メッセージ

使徒20:1~16「励まし合う群れ」 25.06.22.

序)
 前回はアルテミス神殿の騒動を通して、偶像崇拝が根づいている社会の中で生かされている私たちは、偶像崇拝の問題を避けて通ることはできません。それ故に、偶像崇拝が根づいている社会の中で、この世界を創造しイエス・キリストを死から甦らせてくださった真理なる神に礼拝を献げ続けていく。これがキリスト教信仰の道であることを学びました。今朝は、教会は励まし合う群れであることを共に教えられたいと願っています。

1)励ましについて
 まず、励ましについて見てみたいと思います。1節の最初に「騒ぎが収まると」と書かれています。これは前回見ましたアルテミス神殿の騒動を指しています。騒ぎは収まったのですが、偶像崇拝の問題は何も解決されていません。ですから、エペソの教会はパウロが不在の中で、偶像崇拝の問題に関わっていかなければならないのです。そのような中で、パウロは弟子たちを呼び集めて励ましたのです。この「弟子たち」とは、エペソの教会に属するキリスト者一人ひとりのことです。これからエペソの町でキリスト者として生き続けるには、何よりもみことばを根拠としての励ましが必要だったのです。だから、パウロはみことばを根拠としての励ましを一人ひとりに向けて語ったのです。ですが、その励ましはエペソの教会だけではありません。1節の最後を見ますと、パウロはマケドニアに向けて出発し、その地方を通って多くのことばをもって弟子たちを励ましたことが2節に書かれています。みことばを根拠としての励ましは、エペソの教会だけでなく、何処の教会においても必要であることを聖書は語っているのです。
 ヘブル10:25に「     」と書かれています。以前、ズームによる合同聖会で赤坂泉先生がメッセージをしてくださいました。そのときの箇所はここからでした。そのとき、「むしろ励まし合いましょう」と書かれており、積極的に励まし合うことが勧められていることを語られました。そして、この励ましこそが聖書が語っている交わりであることも話されました。私自身もそのように捉えており、聖書の語る交わりとは単なる世間話ではなく、みことばを分かち合いつつ互いが直面している事柄への励まし合いです。ですから、そこには「集う」ということが大前提とされているのです。集う一人ひとりが同じメッセージを聴き、そのメッセージから教えられたことを分かち合い励まし合うことが、聖書が語っています交わりです。
 この「励まし」と訳されていることばは、「慰め」とも訳されています。どちらも語源は同じ「パラカレオー」ということばです。今朝の箇所である12節の最後に訳されています「慰められた」ということばもそうです。この12節は「ユテコ」という一人の青年のことが書かれている箇所です。この箇所は、次回のときに詳しく見ていきたいと考えています。Ⅱテモテ4:2に、パウロはテモテに対して「     」と勧めました。この「また勧めなさい」と訳されていますことばは、使徒20:1と2節に訳されています「励まし」ということばと同じことばです。このⅡテモテ4:2のことばから、励ますというのは単なるリップサービスではないことを知らされます。パウロは「時が良くても…しっかりやりなさい」と行うことを勧めているのです。その行いとして「絶えず教え…勧めなさい」と語っているのです。ですから、聖書の語る「励ます」とか「慰める」というのは、その人の行いが伴うものでもあることを知らされます。

2)Ⅱコリント人への手紙から
 次に、Ⅱコリント人への手紙から教えられたいと思います。2節の最後に「ギリシアに来て」と書かれています。この「ギリシアとは何処か」と言いますと、マケドニア・アカイア・エピロス地方のことです。パウロはコリント教会に何度も手紙を書き送りました。そのⅡコリント1:3~7に「慰め」ということばが繰り返し書かれています。この「慰め」ということばも、先程話しましたように「励まし」と訳されていることばと同じです。特に、4~6節においては、苦しみに対しての神の慰めが語られています。このことから幾つかのことを教えられます。第1は、私たちキリスト者にとって苦しみに直面するのは、決して異常ではないということです。むしろ、正常であり当然のことなのです。第2は、どのような苦しみのときでも、神が私たち一人ひとりを励ましてくださる。そして第3は、その神の励ましを受けることによって、私たちも苦しみの中にある人を励ますことができる。第4に、私たちは多くの苦しみを経験しますが、それは同時に多くの神の励ましを経験することでもあるということです。そして最後に、私たちが励ましを受ける目的は、苦しみに耐え抜く力が与えられるためです。
 また、Ⅱコリント7:6~7には「     」と書かれています。ここで知らされる1つは、パウロは気落ちする経験をしたということです。エペソの町でのアルテミス神殿の騒動では、パウロは劇場に入っていこうとしたのです。ただ弟子たちがそうさせないように止めたのです。アルテミス神殿の騒動でも怯まないパウロが気落ちするほどの経験をしたのです。それはどのようなことなのかは分かりません。分かるのは、パウロが気落ちするほどのものですから、「よっぽどの出来事だったのではないか」ということです。パウロも気落ちするのです。ある方は「パウロが気落ちするものと私たちが気落ちするものとはレベルが違う」と思われるかもしれません。確かにそうなのかもしれません。しかし、レベルの問題ではありません。気落ちするというのは、その人自身にとっては大きな事柄なのです。他人からは「それ位のことで!」と言われるかもしれませんが、その人自身にとっては大きな事柄なのです。その「大きな事柄」ということにおいては同じなのです。ですから、気落ちすることが悪いのではありません。大切なのは、気落ちするほどの経験をしても、私たちは神からの励ましを受けることができるという希望です。事実、自分の歩みを振り返ってもそうだったのではないでしょうか。7節に「彼があなたがたから…慰められました」と語っています。パウロはコリント教会の人たちから励ましを受けたのです。それは、神はコリント教会の人たちを通してパウロを励まされたということです。神は同じイエス・キリストを信じる人を通して励ましてくださるのです。これは神が人を励まされる手段の一つです。そのことを知らされますと、礼拝後の分かち合いの時を大切にしたいものです。

3)パウロの同行者らを通して
 最後に、パウロの同行者らのリストを通して教えられたいと思います。パウロら一行は、トロアスでのあとエルサレムに向けて旅立ちます。パウロと同行した人たちの名前が4節に記されています。最初に紹介されているのは、ベレア人ソパテロという人です。ベレアの町は、パウロが第2回伝道旅行で宣教した町です。その町でもイエス・キリストを信じる人たちが起こされ教会が立てられました。その教会員の一人がソパテロです。続いて、テサロニケ人のアリスタルコとセクンドという人たちです。テサロニケの町は、ベレアの前にパウロが第2回伝道旅行で宣教した町です。テサロニケの町では大勢の人がイエス・キリストを信じましたが、同時に妬みにかられたユダヤ人たちは暴動を起こし、町を混乱させてしまいました。それほどの町ですが教会は立ち続けていたのです。その教会員がアリスタルコとセクンドです。デルベ人ガイオとテモテです。このデルベの町は、パウロが第1回と第2回の伝道旅行に立ち寄った町です。そして、第2回の伝道旅行でパウロはテモテを同行させることとしました。第1回の伝道旅行で宣教し教会が立ち上げられました。その教会員がガイオとテモテです。そして、アジア人ティキコとトロフィモです。この2人は具体的な町の名前は記されていません。多分、アジア地方の中で誕生した教会の人たちと考えられます。
 このように見ますと、この集団はパウロの宣教によって誕生し形成された教会から遣わされた一人ひとりであることが分かります。パウロの第3回伝道旅行の後半は、幾つかの教会から送り出された人たちと共になされた伝道旅行と言えるかもしれません。「エルサレムのスタートから」というよりも、パウロはエペソに3年間滞在していたのですから、そのときに各教会に手紙を書いて送り出してほしいことを求めたのかもしれません。「それは何のためか」と言いますと、16節の最後に「できれば五旬節…急いでいたのである」と書かれていることから、エルサレム教会に共に行くためであったと考えられます。エルサレム教会に行く目的の1つは、ローマ15:26に書かれていますように、マケドニアとアカイア地方の教会を通して献げられた献金を届けるためです。パウロはエペソの町でローマに行くことを御霊によって示されました。ですが、ローマ15:25に「     」と書かれています。ローマに行くことよりも、献げられた献金をエルサレム教会に届ける方を優先したのです。何故なら、それがエルサレムに行くことの目的の1つだからです。
 私はこの集団を通して、もう1つの目的があったように思わされます。それは一つであるということです。この集団はパウロの宣教によって誕生した教会の代表者らです。言うならば、「パウロによるミッション団体」とも言えます。各々に立てられた教会は、各々の地域で福音宣教をしています。ですが、決して孤立しているのではなく、同じ一つの群れであることを表してもいます。そのことは私たちの団体においても同じです。私たちの団体は、NABから日本に遣わされた宣教師らによって生み出された群れです。そして、各々の地で教会が立てられ福音宣教をしています。ですが、決して孤立した教会ではなく、同じ一つの群れであるということです。このパウロの集団は一つとなって、今後エルサレム教会に献金を届けます。パウロだけでも良かったのですが、パウロはそのようなことをせず幾つかの教会からの代表者を呼び寄せてエルサレム教会に向かったのです。それはエルサレム教会が決して孤立した教会ではなく、多くの教会によって祈られ支えられていることを見える形で表すためです。
 使徒8:1を見ますと、エルサレムでは激しい迫害が起こり、使徒たち以外は地方に散らされたことが書かれています。エルサレムに残された使徒たちは、そのエルサレムで福音宣教を続け、イエス・キリストを信じる人たちが起こされました。どれ程の人たちが集っていたかは分かりませんが、財政的には厳しかったと考えられます。だからパウロは献金を呼びかけ、その献げられた献金をエルサレム教会に届けることを最優先したのです。しかも献金を届けるだけでなく、エルサレム教会を通して生み出された教会の人たちと共に行ったのです。それは、エルサレム教会は決して孤立した教会ではなく、多くの教会に祈られ支えられていることを見える形で励ますためです。そのことを思うとき、私たちJBCの教会も決して孤立した教会ではなく、同じ一つの群れであり互いに励まし合っていく群れであることに気づかされます。先月合同聖会が行われました。そのために「聖会準備委員会」というのが設置され準備してくださいました。これは各教会からの選出された委員会です。私はその準備委員会には出席していませんでしたが、この奉仕は「同じ一つの群れである」という意味においても、とても意義のあるものと捉えています。各個教会は決して孤立したものではなく、同じ一つの群れに属した教会です。

結)
 今朝は励ましについて見ました。各個教会は決して孤立したものではなく、互いに励まし合う群れです。その励ましは、見える形として表す必要もあることを知らされます。単なることばだけでなく、その思いを見える形で表していければ素敵なことです。特に前回の箇所で学びましたように、私たちは異教社会の中でキリスト者として歩まされています。そこには様々な霊的戦いを経験します。だからこそ、互いの励まし合いが必要です。その励ましを見える形として表せられる歩みができるように祈っていきましょう。

 

使徒19:23~40「キリスト教信仰の道」 25.06.08.

