自身のほうを義としたので」怒りを燃やしています。(32:2-3)エリフはヨブと同様、自分も神に形造られた者に過ぎないとしながらも、「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを下さる。」(33:4)そこで「聞いてほしい、聞け」と語り始めます。エリフの名は「私の神は彼」という意味で、東の人々であるヨブをはじめとする、これまでの登場人物とは違い、エリフだけがイスラエル人であったことが名前からも考えられます。エリフはヨブが何とかして神の答えを聞こうと必死であることを汲みながらも、神は人よりも偉大だと宣言し、自分の願った通りに神が答えでくれないからと言ってなぜ神と言い争うのか。神は実に色々な方法で語っておられる。それに人が気付かないことが問題である。(33:12-14)神は人にその高ぶりを気付かせ、そこから離れさせ、たましいを滅びから救い出し、いのちの光で照らして下さるのだ。(33:17-18,29-30)そう自分の正しさを主張するヨブに対して、高ぶりを指摘するのです。全能者に不正は絶対にあり得ないと。(34:10)次にエリフは「神を待て」(35:14)と告げます。ちいろば先生として知られる榎本保郎先生は『旧約聖書一日一章』の中で、「ヨブの苦しみは神を信じるがゆえのものであり、彼の不満は正しい生活のゆえに起きてきたものである。」と述べ、ヨブの苦しみの難しさについて触れています。また神と待つことについては神により、「…解決していただく時を待つというよりは、彼のゆえに現実を受け入れることである。現実から神を見るのではなく。神から現実をみることである。」(p508)とヨブが問題解決の為に立つべきところを教えています。オリンピックを観ていて、これまでやってきたことが報われることが、人にとっては何と大切なことなのだろうと改めて考えさせられました。正当な評価を受ける、ひとつの報いのしるしがメダルなのでしょう。これまでヨブは神に守られ、人々に尊ばれた輝かしい日々がありました。彼はその昔の月日を懐かしみます。(29 章)しかしまた今やあざけりの的、笑い種となっている惨めな姿をいたみます(30 章)。更にヨブは不正、偽り、姦淫の罪に陥らず、弱者へ施し、金銭を偶像とせず、敵への憐れみや寄留者へのもてなしを忘れず、耕作に励み、盗みを働くこともなかったと、身の潔白と正しさ(義)を主なる神に訴えました。(31 章)。神の契約・律法に基づいて、正しく生きてきたことを証明し、どれも責められるところはないはずだ、なのになぜ?とヨブは宣い、ある種の被害者意識を抱いたのではないかと思う節もみえます。「あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻め立てられます。」(30:21)やはり私を待つのは死だと。-これが榎本先生が言う処の、現実から神を見る視点でしょうか。一方でいついかなる時も神から見た現実は「わたしのしもべ」ヨブなのです。(1:8,42:7)最後にエリフは「見よ」と語ります。雨雲、濃い雲、稲妻、雷鳴、雪、夕立、激しい大雨、つむじ風、寒さ、氷、南風を見よ。人には恐ろしくもあり、不気味な天地の変動の中にも神の御旨がある。何よりも私たち人間には神はいと高く、計り知れないのだ。(36:26,37:12-13)エリフの弁論(32~37 章)をまとめると、神は苦しみや悲しみ、悩みを通しても語られ、また導かれる。苦難に際しても、依然として御手の中にある。苦しみは必ずしも神の裁きに結びついているわけではなく、実に神の恵みと憐みの手段ともなっていると告げます。今は光が見えないけれど、光が失われたわけではない。風が吹いて雲が払われると黄金の輝きが現れ、神の威厳が示される。全能者なる神は私たちには見出せないが、力ある方で、不当に人を苦しめることはなさらないとエリフは言葉を続けるのです。(37:21-23)但し結局それでも苦しみを巡る論争に決着はつきません。遂には PK!主なる神ご自身が登場し、1 対 1 でヨブと向き合って下さるのです。人の知恵の限界を覚えつつも、‘聞け、待て、見よ’と語ったエリフの役割は、ヨブが正当性や被害者意識を手放し、神のことばを聞くブリッジ(架け橋)になっているのかもしません。シャローム!

「神様、どうして?」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 8. 1

ヨブ記 42章1~2節

あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。42:2

オリンピックがはじまり各競技で王者を競い合っています。昆虫界の王者といえばカブトムシ。カブトムシは夜行性ですが、小学生の研究者の観察で外来のシマトネリコという木には昼間でも活動することが分かりました。しかしまだ理由は不明です。人には分からないことがまだまだ沢山あります。それは自然界だけでなく、私たち一人ひとりの人生においても同じです。コロナで大変!どうしてこんな目に合わなくちゃいけないの?こういった、どうしようもない嘆きに共感してくれる人が聖書に出てきます。ヨブ記に登場するヨブは、10 人の子ども達と全財産を敵の略奪や自然災害によって、たちまち失ってしまいました。更に命さえあれば再起が見込めるだろうヨブの健康は蝕まれ、その命が危ぶまれ、見た目もボロボロで瀕死に近い。大変な悲劇が一気に押し寄せ、打ちひしがれます。誕生日なんて最悪だ、呪われてしまえ。なぜまた朝がやってきて、今日も生きなきゃいけないのだろう―ヨブは悩み苦しみ嘆きました。今も地震や豪雨といった自然災害、コロナ等の疫病がある。周りは幸せそうでも私の身の上だけに降りかかる不幸がある。どうして?人生分からない事だらけです。子どもも家畜も、財産すべてを失い、全身を悪性の腫物に見舞われ苦悩するヨブを、3 人の友達が訪ねて来てくれます。苦しみ嘆くヨブに皆、良いことも悪いこともその人の行い次第で、悲劇や不幸に遭うのはその人の悪事のせいで自業自得。バチがあたったのだ。罪を認めて、悔い改めなさい。そうすれば、神様は良い生活に戻してくれるはずだと、アドバイスします。但しヨブには悪いことをした覚えはありません。そして 3 人の友達と幾度も会話を重ねながら、世の中を見るとその人に原因がなくても不幸や苦しみを負わされ、悲しみがやってくることがあるではないかと逆に教えます。どうもヨブは失った財産や健康を惜しんだのではないようです。彼の本当の悩みは、ヨブの人生を守り導いてくれる神様との関係でした。神様は今の私の状況を見てどう思っておられるだろうか?なぜこんな不幸に見舞われるのか、私は何も悪いことはしていない。神様と天の裁判所で論じ合いたい。その為の贖い主と言われる、私の弁護人もいて下さる。けれども、今はこの人間が天に上り神の法廷に立つことは叶わないのだ。そんな苦悩の中にもヨブは「全能者が私を」と、得体のしれない運命に翻弄されているのではない。海と空、この世界と私をも造り、治められている神様がおられる。その神様は災いも造られ、与えられる主なのだと告白。信仰者は揺れます。揺れても良いのです。そう信仰告白しても、ヨブは苦しい。苦悩と絶望の中で、彼は口を開き、神を求めて叫び続けます。けれども神はずっと黙っておられる。なぜでしょうか?それはヨブを信頼し、期待していたからです。例えば、ラグビーでは監督は試合が始まるとベンチに入らず観客席に座っています。指示はベンチを通して伝える事が出来るようですが、基本的に試合は選手達のものであり、キャンプテンはじめ選手に判断を任せているのです。神様はヨブを「わたしのしもべ」と、主を信頼して、みことばに従い、心を通わせる者として、いつ何どきも愛の眼差しを向けて、見守っていて下さるのです。実はヨブが苦しむには理由があり、神はそれをご存じで、そこに神の御心・ご計画がありました。サタンが神の許に現れ、ヨブの信仰をテストすることになるのです。神を信じれば、物事が上手くいき良いことがあるからと見返りを求めてヨブは神を信じているのではないか?(ヨブ 1:9)たとえ苦しみや悲しみがあっても、神を認め、大変な出来事も受け止めて、神と共に生きようとするだろうか?テストは実力が発揮される場で、それは信仰の証を立てる好機にもなるのです。最後に神様は嵐の中から苦しむヨブに出会って下さるのです。そこで神が神である事をお語りになられます。人には及びもつかない圧倒的絶対的な主権者です。ヨブは神の知恵や摂理は計り知れず、全知全能の神であることを告白します。(42:2)彼は神と出会いによって答えを得るのです。しかしヨブが知るのは彼の苦しみの意味ではありません。ただ神を知るのです。神はその御心のままに全てを御手の中に治め、行われる!その臨在、ご支配、愛の中に私もいることを知る。私の人生に神が働かれているのだろうかと自分の中に神を見出そうとし不安がるヨブに、神様はむしろわたしの造り治めるこの世界に、いのちの中に、あなたが入っているのだと教えて下さるのです。サタンとの会話は最後までヨブに明かされません。これは私たちの生きる道と同じです。人は人生に起こる苦しみや悲しみの意味を、「神様、どうして?」の答えを全て知る由はないのです。神様は変わらず「わたしのしもべ」とヨブを呼んでくださり、彼を慰めて下さいます。そう、神様は調子の良い時だけ、また逆に悪い時だけの神様ではありません。いつも変わらない私の主で、変わらぬ愛で私たちを愛し期待していて下さるのです。ヨブは彼の友達の為にとりなしをします。神は彼の願いを聞き、またヨブの顔をあげて下さるのです。神を見失い、不安でたまらなく、町外れの灰の中に座り、下を向いて過ごしていたそのヨブに平安が戻って来ます。その平和の証として、失われた物が回復されたのです。シャローム!

「知恵の賛歌」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 7.25

ヨブ記 28章20~28節

こうして、神は人間に仰せられた。「見よ。主を恐れること、/これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである」と。28:28

ヨブは 3 名の友人らとの問答の最終局面で、彼らの因果応報の考えを論破します。目の前の社会においても、孤児、未亡人、貧しい者等の罪なき者が不当な苦しみを受けて弱り、逆に悪者はますます栄え世にのさばっている現実がある-そうした因果応報では説明できない、過ちや罪を犯した事のない正しい者でも苦しみや不幸を経験する事があるのだと。エリファズ、ビルダデ、ツォファルの各人との数回にわたる問答は、言い分また格言を含めた 26~31 章で「ヨブのことばは終わった」(31:40)のです。中でも 29 章からの終盤の過去の回顧と現状への嘆きに入る前に、苦悩の雲間から一筋の光が差すような言葉が現れます。「知恵の賛歌」とも称される 28 章です。ヨブは苦しみの中、信仰が行きつ戻りつ揺れ動きます。苦難のヨブは独白の中で、自分の知恵によって苦しみの意味を見出そうとしても、答えが得られないと知るのです。そこで知恵(ホフマー)とは何かを問うのです。はじめに金、銀、銅や鉄といった鉱石や宝石を求めて、人は死力を尽くし、闇の果て、その極み、暗闇と暗黒へと降ってゆく様が描かれています。時に冒険、時に忍耐を有します。鉱石を溶かして金属を取る製錬また不純物を取り除く精錬といった冶金術、空の猛禽も大地の獅子も知らぬ鉱脈を見出しその坑道を掘削したり、川をせき止めたりする土木技術を人は持っています。元々こういった職工や細工人の技術の上手さが知恵とされました。現代の日本では、どこに知恵を探すでしょうか?それはゴミ箱、リサイクルステーションです。TOKYO2020 が遂に開幕しましたが、今回のオリンピックとパラリンピックのメダルの原材料は、『都市鉱山からつくる!みんなのメダルプロジェクト』として、そうした‘都市鉱山’からの使われなくなった小型家電の部品のリサイクル資源で全ての約 5000 個分を準備したそうです。知恵は職人技の上手さから派生し、次に人生を歩むテクニック、つまり世渡り上手を言いました。そして次第に「人生の本質をはっきりと見定めて握る」という意味に進みました。人はその足許に、地の深みに、知恵を探し求めます。しかし実に自分の内側や周りに知恵は見当たらないのです。「しかし知恵はどこで見つかるのか。悟りがある場所はどこか。」(12)知恵は生ける者の地、この地上のどこにも見つからない。深淵にも海にもない。その価値は人には計り知れない。いかなる金や銀また宝石にも知恵の価値は及ばない。「では、知恵はどこから来るのか。悟りがある場所はどこか。」(20)どんな生き物も、滅びの淵や死でさえも知る由はない。ただ天地万物を創造し、天下を隅々まで統べ治める神のみが知恵の道を知っておられるのだ。(23,24)知恵は神と共にあるのです。(12:13)人の求める知恵~知り得たい事はどう生きるか/どう死ぬかでしょうか。しかしこれも私達の中に確かな答えはありません。けれども全能者であり力ある神は苦しみの理由もさばきの時も、その全てをご存じです。神の許にその答えはあるのです。私達が知らずとも。神は人に仰せられます-主を恐れることが知恵であり、悪から遠ざかることが悟りだと。(28:28)主なる神を恐れることは、信じることと言えるでしょう。また神の眼差しの只中を歩むことです。そこに人は知恵が与えられるのです。知恵は信仰と深く関わっています。(ヤコブ 1:5-8)合わせて、知恵は悟り・分別といった神の眼に何が良くまた悪く映っているかを識別し、悪から距離を置くといった実際的な言動、生き様へと進ませます。(ヤコブ 3:13)人の知恵は苦々しいねたみや利己的な思いから生まれ、秩序の乱れや邪悪な行いを引き起こしてしまうことがあります。「しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。」(ヤコブ 3:17)人が神に向かって口を開く所に知恵が与えられるのです。聖書の信仰は人の口を閉ざすものではなく、むしろ開かせるものです。喘ぎ嘆く祈りのためにも、いのちのパン(聖餐も!)のためにも、福音宣教のためにも。知恵の探求また信仰は天から地へみことばが下るにとどまらず、下から上へ神に問うことで本当になる。自分の知恵に頼り、平安のないヨブ-神が敵となり、私の人生からいなくなってしまったと不安になるヨブですが、やがて神の確かな臨在と統治を知らされ、神の知恵により平和・平安が再び彼に訪れるのです。神の倉(マタイ 13:52)である教会に、神の知恵なるキリスト(I コリント 1:24)のシャロームを!

「全能者が私を」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 7.18

ヨブ記 23章8~17節、24章1~2節

神は私の心を弱くされた。全能者が私をおびえさせられたのだ。ヨブ23:16

ヨブは苦悩しています。3 名の友人との討論も22 章より三巡目となります。神を信じて真っ当に生きているのに、これまでの人生で築いた全ての財産(子どもも健康も)を失う災難に遭う。更に信仰者であるが故に、神がまるで敵となってしまったかのように思える、主なる神の沈黙と自身の揺らぎ。依然としてヨブは身に覚えのない不幸に嘆き喘いでいます。神の御座の前に行き、身の潔白を申し出たい。天の法廷に共に立って下さる贖い主(ヨブ 19:25)も居られるのに、それが今叶わないのだ。(23:2-7)彼は苦難の中で神との出会いを求めてさまよいます。(8-9 節)どうして苦しまなければならないのですか?いつまでですか?何がみこころですか?-ヨブはひたすら嘆きます。ただこの何も見えない中にも彼は「しかし神は、私のゆく道を知っておられる」(10 節)、そして私の正しさ・潔白をも知っておられると信仰を語ります。「しかし、みこころは一つである。」(13 節)神の定めるみこことは一つなのか、それとも多数(14 節)なのかと論じたくなります。原文に心や考え(mind)という言葉を補って、神が心を注がれることは一つ(He is in one mind.)であるという訳から「みこころは一つである」という意味になっています。よりシンプルに訳せば、神は一つである(He is inone.)、神は唯一無二の存在である(He is as one.)です。ここでヨブが告げているのは、神は絶対的主権者であって、全く何物にも左右されず、自由に事を決め、誰もその力に抗うことはできないということです。神はひとりひとりにみこころを備えられ、(だから神の定めは多数で、)必ずそれを成し遂げられるというのです。ヨブは「全能者(シャダイ)が私を」(16 節)と、全能なる神(エル・シャダイ)を覚えています。聖書の中で同じ告白をした人があります。ルツ記に登場するルツの姑ナオミです。飢饉の為、夫と二人の息子と故郷ベツレヘムを出、異国モアブに降り、嫁を迎え家も安泰と思えた矢先に、相次いで夫と息子達を失い、一人の嫁(しかも異邦人の!)と一緒に帰郷します。歳が行ったナオミのゼロどこか、マイナスからのやり直しでした。この愛する者達を失い、素手で帰ってきた彼女は「全能者が私を」(ルツ 1:20-21)と苦しみの淵に、嘆き悲しみを打ち明けるのです。ナオミはこの時、けれども「たとえどんな苦しみに会おうと、私たちは得体のしれない運命に翻弄されているのではありません。」(遠藤芳子、『限りない愛に魅せられて』2016、いのちのことば社、p57)と、知っていたのです。幸いをも災いをも造ることのできる神が事を決めて、それを行おうとするならば、何人たりとも抗うことは出来ない。みこころを妨げるものは何もないのです。だからこそ人はこの全能者を恐れ、御前にひれ伏すのです。喜びも悲しみも、幸いも苦しみも、すべて受け止めて、全能の神と共に歩んでいけるか-と問われ、砕かれ、その全能者の豊かさと力の圧倒的な臨在の中に、謙るしかないのです。ヨブは信じれば見返りがもらえると言った取引ではなく、「ただで」(ヨブ 1:9 )、絶体絶命の苦しみの中でも神を信じる道をあえぎながらも証しているのです。「全能者」また「全能の神」はヨブ記で好んで用いられる語で、旧約聖書で使われている約 2/3 はこのヨブ記に出てきます。この全能者の御前でサタンは、新約聖書の人を誘惑し、神と断絶させ滅ぼす悪魔とは違った描かれ方をしています。サタンは地を行き巡り、人の不正を告発する‘天の検察官’として登場します。それは悪をあばく存在で、これ自体は悪くはありません。検察の仕事が容疑者の罪のあるなしを調べ、裁判にかけ罰を求めるか否かを決定するように、サタンの働きは人の真の姿が明らかにすることが目指され、人を滅ぼす目的はないのです。そこでサタンの試みは回心を促す試みであり、人間にとってはその心を神に示す絶好のチャンスなのです。(雨宮 慧『続・旧約聖書のこころ』、女子パウロ会、1991、p214)全能者を覚えるが故にヨブは、自分では計り知れない神の御計画からこの苦しみが来ていることを知り、おびえ、神を恐れています。と同時に彼は全能なる神の定めの許にあるならばこの苦しみは因果応報・自業自得と言った、ヨブの仕出かしただろう悪に対する罰ではないとも表明します。悪者が我が物顔でののさばり、孤児、未亡人、貧しい者と言った弱者がその悪者の富を築く為の食い物にされている。神はその悪者を支えているようにも思える世の現実がある。(24 章)ヨブはここで過ちや罪を犯した事のない正しい者でも苦しみや不幸を経験する事を、社会で実際に起きている不条理な光景を紹介しながら指摘しています。これをきちんと認知せよと。(佐原光児『ヤバいぜ!聖書 あなたに贈る 40 のメッセージ』新教出版社、2019、p26-27)実にこれはヨブ記が掲げる、苦しみの意味の探求に並ぶ重要なテーマです。疫病や自然災害に襲われる昨今、そこに不信仰や自業自得を問うのではなく、どうしようもない苦しみや悲しみを抱えながらも、尚全能者の主権を認め、いのちに留まるように私たちは神に求められているのです。沈黙の中にも、天の検察官サタンの厳しい目に晒されても、わたしのしもべは大丈夫だと全能者ご自身が期待(愛)をもって見守っていて下さるのですから。シャローム!

「救いは贖い主に」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 7.11

ヨブ記 16章19~22節、19章25~27節

私は知っている。/ 私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。ヨブ19:25

映画やキャンプ等のイベントの宣伝に、その前味として短い動画が用いられることがあります。本編を垣間見、期待させる内容になっています。私たち信仰者も、天が開けたように、完成された救いや御国の前味に与ることがあります。ヨブの出会った幻の様に。ヨブ記は苦しみの意味に挑んでいます。ヨブへの初めの試みは、サタンの主なる神への問いかけ「ヨブは理由もなく神を恐れているでしょうか。」(1:9)に始まりました。ヨブは見事に、十人の子ども達と全財産を失っても、神を礼拝することをやめません。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1:21)次にサタンはこの命さえあればとヨブはやり直せる、大丈夫だと考えているかもしれない。その身を打たれたならばどうだろうかと、神にもちかけます。そしてこの時も主の許しの上で、ヨブを全身悪性の腫物で侵し、健康と命が危ぶまれる状況にしたのです。見かねたヨブの妻は神を呪って死ねばよいと激しい言葉をかけるのですが、彼は「私たちは幸いを神から受けたのだから、わざわいをも受けるべきではないか。」(2:10)と信仰を捨てることはありません。ヨブを心配した 3 名の友人たちは彼を訪問し、あまりに醜く見違えてしまう程のヨブに寄り添ってくれました。そんな彼に 1 週間も傍らに共に座す友を前に、やっとヨブは心中の苦しみや嘆きを口に出せたのです。すると 3 名の友人たちは代わる代わる、ヨブに罪を自白し、失った繁栄や健康を取り戻すように捲くし立てはじめました。ヨブがいくら潔白を訴えようとも、逆に責められ続けます。-ここにヨブの本当の苦難が幕を開けるのです。それは神が答えてくれない、その神の沈黙でした。ヨブ記 15 章から 21 章まで、友人エリファズ、ビルダデ、ツォファルとヨブの二巡目の問答が続きます。この中で年長と思われるエリファズからまたヨブを苦しめているはずの罪の指摘と悪人の末路が語られます。一生もだえ苦しみ、闇が罪人から離れることはないと。ヨブには依然として、友人達の言葉は惨めで、悩ましく、虚しい言葉の羅列に聞こえます。「あわれんでくれ」と彼は友に懇願し、それが叶わないならば後の世に理解できる者が与えられるようにと願うのです。(19:21-23)不思議にもこの苦しみ、嘆き、問答を経て、ヨブの信仰は深められ、高められます。救いの核心に迫る‘贖い主’を求める信仰が明らかになるのです。確かにヨブは神と争う者と言われます。彼自身が天の法廷に立つことを望んでいます。(9:3、13:3)聖書には「神の会議」として、天使やサタンといった霊的存在が神の許に集い、神の意思決定がなされる場として登場します。けれども、自分が人間であって、天の法廷で神の御前に立つことが出来る存在ではないことも承知しています。そこでヨブは仲裁者が必要であるとし、そのお方を冀うのです。(9:32-33)ヨブの求めは更に「今でも、天には私の証人がおられます」と神にとりなして下さる存在への信仰を告白するのです。(16:19,21)救いは‘贖い主’にある-苦しむ神のしもべの告白は福音です。ここに天が開かれているのです。‘贖い主’(ヘブル語で、ゴーエール)とは、贖いの代価を支払う人の事です。「贖う」(ガーアル)とは、「買い取る、買い戻す」という意味で、その対象は親族の土地や親類で奴隷となった者ややもめ(未亡人)です。この買戻しの権利のある近親者は、助けるために、代わりに贖い金を払って、それらを入手また解放する責任を果たしました。不正に殺された親族に代わり血の復讐を果たすのもこれに含まれています。「贖う」という言葉を耳にした時、人々は出エジプトにおける奴隷状態からの解放、バビロン捕囚後の解放・帰還や回復といった、神の壮大な救いの御業を想起しました。個人的には、悩みや敵、死などから救い出されることも思い浮かべられます。そこで‘贖い主’には、解放者、回復者、保護者、弁護者、真の証人、罪や死より贖い出す神というイメージが伴いました。ヨブはこの近親者として弁護と保証を担い、代償を支払い、一切の責任を持ってくれる‘贖い主’にこそ救いがあると、苦難の暗闇の中で、この幻(神のビジョン)を知ったのです。彼は天にこの‘贖い主’がおられ、友として、人の為に証言し、保証し、代弁し、とりなし手なる主(16:19-22)を見出しています。ヨブは幻で死から解放し、義・正しさを与えて下さる主を見、その神が与えて下さる義に委ねる事にしたのです。苦痛と孤独の中で、よみにいるようだとヨブは自らの心境を吐露しますが、そのよみ(17:16)においても贖い主が彼の傍らに立っていて下さる。「神のみこころがはっきりしないこの地上に」(榎本保郎『旧約聖書一日一章』)立っていて下さる。「ついには」、終わりの日には、すなわち神の約束が成就する日には、前代未聞の未来で、未経験の仕方で、救いがもたらされる。私自身が、私の目が、私の救いを、回復をしかと見るのだと、信仰による期待がみられます。神を見ることは、神との深い交わりの中に成されることです。ヨブが苦難の中に出会った‘贖い主’は、仲裁者や証人以上の意味を持ち、後の仲保者なるイエス・キリスト、ちりの中に立つ贖い主は復活の主と、繋がってゆく福音なのです。「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。(I テモテ 2:5)」シャローム!

「揺らぎうめくヨブ~人の知恵と神の知恵」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 7. 4

ヨブ記 14章13~22節

まこと力と英知は神と共にあり、迷い出る者も迷わす者も神のものだ。 ヨブ記 12 章 16 節

知の巨人と称された立花隆氏は『宇宙からの帰還』で NASA 宇宙飛行士へのインタビューを綴っています。そこに彼らの宇宙飛行体験は技術的な経験であると共に内的な・霊的な体験であったと述べられています。地球、自分の地平を離れる事で神に出会うのです。ウツという地に住むヨブは、その東の人々の中で一番の有力者でした。しかし一日で全財産と10 人の子ども達を一気に無くします。そして今度は自身も全身が悪性の腫物に侵されるという死を望む程の苦難に苛まれていました。彼の 3 名の友人たち~エリファズ、ビルダデ、ツォファル~は、町外れのゴミ溜めに座り嘆くヨブと共に 7日 7 晩過ごしてくれます。そこでやっとヨブは自分の苦しい心中を言葉にすることが出来たのです。けれども間髪入れずに、友人らは代わる代わるヨブに神の前に罪を認めて悔い改め、失った家族や財産、健康を回復せよとまくし立てるのです。ヨブはヨブで、その苦しみの原因は神が私の敵となり、契約関係が破綻しているからではないかと信仰者故の苦悶を抱えているのです。三人目のツォファルは一番若く、血気盛んです。完全に上から目線でヨブに迫ります。ああ言えばこう言うと無駄話が過ぎる。あなたは知恵にかけており、全能者成る神を知らない。だから私が教えよう。人には神の深さ、全能者の極みを見出すことは出来ないが、神は不信実な者を知り、不法に気付かれるのだ。またあなたの咎を忘れて去るお方だ。さぁあなたの罪をその神の御前に告白するのだ、と。(11 章)ヨブはツォファルに応戦します。そのような良識は私も持ち合わせている。あなた達の語る、死んだら消えていくような儚く実のない知恵ではない。世の中、あなた達の言う様にいつも因果応報的な事ばかりではない。この世界、自然界のすべてが、主の御手であり主権を知っており、知恵は神のものである。(12 章)無用な医者よ、癒し救うことの出来ない存在よ、もう私に関わらないでくれ。神が私の救いであり、私が義とされることを私は知っている。そして神に二つのことを願うのです。一つは御手による苦難を私の上から遠ざけてほしい。二つ目は御声を聞かせ、答えてほしいということです。(13 章)この問いは神を信じる信仰と、自分が神の敵とみなされてしまったのかというヨブの不安から生じています。ヨブは揺らぎ、うめきます。この揺らぎや呻きの中に、しかし彼は主の真実を思い出してゆくのです。尚、苦難と暗闇の中にヨブはいます。友人たちの言葉による試練と誘惑の最中にもいます。この時何らかの光が見えたわけではありませんが、苦難の葛藤において、ヨブは信仰を告白し、神とまた出会っていきます。神はいない-神様は依然として沈黙を貫かれています-と思われる所に、実に神は共にいて下さるのです。人はこの神の不在なる実在の不思議に驚きます。私たちは神を、自分の頭で理解できる領域にしばしば押しとどめてしまうからです。人の知恵には限界があり、大概背後には因果応報的考えが潜んでいます。自分を高め、よりよい生き方をもたらし、災難を回避し、幸福度アップといった上昇志向に彩られています。一方で神の知恵は人を神の御前にへりくだらせます。ヨブ記は知恵文学です。その定義は「神様を恐れることを核心、また基盤として、神の民が、この社会でよりよく生きていくために必要な(実際的、社会的、根本的)知恵を教えるもの」(渡辺睦夫『ジャンルを大切にして聖書を読む』地引網出版、2020、p431)です。最初の神への恐れがなければ、また御言葉も神の知恵によって知ったり、行ったりしなければ、この世の人の単なる処世術的な良い言葉で終わってしまいます。光の許で上っていく信仰ももちろんありますが、闇の中に降っていく信仰もあるのです。神は闇にも「よみ」にもいらっしゃるお方ですから。だからこそ光の中だけでなく、苦難や悲しみ、孤独の闇においても、この主なる神が私たちに出会って下さるのです。人の知恵は一見この神の不在の場-苦しみ、悲しみ、闇、孤独-を回避し、できるだけ素早く去ろうと図ります。そうして、神との出会う機会をも奪いかねないのです。自分に罪はあるが、その罪は神の恵みによって償われ、咎は覆われると、ヨブは罪の赦しを信じています。この神の救いの業こそが、ヨブの義・正しさへの確信です。(14:16-17)人は死ぬと、また生き返るでしょうか。いや、そうではないでしょう。しかし神の恵みの契約は死をもって切られることはないはずです。わたしは苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやってくるまで。(14:14)主を待ち望む信仰に生きるヨブは、自分の贖い主(罪を代わりに償って下さる方)、救い主、苦難からの解放者の到来を期待しています。そして、主とそのしもべとしての愛の交わりの中に回復されてゆく恵み(これがヨブの望む本来の苦難からの解放)を受け取る備えをするのです。あなたがお呼びになれば、お答えします。(14:15)「しかし」(14:18-)とヨブは続け、この世の大自然も儚く失せることがあるように、人の望みも立ち消え、神は人を死によって打ち負かし、いかなる絆をも断ち切ることが出来ると、また失望し、痛み、嘆きます。信仰者は揺らぎ呻きます。揺れ動いていてもいいのです。その揺らぎ呻きにも主が伴われるのです。シャローム!

「苦しみの本質」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 6.27

ヨブ記 6章1~7節

まことに、全能者の矢が私に刺さり、/その毒を私の霊が飲み、/神の脅威が私に対して準備されている。4節

ヨブは苦しみの淵で、3 人の友が傍らに寄り添ってくれたことで、やっと人生に突如降りかかった全財産と子ども達を一気に失う災難や病で体が打たれた嘆きを吐露することが出来ました。すると友人らは口を添えてヨブを責めます。エリファズ、ビルダデ、ツォファルは代わる代わる数回にわたりヨブと問答をします。もちろん彼らはヨブの再起を図る為に知恵を授けようとしているのです。ヨブの苦難の原因は神に罪を犯したことにある。ヨブが悪く、バチが当たったのだ。(4:6-8)そうでなければ正しい人が苦しむはずがない。失った財産・家族・健康が回復されるには、罪を認めて、御前に悔い改める必要がある。そうすれば、苦難から解放され、繁栄が戻ってくるだろうと。「私なら、神に尋ね、/神に向かって自分のことを訴えるだろう。(5:8)」エリファズは言います。「ああ、幸いな事よ、神が叱責するその人は。だから、全能者の訓戒を拒んではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒してくださるからだ。」(5:17・18)友人たちの言葉は知恵深く、良い諭しに聞こえてしまいます。しかしヨブにその言葉は慰めになってはいません。味気なく腐った食物の様でしかないのです。ヨブが発する激しい言葉は信仰者の苦しみの本質を語ります。神のしもべではなく、全能者の矢、その毒、神の脅威(6:4)に晒される神の敵とみなされてしまったのではないだろうか。しもべならば、主との交わりの中で罪が示され、神の懲らしめは人の益となろう。しかし敵として神の恵みの枠外に追いやられ、あわれみを受けられる対象から除外されたのならば、私はどう生きていかれよう。ヨブの苦しみの本質は神との契約関係が破綻したのではないかという恐れでした。ヨブは主権者なる神を信じつつも、神の真実をこの時見失っています。決してあなたを見離さず見捨てない、主の恵みや憐れみは永久に絶えることはないとの約束をも。ヨブは自分の内に神の懲らしめに価する者はない、潔白であると、冤罪を拒むのです。「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。」(6:24)これはその通りで、もしヨブが友人らの知恵に乗じて、安易な悔い改めに応じてしまうならば、もはや神を恐れる者ではありません。失った繁栄を取り戻す手段として、神を呼び求めることになるからです。その時こそ本当に主との関係が歪められてしまうのです。神は我が人生の主人なのか、我が名声の手段なのか-苦しみの最中に、信仰者は問われます。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか?」(1:9)これはサタンの主への問いかけであり、世の教会への挑戦でもあります。次にビルダデがヨブに先人の知恵を持って諭そうとします。今度はヨブの子ども達の罪が苦難の原因ではないかと言い出します。(8:4)ここにもヨブの友人たちの語る、人の知恵の背後にある因果応報の考えが終始一貫して横たわっていることが分かります。善い行いには善い報い、悪い行いには悪い報いがあるという因果応報の考えは、苦しむ者にはその人やその家に罪があるはずだという誤った決めつけを与えてしまいます。信仰を因果応報的に理解する時、神に関する言葉や御言葉そのもので人を脅し、恐怖でコントロールすることが起こります。(カルト的な考え方に成り得ます。)人にムダな懺悔を強い、冤罪に導きます。神との正しい関係から遠ざけ、結果人のいのちを奪ってしまう破壊的な教えです。ケニアで働くクリスチャン医師・公文和子さんは、生産性では計れない子どもたちの笑顔に触れ、イエス様の声にその‘友’となるべく障害児支援事業「シロアムの園」を開きました。障害は親の罪に由来するとか、家の負担であり不幸を招く者だとか言われ、障害児は家族からは喜ばれず、社会から隠れて生活せざるを得ない現実があったのです。実にケニアだけでなく、世の光なる神を知らない世界の考え方でしょう。(ヨハネの福音書9:1-7)この世の道理や人の知恵による因果応報の考えに捕らわれたまま、つまり盲目でいると、メシアなる救い主キリストが‘苦難のしもべ’であることが、目からウロコどころか、受け入れがたい存在となってしまうのでしょう。聖書は因果応報の考えを退けると共に、人の本当の苦しみは神から離れていること、神を見失い自分の存在そのものが心許なくなっている所にあると伝えます。また神の正しさを逆手に取り、隣人の苦しみや悲しみ、孤独に寄り添い理解することを放棄して無意識にも断罪していないか、問われるのです。味気なく腐った言葉を平気で吐いていないかも。(コロサイ4:6)続けて、神は沈黙を守られます。それは神がヨブを心に留め、関心を持ち、期待しているからこそなのです。シャローム!

「神のしもべヨブの苦しみ」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 6.20

ヨブ記 1章1,6~12節

【主】はサタンに言われた。「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」サタンは【主】に答えた。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。 ヨブ1:8・9

仲の良い 7 人の息子と 3 人の娘を持ち、莫大な財産(羊 7 千匹、らくだ 3 千頭、牛千頭、雌ろば 5 百頭)と大勢の使用人を抱えるその土地一番の有力者がいました。ある日、彼の牛や雌ろばといった家畜が異民族によって略奪され、使用人達も命を落としてしまいます。すると次の知らせが舞込み、神の火(雷か?)に襲われ、羊と使用人達が焼き滅ぼされてしまったというのです。次にまた他の民族に襲われ、らくだが奪われ、その使用人達も敵の刃に倒れてしまいます。財産を奪い返しに行く力を失ったところに、荒野から吹く大風によって家が倒壊し、子ども達ら全員と家の者達の訃報が届くのです。この人は非常に敬虔な者と称されていました。この信仰者に災難が次々に襲い掛かり、一日も経たない内に一気に全ての財産を失ってしまうのです。またある日、今度は彼自身が全身悪性の腫物に侵されてしまいます。風貌は一変し、骨は腐り内臓は痛み、町はずれのごみ溜めにしか居場所がなくなります。全身かゆくてたまらず落ちている土器片で患部を引っ搔くしかない。体の痛みと、心の苦しみが彼をことごとく打ったのです。何かの呪いかと言われてもおかしくない出来事が彼の人生に起こったのです。実際彼の妻は神に呪われているのだ、神を呪って死になさい(2:9)と見るに見かねて、そんな言葉を吐くのです。三人の友人が見舞いに来るも、風貌が一変し、その人だとは分かりませんでした。友人らは共に地に座り、嘆き、悲しみを表しますが、大きな痛みに苛まれ、苦しむ彼にかける言葉も見つからぬまま 7 日 7夜が過ぎます。するとようやく男は口を開き、自分の生まれた日を呪う言葉を語り出すのです。この聖書の主人公はウツの地に住む、ヨブという人で、「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」者でした(1:1)。家族の為にも主なる神に罪の赦しのささげ物をし、礼拝に生きる人でした。突然の悲劇の嵐に見舞われ、全財産を失った後にも「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」(1:21)と、上着を引き裂き、頭を剃り、悲しみを表しながらも、神を礼拝するのです。ひどい腫物に侵された時も、そんな神を信じて何になるのかと、信仰を捨てるように迫る妻に対して「私たちは幸いを神から受けているのだから、わざわいも受けるべきではないか。」(2:10)と答えるのです。けれども一向に痛みは取り去られません。ヨブは自分の生を呪い、死を待ちますが、死はやって来ません。ヨブは二つの信仰告白からも分かるように、神が全てを治め、私の全ては神のものだと知っています。この災い全ても神の許しの中で起こっていると分かっています。だからこそ、主よ、なぜですか、と苦しむヨブの姿があるのです。神のしもべ-信仰者故の苦しみ-ヨブ記は、この世で起こる不当な苦しみの意味に挑んでいます。なぜ祝福を受くべき敬虔な信仰者が、不幸に見舞われ苦しまなければいけないのか?(一方では悪者が栄え、幸せそうに暮らしているのに。)三人の友人は、ヨブの嘆きに思う処が出てきて、これより約 3 回程、それぞれがヨブと問答をします。終始一貫して、彼らは因果応報を説きます。ヨブに罪はないかと迫り、ひどい不幸の原因を彼の不信仰に求めます。苦しみの中にも、身の潔白を訴え続けるヨブ。沈黙する神。さて、神はこの苦しみの意味をヨブに教えてくださるのでしょうか?面白い事に、私たちは天上の会議を垣間見ることを許されています。地上のヨブの苦しみの背後にある、天の神とサタンのやり取りが明かされているのです。『古畑任三郎』のプロローグで事件の犯人が既に判明してしまう様に。ザ・告発者なるサタンは神に、あなたのしもべヨブは、誠に「理由もなく神を恐れているのでしょうか」(1:9)と問います。ただで、下心なく信じているのか?神の祝福が分かった上での御利益主義の信心ではないのか?と吹っ掛けます。神はその話に乗って?!ヨブを神の主権の許に、サタンに任せ、幕が開けるのです。ヨブを見舞う 3 名の友人としての是非も気になるでしょうが、少なくとも彼らが傍らにいてくれた事でヨブは苦しい心中を吐露できるのです。なぜこんな不幸が起こったのかという神を疑う不信仰を超えて、ヨブの関心事は「自分の道が隠されている人、神が囲いに閉じ込めた人」(3:23)になってしまい、主なる神との交わりが絶たれ、意味なき人生に捨て置かれてしまったのではないかと存在の根底を揺さぶられます。ただし苦悶し、主の前に嘆く中に、神は「わたしのしもべ」と称して止まないヨブと出会って下さるのです。シャローム!

「悲しみが喜びに、喪が祝いの日に」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 6.13

エステル記 8章7~17節

第十二の月、すなわちアダルの月の十三日、この日に王の命令と法令が実施された。ユダヤ人の敵がユダヤを征服しようと望んでいた正にその日に、逆にユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった。 エステル記 9:1

イスラエルは有事に強い!それは日々ユダヤ人が危機に晒されてきたからでしょう。さておよそ 2500 年前の有事!ペルシア帝国の王妃となったエステルは、第1の月、ニサンの月 13 日に重臣ハマンの悪い計略で、ユダヤ人根絶を命じる法令が王の名で発布されたことを、養父モルデカイからの伝言で知りました。エステルはスサの都にいる同胞のユダヤ人に一緒に 3 日3 晩断食してほしい願い、決死の覚悟でクセルクセス王(アハシュエロス王)の許に参上しました。王は王妃に金の笏を伸べ、彼女の願いを尋ねます。エステルは祝宴を開き、王とハマンを招待したいと申し出ました-その時に我が望みをお伝えしますと。その晩、王は眠れず年代記を持ってこさせ、侍従に読ませました。すると以前にモルデカイが門前で王の二人の宦官の立てた暗殺計画を耳にし、王へ報告した記述が見つかります。王は褒美を取らせようと、その時ちょうど王宮の外庭にいたハマンに王が栄誉を与えるに相応しい方法を相談します。ハマンはきっとこれは自分のことに違いないと、最上級の方法を進言します。けれども王が告げたのは、この栄誉をハマンにとって宿敵のモルデカイに帰するという事でした。王命あってモルデカイに、ハマンは自分が考えた栄誉を表する全ての事を行いました。嘆き悲しみ帰宅し、一部始終を家の者たちに話すと、知者たちと妻はユダヤ人には到底勝ち目がないのだと早々と敗北宣言を口にしたのです。何と!エステルが講じた策が発動する前に、主なる神は人知れず夜の王の寝所から静かに、しかし確かに神の民の救いを進められます。更に悪巧みの出所ハマンの家には既に敗け戦だと分かってしまうのです。時に王の宦官がハマンをあのエステルの招待した宴会へ連れにやってきます。酒宴の、二日目になると王は王妃エステルにその願いを再び尋ねました。すると彼女は、私の民族を助けてほしいと願い、その民を失う損害はその略奪品では補いきれないと、国にとっても大損失であることを上奏したのです。王がそんな企みを働くのはどこの誰かと問われると、エステルはきっぱりとこの悪人ハマンであると告げたのです。ハマンは震え上がり、王は憤り故に席を立ち、宮殿の園に出て行ってしまいました。ハマンは自分の命や危うい事を悟り、エステルに命乞いをしますが、それが彼女を辱めようとしていると勘違いされ全くの裏目に出ます。遂に宴会の場に戻ってきた王に死刑を宣告されるのです。その場の宦官の進言により、皮肉にもハマンは自分がモルデカイの為に立てた 20m もある柱にかけられる事となりました。しかしハマン亡き後も、ユダヤ人を根絶やしにする法はまだ有効です。エステルは王にこの法令の取り消しを求めますが、一度王命で発布された勅令は王自身も取り消すことができないルールがありました。エステルは王にモルデカイが養父であり、ユダヤ人である出自を明かしました。王はモルデカイに指輪を与え、新たに救済法を出すことを許したのです。モルデカイはユダヤ人が征服されるとの日に、自分のいのちを守るためにユダヤ人は集まり、襲い来る者たちに応戦できる法を定め、帝国中に早馬を走らせました。町には既に喜びの声があふれる、第 3 の月の出来事でした。王がユダヤ人を根絶やしにする法令を帳消しにし、めでたし めでたし…となるかと思いきや、アダルの月の 13 日にユダヤ人達は自らが立ち上がり、敵と戦い、滅ぼす必要がありました。その中にはハマンの息子 10 名もいました。スサではエステルが王に願い、翌 14 日も敵と戦います。但しいずれも略奪品には手を付けませんでした。ユダヤ人は敵から安息を得た日、悲しみが喜びに、喪が祝いに変わった月(9:22)としてアダルの月の14、15 日をプリム(くじを意味する「プル」から派生)祭として祝うようになりました。今もアダルの月に当たる 2 月か 3 月に開催されます。苦しみや悲惨な現状の中にも神は働いておられ、私が願った道、希望した方法とは異なるかもしれないけれど、主は救いと解放の道を備え、必ず果たして下さるのです。人間は神か超人的な何かが働いており、物事は人の手の届かぬ所で全てコントロールされているという変な運命論を抱きます。また世の理があり、人はその前では成す術なく、流れに逆らわず、ただ堪えるか滅びるしかない等と考えます。本当にそうでしょうか?神は人にもいのちを、生きる為の力を与えられました。平和の為に戦い、自らが動く事も、です。事なかれ主義者は神にも沈黙を望みます。けれども神はその御名さえも記されないエステル記を通しても私たちに語り掛け、イエス・キリストも十字架の物言えぬ死者で終わったのではなく、復活し、今尚救いの御言葉を全地に轟かせておられるのです。そして神とその御言葉を信じる者には、与えられた恵みに応えて生きる道、祝福と平和の宣教が約束されるのです。(10:3)シャローム!

「後ろ盾なる神」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 6. 6

エステル記 4章12~17節

もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。 エステル記 4:14

クセルクセス王(アハシュエロス王;在位BC486~465)がペルシア帝国を治めていた時のこと。王命に背き廃位されたワシュティに代わる王妃を求め、スサ城に未婚女性達が徴募されました。その中に宦官ヘガイに目に適うユダヤ人の娘エステルがおりました。彼女は王の寵愛を受け、新王妃として選ばれました。容姿端麗で果報者のエステルでしたが、自分がユダヤ人であることを後宮や王宮では隠していました。従兄で両親の死後には養育係を務めたモルデカイに命じられたからです。彼はペルシア残留のユダヤ人で、毎日エステルの安否を気にかけ宮殿の前を行き来していました。ある日モルデカイが門前に座っていると、二人の宦官が王の暗殺計画を企てていることを耳にします。彼はエステルにそれを告げ、エステルは王にモルデカイの名で告げます。この王を救った話は年代記に記されました。けれどもモルデカイを良く思わない者がおりました。王の重臣アガグ人(神の民イスラエルの往年の敵アマレク人の一つ)ハマンです。モルデカイはハマンに膝を屈めて挨拶する王命が出ていたにもかかわらず、彼にひれ伏しません。ひれ伏すことは礼拝と同じだったからです。モルデカイがユダヤ人と知っていた王の門にいた王の家来達はこれをハマンに告げ、ハマンはこの由々しき事態を前に憤りに満たされます。そしてモルデカイだけではなく彼の民族・ユダヤ人の根絶を謀ったのです。ハマンは王の治世 12 年の第一の月にくじを用いて時期を決め、言葉巧みに王をたぶらかし、第十二の月すなわち約 1 年後にユダヤ人を滅ぼす王命を王の指輪(印)をもって、発布するにこぎつけます。この忌まわしい王命を記した書簡は全 127 州に急使によって送られ、国中に知られるところとなりました。モルデカイは全てを知って後、衣を引き裂き、粗布を纏い、灰をかぶり、大声で激しく叫びながら王門の前まで出てきました。国中のユダヤ人にも悲しみと嘆きが満ち、粗布と灰の中に、断食が敷かれました。エステルは有らぬ事態を耳にし悲しみ、モルデカイに衣服を送り止めさせようとしますが、彼はそれを拒みます。事情を尋ねる為に遣わした宦官ハタクによると、ユダヤ人を根絶やしにする法令が発布され、大臣ハマンが征服したユダヤ人から没収した財産を国庫に納める算段をしていると知らせを受け取るのです。エステルは自らの同胞ユダヤ人を助けに、王に謁見し、王の憐れみを乞うように求められます。しかしそれは王が召さない限り、王の御前に出る者は死刑に処せられるという、命がけの行為でした。しばしの猶予を願うエステルにモルデカイは冒頭の返事を送ります。実はエステル記には神の名は記されてはいません。けれど苦しみの経験の只中に、断食し祈る先に、また必ず助けと救いを起こすという信仰の基には、確かなユダヤ人~神の民~を導き救う主なる神がおられる。神の民は確かな救いの在り処を知っています。たとえ神が表立って崇められておらず、社会の表舞台に登場しなくとも、主を信じその御言葉に聞き従い生きる者は神の出来事を見る。神の民を通して御国を、御救いを打ち立てようと今も働かれる真の歴史の造り手であり、支配者である活ける神が、神の民の後ろ盾となっておられることが分かるのです。亡国の危機が再び迫る苦しみが襲う中に、尚祈るのです。エステルは被征服民の孤児である私が大帝国の王妃となった不思議に神の御手を覚えていたでしょう。また身近には彼女に好意を持ち助けてくれる宦官達がありました(イザヤ56:1-8)。不幸な者や不具者といった、取るに足らない者を顧みて下さる神の驚くばかりの恵みに震えたのではないでしょうか。そして、古のユダヤの王ダビデとその子孫に神が与えた永遠の王座と世界の救い主の存在を思い出したでしょう。神の民たる使命、自分のいのちと救いの源にエステルは立ち返ります。スサの全ユダヤ人に三日三晩断食し共に祈ってほしいとモルデカイに伝え、ユダヤ人を~そして全世界を~救う為に!彼女は王の御前に決死の覚悟で参上することを決心したのです。誰かが教会のことを、宣教をやってくれる、神の御業は今もよどむことがない。しかし神は今あなたに信仰を求め、救いの使命に招かれるのです。その資格は常に神から来ます。(II コリント 3:5)大きな後ろ盾を得、自分の十字架~救いを与えまた与る道~を負って、神の栄光を仰ぎ見ながら、主の民として教会は尚この苦境も生きるのです。シャローム!

「悔い改めの後に~聖霊の満たし」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 5.23

使徒の働き2章1~4、36~42節、ヨエル2章

そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」 使徒の働き2:38

神が救いの歴史の只中へと私たちを招いてくださる。映画のヒーロー、ヒロインの様に、主に愛され召された者として。エルサレムにいたペテロたち弟子一行もそんな思いでいたのではと思いを馳せます。(使徒1:12,ヨエル 2:32)イスラエルの再興を願う弟子たちに、主イエスは「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒 1:8)と言われ、昇天されました。天をいつまでも仰ぐ彼らに、御使いがイエスの再臨を告げました。使徒たちは主の命令通りエルサレムを離れず、約束の聖霊のバプテスマ(浸し)を、心一つに祈り待っていました。五旬節(過越祭の50 日後。七週祭という春の収穫感謝と律法授与記念日)、すなわちペンテコステの日に、天からの激しい突風が吹いた様な響きが使徒たちの集う家全体に轟きました。炎の様な舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に留まると、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに異なる色々なことばで話し始めたのです。当時都には祭りの巡礼者や引退後に余生を過ごす富裕層等のユダヤ人たちが世界中から訪れ住んでいました。大きな物音がした為大勢集まってきた彼らは、それぞれの母国語で弟子たちが話すのを聞き、呆気にとられます。弟子たちは聖霊に満たされ導かれ、各人に届くことばで神の大きな御業を語るのです。ペテロたち主の弟子たちは、声を張り上げ、人々に語り、福音を説きます。まずヨエル書の預言-全ての人に聖霊が注がれる-を告げます。次に神はナザレ人イエスにより力あるわざと不思議なしるしを行い、このイエスを証しされたこと。人々がイエスを十字架につけて殺したこと。しかし神は彼を死の苦しみから解放され、甦らせたことを一気に語ります。実にこれはイスラエルの父祖であり預言者であったダビデが予見されたことである。今やあなたがたはこの復活したイエスをキリスト(メシア・救い主)と知る。そして昇天され、御座に就かれたイエスが、約束された聖霊を父なる神から受け、あなたがたが今日見たり聞いたりした聖霊を注いでくださったのだと。ダビデが天に上りキリスト(メシア)になったのではなく、このイエスこそが主であり、キリストなのである。それなのにあなたがたはイエスを十字架につけたのだ、と。(使徒 2:14-36)人々は説教に心刺され、どうしたらよいのか、問うのです。人は真の救い主に出会う時、我が罪・汚れを知ります。そして救いの道を尋ね求めるのです。ペテロは悔い改めと洗礼を受けよと応えました。神は私たちに悔い改めを求めます。悔い改めとは方向転換です。神の導きによって、みことばに沿って、価値観、人生観、心持ちをガラッと変えるのです。けれども人は自らの世界観が崩される時、それを拒否し、横槍を入れるものを一掃しようとします。イスラエルの人々はイエスが律法生活なり信仰のあり方なりを崩そうとしているのだと警戒し、拒絶し、十字架で亡き者にしてしまいます。ただ今日イエスは破壊ではなく、再生・回復をもたらそうとしていることに、人々は御言葉で気付かされたのです。興味深いことに、先に悔い改めた?!のは神ご自身です。いつも神の恵みは私たちの先を行きます。ペンテコステの聖霊降臨の下敷きになっているのはヨエル書です。いなご・バッタの大軍を遣わし、全能者による破壊の日が訪れるとイスラエルに預言されます。(ヨエル 1:15)火・炎によってエデン(喜び、楽しみ、美味しさで満ちる豊かな場、安息の地)を荒れた荒野(不毛で、命と敵の危険に常時さらされる、試練の場)とされる。しかし悔い改めよ、心のすべてをもって…わたしのもとに帰れ(2:12)と迫り、招く神は「主は情け深く、憐れみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」(2:13)お方だと預言者を通して明らかにされます。主よ、あわれんでくださいとの神の民の叫びに、ねたむほどの愛をもってあわれみ、思い直し、‘大いなること’をなさるのです。さばきから救いへ、荒野の呪いからエデンの祝福へと方向転換されるのです。しかも、償う(2:25)とまで!仰るのです。償う~シャロームと同じ語源のシャーラム~は、完全な状態への復帰・回復を言います。不信仰故の一時の呪いを溢れる祝福で満たす。この悔い改めの後に来るのが、聖霊の注ぎ、浸し、充満(バプテスマ)です。かの信仰者ダビデも罪の悔い改めと共に、聖霊を求めて祈りました。「神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。」(詩篇 51:10-13,17)悔い改めは霊なる神の大いなる御業で、祝福され、きよい心を日々新たにいただき生きる秘訣です。この歴史的な聖霊の満たしと救いは今、あなたにもやって来たのです!(使徒 2:39)シャローム!

「祈り続け、献げ続ける ~ いのれと名の付いた日に (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 5. 9

ネヘミヤ記 13章28~31節

私は異教的なもの一切から彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めにしたがって職務に就かせ、定められた時に行う薪のささげ物と、初物についても規定を定めた。私の神よ、どうか私を覚えて、いつくしんでください。 ネヘミヤ13:30・31

イスラエルの人々はエルサレム城壁を 52日で再建しました。ネヘミヤのペルシアの都で捧げた続けた悔い改めの祈りから始まった神の都の再建事業は、今や全イスラエルにも悔い改めの心を与え、城壁完成は主なる神と民との誓いと献身の好機となりました。イスラエルの民はあらゆる場所からレビ人を捜し出しエルサレムに連れて来て、賛美を奏で大いに喜び、城壁の奉献式を執り行いました。(12:43・44)まだまだ物騒で住まうには大いに躊躇された聖都でしたが、礼拝や防衛の為に、志願者やくじ引きで選ばれた者たちが移住することになっていました。(11:1・2)この後どうもネヘミヤは 12 年の歳月を費やし都の再建と行政改革に乗り出した後、ペルシアに戻り、派遣と再建を許して下さったアルタシャスタ王に一連の報告したようです。そしてしばらくの後エルサレムを再訪します。そこでネヘミヤが目にしたものは、逆戻りしたエルサレムの都でした。我が持てる物は主なる神の物と献身を表明していた人々が、神様の所有を自分の分として使い始める堕落が生じていたのです。大変な事態です。あってはならないことが起こっています。ネヘミヤがペルシアに帰ると、外敵が再度イスラエル人を脅かし、信仰も衰えて行ってしまいました。異邦人との結婚問題が再び浮上します。信仰を異にするものとの婚姻と生活は、信仰が生きるか死ぬかの大問題で、神の民の存続にかかわる一大事でした。そしてなんと雑婚問題の中心には大祭司エルヤシブがいたのです。彼は融和路線を敷き、あろうことか敵であるホロン人サンバラテの娘と孫の一人を政略結婚させ、これまた敵なるアンモン人トビヤに神殿の聖具や捧げ物を保管する大きな部屋をあてがったのです。(13:4-7,28)ネヘミヤはこの悲惨な事態にどう向き合ったのでしょうか?彼は祈りに祈ります。祈り続けます。(13:14,22,29,31)悔い改めの祈りからはじまったエルサレム再建ですが、その日も祈りの最中にありました。神の国は祈りの中に打ち立てられ、再建されるのです。御心に沿ったこと、神の御計画なる再建事業であっても、今までの苦労が水泡に帰すような体験をします。大変悲惨で目も当てられない事態が起こってくる。痛みや悲しみ、困難や辛苦はあるけれども、ビビッて恐れに飲み込まれ、もう終わりだと絶望に捕らわれる必要はないのです。尚も再建・回復に乗り出すのです。祈りをもって。ネヘミヤは立ち上がります。大祭司エルヤシブやトビヤらを追放し、悪の根を絶ち、神の国をきよめます。今度は再建と共に誓った盟約(9:38、10:28-39)がすっかり放棄されていることにメスをいれます。神の律法に歩み、雑婚をしない。安息日に商売をせず、7 年毎に土地を休ませ負債を免除する。神の宮での礼拝の為に、ささげ物をする。薪、果実や家畜の初物等を携えて来る。神殿に仕えるレビ人の為に民は十分の一を捧げ、レビ人達もその十分の一を神の宮に携え上るのである。ネヘミヤは礼拝の崩壊と安息日の商売にこの盟約の破棄を目の当たりにします。民が捧げ物を怠り、レビ人や歌うたい達神殿奉仕者は自らの手で地を耕し、日ごとの糧を得るしかありませんでした。人々が神の前に集わず、安息を失っている。御前に憩い鋭気を養うはずの日に(出エジプト20:8-11)、忙しく市場に出、神の民である我を忘れ、異邦人の商人をも招き、彼らと同じ生き方をしている。ネヘミヤは配下の者に命じ、安息日前夜から安息日明けまで町の門を封鎖し、商人を締め出し、安息日の商売には罰則を設けました。自らの手を休め神に頼って生きる心、得ることに優る献げる信仰が今問われています。祈り続け、献げ続ける!ここに神の国は到来し、救いと癒しが成るのです。神の御前に立ち、誓いを新たにする。礼拝の場が整えられ、御国と信仰者にふさわしくない異教的なもの全てが取り除かれ、きよめられる。雑婚も戒められ、これが神の信頼を裏切る大きな悪であることが確認されました。(神を信じ主と共に生き、御言葉に聞き従い、神の国の文化を築く者たちとその家庭を神は聖め、祝されます。I コリント 7:7-10)この書の最後もまた、祈りです。神の恵みを信じ、主を求め呼ばわるのです。これは御国の再建を願うイエス様の弟子達、また私達教会の主の祈りに継承されています。祈るところに聖霊が注がれ、神の救いが人の罪を覆い、堕落から引き上げられ、御国の建設事業に招かれ、安息を既に生き始めるのです。シャローム!

「再建と誓い」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 5. 2

ネヘミヤ記 2章17~20節、9章38節

私は彼らにことばを返して言った。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。それで、そのしもべである私たちは、再建にとりかかっているのだ。」ネヘミヤ2:20

ペルシア王アルタシャスタの献酌官でユダヤ人のネヘミヤは神の都エルサレム再建のために祈っていました。4 ヵ月の後、王と王妃の前で沈んだ顔をしている理由を問われる機会がありました。そこでネヘミヤは祈り、先祖の故郷ユダの都エルサレムが廃墟と化している為ですと理由を申し上げ、その再建に自らを遣わしていただきたいと願い出たのです。王はこれを許可し、ネヘミヤは通行手形と建築資材の手配をなす文書をもらい、厳重な軍の警備の許、エルサレムへと出発しました。かの地はサマリア人(分裂王国時代の北イスラエル王国の残りの民と後にその地に入植した他民族との混血)はじめ神の民イスラエルの国益を狙う者たちがおり、大変物騒だったのです。エルサレムに到着したネヘミヤは 3 日間とどまり、まだ暗い内に人知れず町の偵察に出ました。140 年以上手つかずであった城壁を再建するという良い事業を始めるとしても、必ずしも歓迎されるか分かりません。彼は思慮深くありました。自らの目で傷んだ箇所を見、時には自らの足で廃墟を歩き、城壁を調べました。その上でエルサレムの人々を集めて直面する現状を伝え、神の恵みの御手と王のことば・再建の許可を告げたのです。すると町の人々は「さあ、再建に取りかかろう」(2:18)と応答し、この良い仕事に着手しました。けれども城壁再建に際して、ネヘミヤは様々な難局を迎えます。私たちが知るべきは、難しい状況に直面したからといって、神の御計画ではない、御心に反している、神の怒りだというわけではないということです。彼には神が成し遂げて下さるとの確信がありました。神は一緒に破れ目に立ち又直し癒して下さるお方です。妨害する敵はこの神の事業に一切関係ないと、彼は雄々しく立つのです。サマリア人サンバラテ、アンモン人トビヤ、アラブ人ゲシェム、彼らの民族やアシュドデ人(イスラエルの宿敵ペリシテ人の一つ)は、城壁再建が上手くいっているとの話を耳にすると、激しく怒り、あざけり、混乱を起こして事業をダメにしようと陰謀を企てます。ネヘミヤたちは祈り、敵の侵入に備えて武装します。半分を町の守りに、半分を町の修繕にと分けて配置しました。戦の合図なる角笛がいつ発せられてもおかしくないストレスのかかる状態、昼夜問わず見張りが必要な緊迫した日々を過ごしました。その中でネヘミヤ自身もそうでしたが、門外漢の祭司や若い女性たち、金細工人や香料作り等他の職人たちも働く気に満ちて、城壁再建に尽くしていました。外敵に備える一方、ユダヤ人内部から強い抗議の声が挙がります-食べるものがない、家も畑も抵当に入れなければならない、奴隷として子どもを売らなければ生きていけない-富める者たちが同胞の貧しき者たちから金を貸す上で利子をとる等、神の民に憐れみの不在が露呈しました。ネヘミヤは負債帳消し、利子返済といった貧しき民の救済と福祉支援を率先して指導し行い、民に誓わせました。実はネヘミヤ自身が敵から自らが王となろうと陰謀を企てていると噂を流すと脅されたり、敵に買収されたシェマヤから暗殺計画が持ち上がっているから神殿に入れ(ネヘミヤはこれは祭司しか許されないことで怪しいと判断)との偽預言で陥れようとされたり、人の虚言や神の名を語っての偽りの言葉による危険にも晒されました。しかし如何なる偽言を退け、凌駕する、真実の御言葉が成るのです!こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。(6:15)とても暑い時期の工事でしたが、秋を迎える頃に完成をみるのです。ここで神の民が再び数えられます。そして祭司兼学者のエズラにより律法の書が読まれます。音読・説明・理解・喜び…民は一丸となり主なる神を礼拝し、救いの喜びを味わうのです。またバビロン捕囚からの帰還を、第二の出エジプトとして祝う仮庵の祭りを復興。大いなる救いの御業を記念し、救い主を崇めたのです。次に我々が主なる神に背き、罪ゆえに奴隷であり、大きな苦しみの中にあるかも思い出されます。民は皆で悔い改めます。続いて、隣人と神を愛して生きる決意を具体的な施しや礼拝の方法を定め、神に誓ったのです。聖書は契約の書。神の契約は恵み、一方的な賜物です。人側に落ち度があっても契約破棄にはならず、神ご自身がその約束を貫かれる。ここに人は主に信頼し、神の主権と平安の内に、喜びの応答として主に誓うのです。洗礼、聖餐、神の愛の誓いの場に私たちも今招かれているのです。シャローム!

「祈りにはじまる」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 4.25

ネヘミヤ記 1章1~11節

ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。 ネヘミヤ1:11

ペルシア王アルタシャスタの治世 20 年のキスレウの月(BC445 年 12 月または 444年 1 月)、王の献酌官ネヘミヤは、スサ(春の王都)の城でエルサレムの困難と恥辱の知らせを兄弟のハナニから聞きます。城壁は崩され、焼き払われたままであると。その名を「主は慰めたもう」というネヘミヤは、座して泣き、数日間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈りました。そう、ネヘミヤ記はエルサレムの城壁再建が綴られていますが、この一人の神のしもべの祈りからはじまるのです。近頃の書店を覗くと売れ筋ランキングの上位にカミュの『ペスト』が入っています。疫病に苛まれる生活の中で、先人に学ぼうとの思いがあるのでしょう。人は戸惑い迷う中で、歴史や先人の知恵に聞こうとします。中でも教会はみことばに、神ご自身に祈り、尋ね求めるのです。危機の時代にどう教会が御言葉に聞いて祈り、歩んできたのかを知ることは大切かつ興味深いです。コロナ禍にぜひ神学することをオススメします。私の書棚にはスイス人牧師ヴァルター・リュティの『預言者ネヘミヤ』があります。彼は第二次世界大戦直後の欧州再建期にネヘミヤ記を語ります。そしてネヘミヤの信仰を「神は、確かに、みわざを見守って下さる。まことに短い人生の時を、神ご自身の建築工事の為にお用いくださる。なんとすばらしい神がおられるのだろう!」(宍戸達訳、新教出版社、1987、p234)と紹介しています。この書は旧約聖書における「わらの書」かもしれないが、それは神の畑で育った、人の頭脳で考え出されるに優った栄養価の高い藁、聖書の藁である(p3)とも。確かにネヘミヤ記には【主】は言われたとか、【主】の御告げといった神が直接語られる場面は出てきません。しかしネヘミヤは 4 ヵ月の祈りの後、ペルシア王に直談判し、王に派遣され、エルサレム城壁再建へと馳せ参じるのです。「わが神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくださった。」(2:8)これは神の御計画と信じて!この神の都と神の民の再建事業のはじめにあったネヘミヤの祈りをみてみます。あなたならどう祈りますか?まず主の御名によってネヘミヤは祈ります。名は体を表すと言う通りに、御名は神の姿を表します。彼は神様がどのようなお方を知っており、そのご性質とお取り扱いを信じて祈ります。「ああ、天の神、【主】よ。大いなる恐るべき神よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。」(1:5)神の民の導き手、我が人生の主、神よ、あなたはこのように良いお方であるという、真に信仰告白でもあります。次に悔い改めます。根源にある神様と人との関係性(人間性と言ってもよいかもしれません)の破綻、同胞やその社会の罪を自らも負うべき罪として御前に告白しています。そして、救いを求めるのです。復興や再建事業は、単に瓦礫が取り払われたり、疫病が終息したりすることではありません。私たち教会も会堂再建を願っていますが、快適なチャーチ・ライフ以上に、天の神の栄光、この町の人々の救いを動機としているかが問われます。御心をわが心・志とするのか。一致はあるか。そこで悔い改めて、神に立ち返り、みことばに聞き従う者に【主】がなして下さる御計らいをネヘミヤは祈ります。散らされた者をそれが天の果てにあっても集め、神が選んだ場所に必ず連れて来るとの御約束に基づき、祈るのです。神の都エルサレムで今困り嘆くは、御救いに与ったあなたのしもべ、あなたの民です。どうぞあわれんでください、と。「主、憐れめよ(キリエ・エレイソン)」はキリスト教会の伝統的な祈りの言葉です。人は神の御前に出る時、実にこの言葉しか出てこないのではないかと思うのです。精一杯の言葉です。けれども神の恵み、救いに与るに充分な言葉です。(ルカ 18:13・14)神は秘かにも人に志を与え、御計画を教えてくださいます。人を用いて驚くべき救いの御業を成されます。再建そして宣教の鍵は人です。「この人」(ネヘミヤ 1:11)とはペルシア王のことです。神の御業の為に働くのは誰か?ネヘミヤは自身の献身然り、具体的に王の許しが必須であると知っていました。物事だけでなく人の心をも動かし、リバイバルの為に働かれる救い主を信じる。祈りは不信仰を乗り越えさせ、信仰を働かせ、救いを待ち望む場です。主は今尚私たちに祈りを教え、神に期待する心を与えて下さるのです。(マルコ 11:22-24)シャローム!

「絶望から再生への物語」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 4.18

ルカの福音書24章13~35節

二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」 ルカの福音書24:32

昨秋 100 歳で受洗されたクリスチャン・ホーム出身の兄弟が、先週召天されました。お葬儀は明るく賛美に彩られ、死と命また神の御言葉を共に聞くことが出来た幸いを覚え、感謝致します。死からいのちへ移された福音(I ヨハネ 3:14)の慰めと希望を尚祈ります。さてイエス・キリストが復活された日、エルサレムから 11km 程離れたエマオ村への途上に二人の弟子の姿がありました。彼らが論じ合っている所に、イエス様ご自身が近づいてこられ、旅の友として加わって下さいました。けれども彼らの目はさえぎられており、イエス様であることが分かりませんでした。弟子たちは同じ朝、墓に出かけた女性たちが急いで駆け戻って来、墓にはイエスのご遺体がなく、主が甦られたとの知らせを聞きます。墓で出会った御使いの声に、彼女たちは十字架の死と三日目の復活の言葉を思い出していました。一方で使徒たちはこの復活の知らせを戯言のように思い、信じません。そして、遺体がなくなったという更なる喪失と絶望に、クレオパともう一人の弟子は、息の詰まるエルサレムを出てエマオへの道を行くのです。人は絶望すると自分の外からの声を聞く余裕を無くします。物事の捉え方も短期的で短絡的な思考となり、過去を思い出したり、未来への展望を描いたりが出来なくなります。その絶望の閉ざされた心に、主イエス・キリストは介入されます。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」(24:17)と。私たちの主は、一人一人に寄り添って下さるお方です。コロナ禍の下で個人伝道、家庭礼拝や家庭集会、小規模の交わりが見直されています。私たち教会は単なるサバイバル(生き抜くこと)を願ってはいません。リバイバル(信仰復興、救われる人々が次々に起こされること)を祈ります。二人三人寄って祈る場に、信仰の話をする所に、神様は共にいて下さるのです。(マタイ 18:20)弟子は暗い顔をし、歩みを止め、喪失、悲しみ、落胆、怒り、驚き、疑い等等を語るのです。閉じた心を開かせ、失せた希望を回復させるのは、外そして天からの言葉です。ここに二人の弟子たちの絶望から再生への物語が幕を開けます。イエス様は弟子たちの不信仰を明らかにし、権威ある預言者、神の民イスラエルの解放者なるイエスは、罪人の手に引き渡され、十字架の苦しみを受け、三日目に甦り、栄光を受けるのではなかったかと、キリストの真の姿を問いかけます。次にモーセや預言者、つまり律法の書、預言書…と旧約聖書の既に語られ知られている御言葉・神の救いの御約束を順に、全体的に説き明かして下さいました。弟子たちはエマオより先に行こうとする旅の同伴者を引き留め、「一緒にお泊り下さい。」(24:29)と、彼らから食卓にお招きしたのです。強く勧められたイエス様は共に泊まる為に、家の中に入られ、パン裂きをするのです。そこでやっと遮られていた弟子たちの目は開かれ、この方がイエス様だと知るのです。すると、イエス様の姿は見えなくなりました。同時に彼らは心の燃えていることに気付くのです。主御自身が語り、御言葉が説き明かされた時に、くすぶっていた信仰がふつふつと沸き上がり、神への情熱の灯が再び燃やされていたのだと。二人は直ちに立ち上がり、神の都エルサレムへと、信仰の仲間の元へと戻っていったのです-救いのみことばを宿して。すると、エルサレムに留まっていた弟子にも復活の救い主イエスは現れなさったとの良い知らせを聞くのです。あれだけ、ユダヤ人指導者たちを恐れ、主を師を見捨て裏切った罪悪感に責められ真っ暗だった弟子たちの心が明るくなり、燃やされる。絶望と再生の間に横たわるのは、ただ一つ「イエス様が生きておられる」(24:23)というキリスト復活の決定的な出来事とキリストが導き与えて下さる信仰です。信仰の話をする場に神ご自身なるイエス様は共にいて下さる!救い主を去り行かせず生活に招き入れ信じる。救いの御言葉を心に蓄えて生きる。ここに神の栄光が再び輝きだすのです。これまでの歴史でも疫病は人類を恐れさせました。しかし死と超えた不死(永遠のいのち)の福音を信じるキリスト者の死生観や終末論、偏見や差別を打破する隣人愛から生じる教会の福祉・医療行為が福音の証となり、社会の希望となりました。キリストの話をしましょう!ここに絶望からの回復、死を超えた慰め、将来の希望、溢れる程の愛と救い、健やかな命があるのです。シャローム!

「イエスを捜して、主と出会う」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 4. 4

マタイの福音書28章1~10節

御使いたちは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。5・6節

復活の朝、二人のマリアが墓を見に行きます。墓にはイエスの体が亜麻布に包まれて納められ、入り口には大きな石が転がしてありました。その封印は堅く、ユダヤ人指導者たちとピラトが派遣した番兵が厳重に墓の番をし続けていました。すると見よ、大きな地震が起こった。(28:2)それは主の使いの仕業であって、天から降りて来、石をわきに転がしその上に座ったからでした。御使いは稲妻のような姿で衣は雪の様に白かった。番兵は恐ろしさに震え上がり、死人の様になりました。稲妻のようなまばゆい光を放つ御使いは、墓に着いた女性達にイエスの復活を告げます。彼女たちは非常に恐れたことでしょう。未知との遭遇に、その前代未聞の光景に恐れが生じた。神を見たらその聖さに値せぬものは死ぬという、死をも頭をよぎったかもしれません。そこに御声が届くのです。(28:5・6)『わたしは三日後によみがえる』とのイエス様の言葉は、今や誰もが聞く所となっていました。(27:63)その預言がこの朝成就したのです。神の御救いが成ったのです。復活のキリストに出会うと人はこれまでの常識が覆される。死んだ人が甦るなんて!人の物の見方を打ち破り、塗り替える、キリストの圧倒的な力が働く。私が自分自身を失い、無にされる。キリストの復活・顕現を記念し集まる主日礼拝毎に、私はこの神のみに真実があり、救いがあり、他にはないと突きつけられ、問われ、打ちのめされる。イエス様の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(27:46)という叫びをもって伝えられる十字架の死は、実に私の死である、とここに知る事になるのです。私の考え方・私の価値観・私の願いが死をみる。代わりにキリストの新しいいのちが私に訪れる。神の愛・主の眼差し・御心が私の内に宿るのです。不信仰な私が滅びた次に、復活の主の信仰が我が内に与えられるのです。人が主を捜し求める時、主との出会いがあります。昔々、神に背き損なわれた神の民に、神様は捕囚下で約束されました。「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら。わたしを見つける。」(エレミヤ 29:13)と。キリスト探しに遠い旅をした東方の博士たち、巡礼からの帰りにイエスの不在に気付く母マリア、嵐の湖で叫んだ弟子等、イエスを見つけようとする者は、神がその場におられ働かれ、御救いが、御心が現実に今成されていることをただ知るのです。徹頭徹尾、神の成せる業~奇跡で、人が入る余地はないと分かるのです。イエス・キリストの十字架はそのままの私である悲しみや苦しみから解放し、復活は新しいいのち・姿・心で生きる道への扉を開くのです。主が死に渡され、次に神によって新しいいのちが与えられるという出来事が起こった。イエスをわが主と信じる者は、このキリストと同じ永遠のいのちをいただくのです。信仰者の星野富弘氏は「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが/苦しかった/いのちより/大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」と綴っています。自分の思いに捕らわれた、古い朽ちるいのちを後にし、神の御心に生きる、新しいいのち、朽ちない永遠のいのちへと入れられる。それから女弟子達に、急ぎ行き、兄弟たちに復活とガリラヤで主が待っていることを伝えよと告げられます。そこで空の墓から立ち去ろうとする彼女らの前に「喜びがあるように」と復活のイエスが現れるのです。女性たちは御元にひれ伏し、主を礼拝します。「恐れることはありません。」死は打ち破られ、あなたがたを支配する事はもうないのだと。おびえなくて良いと、弟子達に復活の福音を知らせ、ガリラヤに行くように伝えよとお命じになられたのです。なぜガリラヤか―それは苦しみの闇が消え去り、大きな光が輝く、救いの預言が成就する場だからです。(イザヤ 9:1・2)エルサレムでは墓の封印以外にもう一つ固く閉ざされたものがありました。弟子達の集い隠れた部屋の扉です。あれだけ固く閉じられ、救いの希望をなくした世界に再び光がさす。弟子達はガリラヤで、無そして死からいのちを創られる主、全能の神に出会い、新しいいのちと使命を得るのです。復活の背後にも、それを弟子の戯言とする陰謀が渦巻いていました。暗闇の力が働いている中にもしかし「夜は今なお過ぎ去っていないが朝日はすでに輝き始めている」(ボンヘッファー)のです。古きいのち、罪や死の世界と力は打破され、新しいいのちはもう始まっているのです。シャローム!