序)
 本日は、教会が誕生したペンテコステの日です。イエス・キリストを信じる一人ひとりに聖霊が臨まれ、その一人ひとりが福音を語ることを通してイエス・キリストを信じる人たちが起こされ教会が誕生しました。昨年はペンテコステの日がJBCの献身者の日でしたので別の箇所から話しました。今年はペンテコステの日ですが、それに関係する箇所からではありません。しかしながら、ペンテコステの日に聖霊が一人ひとりに臨まれたことによって、一人ひとりは大胆に福音を語り始め生き続けました。今朝の箇所は、それととても関係する箇所です。23節に「この道のことで」と書かれています。「この道」とは何でしょうか。それはキリスト教信仰の道であり、イエス・キリストを信じる生き方です。今朝はペンテコステの日に、キリスト教信仰の道について共に教えられたいと願っています。

1)新たな問題の繰り返し
 19:11以降では、パウロの手による驚くべき力あるわざをきっかけとして、エペソの町に主イエスの名をあがめる人たちが大勢起こされたことを見ました。そこだけを見ますと、エペソでの福音宣教の働きは前進しているかのように思えます。そして、パウロは新たな働きを御霊によって示されローマに行くことを決断しました。そのようなとき、23節には「     」と書かれています。流れから見ますと、エペソの町での福音宣教の働きが「これからは順調に進んで行くのではないか」と思える状況の中で、予想もしなかった新たな問題が生じたのです。
使徒の働きを読み続けますと、教会の歩みはそのようなことの繰り返しのようにも思えます。ペンテコステの日に聖霊がイエス・キリストを信じる一人ひとりに臨み福音を語ることによって、イエス・キリストを信じる人たちが大勢起こされ福音宣教は大きく前進しました。そして、教会は心と思いを一つにして歩み出そうとしたとき、アナニアとサッピラ夫妻の問題が生じました。この問題が解決され、再び教会は福音宣教に励むことを通して、6:7には「     」と福音宣教が進んだことが記されています。しかし、そのようなときステパノの身に起こったことが書かれています。そして、ステパノの件を通して激しい迫害が起こり、使徒たち以外は地方に散らされてしまいます。「さあ、これから」というときに、教会は新たな問題に直面したのです。
そして先程も触れましたが、エペソの町でのこともそうです。それは出端をくじかれるようなものです。そのようなことは、私たちの歩みにおいてもあるのではないでしょうか。「さあ、これから」というときに新たな問題に直面するということを経験します。そのようなとき落ち込んでしまい、「何で!」と言ってしまいやすくなります。そのようなとき「何故」と言うよりも、『何のために』と考えることが大切である」と言われたりもします。確かにその通りなのですが、なかなかそのように考えられないのは私たちです。しかし、使徒の働きを読み続ける中で、聖書には書かれていませんが当時の教会の人たちも落ち込んだことと思います。でも、目の前の事柄に対して諦めてしまうのではなく、その中で最善を尽くしたことが使徒の働きには書かれているのに気づかされます。「何故そのようなことができたのか」を思い巡らすとき、「聖霊なる神が一人ひとりの内に住んでくださっているからだ」ということにも気づかされます。まさしく、使徒1:8に書かれていますように「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」とイエス・キリストは約束されました。目の前の事柄にきちんと対処できる力。これが聖霊による力であることに気づかされます。私たちも歩みの中で失望することを経験します。そのようなとき、聖霊なる神が内に住んでくださって力を与えてくださることに目を向け、目の前の事柄に対して最善を尽くすことができるように祈っていきたいものです。

2)問題の発端
 エペソ教会は「さあ、これから」というとき、新たな問題はどのようにして生じたのでしょうか。それは一人の「デメテリオ」という銀細工人のことばによってです。24節に彼のことが紹介されています。「職人たちにかなりの収入を得させていた」と書かれていることから、一つの会社を経営していた人と考えられます。ところが、パウロの福音宣教によって危機感を覚えたのです。どのような危機感かと言いますと、収入が激減するという危機感です。収入の激減は自分たちの生活に直結します。今までのような生活ができなくなってしまいます。これは彼にとっては切実な問題でもあります。そのため、このデメテリオという人はどのような行動を起こしたでしょうか。25節に「その職人たちや同業の者たちを集めて」と書かれています。彼が起こした行動の始めは、同じ仕事に関連する人たちを集めての演説です。すなわち、同じ利害関係を持っている人たちを集めて、自分たちの危機感を煽ったのです。しかも、その原因はパウロが宣べ伝えている「手で造ったものは神ではない」という偶像崇拝の批判です。そのパウロの福音宣教によって多くの人がイエス・キリストを信じ、偶像崇拝から離れていきますと彼らの仕事は少なくなりますから、当然収入も激減してしまいます。その危機感を覚えたがために、デメテリオは同業者らを集めて訴えたのです。すなわち、この騒動の発端は個人の利害関係であったということです。
しかも、その内容は巧妙です。デメテリオは自分たちの収入が激減することよりも、27節で「    」と語って信仰の問題にすり替えて訴えたのです。この27節の後半の「偉大な女神アルテミス…失われそうです」という訴えは、町の人たちの心を掴む訴えです。アルテミス神殿の評判が落ちますと、当然神殿に来る人たちも激減してしまいます。そうなりますと、デメテリオの同業者たちだけでなく飲食店や旅館までもが影響を受けてしまいます。そうなりますと、エペソの町は大打撃を受けてしまいます。それによって、エペソの町は「大混乱に陥り」と29節に書かれています。そして、32節には「大多数の人たちは…知らなかった」と書かれています。大勢の人が参加しているから自分も加わる。これが「群集心理」というものではないでしょうか。
 この準備をしている中で、NABの宣教師たちのことが頭に浮かびました。先日召されましたミラー宣教師を始め、最初に来日されたNABの宣教師らは日本語学校を卒業し開拓伝道を始めるにあたり、宣教地探しを始めました。当時の宣教師らは「伊勢参り」ということばを耳にしていましたので、「日本人の信仰の中心は伊勢である」として伊勢を開拓地と選び始めました。ミラー宣教師と一緒に来日されたハース宣教師夫妻は、奥様の病気のために始める前に帰国されたため、ミラー宣教師が一人で開拓伝道を始められました。御存知のように、伊勢市には伊勢神宮が祭られており、「神道の聖地」と言っても良い所です。その内宮から直線で35㎞程離れた所に「榊原温泉」というのがあります。そこは「温泉場」として三重県では有名な所です。昔は、関西方面から伊勢参りに来る人たちの宿場町として栄えていたことが記されています。そのような宿場町は他にも幾つかあったものと思われます。そのように考えますと、「伊勢神宮は周辺地域におきまして大きな産業の一つでもあった」と言えるでしょう。そこでの人たちは「伊勢神宮のおかげで」という思いがあります。事実、伊勢神宮のおかげで商売ができて生活が支えられ、伊勢市は存続し続けられるからです。内宮の前に「おかげ横丁」というのがありますが、これは「伊勢神宮のおかげで」というものです。これはまさしく、今朝の箇所のアルテミス神殿が根づいているエペソの町と同じです。そのような「神道の聖地」とも言える伊勢で、イエス・キリストを信じる人たちが起こされることによって、「伊勢神宮に勝利する」という思いで始めた宣教師らの情熱が伝わります。

3)問題の中心点
 さて、今朝の箇所の大騒動の中心的課題は何でしょうか。デメテリオが騒ぎ始めた発端は、「このまま放っておくと自分たちの生活が困窮する」というものです。アルテミス神殿が存続しているから、多くの参拝者が来て神殿関係の商売が潤うだけでなく、周辺地域の食堂や旅館も潤うのです。そのアルテミス神殿が否定されてしまいますと、このエペソの町は成り立てなくなるかもしれません。要は、自分たちへの損得が判断基準なのです。「パウロが語っていることが真理であるかどうか」というのはどうでも良いことなのです。自分たちの今の生活水準を保つことが最優先なのです。自分の利益や御利益が判断の基準なのです。結局は自己中心です。自分の生活に役に立つものであれば、どのような宗教でも良いのです。これがデメテリオを始め同業者たちの本心です。
では、町の書記官はどうでしょうか。35節以降に町の書記官が話したことばが書かれています。35~36節では、アルテミス神殿を信仰する人たちの思いを認めています。そして、ガイオとアリスタルコについても「彼らは神殿を汚した者でも、私たちの女神を冒瀆した者でもありません」と37節で事実を語り弁護しています。そのことについては間違っていません。しかし、彼が最優先したのは、この大騒動を静めることだったのです。要は、「全てを丸く治める」ことが最優先だったのです。「何が真理であるか」というのはどうでも良かったのです。目の前の問題が静まれば良いだけのことです。何故なら、もし静めることができなかったら、ローマ軍がエペソの町に入って騒ぎを静めようとします。そうなりますと、町のトップを始め高官らは処分を受けることとなります。そうならないために騒ぎを静めようとしているのです。結局は、町の書記官も自分のためです。
このように見ますと、偶像崇拝者の本心が見えてきます。それは自分の都合の良い、自分に役立つものを礼拝すれば良いというものです。そして、自分に損害を与えるようなものは排除しようとする。これが偶像崇拝者の本心であり中心点です。私たちが生かされています日本という国は「和」を好みます。そして、互いに助け合い協力し合う思いが強いです。そのこと自体はすばらしいものです。しかし、「真理であるかどうか」を見極めることよりも優先されるものではありません。人にとって何よりも大切なのは真理であるかどうかです。ところが、多くの人は「真理であるかどうかはどうでも良い」のです。それよりも利害関係が優先するのです。ですが、キリスト者が神を礼拝するのは、「その神が真理である」と信じているからです。決して「自分の都合の良いものだから」とか「自分に役に立つものだから」という理由で礼拝しているのではありません。何よりも真理を追い求めていく道。これがキリスト教信仰の道です。

結)
 創世記の冒頭に、「はじめに神が天と地を創造された」と書かれています。新共同訳聖書には、「初めに神は天と地を創造された」と訳されています。「が」と「は」の違いだけですが、「この違いはとても大きい」と私は捉えています。「が」の方が神の創造を強調しているように受け取れるからです。私たちは、その創造の神に礼拝を献げているのです。偶像崇拝が根づいている社会の中に生かされている私たちは、偶像崇拝との戦いを避けることはできません。この世界を創造され、イエス・キリストを死から甦らせてくださった真理なる神に礼拝を献げ続けていく。これがキリスト教信仰の道です。

 

使徒19:21~22「計画の原則と目的」 25.06.01.