「かなしむ者の十字架」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 3.28

イザヤ書53章,マタイの福音書27章45~51 節

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。マタイの福音書11章28・30節

人命救助には、火の中水の中、災害現場に飛び込んでいく必要があります。イエス・キリストは正に私たちの救い主として、天より降りこの地に突入(アドヴェント!)してきて下さいました。私たち人間を罪とその報いである死・滅びから救い出し、真のいのちを与える為に。そう、クリスマスの出来事です。しかし理不尽だ、不条理だという世の叫び、また声なき声は今も聞こえてきます。自然災害や病気に事故、戦火や疫病…私たちの手に余る程めちゃくちゃで、どうしようも出来ない事に苛まれる。けれども人は悲しみを負いながら、尚も生きていかなければなりません。童話作家の新美南吉さんの書いた『でんでんむしのかなしみ』というお話があります。一匹のでんでん虫がある日、大変なことに気づきます。「わたしは いままで うっかり して いたけれど わたしの せなかのからの なかには かなしみが いっぱい つまって いるでは ないか。」でんでん虫は友達を訪ね、自分の殻いっぱいのかなしみについて話します。「わたしは もう いきて いられません。」「わたしは なんと いう ふしあわせな ものでしょう。」友達のでんでん虫は、あなたばかりではない。私の背中にもかなしみはいっぱいだと言います。それじゃしかたないと、別の友達、また別の友達と訪ね歩き、自分の背負っているかなしみについて話しますが、どの友達からも同じ言葉が返ってきます。とうとうはじめのでんでん虫は、かなしみは誰もが持っているもので、私は私のかなしみをこらえていかなければならないと気づき、なげくのをやめたのです。イエス・キリストは「悲しみの人で、病を知っていた」(イザヤ 53:3)お方です。かなしみをいっぱい抱え、背負い、もう生きていけないという私たちに、イエス様はわたしもかなしみを、そして孤独を知っていると仰って下さいます。ご自身の許に招かれ、わたしはあなたと共にいるとインマヌエルのお方であることを教えて下さいました。人のかなしみを否定し、批判するのではなく、自らかなしみを理解し経験され、そのかなしみの淵まで降りてきて下さったのです。人生の破綻、傷、痛みや悲しみを、このキリストは知っていて下さる。哀れのどん底の十字架刑の際も、イエスは悲しむ者に寄り添うお方であられました。共に永遠を生きる道を示し、救いの道を与えられたのです。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ 23:43)と。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ。」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ 27:46、詩篇 22:1)。「見捨てる」とは神が離れていなくなることではありません。神の存在自体への疑いではなく、なぜ手を伸べず眺めておられるだけなのかという叫びです。イエス様は罪のもたらす破れ目に立ち続け、神が助けの御手を伸ばさずにおられるという絶望の極みまで悲しみと孤独を深められました。古のキリスト(メシア)預言に、苦難のしもべに関して、神と損なわれた神の民(捕囚の民)の対話があります。イザヤ書 52 章 13節~53 章です。神のしもべなる救い主は損なわれた民と同じ姿でやってくると神は告げます。神の民は救い主についての彼らの誤解を告白し、その真の姿を正しく知ります。【主】なる神は、このしもべが砕かれ自分のいのちを代償として捧げることにより、御心なる救いが成し遂げられると宣言され、「【主】の御腕はだれに現れたか」との問いに、「わたしの正しいしもべ」に、と答えられるのです。しもべ自身はここでは沈黙しています。逆に十字架では神が沈黙し、しもべイエス・キリストが口を開き、叫び、人のかなしみの中に-それも神がおられるのに助けてくれないという、最大の悲しみと孤独の中に-私たち人間を救う為に飛び込んでいかれたのです。キリストはあらゆる悲しみをその身に負い、罪故の醜い姿や咎故の苦しみを全部担われ、罪のないお方が罪人の身代わり・犠牲となられ、血を流し体を裂かれたのです。彼のとりなしによって、神の怒りはなだめられ、私たち人間に救いがもたらされた。荷ろばに象徴されるイエスを我が主とし、ホサナと迎える者全てと神は共におられ救われるのです。(マタイ 1:21・23,21:5・9)救われた信仰者の交わりである教会は各々悲しみや孤独を抱えながらも、どう共に生きるかを問います。そこで神に信頼し、祈り、傷を分かち合い、癒されながら歩むのです。闇が全地をおおう中で決定的な救いの出来事が起こった!今度は光と闇の世界の仕切りとなっていた神殿の幕が真二つに裂かれ、救いの光が闇を消し去るのです。シャローム!

「御前に恥じる涙の時に」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 3.21

エズラ記 9章1~6、13~15節

これはゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は言われる。 ゼカリヤ書4:6

「こんなはずじゃなかった!」と、叫びたいことが人生に起こってきます。コロナ禍また受験や異動の季節には特に、でしょうか。やっと居るべき場所、エルサレムに帰ってきた神の民にも「こんなはずじゃない!」と叫びたいことが次々と勃発しました。まず神殿再建が妨害されます。当時エルサレムには、ユダヤ人と呼ばれる以前の南王国ユダ(ユダとベニヤミン族)の民で、バビロン捕囚から帰還した人々が【主】の宮を建てはじめていました。そこにサマリア人が敵として現れます。彼らはかつての北王国イスラエルが捕囚に遭った時、首都サマリア周辺に残された人たちで、アッシリアの政策で入植させられた他の民族と結婚することで生き延びていました。はじめ彼らは協力を申し出ました。しかしそれが断られると-ユダヤ人は雑婚によってサマリア人はもはや本来の信仰を失っており異端的で同じ信仰者としては歩むことができないと判断したか、エルサレムの既得権を保持する為の経済的な策略を見抜いたか理由は記されていません-サマリア人は一転してユダヤ人を脅し、意気消沈させ、ペルシア王にユダヤ人を訴える偽の手紙を送り、実力行使で工事を中止に追い込みました。主なる神様が共にいて下さるのならば、なぜこんなことが起こるのですか?「こんなはずじゃなかった!」そんな叫びが聞こえてきそうです。さて、そこに神の預言者ハガイとゼカリヤが登場し、神の御名によって、みことばを語り、ゼルバベルやヨシュアらエルサレムにいるユダヤ人を助けたのです。リーダー達が立ち上がり、工事は再スタート!更なる妨害の危機もありましたが、神の眼差しの中で守られ、ペルシア王からの新たな支援も主が備えて下さり、神殿再建が果たされました。冒頭の預言によって、人の知恵や力ではなく、ただただ主なる神の霊によってのみ、神殿と神の民の再建が成就することを神の民は改めて知ったことでしょう。先週イスラエル考古学庁より、「恐怖の洞窟」から約 1900 年前の『死海文書』の断片がおよそ 80 個発見されたと発表がありました。旧約聖書のあるギリシア語訳の写本だそうです。みことばは時代を経ても尚、ユダヤ人の拠り所でした。今回発見された『死海文書』の一片はゼカリヤ書 8 章 16~17 節だそうです。「そのように、今や再び、わたしはエルサレムとユダの家に幸いを下そうと決心した。恐れるな。」(ゼカリヤ8:15)。神の臨在と【主の宮】の以前に優る栄光、また平和も約束されます。(ハガイ 2 章)神の時に、主の方法で、救いは必ず実現するのです。次に神の民の再建の為にこれまたペルシア王(アルタクセルクセス)を神様は用います。王の命で、エルサレム神殿復興調査隊としてアロンの家系の祭司で律法学者のエズラが、第二次帰還隊を編隊し、危険を顧みず最短ルートでやってきました。けれども彼が神の宮に上ると、指導者たちが近づいてきて、不信仰の罪が民に蔓延していることを告白します。神殿再建後にゼルバベルは帰国し、彼は王国再建のメシア(救い主)ではないと民は失望。主への情熱は薄れ、そして雑婚が偶像礼拝の罪を生んでいたのです。しかも指導者となる祭司達や代表者達がその張本人だとは!エズラは茫然自失。ようやく夕方の礼拝の時間になってから、主の前にひざまずき、嘆き、祈ることが出来たのでした。雑婚はユダヤの子孫を途切れされ、神の国を崩壊させるものでした。エズラは神の恵みと期待に応えられず、神の民が不信仰の過ちを繰り返すことに恥じ入ります。かつてソロモン王が異邦人の妻たちによって心を転じ、その不信仰故に国が分裂。(I 列王 11 章)結果、亡国となった悪夢や捕囚のトラウマも襲ったことでしょう。御前に恥じ入り涙する時、エズラの許に男も女も子ども達も集まって来、一丸となって悔い改めました。そこで神の契約を思い出し「今なお望みがある」(エズラ 10:2)との一人の民の声に、皆で神に立ち返る決心をします。「こんなはずじゃなかった!」と涙を流すしかない時、共に御前にひざまずき、祈る信仰の民にエズラは出会うのです。神の民は異邦人の妻と子ども達を追放し、信仰復興の活路を見出しました。痛みが伴い、信仰が試される出来事に、新生した信仰共同体は励まし合いながら、きっと離縁した妻子さえも主に委ね、勇気ある決断を成した。エズラはモーセと同等に評価されますが、実は誰の信仰でもなく、神の民の信仰があったのです。シャローム!

「神の都、【主】の宮の復興」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 3.14

エズラ記1章1~11 節、詩篇126篇

【主】よ ネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください。 詩篇126:4

岩手県石巻市で東日本大震災から 2 週間後「がんばろう石巻」という看板が瓦礫の中に立てられ、夏になるとどこから流れついたのか看板の周りにひまわりの花が咲きました。その通称「ど根性ひまわり」にはもう 10 世の種ができ、11 世が種蒔きを待っています。バビロン捕囚で連行されたイスラエルの人々は、2 代目 3 代目と世代が移り、約束の‘七十年を満たす’時を経ました。新バビロニア帝国の統治(紀元前 609~539 年)が終わり、次の覇者ペルシア王キュロスの第一年に預言は成就されます。また神の都への帰還と【主】の宮の復興が始まりました。キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う。」(イザヤ 44:28)例えば東松島ではブルーインパルスの帰還と飛行に復興の希望を覚えているようです。古代イスラエルでは、「ユダの君主」シェシュバツァル(ヘブル名とゼルバベルと言い、「バビロンの種」の意。エズラ 1:11・2:2)の帰還に神の民の再生の灯を見ます。彼はエホヤキン王の子孫で、かの王権を約束されたユダ族・ダビデ王の直系で、復興のシンボルとなります。また第一次帰還には大祭司ヨシュアも伴いました。被災地に再び施設や建物は造れるが、そこに魂がなければと復興を願う人々は話します。【主】の宮なるエルサレム神殿の再建と同時に、信仰共同体としてのいのちである礼拝がなければ、本当の回復とは言えません。礼典を執り行い、神と人との仲介者として仕える大祭司の存在は、神の民の魂すなわち信仰を宿し、発揮するに、象徴的かつ実務的な意味が大いにあったでしょう。こうして神の民イスラエルとユダの都エルサレム再興への道は開かれましたが、皆が等しく戻ってきたわけではありませんでした。エステルら「あとに残る者たち」(1:4)もありました。彼らは帰還と【主】の宮の建設を支援しました。エズラ率いる第二団(紀元前458 年)、エレミヤ率いる第三団(紀元前445 年)、バビロン捕囚からの帰還は捕囚の時の様に何回にも分かれて果たされました。神殿の礎が据えられたとき、「イスラエルの王ダビデの規定によって【主】を賛美するために」(3:10)、祭司たちやレビ人達が楽器を持って出て来て、主なる神に感謝を捧げ、賛美をし、大声で叫びました。歓喜の声の一方で、以前の神殿を知っている年輩者からは、喜びの叫びとは区別できない程大きな泣き声もあがりました。賛美隊の規模・力強さか何かが、‘元通り’ではなかったからではないかと考えられます。被災地がどれだけ整地されても、コロナが明けた後の教会も、同じ涙や戸惑いを通っているかもしれません。そこで帰還民が何をしたかというと、復興ソングを歌うことでした。詩篇 126 篇「都上りの歌」は、バビロン捕囚からの復興ソングです。前半でシオン(エルサレムの別名)の復興に際して、諸国の民も神の民も、【主】が「大いなることをなさった」(2・3 節)と謳います。あれだけ戦火が続いた古代オリエントでしたが、無血開城という形でバビロンからペルシアに覇権が移ります。捕囚からの解放と「約束の地」への再入植は、まるで夢、そして出エジプトの如く起こったのだと。実は神殿定礎の前に、イスラエルの民はまだ新生活が整わない中でしたが、一斉に、一人の人のように都に集って来て「神の人モーセの律法に書かれているとおりに」(エズラ 3:2)ささげ物をし、出エジプトを記念する仮庵祭をお祝いしていたのです。そこで神の備える豊かな土地と自由、主なる神の御威光に与ることのできる場に、さぁ帰ろう、都に宮に上ろう!と「捕囚の民」すべてに呼びかけたのです。後半は‘元どおりに’してほしいと、核心を突く祈りを捧げます(4 節)。ネゲブの流れと、イスラエル南部(ネゲブ)乾燥地帯で雨季の豪雨により普段水のない涸れ川(ワジ)に突如鉄砲水さながら水流が発生する現象です。その突然の出来事・怒涛の勢いになぞらえ、神の民を大勢エルサレムの都や宮に帰し、神の国の繁栄を取り戻してくださいと祈るのです。雨の後にはしばし緑が大地に宿ります。涙とともに種を蒔く者は/喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え 泣きながら出て行く者は/束を抱え喜び叫びながら帰って来る。(5・6 節)種とはみことば、種入れとは律法の書。涙の捕囚にもみことばを携えて出て行き、囚われの地にあってもその種を蒔き、祝福の実を心に生活に結ぼうとするならば、涸れた涙の後には笑顔が芽吹き、多くの収穫に喜びの声をあげるのです。神のお取り扱いによる復興に、シャローム!

「七十年を満たすまで」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 3. 7

歴代誌第二 36章11~23節

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている-【主】のことば-。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 エレミヤ書29章11節

EXILE といえば、ダンス&ボーカルグループですが、聖書では「捕囚」のことです。遂にアッシリアの捕囚にあった北王国イスラエルの様に、南王国ユダにもバビロン捕囚に見舞われてしまいます。新バビロニア帝国は寄せては返す波のごとく幾度も捕囚を繰り返しました。紀元前 597 年には第 19 代エホヤキン王が、586 年には第 20 代で最後のユダ王ゼデキヤが高官や職人達とバビロンに連行されていきます。ゼデキヤの主なる神への信仰と態度は他のユダ王達を代表するものでした。御前に悪であることを行い、うなじは固く、心を閉ざし、主の宮~神の臨在と礼拝の場を汚す。神はご自分の民とその住まいをあわれみ、神の使いとして預言者を遣わされるが、王とユダの民は彼らを侮り、蔑ろにし、迫害し退けてしまう。そこで遂に主の激しい怒りが燃え上がり、もはや癒されることがないまでになってしまったのです。逆を言えば、それまで神は忍耐し、何度も何度も回復を願われましたが、もう滅びしかないという手の付けられない状態に陥ってしまった。神は死んだ信仰、ゾンビのような神の民が蔓延しない為に、敵国バビロンを興してユダをさばかれます。多くの流血の傍ら、残りの者たちをバビロンへと移され、再起が図られたのです。その再生への道は 70 年と定められました。この 70 年の意味は 4 つ程挙げられます。①ユダ最後の善王ヨシヤの死(609 年・II 歴代 35:24)~ペルシア王キュロスによる帰還令(539 年)②第 18 代ユダ王エホヤキムがバビロンに連行された一次捕囚(605 年・同 36:6)~第一次帰還(536 年)③エルサレム陥落と神殿の破壊(586年)~神殿の再建(515 年)④象徴的な完全数(7×10)。神はさばきに‘時’を設けられ、時が満ちたら必ずこの捕囚には終焉が、つまり解放があるという、復興の光を灯して下さったのです。さて歴代誌のテーマである神の民と礼拝の回復、信仰共同体再生は、このバビロン捕囚下でどのように果たされていったのでしょうか?神の怒りはどう静まったのでしょうか?「謝罪マスター」の名を持つ元吉本興業の竹中功氏は、「イカリ(怒り)」を(逆から読み)「リカイ(理解)」に変えるのがよい謝罪だと述べています。謝罪側は、誰が誰に何を謝るかを明確にする。次にシナリオを作り、事態の説明と改善策を提示する。それはしゃぁないなぁ、まぁゆるそかと相手に理解してもらい怒りを解いていただく。コミュニケーションをとりながら、事が起こる前夜に元の姿に関係性を戻すことがゴールなのだそう。この謝罪術も面白いですが、それ以上に聖書の神はリカイを超えた和解を備えて下さっています。神様は私たちにご機嫌取りをしてほしいのではありません。聖書において事が起こる前夜に、元サヤに戻るとは、神とのコミュニケーション(交わり)を再構築することです。御言葉を退けた不信仰~敵視や無関心から、神の言に聞き従う信仰~信頼へと帰ること。罪を認め謙り、神に立ち返るのです。神の民はそのアイデンティティ・誇りを、土地と神殿に見出していました。けれども、「約束の地」を追われ、奪われ、今や奴隷です。当時土地持ちは自由の身の証でした。エルサレム神殿も破壊され、神の臨在とその加護を失ったも同然に思えたでしょう。彼らに残された唯一のものは神の言・律法でした。しかしこの主の御言葉こそ何にも勝る守りと保証、そして将来への希望の懸け橋なのです。地上のあらゆる国々、民族、そして歴史を御手に治められる神は、バビロン人もペルシア人も、救いとさばきの為に用いられます。癒し難い神の民を、傷つき踏みにじられた土地や神殿を、70 年の時を定めて安息を取り戻されるようにご計画を立てられたのです。実にキュロス王に神は働きかけ、エルサレムの主の宮の再建と神の臨在の回復、合わせて都上りなる「約束の地」への帰還がゆるされたのです。そして何よりも、神が共にいて下さることが神の民の救いとなりました。神は事なかれ主義ではありません。時が罪を忘れさせるのでもありません。罪の償いには必ず犠牲が伴います。放置ではなく、解決が必要です。そこで神ご自身が介入され、和解の道を開かれたのです。神による和解の先には揺るがない平和があります。ダビデの子、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるもの天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。(コロサイ 1:20)御言葉に耳を傾ける時、神の計画は災いではなく平安であり、将来と希望を与えるものと知り、生きる力が湧いてくるのです。シャローム!

「忘れられた神」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 2.28

歴代誌第二 33章10~17節

しかし、彼は苦しみの中で彼の神、主に嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、主こそ神であることを知った。 II 歴代 33:12・13

「記憶にござません!」政治家の常套句ですが、三谷幸喜監督で中井貴一主演の映画(東宝 2019)のタイトルにもなっています。劇中では中井演じる総理大臣・黒田啓介が、演説中に投げられた石が額に当たり、記憶を失い、本当に「記憶にございません」という状態になってしまいます。妻子含め周りの冷たい目や態度と秘書官らに聞く話によると、自分は傍若無人で全国民の嫌われ者、史上最悪のダメ総理であることが分かってきます。国会での暴言、無駄な公共事業の背後にある賄賂、美人野党党首との不倫…しかし黒田総理はこの記憶喪失を機に、せっかくだから良い夫・父、良い総理になろうと決心するのです。それからはアレコレやるも皆あり得ないほど成功してゆくという、悲劇が喜劇に様変わりする爽快な三谷劇場が展開されます。さて今日の王様マナセは、「忘れさせる者」という名を持っています。マナセという名を持つ者が聖書に初登場するのは、父祖アブラハム-イサク-ヤコブ(別名イスラエル)の家系に生まれたヨセフの息子です。ヨセフは後にエジプトの大臣になる人物ですが、異国で誕生した長男にマナセ、「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」(創世 45:51)と命名します。ヤコブの年寄り子で最愛の妻ラケルが産んだヨセフは父親より大層可愛がられました。しかし夢の解き明かしの賜物を持つ彼を兄達は鼻持ちならぬと異国の商人に売ってしまい、父には野で獣に襲われたと嘘をつきました。ヨセフは奴隷としてエジプト王の廷臣を主人に仕えますが、その妻に誘惑と嘘により牢屋に入れられます。3 年後、牢屋での出会いからエジプト王の見た夢の解き明かしをし、大臣として重用されるに至りました。良家のお坊ちゃまがある日突然、実兄達に裏切られ、異国の奴隷に身を落とすというヨセフの前半生の苦労たるや如何ばかりであったことでしょう。子が生まれた時、ヨセフは自分の労苦を忘れさせる以上の神様のお取り計らい、その大きな守りと恵みの計画を覚えました。後の時代の同じ名を持つ、ユダ王マナセは一体、何を「忘れさせる者」だったのでしょう?歴代誌のマナセの父ヒゼキヤは良王として知られます。ヨセフの様に人の悪事に翻弄されても、神が共におられ全てを良しとしてくださると告白する子に育ってほしいとの願いを込め名付けられた王子だったでしょうか。けれどもマナセは父ヒゼキヤのように歩まず、主の前に悪に悪を重ねます。バアル、アシェラ、天の万象、モレクといったありとあらゆる周辺諸国の偶像に、ユダの町も主の宮までも取り囲ませ、身辺の守りを堅めました。神の言を退け、卜占、まじない、呪術、霊媒、口寄せをし、ユダ国やエルサレムの民をみことばから遠ざけ、迷わせ不信仰に陥らせました。多くの人の血も流されました。(II 列王 21:16)そこで主なる神は一つのさばきを起こします。アッシリアの息のかかった将軍たちを動かし、御すことを拒む野獣のようなマナセに鉤をし(鼻にフックをかけ)、青銅の足かせをはめ、属州バビロンへと連行しました。しかしマナセは苦しみの中で、何と!神に嘆願し、御前にへりくだり、主を尋ね求めたのです。すると、神はマナセの祈りを聞き入れ、彼をユダの王都エルサレムに戻してくださいました。マナセは救われたのです。ただし、回心したマナセが記憶喪失になったのではありません。むしろ「記憶にございません」と、マナセの悔い改めをご覧になり、罪をもう思い出さない、咎を課さないと、一切を忘れたのは神様の方です。神の願いは悪者が主なる神に立ち返り、滅びから免れることです。いのちを得よ、生きよ!と尚も呼びかけて下さるのです。(エゼキエル 18:21-23,30-32)神は罪人を懲らしめようと悪のリストを手に待ち構えているのではなく、私たちを恵もうと待っておられるのです。(イザヤ 30:18)ヨセフがその子マナセを得た瞬間と同じに、今日私たちがユダ王マナセの救いの証を聞く時、神の憐れみ深さ、大いなる救いのご計画に驚嘆すると共に「主こそ神」と告白するのです。ヨセフは兄達を赦し和解しますが、マナセは神と和解し、空虚な偶像を一掃しました。神様が彼にして下さった様に、主なる神を王国、王都、王座に迎え入れました。このマナセ王の物語は旧約聖書の放蕩息子として今も語り継がれています。シャローム!

「捨てられた神」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 2.21

歴代誌第二28章16~25節、イザヤ書7章1~17節

彼に言え。『気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木々の燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。』 イザヤ7:4

静まり、神を知る。神の美しさを我が心に映す。ここに健全で豊かな命がある。人が麗しい神を捨てる時、それは人生の危機です。紀元前 735 年、南王国ユダの若き王アハズは二十歳で即位しました。対新アッシリア帝国を名目としたアラム・エフライム(イスラエルの別称)同盟は、彼を同志にと誘いましたが、アハズは参加を断ります。そうしたところ、アラム・エフライム同盟はユダの都に攻め上って来ました。アハズ治世 2 年目のことでした。イザヤ書を開くと、アハズはパニック!まずは命の水を確保せねばと上の池の水道の端、布さらしの野への大路に出向きます。もし王国が乗っ取られれば、ダビデの家の子孫が絶えてしまうという不安や恐れに駆られたのでしょう。王の心も民の心も、揺らぎに揺らぎます。一方、主なる神は預言者イザヤをその息子と共に、アハズの元に遣わします。イザヤは召命に従い、アハズに現れ、冒頭のみことばを告げます。気を確かに持て、落ち着け、恐れるな、そして心を弱らせてはいけない。彼らはあなたと国を脅かすが、その悪事は成らず、むしろエフライムの滅びの時は決まっている。あなたがたは、信じ(アーメンし)なければ、堅く立つ(アーメンする)ことはできない。(イザヤ 7:9)-信ぜよ、わたしがあなたとその国を確かに立てると。更に、しるしを求めよ(7:10)と主なる神がアハズにおっしゃられたのです。けれども、アハズはみことばを退け、一見信仰者を装い、あいまいな返事をします。私は求めません。主を試みません。(7:12)この答えは彼の本心、神を求めない不信仰を露わにするも同じでした。アハズのみことばを乱用し、信仰的な決断ができない不信仰への言い逃れに、お前は人々をもどかしい思いを抱かせるだけでなく、我が神までも煩わすのか!とイザヤはキレます。ここで「私の神」とイザヤは言います。既に主は「あなたの神」すなわちアハズの神ではなく、彼が神を捨てたとほのめかされています。それゆえ、神ご自身がユダ・ダビデの家を顧みて、一つのしるしをお与えになるのです。あの有名なインマヌエル(神共に在す)という預言です。それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(7:14)神はどこにでもいるような小娘からでも子孫を起こすことができる。蜂蜜と凝乳を食す時代、つまり畑を耕したり、牧畜をしたりすることができない戦時中であっても、不思議な人の知らない所で神は救いの御業を働かれると、ダビデの永遠の王座と王国のしるし(象徴・奇跡・保証)を約束されました。王や神の民が主なる神を捨てたのにもかかわらず、神の臨在はユダを去ることはないと仰られたのです。本来ならば、アハズが向かうべき所は水源でなく、いのちの水なるみことばを取り次ぐ預言者イザヤの元だったはずです。しかし神はイザヤをアハズに派遣し、イザヤの息子シェアル・ヤシュブ(「残りの者が返ってくる」)も伴わせ、これから戦が起こり、大国の捕囚に遭えども、神の民なる信仰者は残され、都に帰還するという、国とダビデ家の存続という希望を示してくださいました。結局、アハズは神の側に就いたのではなく、アッシリアに貢物を贈り、助けを求めてしまいます。しかし王の訪問は、アハズの力になるどころか何の助けにもならず、むしろ彼を苦しめました。(II 歴代 28:20-22)この国際的プレッシャーの中で、アハズは益々主なる神を裏切り、主の宮を捨て、ダマスコ(アラムの首都)の神々を拝み始めます。ただ皮肉にもアッシリアによりアラム王レツィンは倒され、ダマスコも何の力にもなりませんでした。歴代誌第二に現れるのは、捨てられた神の御姿です。社会的なプレッシャー、血生臭く殺伐とした世の思い煩いの内に、人は御声を聞けず、自己中心に陥り闇を歩み、神を捨てます。水源や子孫といった生命への心配は常にあるのに。根本の命の源を価値なしと棄て、時に自分の命も放棄しようとする。他方神は御子の命を世に与え、私達含む世を見捨てず、救い、愛を貫かれました。主イエス・キリストはインマヌエルの印であると共に捨てられた神です。真に不思議な事にこの家を建てる者に捨てられた石が、選ばれた尊い要石となる。(詩篇 118:12-14、I ペテロ 2:6)主はアーメンと告白し祈る者に、御自分のアーメンをもって応えて下さる。私達も霊の家、教会において生ける石とされるのです。シャローム!

「みことばのともしび」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 2.14

歴代誌第二 24章15~25節

しかし、主はダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると約束されたからである。 II 歴代21:7

今日はバレンタインデーです。最近はフラワーバレンタインという男性が女性に花を贈る形もあるそうです。バレンタインデーの起源は 3 世紀後半のローマにあります。皇帝令により徴兵の為に若者たちの結婚が禁止されていましたが、司祭バレンティヌスは秘密裏に結婚式を挙げてやっていました。それが皇帝の耳に入り彼は捕えられます。当時のキリスト教迫害下で、ローマの宗教への改宗を迫られ拒否した咎で、処刑されました。バレンタインは実は彼の殉教記念日なのです。この日は愛を祝い、カタチにする時です。生涯クリスチャン医師であった日野原重明さんは「愛とは、誰かの心に、希望の灯をともすことです」と語っています。暗殺に次ぐ暗殺、血で塗られた古代イスラエルの分裂王国、このユダ王国の歴史の中でも神様はともしびを絶やさないと、ダビデとその子孫との契約故に約束し、愛を示されたのです。聖書にあるヨアシュは南王国の 8 代目の王でした。彼の生い立ちは大変複雑でした。ヨアシュの祖父はヨラムと言い、先週の礼拝説教で聞いたヨシャファテの息子でした。ヨシャファテはダビデの心(信仰・霊性)を持ち、民共々みことばに囲まれ、神と共に歩みましたが、神に背く偶像礼拝が慣習となった隣国イスラエルと手を組み、政略結婚で外交的にも安泰を目指しました。長男ヨラムを釣り合わぬくびきで、悪王アハブと邪悪な王妃イゼベルの娘アタルヤと結んでしまいました。次にヨラムは王になり、権力の座に就くと、自分の兄弟を皆殺しにしました。ダビデの心に歩まず、むしろ神の目に忌まわしいアハブ家に心を寄せます。王の不信仰はユダ国、都エルサレム全土に及びます。神はこの由々しき事態に介入されます。ダビデ家の往年のライバルであったペリシテ人と、アラビア人が用いられ、末子エホアハズ(後のアハズヤ)以外の妻と息子達の命と財産が奪われました。その最期はエリヤの預言通りに、進行性の内臓の病に侵され、40 歳で 8 年王位にありましたが、人々に愛されることなく世を去ります。残ったアハズヤ王も即位僅か 1 年で、クーデターを起こしたイスラエルの将軍エフーに殺害されます。息子の訃報をきいた直後、あのアタルヤはユダ王家の血を引く者全てを亡き者にしようと動きます。アハズヤの兄弟のエホシェバは、ただ一人幼い甥のヨアシュを連れ出し、神の宮でかくまいました。アタルヤは女王として 6 年間君臨しますが、エホシェバの夫であり、祭司であるエホヤダは 7年目にユダの民を決起させ、7 歳のヨアシュを正当な王として立て、政変を起こしました。アタルヤは剣に倒れ、ヨアシュの治世となりました。この多くの血が流された歴史は、神の民ユダのものでした。神はその都度悪に加担して行くのを止められ、滅びを招く歩みをストップされました。真に「神には、助ける力も、つまずかせる力もあるからです。」(II 歴代 25:8)さて、ヨアシュはやっと日の目を見ます。彼もまた神の約束なる「ともしび」でした。「ともしび」とはダビデ一族・ユダから出る統治者です。アハズヤもヨアシュもただ一人残った王子達でした。人の目には今にも消えそうな弱い光ですが、神の目には確かなともしびでした。ヨアシュの生涯の前半は、祭司エホヤダに育まれ、守られ、支えられ、主なる神の目に適う歩みをしましたが、後半はなんと主の宮を捨て、偶像礼拝に走りました。なぜこんなにも違う生き方となったのでしょうか?ヨアシュの根本は権力に翻弄され、強権的な性格でしたが、その態度は誰の声を聴くかで左右されました。祭司エホヤダの聞き従った神の言から、王を伏し拝む人の声への変化が理由でしょう。神により神のかたちに造られた人間は、神から離れると人らしく生きられなくなります。ヨアシュもそうでした。もう一つの「ともしび」は、みことばです。神は何度も何度も、ともしびを絶やさぬよう預言者を送りました。ヨアシュに遣わされたゼカリヤもそうでしょう。神は悪者でも滅びることを願わず、義人の命を賭してでも彼らを救おうとされるお方です。その最たる救いが、主イエス・キリストの十字架です。(マタイ 23:34-39)実にこのお方こそ、ダビデの子孫であり、神の言なる「ともしび」なのです。バレンティヌス没より約 2 世紀後、くじで毎年パートナーを変える風習にメスが入ります。代わりにくじは未婚女性の名前ではなく、聖人の名前が記され、引いた聖人を模範に 1 年過ごす新しいやり方が導入されました。私たち教会は「ともしび」を絶やさずにどう歩むのか?それは主イエスの信仰と愛の内で、みことばを手本に、神の委ねられた良いものを聖霊によって守ることです。(II テモテ 1:13-14)シャローム!

「みことばに取り囲まれて」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 2. 7

歴代誌第二 17章1~10節

彼らはユダで教えた。【主】の律法の書を携え、ユダのすべての町を巡回して、民の間で教えた。同9節

小さい頃、毎晩ぬいぐるみに取り囲まれて寝ていました。好きな物が側にあるのは幸せで安心します。皆さんは何に囲まれて暮らしているでしょうか?今日登場する南王国ユダの王ヨシャファテは、主の律法~御言葉に取り囲まれて暮らす生活を推進しました。「巡回して」という語には、「取り囲む」「包む」という意味もあります。地の形あるものはやがては朽ちて失せますが、天の神の御言葉は永遠に堅く立ち変わりません。国は富みもし貧しくもなりますが、御言葉に養われた心は常に豊かです。ヨシャファテは自分だけでなく、国全体が御言葉に取り囲まれることを願い、具体的な国家政策に出ました。御言葉は何を恐れ、何を恐れなくて良いかをわきまえさせ、真の自由と平安に導きます。ユダの民に生じた【主】を恐れ畏む姿が、周辺諸国にも伝わり、この神のご威光故にユダの地に他国が攻め込むことはありませんでした。彼らは神とその御言葉に包まれ、守られ歩みました。では今あなたを守るものは一体何でしょうか?繰り返しになりますが、歴代誌は神の民、殊に南王国ユダの歴史が綴られています。ヨシャファテは紀元前 873 年頃から 25 年間王位に在りました。しかしこの歴史書はもっと後のバビロン捕囚からの帰還(紀元前 538 年)後に世に出されます。首都エルサレムに帰って来たユダの残りの民は、神殿や城壁を再建し、新しく神の民、礼拝共同体として生き始めようとします。昨今社会では女性らしさ男性らしさを巡る話題が尽きませんが、そもそも‘人間らしさ’、人としてどう生きるかが問われるべきことでしょう。聖書は本来の神のかたち(性質や働き)に造られた‘人’とはどういう存在か、礼拝の民として生きる道は何かを、私たちの創造主なる神の言葉として教えています。奴隷根性、ある種縛られた生き方から、本当の主を知り、自由に喜んで平和・平安の内に暮らす生活が綴られています。ヨシャファテは、41 年の長期に渡り国を導いた父アサ王の後に、安定した統治を引き継ぎます。そこで国の軍備守備を固めます。ダビデ王の様に主を尋ねまた慕い求め、似非の神を廃し、偶像礼拝の場を取り除きました。高官を派遣し生活環境を整えると共に、祭司やレビ人達による御言葉教育によって、信仰心・霊性も整えていきました。御言葉を深く学び、主を求めて生きる道が民と国の真の安泰に繋がると知っていたからでしょう。彼は【主】の道を大いに誇りとしていました。軍事、司法、そして神の民・人々のいのちの根幹である礼拝を、ヨシャファテは神の国の王に相応しく整備しました。けれども、揺るぎない統治政策に失策となる事件が起こります。事もあろうか、聖書では悪名高い王アハブと手を組むのです。息子をアハブとイゼベル(異国から嫁いだ王妃、バアルを信奉し、真の預言者エリヤを苦しめた)の娘と政略結婚させ、協調路線を歩み始めます。当時北方に興った新アッシリア帝国の脅威に怯えたのでしょう。片割れとはいえ、既に似非の神なる金の仔牛を作り、偶像の支配下と化した北イスラエル王国と組むのは、政策や信念は相容れずとも与党に対抗する為だけに連立を組む野党のようです。嫌な予感の通り、南北朝の王が揃って預言者の言う事、すなわち神の言葉に耳を傾けず、ラモテ・ギルアデ戦に出陣し、アハブは戦死、ヨシャファテも命からがら敗走し、エルサレムに戻ったのです。しかし、不信者と釣り合わぬ軛を負った彼とその国ユダには、後代にイスラエルのアハブとイゼベルを代表する背神行為が及び、偶像礼拝の蔓延と王族が一人の王を残して身内に虐殺されるという神の怒りをとさばきを受けることになるのです。先見者エフーによって、ヨシャファテはこの悪事を指摘されます。一方、心定め神を求めてきたことは神の眼に良しと評価されます。(出エジ 20:2~6、 II 歴代 19:2・3)大概善い方に軛は重く圧し掛かります。安易な協調は、さばき、破滅、苦難を与えます。この世にある私たちはどう考えれば良いのでしょうか?この社会にも神は働いておられます。やはりその御声を聞き、証や賛美となるかが、タイアップする時のポイントでしょう。帰還したユダ王は再び、御言葉教育と礼典を司る主の事柄と裁判等司法を司る王の事柄を整えました。(19:4~11)神の民、この世の教会の働きは人々を御言葉が聞けるように整え、一緒に御声に聞き従って生きる場を整備することでしょう。救いが届き、救いに生きるかが基準です。「勇気を出して実行しなさい。【主】が善を行う者とともにいてくださるように。」シャローム!