序)
 今朝の箇所はとても短い箇所です。しかしながら、この箇所は私たちの歩みについて大切なことを教えてくれる箇所でもあります。特に、21節の「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」ということばです。今朝は、この短い箇所から私たちの歩みについて共に教えられたいと願っています。

1)神の導き
 その前に、今朝の箇所の前後関係を確認したいと思います。11節~20節までにおいて、主のことばがどのように広まり勢いを得たのかを私たちは学びました。20節の「こうして」とは、福音が語り続けられることによって、自分の罪を示され悔い改めた人たちの行為です。すなわち、「私は何を最優先して生きるのか」を見える形である行いを通して告白し続ける。すなわち、エペソの町でイエス・キリストを信じた人々の生き方を通して、すなわち、イエス・キリストに礼拝を献げるのが何よりも優先する生き方を通して、主のことばは力強く広まり勢いを得たことが11~20節で書かれている事柄です。そして23節以降では、エペソの町のアルテミス神殿の出来事が描かれています。ここの中心点は何かと言いますと、「何を礼拝するのか」ということです。「偶像の神を礼拝するのか」それとも「真の神を礼拝するのか」ということです。そのことについては、次回のときに詳しく見ていきたいと考えています その狭間に、今朝の箇所のことが書かれているのです。今朝の箇所には何が書かれているのかと言いますと、先程も触れましたように「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」というものです。パウロは、エペソの町に居る時にローマに行くことを神から示されたのです。
 パウロは魔術や偶像崇拝との戦いの中で、ローマに行くことを神から示されました。大きな壁が隔たっているエペソの町で、今直面している幾つかの事柄を解決する方法を神から示されたのではなく、まだ行ったこともないであろうローマの町に行くことを神から示されたのです。エペソの教会は魔術や偶像崇拝という外との戦いや、教会形成という内なる戦いの両面の問題に直面している教会です。人間的な考え方をするならば、それらの問題を解決する方が優先のように思えます。ですが、神はパウロにローマの町に行くことを示されたのです。この神の示され方や導き方は人の想像を超えたものです。しかし、そのような神の示され方があることも私たちは覚えておく必要があるのを教えられます。以前18:18~22のときにも見ましたように、エペソのキリスト者たちはパウロに「もっと長くとどまるように頼んだ」のですが、パウロは聞き入れずエルサレムに行ったのです。エペソ教会から言いますと、まだまだパウロを必要とすることが多くあります。しかし、神からしますと「エペソの町での働きはもう十分である」というものです。後はどうすれば良いのでしょうか。エペソの教会の人たちは、今後の神の導きを信じ、残された人たちで自分たちにできることをするだけです。またパウロは、今後の神の導きを信じ神に委ねるだけです。このような人の想像を超えた神の導きがあることを私たちも覚えておきたいものです。

2)パウロの計画の原則
 パウロはエペソの町に滞在しているとき、ローマに行くことを御霊によって示されました。しかしながら今朝の箇所をよく読みますと、「パウロはローマに行くことを御霊によって示されて直接ローマに行ったのではない」ということに気づかされます。パウロはマケドニア地方とアカイア地方を通ってエルサレムに行くことを決意したのです。これも御霊によって示されたものでしょう。これも不思議なことです。このときのパウロはエペソの町に居たのです。その時にローマに行くことを御霊によって示されたのです。そして、マケドニア地方とアカイア地方に向かうのです。当時のエペソの町は、今のトルコの西側の玄関口でもある大きな港町です。ローマに行くならば、そのエペソからコリントの東側の港に行き、西側の港からローマに行くのが自然です。しかし、そのルートではなく、陸地を通ってマケドニア地方を経由してアカイア地方に行く計画を立てたのです。ところが、20:3に「パウロに対する…帰ることにした」と書かれています。そのため、トロアスに戻りアソスを行き、そこからミティレネに行き、ミティレネからキオスの沖に達してサモスに立ち寄り、ミレトスの町に行ったことが20:14~15に書かれています。そして、16節にはエペソには寄らなかったことが記されています。そのミレトスの町にエペソ教会の長老たちを呼び寄せたのです。とても不思議ではないでしょうか。パウロは3年間もエペソに滞在し伝道していました。エペソのキリスト者は異教との戦いの真最中です。そのような中でローマに行くことを示されてエペソの町を離れたのです。再び、エペソの近くを通ったのなら、立ち寄るのが普通のように思えます。しかし、パウロはエペソには立ち寄らなかったのです。何故でしょうか。そのことは後で触れたいと思います。
 このようなことから一つのことを知らされます。それはパウロにはパウロの考えや計画があったということです。おそらくパウロは、御霊に示されて今までの歩みを振り返って思い巡らしていたのでしょう。そのような中で、マケドニアとアカイア地方を訪問してエルサレムに行くことを示されたものと考えられます。そのように考えるのは「御霊に示され」の所に*印が付けられています。欄外を見ますと「心に決めて」と書かれています。このことから、パウロは聖霊に示されて考え計画を立てたものと考えられます。「これは何を意味するか」と言いますと、神を信じて従う歩みと個人が計画を立てての歩みは矛盾しないということです。聖書が語る「信仰の歩み」とは、決して無計画なものではないということです。箴言16:1に「     」と書かれていますし、16:9にも「     」と書かれています。このことから、「計画を立てるのは不信仰だ」と思われる方もおられます。ですが、神は計画を立ててこの世界を造られました。ですから、計画を立てるのは決して不信仰なことではありません。問題は、どのような原則に従って計画を立てるのかです。パウロは決して自分の思いを優先して計画を立てたのではありません。今までの歩みを思い巡らしつつ祈る中で、御霊によって示され計画を立てたのです。すなわち、祈りと御霊の示しです。これがパウロの計画の原則です。この原則を大切にすることを私たちは教えられます。ついつい自分の思いを優先してしまいやすくなります。そのようなとき「待てよ、自分は何を原則として計画を立てているのか」という考え方を身に着けられるようにしたいものです。

3)パウロの計画の目的
 先程は、パウロの計画の原則を見ました。今度は、そのパウロの計画の目的を見てみたいと思います。パウロは何のためにローマに行くことを計画したのでしょうか。聖書は21節で「パウロは御霊に…と言った」と記しています。この「御霊に示され」というのは、先程も見ましたがパウロがいろいろと思い巡らしている中で、祈りと御霊によって示されたものです。その思い巡らす中で、ローマの教会の情報が耳に入ったものと考えられます。当時のローマの教会はどのような教会だったのでしょうか。ローマ人への手紙を見ますと明らかです。ローマの教会の人たちは福音を歪曲していたのです。すなわち、福音を間違って理解していたのです。その間違いとは何でしょうか。以前、ローマ人への手紙からメッセージをしました。その時にも触れましたが、ローマの教会の人たちは「人は行いによって救われる」と信じていたのです。その「行いとは何か」と言いますと、神が与えてくださった律法を守ることです。すなわち、「人は神が与えてくださった律法を守り行うことによって救われる」というのを、当時のローマの教会の人たちは信じていたのです。それに対して、「そうではなく、イエス・キリストを信じるだけで救われる」と語り続けているのがローマ人への手紙です。
 信仰生活には行いが必要です。何故なら、行いは信じているものを見える形で表す告白だからです。例えば、健全な親は子どもを愛しています。その子どもに危険が及びますと、親は自分の身を挺して守ろうとします。自分の身を挺して守ろうとするのは、その子どもが自分にとって大切な存在であることを見える形で表すものです。行いはその人の心の中の告白です。ですから、信仰生活には行いが伴うのです。でも、神の救いにおいては人の行いは必要ありません。これは神が与えてくださったものを信じて受け取るだけで良いのです。しかし、当時のローマの教会は「人が救われるには神の律法を守り行う必要がある」という教えがなされていたのです。だからパウロは、ローマ1:15で「     」と語っているのです。そして、その必要を覚えローマに行くことを決断したのが今朝の箇所です。
 そのパウロは、ローマ15:23~29で「     」と語っています。23節でパウロは「もうこの地方に…ありません」と語っています。「この地方とは何処か」と言いますとコリントの町が属しているアカイア地方です。コリント人への手紙を読みますと、「コリントの教会は問題だらけで、まだまだパウロは必要ではないか」と思えてしまいます。しかし、パウロからすれば「自分がすべきことは果たし終えた」として、マケドニアとアカイア地方の教会からエルサレム教会のために献げられた献金をエルサレム教会に届けることを最優先していたのです。ですから、パウロは回り道になりますがエペソからマケドニアとアカイア地方を通って、再びエペソの近くを経由してエルサレムに行ったのです。さらに、ローマの教会での奉仕を終えた後は、「イスパニア」すなわち現在のスペインの方に行くことの計画を立てているのです。それが今朝の21節の「御霊に示され」たことです。

結)
 聖書を読みますと、エペソの教会もコリントの教会もパウロを必要としていることが分かります。しかし、パウロは「もう自分が果たすべきことは終えた」とし、新たに示された奉仕を実行することを決断しました。でもそれは、単なるパウロの思いつきではありません。御霊に示されるものです。その「御霊に示される」というのは、特別に神からの啓示を受けることだけではありません。今までの歩みを思い巡らしつつ祈る中で、今後の歩みが示されていくこともあるのです。ただ、パウロの計画には原則と目的が明確にされています。この計画の原則と目的は個人の歩みだけでなく、教会の歩みにおいても大切なものであるのを知らされます。

 

使徒19:11~20「イエスの名をあがめる」 25.05.25.