「みんなで取り組む、宣教と弟子づくり」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 1.31

マタイの福音書 28章16~20節

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ28:19,20

同盟福音基督教会の今年から始まる新五ヵ年計画の標語は「みんなで取り組む、宣教と弟子づくり」です。聖句として大宣教命令が掲げられています。‘イエスは主キリスト’と信じて生きる弟子の群れである私たち、今の教会はどのようにこの御言葉に聞き従えばよいのでしょうか?「弟子としなさい」を軸に、3 つの具体的な働きの要素が告げられています。イエスの宣教は、御言葉に聞き従う者と聞いても疑ったり無関心に去って行ったりする者との緊張感の中で成されました。復活後から昇天に至る地上で最後の説教の場においてもそうでした。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と福音を告げられ、権威を持って語り、宣べ伝えた御国をご自身が地上に、その生活の場に、主と交わる人々の生涯に現わされました。イエス様が語るなら、語られた言葉がその通りに実現する。実際に目の前に御言葉が立ちあがって出来事となる。聖書、殊にイエスの生涯を書き留めた福音書に見える神の宣教はいつもこうです。マタイの福音書では、アブラハムの子孫として全世界の大いなる祝福の基なるイエスを紹介し、ダビデの子孫として永遠の御国と王座を約束されたイエスを伝えています。また旧約聖書の預言者で、十出エジプトの立役者となり、十戒を預かったモーセの如く、山上の説教等で律法を説く。しかしそれ以上に全ての律法を成就するイエス・キリスト(メシア)の姿も浮かび上がらせています。大宣教命令と呼ばれる、マタイの告げるイエスの遺言(マタイ 28:19~20)は、一言でまとめると「弟子としなさい」です。主イエスに従いゆくけれど、時に失敗し信仰揺らぐ弟子達に命じられた御言葉です。最初に「あなたがたは行って」と言われています。弟子は主の許に居ることが前提です。悔い改めて、つまり神を知らぬ世から 180 度方向転換して、わたしの許に来なさいと、主イエスはまず私たちを救い主なるご自身の懐に招いて下さいます。そして今度は主と共に再び 180 度回り、この世に向き直り、遣わされて行くのです。月足らずで生まれたような最も小さな弟子と自称するパウロ(I コリント15:8・9)は、迫害していた彼に向かって、主イエスが「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。」(使徒 26:17)とのみことばを聞き、合わせて 360 度!の回心を果たすのです。あらゆる国の人々とあると、異国へ伝道する宣教師への召しかと考えますが、必ずしもそうではありません。同じ国や地域に住む者達、家族や友人、同僚、近所といった人達の所に、御救いの知らせ、新しいいのちを携えて「行く」のです。宣教地はごく身近にもあります。主はそこに戻れ!帰れ!ではなく、行け!と仰られるのです。「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」と続きます。洗礼式で耳にする言葉です。信仰者はこの罪の世と縁を切り、キリストと結ばれ、三位一体の神様の交わりの中に入れられ、その愛の中に浸されます。恵みのプール、清めの沐浴、体の芯から温まる癒しと疲労回復の温泉⁈…どんなイメージでしょうか。あと産湯。神の子どもとして新しく生まれた者を、教会は神の家族として迎え入れます。三つ目「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」主であり師なるイエスが語るに倣い、弟子もまた語り教えるのです。ここで命じられた「教える」とは、特に聖書~書かれた神の言葉を教えることを意味しています。それならば、聖書は私たちの手元(スマホ⁈)にもあります。イエス様の側近であった使徒達でなくとも、主の命じられた教えを知り、学び、伝えることが出来ます。主イエスにとって律法を教えることは、御言葉を守り行い、天の御国~憐れみ深い神のお姿とその良き働きをこの社会に現わされることと繋がっていました。教えるとはキリストの生き方を私の生き方とする、私たち教会の姿勢、成長、信仰が活きて働くライブ感が問われることです。あぁ憧れの聖研(聖書研修会)、家庭集会⁉そこは信仰のライブです。大宣教命令を聞く時、その根底にあるイエス様が私たちに全身全霊で仕え、語り、教会を信じて下さっている愛に震えます。イエス様は十字架と復活の御業によって、私たちを御許に集め、神の子どもとして迎え入れ、御言葉に生かし、キリストの身丈にまで成長させて下さいます(エペソ 4:13)。主はこの私たちに救いのことば、罪を赦す権威と祝福となる恵みと使命を託して下さったのです。ここに神の愛があるのです。シャローム!

「復興へののろし」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 1.24

歴代誌第二 13章4~12、18節

しかし、私たちにとっては、主が私たちの神であり、この方を捨てなかった。また主に仕える祭司たちはアロンの子らであり、レビ人も務めを果たしている。 同 10 節

阪神・淡路大震災から先週で 26 年目を迎えました。神戸の街の 1.17 の集いでは今年、「がんばろう」という復興の合言葉が並ぶ灯籠で浮かび上がりました。3 月には東日本大震災から 10 年目を迎えます。海の向こうの米国ではバイデン新大統領が誕生しました。Build Back Better(より良い復興、創造的復興)が彼の選挙戦のスローガンでした。ここで改めて歴代誌の執筆目的を確認すると、それはバビロン捕囚からの解放後の神の民の再生、礼拝共同体の復興です。歴代誌の著者はその聞き手に、黄金時代から分裂王国へと栄光のイスラエルが転落し、王権も弱まった彼らの先祖ユダ王国の民に起こった、アビヤ王の復興ののろしを見せるのです。アビヤ王制は 3 年の短期政権でした。これから神の民はバビロン捕囚へと凋落の一途を辿るのですが、その中であっても信仰の灯が仄かにも輝くのが見えます。栄華を極めたソロモン王の後、その子レハブアムが王座に着きます。しかし彼は民の声に耳を傾けず、ユダとベニヤミン部族以外のイスラエルは、ヤロブアムに就き王国は分裂。レハブアムを王とする南ユダ王国とヤロブアムを王とする北イスラエル王国に二分されます。ヤロブアムはソロモンの家来でしたが、その手腕と神の預言により 10 部族を治める王になることが告げられた為、ソロモンに殺されそうになり、エジプトに亡命していました。(I 列王 11:26~40)神に就くか否かが、神の国の存亡を決めました。御声に聞き従い、心捧げて礼拝し、主に尋ね求めて生きるならば、王権は強固になり、国は守られます。一方で律法を捨て去るならば、不信仰故に国は脅かされ、王権は転覆するのです。これはレハムアブの場合も、ヤロブアムの場合も、南北朝いずれも同じの神のご支配の現れ方でした。但し殊にダビデの子孫であるユダに神は目を留められ、ダビデに免じて、また王達が悔い改め、神を尋ね求めることにより南王国を滅ぼすのを留まっておられました。レハブアムの次に王として立ったのが、アビヤでした。列王記ではアビヤム(「私の父は大海のよう」)と呼ばれていますが、歴代誌ではアビヤ「わが父は主である」という名で記されています。アビヤは王の寵愛を受けたマアカの子であり、将来は王にと嘱望されて育ちました。アビヤに関しては、米国大統領の様に、善王か悪王か議論があります。列王記では彼は、かつて自分の父が行ったあらゆる罪の内を歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、【主】と一つにはなっていなかった(I 列王15:3)と悪王の様相です。けれど歴代誌ではアビヤに先祖ダビデへの神の約束を語らしめ、信仰と礼拝を重んじる神の民本来の姿を訴えさせています。まるで古の時代を描く映画やドラマを通して人が今の生き方を考える様に。王となったアビヤは粋がった様子で、80万の精鋭を擁する北王国とヤロブアムに宣戦布告をします。父王が臆病で力を持てなかったとしながら、父王の 2 倍以上の軍事力 40万人で自ら出陣します。塩の契約~永遠不変の神の約束として、ダビデとその子孫、つまりユダ王国に与えられた王位の正当性を語ります。他方金のエゲル(仔牛)をエル(神)として、発音が似ていても非なる、似非の神をこしらえ、神共にいますとうそぶくヤロブアム。正当なアロンの子孫である祭司達と神殿奉仕者レビ人を追放し、なんちゃって祭司達が礼拝を司る神の国としては異様なあるまじき行為を非難しました。アビヤはそこで、しかしヤロブアム、北イスラエルが捨てた神こそ主なる神である。南王国ユダは神を捨てず、むしろ神は私たちと共におられるかしらだ。退けられたアロンの子孫らが祭司で、レビ人も務めを果たすと宣うのです。最後イスラエルの人に、この父祖の神・主と戦うな、到底勝ち目がないからと念を押すのです。この時ヤロブアムは伏兵を回してユダ軍を挟み撃ちにする作戦に出ていました。戦いが始まるとユダ軍は主に叫び求め、ラッパを吹き鳴らしました。すると神は北王と軍を打ち負かし、50 万が南の剣に倒れ、ユダは勝利を得ます。ユダがその父祖の神に拠り頼んだからです。北王は遂に滅びます。善王悪王の評価ではなく、神を求める者に主が応え、信仰と礼拝を守って下さるとの証がこのアビヤ物語です。復興に疲れて来、無気力無関心に陥ったり、奔放な生き方に走ったりする帰還民に、神ご自身が主に信頼して生きる神の民の礼拝回帰の狼煙、社会の回復への希望の灯を点して下さるのです。シャローム!

「知恵と知識との宝を求めて」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 1.17

歴代誌第二9章1~12節、マタイの福音書12章42節

南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。

大学入試センター試験改め、大学入学共通テストが昨日から始まりました。大学生のクイズや芸能人の能力査定番組が、最近特に人気を集めています。また生活の知恵を紹介するコーナーが新聞にも報道番組にも欠かさずあります。豊かな知恵や知識、賢さへの憧れと探求は、人の心や社会を動かします。今日は当代きっての知者と謳われたソロモンを訪ねて、遠路はるばるやってきたシェバの女王のエピソードです。シェバは南アラビア(南西の現在のイエメン辺りかとの説も)にあった国です。広がる砂漠のおかげで敵の侵略から守られる一方、この地域は肥沃かつ灌漑工事も進んだ土地で産物が豊かでした。ラクダの隊商だけでなく、エチオピアやインドとの海路も確保され貿易に明るい国でした。シェバの女王の訪問も通商条約の為の、政治的経済的かつ外交的な意味合いが強いものだったと考えられます。しかし聖書は彼女がソロモンの知恵や栄華が本物かを見極める為、彼を試そうとエルサレムに難問を持って来たこと、また心にあることすべてを問いかけたと語っています。そして、後にイエス様はこのシェバの女王の訪問の真意を、知恵への探求心だと大変評価されました。(冒頭・マタイ 12:42)聖書の告げる知恵とは、神と深くかかわるものです。主イエスは女王の来訪を、神を知り主を求める求道と捉えられたのです。歴代誌に綴られるシェバの女王は大胆かつ素直で、ソロモンの知恵と栄華を目の当たりにし、神への賛美がほとばしります。シェバの女王はソロモンに国家を挙げた盛大な贈り物を捧げます。すると実にそれ以上の贈り物をイスラエルの王は彼女に贈ります。これぞ神の国の王の振る舞い、その主なる神の大いなる施しを証しする気っ風の良さです。神様が全身全霊で主を求める者に成して下さる神の取り計らいは常にこの様です。これを機にアラビアの王達、否地上の全ての異国の王達が、ソロモンに贈り物を携え、謁見を求めにやって来るのです。その治世は豊かに、力強くなります。神の国は実際地上に領土を広めることになりました。ソロモンの治世は父王ダビデと同じ 40 年でした。ソロモンは動物やら植物やらあらゆる知識に精通していた(I 列王 5:33)と聞くと、彼に新型コロナウィルスに打ち勝つ知恵を尋ねたくなります。ところが残念ながら、ソロモンはもうこの世にはいません。しかし冒頭のイエス様の言葉をよく聞くと、ご自身でここにソロモンにまさるものがありますと仰られ、それ以上のものを示唆されています。この言葉は福音書の舞台となった時代に知者とされた、律法学者やパリサイ人からの質問への返答です。奇跡を見聞きしながらも更に、イエスがキリスト(救い主、メシア)であるしるしを求める彼らに、背信のイスラエルの不信仰を、神の民でありながらもその主なる神・御心を裏切り続けた姿を見たことでしょう。預言者ヨナの説教に悔い改めた敵国ニネベの人々と地の果てから神の知恵を聞く為にやって来た異国の女王を引き合いに出して、異邦人ながら回心し心から神を求める者達が、さばきの場に居合わせ、彼らに罪を宣告すると言われたのです。けれども救いはあります。ヨナのしるし、すなわち十字架の死と 3 日後の復活があるのです。それはヨナの説教やソロモンの知恵に優るイエスの福音と救いです。神の民・教会は、いつの時代も自分こそが知者だと叫び、主イエスと御言葉にかたくなな世の知恵と闘って来ました。使徒パウロは諸教会への手紙の中で、十字架につけられたキリストこそ神の力、神の知恵と語りました。この世には愚かに見える十字架のキリストこそ人となった神の知恵であり、私たち人間に救いを与えるこれまで未知であった知恵である(I コリント 1:23-24,2:8-9)と告げ、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ 2:3)と説きました。宣教のことばの愚かさも、信仰が人の知恵でなく、御霊の働きによる、神の力の成せる業だと明かしたのです。(I コリント 1:20-21,2:5)神学なしの哲学は人を惑わし、何者かの虜にし、神を見失わせます。(コロサイ 2:8)また世の知恵はねたみや利己的な思いを招きます。他方上からの知恵は清く、平和で、優しく、協調性があり、良い実に満ち、義の実を結ばせるのです。そこには偏見も偽善もありません。上からの神の知恵、キリストこそ求めるべき我が宝、命です。(ヤコブ 3:13-18) シャローム!

「主の宮の建設は、神の力によって」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 1.10

歴代誌第二 5章1~10節

それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である【主】、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、【主】の宮の奉仕に関わるすべての仕事を完成させてくださる。」 歴代誌第一28章20節

緊急事態宣言が愛知にも再び発令されそうです。礼拝に集うのは不要不急の外出なのか?昨年から教会に問われています。オンラインは新感覚で楽という次元から、やはり何か味気ない、ずっと画面を見るのはえらいという声が大きくなりました。それでもそれぞれの場でパソコンやスマホを開いて(もちろん会堂でも)礼拝を不要不急とせず、時間と心を取り分けて教会に集い、共に礼拝を捧げて下さる事を感謝します。コロナの世に教会は何ができるかも考えます。私たち教会は祈ることができます。主の宮は祈りの家です。ダビデ王の息子ソロモンは共におられる主なる神によって、イスラエルの次王、偉大な者とされました。まず彼が始めたのは、父ダビデの悲願であった主の宮・神殿建設です。政治、外交、軍の整備…王の国を統治する役目は多岐にわたります。そんなソロモン王にとって、神殿建設は不要不急な事業になり得ました。しかしソロモンは信仰を働かせ、神の会見の天幕・幕屋に、彼の周りの会衆と共に出向きます。神を尋ね求める、すなわち礼拝する為にです。神様はその夜彼に現れ、何を与えようか、願えと仰られます。ソロモンは民を治めるに必要な知恵と知識を求めます。そこで神は彼に知恵と知識、加えて富と財宝と誉れを与えられました。ソロモンは幕屋からエルサレムへと行き、王に即位しました。(II 歴代 1 章)そしてソロモンは神殿に着手するのです。主を求めずして、神殿建設は始まりません。そこに信仰が求められます。主の宮の建設は着手した者の祈りと信仰が見えます。また主の御業を目の当たりにします。私は母教会の稲沢教会で会堂建設を経験しましたが、なかなかチャレンジで面白く、楽しかったです。通常の教会の歩みをしながらで、皆さん普段の生活があり、私は神学生でしたので学びの中の会堂建設でした。何か物事を決める時、各人の信仰が見えます。しるしを求める、平安があること等、色々な決断や献身の仕方に出会いました。プロの大工や業者さんと教会の人たち、教会周辺の助っ人陣、そしてドイツの教会からのボランティア等、立場や賜物がまちまちで、工期延長や経済的な課題も出てきました。教会が長年祈り、新会堂の必要を確信し、土地も資金も与えられていました。しかし実際に建設が始まると、様々な問題に直面することもしばしばでした。その度に教会で分かち合い、共に祈り、話し合い、主の励ましの御言葉に出会い、期待と落胆両方の中にも神の御業をみました。冒頭の御言葉もその一つです。ソロモンの神殿建設の最中にも国内外からの助けがありました。祭司・レビ人・首長たち(I 歴代 28:21)やツロのヒラム王からの人員支援や資材提供(II 歴代 2:3-16)等です。父ダビデが語った神の約束や神殿の場所、建物の各部分に備わった意味も、ソロモンの神殿建設を支えたでしょう。モリヤの山は、イスラエルの父祖アブラハムが息子イサクを捧げようとした場所ですが、主によって止められ代わりの雄羊が用意され、「主の山に備えあり」(アドナイ・イルエ、創世 22:14)と告白した場所です。神殿の至聖所から見て右(南側)の柱は「ヤキン(彼は設立する)」、左(北側)の柱は「ボアズ(力をもって)」(II 歴代 3:17)という名を持ち、両方合わせて主なる神がご自身の力をもってこの神殿を建てることを証ししました。こうして完成した主の宮に、ソロモンは主の契約の箱をダビデの町シオンからエルサレムへと運び上げました。契約の箱の中にはこの時、二枚の板しか入っていなかったようです。(II 歴代 5:10)三種の神器?!他のマナの入った金の壺と芽吹いたアロンの杖(ヘブル 9:4)はありませんでした。マナと杖は出エジプト時に荒野を行くイスラエルの不平不満をきっかけに与えられたものでした。不信仰の産物はもう存在しません。主の御前に残るは、神との契約である律法の記された板でした。ダビデの次世代ソロモン王は、日々の政務の中にも受け継いだ神殿建設の使命を果たしてゆきます。主が共におられ、神が力を与え、全うさせて下さったからです。神殿建設に不足はありませんでした。主が備えて下さったからです。欠ける物があるとしたら罪とその産物です。主の宮では、罪がすっかり取り除かれ、跡形もなくなるのです。シャローム!

「福音は いつもの通りの生活に」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 1. 3

ルカの福音書 2章25~32節、4章16~21節

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。 ルカの福音書 4章16節

明けましておめでとうございます。新しい生活様式の中で初めて迎える年末年始です。その定番を見たりやったりすると、あぁ新年を迎えるなと少しでも実感が湧いてきます。年末の歌番組や大掃除、年始のお節料理や駅伝などがそうでしょうか。大型連休、そして一連の定番が終わり、日常に戻ると何となく寂しく味気なく思える。クリスマスに願う奇跡や新しい一年に期待する高揚感の波が引き、いつも通りの生活の中に帰ってゆく時の虚無感を覚えるかもしれません。しかし主イエス・キリストの誕生、成長、宣教のはじめも、実にいつもしているとおり(ルカ 4:16)の日常生活に起こった出来事です。私たちはイエス様のご生涯は奇跡の連続で、非日常を生きているように見えます。(確かに、奇跡を神の業の現れとすると、ずっと奇跡です。この世とは異なる神の国を生き、証しされたとすると非日常だと言えますが。)けれども、イエス様のご生涯は、両親となったマリアとヨセフに連れられてエルサレムに行った宮詣や巡礼など、律法を忠実に守り行う生活で、奇をてらうことを狙ったものではありませんでした。福音は私たちの日常にやってきます。私たち日常、それは神の御言葉に聞き従い生きる、聖霊なる神に導かれたものです。クリスマスの一連の物語に携わった人々もいつもの生活の中で御声を聞き、御救い・神のお働きを見、味わったのです。クリスマスに世に誕生した幼子は、生後八日目を迎えて、御使いのお告げの通りに、イエスと名付けられます。そして、律法に則り、ユダヤの伝統的な男性のしるしである割礼を施されます。両親はイエスを伴いエルサレムの都、宮に上ります。その時、都にはシメオンと言う人がおりました。正しく敬虔で、このエルサレムの神殿が最初に陥落してからこの方苦難と苦悩の道を歩んできたイスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。神を信じ、聖霊に導かれて生活していた彼は、キリストを見るまでは決して死なないとの預言を賜っていました。イエス様が宮詣に連れて来られた時、シメオンも聖霊の促しを覚えて宮に入ると、そこで念願の救い主に出会うことができたのです。シメオンは幼子を抱き、今御救いを見た!全ての人に備えられた救い、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を!~「ヌンク・ディミトゥス(今こそ去ります)」と賛美します。目視して理解することは確認、目に見えないものを信じるのが信仰です。神の救いを信じる時、私たちは信仰を働かせるのです。またシメオンは幼子イエスが人々の反対にあうと受難をも母マリアに預言しました。エルサレム神殿には、若い時から昼夜神に仕える、84 歳の女預言者アンナもいました。彼女の場合にも、いつも通りの生活に福音が、キリストが訪れます。アンナはこの福音を告げ知らせるのです。イエス様は成長されると、ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊が降り、天の愛する神の御子であると宣言を受けます。公生涯のスタートです。御霊に導かれ、荒野で出エジプトのイスラエルの様に40日40夜を過ごされます。イエス様は3度の悪魔の試みに全て御言葉をもって打ち勝たれました。聖霊に満たされ、力を得、ガリラヤの故郷ナザレに行かれます。そこでいつもしているとおり安息日に会堂で礼拝を捧げられます。御言葉の朗読をする番で、預言書イザヤを読み上げます。奇しくもここにはご自身の生涯を言い表す、キリストの救いが綴られていました。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」 (ルカ4:17-19) ♪悪魔のひとや(人牢)を打ち砕きて とりこ(捕虜)を放つと、主はきませり~(讃美歌112・2番)とクリスマスに賛美した通りの救いを、この主イエス・キリストが実現される預言となっています。但しイザヤ書(61:1-2)と比較すると、ルカ伝には‘復讐’の文字はありません。福音が新しく書き記され、「罪の赦し」が強調されています。そこに今日注目したいのは、罪の赦し~解放と自由の福音のはじめは、いつものしているとおり(ルカ4:16)のことから、神の御業が、福音がスタートしていることです。同じく、救い主を信じ待ち望む私たちの日常生活が、救いの現場、福音の始まりとなるのです。クリスマスの光が消えたように思える日常、続く闇の中にも確かにキリストの光は尚輝いているのです。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)シャローム!

「気っ風(きっぷ)の良い父に、気前が良い子」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2021. 1. 1

ルカの福音書 6章32~38節

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。 ルカの福音書6章36節

汝の敵を愛せよ。イエス・キリストが山上の説教(マタイの福音書5~7章)で語られた衝撃的な一言です。ルカの福音書では、主イエスが 12 使徒を選んだ後に、山を下りられて話された「平地の説教」に出てきます。イエス様は目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められました。弟子とは何か~キリストの弟子道が説かれます。その内の大きなテーマが自分の敵を愛するという事です。そして冒頭のローズンゲンの今年の聖句はその愛の理由と源、最高に憐れみを示す方法を伝えています。古い戒めでしょうか?いいや、時代も「やられたらやり返す、倍返しだ」から「施されたら施し返す、恩返しです」にもう移っています。あなたの心構えはいかがでしょうか?弟子はその師と同じ道を歩みます。師匠の姿に学び、師を真似ながら、その道を極めてゆくのです。キリストの弟子は主のした通りに振舞います。私たちの主はさばくのではなく赦し、気前よく与えて下さるお方です。それは神であるお方が自ら裸になってまで私たちの救いの為に尽力され(受肉~十字架、ピリピ2:6~8)、また‘放蕩’する神とも言われる程です。そして、キリストの愛に垣根はありません。いかなる罪人にも注がれる愛です。キリストの愛がボーダーレスならば、私たちもそのようにする。これがキリストの弟子として、その主に倣う心構えと生き方です。この世は相手の出方でこちらの態度が決まりますが、神の国では神の眼差しによって、私たちの見方が定まるのです。但しボーダーレスと言っても、見境がないわけではありません。事実さばくことや罪を問う事は悪い事ではありません。性急かつ軽率で不公平なさばき、偏見や過度な批判が、さばきや判決の場にあることが、神の憐れみから人を遠ざけるのです。赦すこと、与えることは、さばかず、罪に定めないことを積極的に言い換え、更に進んだ憐れみ深い取り扱いを示しています。憐れみ深い神の眼差し、キリストの心で、私たちは判断し、行動するのです。聖書の中の命令形は、神様の救いによって、私たちがその命じられたお言葉通りに成る。変えられることの約束でもあります。主イエス・キリストを信じ、神の子どもとされ、主と同じに聖霊なる神に導かれて日々歩む所に神の憐れみ深い姿を証してゆくのです。実生活で、確かにゆるしは大切だけれど、広い心で甘くすると余計大変な事態にならないかと寛容さを発揮するにも心配になるかも。一体どれ位の寛容な心が丁度良いのでしょうか?『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012)の中で、渡辺和子シスターは‘許すための「ゆとり」~2%の余地’を挙げています。「100%信頼しちゃだめよ、98%にしなさい。あとの 2%は相手が間違った時の許しのためにとっておきなさい」(p137)と学生達へのアドバイスとして話すそうです。全幅の信頼がばかげていると言っているのではありません。むしろ人は不完全で、完全には分かり合えない。だからこそ相手に間違う余地を与え、こちらも許せる余地を持っておくということです。面白い発想でしょう。人を受け入れゆるせる心の隙間、スキがある。好きだからのこそのスキ!の確保を。しかしそのスキ、余地はどうしたら生まれるのでしょうか?やはり徹頭徹尾、キリストを主として見上げ、キリストの憐れみ深い心で生きることによってです。使徒パウロの座右の銘は(きっと!)「受けるよりも与える方が幸い」(使徒20:35)です。パウロは神の憐れみ深さと気っ風の良さを知っていました。(II コリント9:7b・8a)主の御言葉は私たちに祈りと賛美と悔い改めを与えます。私の心にキリストの心・神の国を築き、広げて下さるのです。これが赦す余地です。時にキリストの十字架の大きな死に支えられ、私の願いやプライド、立場や得な事を放棄するといった、小さな死を捧げるのです。汝の敵を愛せよ―渡辺和子氏は 2.26 事件で父親を目の前で青年将校達に殺される経験をされています。彼女はこの主の御命令を、できるなら相手の祝福を祈り、せめても相手の不幸を願わない事だと解しています。御言葉に聞き従う事は、真に自らを守り、保ち、自由にする道なのです。「あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」(ルカ6:38)神の御前に立つさばきの厳粛さを覚えます。また神様が私たちを心に留めて下さり、評価し報いて下さることが分かります。最後に教会の標語。神に憐れみを受けたら世に憐れみを返す、量り返しです!シャローム!

「こだわりを捨て、一肌脱ぐ」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.12.27

ピリピ人への手紙2章1~11節

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。2:6・7a

「今年の漢字」また創作漢字コンテストの最優秀賞も発表になりました。いずれも世相を反映し、2020 年の公募はコロナを題材とするものが多くみられました。私の今年の漢字は「破」です。定例定番の在り方やこだわり?壁?が見事に突破された感があります。この一ヶ月は、天が開け地にアドヴェント(到来・突入)して来て下さった神の御子について御言葉にきき、私たちがクリスマス(キリスト礼拝)をもって、この主なる神の献身にお応えするという歩みをしてきました。アドヴェントの主は、神だからとその姿に固執されないお方です。神は救いの道を与えに、ご自身がこだわりを捨て、神としての在り方を放棄し、一肌脱がれました。この主イエス・キリストを仰ぎ見る時、私たちも私はこういう人間だというこだわりやしがらみが破られ、キリスの謙遜と自由に与る事ができるのです。主イエス・キリストは、昔いまし(先在また初臨)、今いまし(現在・現臨)、やがて来られる(後在・再臨)お方です。クリスマスの恵みと喜びをいただき、聖霊なる神のお働きによりインマヌエルの主と共に歩み、主の主・王の王として再びこの地に戻って来られる日を待ち望んでします。言うなれば、毎日毎主日がアドヴェントまたクリスマスです。クリスマスに神の御子は、私たちを神の子どもとする為に、人の子となってこの世に天から降って来て下さいました。そしてこのキリストを主とする生き方に私たちを招いて下さいました。神の子の性質は謙遜です。「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれたものと思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。キリスト・イエスの内にあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」(ピリピ 2:3-5)」人より優れた者とマウントをとり、上位に立ちたい私たち人間がいます。キリストは貧しい者の姿をとられ、あなたと同じ姿になったと、私たちの貧しさを身を以て表わして下さったのです。コロナの襲来に、これが終末かと頭をよぎり、聖書特に黙示録を開いた方がいらっしゃるかもしれません。幻を視たヨハネは最初に 7 つの教会に手紙を書き送ります。7 つ目のラオディキアにある教会への手紙に「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。(ヨハネの黙示録 3:17)」と神からの言を綴ります。まるでアンデルセン童話の『裸の王様』のようだと。「王様は裸だ、何も着ていないよ。」と一人の子どもが叫ぶのを聞くのです。自分が貧しく裸であると気付き、悔い改める所に私たちの救いがあります。クリスマスには、裸である人間の許に、神が裸一貫降って来て下さった出来事が明らかになります。神ご自身がこだわりを捨て、一肌脱いで裸になってまで貧しく惨めな私たちを憐れみ、その救いの為に全てを差し出して下さったのです。その謙りと従順は十字架の死にまで至ります。(ピリピ 2:6-8)クリスマスの意味は十字架を見上げる時により明らかになります。飼葉桶(時に西洋美術では石棺で描かれる)の傍らに立ち、十字架を見上げる時、この幼子イエスがキリストだと私たちは知るのです。十字架のキリストは裸です。十字架の下では兵士達がその上着をくじ引きで取ろうとしていました。私たちの貧しさ、恥、無知を拭う為に、主イエスは十字架に架けられたのです。神様は私たちをあの裸の王様のままでは行かせません。ラオディキアの町は大地震に見舞われましたが、自力復興を果たし、富と力を誇っていました。金融の町で、黒い毛織物と目薬が特産品でした。そこでキリストは悔い改め、わたしの許に来なさいと招き、本当に価値ある豊かな金、恥を覆う白い衣、見えるようになる目薬を与えようと仰るのです。また何と悔い改めを促しつつも、キリスト自身が私たちを戸口に訪ねて来られるのです。貧しいキリストを迎え入れる者が救いを得る。(II コリント 8:9)勝利を得、真の王と共に治める者となる。自分で富んでいると思い、自分の家に閉じこもっている者よ、戸を開けよ。わたしと共に生きる時、わたしがあなたの為に捧げた全てのものを得、本当のいのちの豊かさを味わうのだと、主は招きの詞を掛けて下さるのです。(黙示録 3:20-21)隣の教会のクリスマスコンサートにお邪魔しました。アンコールで歌われた曲は「Stand by Me(スタンド・バイ・ミー)」。ダーリンを主に替えての賛美が印象的でした。新年も主と共に!シャローム!

「クリスマスの光の不思議と恵み」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.12.24

ヨハネの福音書 1 章9節、マタイの福音書5章14節

すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 ヨハネの福音書1章9節

ステイホームと言う標語ではじまったウィズコロナ時代の幕開けはどんな一年だったでしょうか?その閉塞感に、天を仰ぐしかない状態を過ごして来られたでしょうか。’天を仰ぐ’とは慣用句としては消極的な意味ですが、人間にとって本来の在り方そのものなのです。ギリシャ語で人間(アンスローポス)は「上を見上げる」という意味があるそうです。八方塞がりに思える時にも、天はいつでもあなたの上に広がっています。天を見上げるとそこには私たちを照らす光が見えます。昼は太陽、夜は月星。暗闇の中にも光を見出すことができるのです。クリスマスの出来事を預言した聖書の言葉にイザヤ書9章2節があります。「闇の中を歩んでいた民は/大きな光を見る。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に/光が輝く。」微かな光だけでも何となく希望が湧いてきます。しかしここに輝くは大きな光です。これは期待できます。大きな光とは世界を造られた神がもたらす輝きです。神が光あれ!と仰せられた所からこの世界は始まっています。これに世は再出発するのです。ところで闇の中、死の陰の地と、人間が生きている世の暗さが描かれています。時に天は、神は私を見離したのだという考えがよぎることがあります。コロナ禍もその一例でしょうか。けれども実はその暗さは、神の拒絶ではなく、私たち人間の方が光の源である神から離れてしまっているから生じるのです。クリスマスに神は世界を再創造されます。再び光あれ!と世の光であり、神の独り子なるイエス・キリストをこの世に送られました。神の御子が輝く天から、この暗い地へと、大きな光を携えて降って来てくださった。私たちを救いに来られたその光を今宵見るのです。御使いはこの光の預言が実現したことを、お暗き世を生きる人の代表として、暗い野で夜番する羊飼い達に告げました。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ 2:11)そして神に栄光、地に平和!と天の軍勢なる御使いの賛美が大きな光に照らされた地に響くのです。みこころが天で行われるように、地上で実現するのです。分断された天と地が連動する。クリスマスに人として地にお生まれになった御子によって再び繋がり、一つとされる。天の光が地にも輝き、世に神共にいます平和が実現するのです。この平和をもたらす救い主・キリストに、羊飼いはじめ私たち人間は御言葉また礼拝で出会い、信じ、この光の中を、平和の道を歩むことが叶うのです。救い主イエスの誕生は 2000 年以上前のイスラエルで起こった出来事で何の関係があるのか、と不思議に思われるかもしれません。しかしあの時輝いた光が、今自分達に及ぶことを私たちは体験しています。星の瞬きは時空を超えて、私たちの許に光が届くよい証拠です。例えばオリオン座の左上端に輝くベテルギウスは太陽より 600 光年離れています。その星を見上げる時、600 年前の光が私たちに目に入って来るのです。そしてキレイだなぁと心動かされるのです。遠い昔の、離れた場所に発した出来事であっても、今の私たちの心を揺さぶり、人生に届くのです。神に造られた被造物の星の瞬きでもそうならば、創造者なる神様の御業ならば尚更でしょう!神の光が世に降ってこの方、世界は明るく照らされつつあります。その中でも世界から光が消えたことが唯一時ありました。それは十字架から復活までの 3 日間でした。イエス様はそのいのちの光を私たちの罪を負い、償う為に失われました。けれど復活の朝、命の光が再び灯ります。そして人がこの主イエス・キリストを私の救い主として信じ受け入れるならば、神様がいのちの光を私たちの内にも灯し、私たちは神の子どもとされるのです。この光は今日も私たちを照らし、あなたがたは世の光です(マタイ5:14)と輝かせて下さるのです。このいのちの光こそ神がすべての人に用意されたクリスマスプレゼントです。昨今の SDGs やコロナ禍で、私たち人間は今一度過去の歩みを振り返り、未来に向かって今出来る事・すべき事、つまり人としての使命を改めて考え始めたのではないでしょうか?米国民間有人飛行船第一号機の命名’レジリエンス~回復’にその願いと使命を読み取れます。被造物皆が大きな光を、死からの解放と自由を待ち望んでいます。そこに神の子ども達として私たち教会も一役買うことができるのです。(ロマ書8:18-21)光なる神は世界又私たち人間を回復する為にこの世に人となって来られたのです。メリークリスマス!