序)
 前回は、教会は神がご自分の血をもって買い取られた・買い戻されたものであり、キリストにあって一つとされた群れであることを学びました。それは何のためかと言いますと、今朝の17節の最後に書かれていますように「主イエスの名をあがめる」ためです。すなわち、一人ひとりがイエス・キリストを礼拝する者となるためです。そして、その礼拝は一人ひとりが全身全霊をもって献げるものであることを先週の献身者の日から学び、その全身全霊をもっての礼拝が献身の第一歩であることを教えられました。今朝は、人が主イエスの名をあがめるようになるために、神はどのようなことをされたのかを共に教えられたいと願っています。

1)力あるわざを通して
 主イエスの名があがめられるようになった1つ目は、11節に書かれていますようにパウロの驚くべき力あるわざを通してです。パウロは自分が身に着けているタオルや前掛けを病人に当てますと、病気が癒されたり悪霊が出て行くという奇蹟が起こりました。このようなことを読みますと、「今の時代もこのような奇蹟が起きたら福音宣教は大前進するのにな!」と思わされたりもします。ですが、このような奇蹟が起こることが大切なのではありません。大切なのは福音を宣べ伝えることです。では、福音とは何でしょうか。ある方は、「イエス・キリストの十字架による死と復活」と答えられるでしょう。確かにその通りです。では、その福音を伝えるには何が必要でしょうか。「イエス様はね、あなたのために十字架に架かって死なれ甦られたのよ」と言っても、聞いた人は「何で!?」と答えられるでしょう。その「何で!?」の質問に答えられる準備をする必要が大切です。Ⅰペテロ3:15の後半に「あなたがたのうちにある…用意をしていなさい」とありますように、「何時でも・何処でも・誰にでも」説明できる準備をしておくことは大切です。
 何度も見ていますが、パウロがエペソ教会の長老たちを呼び寄せ語ったことが、使徒20:18~35に書かれています。27節に「     」と語ったことが書かれています。パウロはエペソの町で余すことなく語ったのです。それはイエス・キリストの十字架による死と復活です。パウロがティラノの講堂で2年間語り続けた中で、「イエスはあなたのために十字架に架かり死なれ甦られた」ということを語ったとき、「何で!?」という質問もあったことでしょう。その質問に対しても、パウロはきちんと答えていたものと20:27のことばから考えられます。そのようなことを聞かれますと、「パウロはきちんとした学びを受けていたから」と言われるかもしれません。しかし、以前見ましたプリスキラとアキラ夫婦は、アポロが語ったことについて不足があることを知り正確に説明しました。彼らはきちんとした学びを受けた人たちではありませんでした。ですが、「何時でも・何処でも・誰にでも」説明できる準備をしていたのです。難しいことばを使う必要はありません。また、話し方も一人ひとり違っていて良いのです。自分が知っている知識の中で、自分の話し方で伝えれば良いのです。「不足しているな!」と思えば学べば良いだけのことです。改めて、Ⅰペテロ3:15のみことばの大切さを知らされます。

2)巡回祈禱師の出来事
 主イエスの名があがめられるようになった2つ目は、巡回祈禱師の出来事を通してです。13節以降は、ユダヤ人の巡回祈禱師の出来事が書かれています。この13節の冒頭に、「ところが」と書かれています。この「ところが」ということばは、「前に触れたこととは反対に」という意味を含んだことばです。このことばを耳にするとき、5:1以降に書かれていますアナニアとサッピラ夫婦のことを思い起こされます。教会は一つになって進もうとしていたとき、5:1の冒頭に「ところが」と書かれアナニアとサッピラ夫妻のことが記されています。前回の箇所でも触れましたが、アナニアとサッピラ夫妻は教会が一つになって進もうとしていたとき、それとは反対の行為をしてしまいました。今朝の箇所もそうです。このユダヤ人の巡回祈禱師らは、パウロの行為と反対のことをしたのです。では、何が反対の行為だったのでしょうか。パウロは驚くべき力あるわざを行なって病気の人や悪霊に憑かれている人たちを癒しました。それとは反対の行為をしようとしたのでしょうか。そうではありません。彼らもパウロのように悪霊に憑かれている人に悪霊を追い出そうとしたのです。パウロと同じようなことをしようとしたのです。では、何が「ところが」なのでしょうか。パウロは福音を伝えるために驚くべき力あるわざを行なったのです。しかし、この巡回祈禱師らは福音のためにではなく、言うならば「自分たちのため」に行おうとしたのです。そのために「イエスの名」を利用したのです。そのことに対する「ところが」なのです。
 自分たちの目的を達成させたいがために、イエス・キリストの名を利用しようとする巡回祈禱師たちに対して、悪霊は「イエスのことは…おまえたちは何者だ」と、イエスの名を自己目的のために利用しようとする彼らに対して、少しも恐れることなく力を発揮し打ち負かしたのです。この出来事は、「本当の神の力は何処にあるのか」という大切なことを教えています。何よりも大切なのは、イエス・キリストの十字架による死と復活という福音そのものです。パウロは、その福音についてローマ1:16で「福音は…神の力です」と告白しています。病気を癒し悪霊から人を救い出し生きる力を与えるのは福音です。まことの神の力は福音であり、神のみことばそのものです。
 これと似た間違い方を私たちもしてしまいやすくなります。教会はキリストにあって一つとされた群れです。ですが、それは必ずしも「同じ考え・意見である」ということではありません。違う考えや意見もあります。どちらも「自分たちの考えが正しい」と思っています。教会の中に生じる問題の多くは「自分たちの考えが正しい」というものです。しかも、それは「教会のために」と思っているものです。そして、「似た間違い方をしやすくなる」というのは、「信仰をもって」ということばです。「信仰をもってやりましょう」と言われてしまいますと、他の人は何も言えなくなってしまいます。「イエスの名」を利用することはないかもしれませんが、「信仰をもって」ということばを利用してしまう危険性が私たちの中にあることを肝に銘じておきたいものです。

3)人々の応答
 主イエスの名があがめられるようになった3つ目は、人々の応答を通してです。イエスの名を利用して自分たちの目的を達成しようとした巡回祈禱師たちは、悪霊に打ち負かされてしまいました。そのことが知れ渡ったエペソに住む人たちは、「主イエスの名をあがめるようになった」と17節に書かれています。それは、パウロの驚くべき力あるわざと巡回祈禱師らの出来事を通して、人々はイエスの名をあがめるようになったのです。そして、多くの人たちが信仰に入り自分たちの行為を告白したことが18節に記されています。その一つとして、魔術を行っていた人たちのことが書かれています。以前子ども集会で占いの話しをしました。平仮名で「う・ら・な・い」と書きましたら、殆どの人が「売らない」ではなく「占い」をイメージされました。今ではテレビやラジオ、また新聞や雑誌にも占いがあります。ある方は「良いことは信じて、良くないことは信じなければ良い」と言われたりします。でも、その奥にあるものは何でしょうか。「占いを見てしまう」というものです。それは「占いに関心がある」ということです。一番怖いのはこれです。「信じる・信じない」ではなく、関心を持つことが一番怖いのです。それがサタンの用いる方法です。サタンの目的は、人が神を信じなくなることではありません。人を神から遠ざけることが目的なのです。すなわち、人が神に関心を持たせなくすることが目的です。人が神に関心を持たせなくするにはどうしたら良いでしょうか。それは神以外のものに関心を持たせることです。その一つが占いです。
 聖書は占いについてどのように語っているでしょうか。16章の箇所で見ましたが、聖書は占いについて「当たるもの」として紹介しています。占いの霊につかれた女奴隷の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのでパウロとシラスを訴えました。これは、それまでは金儲けができていたことを意味します。何故金儲けができていたのかと言いますと、多くの人が占いの霊につかれた女奴隷の所に来ていたからです。では何故、多くの人が占いの霊につかれた女奴隷の所に来たのかと言いますと、その占いが当たるからです。聖書は「占いは当たるもの」として紹介しています。ここにサタンの力の強さを知らされます。先程、「ある方は良いことは信じて、良くないことは信じなければ良いという人がいる」と話しましたが、「占いを見ないと気持ちがすっきりしない」という人が多いのも事実です。実は、これがもう占いの霊に憑りつかれているのです。
 しかし、この出来事を通して、魔術から解放された人が大勢いたことを聖書は語っています。そして、その人たちは関連する書物を焼き捨てました。その額は「銀貨五万枚」と書かれています。これが現在の日本円にしてどれ程の額になるかは分かりません。高額であったものと考えられます。ですが、彼らはそれを惜しむことなく焼き捨てたのです。そこには大きな決断があったことでしょう。魔術や占いなどの虜から解放されるには、その人自身の中で大きな決断が必要であることを知らされます。ここで注目させられるのは、18節の「自分たちのしていた行為を告白し」ということばです。彼らは何を告白したのでしょうか。それは魔術に関心を寄せていたことへの告白です。それは彼らの悔い改めをも表しています。自分たちがしていた過ちを心から悔い改めたのです。その悔い改めの行為が19節に記されています。ここで改めて知らされるのは、悔い改めにも行為が必要であることです。「悔い改めは心の事柄だから心の中ですれば良い」というものではないということです。見える形として表すことの大切さをも教えられます。先週の「献身者の日」でも触れましたし何度も話していますが、「行いはその人の告白である」ということです。神は私たちに全身全霊をもって神を礼拝することを求めておられます。その礼拝を妨げようとするものを見える形で排除する必要があるのを教えられました。その一つは携帯電話の電源を切ることです。礼拝中に電話に出るのは、「私にとって今はあなたを礼拝するよりも電話に出ることが優先します」ということの神への告白でもあるからです。自分の生き方を通して悔い改めを表し続ける。これが魔術の出来事を通して悔い改めた人たちの応答です。

結)
 20節の冒頭に「こうして」と書かれています。「こうして」とは、どのようにしてでしょうか。1つはイエス・キリストの十字架による死と復活の福音です。もう何度も繰り返し話し続けていますが、十字架に架かられる前のローマ兵による拷問。そして、それに耐え続けられ十字架に架かり死なれ甦られたイエス・キリスト。その「福音」という大きな神の恵みの中に生かされている私たちは、いつの間にか恵みが恵みでなく「当然・普通」という感覚に陥ってしまいやすくなります。そのような私たちが、そのことを悔い改めて神の国とその義を第一とする歩みを見える形として表し続ける。この2つが20節の冒頭に書かれています「こうして」です。何よりも、主イエスの名をあがめる群れとして歩まされていきたく願います

創世記4:1~7「献身の第一歩」 25.05.18

序)
 青木姉の証しはどうだったでしょうか。私自身は、みことばと祈りの力を改めて知らされました。また、印象的だったのが「できない理由を数えるよりも」ということばでした。ついつい「できない理由」を考えてしまいやすいのが私たちです。でも、今置かれている中で主が必要とされていることを考え、主が責任をとってくださることを信じ、目の前の道を選んでいく大切さを知らされました。
 本日は5月の第3主日です。私たちの団体では、この日を「献身者の日」と定めています。これは1994年度から始まったものです。この年は春日井教会が開拓を始めた年です。当時JBCは2000年までに5つの開拓伝道を願っていました。「5つの開拓伝道がなされる」ということは、「新たに5人の献身者が必要である」ということです。そのため、私たちの団体の中からさらに直接献身者が起こされることを願って設けられました。しかし、最近では「直接献身を勧めるメッセージでなくても良いのではないか。もっと幅広い献身ということでも良いのではないか」と言われつつ、その方向に向かっているようにも感じられます。確かに、神を信じる者とされるということは、生涯を神に献げることを決意したわけですから、キリスト者は広い意味での「献身者」ということもできます。それを「間接献身者」とも言われたりします。神を信じる者にとって大切なことは、「神は自分にとってどのような方であるのか」という告白です。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)カインとアベルの献げ物
 今朝の箇所は比較的知られている箇所です。まず、カインとアベルの献げ物について見てみたいと思います。カインは作物を神に献げ、アベルは羊の初子を神に献げました。アダムとエバは神に対して罪を犯しましたので、神はアダムに対して3:17~19で「     」と語られました。それ故、カインとアベルも顔に汗を流して働かなければならなくなりました。そのような中で、各々が神に献げ物を献げたのです。ところが、神はカインの献げ物には目を留められず、アベルの献げ者に目を留められたのです。この「目を留める」とは、受け入れることを意味しています。ですから、神はカインの献げ物は受け入れられず、アベルの献げ物を受け入れられたのです。
 ここで疑問に思うことは、何故神はカインの献げ物を受け入れられず、アベルの献げものを受け入れられたのかということです。作物と羊という献げ物の違いからでしょうか。もしそうであるならば、神は仕事によって差別される方となってしまいます。ですが、神は差別されるような方ではありませんし、どのような仕事であれご自身のご栄光を現すために用いてくださるお方です。それが聖書の労働観です。ある方は、「一般社会の仕事もすばらしいが、直接伝道に関わる仕事はもっとすばらしい」と思われたりされます。ですが、聖書はそのようなことは一言も語ってはいません。確かに「働き手のために祈りなさい」と勧めてはいます。ですから、私たちはそのために祈る必要があります。しかし、だからと言って直接伝道に関わる仕事が特別にすばらしいというものでもありません。それは仕事の違いであって、どの仕事も神のすばらしさを現すものとしてすばらしいものです。たとえ、それが「専業主婦」というものであったとしても、そのことを通して神のすばらしさを現されていくならば、それは直接伝道する働きと同じすばらしいことです。
 では、何故神はカインの献げ物を受け入れられず、アベルの献げ物を受け入れられたのでしょうか。仕事の違いではないとするならば、何の違いだったのでしょうか。考えられることは献げ方の違いです。聖書全体を通して献げ物を見るとき、1つのことを知らされます。それは、その人の生活と深い関係があるということです。例えば、マルコ12:41~44には、イエス・キリストが献金箱に向かって座られ、献金箱に入れる人々の様子を見ておられたことが書かれています。多くの金持ちが大金を入れている中で、一人の貧しいやもめがレプタ銅貨2枚を入れました。すると、イエス・キリストは「あの女性が誰よりも多く献げた」と話されました。それは生活費の全部を献げたからです。1コドランドとは、現代の日本のお金に換算しますと、どれ位の金額になるでしょうか。1コドランドは1デナリの64分の1と42節の欄外に説明されています。調べてみますと、2024年度のサラリーマンの平均年収は426万円と発表されています。因みに、20代は360万円、30代は451万円、40代は519万円、50代以上は607万円ということです。今年度は新入社員の給与が大幅に上がりましたから、20代の年収は大幅アップになると想像します。平均年収を12ヶ月で割りますと、1ヶ月35.5万円の給与となります。現代は週5日制ですから22日で割りますと、1日の収入は約1.6万円となります。その64分の1ですから250円となります。これが彼女の全財産だったのです。それを神に献げたのです。献金の金額が問題ではありません。気持ちが大切です。だからと言って、「少なくても良い」というものでもありません。ここでイエス・キリストが評価されたのは、「自分にとって神は全てを献げるに価する方」とする彼女の信仰告白です。それはカインとアベルの献げ物についても同じです。神がカインの献げ物を受け入れられず、アベルの献げ物を受け入れられた違いは、その彼らの信仰告白の違いによってのものだったのです。

2)カインとアベルの信仰告白
 では、カインとアベルの信仰告白とは、どのようなものだったのでしょうか。今度は、カインとアベルの信仰告白について見てみたいと思います。カインの献げ物は、自分の手で働き収穫した作物です。彼は顔に汗を流して収穫して、その中から神に献げたのです。カインは仕事を怠けていたわけでもなければ、悪いものを神に献げたのでもありません。どちらかと言いますと、良いものを献げたと考えられます。では、アベルの献げ物はどうだったのかと言いますと、彼は初子の中から肥えたものを神に献げたのです。「初子」というのは、家畜にとっては初産ですから飼い主は神経を使います。ですから、そこには特別な愛情が生まれます。アベルは、その中から肥えたものを神に献げたのです。この「肥えたもの」とは何を表しているでしょうか。それは良く育ったものであることを表しています。すなわち、飼い主の目から見て「最上のもの」というのを表しています。第3版までの新改訳聖書には「最上のものを持ってきた」と訳されていました。アベルは、自分にとって最上のものを神に献げたのです。一番愛着心のあるものを神に献げたのです。それは、「自分にとって神は最上のものを献げるに価する方」というアベルの告白でもあります。
では、カインはどうだったのでしょうか。彼は良いものを神に献げてはいました。ですがカインは、最上のものを神に献げたのではありませんでした。では、最上のものはどうしたのでしょうか。「おそらく自分のものにしたのではないか」と考えられます。これは何かと言いますと、「自分にとって神は最上のものを献げるに価しない方」という告白でもあります。実際に口では表現していませんが、彼の生き方を通してそのことを告白しているのです。日々の生活の在り方が献げ物に表れてくるのです。神がカインの献げ物を受け入れられなかったというのは、「そのカインの告白を受け入れられなかった」ということです。さらに言えば、カインの日々の生活を受け入れられなかったということでもあります。
 私たちは「神は愛なる方」と信じています。確かにその通りで、神は愛なるお方です。しかし、ローマ2:6に「    」と書かれていますように、人の行いによって報いられる方でもあられます。神は、信じる人の行い全てを受け入れてくださるのかと言いますと、必ずしもそうではありません。受け入れられないこともあります。事実カインがそうでした。カインも神を信じる者の一人です。だから、神に献げ物をしたのです。しかし、神はカインの行いを受け入れられはしませんでした。それはカインの行いに問題があったからです。日々の生き方が、その人の献げ物につながっていくのです。そのことを見ますと、私たちの日々の生き方についても考えさせられるのではないでしょうか。
 何度も話していますが、旧約時代の献げ物は礼拝を表しています。私たちは礼拝をどのような思いで献げているでしょうか。イエス・キリストは、律法の専門家から「戒めの中で一番重要なのは何か」と尋ねられたとき、「全身全霊をもって神を愛すること」と答えられました。そのイエス・キリストは「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」と話されました。「御霊と真理によって」とは、「全身全霊をもって」ということです。すなわち、今私たちが献げている礼拝は、一人ひとりが全身全霊をもって献げるものなのです。それは礼拝に集中するということです。礼拝に集中するというのは、その礼拝への集中を妨げるものを排除するということでもあります。礼拝は他の集会とは全く違うものです。以前、「牧師は語ることを通して神を礼拝し、会衆は聞くことを通して神を礼拝している」と話しました。ある方は「では、賛美や祈りは?」と思われるかもしれません。でもそれらは、牧師も会衆も共に献げているものです。牧師と会衆との違いはメッセージの時だけです。プログラムの前奏~後奏まで全てが礼拝です。メッセージを聴くことだけが礼拝ではありません。ですから、礼拝は集う一人ひとりが共に神に献げているものです。その礼拝への集中を妨げるものは取り除いてく必要があることを知らされます。

3)私たちの信仰告白
 最後に、私たちの信仰告白について見たみたいと思います。私たちは神を「どのような方」と告白しているでしょうか。献げ物は、その人の信仰告白となります。父なる神は、一人子であられるイエス・キリストをこの世に送られ十字架へと導かれました。それは私たちの罪の身代わりのためです。父なる神は、私たちの罪のために一番大切なイエス・キリストを犠牲にしてくださいました。これは父なる神にとって、「私たちがどのような存在であるか」ということの告白でもあります。父なる神にとって、私たちは価値のある存在と告白してくださったのです。父なる神は、私たちのために全身全霊をもって導いてくださっています。決して「適当に」ではありません。またイエス・キリストは、ここ数週間何度も触れていますが十字架に架かる前のローマ兵による拷問に必死に耐えられました。それは十字架に架かられる必要があるからです。まさしく公生涯最後のサタンとの戦いです。イエス・キリストは、そのサタンとの戦いに勝利され十字架に架かり死なれました。何故ローマ兵の拷問に対して必死に耐えられたのでしょうか。それは私たち一人ひとりのためです。これはイエス・キリストにとって、「私たちがどのような存在であるか」ということの告白です。父なる神もイエス・キリストも、ご自身にとって「あなたは何よりも大切な存在である」という告白を、行いを通して見える形として表してくださったのです。
 その父なる神とイエス・キリストに対して、私たちはどのような態度で礼拝しているでしょうか。全身全霊をもって礼拝しているでしょうか。礼拝への集中を妨げるものを排除しているでしょうか。ある教会の礼拝に出席しましたら、礼拝が始まる前に正面に「礼拝について」ということで幾つかのことが箇条書きでプロジェクターにて映し出されていました。その中に「携帯電話の電源をお切りください」というものがありました。以前にも話しましたが、私がJBCに戻る前に奉仕していた教会は、礼拝での賛美以外は会堂の出入りを禁止していました。メッセージの時だけでなく、祈りや聖書交読のときもそうです。それは礼拝への集中を妨げるものを排除するためです。一人が動くことによって、他の人の礼拝への集中が妨げられるからです。賛美のときは全員が歌っていますから、音が出ても気にされる方は少ないですので会堂の出入りは許されていました。ピアノの演奏中のとき動いたり電話に出たりされるでしょうか。されないのではないでしょうか。演奏の合間に動かれるのではないでしょうか。私たちキリスト者にとって神を礼拝するというのは、ピアノの演奏よりも神聖なものであり集中すべきものです。命に関わるものは別ですが、全身全霊をもって集中し神を礼拝するのを妨げるものは取り除いていく必要があります。
行いはその人の告白でもあります。レプタ銅貨2枚献げた貧しい女性やアベルは、「自分にとって神は特別な存在なるお方である」という告白です。ですから、自分の生活に支障が生じようとも献げることができたのです。献げ物・礼拝はその人の信仰告白でもあります。礼拝中に電話に出るというのは、「今の私にとって、あなたを礼拝するよりも電話に出る方が優先します」というのを神に告白しているのと同じです。そのような礼拝を神は受け入れてくださるでしょうか。アモス5:22に「     」と、神はそのような礼拝を受け入れないことを告げられています。礼拝中の行いは神への告白であることを覚えたいものです。