「クリスマスの醍醐味(だいごみ)」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.12.20

ルカの福音書2章8~20節

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 ルカの福音書2章11節

クリスマスおめでとうございます。これが無くてはクリスマスではない!というものは何でしょう?プレゼント、ツリー、イルミネーション、豪華な食事?…これぞクリスマス Christmas というのは礼拝(Christ キリスト+mass ミサ=礼拝)です。礼拝こそクリスマスの醍醐味です!ユダヤの地方で羊飼いたちが野宿し夜番をしている所に、御使い(天使)が現れます。主の栄光が周りを照らし、救い主の誕生が告げ知らされるのです。「ダビデの町」とは首都エルサレムではなく、田舎のベツレヘムのことです。ここは神の民イスラエルを治める王様が出現するという約束の地(ミカ 5:2)であり、英雄ダビデ王の生誕地(ルカ 2:4)でした。栄光の王がお生まれになり、平和が天になるよう地・この世界にも成るのだと、天の軍勢は声高らかに勝利の歌を歌い、神を賛美するのです。ダビデの町と言う言葉は飼葉桶に寝ているみどりご(嬰児)が王となることを物語っています。この方こそあなたがたの救い主~メシアまたキリストなのだと続きます。「救い主」とは当時、絶対的な権力を握った支配者、ローマ帝国の皇帝をさしました。けれども天の神様は、罪と死からの私たちを救われるこのお方、イエス様こそが我らの主なる神、来るべき王なのだと宣言されるのです。大変政治的かつ挑戦的な響きです。イエスを主なる神、救い主として礼拝する。私が命を捧げ、聞き従うべき王様として崇めて生きる救いの道が開かれます。ただし、これはこの救い主誕生の御告げ(御言葉)を聞いた者達に生き方の選択を迫ってきます。今日この礼拝でキリストに出会う時、私たちはクリスマスにお生まれになったこの幼子を救い主として受け入れるかという人生の方向転換が求められます。今迄は私たち自身が、何でもできる王様の様に振舞ってきたからです。『クリスマス・キャロル』というイギリスの小説家チャールズ・ディケンズの名作を読んだことがありますか?ここにクリスマスの恵みを一番味わった男が描かれています。スクルージという名で、歳でしたが金銭に目を光らせ、強欲、けちで、思いやりなんてものはすっかりない人でした。クリスマスイヴに 7 年前に亡くなった「マーレイ・スクルージ商会」の共同経営者マーレイの幽霊~お金の台帳、銭箱や南京錠で出来た鎖を体にまきつけられている~がスクルージの前に現れます。そして次々に過去・現在・未来を見せる精霊/幽霊に彼は出会い、人生の旅を観る事となるのです。初めに懐かしい故郷の光景と家族、若い時勤めていた会社で祝ったクリスマスとその胸躍る喜びを思い出します。しかし徐々に歳を重ねるにつれ、愛する妹を失った悲しみやお金に支配された故に婚約者と別れた思い出も幻として見るのです。次に現在のクリスマス。雇い人のボブの家庭を見、自分が意地悪な人として歓迎された存在でない事、一家には幼い病気のティム坊がいることを知ります。自分を祝会に誘ってくれた妹の子・甥の家では楽しいパーティーが開かれているのを観ます。また 2 人目の使者の足に、ローブをめくると人間の産んだ無智(額には破滅)と貧困いう名の男女子どもがしがみついているのを見るのです。最後未来では死んだ者からはぎ取る強盗にしか関心を示されない自分の死とティムの死に深い悲しみに暮れるボブ一家を観るのです。どの場面においても、スクルージは後悔の念ともう見たくない声を上げます。そして終わりに、彼はこれから心からクリスマスを祝い、過去・現在・未来に関心を払い、教えられた自分の罪とこのままで行くと滅んで死に至るという教訓を忘れないように生きるから助けてくれと精霊/幽霊に訴えますが、その手は振りほどかれ、遂にはスクルージ自身がその運命を変えようと自ら祈るのです。気付くと幽霊はベッドの柱になり、朝がやって来てきていました。クリスマスの朝です。幸いにもまだ命があります。何でもできるのです!彼は興奮し、大きな七面鳥をボブの家に届け、それからはボブ一家、殊にティムを支援して暮らすことになります。慈善組合への寄付もし、教会に寄り、その午後は甥の家を勇気をもって訪れ、歓迎され、良き交わりとすばらしい幸福を味わうのです。クリスマスの恵みを一番に味わったスクルージは神の恵みに応え、約束以上のことをして生きる道を選んだのです。これは産業革命の繁栄の傍らで貧富の差が増し、失業や貧困の蔓延、慈善の余裕もない行き詰った社会を背景に書かれた物語です。実に最初のクリスマスも、コロナ禍の今も人間は同じ暗さと混沌に直面しています。そこに救い主がやってこられたのです!スクルージの様な特別な話は起こらないかもしれませんが、彼を回心させた過去を乗り越え、現在の生き方と未来の生死を一変する、罪と死からの救いの福音を私たちはこの礼拝で聞くことが叶います。羊飼いたちはこの救い主による救いいのちの回復と天の喜びを良く知る者達でした。(ルカ 15:3~7)世の英雄は敵を成敗し、世界征服に命を掛けます。しかしクリスマスの主、我らの救い主は罪人を救い、平和をもたらすのです。シャローム!

「正しい人の決心」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.12.13

マタイの福音書1章18~25節

「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」 マタイ1:20b-21

ローマ=カトリック教会は、今年 12/8~来年の 1 年間を「聖ヨセフの特別年」とすると発表しました。コロナのパンデミックの中で、競争から離れ、日常を忍耐しながら生き、社会的な責任を共に育む普通の人々の重要性に注目がいった。そこで 150 年前に「カトリックの保護者」とされた、普通の人ヨセフを祝い覚える 1 年としたようです。教皇フランシスコは、‘イエスの養父、優しさ、従順、受容の心、創造性をもった勇気、労働者としての姿、目立たない生き方’と、ヨセフの人となりを挙げています。この普通の人ヨセフが異常な事態に直面します。神の圧倒的な介入に、人は戸惑い恐れ、また決断を求められます。イエス・キリストの系図には、異常な出来事が頻発していることが分かります。出自や性的な課題を抱えた、いわくつきの 4 名の女性の名が神の民の歴史に綴られ、最後イエス・キリストの誕生に母マリアを登場させるのです。婚約中のマリアが身ごもった。ここに聖霊なる神の働きがあった。この異常事態はしかし、神の救いや恵みを妨げるものにはなり得ないのです。他方、思わぬ事態が襲ってきた婚約者で正しい人ヨセフは思い悩み、恐れます。そこで彼はマリアを密かに離縁しようと考えました。公に晒すならば花嫁料が戻って来ましたが、内密にするならば返金は見込めません。また秘密裏に離縁するならば、ナザレは小さな田舎町でしたから彼自身が疑いや好奇な目に晒されたでしょう。ヨセフは経済的にも社会的にも厳しい立場に置かれる道を彼の正しさで選ぼうとしていました。そこに神様は夢を通して突入されます。人生を捨てかけたヨセフを絶望から救う御声が夢で響いてくるのです。夢と現実といった具合に、私たちは対比して考えますが、聖書における夢はむしろ超リアルに神の計画・御心が示される場でした。特に彼の名は創世記でエジプトの大臣となった夢を解き明かすヨセフを連想させます。(ちなみにいずれも父親の名前はヤコブです。)ヨセフは夢に現れた御使いにより、マリアの懐妊が聖霊によることを知ります。ダビデの子ヨセフ、神の民かつ王の血筋であるアイデンティティーを思い起こさせる呼びかけです。恐れるな。奇しい御業に自分の生き方が揺さぶられる。ここにヨセフの人間的な正しさによって生じた恐れが打ち砕かれます。続いて、マリアが産む男子にイエス(ヨシュア~「主は救い」)と名付けよと告げられ、聖霊によって宿ったお方の、救い主なる正体が明かされます。そこで私たちが知るのは、イエス・キリストは罪にまみれた世界にやって来られ、神の民・王の血筋である一方で罪人の系図の中に加わって下さったということです。「ひきこもり文学」という、『ひきポス』に投稿された、ひきこもり当事者や体験者の手記がご本人達によって紹介されるテレビ番組を観ながら、この罪に汚れた世界を平気な顔を装い又何の引っ掛かりもなく生きている者たちの方が本当は異常ではないのかといったことを考えさせられました。不可触を決め込みたい世界に主は降って来てくださるのです。悩み苦しみの歴史、元を辿れば神に背く罪の歴史を背負って下さる。まず神ご自身が汚れた世に、罪人の間に来られる献身をして下さった。命を賭してまで罪深い私たち人間をご自分の民とし、神の民として受け入れて下さる決心をして下さった。この御言葉により解き明かされた神の決心が、ヨセフがマリアとイエスを受け入れる決心を呼び起こすのです。ヨセフは自分の正しさと考え出した愛の業を放棄し、黙々と御言葉に従っていきます。事実エジプトへ逃げる際も、ナザレに戻る時も、夢でみことばを聞くと、すぐに立って幼子とマリアを伴い行動を起こします。確かにインマヌエルの神が共にいて、この決心・献身を支えていて下さるのです。今日神の御言葉に従う所に救いが実現し、愛の業が実るという、同じ福音と招きを私たちも聞くのです。ヨセフもまた罪から救われるべき人間です。正しい者の悩みに神は応えて下さいます。更に全ての悩みを共に負って下さるのです。神の義・正しさは、単なる善行や自己犠牲を促すものではありません。御言葉に聞き従う決心を求めます。自分の正しさ(良いか悪いかで物事を判断)ではなく、神の義(御心は何か)を歩ませて下さいます。この献身に救いの道が開かれ、神の恵みが現れてくるのです。キリストの受肉に見える、伴なる事は愛の業です。リモートが進んだ今、コロナ禍により求められる福音の姿でしょうか。シャローム!

「サンタクロースの日に、信仰を考える」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.12. 6

ルカの福音書1章26~38節

マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。 ルカ1:38

クリスマスと言えば、サンタクロースのイメージがあるでしょうか。12 月 6 日はサンタクロースの日(聖ニコラスの命日)で、その祭りには贈り物の習慣がありました。この時期サンタの存在は子ども達にとって一大事です。8 歳のバージニアという少女はこの件で、ニューヨーク・サン新聞社に手紙を書きました。フランシス・チャーチ記者は社説で、人の疑りという性質に触れ、疑り屋は目に見えるものしか信じず、自分の分からないことは全て嘘だと決めている。しかし人間の頭で考えられることは限られており、この世で一番確かで本当のものは大人の目にも子どもの目にも見えないものと綴ります。そして、目に見えない世界は一枚のカーテンで被われており、それを開けることが出来るのは、信じる心、詩、愛、夢見る気持ちだけなのだと続けます。その心があればカーテンの奥に広がる、美しくキラキラ輝く栄光の世界を見ることが出来る。カーテンの向こうの世界こそが、本当で永遠なのだと。Francis P. Church.” Yes,Virginia, there is a Santa Claus.”1897.9.21チャーチ記者はサンタクロースを信じる心を引き合いに、目に見えない世界の真実を明かし私たちの目に見える物や理解できる事だけが真実ではないことを教えています。聖書のクリスマスの出来事には「見よ」と神の御業に目を留める呼びかけが成されると共に、みことばによって見えない神の国へのカーテンが開かれてゆきます。御使いガブリエルが乙女マリアを訪れ、受胎告知をします。まずこれは神から出た出来事であることが告げられます。「あなたは神から恵みを受けたのです。」(30 節)」、神からの全ての出来事・いかなる語られた言葉も不可能ではないからです。(37節ギリシャ語「レーマ」、参照イザヤ55:11ヘブル語「ダバール」)次に「見よ」と、男の子を身ごもり産むことが伝えられます。(31 節、36 節エリザベツの妊娠について)目に見えて起こる出来事が知らされます。その子にはイエスと名付け、彼は「神の子」と呼ばれる。(32、35 節)ここに再度「いと高き方」、「神である主」、「聖霊」といった神ご自身が、目視できる妊娠といった出来事に介入されているという真実が解き明かされます。天使が運んできたみことば、神からのメッセージにより「神の子」の誕生というクリスマスの本質が見えてくるのです。マリアは最後「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38 節)と応えます。神はマリアに委ねられ、マリアは信仰をもって、みことばに聞き従います。自分の思い通りにではなく、神のおことば通りに成るのをよしとする信仰が見えます。けれども、この受胎告知の出来事において注目されるべきは、マリアの信仰ではないのです。私たちが知るべき啓示は、神の子の正体です!彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」(33節)大河ドラマ『麒麟がくる』で混迷した世に仁(思いやりの心)を働かせる英雄が登場し世を平定されるのを待つ以上に、ヤコブの家~イスラエル~神の民…捕らわれ人を解放し、虐げられている者に自由の道を教え、恵みを告げ、平和に治める王が待ち望まれていました。(ルカ 4:18-19)遂にその救い主(メシア/キリスト)が、神の子として世に現れる時がやって来たのです。その王は神と民に仕え、やがて世の罪と死を取り除く為に、自らの命を賭し十字架で犠牲となり、民の救いと永遠の御国を成し遂げられるのです。天使ガブリエルがマリアに告げたみことばによって開示された目に見えない世界の真実は、マリアに宿る男の子が、イスラエルの王位に就くダビデの子、聖なる者、神の子であるという福音でした。マリアは立って急いで男の子を宿すエリザベツに会いに行きます。そこで身重の老婦人を見、祝福の言葉を聞き、神の子の到来により訪れる御救いを賛美するのです。聖書の信仰とは‘あなたと私(汝と我)’という関係性、人格的な交わりによって築かれます。「私は主のはしためです。」(1:38)ここがサンタクロースを信じる心とは異なる点です。はしためは、当然の権利として憐れみを期待できる者のことだそうです。(詩篇 123:2)私たち信仰者は憐れみを掛けて下さる主なる神の介入とその憐れみを待ち望むことが出来ます。語られた神の言は空を切ることなく、必ずこの地にも我が身にも実現する。神の言が、愛が、神の真実・神の国の奥義を開き、私たちの信仰を呼び起こすのです。信仰とはこの神の憐れみを待ち臨む冒険(アドヴェンチャー)なのです。シャローム!

「荒野の果てに」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.11.29

マルコの福音書 1 章1~8節

荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』… マルコ1:3

あら野の果てに 夕日は落ちて、たえなるしらべ 天(あめ)よりひびく。伝統的なフランスのクリスマス賛美(キャロル)の一節です。続きは、グローリヤ インエクセルシスデオ(ラテン語で、いと高き所に神に栄光あれ)と繰り返します。原題は Les Angesdans nos Campagnes(レ・ザンジュ・ダン・ノ・カンパーニュ~我らの野/牧場に天使が)と名付けられ、牧歌的な雰囲気です。一方で平野や野辺というカンパーニュという言葉には戦争と言う意味もあるそう。日本語で「あら野」とは、みことばの味わいが増す面白い訳で、聖書の言う荒野の意味は、カンパーニュは野原よりも戦さの様相を呈しています。荒野は人里離れて寂しく、獣がうろついている広大な怖い場所です。乾いた地で植物があまり育たず、人が住居を構えたくない、生活に適しない、不安に満ちた生命の危ぶまれる、不毛の地です。贖いのヤギが追放されたのも荒野で(レビ記 16:10)、神に見捨てられた者の行く場所、迫害を受けた者の逃げる先でした。この荒野という言葉の持つ意味を知って歌うと、聖書の民・ユダヤの人達の当時置かれていた状況が開かれてくる気もします。バビロン捕囚による亡国、帰還しても大帝国ローマの下でまるで荒野で過ごすような厳しい不遇な生活を強いられている斜陽の民。しかしそんな人々に待ち焦がれた天からの不思議にも素晴らしい福音が聞こえてくるのです。荒野はヘブル語では「ミドゥバル」と言い、語源は「語る、告げる(ダバール)」です。名詞では「口」という語となります。民数記などに見られるように、荒野に響くは、神の口から出るみことばです。荒野ではただ神に養われて生きるいのちを知り、神の眼差しやお取り扱いを学びます。今この荒野で神の口が開かれ、古の預言がこだまします。旧約最後の預言者として、バプテスマすなわち洗礼を授けるヨハネが荒野に登場し、神の子、イエス・キリスト(救い主)(マルコ 1:1)の出現を預言します。「主は恵み深い」という名を持つヨハネが荒野で『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』と声を上げます。我らの救い主が来られるのだ。何度も浸かり清める水のバプテスマではなく、一発で全ての罪を赦し清め、あなたを根底から新しくする、キレイする聖霊のバプテスマを授ける方がやって来る。その主の道を真直ぐに、何の妨げの無いようにし、あなたがその救いを受け取る心備えをせよ。不思議にも周りに何の妨げも、敷居もない荒野で神の使者は叫ぶのです。それは実に慰めの言葉でした。(イザヤ 40:1-5,マラキ 3:1)神の子なる救い主イエスが世に現れた目的は、最初から明らかにされています。人生の荒野にいるあなたは今、切望していた、もしくはどこかで待っていたのだろう決定的な救いがあなたの元にやって来た(アドヴェント=到着する)ことを目の当たりにする。天の神が愛する子と認める神の子イエスがあなたのキリストなのだ。あなたはこの救い主を受け入れる準備が出来ているのか?神の言なる独り子が人となって現れたのだ(ヨハネ 1:14)。信仰者でも荒野を歩く時があります。けれどそこにも主はおられます。洗礼を受けたイエスは聖霊により荒野に追いやられます。私たちの主は荒野にも先立っておられ、荒野をも共にして下さるのです。しかし更に荒野の果てにも宣教され、天からの福音を轟かせるのです。荒野に道を水を、荒れ地に川を設ける(イザヤ 43:19・20)お方は、罪の赦しを十字架で成し遂げ、復活し、天に昇られ、やがてこの地に再臨される。遂にはカラカラに乾いたこの世を、もう一度エデン~豊かな水のある所へと再創造し、回復されるのです。私たちは救いの完成である主の再臨を待っています。アドヴェントは神の救いの到来を覚える時です。どのように待つのか?それはやはり主の約束のみことばを聞き、信じて待つのです。(IIペテロ 1:19)キリスト以前の聖書の写本である死海文書にも神に在る希望が書き留められています。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ 40:8)シャローム!

「あふれるほど主に献げる者はいないか」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.11.22

歴代誌第一 29章1~5節

今日、自ら進んで、その手にあふれるほど主に献げる者はいないか。29:5b

歴代誌に記されるダビデの生涯は 29 章をもって終わります。彼は主の家に住むこと(詩篇23:6・27:4)を常に求めて生きたイスラエルの王様でした。’主の家’と言うと死後の天の住まいや天国を思い浮かべるかもしれません。しかし主の家とは神が居られる場をさし、主の家に住まうとは神を礼拝して生きることです。また聖書の告げる天国(神の国)は神が王となって導き、支配(支え配慮)されることです。今現実に神と共に生きるいのちです。神でしか満たせない飢え渇きがあり、神を礼拝し主と交わることでしか癒せないものが私たち人間にあるとダビデは承知していました。ちなみに死を越えた復活信仰が啓示されるのはもっと後の時代です。当時は生きている者こそが賛美出来、死人にはそれが叶わないと考えられていました。一方で悲しみはすれども死を否定的に考えていたのではありません。死は生きる意味を全てダメにするものでないし、地のすべての人が行く道(ヨシュア 23:14)、従うべき道理。避けては通れないが、異常事態ではないと受け止めていました。そして死に際よりも埋葬よりも、死にゆく人の言葉を大切にしました。臨終近く日々の雑事から解放されつつある者は、神の約束・御言葉に集中することが出来、過去にも未来にも目が開かれてくる。そんな死生観があったようです。そこで今日のダビデの言葉がより響きます。ダビデが‘主の家’をこの地上に見える化する為に憧れたのは、神の宮の建設でした。戦人で人の血を流して生きたダビデでなく、平和という名を持つ息子ソロモンにより初めの神殿が建てられます。しかしその準備を万全にしたのは父ダビデでした。彼は全力を尽くして主に献げます。次いで神の聖なる御名の為に今日、自ら進んで、その手にあふれるほど【主】に献げる者はいないかと全会衆に呼びかけます。すると民の長たちが民を代表して、全き心で自ら進んで神に献げました。神の宮は神の民の自発的な献げ物によって建てられます。なぜ自らあふれるほど献げられたのでしょうか?それはダビデも民も、神が良いお方であることを知っていたからです。どれほど偉大な救いの御業を成して下さったのかを信じたからです。神の宮は自発的な献げ物により建てられることは、今も変わらぬ真理です。今日私たちもダビデやイスラエルの民と同様に、神が良いお方と知り、その偉大な御業が私にも臨む救いの出来事と信じる故に、主の招きに応えて、私たちの心や手、財布を⁈開いて、献げてゆく道が開かれています。『教会の民話』(宮坂亀雄編、教会新報社、1978)に「画家とジプシイの少女」という話があります。宗教改革直後のドイツ、ジュッセルドルフにステンバークという清廉潔白で勉強熱心、市民の誰もが認める天才画家がおりました。彼は町の牧師から十字架のキリストの絵を頼まれます。ある日彼が森の畔へデッサンに出掛けるとジプシイの少女ぺピタに出会います。その愛くるしさと踊り出した姿に惹かれ、絵のモデルに是非にと申し出ます。少女はアトリエに週 3 回通い、一枚の絵に目が留まります。彼女は描かれている人はどなたか、どんな場面か質問します。キリストだ、はりつけにされているのだと画家は答えます。ますます少女は絵に見とれ、よほど悪いことをしたのでしょうかと尋ねました。いや、非常に良いことをしたのだと画家が答えると、彼女はびっくりします。そのわけを問う少女に、ステンバークは淡々とキリストの十字架の死について説明しました。他方聞いたぺピタを非常な感動が襲います。後日絵が出来、モデル料を受け取って帰る時、彼女は「先生、ありがとうございました。先生は、あのおかたを大層、お愛しなさるでしょうね。あなたのために、いのちをお捨てになった方ですもの」と言いました。画家は恥ずかしくなり顔を赤らめ、彼女はアトリエを後にしましたが、その言葉は彼を去ることはありませんでした。牧師に告げても、十字架のキリスト画を納めたお金の半分を献金しても、胸の思いは収まりません。やがて宗教改革者の説教を聞き、活ける信仰を見出し、頂いた翻訳聖書をむさぼる様に読み、遂に絵筆で証しすることをひらめきます。苦悩を貫く永遠の神の愛がにじみ出た絶品の十字架のキリストを描き、公共美術館に展示された額の下に‘我はすべてこれを汝のためにせり。汝は我がために何をなせしぞ?’と記したのです。最後ダビデは、人は自ら進む出て献げ物をするけれど、結局は全て神から出て、神の物であり、神に帰すと、全会衆の前で神を仰ぎます(29:14)彼の最後の言葉は「あなたがたの神、【主】をほめたたえよ」(29:20)です。神の民は礼拝の民!献げ物はその証です。今日も神様は私たちを主の家に住まうよう、あふれるほど主に献げる者はいないかと礼拝の場を作り、神との交わりに生きるべく招いておられます。十字架の愛を動機とした全集中の献身へと進む時、不思議にもあふれるほどの主のいつくしみと恵みを味わうのです。シャローム!

「子どものように神の国を受け入れる」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.11.15

マルコの福音書 10章13~16節

まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 マルコの福音書 10 章 15 節

歳の兄弟の洗礼式!喜びの日です。洗礼は神の国への入り口です。信仰告白された時に、幼子のように純粋に信じます、とお話し下さったことが印象的でした。子どもは素直で純粋…な面もありますが、それは幻想に終わる時もしばしば。全く罪も汚れもないわけではありません。教えてもいないのに嘘をつくし、仲間外れも立派にやってのけます。そんなに大人と変わらなくも見えます。イエス様は寄って来る子ども達を御自分の許に招き、抱き寄せ、彼らの上に手を置いて祝福されます。そして冒頭の御言葉を告げられたのです。子どもは誰かを頼り切って生きています。生活の保障はその保護者・養い手にあります。大人のように世間を広く知り、世の中の経験を積んだ者でもありません。また当時は子供の権利なんて騒がれてはいませんでした。稼ぎ手としてもまだまだで、何もできなく取るに足らない存在です。けれども、その者たちこそ神の国にふさわしいと主イエスは語るのです。世間では徳の厚く、裕福な者こそ神の国にふさわしいと考えられていたのにもかかわらず、です。(この物語のすぐ後には金持ちが神の国に入る難しさが対照的に伝えられています。)この場に居合わせた人達はこのイエスをただ親切な子ども好きな先生として見ず、むしろイエスの言動に驚き見る眼が変わったこと必至だったでしょう。神の国は無力な小さい者にも開かれている。この者たちが入るのならば私にもその道が開かれているのでは!という程、取るに足らないちっぽけな人にも、神が愛の眼差しを注いでいて下さり、神の国に招かれ得るという恵みがここに現れています。もちろん偉い人にも金持ちにも、全ての人に神の国への道は備えられているのです。そして神の国への鍵となる信仰は経験の末に得るものではないのです。一方人々が子ども達をイエスの許に連れて来たのを弟子達は非常識だと叱り、自分達の意に沿わない行動を非難し邪魔します。それを見てイエス様は憤られました。この世の‘かくあるべき’という常識や私たちが正しいと思う価値観が、時に人を救いから締め出し、祝福を受けるのを妨げ、自らをも御心・神のおもいから遠ざけてしまうことがあるのです。聖書には老年のユダヤ人の教師でニコデモという人が、どうしたら神の国に入れるのかを知りたくて、夜中にイエス様を訪ねてくる物語も綴っています。(ヨハネ 3 章)彼は律法に厳格で‘常識的’、清く正しくがモットーのパリサイ派でした。けれど救いの確信、神の国に迎え入れられている保証がありませんでした。イエス様はニコデモと信仰問答し、水と御霊によって、新しく生まれなければ神の国に入ることはできませんと教えます。信じて洗礼を受け、聖霊が注がれ新生し、神の国に入ることができる!と。神の国は死後に待っている天国に限られたことではありません。それは将来的に付いてくることで、主たるは今ここにはじまる、神に見守られ、養われ支えられ、神と共に生きるいのちです。この新しいいのちは、‘永遠のいのち’です。聖霊による新生の御業は神秘的な出来事で人が知る由はないとイエス様は話されます。煙に巻いたわけではありません。その証拠に続いて。信仰の極意である新生の術が示されました。神の国に入れられ、永遠のいのちを得る唯一の方法は、天から下り十字架で私の代わりに贖罪を遂げられた神のひとり子イエスが、私の救い主であると信じる事です。科学や心理学的なメカニズムといった理屈では説明できない神の道がある。人の経験や理屈ではなく、神の用意して下さった救いの道を信じるのみです。信仰とは神がどなたかを知り、このキリストに全幅の信頼を置く事です。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)神が私たちを愛し、天が私たちに近づいて来て下さる。神ご自身が救いの道を示し、信仰を与え、神の国に招き入れて下さる。既に神の子どもとなり、神の国に籍を置くように、愛をもって選んでいて下さる。(エペソ 1:4・5 御意(みこころ)のままにイエス・キリストに由り愛を持て己が子となさんことを定め給へり。日本聖書協会・舊新約聖書)私たち信仰者は三位一体の大いなる神の治める、神の国に今生かされているのです。実りの秋の収穫感謝と子ども祝福式、更に洗礼式の恵みを感謝します。神の一番の収穫は人々の救いです。私たちが天の倉なる神の国という確かな救いと豊かな恵みの内におさめられることなのです。シャローム!

「天の父による子への万全な備え」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.11. 8

歴代誌第一 22章1~6節

ダビデは言った。「わが子ソロモンは、まだ若く力もない。【主】のために建てる宮は、壮大なもので、全地で名声と栄誉を高めるものでなければならない。それゆえ、私が用意しておく。」こうして、ダビデは彼が死ぬ前に多くの用意をしておいた。 歴代誌第一 22 章 5 節

スペインにあるサグラダ・ファミリアは建築士ガウディの作品として有名な建築工事中の教会です。この 170m 超、18 の塔を持つ石造建築は、サン・ホセ教会が主体となり1882 年に着工しました。当初 300 年計画でした。それでも近代の IT 技術の発展や寄付また観光収入の増加で完成時期が劇的に早まり、2026 年となりました。しかしコロナの影響があり、竣工は延長のよう。けれどガウディによれば、「神は急いでおられない」のです。今日はダビデが念願だった主の宮(神殿)建設について多くの物を用意し、息子ソロモンに神殿建設を命じる話です。ダビデは主に在って連戦連勝の王様でした。但し主なる神はダビデが多くの血を地に流して来た為、彼に神殿を建ててはならないと告げ、息子であるソロモン(名前の由来は「平和」)に神殿建設を引き継がせるのです。ダビデはソロモンの王座と神の掟・御言葉なる律法を守り行って生き、神殿建設を全うすることを指南します。意外な事にダビデは「見なさい。私は困難の中で【主】の宮のために…用意した」(16:14)と語っています。確かに生涯の前半はサウルから逃げる日々を送りましたし、後半には息子アブシャロムのクーデターで都落ちを余儀なくされることもありました。戦利品があったとはいえ、戦にはお金がかかったでしょう。ダビデとて資材や労働力を準備するのは容易ではなかったようです。しかし彼は「主の御名の為に建てられる宮」の建設を志し、神が治める御国をこの世界に示そうと尽力したのです。先立つ安息と建設地は神が既に与えて下さっていました。(16:17)神殿建設の肝は、神の民が心と魂を傾け、彼らの神、【主】を求めることでした。(16:18)後に完成するイスラエル初の神殿はソロモンの神殿と呼ばれますが、父ダビデの計画と準備がこれを支えたのです。父がその子の働きの為に万全な備えを成す。このように父ダビデと子ソロモンによって【主】の家を建てる働きが成し遂げられました。興味深いのは、「家」(ヘブル語で「バイト」)は人の住まい住居や神の住まう宮をさすだけでなく、王朝や国家、世界をも意味することです。「家」は、父と子の共同作業で築かれていきます。そして今、父なる神と御子イエス・キリストによって御国も、また地上で御国を表わす【主】の宮なる教会も建て上げられているのです。ダビデとソロモンの神殿建設は、天の父と御子の御国の到来と救いの完成についての、先の時代のモデルでした。信じる者は、父なる神のご計画に従い通した主イエス・キリストの十字架によって救われ、聖霊なる神によって御国を受け継ぐ保証をいただきます。私たちは神の子どもとされ、‘父と子’の神の国の建設に参与するのです。未完が売りのサグラダ・ファミリアが完成したらどうなるでしょうか?日本人で 40 年建設に携わる彫刻家の外尾悦郎氏は「26 年に構造という骨格が完成し、その後に彫刻などで肉や表情をつけていく。建築は続く」(日経ビジネス)と語っています。主イエスが創め、形作られた御国へと、私たちはキリストの使節・代行者として平和をコツコツ広め、交わりの復興を徐々に行うのです。かの神から召命とみことばと派遣を受け、360°!の回心を果たした使徒パウロのように(使徒 26:17・18)、私たちもキリストの使節としてこれらを礼拝で受けます。神の国の建設の肝はやはり主を求めること!祈りつつ聖霊に導かれてゆくのです。ガウディは貧富の差や社会の分断に悲しみ、誰でも集える教会を志しました。神の救いの計画は一瞬で全容が見えなくとも、この地に今いる私たちが御言葉を手掛かりに与えられた力に応じて、‘父と子’すなわち神と人とが協同し、主の平和・恵み・祝福に彩られた御国の完成を諦めずに日々目指して進むのです。最後に‘イエスの塔’が完成すると、世界最長の建造物になるそうです。当初の建築プランはガウディの死後スペイン内戦で失われましたが、遺品よりグラデーションのかかったガラスを用いる実験をしていたと判明。仕切りなく混じり合いながらそれぞれの美しさの見えるステンドグラスは、教会のシンボルとなり、神の国の美しさと主の麗しさを示すでしょう―私たち公同の教会のように。さて私たちもまだ若くて力がないでしょうか?大丈夫!天の父なる神様は天にあるすべての霊的祝福をもって、私たちを祝福し(エペソ 1:3)、万全な備えをして下さるのですから。シャローム!

「天のからだを持つ者に」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.11. 1

コリント人への手紙第一 15章35~49節

私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちを持つことになるのです。49 節

名古屋でミイラを観て来ました。開催中のライデン国立古代博物館所蔵・古代エジプト展では、3 体の人間のミイラの CT スキャン映像が見所です。棺や副葬品、祭儀文書『死者の書』も観られます。ミイラのお腹辺りには土製の正体不明の物体の発見も発表されています。この物体はシャブティ人形と言われる来世での仕事代行人かとも考えられているようです。紀元前 2000 年頃から 1 人につき 1 体納められたシャブティでしたが、それがサボるかもしれないと、1500 年頃からは1 日 1 体、1 人につき 1 年分つまり 365 体納められたとも言われています。古代エジプト人の来世への関心はハンパない!のです。今日は召天者記念礼拝です。天に召された神の家族を偲び、いのちと死を治める神様を礼拝します。死後どうなってしまうのか?来世はあるのか?等、死を巡る疑問があります。古代エジプトの死生観では死者は来世への旅路を進み、冥界の神オシリスに会います。冥界は西の地下にあり夜間の太陽の道と信じられていました。『死者の書』に描かれる最後の審判では、死者の心臓が真実の「マアトの羽」と天秤にかけられます。羽より心臓が軽ければ、東のオシリスの治める楽園へ、重ければ幻獣アメミトに喰われ転生は叶いません。正直且つ善良であったか証言するのは死者の心臓。心臓が人を裏切らない様祈るばかりです。聖書には死と命を司る神が天地を創造し、治められていることが証しされています。活ける神の御子イエス・キリストが、よみ(死者の集められる場所)の鍵を持っておられると御言葉が教えています。(黙示 1:17・18)私たちのからだは神様が、それぞれの生き物に適した形でお与えになりました。それにそれぞれの輝き・栄光も備えて下さったのです。そして、からだは地上にいる者だけが持つのではありません。地上に合ったからだがあるならば、天にも天に適うからだがあるのです。人類最初の人アダムは血肉のからだが与えられ、この地に生きる者となりました(創世2:7)。次に来るのは、天を生きる為の御霊のからだです。「最初の人アダム」に対して「最後のアダム」、「第一の人」に対して「第二の人」が出てきますが、後者はイエス・キリストを差しています。イエス様の復活は御霊のからだを証しています。この変容・変態は蒔かれた種の発芽にたとえられています。種が朽ちた後新芽が出るように、血肉のからだが朽ちて、御霊のからだが芽吹くのです。イエス様の復活が初穂となり、信じる者全てが私たちの主イエス・キリストと同じに、永遠に生き、栄光と力を持つ霊のからだに変えられるのです。『死者の書』の裁判では心臓の証言が来世への鍵でしたが、真の神の言なる聖書は、神の御霊、キリストの御霊なる聖霊が私たちのいのちの鍵を握っていると告げています。(ローマ 8:9-11)。イエスを我が主、救い主キリストと信じる者には、聖霊が注がれ、霊に満たされ、導かれ、生きます。もう私たちの内には神のいのちが宿っています。この肉体が朽ちる死を私たちは必ず通らなければなりませんが、聖霊なる神によって甦りのいのちが保証されているのです。既にエデンの園にあった神との関係は回復され、空を仰ぐヤゴの様に、今はキリストの再臨によって来るパラダイスと天上のからだを待ち望んでいます。死からの復活は、人間全ての願いと希望です。NHK 朝ドラ『エール』で主人公の義母を演じる薬師丸ひろ子さんが戦争で焼失した家の跡で、焼け残った讃美歌集より「うるわしの白百合」を歌った一幕が話題を呼びました。薬師丸さんの提案で、戦争を悲嘆し恨むシーンから、敗戦を乗り越え、死から復活・新しいのちの再生へというメッセージを賛美で届ける場面に代えられたそうです。時にキリスト教は非常識的だとされます。人は老いて死んで滅びてゆくという世の常の中で、人はいのちへ向かい、日々新しくされてゆくというのは非常識でしょうか?実にイエス様の復活がこの非常識を常識に変えたのです!最後にミイラ取りがミイラになってはいけません。来世への旅路を行く者に誘われ、死後の再生だけに関心を持つのではありません。復活と天のからだに希望を抱きながら、私たちはこの地で今‘神のかたち’を生きます。キリストの似姿に栄光から栄光へと日々造り変えられていくのです。キリストは将来の死をいのちに塗り替えて下さいました。主イエスにより死は命の終焉ではなく、永遠のいのちの更なる扉となったのです。シャローム!

「ダビデの礼拝改革」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.10.25

歴代誌第一 16章1~7節、43節

民はみな、それぞれ自分の家に帰った。ダビデも自分の家族を祝福するために戻って行った。 同16:43

学生会の友人カップルの結婚式に参列しました。賛美に彩られた式と披露宴でした。この一時だけでなく新郎新婦の生活も賛美に溢れており、これからも祝福を!と祈りました。ダビデ王はイスラエル史上初めての「王なる祭司」で、いけにえを捧げ、民を祝福する務めを果たしました。民を養い、レビ人達を神の箱の御前に仕える者として任命して行きます。神に祈り、感謝し、賛美を献げる。ダビデは礼拝改革をここに行います。彼は戦闘の開始の合図や凱旋歌で響かせる楽器を、礼拝での賛美に用いました。詩篇にはダビデの‘賛歌’と呼ばれる、楽器を伴う神への賛美が約 30 篇も収められています。弦楽器(琴)、金管楽器(ラッパ)、木管楽器(笛)、打楽器(シンバルやタンバリン)、まるで現代のオーケストラ。加えて、アサフ初めレビ人の兄弟達が聖歌隊として登用されました。礼拝聖歌隊の誕生の瞬間です!この季節 10/31 に、教会はハロウィンではなく、召天者をそして宗教改革を覚えます。ハロウィンは、オール・ハロウス・イヴ(万聖節の前夜)がつづまった言葉です。万聖節は召天者記念礼拝の事で、1517 年マルチン・ルターはこの万聖節に人々が教会に礼拝に来るタイミングを狙って、当時の教会(ローマ=カトリック)に物申す95か条の提題を貼り出したのです。実にこの宗教改革は当時の教会に礼拝改革をもたらしました。これまで中世の教会ではラテン語のみに聖書翻訳が許され、礼拝が捧げられていました。それが自国の言葉で礼拝し、聖書も宗教改革を機に諸言語に翻訳されていくのです。時同じくして、グーテンベルクの印刷機が発明され、民衆にも聖書が届く足掛かりとなっていきます。更に流行歌のメロディーに聖句を乗せて歌う、替え歌賛美が出来、礼拝賛美が全ての人に開かれていったのです。ルターやカルヴァンら宗教改革者は、教会に閉じ込められてしまった⁈みことばと賛美を解放する働きをしたかもしれません。教会の中と外とでは、御国とそうではない場所、聖職とそうでない仕事が分けられたようでした。けれども、宗教改革を通して、ダビデの表した神の民の在り方が取り戻されていきました。彼にとって神との関係において、幕屋の中と外という区別はありませんでした。礼拝の場と生活の場、平和な時と戦の時、主との交わりの隔たりはありませんでした。問題は何をするかでなく、何をするにも、心が神に向かい主と共に在るか、神の栄光となるか、なのです。(I コリント 10:31)もう一つ宗教改革が世間を揺るがしたのは、「万人祭司」という労働観の回復です。英訳聖書の父と呼ばれるウィリアム・ティンデルは「神を喜ばせるのに、他より優っている仕事というものはない。水汲みであろうと、皿洗い、靴屋であろうと、そして使徒であろうと、みな一つだ。皿洗いも説教もみな一つであって、神を喜ばせる偉業なのだ。」(『わが故郷、天にあらず この世で創造的に生きる』2004、ポール・マーシャル、いのちのことば社、p88)と述べています。この言葉が引き金となり異端として彼は断罪されてしまいます。それ程瞑想が第一で日々それを成す聖職者が一番、それ以外は二流とされる当時の風潮の中で、あらゆる仕事が等しく神への奉仕であるという真理を、教会が信じ難かったということでしょう。しかし聖書は職種の優劣を告げてはいません。むしろ仕事への姿勢、仕事での自己開発・使命、仕事で何を得、得た物で何をするのかが語られています。宗教改革は聖書的な働き方改革でもありました。ドイツ語で仕事はベルーフBeruf と言います。召命と同じ言葉です!天職という考えでしょうか。ルターが聖書翻訳の中でこの意味を見出したとされています。職業は基本的には世襲制であった時代にどんな人も主の御前に等しく神に仕える光栄な立場にあることを象徴する言葉でしょう。ダビデによる礼拝改革や宗教改革は、神の民が王なる祭司として生きる回復をもたらしました!最後にダビデは礼拝を捧げた後、家に祝福を携えて帰るのです。礼拝後、私達はどんな面もちで家に出発するでしょうか?教会とは全く違った表情で項垂れているなら、心を探らねばなりません。教会の内と外で神様に違う顔をし、家や職場、学校等で主を他人や不審者扱いしていませんか?‘霊的な言葉を家庭にもたらす(Spiritual language tohome)’ことが祝福の秘訣です。今、礼拝改革必要ですか?礼拝の主が伴われる限り、どんな時でも場所でも賛美、礼拝の恵みが閉ざされる事はないのです。シャローム!