結)
 今日はJBCの献身者の日として、カインとアベルの献げ物から見ました。そして、とても厳しいことを話しました。でもそれは、教会にとって私たちにとってとても大切なことだからです。礼拝は、私たちの最高の神への奉仕です。その礼拝への集中を妨げるものは排除する必要があります。何故なら、礼拝は神への献身の第一歩だからです。あなたにとって神はどのようなお方でしょうか。犠牲を払うに価するお方でしょうか。それとも犠牲を払うに価しないお方でしょうか。それを告白するのは私たち一人ひとりの姿勢です。お祈りいたします。

使徒19:8~10「一つにされた群れとして」 25.05.11.

序)
 先週は、イエスの名によるバプテスマの意味は「キリストと一つになる」ということを学びました。そのパウロは、エペソの町で3年程滞在し福音を語り続けました。今朝は、この箇所に書かれている3つのことばに目を留め教えられたいと願っています。

1)神の国
その1つは、8節に書かれています「神の国」ということばです。皆さんは「神の国」と聞かれますと、どのようなことをイメージされるでしょうか。ある方は「神を中心としてイエス・キリストを信じる一人ひとりが和気あいあいと過ごしている」というのをイメージされるかもしれません。また別の方は、「イエス・キリストを信じる者全員が一つになって神を礼拝している」というのをイメージされるかもしれません。そのようなことを頭の中に思い浮かべるのが間違っているわけではありません。それらも神の国でなされているものと私も思います。ですが、それは私たちが勝手に思い浮かべているものではないでしょうか。確かに、「イエス・キリストを信じる者全員が一つになって神を礼拝している」というのは、黙示録に書かれていますから「聖書に根拠を置いている」と言えるでしょう。しかし、「神を中心としてイエス・キリストを信じる一人ひとりが和気あいあいと過ごしている」というのは聖書の何処にも書かれていません。これは勝手な憶測です。私たちキリスト者は、何においても聖書のみことばに基づいて考え、判断することが大切です。それは神の国についても同じです。
では、その神の国についてイエス・キリストはどのように語っておられるでしょうか。使徒の働きの著者であるルカは、ルカの福音書11:20で「     」とイエス・キリストが話されたことを書いています。ここでイエス・キリストは、「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と話されています。また、17:21にも「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と話されています。すなわち、「もうすでに神の国は来ている」と話されているのです。何処に来ているのでしょうか。それはイエス・キリストを信じる一人ひとりの身体の中に来ているのです。何故なら、イエス・キリストを信じる一人ひとりの中に聖霊なる神が住んでくださっているからです。「その神の国はいつ来たのか」と言いますと、イエス・キリストがこの世に誕生されたときです。そのときに神の国は目に見えない形で来たのです。ですから、もうすでに神の国は来ているのです。イエス・キリストを信じるあなた自身が神の国なのです。ですから、「私の身体は神の国である」という自覚を持つことは大切であることを知らされます。
しかし、もう一つあります。イエス・キリストはルカ21:31で「     」と話されました。この箇所を見ますと、「神の国はまだ来ていない」ということが分かります。そのように思いますと、「えっ、先程話されたイエス・キリストのことばと違う」と思われることでしょう。そして、「どちらが正しいの?」と思われるかもしれません。答えとしましては、どちらも正しいのです。このルカ21:31で話されていることはイエス・キリストの再臨の時のことです。すなわち、黙示録21:1に書かれています「新天新地」のときのことです。それは神の審きが終え、神の国が完成されたときのことです。ですから、神の国はもうすでに来たのですが、まだ完成されてはいないのです。今の私たちはその時代に生かされているのです。すなわち、神の国の完成途上の中に生かされているのです。それが見える形として表されているのが出エジプトです。神がモーセを召されてモーセをエジプトに遣わされました。その時から出エジプトは始まりました。そして、イスラエルの民がカナンの地に入り征服したとき出エジプトは完結しました。それまでイスラエルの民は荒野の生活を強いられ様々な戦いに直面しました。これは何度も話していますが、霊的なキリスト者の歩みを表しています。イエス・キリストを信じたとき、その一人ひとりの中に神の国ができました。しかし、私たちはこの世に生かされているとき様々な霊的荒野の中を歩まされ、様々な霊的戦いを強いられます。それは何故かと言いますと、神の国がまだ完成されていないからです。私たちはそのような時代、すなわち「神の国の完成途上の中に生かされている」というのを覚えておく必要があることを教えられます。

2)ティラノの講堂で
 2つ目は、9節の最後に書かれています「ティラノの講堂で」ということばです。パウロはユダヤ教会堂で神の国について論じ、人々を説得しようと努めましたが、ある人たちが心を頑なにして悪く言ったので、パウロは会堂から退いてティラノの講堂で語ることとなりました。この「ティラノ」というのは人の名前ですが、この講堂の持ち主なのか、講堂で教えていた教師なのかは分かりません。調べてみますと、「教えていた教師の名前」というのが有力なようです。今で言えば、公民館などの一室を借りて福音宣教に励んでいたようなものです。おそらく、講堂で教室が開かれていない時間帯にパウロらはティラノの講堂を借りて、福音宣教に励んでいたものと考えられます。
 調べてみますと、この地方の日中は暑いため朝早くとか夕方に授業がなされていたようです。ですから、日中の暑い時間帯に借りて福音をパウロは語っていたものと想像できます。暑い時間帯に外に出る人は少ないことでしょう。私たちもそうではないでしょうか。夏の暑い日中に用事がなければ、わざわざ外に出かけることはしないと思います。そのように考えますと、条件的には「良い」とは言えない中で、パウロらは今の状況の中でできることを工夫しつつ福音宣教に励んでいたのです。これは私たちの歩みにおいて一つの示唆を与えてくれます。それは「今の状況の中でできることは何か」を探るというものです。「もうこれでは無理だ」と言って諦めてしまうのではなく、そのような状況の中で「今できることは何か」を探り求める歩みの大切さを教えられます。
 そのことを考えますと、一つのことを教えられます。私たちは会堂が与えられているのが「当たり前」のように思ってしまいます。ですが、「会堂が与えられているのは当たり前ではない」ということをです。確かに小さな会堂ではありますが、それでも会堂が与えられているのは感謝なことです。このメッセージ準備をしているとき、稲沢の開拓当初を思い起こされました。今から35年前にJBCに戻り、4月から稲沢での開拓に遣わされました。まずは集会する場所探しをしました。幾つかの物件を探しましたが、「キリスト教」ということで貸してくださる所はありませんでした。そして、12月にようやくビルの2階のテナント物件が与えられました。そして、1991年1月13日にその所での礼拝がスタートしました。稲沢に遣わされて9ヶ月後のことです。そのように思いますと、会堂が与えられているのは感謝なことであり、その所で礼拝を献げられるのは神の恵みそのものです。

3)ユダヤ人もギリシア人も
 3つ目は、「アジアに住む人々はみな」です。パウロはティラノの講堂で福音を語る働きが2年続いたことが10節の最初に書かれています。そのため、どのような実を結ぶようになったのでしょうか。それは「アジアに住む…を聞いた」という実です。このエペソという町は、学び会で見ましたがパウロが活動していた時代は港町でしたが、その後土砂で埋まり今は衰退した町となっています。ですが、当時は港湾都市で交易が栄えて活気に溢れていた町でした。以前、コリントの町のときに触れましたがコリントの町も港町でした。コリントはローマから運ばれて来た荷物を西の港で詰替えて東の港に運び、エペソやシリアのアンティオキアに送る中継点としての町として発展しました。その逆もありますが。そして、エペソはコリントから運ばれた荷物を積み上げて、現在のトルコの内陸部に運ぶ中継点として発展した町です。エペソもその逆もありますが。ですから、いろいろな人種の人たちが往来していた町でもあったということです。そのことを考えますと、何故パウロが3年もの間エペソの町に留まり続けたのかが分かります。私が「3年」というのは、20:31に「私が三年の間、夜も昼も」とパウロがエペソ教会の長老たちに語っているからです。
 ティラノの講堂で2年間福音を語り続けることを通して、「アジアに住む人々はみな主のことばを聞いた」と書かれています。この「みな」というのは、「アジアに住む人たち全員」ということではありません。これは、この後の「ユダヤ人もギリシア人も」を指していて、人種・性別・年齢を越えてというのを表しています。すなわち、「ユダヤ人も異邦人も差別なくみな」ということです。パウロはエペソ2:14で「     」と語っています。そして、16節では「二つのものを一つのからだとして」と語り、さらに18節で「     」と語っています。そして、結論として19節で「     」と語っているのです。その補助的説明として、20~22節で「     」と語っています。20節の「使徒たちや…土台の上に」とは福音のことです。その福音の要の石はキリスト・イエスご自身であり、さらに21節で「キリストにあって…聖なる宮となります」と語っているのです。
 当時のエペソの町は、この地域の主要都市でした。様々な人種の人たちが住んでいる町でした。当然、教会にも様々な人が集います。そのような群れが一つになるには、中心となる要の石が必要です。その要の石がイエス・キリストです。そのイエス・キリストを信じる信仰が与えられていれば教会は一つになれるのでしょうか。聖書は「否」と語っています。「イエス・キリストを信じる信仰が与えられていれば教会は自然と一つになれる」というものではありません。組み合わされて成長する必要があるのです。組み合わされて成長しなければ教会は一つになれないのです。私は、この「組み合わされて」というのは「交わり」と捉えています。すなわち、使徒2:42に「     」と書かれている「交わり」です。合同聖会の時にも村上先生が触れられていましたが、聖書に書かれています「交わり」とは単なるおしゃべりではありません。42節の「使徒たちの教え」から教えられたことの分かち合いを通して、一人ひとりが励まされ力づけられるという霊的な交わりです。それによって一人ひとりが成長させられていくのです。今教会で行っています礼拝後の分かち合いもこれを基としています。
 エペソ2:22に「     」と書かれています。このみことばを読みますと、「このキリストにあって、築き上げられ」とあっても不自然ではありません。しかし、パウロは「ともに」ということばを付け加えているのです。群れの成長は一人ではできないのです。「ともに」なのです。以前にも話しましたが、聖書には「ともに」とか「互いに」ということばが多く書かれています。「ともに」も「互いに」も一人ではできないものです。複数の人が集まってできることです。それを妨げるものは何でしょうか。それは「私一人くらい」という思いです。それが何よりも表しているのが、以前にも見ました5:1~11のアナニアとサッピラ夫妻です。これも合同聖会で村上先生も触れられていました。4:32~37に書かれていますように、教会は心と思いを一つにして進もうとしていました。ところが、アナニアとサッピラ夫婦は欺きました。その中にあったものは「私たち一組くらい」という思いです。「私一人くらい」という思い。でもそれが大きな間違いであることを聖書は語っています。この「ユダヤ人もギリシア人も」ということばから、私たちは教会の在り方を教えられます。