「一体となる教会と家庭」(棚橋真之介CCCスタッフ) 2020.10.18

コロサイ3:12-17

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と 賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。

▶コロサイ 人への 手紙の 背景 と パウロの 思い
▶➀ キリスト 中心の 共同体 となる( 15 節 17 節)
・ 第一 キリストを かしらとした ひとつのからだ
・ 第二 キリストの ことばを たくわえ、 教える
・ 第三 キリストへの 賛美 と 感謝 と 祈り に あふれる
・ 教会と 家庭
▶② 互いに 赦し あう 共同 体となる( 12 節 14 節)
・ 2つの ゆるし 「 許し」 と「 赦し」
・ 罪の赦し を すで に 受け取っている キリスト者
・ 「 時間 が 経てば 解決 する」?
▶まとめ
・ 結びの 帯として 完全な 愛が 中心 となり、 土台 となる ように

エペソ4 16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

「神の民の回復力(Resilience レジリエンス)」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.10.11

歴代誌第一 13章1~14節、15章1~15節

心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。箴言 3章5節

この一週間私はどれ位祈ったのだろうか?招詞を聞きながらふと考えます。今日からダビデ王の即位と治世が語られます。神は生きておられ、我らと共におられる~神の栄光と統治をイスラエルの国を通して現わす使命が彼にありました。エルサレムを都(ダビデの町)と定め、宿敵ペリシテを倒し、賛美と踊りを持って共に礼拝をする。そしてなおざりにされていた神の箱・主の契約の箱を携え上り、主の宮を建てることがダビデの夢でした。ダビデは神と人に愛される王でした。サウルがまだ王位に就いていた時から、人々の心はダビデこそイスラエルの王と考えていたようです。サウル亡き後、ダビデは始めヘブロンという町で王となり、7 年半を過ごします。それからユダ族だけでなく、全イスラエルがダビデを王と認め、33 年間エルサレムで国を治めることになったのです。ダビデには三勇士(ヤショブアム、エルアザル、シャマ…シャマは歴代誌名簿にはない)と三十人余の勇士がありました。全イスラエルが南はエジプト北はシリアから、武装しダビデの元に集結。神の陣営とまごう程の大陣営となります。彼らは一丸となり、ダビデを王としたのです。イスラエル統一王国はここにその姿を見せます。ダビデは夥しい神の民を、神の臨在を象徴する神の箱を真中にし、礼拝をもって治めようと、志を立てるのです。全会衆はダビデに賛同しました。そこで安置されていたキルヤテ・エアリムからエルサレムへ神の箱入城プロジェクトが始まったのです。新車の荷車に載せ、王と全会衆は踊りに鳴物入で進みます。しかしキドンの打ち場まで来た時、牛がよろめき荷車が揺れました。御者の一人であったウザは手を伸ばし、箱を抑えました。その時、主なる神の怒りが燃え上がり、ウザはその場で、神の前で命を落とすのです。ダビデ王はなぜだ!と、ペレツ(原意「破る」)・ウザと呼ばれるようになったこの場所で、怒りを爆発させます。これは人類初めの殺人事件が起こった時に、弟を殺したカインが抱いたと同じ激しい怒りです。【主】は弟アベルとその捧げ物に目を留められましたが、カインと彼の捧げ物にはそうされませんでした。彼は顔を伏せ、罪に誘われ、弟を殺めてしまうのです。(創世記 4:3-8)ウザの死で面子を奪われたダビデもカインの様に激したまま顔を上げられなくなってしまうのでしょうか?新車は見せかけの敬虔。虚栄の中でも礼拝や奉仕ができてしまう恐ろしさがここに浮き彫りにされています。聖なる民、つまり他の民族とは区別された、違った生き方をする者でありながら、周辺諸国が神の像(偶像)をうやうやしく運ぶと同じ方法で、神の箱を取り扱おうとしたのです。本来ならば、レビ人のケハテ族が担い棒を肩に載せて神の箱を担いで運ぶはずでした。ダビデがとった方法は神の言葉に反する行為でした。大失敗です。しかしダビデはカインとは違いました。神が共におられるしるしである神の箱を祭り上げながらも、そこに主なる神への敬服が微塵もなかったと気が付くのです。いきがって自分の心をコントロールできなくなった処から、彼は一休止します。神はダビデの試みに割り込んでこられます。介入されます。神を愛する者をほおってはおかれないのです。ダビデは神を恐れ、心を主に向けます。怒りで顔を伏せたままでなく、顔をあげたのです。ダビデは前王サウルの失敗、神の箱をなおざりにしたと同じことを、実は自分もしていると悟ったのかもしれません。サウルは神を尋ね求めず、神に拒否されたことで怒りと恐れに支配された哀れな王でした。ここでダビデは一旦手を止めます。神の箱の一件では、ダビデはこれまで神に尋ねていません。民の賛同ではなく、御言葉を求めその通りに行う事こそ、神の民また神の民のやり方であることを悟ります。その後ダビデはペリシテ戦では、神にその都度伺いを立て、御言葉に従って勝利を治めます。しばらく(3ヵ月間)の時を擁した後、エルサレムに神の箱を運び上る際には、ダビデは【主】のことば通りレビ人を召すのです。見事な回復です!コロナ後の世界に思いを馳せる今、ぼちぼち耳にする言葉があります。レジリエンス(回復力)です。ゴムなど圧力や衝撃を受けて変形しても元に戻り、失敗しても回復しより良い方向へ持っていける力を言います。ダビデは主に拠り頼み、祈る中で回復力が養われていきます。神の力、神の言のみが私たちに真の敬虔と回復を与えるのです。シャローム!

「君の名は?!~その名の通りに生きる」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.10.4

歴代誌第一 9章1~2節、10章13~14節

このように、サウルは主の信頼を裏切った不信の罪ゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、主に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。 歴代誌第一 10章13・14節

『教団の日』で放送事故を起こしました。開始から音が出なくなり配信の中断を余儀なくされましたが、技術班が必死に解決に当たり、2,30 分後どうにか再開出来ました。現在フルバージョンの作成に努めています。プロジェクトチームが各自の持ち場で全力投球の『教団の日』DouTube 配信でした。歴代誌のテーマは、恵みの神による、神の民・礼拝の民してのアイデンティティの再認識でした。礼拝を通して、神との、そして信仰共同体の交わりの回復が図られます。そんな中で、‘神の民、王としての祭司’(I ペテロ2:9)との、私たち人としての本来の姿を思い描く中で、同じ様に奉仕しないと、完璧にやらないと!といったプレッシャーを覚えることも生じてきます。けれども難解な系図を目を凝らして見る時、神の民イスラエル各部族の多様性が浮かんできます。また礼拝を司る人々にも、祭司、レビ人、「宮のしもべたち」(I 歴代 9:2)と色々な立場があり、具体的な職に門衛や歌うたいの務めが挙げられています。神の民・礼拝の民として、一致し足並みを揃える事と、一様でなければならない事とは違うのです。ここに神の民の多様性が示されています。ユダヤ人も異邦人も、全ての人が神の民・礼拝の民として招かれ、この万物の基となる神様の許に憩い、活きるのです。出エジプトを果たし、約束の地に入った神の民は、王様のいる周辺諸国と同じように王を置きたい、そうしなければ生き延びられないと当時の預言者サムエルに訴えました。そこで、神様がイスラエルに与えられた最初の王様がサウルでした。サウルはイスラエルの敵ペリシテ人を討って、神の民を解放する使命が与えられました。神様はサウルの心を入れ替え、新しい人(I サムエル 10:6-9)として、王にふさわしく整えて下さいました。ある時、彼の息子ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を打ち殺し、サウル王は角笛を吹き鳴らしペリシテ戦の口火が切られました。開戦間もなく、ペリシテ人の恨みを買った事を聞いたイスラエル兵 3 千はサウルの元に集結しますが、一方ペリシテ人も戦車三万、騎兵六千の大部隊で打って出ます。イスラエル兵は怯えて士気を失い、敗走する者もいました。ギルガルに残ったサウルとその兵達も震えます。頼みの綱のサムエルがやって来るまで 7 日間をただ耐えるのみでした。しかし約束の日が来てもサムエルは現れませんし、敗走する兵は後を絶ちません。サウルはきちんとリーダーとして振舞わないととプレッシャーを覚え、禁じ手を繰り出します。預言者サムエルの、待っていなさい、そこで成すべき事を教えようとの言葉を退け、待ちきれず自分勝手にいけにえを捧げてしまったのです。他国の王達が成すような儀礼を自らその分を越えて行ったのです。預言者の言葉は同時に神の約束でした。サウルは不信を働きます。例祭後サムエルが登場しますが、時すでに遅し。王位はサウルから退けられたのです。歴代誌はサウルがペリシテの手に掛かって命を落としたと記し、王位とその命が失われたのは、実にサウルの不信の罪故と記します。王位はダビデによる簒奪ではなく、神による禅譲であったのです。サウルは【主】なる神にイスラエルの王として立てられるも(「あなたは、自分の目には小さい者であっても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。【主】があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされたのです。」I サムエル 15:17)、自分が何者たるやという認識が欠けていました。聖書では名前がその人のアイデンティティを現すことがしばしば出てきます。サウルの名は、シャーアル「尋ね求める」またはシャーオール「尋ねる、伺う」と同源の言葉です。神に尋ね求めながら生きる事が、彼の歩むべき道でした。けれどその名の通りにサウルは生きず、逆に死人の霊に尋ね、結果自らが死者の国・陰府へ降って行ったのです。他方、ダビデ王は「愛される者」という名を持ち、それが彼のアイデンティティとなりました。数々の失敗をダビデも犯しますが、神に愛されている者として、神を愛し、御声に聞き従い、悔い改め、常に交わりに生きました。神様は失敗もなく、完璧であることを求めてはいません。主が問われるのは、君の名は?つまり私たちが自分自身を何者と心得るかです。自分の目に時にとるに足らない者として映るかもしれませんが、私たちは既に主に在って、神の民、王なる祭司なのです。(I ペテロ 2:4-5)シャローム!

「神の民、礼拝の民として生きる」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.9.27

歴代誌第一 2章1~2節、5章1~2節

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたに告げ知らせるためです。 ペテロの手紙第一 2章9節

歴代誌を見てみるとデジャヴ(既視感)を覚えるかもしれません。サムエル記や列王記でもう読んだ!と。新約聖書の冒頭・マタイの福音書よりえぐい系図系図系図に、サウルからダビデへ、ソロモンから南北朝、最後はバビロン捕囚まで、もう一回あの目まぐるしいスラエルの歴史を辿るのです。特に前の列王記とは何か違いがあるのでしょうか?列王記は南北朝はなぜ滅びたかがテーマです。神に従うは祝福と命、背くは呪いと滅びであると常に語られていたはずでした。神の民イスラエルは後者を選びます。主を求めなかった民へのさばきを通して、まことの神と主のみことばの真実が確かに現われています。一方歴代誌で語られるは恵みの神です。恵みとまことの違いは、例えばガソリンスタンドで給油を頼んだ時、頼んだ量をそのまま入れてくれるのがまこと、頼んだ量以上に入れておまけしてもらえるのが恵みです。そこで歴代誌には南ユダ王国の滅亡を決定的にした極悪王マナセの回心が綴られ、捕囚からの回復預言とペルシャ帝国のキュロス王による解放、エルサレムへの帰還令で閉じられています。歴代誌のテーマは礼拝の民として生きることです。バラバラになったイスラエルの民がもう一度集まる時に書かれた書で、何よりも大切なのは礼拝だと言うことを伝えています。「ユダは彼の兄弟たちの間で勢いを増し、君たる者もそこから出たが、」(5:2)と、君たる者=ダビデとその子孫、すなわち残る神の民イスラエルを背負って立つユダ族に焦点が当てられています。ここに問われるは、あなたは何者か?というアイデンティティです。初っ端から系図のオンパレードですが、ここに神の民の‘ファミリーヒストリー’が記されています。神の民イスラエル(アブラハム~イサク~ヤコブの子孫)、契約の民(ダビデの子孫)、更に礼拝の民、祭司の王国(レビ族にも注目)へと進んでいきます。とことん自分のバックボーン(背景・出所)が問われています。なぜか?それは自分が何者かという自己認識が、私たちの物事に取り組む姿勢を決め、日々の言動を導くからです。テニスプレイヤーの大坂なおみ選手がアメリカの黒人銃撃事件に抗議の声を上げ、7 人の犠牲者の名前の入ったマスクを一試合毎につけてコートに立ったことは記憶に新しいです。全米オープンの準決勝では「私はアスリートである前に、1 人の黒人の女性だ」と、抗議の意味を込めて棄権を表明していました。この一連の行動は、彼女のアイデンティティから出たものでしょう。私は何者かという認識によって、自分がどう発言し、行動し、決断するかが導き出されます。散り散りになっていた神の民がもう一度集められて、共同体を再建しようとする時、一体何から手を付けたらよいのか。このコロナ禍の危機でバラバラの中を、どう教会として一致して宣教するのか、私たちも問われるところです。歴代誌によるとそれこそ共同体の出所、自分達が何者であるかの確認から、具体的には礼拝回帰から、回復は始まりました。系図と歴史だけ聞くと、‘選民ユダヤ人’の物語という印象が強いでしょう。けれど歴代誌はアダムから始まっています。はじめの人間アダムは、神との交わりに生きる礼拝者またこの地を治める管理者として造られました。ここに全ての人間に神が授けた、人が持つべき自己理解や主体性があるのです。先日の IFFEC 会議では、人種差別に対して教会として声を上げ克服して行く道は、キリストに在るアイデンティティ~皆神のかたちに造られ(神のご性質の片鱗を擁し)、神の眼に等しく尊い~であると確認されました。「君たる者」(5:2)に新約聖書の光を当ててみると、ダビデを越えてイエス・キリストであることが浮かび上がって来ます。この主イエスが隔ての壁を打ち壊して、全ての者を一つにする平和を成し遂げられたことも言及されました。このキリストこそ、私たちの平和です。そしてダビデやアダムを越えて、神様が私たちの本当の出所であることを知るのです。どんな民族も神の眼には等しく、違いはないのです。神の許に返り捧げる礼拝に、交わりの回復があります。礼拝でみことばを聞き、神の民として整えられる。そしてこの地を管理し仕える王として派遣されてゆく。また祭司として捧げ物を携えて御前に出、罪のとりなしをも果たしてゆくのです。ここに人としてやり直す道が開かれているのです。シャローム!

「【主】を求めよ。列王記最終回~ユダの命運はいかに!」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.9.20

列王記第二 23章24~27節

「行って、この見つかった書物の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、【主】を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった【主】の怒りが激しいからだ。」 列王記第二 22章13節

先週は月~金zoom 漬け!でした。IFFEC(自由福音教会の国際同盟)の会議もありました。希望のないと感じる世にいかに教会は生き宣教するか、話し合いました。実は列王記には救い―国家の回復の預言が記されていません。預言者によって語られるは、南北朝の王達による国の私物化とその結果の滅びです。最終的には、北王国民のアッシリア捕囚、南王国民のバビロン捕囚がもたらされます。アッシリアによるエルサレム陥落を瀬戸際で免れたユダ王国は、ヒゼキヤ王の息子マナセ王の時代を迎えます。マナセは極悪王として知られ、異邦人以上にありとあらゆる偶像礼拝や殺戮に手を染めました。そしてこの時ユダに下されるさばきとしてバビロン捕囚が決定的になったのです。(21:10-16)瀕死のユダ王国における最後の信仰の煌めきはマナセの孫ヨシヤ王でした。家来の謀反によって倒れた父アモン代わって、ヨシヤは幼くして王位に就きました。彼は信仰者で、宗教改革を行いました。主の宮(神殿)の修理工事の際に律法の書が発見されたと大祭司ヒルキヤによって伝えられます。報告を受けた書記シャファンは、王ヨシヤの前で律法の書を読み上げます。王はみことばを聞いて悔い改め、自身の為、国民の為、王国全体の為に、【主】を求めよ!と、祭司ヒルキヤはじめ家臣たちを預言者の元に遣わしたのです。ここでも預言者が登場!エルサレムに住む女預言者フルダが改めてその都とユダの国にさばきが下ると告げます。ただヨシヤ王の時代にはその災いが起こらないことが語られました。ヨシヤはみことばによって悔い改め、奮い立ち、ユダに住むすべての人々に発見された律法の書・契約の書を読み聞かせました。王は御前に契約を結び、【主】に従って歩む、契約を実行することを誓います。そして民もまたこの古の契約に加わり、神の民に自らの名を連ねたのです。けれども、ここに回復の預言はなく、ユダ国、エルサレムの都が退けられると宣言されます。(23:26-27)そうして、実際にヨシヤから数代後にはバビロニア帝国のネブカドネザル王が攻め上って来、エルサレムは遂に陥落。バビロン捕囚となるのです。列王記には神の民の回復の預言はありません。この時代に契約が更新されることはないのです。あるのはただ古の律法の書、ダビデ契約までです。(エレミヤ書や歴代誌には、バビロン捕囚の意味と回復の預言が記されていますが。)大混乱の時代、国家更に世界的な危機に、私たちも回復の預言、目新しい約束を神様に求めたくなります。コロナの終息は?はたまた終末ならばイエス様の再臨はいつ?何か救いの御業に進展があるのでしたら、教えて神様!と。しかし聖書は66 巻で完結しています。現代の私たちにも救いの更新はないのです。では救いがないのでしょうか?否、救いは確かにあります。今も昔も変わらず、律法・契約の書~既に聖書が告げる通りです。ここに救いの全てが詰まっています。ヨシヤ王はそのみことばを聞き、【主】を求めます。自分で終わらず、神の命の掟と契約を、民とも分かち合ったのです。ヨシヤ王は尚も神の国の王として、神の約束を信じて生きました。希望の拡散者~hope spreader として、霊的な言葉を自らの国にもたらしたのです。しかし彼はファラオ・ネコを迎え撃ち戦死してしまいます。意外にもヨシヤは‘主は諦めた、失望した’という意味です。王ヨシヤの名が王国の命運を表すように、これでユダはさばきへと完全に舵を切ったのです。主の裁きは、同時に真の神の民への救いです。神の民をリセットし、古からの教えだけれども‘新しい生活様式’である御言葉に聞き従い生きる道を拓かれる布石とされたのです。私たち教会はヨシヤよりも前進した御国の約束を聞くことが出来ます。ダビデ契約に続き、今私たちに与えられている最新かつ完全な契約は、主イエス・キリストの血による契約です。危機の中、獄中にあったボンヘッファーが述べているように、信仰者は互いに’救いの言葉を持ち運ぶ者’として尚機能し、主イエス・キリストにある救いの希望を持って生き抜くことが出来るように働きかけることが出来るのです。クリスチャンのDNA~死から命へ移される~希望をいただき、継承してゆくのです。そこに命がまた芽吹いてくるのです。シャローム!

「揺さぶられる時に~静まり、知れ。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.9.13

列王記第二 19章8~20節

ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。『いったい、おまえは何により頼んでいるのか。』 列王記第二18章19節

南王国ユダの民は当時古代最強の敵である新アッシリア帝国の将軍ラブ・シャケから全面降伏を求められます。首都エルサレムが包囲され、信仰においても大変な揺さぶりを受けます。そんな大ピンチでも、不思議にも敵将の惑わしの言葉の中にユダ王ヒゼキヤやユダの民の信仰告白が語られるのです―「われわれは、われわれの神、主により頼む」(18:19)、「【主】が必ずわれわれを救い出してくださる。」(18:30・32)。確かにアッシリアの大軍を前にして、ユダの民は縮み上がっていました。なぜなら既に兄弟国である北王国イスラエルはこのエルサレム包囲の出来事(紀元前 701 年)の約 20年前(722 年)に首都サマリアが陥落し、捕囚に遭い、亡き者とされてしまっていたからです。(残された民は代わりに入植した人々と混じり、新約聖書に登場する、ユダヤ人のライバル・サマリア人となっていきました。)北王国滅亡の理由を、聖書は【主】なる神と共に歩まずむしろ背いた、初代ヤロブアムの偶像礼拝にみられる罪と伝えています。北イスラエルの罪は膨らみ、南ユダにも不信仰の罪が入り込んでいました。(17:19~23)神の愛には限度があります。区切りがあります。罪や悪は黙認されたまま終わらないのです。そうして、北イスラエルに終止符が打たれました。加えて、南王国随一の信仰者ヒゼキヤ王もアッシリアの猛攻を受け、ユダの城壁のある町々が既に征服されていました。残るは都エルサレムのみといった滅亡一歩手前の危機だったのです。そこで問われるは、『いったい、おまえは何により頼んでいるのか。』ということでした。ピンチの時こそ信仰が問われます。エルサレム包囲下での姿勢は、ヒゼキヤとユダの民にとって信仰の試金石となりました。ヒゼキヤは主の宮で祈ります。彼は家臣を預言者イザヤの許へ遣わし、祈りの要請を送るのです。ここにも王の傍らに預言者があり!イザヤはアッシリアの将の言葉を恐れるなと語り、神の助けを預言しました。さてエルサレムはどうなったでしょうか?ユダ国の運命はいかに?まず敵将ラブ・シャケはクシュ王ティハルカ(エジプト王タハルカ)が攻めて来る噂を耳にします。彼はヒゼキヤ王に牽制球として手紙を送り、一時エルサレムを離れ、王セナケリブと合流します。そこで見事エジプトを撃退したアッシリアは今度総力を挙げて、再びエルサレムに上ってきました。事態はより悪化してしまいました。もう絶対絶命です。ヒゼキヤは更に祈ります。アッシリアにより廃墟と化した町々の存在からも目をそらさず、地に足付けて、活ける【主】なるお方、唯一真の神に救ってくださいと。するとその夜、【主】の使いがアッシリアの陣を打ち、大勢の兵が死に、アッシリア王は撤退を余儀なくされました。救われたのです!それにしてもヒゼキヤの信仰告白、救いの確信はどこから来ていたのでしょうか?列王記は年代を追って読み進められますが、死の宣告を受けたヒゼキヤの病の癒し(20 章)は、エルサレム包囲の前のエピソードと考えられています。アッシリアから王と都を守る為に、癒され、寿命が 15 年延ばされたとヒゼキヤにイザヤから告げられているからです。(20:5・6)もうダメだという時に、命を司る【主】にヒゼキヤは祈り、救われたのです。それは正に時間が戻る程、天地を揺るがす出来事でした。この救われた経験と主への信頼が、アッシリアに揺さぶりをかけられた時、信仰を毅然として告白する足場となったのでしょう。ここまで私を守り導かれた【主】なる神が、今も共に居られ、救いを成して下さる。じわじわと迫って来る揺さぶりの時には疲れて、諦めかけ、もういいかという声が自分の中に響くかもしれません。敵の圧倒的な力と敵将の甘美な誘惑の声に後押しされそうになる。しかし救いは尚も遅れず、必ずやって来るのです。この旧約における主の都・主の民~エルサレム解放の救いの歌が詩篇 46 篇にあります。戦いが止む知らせと共に「やめよ(静まれ)。知れ。」(10 節)と主の命令が響きます。そして「わたしこそ神。」と宣言が成されるのです。主の御前に静まることは、思考停止するのではありません。信仰を働かせる好機、神学のチャンスです。ここでより頼むべき救い主に出会うのです。試練の中ダビデの家ユダに遣わされたイザヤは、私たちの力ではなく何よりも「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(II列王 19:31)と、イエス・キリストによる全世界の救いを預言すると同じ言葉(イザヤ 9:7)で救いを高らかに告げたのです。シャローム!

「真実な【主】なる神のレガシー」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.9.6

列王記第二 14章23~29節

【主】は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで、御顔を背けて彼らを捨てることはなさらなかった。 列王記第二 13章23節

だれが次の総理になるのか、安倍政権のレガシーは?そんな文字が紙面を彩っています。今日は預言者エリヤと戦ったアハブ王後の北王国イスラエルを見ていきます。イスラエルのレガシーは、初代ヤロブアムの造った金の仔牛像でした。2 体あり、一つは北王国の北端ダン、もうひとつは南端ベテルの町に安置され、真の神【主】以外を拝む罪を犯す偶像礼拝の象徴と温床となってしまっていました。それは「イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れなかった」が、悪王を現す決まり文句として毎回登場する程でした。けれどもイスラエルの【主】なる神様は、良い時も悪い時も彼らを見捨てず、見放さず、みことば通りに、誠実を尽くされるのです。この主に背いた北王国イスラエルにも!まず神の御言葉の真実を、エフーの物語が証しています。エフーは軍の高官でしたが、エリシャの遣わした預言者仲間が彼の許を訪れ、【主】によって油注がれ、王となりました。エフーは神の時に、クーデターを起こし、アハブの息子ヨラムを倒します。絶命したヨラムが投げ捨てられたのは、因縁のナボテの畑でした。ナボテの畑は、首都サマリヤのアハブ王宮の側にあり、これを手に入れる為に、アハブ王妃イゼベルは所有者ナボテを陥れ、殺めてしまったのでした。次いでユダ王アハズヤ(母はアハブとイゼベルの娘のアタルヤ)も打ち取られます。更に、イズレエルの地所で犬がイゼベルの肉を食らうという、預言者エリヤの預言通りに、イゼベルも亡くなり、亡骸は犬に喰われ畑の肥やしの様になりました。加えて、アハブの血統の者ども全てとバアルの預言者や信者全てを葬り去りました。こうしてアハブの家、オムリ王朝は滅びました。エフーはこう告げています。「だから知れ。【主】がアハブの家について告げられた【主】のことばは一つも血に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」(10:10)恐れるべきは、主です。口に上る言葉も国を変える行動も全てその御手の中にあります。実はエフーもあのレガシーを踏襲し、主なる神の掟に従わず、ヤロブアムの罪を続けます。けれどもそんなエフーを、神様はわたしの目にかなうことをやり遂げ…わたしが心に定めたことをことごとく行った(10:30)と評しエフー家が 4 代続く王座を与えられたのです。エフーの時代、世界情勢的にイスラエルは窮地に追い込まれていました。新アッシリア帝国が隣国フェニキアを陥れ、イスラエルまでやって来ていました。そのレガシーであるブラックオベリスクには、アッシリア王の前に跪くエフーの姿が彫られています。しかしながら、領土が徐々に削られてゆく厳しい状況の中にも何とかエフー家は存続し、巻き返して力をつけ、4 代目のヤロブアム 2 世の時代には息を吹き返し、分裂後最大かつ最後の輝きを放ちます。領土は統一王国の黄金時代~ダビデとソロモンに匹敵する程の回復を見せました。ある種、良い時でした。イスラエル国家の立ち位置が良い時も悪い時も、しかも信仰的には皆、悪王のレッテルも貼られているにもかかわらず、神はその真実さゆえに、エフーの家を祝福されるのです。(恵みとか言いようがない。)ちなみにエフーの息子エホアハズ(2 代目)も主に願うと敵国アラムから国共々守られ、エホアハズの息子ヨアシュ(3代目)も南王国アマツヤから攻め込まれますが、大差で勝利を収めました。実に神の国・神の民にとって、主の御約束だけがレガシー!なのです。これは廃れる遺産ではなく、いつの時代も私たちを生かす宝です。最後に安倍総理が辞任経緯を語る中で、その決断は自分だけで成したと話されていました。一国のリーダーは大変な孤独を味わいます。イスラエル王達も多分に漏れず孤独を覚える時があったでしょう。但し注目すべきは、神は決して彼らを孤独に留まらせなかった点です。ヨアシュは長年虐げるアラムからイスラエルの町々を取返しますが、その背後には死の病を患いながらも預言するエリシャの姿があります。ヤロブアムの治世には、あのアミタイの子ヨナ―ヨナ書に出てくる強敵アッシリアの都ニネベに遣わされた預言者―が登場します。きちんとみことばを届ける者が備えられていたのです。そしてこの時代に経済格差のよる貧困や不正に悩み苦しみ、救いを求める民にも、みことばを語り告げるアモスやホセア等の預言者が遣わされました。神の民の名が消し去られない為に。シャローム!

「ドタン場で見る神の守り」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.8.30

列王記第二 6章8~23節

そして、エリシャは祈って【主】に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」【主】がその若者の目を開かれたので、彼がみると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。列王記第二 6章17節

'神の救い'という名を持つエリシャは、名前の如く神の救いを預言と奇跡を通して現わしました。預言者エリヤの後継者として登場したエリシャは、北イスラエルを巡って活躍をします。私たちの目に、預言者は孤高の存在に映ります。時にそうですが、エリシャの活動で特徴的なのは預言者仲間がいたことです。真に彼は神と人と共に生きる預言者でした。エリシャの奇跡には預言者仲間やその家族を前に現わされたものが幾つかあります。'主こそ神'、イスラエルの神こそ生ける真の神であることをエリヤの後釜として、エリシャは仲間たちと共に証していったのです。預言者は神と共に在り、神の敵が自らの敵となりました。今日はエリシャが敵国アラムから睨まれています。アラム(今のシリアの地)は奇襲や罠を仕掛けて、イスラエルを陥れようとしますが、全て失敗に終わります。敗因はエリシャによって、イスラエル王にアラムの計略がばらされていたからです。すると直ちにアラム王は馬と戦車の軍隊をエリシャのいるドタンに送り、夜には町は敵の大軍に包囲されてしまいました。翌朝エリシャの若い召使いは、アラムの大軍に戦々恐々!震え上がり、どうしましょうと騒ぎ立つのです。当時アラムはダマスコ等の都市を軸とした幾つかの小国家が並び立つ、東への隊商と内陸貿易で栄えていました。紀元前 13~12 世紀かけて「海の民」と呼ばれる集団が地中海を西のエーゲ海から東沿岸へと席巻し、以前に栄えた北のヒッタイト帝国を滅ぼし、南のエジプトに大打撃を与えました。それより古代地中海世界はしばらく停滞した時代を迎えます。その中で台頭してきたのが、ダビデとソロモンを擁したイスラエル、海洋貿易に長けたシドン等の都市国家を有するフェニキア、そして陸上貿易を治めるアラムでした。広域な貿易を展開したアラムの言葉、アラム語は国が滅びた後も古代オリエント社会の共通語となり、イエス様も話されるに至りました。聖書原点もヘブル語、ギリシャ語とこのアラム語(ダニエル書 2:4~7:28)で記されています。一方、この神の敵なるアラムに対して、エリシャは恐れません。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(6:16)と話し、驚き惑う若い召使いがそれを見ることが出来るようにと祈ったのです。【主】なる神はその若者の目を開いて下さいました。そこで彼が見ると、何と火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えたのです。火の馬と戦車はエリシャの師匠、エリヤが天に上って行った時にも登場した、神の介在を示す天のご支配の現れでした。私たちも目の前の事や見えるものにしか心を留めず、右往左往している時はないでしょうか?自分の手に負えそうもない圧倒的な力や異なる意見や価値観を持つもの(敵)に出くわし、なす術もなく、「どうしたらよいのでしょう」(6:15)としか言葉が出て来なくなる。けれども私たちが見えようとも見なくとも、神の守りは確かにあるのです。人の状況や感情の如何にかかわらず、世の何物をも凌ぐ神の力、その御手が私たちを取り囲んでいて下さるのです。【主】なる神様は、不幸と思える中にも、いつも私たちを支え、全ての悪、いかなる敵をも退けて下さる救い主です。敵はエリシャに向かって下って来ます。そこでエリシャは祈ります。するとその祈りが言葉通りに【主】によって聞かれ、アラム軍は神に打たれて、目が見えなくなります。エリシャは彼らを活動の北イスラエルの首都サマリヤに連れてゆきました。そして今度は彼らの目が開かれるように祈りました。アラム軍勢が目を開けると、そこは敵陣の真っ只中であると悟るのです。イスラエル王は今こそアラムを倒す好機だと、彼らを倒そうとしますが、エリシャは逆にパンと水を与えて、主君の許へと帰すように命じました。イスラエル王はアラム兵の為に盛大なもてなしをして、エリシャの言葉に従い、国へ帰してやりました。それ以来、イスラエルの地にもうアラムの略奪隊が現われることはありませんでした。悪に悪で報いず、敵にも良きを成す、【主】の御心を行う信仰者の在り方を教えられます。敵アラムを迎え、エリシャが行ったのはただ一つ祈る事でした。神の人が祈る時、【主】なる神ご自身によって神の守りと介在が明かされます。天の視座が開かれ、人はそこで'神の救い'に与るのです。シャローム!

「ナアマン将軍のいやしとエリシャの餞別」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.8.23

列王記第二 5章1~19節

…「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」 II 列王 5:13

列王記 2 巻目の始めには預言者エリヤの後継者、エリシャによる 10 の奇跡が記されています。その 5 つ目の奇跡が、アラム国の将軍ナアマンのいやしです。ナアマンは勇士でしたが、重い皮膚の病気になりました。この病気にかかると全身が白くなる症状がでます。ナアマン将軍の病気のいやしに一役買ったのは、彼の妻に仕えるイスラエル人奴隷の若い娘でした。彼女はナアマンに預言者エリシャの話を教えます。するとナアマンは主君のアラム王の所に出向き、その娘から聞いた話を申し上げます。アラム王はこの将軍の病の癒しの為に、イスラエル王に豪勢な贈り物と癒しを依頼する書状を書き送りました。一方でイスラエル王はこの敵のアラム王の贈り物と書状、武将ナアマンの来訪を、治せないものを治せと言いがかりをつけているのだと訝しがり、衣を裂き、不安と怒りを露わにしました。そこでエリシャの登場です。王のやるせない状況を知り、自分の許にナアマン将軍を送るようにと、使いを行かせました。ナアマン将軍がエリシャの家の前に到着すると、エリシャは使いを通して、ヨルダン川で 7 度身を洗えば、元通りになり清くなると告げました。将軍はエリシャが直接患部に手を置き癒してくれると考えていたようですが、その当てが外れます。川ならば、アラムの数々河川の方が余程素晴らしいと、ナアマンは怒りその場を去ろうとするのです。その時、将軍のしもべ達が近づき、それは難しい事ではありません、ぜひに!(5:13)と進言しました。そこでナアマンは神の人エリシャの言葉通りに行うと、幼子の体のようにすっかり清くなり、病は治りました。私たちは時に信仰は難しいと考えます。入信には修行や相応の学識、人格的な徳等が備わっていなければと。聖書の神様はイスラエルや西洋の神であって、私のではない。十字架で全ての罪が赦される事なんてあってはいけない、道理に反すると。けれども神は敵将ナアマンをも清めます。しかも難しい事を求めている訳ではないのです。人は自分のコレ!と言った救いの道を欲しますが、神様は絵に描いた餅でもなく、壮大な冒険の末にやっと一握りの人が辿り着けるかどうかの宝探しでもなく、実に私たちの手に届くすべての人に開かれた信仰に招いて下さっているのです。ナアマンはただエリシャが取り次いだみことばに聞き従っただけでした。十日程前の深夜に北東の空を眺めてみました。ペルセウス座流星群が見えるというニュースを見たからです。普段はなかなかそうは言っても簡単に見られるものではないと、天体観測をしないのですが、その時実際にベランダに出てみると、大きな光や細い流れ星がいくつか見えました。これぞという助言を聞いて流星群を見るのに難しさはありませんでした。言われた時間にその方角の空を見上げるだけでした。ナアマンの癒しもそうでしょう。そんな簡単には!とバカにし諦めて去って行ったのではなく、やってみた。そこでとびきりの光に出会ったのです。祈りなさい、感謝しなさい―みことばに従う時、私たちにも新しく活きる道が開けて来るのです。最後にナアマンを見送るエリシャの姿が見られます。病が完治したナアマンは贈り物を渡そうとしますが、エリシャは断固として受け取りません。次にナアマンはアラムの国、自分の生活に戻っても、イスラエルの神、【主】を信じていく決心を表明します。但し、君主の信奉するリモン神の神殿礼拝にどうしても付き添わねばならぬので許して頂きたいとのことでした。エリシャは「安心して行きなさい。」(5:19)と声を掛けました。けれどそれは何の許可でもなく、ただ一心に【主】なるイスラエルの神の守りと導きを願う餞別の挨拶でした。エリシャに見えるように、預言者は呪術者の様に何か見返りを求める者ではなく、また人に何かを許可できるような権力を行える者でもありません。ただ神の言を語り、そのみことば通りに生き、与えられた分をわきまえ、使命を果たす者でした。清め癒すのは神の救いの業・恵みであって、預言者の力ではないとエリシャは知っていました。私たちも預言者如く神の言に聞き従い生きる者として、信仰者や教会、求道者の願い求めにどう答えたらよいか考えあぐねる場面に出くわすこともあるでしょう。そんな時この預言者のように【主】なる神の祝福を祈り、送り出すことが出来る幸いも覚えるのです。シャローム!