結)
 その教会は、使徒20:28に「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」なのです。以前礼拝で触れましたが、イエス・キリストは十字架に架かられる前に、ローマ兵による酷い拷問を受けられました。そこで息を引き取っても不思議ではない状況の中で、「ここでは死ねない」という思いで必死に十字架に架かるまで生き抜こうとされたイエス・キリスト。そこまでして買い取られたのが教会なのです。新改訳では「買い取られた」と訳されていますが、「買い戻された」と訳されても良いと個人的には思わされています。そして、この教会もそのイエス・キリストによって買い取られた・買い戻された神の教会です。キリストにあって一つとされる群れであることを覚えつつ歩まされたく願わされます。

使徒18:23~28「神の備えと導き」 25.04.27.

序)
 今日から再び使徒の働きから共に教えられたいと願っています。パウロは第2回伝道旅行を終えエルサレムに戻った後、再び伝道旅行に出かけました。これが「パウロの第3回伝道旅行」と言われるものです。ただ、旅程は第2回伝道旅行と殆ど同じですので、学びは第2回で終えました。今朝の箇所は、主にアポロに焦点を当てて書かれています。今朝は、そのアポロから「神の備えと導き」について共に教えられたいと願っています。

1)エペソ教会
 アポロのことを見る前に、23節にはパウロが第3回伝道旅行を始めたことが記されています。パウロはシリアのアンティオキアに滞在し続けた後、再びガラテヤ地方やフリュギア地方を巡って、キリスト者を力づけたことが書かれています。今までの学びを通して、どの辺りかは見当がついておられることと思います。パウロはシリアのアンティオキアを出て、おそらく第2回伝道旅行と同じように、自分の故郷であるタルソを通って内陸部の第1回と第2回の伝道旅行で立ち寄ったデルベ・リステラ・イコニオン・ピシディアのアンティオキアなどに建て上げられた教会を巡り、弟子たちを力づけたことが書かれています。その後19:1を見ますと、パウロはエペソの町に寄ったことが分かります。地図⑭のパウロの第3回伝道旅行を見ますと、フリュギア地方から南側を通ってエペソの町に行ったように書かれています。第2回伝道旅行では、フリュギア地方から北側を通って行ったのです。
「何故今回は南側を通ったのか」と言いますと、エペソの町に寄るためだったと考えられます。これは私の個人的見解ですが、「パウロの第3回伝道旅行の目的の1つは、エペソの教会に寄ることではなかったか」というものです。何故なら、18:19以降には、エペソの人たちは「もっと長くとどまるように」とパウロに願っていたのですが、パウロは聞き入れずエルサレム教会に戻ったからです。この当時のエペソ教会は、「教会」と言えるほどの群れではなかったと考えられます。イエス・キリストを信じたばかりの人たちの群れで、霊的にはまだまだ幼い人たちの群れだったことでしょう。でも、パウロの中にエルサレム教会に戻る必要性があることを示されたから、止むを得ずエペソの町に留まることを断念しエルサレムに向かったと考えられます。
このことは、教会に大切なことを示しているとも考えられます。エペソの教会はパウロを必要としているのです。ですが、パウロはエペソの教会を去るのです。「そのような神の導きというものがある」ということを私たちは認識する大切さを知らされます。例えば、「私が神の導きによって教会を去ることを示される」ということです。そのようなとき、「だったら、この教会はどうなるの!」と思われるかもしれません。まさしく、エペソの教会はそのような問題に直面したのです。でも確かなことは、神がエペソの教会を支えられ、後にテモテがエペソの教会を牧するようになったという事実です。教会指導者が不在になると教会は閉鎖するのではなく、神が人の想像を超えた備えと導きをもって、教会を支えてくださるという事実を聖書は語っているのです。

2)アポロの側面①
 そのエペソの町に、アポロという人が来たことを聖書は24節で語っています。そのアポロについて、聖書は「アレクサンドリア生まれで雄弁なユダヤ人であり、聖書に通じていた」と紹介しています。このアレクサンドリアという町はエジプト北部の地中海に面した地にあり、アレクサンドロス大王によってBC332年に建てられた町で、ローマ帝国時代においては第2の都市となりました。文化の中心地として、大学や図書館を持つ学術都市として知られていた町であったということです。アポロという人はその町で生まれ育った人ですから、ヘレニズム文化を背景として育った人物であることは明白です。しかも、彼については「雄弁なユダヤ人で、聖書に通じていた」と24節に紹介されています。ユダヤ人の家系ですから、幼い頃から聖書教育を受けていたものと考えられます。ですから、旧約聖書についてはパウロと同様熟知している人であったと考えられます。そして、その旧約聖書に基づいて、イエス・キリストについて調べ続けていたことでしょう。その結果、「イエス・キリストが聖書に預言されている救い主である」という結果に至ったものと考えられます。そのため、25節では「霊に燃えて…教えた」と紹介し、25節では「会堂で大胆に語り始めた」と書かれています。
 アポロはエペソの町だけでなく、27節には「アカイアに渡りたい」と願って渡り、その地方でもキリスト者を「大いに助けた」と書かれています。この「アカイア地方」とは、コリントやアテネ、ケンクレアの町が属している地方です。その地方でも、アポロについて27節で「恵みによって信者になっていた人たちを、大いに助けた」と聖書は語っています。どのようにして助けたのでしょうか。28節に「聖書によって…論破したからである」と書かれています。アポロは聖書に基づいて語ったのです。アポロは決して自分の考えを語ったのではありません。聖書に基づいて、「神の恵みに如何に答えて生きるべきであるか」を指し示したのです。ここに「聖書に基づいて生きる」ということの大切さを知らされます。

3)アポロの側面②
 聖書に基づいて語っていたアポロですが、もう一つの側面がありました。それは25節の最後に紹介されています「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」ということです。当時の「聖書」とは、旧約聖書のことです。何故なら、新約聖書はまだ書かれていなかったからです。私たちが読んでいる「使徒の働き」は、使徒の働きに書かれていることが終わってから後に書かれたものです。ですから、使徒の働きの中での時は、「使徒の働き」はまだ書かれていなかったのです。「当然」と言えば当然のことです。アポロは旧約聖書には精通していましたが、その後のイエス・キリストの公生涯については通じていなかったのです。それはどういうことかと言いますと、イエス・キリストの十字架による死と復活の意味、またペンテコステの日の聖霊降臨などの意味については知らなかったと考えられます。アポロは完全には知り得ない人でしたが、自分が知っている中で聖書に基づいて大胆に語り始めた人でもあったのです。
 そのようなとき、プリスキラとアキラはアポロが語っている内容を聞き、「足りない所がある」と知り、アポロに神の道をもっと正確に説明したのです。プリスキラとアキラはアポロと比べますと、専門的な訓練や教育を受けてはいませんでしたし、アポロのように人々の前で大胆に語るという賜物も与えられてはいなかったでしょう。しかし、アポロの足りない所を補うため、福音の中心部分について正確に説明したのです。このアポロとプリスキラとアキラ夫婦の関係は注目させられるところです。何よりも、この夫婦の洞察力が目立ちます。アポロの知識や賜物は他の人よりも飛び抜けています。そのことはすぐに分かるものです。しかし、同時にアポロの福音理解の不足を的確に掴んだのです。この洞察力の凄さに驚かされます。
 それだけではありません。プリスキラとアキラ夫婦は、アポロを脇に呼んで神の道をもっと正確に説明したのです。この行動力の凄さも驚かされます。これはエペソの町での出来事です。先程も見ましたが、27節にはアカイア地方に渡って「恵みによって…大いに助けた」と書かれていますように、エペソの町のキリスト者らをも大いに助けたものと考えられます。そのように見ますと、パウロがエペソの教会を去るとき「これから教会はどうなるの?」と思っていた人たちは、神の備えに驚いたことだと想像します。神はパウロを去らされましたが、アポロを備えておられたのです。この神の備えと導きに私たちは圧倒されるのではないでしょうか。
 「これからどうなるの?」と思える状況の中に立たされたエペソ教会の一人ひとりの心の中は、不安でいっぱいだったことと思います。しかし、神はその一人ひとりの心の中を御存知です。そのために、神は人の想像を超えた備えをされ導いてくださっていたのです。そして、その神の備えと導きは昔も今も変わることはありません。何故なら、神は永遠なるお方だからです。「神が永遠なるお方」とはどういうことでしょうか。私たちは時間的空間の中で生かされています。この使徒の働きの出来事は、今から約2000年前のことです。時間的空間の中に生かされている私たちからすれば、この出来事も大昔の出来事と思えてしまいます。しかし、神は永遠なるお方です。永遠なる神からすれば、時間的空間の出来事は一瞬なのです。それはどういうことかと言いますと、永遠なる神からすれば「2000年前も今も変わらない」ということです。永遠なる神から見れば線ではなく点なのです。私たち一人ひとりは、その神の備えと導きの中で歩まされているのです。

結)
 今朝は、アポロを中心に見ました。パウロはアポロについて、Ⅰコリント3:6で「私が植えて…注ぎました」と語っているように、アポロの働きを「とても神に用いられている器」として評価しています。そのアポロでさえ、最初は足りない所がありました。その不足している所をプリスキラとアキラ夫婦が補い助けました。そのようなことがあって、エペソの教会は力づけられたのです。パウロが去るとき「これから教会はどうなるの?」という不安を抱く中で、神は人の想像を超えた備えをされ教会を支え導かれたのです。先程見ましたⅠコリント3:6の後半には「しかし…神です」と書かれていますように、これが神の備えと導きです。このエペソの教会はキリスト教において重要な教会となります。何故なら、「教会とは何か」という教会論が記されているエペソ人への手紙は、今日においても教会の基本となっているからです。本当に人の想像を超えた神の備えと導きを知らされます。その神が今私たちと共にいてくださり、教会の歩みと私たち一人ひとりの歩みに対しても、備え導いてくださっているのです。何故なら、神は永遠なるお方だからです。私たちは、その神の恵みの中に生かされていることを覚え感謝しつつ歩まされたく願います

マルコ10:45「贖い」 25.04.20.