「墓でなく天に納められる恵み」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.8.9

列王記第一22章1~9、17~23節

そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。……彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。 ローマ人への手紙1章24・25節

もうすぐ終戦記念日。AI の被爆証言者(語り部)も現れる時代となりました。AI(人工知能)を神とする宗教も登場したとか。AI は人類を豊かにするのか、それともダメにする偶像的な存在にもなり得るのか。偶像礼拝すなわち真の神から外れた生き方は、私たちにちぐはぐな判断と生き方をもたらします。今日は神の敵に憐れみをかけ、神の民に残忍であったイスラエルの王アハブの晩年の物語です。アハブは初代ヤロブアムの罪を引き継ぎ、また異邦人の妻イゼベルの拝するバアル等の偶像礼拝に加担しました。欺き欺かれ惑わし惑わされる史上最悪の王アハブの人生は、悲惨な結果を招きます。しかしそこには常に【主】による呼びかけがあったことも確かです。まず敵国アラムの王ベン・ハダドを山地サマリアでの戦いと低地アフェクでの戦に、【主】の預言者を介して語られたみことばによってアハブは勝利しまた。けれど御声に従わず、利得故にアラム王と契約を結んで逃しました。すると【主】は、滅ぼされるはずだったアラム王と民の代わりに、イスラエルの王と民のいのちが取られることを預言されます。次に不機嫌で怒り狂ったアハブは首都サマリアの宮殿に帰ると、側にあるナボテのぶどう畑を欲します。アハブはその畑を買おうとしますが、先祖の譲りの地を売ることは出来ないと神の民ナボテは律法に倣って返答するのです。意気消沈のアハブを王妃イゼベルはそそのかし、ナボテをまんまとはめて、神と王を呪う悪者に仕立て、石打ちの刑に処し、亡き者とします。ぶどう畑を奪い取ったアハブに、預言者エリヤはアハブ家を滅ぼし、墓に葬られる者はいないと預言します。さて、【主】なる神や同胞、敵すらも欺いたアハブでしたが、最後は信頼する妻イゼベルや自身のお抱え預言者に惑わされ、遂にはアラム戦で命を失うのです。アラムとの戦が止んで 3 年経った時、ユダ王ヨシャファテがアハブ王を訪ねて来ました。二人はラモテ・ギルアデの地をアラムから奪還すべく結託します。けれども、それが御心に適った事か、【主】のことばを伺うようヨシャフェテは願います。するとアハブ王の預言者約 400 名は、アラム戦に行くべきと答えます。ヨシャファテはもう一度、【主】の預言者による御心を求めます。そこでアハブはいつも彼にとって悪い事ばかりを告げる憎きミカヤをしぶしぶ紹介するのです。預言者ミカヤは、羊飼いなる王が倒れ、その羊なる民が山に散り散りなること―つまりアハブの戦死と亡国を告げました。また不思議にもアハブの預言者達が全員一致して答えた舞台裏の天の会議の幻を説き明かしました。ひとりの霊がアハブを惑わし倒す為に自身が出て行き、全ての預言者の口で偽りを語る霊となる、と名乗りを上げると、【主】はその通りに霊を遣わされたと言うのです。結局アハブはミカヤを牢に閉じ込め、イスラエル王と分からぬよう変装して出陣します。王だけを標的としていたアラムの戦車隊長達を欺きましたが、ある一人の兵士が何気なく弓を引くと、アハブの下腹部を射抜き、戦場より退くも夕刻には絶命してしまいました。このような神の眼に暗いアハブ王の生涯でしたが、一瞬のキラメキはナボテの血の報いであるお家取り潰しを預言された直後、アハブが御前に謙り、悔い改めたことです。そこで【主】は彼の存命中に災いを下すのを思い直されたのです。神の恵みの現れは、彼がサマリアの墓に葬られたことに及びます。日本は戦後 75 年ですが、未だに戦死者の遺骨の返還が待たれています。私たちにも最期に墓に収まる事が人生の良い終い方という感覚があります。野垂れ死に、墓に葬られないのは不幸と考えられる風習の中で、アハブが墓に納められたのは神の憐れみの証しでしょう。時に【主】なる神は、人の思うがままにされるお方で、さばきの執行者でもあられます。神を知りながらも無視し、自らの知恵や欲望に進もうとする時、罪に引き渡されるのです。アハブの如く我が欲に溺れ、神の近くにいる幸せから自ら離れて歩むこと自体が実にさばきなのです。但し神は人を救われるお方です。私たち人間の罪の身代わりに、御子イエス・キリストが引き渡されました。この主イエスが我が罪を償い、墓より甦られたと信じる時、墓に納められる福音ではなく、【主】を仰いで生き、天に召される救いの知らせが私にも届くのです。これこそ恵みです。シャローム!

「何てクール!な生活様式」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.8.2

列王記第一17章1~9節

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 マタイの福音書4章4節

誰が私の命の保障をし、何が生活の拠り所となるのだろうか?コロナ第 2 波で街は再び慌ただしくなっています。健康や富、配慮や寛容、そういった良い事が今一層求められています。今日登場のエリヤはイスラエルの憧れ、モーセに並び立つ'クール'な預言者でした。どんな生活を送ったのでしょうか?北王国イスラエルは、初代王ヤロブアムの罪以来、主なる神から離れて罪のうちを歩んでいました。そして、アハブ王の時代には、シドン人イゼベルを娶った故に拍車がかかり、カナンの物質的な豊かさ~良い事をもたらす豊穣の神・バアル礼拝の温床となっていました。そこに主なる神はイスラエルの王や民が、神の言を聞けなくなると、預言者を立てられみことばを届けて下さるのです。主なる神はエリヤを、アハブ王に遣わされます。数年間、露や雨が断たれるという預言を持って。干ばつや飢饉、疫病や天変地異は、戦さ同様、国と王を揺るがす一大事でした。不吉な出来事を告げる預言者は、神を恐れぬ王からしばしば迫害を受け、命をつけ狙われました。エリヤもそうでした。主はエリヤをヨルダン川の東のケリテ河畔に導き、しばし逃れます。川の水と幾羽の烏が朝に夕に運ぶパンと肉によって、エリヤは神に養われました。やがて川の水が枯れると、今度はシドンのツァレファテのやもめの許にエリヤは送られます。干ばつにより餓死寸前だったその母子は、'神の人'エリヤの言葉通りの尽きぬ油と粉の奇跡と主なる神への祈りによる病気の息子が生き返る奇跡を通して、主の言葉が真実であることを知りました。無力な者が主に命じられ、養う者とされる事も、神の御業でしょう。さて 3 年が過ぎ、主はエリヤにアハブに会いに行くよう告げます。この地に雨を降らせよう、と。彼はそこでアハブに相対し、イスラエルを煩わせているのは自分ではなく、正に主の掟を棄て、バアルに傾いた王であると指摘します。エリヤはカルメル山で【主】(ヤハウェ)の預言者エリヤ 1 人とバアルの預言者 450 人とで神を呼び、応えて下さる真の神はどちらか決着をつけようと挑むのです。その際、エリヤは民に問いかけます。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし【主】が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」(18:21)先攻バアル側は、薪の上に雄牛のいけにえを乗せ、火を持って応えて下さる様、朝から昼までバアルの名を呼び、祭壇の辺りで踊り、最後は血を流すまでの自傷行為を行い訴えましたが、何の反応もありません。後攻エリヤは、壊れた主の祭壇を立て直し、いけにえを用意し、更に水をたっぷりと掛け、【主】を呼んだのです。すると火が降って来、いけにえも水も全てを焼き尽くしました。これを見た民は「主こそ神です」(18:39)(エリヤの名の意味)と礼拝します。エリヤはキション川に下り、バアルの預言者全員を滅ぼすと、カルメル山に再登頂し、主に祈るのです。山にはアハブも呼ばれました。それから雨が降るには 7 度の確認の時を待つ必要がありました。予兆はエリヤ付きの若者曰く、海から上る手の平程の小さな濃い雲でした。けれどしばらくすると確かに空は雲で覆われ、やがて大雨が降って来たのです。一件落着と思いきや、アハブが王妃イゼベルにバアルの預言者の全滅を話すと、エリヤはまた命を狙われるのです。大勝利を収めたのに、良い変化はなく、逆に命が再び危ぶまれている。エリヤは途端に怖くなり、南の国境ベエル・シェバそして荒野へ逃亡します。虚しさと脱力感で、神様に命を取ってほしいと願うまでになりました。燃え尽きた彼に「起きて食べなさい」(19:5,6)と主の声が掛けられ、食糧が届くのです。また 40 日 40 夜歩いて神の山ホレブの洞穴に入ると「エリヤよ、ここで何をしているのか」(19:9,13)と語られます。外に出、御前に立った彼に、主は共におられると示され、新たな使命を与え立ち上がらせるのです。勇敢な時も弱い時も、主なる神はエリヤを養う(ヘブル語で「クール」)なお方です。エリヤは本当に良い事を備え、呼べば応えて下さる生ける神を証し、神に養われる'クール'な生活様式を神の民に再提示したのです。40日 40 夜荒野で過ごした主イエスは、悪魔の最初の誘惑に、冒頭の「人はパンのみにあらず…」と、わたしは全てを養われる神に信頼を寄せているのだと答えられました。「人よ、何が良いことか、…それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことではないか。」(ミカ書 6:8)ここに現代の預言者、私たち教会の'クール'な姿があるのです。シャローム!

「自分を治してくれたのはイエス」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.7.19

列王記第一 11章1~13節

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、【主】と一つにはなっていなかった。列王記第一 11 章 4 節

栄華を極めたソロモンにも最期がやって来ます。彼は 40 年間全イスラエルを治めました。国が繁栄し平和が成るにつれ、治める力と責任が増したでしょう。古代地中海世界に当代きっての強い国イスラエルを築き上げる為、あらゆる手段を用います。軍備強化、立派な神殿や宮殿建設、官僚と地方の守護の支えによる中央集権制の整備、海洋貿易に、異国の王女との政略結婚を軸とする外交政策を展開します。神に願い与えられた知恵と判断の心を持ったソロモンですが、どうも別の後ろ盾を欲していたようです。本当に神の国を治めるに必要な掟は、父ダビデにも主なる神にも再三言われてきたはずでした。冒頭のみことばから考えると、統治者の掟は'主と心を全く一つとすること'です。ここに知恵も判断の心も存在していました。父ダビデの遺言(2:2~4)にもギブオンで神が二度もソロモンに現れて下さった際にも、もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、わたしが、あなたの父ダビデに『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』と約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしえに立たせよう。9:4・5 と、神と共に歩むことこそが命の掟と告げられていたのでした。しかし、ソロモンは妻たちの慕う外国の神々(数々の偶像)へと心を転じ、主なる神から離れていったのです。十戒にみえる神を愛し、人を大切にする心は失われていきます。彼の王国の繁栄の裏には、民―出身のユダ部族を除いた人々・国内の隣人―への徴兵と重税が敷かれていました。もはや愛すべきイスラエルの民は彼にとって国益の道具、モノでしかなかったのでしょうか。神も世も慕う二心は、安定よりもむしろ不安定さを引き起こします。だからこそ、ソロモンはこの世のありとあらゆる力に訴え、支配しようと努めたのかもしれません。ソロモン亡き後、息子レハブアムが王位に就きますが、国民にもっと酷い締め付けを行おうとしたのです。それが史実上の契機となり、王国は分裂するのです。但しこの分裂は神様のご計画でした。ソロモンのやり手の家臣ヤロブアムは、神に召され、後に北イスラエル王国の初代王となります。ソロモンは暗殺を企てますが、彼はエジプトに亡命し、ソロモンの死後に人々に呼び戻され、イスラエルに帰還しました。そこで父王の課した労役の軽減を全イスラエルの会衆と共にレハブアム王に求めます。ですがレハブアムは―これも主なる神の計画でしたが―彼らの進言を退けたのです。そこでユダ族(とベニヤミン族)以外の 10 部族は、ヤロブアムを彼らの王として立て、独立し、北王国が始まったのです。北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされるまで約 250 年、南王国ユダはバビロン捕囚とエルサレム陥落に見舞われるまでの約 400 年続くのです。ところであの神様がダビデと交わした約束はどうなってしまったのでしょうか?実に神はダビデの子孫・ユダ族を見捨ててはおられません。不思議にも北王国では 19 人の王が立ち、政変も 9 度起こります。そのレガシーは、王朝が変わっても代々続く'ヤロブアムの罪'とその裁きのみです。神が統治者の掟に聞き従うならば、ダビデ家と同じ繁栄に与ると約束されたのにもかかわらず、ヤロブアムは民心が離れていくのを恐れ、ベテルとダンに金の子牛像(偶像)を作り、エルサレム神殿の代わりに詣で、神とし拝むことで求心力を保とうとしました。そうして真の神を捨て去ったのです。一方南王国は 20 人の王が立ちますが、ダビデ王朝が絶やされることはありませんでした。ここに裁きの中にも、神の誠実・あわれみが失われていない証しがみられるのです。捕囚後も 70 年の時を待ち、ユダの残りの民の帰還と回復が図られるのです。時に心が神から逸れる王もありました。しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。15:14 のです。コロナ禍、プレッシャーを覚え、あちこちに心が転じる弱さが出やすくなります。けれど今も生ける主なる神よって、私たちもダビデの子なるイエス・キリストに免じて滅ぼされず、御前にいのちの灯を燃やし続けることが許されているのです。そう私たち教会は、このダビデ契約という神の大きな約束の中に身を置いているのです。シャローム!

「自分を治してくれたのはイエス」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.7.19

ヨハネの福音書 5章1~18節

そこに、38年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」… その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。ヨハネの福音書5:5・6、15

今日は洗礼式です。救い主が御手を差し伸べて下さる奇跡を共に覚え喜びましょう!エルサレムにベテスダ(恵みの家)の池と言われる場所がありました。池の水が動いた(天使が動かす?)その時、最初に入水した者はどんな病も癒されると言い伝えられていました。大勢の病人が池の傍らにはべり、癒されるチャンスを待っていました。今日イエス様が出会われたこの人もその一人でした。主イエスは彼に声を掛けられます。「良くなりたいか。」当然でしょう!愚問だと思われるかもしれません。けれどイエス様は私たちがどうしたいのか、心の必要を聞いて下さるのです。世には治りたくない人もいます。罪・負のアイデンティティが形作られていると、そちらに留まる方が心地いいこともあります。人はある状態が続くとそれに慣れ、すっかりそれが自分の性分であり生き様、「これが私だ」と錯覚します。弱い自分、暗い自分、悪い(悪ぶった)汚れた自分の方が、“私らしい”と考える。もしこの負の部分が私から無くなるならば、私が私でなくなってしまう。健全になると、安定して、何の心配もされない生活が出来るようになってしまう。すると求められる責任も多い。病の中の方がちやほやされ、甘やかされ、生活の保障もされ、周りも優しく接してくれる。治ると、つまり、病・弱さ・暗さがなくなってしまうと、生き方が分からなくなってしまうので、治りたくないと言う思いが存在することも事実です。病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先におりて行きます。」(7節)癒しのチャンスを目の前にしながらも、誰も私の救いに手を貸してくれないのだ、と彼は悲しみと諦めを帯びた落胆を口に出します。ちょっと水が動く兆候が見えると、沢山の人が我先にと池に殺到する異様な殺気に満ちた日常だったのでしょう。また誰も助けてくれないと責任転嫁し、自分は可哀そうと言う自己憐憫は結構甘味です。その救いを絶望する病人に、イエス様は言われます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(8節)わたしがあなたを癒す救い主だと、手を差し伸べられたのです。するとすぐに、その人は治って、立って歩き出します。誰も助けてくれないという暗さや孤独の中に声をかけて下さるお方がおられる。それこそ彼にとって何よりの癒しの奇跡だったでしょう。そこに昨今のマスク警察の如く、律法を犯した者を嗅ぎまわるユダヤ人達がありました。当時のユダヤの律法解釈では、安息日は神の設けた休みの日。癒しを含め働く事は一切ご法度だったからです。彼らもまた神の民と言われ、救いのチャンスのすぐ側にある人たちでした。しかし自分の意見は主張すれども、聞く耳はありませんでした。後にイエス様は宮の中であの癒された人を見つけます。彼はユダヤ人の祭り~奴隷生活から自由の身とされた出エジプトの大いなる救いの出来事を記念する過越祭~の巡礼の輪の中に加わり、神殿に礼拝しに訪れたのでしょう。そこで主は彼に再び声を掛けられます。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(14節)これは脅し文句ではありません。救い主を知らないで、人生諦め死んだように暮らす罪の中に戻ってはいけない。あなたはもう誰も助けてくれないと嘆く哀れな者ではない。救いを受け、恵まれた者だ。すぐ側に救いがありながらも、その救いの主イエスを拒んで滅びへと進む孤独に病んだ道に戻るのではない。救い主なるわたしの声に聞き従い、健全な命の道をゆきなさいという招きの言葉です。神は私たちを操るのではなく、救おうとして下さっているのです。単なる絶対服従ではなく、あくまで交わりを求めて下さるのです。そこで彼は「自分を治してくれたのはイエスだ」と告白するのです。ユダヤ人達からの迫害や殺意が強まる中、主イエスは「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(17節)と語り、たゆまず今も救いの御業を行われる父なる神とその御子なるご自身を証しされました。安息日は救いの神の休業日ではありません。今も!神が私を訪ねて来られ、孤独と悲嘆に閉ざされていた自分の殻・扉が破られるこの日こそ喜びの日、救いの日です。(申命記5:12-15)まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。(ヨハネ5:25)シャローム!

「神殿をささげる、ソロモン王の祈り」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.7.12

列王記第一 8 章 22 30 41~43 節

あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所である天でこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことをすべて、かなえてください。そうすれば、地上のあらゆる民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れるようになり、私が建てたこの宮で御名が呼び求められなければならないことを知るでしょう。 I 列王記 8 章 43 節

黄金に彩られたエルサレム神殿!神様の約束故に、ソロモン王の治世4年目(出エジプトから数えて480年目)より7年かけて建てられました。「あなたが建てているこの神殿のことであるが、もし、あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしの命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」(同6:12・13神殿の大きさは、長さ60キュビト、幅20キュビト、高さ30キュビト。(1キュビトは約45cmです。)ソロモン王は完成した神殿を神に献げる祈りを、イスラエルの全会衆の前でします。この祈りを通して、神殿とは何かを知ることが出来ます。コロナ禍に教会とは何か?オンラインでも礼拝が出来る今、教会堂はこれからも必要か?という問いがキリスト教界をかけ巡っています。有難いことに、教会さんには教会(堂)として町にあって、正しい教えを伝えていてほしいという声も聞こえてきます。今日はソロモンの神殿建立の物語です。主の宮なる神殿を見ながら、現代の主の宮である教会の社会における教会の役割について改めて考えるのです。まず神殿は「主の家」です。神殿の元の言葉は、ヘブル語でベイト(家)・アドナイ(【主】)と言います。主なる神の家には神がおられます。そのしるしは神殿に置かれた契約の箱です。古くはモーセの幕屋から契約の箱は、神の臨在の象徴でした。幕屋は神との交わりの場であり、神の言・掟が語られました。「救いはかぎりなく優しい神のまなざしに出会うことであり、おきてとはそのまなざしを見続けようとする心のこと」(雨宮慧『旧約聖書のこころ』、女子パウロ会、1989、p17です。神の言は新しい生き方を与え、掟は神の配慮に気付かせ、その恵みに留まらせるのです。神の言によって生きなければ、私たち他の者の言葉で生きることになります。みことばから離れるならば、他の何かに縛られ支配される、あの苦役と虚しさに覆われた、不自由な奴隷生活に戻ってしまうのです。神の掟と共に、神の国を映し出す神殿の心臓部には契約の箱がありました。契約の箱には、そのおおいとして贖い宥めの蓋があります。罪がおおわれ、赦しをもたらす意味を成し、罪によって遮断されていた神との交わりが回復することを証ししています。祭司たちによって、契約の箱が至聖所の定められた所に安置された後、これまた神の臨在を表す雲がその宮に満ち、圧倒的な栄光に満ち満ちたのです。幕屋や建てられた時と同じ出来事が起こります。ソロモンは、主は黒雲・暗闇の中に住む、という神の言を覚え、出エジプト時にイスラエルの民を導き、密雲に覆われたシナイ山で掟をモーセに告げられた神の臨在をありありと知ったでしょう。神殿は神の御住まい、御座であると告白します。不思議にも神は光の中だけに居られません。旧約聖書では暗雲は神の臨在のしるしでした。神は暗闇の中で人と出会われます。私たちも光の中だけでなく、人生に暗雲立ち込める中で神を求めます。古来より神は闇の中、人がダークサイドや黒歴史を覚えるその時にこそ、私たちに出会って下さることもまた真実です。私たちが出会う神は、契約の箱が語る通りの、我が罪・暗闇・黒さを覆う、赦し主です。次に、神殿は祈りの家です。罪の告白と赦し、正義の執行(さばき)、悔い改め、苦しみの吐露と神の報い―全ての人の心を御存知の神に、そういった祈り、願いをささげる場です。驚くべきことに、この祈りの場はイスラエルの民だけ、という入場制限は設けられていません。同様に、あなたの民イスラエルの者でない異国人についても、その人があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、彼らが、あなたの大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕について聞き、やって来てこの宮に向かって祈るなら(同8:41・42と私たち地球に住む全ての人に開かれているのですソロモンの祈りの狙いは、人々が祈りを通して、神を近く思い、神を知り、この御方こそが唯一の神、私の主と信じ生きることでした。私たち信仰者・教会は、現代の神殿です。神様は私たちが神の言を聞き、主と同じ心で歩む時、聖霊なる神の住まう家とされます。赦しを実行する者、神の国を映し出す建物として社会の只中に立つのです。また祈りの家として、全ての人を御許に招く救い主との出会いと交わりの場なのです。シャローム!

「知者ソロモンの知恵の秘密」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.7.5

列王記第 一 3 章 1~ 15 節

ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」3:5 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」9

ある所に同じ家に住んでいる遊女たちがありました。一人の赤ん坊を巡るトラブルを抱えて裁きを求めてやってきます。話しを聞くと、二人とも数日の間にそれぞれ子供を産んだ。しかし一人の赤ん坊は、夜寝ている間にその母親が上に伏せってしまい、亡くなってしまった。すると、その母親は死んだ自分の子供ともう一人の赤ん坊とを入れ替えた。もう一方の母親が朝起きて、お乳をやろうとすると、懐の赤ん坊は死んでいた。ただよく見てみると、どうも自分の子ではない。この今生きている赤ちゃんこそ、自分の子どもだ一人がそう訴えると、もう一人の母親は、いいや死んだ子がその人の赤ん坊で、私の子どもはちゃんと生きていると言い出したのです。さぁ一体どちらが生きている赤ん坊の本物の母でしょうどう真偽を聞き分けましょうアニメ『一休さん』でもこんな話がありました。今日のソロモン王元祖はどう対応したでしょうか?ソロモンは剣を持って来て、子を二つに切り分け、半分こすればよいと言い出したのです。一人は生きている子をあの女にあげて下さい。どうか子供を殺さないで下さいと申し出ます。もう一人はどうぞどちらの物にもならないように、剣で断ち切って下さいと言ったのです。ソロモンはそこで剣を止めるように言い、先の子供を別の女にあげてでも、生かしてほしいと懇願した女性こそ本当の母親なのだと、裁きを下すのです。人々は神の知恵がソロモン王に臨んでいることをこのさばきで知り、王を恐れました。知者の中の知者と言われるソロモンの知恵の秘密はどこにあったのでしょうか?今日から列王記を聞いていきます。ダビデ王からソロモン王へ、イスラエルは統一王国下で黄金時代を迎えます。けれどソロモン没後、王国は北のイスラエルと南のユダに割れます。両国王が次々と立っては倒れ、最後にはバビロン捕囚を迎える400年が描かれています。『平家物語』の祇園精舎の鐘の声と琵琶の音と共に聞こえて来そうな歴史物語です。途中、エリヤやエリシャといった預言者も登場し、福音の彩りを添え、また神に背く王や民たちには緊張感をもたらします。聖書、特に列王記等の歴史書を読んでいく時のコツは、筆者の一連のエピソードをまとめる文を見つけることです。時の流れを掴む「とき」「当時」「こうして」、ある出来事から何年といった言葉を探すと良いでしょう。列王記は年老いたダビデの登場から幕が開きます。ダビデの四男アドニヤは野心を抱き、父の家臣ヨアブ将軍や祭司エブヤタルに相談し、強引な政権交代を持ち掛けます。一方、預言者ナタンは、ソロモンの母バテ・シェバ、祭司ツァドク、ベナヤ護衛官と共に、ソロモン王の即位に動きます。ダビデ王をして、主なる神の約束通りソロモンを王として立てるように取り計らいます。結局アドニヤは失脚し、後に彼とヨアブは命を落とし、祭司エリの家系・エブヤタルはエルサレムを追放されます。波乱万丈のダビデ家に誕生した若き王は、父の広げた広大な領土の維持と繁栄に尽くします。父亡き後、ソロモンは王としてどう振舞えばよいのか、そのリーダーシップについて考えるあぐねることも多々あったでしょう。彼が当時最も重要な礼拝場ギブオンで感謝のいけにえを献げると、夜の夢のうちに主と出会います。そこで冒頭の言葉が交わされます。ソロモンは長寿・富・名誉を願わず、正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったのです。これは神様の心に叶い、主はソロモンに「知恵と判断の心」をお与えになりました。加えて、富も名誉も長寿も与えられます。神様は主と心を一つにして歩む時、私たちを豊かな人生へと導いて下さいます。神様はケチではなく、賢く豊かで恵み深い、太っ腹な御方です。私たちを良きもので満たしたいと願っておられるのです。ソロモンが考えた神の国を率いるリーダーシップに必要なものは、神の知恵神の心と判断力でした。彼の知恵の秘密は神様ご自身と信仰。この夢物語と思っても可笑しくない約束に、ソロモンは真摯に応え、目覚めると感謝の礼拝を献げました。今の信仰者、教会も日々神の知恵が必要です。けれど既に私たちはイエス・キリストを信じるならば、ソロモンに優る神の知恵を頂いているのです。なぜなら、このキリストのうちに、知恵と知識の宝が全て隠されています。コロサイ2:3とみことばが告げるからです。シャローム!

「ダビデ王のラスト・エピソード」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.6.28

サムエル記第二 24章1~4、8~19節

しかし王はアラウナに行った。「いや、私は代金を払って、あなたから買いたい。費用もかけずに、私の神、主に全焼のささげ物を献げたくはない。」そして、ダビデは、打ち場と牛を銀五十シェケルで買った。IIサムエル24:24

世界の偉人や歴史的な出来事を扱う歴史番組は、週に一回はテレビ欄に載ります。プロレスよりも人気です。大概番組のラストは、「へぇ、なるほど」という、驚きと発見のある印象深い話で閉じられます。終わりのココ一番!という時に、歴史的な人物の'人となり'が分かるエピソードが語られたり、今の私たちの生活に関連する物事の起源が紹介されたりするのです。今日の聖書はサムエル記の語るダビデ王のラスト・エピソードです。彼の'人となり'、腹黒さとピュアさが見えてくるのです。エンディングは、ダビデが作ったある物が、私たちが今日目にすることのできるある場所の元になりました。さてそれは何でしょう?それでは聖書不思議発見!ダビデは武人としても優れた王でした。今日の事件は、百戦錬磨!向かう所敵なし!の強い王様として脚光を浴びていた陰で起こった事件ではなかったかと言われています。光が強ければ、その影もまた濃い。ダビデ王は人妻バテ・シェバを姦淫し、略奪、相手の夫ウリヤ殺害事件を起こします。この罪は預言者ナタンによって指摘されました。そして彼らの間の最初の子どもは亡くなります。この後で起こったのが、人口登録事件です。実はバテ・シェバ事件よりも事は重大でした。それはダビデの罪によって引き起こされた裁きの大きさによっても分かります。人口登録の際に犯した罪の代償は、7万人の命でした。まずこの人口登録事件ですが、ダビデの腹黒さを告げています。彼には策略家の一面がありました。王命による人口調査で、全土の兵士の数が分かりました。人口登録は、税金の徴収と兵隊集め、つまり国力を知る為に行われました。ダビデはその直後に「良心のとがめを感じ」(24:10)ます。そう自分の罪に気が付かされます。ところで王が兵の数を把握することの一体何が罪なのでしょうか?人口調査自体は悪い事ではありません。但し古代イスラエルにおいて、それは神の仕事。本来人間の手の及ばぬ、アンタッチャブルな領域でした。ダビデには他国の王達と同じように兵士の数を増やし、軍事整備や国防に充てる構想がありました。イスラエルはそもそも有事の時は各部族からそれぞれ徴募兵が戦に出ていました。しかしノリに乗っているダビデ王は、それ以上の兵の増員を望みます。誰からも脅かされない大国を作り、その王として確固たる地位を築く。王ならば誰もが夢見る事でしょう。先の大義の為に闘う徴募兵とは別に職業軍人を徴兵する。これは王制の発動の際に、懸念されていたことです。(Iサムエル8:10-17)王が国を私物化する動きとの指摘もあります。神の国、真の平和は、兵の数にはよりません。それは主なる神にかかっているのです。ダビデはそれを忘れていました。彼はその不信仰に、はたと気付かされます。すると悔い改めと刈り取りの時がやってきます。預言者ガドがダビデに罪の刈り取り方法を三択で伝えます。ダビデは人の手よりも憐れみ深い神の手に掛かることを選び、国全体へ三日間の疫病の裁きが下ります。そして7万人が亡くなりました。人の罪には代償が付き物です。それは殊に人の命で償われます。この犠牲を通してダビデは王が狂えば国も転覆する。国が沈んで民の命も奪われると知らされました。自分の為に、誰かをまた神や神の国、その持ち物を利用することが、この世の王や人々の黒さです。闇です。けれど神の国は、私自身を、また私の持てる物を、神様や神の国(教会)、人々の為に用いていただくこと、献げる白さ、清さによって立ちゆくのです。それがイスラエルの王の姿、神の民の姿です。神様はダビデの罪を放置せず預言者ガドを再び遣わし、主の為に罪の赦しと交わりのいけにえの祭壇を築くように伝えます。御言葉はダビデの再起を導きます。疫病を下したみ使いがその災いの手を止めたアラウナの麦打ち場には、いけにえを献げる祭壇が設けられ、礼拝は再出発の場となります。この礼拝にダビデがイスラエルの王である原点また信仰者としての土台がみられます。さぁ本日のラスト・エピソードの答え。アラウナの打ち場は、アブラハムがイサクを捧げたモリヤの山にありました。そして今それは岩のドーム、エルサレム神殿となっています。礼拝の場を、自らを捧げ築き整えてゆく使命がダビデにありました。その場所は今も尚神を求める者たちの拠り所となっています。私たち教会もこのような礼拝の場でしょうか?シャローム!

「父なる王の苦悩」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.6.21

サムエル記第二 15章7~18節

王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」 IIサムエル18:33

今日は父の日です。今日の聖書では王ダビデと息子アブサロムの悲しい物語が語られています。アブサロムはダビデ家の三男、当代きってのイケメンですが、我がままな戦略家でした。ダビデの家庭には、長男アムノンからはじまり様々なごたごたが起きて来ます。アムノン王子が異母妹のタマル王女を襲い、辱めるという由々しき事態が発生します。情欲に支配されたアムノンは、病気だと偽って見舞いに来させたタマルを無理やり抱いてしまいます。事を遂げると、アムノンはタマルを部屋の外へと追い出しました。アムノンは彼女への恋心がすっかり失せ、代わりに憎しみが彼を襲ってきました。真に勝手ですが、罪の共謀者としか、タマルの事を観られなくなってしまい、彼女を即座に捨てたのです。アムノンのスキャンダルから2年。タマルの実兄アブサロムは、復讐を遂げる為、一計を案じます。羊の毛を刈った後の収穫の祝いの席にアムノンを招き、殺してしまうのです。この宴会の席には、父ダビデをも誘いましたが、ダビデは断固として誘いを断りました。ダビデはそもそもアムノンを凌辱事件後に罰することはなかった。関わりたくなかった。また自分とバテ・シェバの不倫の不実の実を見るようで避けたかったのかもしれません。アムノン殺害後、アブサロムは、母の実家に亡命します。祖父であるゲシュル国の王タルマイの元に身を潜めるのです。そこでもダビデは、亡くなった長男アムノンの為に嘆きはしましたが、アブサロムの許に出向くことはしませんでした。亡命から3年が過ぎた頃、ダビデの家臣ヨアブの策もあって、アブサロム王子はエルサレムに戻ってきましたが、彼をゲシュルに迎えに行ったのも、父ダビデではなくヨアブでした。ダビデはそこでアブシャロムにステイ・ホームを命じます。2年間の蟄居です。やがて、アブサロムは我慢ならず、父の家臣のヨアブの畑に火をつけ誘き出すという形で、強引にヨアブを呼び出し、父ダビデとの仲介役を頼むのでした。そしてやっと謹慎が解けたのでした。それから4年です。釈放されてからの彼は、自分の軍隊を手に入れます。戦車と馬と歩兵何よりも、民心を掌握していきました。アブサロム王子に、信仰の悩みはありません。あるのは憎しみと満たされない自尊心・プライドです。彼をつき動かすのは、憎しみ、求めるは人の心・民心です。本来ならば、神の国・神の民イスラエルの王子として求めるは、神の御心であるはずです。彼を突き動かすは神の愛と使命です。父ダビデ王がそうであるように。しかしアブシャロムは全く逆を行きます。彼の人生に、神などいないのです。これがダビデ王家の実態でした。そして、神様のこのアブシャロムの一連の事件には、口をはさみません。沈黙されたのです。次にアブサロムによる政権交代・クーデターが起こります。ダビデは都落ちします。これも神のご計画の中だと、神の主権に委ねます。どうもダビデはこのアブシャロムのクーデターによる都落ちを、自身への神のさばきと悔い改めの時と考えたようです。(I15:25・26)神は人を悩みの中、時にさばきの中を歩ませますが、そこに据え置く事はされません。必ず救いが用意されています。回復の時がやって来ます。常に信仰者は神の御手の中にあるのです。ダビデは罪を告白し赦されましたが、刈り取りは残れていました。けれど、その苦く辛い後処理の中にも、ダビデは主の御手の介入を観ます。見捨てず、見放さず、王として召し出した使命を全うさせようという神の一大手術にお委ねし、都を去ったのです。最後にアブサロムのクーデターの幕引きはあっけなく訪れます。林での戦闘中に木に引っ掛り宙づりになった彼の心臓を、ヨアブが槍で付いたのです。将を失った民は、そそくさと逃げ帰ります。訃報を受けた父ダビデは、冒頭のように嘆きに嘆き、ヨアブからは王として味方の兵士や民を労うように、と進言を受ける程でした。ここに子へ愛の届かぬ悲しみと子を失う絶望。父の愛を知らぬ不幸が綴られています。神様は天の父です。この父は私たちを「わが子」と呼び、心通う救いを願っておられます。それは一人の命も失われないようにと、神のひとり子イエス・キリストのいのちを犠牲にする程の愛です。(ヨハネ3:16)父子の悲哀物語、私たちの'親不孝'を断つ活路は、十字架にあります。シャローム!

「いい風吹いて」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.6.7

使徒の働き 2章37~47節

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。使徒の働き 2章1~2節

ペンテコステの日に、いい風が吹きました。聖霊・霊なる神様が降りました。この「霊」(ルアッハ)という言葉は、聖書の原語ヘブル語において、「移動する空気」という意味があるそうです。そこから派生し自然に吹き渡る「風」という意味が生じてきました。そして、「風」が吹く時、神の大いなる御業が起こるのです。ノアの洪水の水が退くのも、モーセが紅海に臨んだ時、その海を割ったのも主なる神が風を吹かせたからです。神による「いい風」が吹く時、神の大いなる救いが起こり、人々は神の憐れみと恵みを覚えるのです。また人はいのちのある存在となります。「枯れた骨」が生き返る預言(エゼキエル37:4-6)にもこのルアッハの働きが見えます。風は神のみ旨を実現します。この風が吹き、霊が注がれる時、人は生き物となり、息を吹き返すのです。ペンテコステに、いい風が吹いた!ペテロはじめ弟子達は、神に背を向けカラカラに乾いた「人でなし」の人生に、よどんだ生活に風穴を開ける聖霊の働きを見ました。ただ風に吹かれるということは、「途方もない事」でもあります。しかしそこに神様は次のフェーズ、方向性もきちんと示していて下さいます。コロナ禍からの回復期に私たちは今いますが、特効薬の開発もまだまだで、二次感染の恐れもあります。世の滅びへと向かうのではないかと不安も襲います。けれども実は聖霊降臨により「終わりの日」がはじまり、エルサレムから世界の果てへの福音宣教、キリストの再臨、救いの完成、新しい創造へと回復に向かって進んでいるのです。ただしこの大きな神様の救いの歴史のクライマックスへと進む中にも、一人一人の魂の救いに、神は心を留められます。ペテロの説教を聞き、イエス・キリストを知った人々は、どうしたらよいのかと尋ねます。そこでそれぞれに悔い改め、それぞれにバプテスマ(洗礼)を受けなさいと彼は語るのです。そうすれば、賜物として聖霊が与えられると。(使徒2:38)信じる事、悔い改める事、バプテスマを受ける事、聖霊を与えられる事、順序は様々ですが、主イエス・キリスを信仰する者に現れる救いの御業です。ただどうしたら私たちはこの「終わりの日」に、いい風吹いてる!と聖霊の働きを実感できるのでしょうか?注意しておきたいのは、歴史的な出来事は一度きりだということです。ペンテコステには三千人の救いが実現したとありましたが、今も全く同じ出来事が、毎年エルサレムの市街で起こるわけではありません。けれども、同じ聖霊が今も働いておられるので、私たちに対するその本質的な働きは、今も変わりはありません。神の言葉を他人事ではなく、私のコトとして聞くことが出来る。「イエスは主」と信仰告白が叶う。祈り、賛美し、礼拝を捧げている。信仰が働く、働かせたいと願っている等々、聖霊なる神様の働きは、身近で実生活、信仰生活にリアルに起こっているのです。聖霊は神の大いなる救いを運んで来、私たちの生活に実現・実践させて下さいます。聖霊のいい風は、絶望的な人を生き返らせる突風です。この天の風は日々老いてゆく肉体、しぼんでゆく気力にも風穴を明けます。天と地の境にも風穴を明けます。また人種や身分、文化や環境で隔てられたあらゆる壁に風穴を明け、すべての人々の中をこの聖霊なる神様の風が吹き渡ります!その新風は神殿(教会)から、各家庭にも吹き込んでゆくのです。これまで一度はイエス様の十字架の死に際してもうダメかと思った弟子達、またステイホームを余儀なくされた者たちの再生への道を見て来ました。彼らはペンテコステに再び霊の息吹を吹き返しました。それは聖霊なる神様の働きです。閉じた扉の中で、弟子達は復活の主イエス・キリストに出会います。そして将来と希望がある事、永遠の命が救い主によって与えられることを信じました。次にステイホーム明けに、彼らを待っていたのは聖霊なる神の「いい風」です。神様の救いのみことばを届け、神の国の地境を広げる事でした。聖霊が風穴を明けて下さったので、もうそこに隔ての壁はありません。弟子達は主と共と出て行って、来るべきは滅びではなく、キリスト~救い主であることを喜びを持って、真剣に伝えて歩きました。するとそこここに信じる人の群れなる教会が起こって来るのです。使徒行伝なる聖霊行伝は、そうして今の私たち教会の歩みに繋がっています。さて、その続きは…?!シャローム!

「私たちのことばで神のみわざを聞くとは」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.5.31

使徒の働き 2章1~11節

ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」使徒の働き 2章 11節

コロナ禍の中で、私たちは祈り、賛美し、礼拝を取り戻すプロジェクトに挑んでいます。そして新しい宣教のフェーズを待ち望んでいます。今日はペンテコステです。ようやく閉ざされた扉が開かれ、弟子達がステイホームから、外へ向かって出てゆくはじめの一歩です。そのキッカケは、聖霊の降臨にありました。ペンテコステに何が起こったのでしょうか?出来事としては、祈りながらステイホームをしていた弟子達の元に、聖霊が怒号を上げて降りました。轟音に人々がイエス様の弟子達の集まって祈る場に、何事かと集まって来ます。弟子達は様々な言葉で、世界のあらゆる国から集まって来た人々に通じるように話し始めます。人々はあっけにとられ、当惑してしまうのです。その場に居合わせた巡礼の為に世界の国々からエルサレムに来ていた人々は、不思議にも各人「私たちのことばで神の大きなみわざ」を、他人事ではなく私事だと聞くのです。ペテロはそこで、集まった人たちに、この出来事の意味を説き明かします。最も売れっ子のニュース解説者の池上彰氏が先日新しく本を出されました。ジャーナリストの増田ユリヤ氏と共著の『感染症対人類の世界史』(ポプラ新書)です。天然痘やペストなど、古代からこれまでにおこった社会を揺るがす感染症と世界の歴史についてです。この本の表紙を飾るは『バベルの塔』を描いたブリューゲルの『死の勝利』(1562年頃,油彩・パネル,117×162cm,プラド美術館)です。14世紀のペストの大流行から生まれた教訓を元にして描かれた題材です。『死の勝利』には街を襲う夥しい骸骨が登場します。骸骨の不気味な行進と数々の命の略奪は、正に『死の勝利』です。やってくる骸骨は死の象徴です。死が抗いようもない大群で、一気に街を、人々を、この世界を飲み込んでいく。世の権力、武力、財力、すべてが無力となる。中世の人々は疫病の恐ろしさと共に、メメント・モリ(mementomori~死を記憶せよ)し、謙虚に生きよという教訓を覚えました。このコロナ禍でも注目されている言葉の一つでしょう。私は死ぬべき存在だと知って生きることは大事です。けれどもそこが人間の限界です。ペンテコステに、ペテロが語った福音は、死に勝利されたキリストがいらっしゃることです。『死の勝利』で終わることなく、死に勝利され、甦られ、天に昇られ、尚も生きて、信じる者に「永遠のいのち」を保証する聖霊をこの世に遣わして下さったイエス様がおられる。このイエスを我が主と信じる時、私たちは主と共に死からいのちへ移される。聖霊が届いたことは、昇天されたイエス・キリストが天の御座に着き、今も尚活きている証である、とペテロは集まった皆の前で語ります。そして最後にその主イエス・キリストを十字架に架け、天からの救いを拒絶し、抹殺したのだと人々に鋭く迫ったのです。イスラエルの人々はこの十字架を自分のコトとして聞きます。そして「どうすればよいのでしょうか(使徒2:37)とペテロに尋ねるのです。ここにペンテコステの言葉の奇跡が起こっています。神のコト、神の言葉が、私のコト(私事)、私のことばとなった!主イエス・キリストの福音・救いが、私にとって福音・救いとなった!これは今も私たちに起こる「ことばの奇跡」です。私たちの本来の人間性の回復につながる、神の救いの御業です!私たちは言葉が通じない不自由に度々直面します。そもそもの原因は、神と人と、心が通じていない。私自身の心が通っていないからです。だから言葉が通じないのです。神は古来より預言者を遣わし、「ことば」なるイエス様(ヨハネ1:1-5)を送り、そして今聖霊を降し、私たちに主の霊の息吹を吹き込み、天地創造の初めに与えられた人としての「心」を蘇生されたのです。神は死をもたらす罪を打ち砕き、人に永遠のいのちを与えたのです。三重苦を負ったヘレン・ケラーは、有名なサリヴァン先生の屋外授業で井戸の水に触れ、waterはじめ全ての物に名前があることを知りました。そう言葉を取り戻したのです。そこで彼女はその心、人間性をも取り戻します。聖霊は弟子達に「キリストの証人」(使徒1:8)として生きるべく、宣教の言葉を与えました。聞く者にはみことばを私事として聞き従う信仰を与え、キリストの心を育むのです。ステイホーム後は、メメント・モリに留まらず、mementoChristusキリストの死を覚え(聖餐)、みことばの食卓に着き、御国を共に味わい広げてゆくのです。シャローム!

「続くステイホームの中で」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.5.24

使徒の働き 1章3~14節  創世記 11章1~9節

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
ヨハネの福音書14:26

日本では未だステイホームを余儀なくされている所があります。古知野教会は今日もオンラインで礼拝配信をしています。今日の聖書に登場するガリラヤからエルサレムへ戻って来た弟子達たちもまた、閉ざした扉の中にいました。帰京後、彼等はイエス様の地上での最後の言葉を聞ききます。それは約束でした。弟子達は「父の約束」である、聖霊を待つことになるのです。彼らはエルサレムを眺める、オリーブ山に登り、昇天の主イエスを見送ります。そして、オリーブ山からエルサレムに向かい、再びステイホームです。けれども同じステイホームでも、神の約束を待ち望んで祈る、新しいフェーズ(段階)を迎えてゆくことになります。常に神様は働き続けます。主のなさる事、神の介入と救いに期待して、弟子達は新たな救いのフェーズである、神の備えの聖霊を待ち望むのです。神は混乱時に天より下ってこられる。約束の聖霊は神様ご自身です。神は私たち人間に関心を持っておられます。私たち人間を救おう!滅びから助けよう!と、天からやって来て下さるのです。神はコトを起こし、この地上の、私たちの生活に介入されるのです。「混乱」と言えば、旧約聖書にでてくる「バベルの塔」です。全地がまだ一つの話しことば、共通のことばであった頃、人々はシンアルの地(シュメールと呼ばれる、メソポタミア文明の栄えた場所)に移り住みました。そこで人間はれんがや瀝青(アスファルト)を用いて、名声を上げようと天まで届く塔を建てようと働くのです。神は塔と町(バベル/バビロン)を見る為、降りて来られ、ことばを混乱(バラル)させ、この人間の企てに介入されたのです。確かに一致団結することは、大きな事を成し遂げる力となります。けれども根本の心がずれていれば、それだけ破壊的な影響も増すのです。それこそ、民族丸ごとや全人類が滅びる道へとも誘ってしまう程の巨大な力です。但し皮肉にも、力と富と時間をかけ、あれだけ高い塔を築いたと人間が誇っていても、神にとっては尚降りて来なければ見えない程の代物です。なぜ神様は人間の言葉を混乱させようとしたのでしょうか?神抜きに生きる者たちが、この成功によりもっと人の偉大さを示そうとして、何をしでかすか分からないから。神様は人間を人間から守るために介入された。「神のかたち」として神に造られた、愛し合い助け合って生きるはずの人間から、その人間を守らなければならなかった。何と悲しい現実でしょうか。そこで神は介入し手当されました。更に主は神の救いをもたらすために、人を選ばれるのです。この時選ばれたのは、ノアの子供達のひとりセムの部族でした。このセム族からアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの12部族が誕生してくるのです。彼らは神の救いの器となりました。神様は人間を諦められません。神は混乱の神ではなく、救いの神です。人の言葉による支配の結果は、混乱と分裂です。一方で、神の言葉・神ご自身が、治められる所には、平和と一致があります。神は人の歩みに介入され、神と共に、この平和と一致、秩序を回復する為に、聖霊なる神が次に下って来られるのです。神のことばが聞けない!聞かない!というそんな人間の元に、神は天から下りて再び介入される。主のみことばを聞き、その通りに生き、みことばを宣教する者へ、「キリストの証人」としての道を拓きに、神は私たちの生活に介入し、コトを起こされるのです。再びのステイホームの中で、弟子達はいつも心を一つにして祈っていました。心を神に向け、目を上げる。人は本来天を仰いで生きるよう造られたのです。そして、これからの神がなされる新しい救いのフェーズに思いを馳せ、期待する。バベルの塔の出来事では、セムが選ばれましたが、今度はイエス・キリストの弟子達、後の教会が選ばれました。選ばれた者たち、私たち教会は祈ります。聖霊の働きはキリストの弟子に、新しい生活様式!キリストの生き方・キリストの心を造ります。エルサレムで次の救いのフェーズを祈り待つ弟子達に今の教会を重ねると、このコロナ禍のステイホームは、救いを待つ人間が、神に造られた者としての本来の在り方~賛美・祈り・礼拝~を取り戻す時とも考えられるのではないでしょうか?シャローム!

「AC!弟子達の出口戦略」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.5.17

ヨハネの福音書 21章17~25節  マタイの福音書 28章16~20節

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において、彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
マタイの福音書28:19・20

緊急事態宣言が解消された後の生活が考えられる時になりました。アフターコロナ(AC、コロナ後)また新しい日常(Newnormalニューノーマル)と呼ばれます。学校の登校も、教会の集まりも、お店を開けるにも、どのように再開しようかといった「出口戦略」が身近にも始まっています。「新しくはじめて、良かったものは継続して欲しい。」そういった発言も聞こえてきます。例えば、時差出勤。感染のリスクも下げ、満員電車も緩和できる。また夕活(ゆうかつ)、夕方以降のゆっくりした夜の過ごし方も見直されています。日本で新型コロナウイルス感染対策による、自粛生活が3月頃から始まりました。その頃の教会の暦は受難節。弟子達は主イエス・キリストの受難の脇で見ていました。最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、逮捕、十字架の受難、3日後の復活、「8日目」に度々現れる復活の主イエスとの出会い。そういったさまざまなフェーズを、弟子達は通ってきました。そして、弟子達は、40日後にイエス様が天に昇られる(昇天)という、新しいフェーズ(段階)を迎えてゆくことになります。決定的な主イエスの復活を超え、AC(アフター・クライスト、キリスト後)の生活にいよいよ突入します!弟子達はステイホームからどのような出口戦略をとったのでしょうか?今日は「いのれ」と名の付く、復活節の日曜日です。米国神学者のラインホールド・ニーバーによる'変えられること'についての祈りを紹介し、共に祈りつつ、みことばに聞いていきます。神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。「ニーバーの祈り」(大木英夫訳)大木英夫『終末論的考察』中央公論社、1970、p23イエスの弟子達は、やはり主イエスのみことばによって、歩み始めました。みことばはイエス様の約束でもあります。ではそれはどんなみことばかつイエス様の約束だったでしょうか?主は個人的にも、教会全体にも、御声を発し、信仰と使命を与えて下さいました。三度主を否んだペテロに、イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と仰られました。弟子にとって、自分の師・主を拒絶することは、救いを失うことでした。そんな師また主なる御方から、見限られ救いを失ってもおかしくないと考えているペテロに、復活されたイエス様は現れ、平安を告げます。別の時には、「あなたはわたしを愛していますか」と、ペテロが「主」イエス様を否定した分、三度尋ねて下さいました。ペテロは、主イエスへの愛を確認し、信仰を告白します。すると主イエス様は、「わたしの羊を飼いなさい」と、教会の群れを養い育むように、新しい使命を与えて下さいました。ペテロを信頼し、教会を任せ、頼み事をされたのです。ペテロに信仰を与えられた主イエスは、彼の信仰をも守り、全うさせて下さるのです。彼はその死に際しても、神の栄光を現わす者とされました。そんな、主イエスの練られた出口戦略を見、すっかり元通りになったペテロは今度、振り返り別の弟子が気にかかり、イエス様に尋ねます。「この人はどうなのですか」と。他の者がふと気にかかり脇目を振るペテロに、主イエスはただ、「あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21:22と告げるのです。今日もそうです。主イエスは、ひとりひとりに信仰を与え、コロナ後の今も「あなたはわたしに従いなさい」と、私たちの信仰を支え、救いを全うさせるよう、常に栄光の使命に招いて下さるのです。弟子達そして後の教会にも冒頭の出口戦略?!大宣教命令を発して下さいます。弟子と他の者たちとの違いは、弟子はキリスト(メシア)の秘密また救いの奥義を知っているという点です。復活のキリスト、今も生ける主に出会い、信じ従うのが弟子です。教会は洗礼と聖餐、日々の礼拝や交わりにおいて、この宣教、弟子化の歩みを今も成しています。さぁAC(コロナ後)、主の弟子なる教会の歩みは…?最後に、主は個々人及び教会に、大きな愛・期待をかけ、決して見捨てず見離さないという、信仰の初めからの神の約束を尚も果たし続けて下さるのです。シャローム!

「新しい生活様式?!へ」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.5.10

ヨハネの福音書21章15~19節

イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、心を痛めてイエスにいった。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
ヨハネの福音書 21:17

主の命でガリラヤ河畔に来たものの前途不明で、成す術もなく手持無沙汰。そんな弟子達に、主イエスは'主の食卓'を用意して待っていて下さいました。わたしがあなたを養い、いのちを支えると、イエス様ご自身が給仕して下さいます。'元通り'?否、'新しい生活様式'に招いて下さるのです。'新しい生活様式'においても、わたしがあなたの面倒を見ると仰られるのです。今日の聖書には、弱さを抱えたひとりのイエス様の弟子が登場します。ヨハネの子シモンです。彼はイエス様からシモンはペテロ(岩)という新しい名前をもらっていました。ペテロは主に'負い目'を覚えています。イエス様を「知らない、何の関係もない」と裏切った弟子です。今日イエス様は、この弟子に声をかけて下さいます。ペテロだけでなく、'負い目'を覚えている全ての人に、キリストは、主の食卓を用意して、そのテーブルに招き、みことばを語ってくださるのです。私たちの心を死がむしばんで、やがて滅びてしまうのではなく、いのちに満たされ活きるように願われるのです。そして、罪の'負い目'から解き放ち、死から命へと舵を切るように、みことばによって導いてくださるのです。私たちは失敗し、希望を失うと、つい人生すべてを否定してしまいたくなります。けれども、どこからでも新しくやり直そうと促して下さいます。それが、今日のこのペテロとイエス様のガリラヤ湖畔での出来事です。コロナ禍のみならず、人生に不自由を覚え閉じこもっている者へのメッセージです。ステイホーム!そろそろ'新しい生活様式'が提案され、外出自粛も解けそうですが…皆さんは何をして、過ごしていますか?私は教会文庫を眺めてみたり、古本を手にとってめくったりしています。先日『君の膵臓を食べたい』(住野よる、2015、双葉社)という小説を元にしたアニメも観ました。ホラー映画ではありません。青春群像が綴られています。劇中で主人公の「僕」が、病気のクラスメイト桜良(さくら)のお見舞いに訪れた際、君にとって生きるとはどういうことかと尋ねます。桜良は窓から外を見ながら答えます。「生きるってのはね、きっと誰かと心を通わせること。そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ。誰かを認める、誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと一緒にいて楽しい、誰かと一緒にいたら鬱陶しい、誰かと手を繋ぐ、誰かとハグをする、誰かとすれ違う。それが、生きる。自分たった一人じゃ、自分がいるってわからない。……そういう人と私の関係が、他の人じゃない、私が生きてるってことだと思う。」主人公はこの出会いを通して「生きる」ことを学び、人との関わりの面倒を避けていた僕は、ひとりでなく「誰かと心通わせる」ことに憧れ、そう生きようと歩み出すのです。時には厄介で面倒。不完全でもどかしいけれど。今日のみことばも、ペテロとイエス様の素晴らしい師弟関係に留まることはありません。主イエスを裏切って以来、ペテロは、'生きた'心地がしなかったでしょう。イエス様はこの朝ペテロに、再び「生きよ」と語られます。'負い目'を解き、心通わせ、「わたしを愛するか」と問い、ペテロを更なる新しい生き方へと招かれるのです。失敗もあるし、面倒なこともあるかもしれないが、わたしとわたしの教会を愛して生きよ。ここに命の道がある。「わたしに従いなさい」と、いつか同じ場所で招いて下さった御声をペテロは再度しかし新しい響きを持って聞いたのです。『君の膵臓を食べたい』をクリスチャン風に言うと、「主の体を食べ、血を飲みたい」でしょうか。神の願いは、私たちが絶望するのではなく希望を持って生きることです。ペテロはじめ弟子達また今日地上を歩む私たちキリスト者を、主は諦めないでいて下さるのです!そして尚も'主の食卓'(聖餐の契約)に招いて下さっているのです。アガパオ―(神の無条件の愛で愛する)か?との言葉に、フォレオ―(友を愛する愛で)としか答えられなかったペテロですが、晩年の彼の教会宛の手紙では、神の御力によっていのちを敬虔をもたらす全てのものが与えられると確信しこう書いています。「…兄弟愛(フォレオ―)に愛(アガペー)を加えなさい。」(ペテロの手紙第二1章7節)私たちも失敗を重ねるかもしれませんが、「イエス様の体と血に」与る弟子として、主の招きに応えて生きるという'新しい生活様式'へと、今朝招かれているのです。シャローム!

「主の食卓へ」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.5.3

ヨハネの福音書 21章1~14節

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声をきいて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
ヨハネの黙示録3:20

BCとACという時代を区分する新しい用語が作られています。BCはBeforeCorona~コロナ以前、ACはAfterCoronaコロナ後を意味します。新型コロナ・ウイルスが流行る前とその後で、大きく世界が変わるというのです。今コロナ渦中にありますが、これを過ぎたら、'元通り'になるのか?それとも新しい生き方?ビジネスか?と、全世界の人たちが考えているでしょう。社会の大きな問いとして、ACの歩み方も模索されています。今日の聖書はペテロ達が'元通り'に、漁師として生き、宣教することも、それはそれで良いのではないかと、思い始めた矢先の出来事だったでしょうか。当時のユダヤ社会においては、教師や伝道者は、手に職を持つことが一般的でした。ですから、そんなに漁師としても生きる事は、突飛は考えではなかったでしょう。復活の主イエス様に出会った彼らは、ユダヤの過越祭からはじまる一週間の祭りの期間をエルサレムで過ごし、ガリラヤに向かいました。やっと重い腰が上がった彼らに、これからどう生活すればよいのか?という、先行きの不安が襲ってきたかもしれません。イエス様に出会う以前の、'元通り'の生活に果たして戻るのだろうか?そこでどのようにペテロはじめ弟子達は、もう一度キリストの弟子として歩みだしたのでしょうか?復活されたイエス様が弟子達にお姿を現されるのはこれで三度目です。主の仰せ通り、ティベリア(ガリラヤ)湖畔で、成すすべなくイエス様を待っていた弟子達は、'元通り'に、漁にでも出ようかと、ペテロが言うと、皆で舟に乗り込みました。しかし、夜通し網を降ろしても、何も取れません。そこに、岸辺に立たれた主の声が届きます。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」((21:5)主イエスは親しみを込めて呼び掛けます。「ありません。」と弟子達は答えます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」(21:6)弟子達は言葉通り従いました。すると、網には引き上げることができない程、大量の魚がかかっていました。あれは「主だ。」と主イエスに愛された弟子(ヨハネか)が言うと、思わずペテロが湖に飛び込み、主の許へと一目散に馳せ参じるのです。これはまるで彼がイエス様に出会った時に、魚を取る者であったペテロから、人間を漁る者へなると、主から召命を受けた場面のデジャヴのような出来事でした。(ルカ5:4~11)岸辺ではペテロ達一行を、イエス様が炭火を起こし、パンと魚の食事を準備し、待っていて下さいました。まさに「主の食卓」です!ペテロはじめ弟子達は、「主の食卓」に招かれます。必要すべてを備え、満たす御方。もう一度、召された時の約束を守られ、果たされるお方。私たちを元気づけて下さる主と共に、まず彼等は新しい朝の食卓に着きます。ユダヤの文化において、食事を共にするとは、ただ食べる以上に相手を受け入れる親愛の印であり、親しい交わりでした。イエス様を捨てて逃げ去ってしまった弟子達を、愛し抜けなかったと肩を落とす弟子達を、イエス様は「主の食卓」に招くのです。罪の赦しと永遠のいのち(永遠の絆とも言える)、その食卓を整えて、待っていて下さるのです。ドイツ語で礼拝をGottesdienstと言うそうです。「神」と「勤める」と言う言葉が合わさった単語です。神に仕えるという事も出来ますが、面白い事に、神が仕えるとも理解できる言葉だそうです。私たちにとって「主の食卓」は、神の務めである礼拝です。実に神様が礼拝奉仕者で、私たち教会に仕えて下さっているのです。賛美と祈りの交わりに招き、罪の赦しと永遠の絆、いのちの糧なる御言葉を与えて、私たちを養って下さるのです。たとえ主を悲しませ、裏切る行為をした者であっても、主を待ち望み、求める者に、キリストは「主の食卓」を開いて下さるのです。ACの時代がやって来ています。ただ例えコロナが大きな人類の歴史の転換点になろうとも、AD(紀元後;原語「主の年」・キリスト以後)であることに変わりはありません。主イエスは今日も私たちを「主の食卓」へと招いて下さっているのです。冒頭の招詞は、大地震からの復興が成功し、'元通り'を果たした街の教会への手紙です。富で満たされた部屋の戸口に十字架で全てを捨てたイエス・キリストが立っておられます。富ではなく、神に立ち返る。忙殺された日々でなく、豊かで平安な暮らしへの招待です。そこに真の富といのちがあるのです。シャローム!

「信じる者たちは幸い」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.4.26

ヨハネの福音書 20章24~31節

信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」 20:27d-28

信じるか、信じないかは、あなた次第です―とは、イエスは言わない。ただわたしを信じなさいと言われる。一心に神を信じる強くピュアな心の持ち主こそ、神を見ることができると私たちは考えます。一方で、今日登場するトマスは、「デドモ」(双子)と呼ばれる者でした。これを「二心」と読む説もあるそうです。トマスはある時には「私たちも行って、主と一緒に死のう。」(同11:16)と侍のような決起盛んなことを言い放ちます。ただ別の時には、今日のように頑なに、見れば信じるのだケド…と閉じこもるのです。そんな二心と見えるトマスですが、果敢で真直ぐな人だったのではないかと思えます。本来真理を追究するのは、とても勇気がいることだからです。他の残された10人の弟子達にはイエス様は現れて下さった。けれど、私にはお姿を見せて下さらなかった。置いてけぼりをくらったと、いじけたでしょうか?一人だけ恵みから落ちたような疎外感を覚えたでしょうか?けれどトマスはイエス様を求め続けています。この物語に「不信仰なトマス」と題が付けられることがありますが、信じたい気持ちがない訳ではありません。むしろ、この時一番イエスの復活を知りたいと願っていたでしょう。彼は「信じたくとも、信じられない」葛藤の中にありました。実直なトマスだからこそ、自分の目で見なければ、信じられなかった。彼は決して無関心ではありません。非常に大切なことだからこそ、じっくり見る必要があったのでしょう。他の弟子達が、主を見たこと、主がいらしてくださったと喜び、またその復活に浮足立っている中で、トマスはついていけません。この目でしかと見、この手で実際に触れて確かめてみなければ信じられないと、その輪の中には入れなかったのでしょう。しかしトマスは仲間に入れなくとも、弟子達の話題やテンションについていけなくても、何はなくとも復活の事実を見極めるがあると、同じ部屋に残っていました。トマスは、とにかくイエス・キリストを信じる者たちと共におり、尚も信仰者の群れの中に留まっていました。そんな一番信仰の弱く、不安で、揺らぎ、疑う者の許に、イエス様は訪れて下さいました。復活の日の夕方から'8日後'、イエス様は再び弟子達に姿を現されました。―8日後とは象徴的な言葉です。十字架の翌日つまり安息日(土曜日)が週の7日目、次の復活された週の初めの日が8日目(日曜日)に当たります。イエス様はこれより昇天まで'8日'毎に復活の姿を弟子達の許や他の者たちの前に現われました。ですから、私たちイエス・キリストを信じる教会は、復活の主の現れを覚え、日曜日毎に集い、礼拝を捧げるのです。鍵のかかった部屋の真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように。」とイエス様は言われます。それからトマスに言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)そこでトマスは、「私の主、私の神よ。」(28節)と答えるのです。実にこの福音書を書いたヨハネは、粋なことをします。彼はこの書で「イエスが神の子キリストである」(31節)と人々が信じるに足る十分な証を示したと告げます。その終盤ここ一番の決定打に、不信仰と見えるトマスに、最も伝えるべき真理、キリスト信仰の中核を語らせるのです。もちろんこの出来事も書も、神に由来します。復活された主は滞っていた信仰の息吹を、全く自由な信仰の応答として、信じる葛藤に陥った者に甦らせて下さいます。イエス様は続けて言われます。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(29節)「信じる者たちは」と複数形で描かれています。トマスの後にはイエス様に見えずとも信じる人たちが起こる様を、主ははっきり描いておられました。そして、今主に見えずとも、信ずる者に~主が信じて欲しいと願う者に、聖書を通して同じように語り、信仰や人生にくじけそうだと心が折れそうな者に声をかけて下さるのです。トマスは悶々とした時を、他の弟子達よりも一週間余計に過ごしました。私たちも晴れやかな信仰者として生きられず、そんな福音は幻想かと問いつつ過ごす日々があるかもしれません。けれど'8日目'は必ずやってくるのです。今日礼拝で、信仰者の群れの中で、私たちも主の御声を聞きます。そして「私の主、私の神」と信仰告白し、新しいいのちをいただくのです。シャローム!

「平安があなたがたにあるように。」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.4.19

ヨハネの福音書 20章19~23節

イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
ヨハネ20:21

同僚達の家族に新しい命が次々産まれました。イースターの主の甦り、命の新生を象徴するものは卵です。今アメリカではトイレットペーパーを求めるように、ヒヨコの爆買いが起こっているそうです。米国では大統領選挙や株式市場の低迷等、社会情勢が不安定になると、どうもヒヨコを飼うことが珍しくないよう。(ちなみに私は留学中、特にヒヨコを所望した覚えはありません。)なぜ人々はヒヨコを買いあさるのか―食べられるだけではなく、弱い者を守ってあげたいという庇護の心も動かされ、それを満たすのがヒヨコ!今年教会はイースターエッグも、ヒヨコもお届けできません。しかしいのちの糧であり、希望の源となる復活の主のみことばを届けます。今日の聖書には、主イエス様を失い、米国式に言うとヒヨコが必要な弟子達がいました。けれど、悲嘆にくれる彼等は市場には出掛けはしません。怖かったからです。今度はイエスの仲間であった自分達が捕えられるのではないかとの恐怖に、頑なに扉の中に閉じこもっていました。朝方マグダラのマリアがイエス様の復活の知らせを知らせに来たのでしょうに、少なくとも夕方まで弟子達の腰は上がりません。すると、主イエス様の方から彼らの元を訪ねてきて下さったのです。私たちもここに喜びの知らせを聞くことができます。弟子達の元に現れたイエス様は、在りし日のイエス様の幻影やまがい物ではありません。その証拠に、手と脇腹~十字架に架けられた際の釘の傷跡と槍の跡~を見せられ、本当に本物のイエス様だということを見せられたのです。イエス様は弟子達にシャローム!と挨拶をします。「平安があなたがたにあるように。」何よりも欲しい平安が、主イエス様によって彼らに戻って来たのです。シャロームとは、神様の完全な支配、神によってすべ治められる処の平和という意味があります。十字架の事変により恐れに捕われていた弟子達をイエス様は解放し、喜びを与えて下さるのです。十字架の事変によって、不安でざわついていた弟子達に、復活の主によって、穏やかな心が戻ってきました。初めに自分からは出て来られない弟子達の元に、閉じこもっているその場所に、復活のイエス様が自ら訪れて下さったのです。閉じこもるのは決して楽しくないことは、今皆さんが実感していると思います。それは苦境でしょう。その苦しく辛い所に主は平和をもたらして下さるのです。二度もイエス様は平安を告げられます。繰り返し仰られたのは、非常に大事な事だからです。平安が戻って来た弟子達の心には、主イエスのみことばが届くようになっていたでしょう。冒頭の派遣の言葉に継いで「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」(同22-23節)と主は語られ、新しい関係・生き方へと招いて下さったのです。なぜ弟子達に平安と聖霊が与えられたのでしょうか?それは神にしかできない'罪の赦し'を行ってゆくよう遣わされる為です。彼らは主イエスと同じに、聖霊を与えられ、神の子どもとされ、救いの使命と権威を委ねられたのです。イエス様の地上での歩みを生涯導き給うた聖霊が、今度は私たちを'救いの実行者'として助けて下さるのです。ヨルダン川で洗礼を受けたイエス様に聖霊が鳩のように下った時、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)と天の父なる神の声がありました。今同じ神からの声を弟子達は聞いたのです。裏切り離れて行った弟子達を、主イエス様の方から訪ね、彼らを尚も愛し、信じて大切な救いの使命を託して下さった!実にこれは私たち教会への福音でもあるのです。かつてイエス様は、「イエスは主、神の御子、救い主」という信仰告白の上に教会を建てると仰られ、罪の赦しを実行する権限を教会に与えられました。(マタイの福音書16章15~19節)さぁところで弟子達はすぐに出かけて行ったでしょうか?いやちょっと遠回りをしています。ガリラヤに行ったり、十字架から聖霊降臨まで50日程が流れたりと、すぐに事が成る訳ではありません。しかし必ず主のお言葉通りになるのです!私たちも主から平安と志を与えられ、再び外に出てゆくでしょう。ただこの今、扉の中でも次の教会や宣教を考えられます。まず「どうかお救い下さい。赦して欲しい。」と祈っていた私たちは今度、「どうぞあの人に救いが訪れます様に。主よ、赦してあげて下さい」と、赦しの実行者へと祈りが変えられてゆくのです。シャローム!

「復活の奇跡!思い出から約束へ」(古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.4.12

ヨハネの福音書 20章1~3節、11~18節

「わたしはよみがえりです。いのちです。」
ヨハネ11:25

イースターおめでとうございます!イエス様の弟子達みたいに閉じこもって迎える朝ですが、復活の主が共におられ、救いの喜びがありますように。全世界的に、新型コロナ・ウイルスが猛威を振るい、都市封鎖や外出自粛が叫ばれています。宣教師の先生が教えて下さいましたが、あるドイツの読み物に、このような心療内科のお医者さんのアドバイスがあったようですこの困難な中で心の健康の為には、動物に、花や草に、そして食器にも話しかける時である。しかし話しかけて、もしそれらから何か返事があったら、どうぞお電話ください。そうこのお医者さんはユーモアを交えて、この苦境の過ごし方を教えてくれています。主イエス様が十字架で死なれ、葬られて3日目の朝、マリアは墓にやってきます。すると、大きな墓石は取り除かれ、主のお身体がありません。マリアは走って、弟子達の元に行き、主が何者かに取られてしまったと知らせるのです。二人の弟子は急いでかけてゆき、墓に残る亜麻布のみを確認します。マリアも戻り、墓の外でわぁっと泣き叫ぶのです。マリアは在りし日のイエス様を思ったでしょうか?誰かが「なぜ泣いているのか」と声を掛けます。泣きに泣くこのマグダラのマリアという女性は、イエス様に7つの悪霊に憑かれた病をいやしていただき、救われた人でした。聖書には沢山のマリアが登場します。ここで登場するマリアは、マグダラというガリラヤ河畔の町の者であったので、「マグダラのマリア」と呼ばれています。あの私の癒し主、救い主であるイエス様はもういない。せめてもお体を良い香りで包んであげたいと、出来る精一杯の愛をマリアは示そうとお墓にもやって来たのではないでしょうか?このマリアはあの十字架の苦しみも、慌ただしい埋葬もイエス様の側にずっといたのです。お亡くなりになられただけでも悲しいのに、今度はお身体までもがなくなってしまった。もう主はどこにもおられない。本当に主は、私の手の届かないどこかに行ってしまわれた。と、空っぽの墓を見たマグダラのマリアは、余計悲しみが増し、涙があふれて来たでしょう。また余程気が動転していたのか、想定外すぎたのか、不思議にも声を掛けたのはあの慕わしい主イエス様であったのに、彼女は不思議にも気が付かず、園の管理人と思ったようです。マリアはもう一度、尋ねられます。「なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか。」そう主が声を掛けられました。「なぜ泣く必要があるのですか?誰かを探す必要があるのですか?」「あなたの捜している、'わたし'はここにいる。何も泣く理由はないのだ。」とイエス様は言わんばかりです。イエス様は、彼女の名を呼ばれます。「マリア」すると、マリアは「先生だ」、イエス様だと分かるのです。マリアが主の許に行こうとすると「すがってはいけない」とイエス様は言われます。もちろんこれからマリアは弟子達の元に遣わされるので、ここに長く留まることはかないません。それと主イエスは以前のようにマリアや弟子達とこの地上で一緒に過ごすことはもうなくなるのです。但しこれもきっと「そのようにすがる必要はない」との言葉だったでしょう。イエスは続けて彼女に話されます。天に上り、父なる神と信じる者たちの新たな絆を結びに帰るのだ。それを「わたしの兄弟達に」知らせなさいと、弟子達を「友」とは異なる新しい関係性を示し、神様の家族・絆の中に、招き入れられることを、マリアにはっきり示されたのです。だからマリアはすがりつく必要はないのです。あなたがしっかり捕まえておかなきゃと思わなくとも、神様が既にあなたをその御許に招き、掴んでいて下さる。これが主イエス・キリストが復活によって証明された永遠のいのちです。神は神にすがる者を決して見捨てず見離さない。むしろその永遠の絆、全き真実と愛と平和の交わりに入れて、離さないでいて下さるのです!復活がもたらす信仰告白は、イエスは単なる歴史上の偉人ではなく、「わたしの主」であるということ。私の人生に関わり、一緒にいて、涙と罪を拭い去って下さる御方なのだ!と。イエス・キリストは'過去の人'ではなく、昨日も今日も明日も、いのちを与える主、救い主であられます!イエス・キリストの復活の奇跡は、マリアの思い出を越えて、約束に生きるいのちへと導きます。復活の主に遣わされたマリアは、そして私たちはこの新しい約束を握って、閉じこもっている弟子達に福音を届けるのです。シャローム!