序)
 今日はイエス・キリストが死から甦られたイースターです。聖書には「イースター」ということばは書かれていません。以前にも話しましたが、イースターの語源はゲルマン民族の春の祭の女神である「エオストレ」から取られたものという説が有力です。「良い・悪い」は別として、キリスト教は異教の習慣を取り入れているのが特徴的です。クリスマスもイースターもそうですし、日本においては児童祝福式や元旦礼拝などもそうです。ただ、イースターにおいては聖書の中に時期がはっきりと書かれています。それは過越しの祭の翌日です。今朝は、イエス・キリストの復活ではなく、イエス・キリストの贖いについて見ていきたいと思います。我が家には「ゴエル」という名前の犬を飼っています。「何故ゴエルなのか」と言いますと、以前飼っていました犬の名前が「五右衛門」でした。家族では五右衛門を「ゴエ」と呼んでいました。ですから、次に飼う犬も「『ゴエ』がつく名前をと」思っており、名づけたのが「ゴエル」でした。実は、「ゴエル」ということばは聖書に書かれています。その主なのはルツ記です。ルツ記には「買い戻す」と訳されていることばが何度か書かれています。この「買い戻す」ということばが「ゴエル」です。または「贖う」とも訳されています。今朝は、その贖いについて共に教えられたいと願っています。

1) 神の手許にいた
 贖う・買い戻すが意味する第1は、「本来は自分の手許にあった」ということを示しています。「買い戻す」とはどういうことでしょうか。戻すのですから、本来は自分の手許にあったことを意味することばです。最初から自分の手許にないものを「戻す」ということばは用いません。「自分の手許にあった」とか「自分に属していた」ということを表すことばです。それは「自分のものであった」ということが大前提とされていることばです。イエス・キリストも、そのことを大前提として話された箇所があります。どの箇所でしょうか。ザアカイの箇所です。イエス・キリストは「人の子は失われた者を捜して救うために来たのです」と話されました。「失う」というのは、持っていたものをなくしてしまうことです。ですから、本来は自分の手許にあったのです。その手許にあったものが見当たらなくなったから「失う」という表現をするのです。最初から手許にないものであるなら「失う」と言うことばではなく、「ない」ということばで表現します。イエス・キリストは「失われた者」ということばを用いられたのです。ですから、本来はイエス・キリストの御許にあったのですが、それがイエス・キリストから離れたことを示しているのです。その離れたものをイエス・キリストは捜しに来られたのです。決してイエス・キリストは、最初からなかったものを持つために来られたのではありません。失われた者を捜して戻すために来られたのです。
 ですから、聖書は「全ての人は神の許にいた」ということを語っているのです。神の許にいた人間が、罪によって神の許から離れてしまったのです。ですから、聖書は人を「神の子」と表現している箇所があります。何処でしょうか。何度も読まれている箇所ですし、教会学校での何度も話されている有名な箇所です。何処でしょう!創世記6:2に「神の子らは」と書かれています。この「神の子ら」とは、人のことを表しています。聖書は人を「神の子」と語っているのです。人は神の許にいる存在であり、神の家族の一員であることを表しているのです。ただ、罪によって神から離れてしまっただけであり、神の子であることは何ら変わっていないのです。そのことを示している箇所があります。これも有名な箇所で、教会学校でもよく話される箇所です。何処でしょうか?放蕩息子の箇所です。弟は勝手に自分の家を出て、家族を忘れて放蕩していました。しかし、彼が何処に居ようとも、何をしていようとも家族の一員であることには変わっていません。家族とはそのようなものではないでしょうか。神と人との関係も同じです。私たちが何処に居ようとも、何をしていようとも神の家族の一員であることには変わりはないのです。聖書における「贖う」というのは、そのことを意味することばです。すなわち、あなたは最初から神の子として存在しているのです。

2) 犠牲が伴うもの
 また、「買い戻す」というのは、単に自分が持っていたものを取り戻すことではありません。買う必要があるのです。「買う」とは何でしょうか。それは費用を支払うということです。何らかの犠牲が伴うものです。その犠牲というのは、お金かもしれませんし、行いかもしれません。戻すために何かをすることが前提とされているのです。犠牲を払わずに取り戻すのは買い戻しではありません。すなわち、贖いではありません。ですから、「贖う」とは何らかの犠牲が伴うものなのです。
 聖書は、イエス・キリストを「贖い主であられる」と語っています。イエス・キリストは、私たちの罪が赦されるために犠牲を払われました。どのような犠牲でしょうか。それは十字架に架かって父なる神の審きを受けるという犠牲です。私たちの罪は、何の犠牲もなく赦されたのではありません。イエス・キリストの尊いいのちが犠牲にされているのです。そのイエス・キリストの十字架については、先々週の礼拝でパッションの映画の話しをしました。イエス・キリストは十字架に架かられる前に、ローマ兵から「拷問」と言えるようなひどい仕打ちを受けられました。映画では、ローマ兵が何かに憑りつかれているような形相で、イエス・キリストを鞭で滅多打ちしていました。実は、これはイエス・キリストの公生涯で最後のサタンとの戦いを表してもいます。というのも、ローマ兵がイエス・キリストを鞭打ちしているとき、フードを被った黒い服を着た女性が赤ちゃんを抱えて、ローマ兵たちの中に登場します。その赤ちゃんは、カメラに向かってほほ笑むのです。それはイエス・キリストに向かってなのか、それとも映画を見ている一人ひとりに向かってなのかは分かりません。私は「その赤ちゃんがサタン」と思っています。サタンは、イエス・キリストを十字架に架けさせないことが目的です。ですから、十字架に架かる前にイエス・キリストを死なそうとしていたのです。イエス・キリストが十字架に架かられる前に息を引き取られたらサタンの勝利です。ですから、サタンも必死だったのです。そして、ローマ兵のひどい鞭打ちを見て「勝利した」とサタンは思ったのかもしれません。だから、イエス・キリストはローマ兵からどれ程の仕打ちを受けようとも死ぬことはできなかったのです。生きて十字架に架かろうとされていたのです。まさしく、イエス・キリストとサタンとの公生涯最後の戦いだったのです。それ程までにして、イエス・キリストはあなたの罪が赦されるために犠牲を負ってくださったのです。贖うとは犠牲が伴うものです。

3) 近親者である
 ルツ記には、買い戻しについて書かれています。その買い戻しには権利者がいます。それは近親者であるということです。すなわち、持ち主に一番近い血筋の人が買い戻しの権利を持っているのです。ボアズは、ルツの義母であるナオミの夫エリメレクの土地を買い戻そうとしました。しかし、自分より近い近親者がいたために勝手に買い戻すことができませんでした。そのため、その一番近い近親者に買い戻す意思があるかを確認しました。その人が買い戻すことを断ったがために、ボアズは二番目の近親者でしたから買い戻すことができたのです。これは何を表しているでしょうか。
 神はイエス・キリストを通して、私たちの罪を贖ってくださいました。贖うことができるのは近親者であるということは、神は私たちの近親者であられることを表してもいるのです。神は私たち一人ひとりにとって遠い存在の方ではありません。とても近い存在なる方なのです。何故なら、一人ひとりが神の子だからです。イエス・キリストを信じていない人も神の子なのです。ただ、信じていない人は迷子になっているだけなのです。その迷子になっている人を、イエス・キリストが捜して救うために来られたのです。私たちは「神はいつも共にいてくださる」と信じています。その「共に」とは距離的なものを思い浮かべやすくなります。確かに、神は距離的にも私たちに近い存在であられます。でも、距離的だけでなく関係的にも近い方なのです。最初にも見ましたように、創世記6:2に「神の子らは」と書かれています。何気なく読み過ごしてしまいやすいことばです。ですが、聖書は「全ての人は神の子とされている」と語っているのです。神は関係的にも近い方なのです。

結)
 今日は、イエス・キリストが死から甦られたイースターです。でも、復活よりも贖いについて見ました。贖いが表すものは、全ての人は神の御許にある存在であり、犠牲が伴うものであり、神と近い関係であるというものです。最後に、マルコ10:45読み、このみことばを噛みしめつつ歩まされていきましょう。

マルコ8:34~38「神の証し人として」 25.04.13.

序)
 今日はイエス・キリストがエルサレムの町に入られた「棕櫚の主日」です。今週の金曜日は、そのイエス・キリストが十字架に架かり父なる神の審きを受けられた受難日です。今日から受難週に入ります。特に、イエス・キリストの十字架の意味を深く思い巡らしつつ過ごさせていただきたいと願います。さて今朝の34節のみことばは、聖書の中でも有名なみことばの一つです。ここには、イエス・キリストを信じるとはどういうことかが話されています。今朝は、イエス・キリストを信じるとはどういうことかを共に教えられたいと願っています。

1)弟子について
 イエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストの弟子になることです。では、「弟子になる」とはどういうことでしょうか。その第1は自分を捨てることです。では、「自分を捨てる」とはどういうことでしょうか。「自分の考え方や意見を持たず、ロボットのように神から言われたことに聞き従う」ということでしょうか。もしそうであれば、それはもう人間ではありません。神は人を造られたとき、神のかたちとして造られました。この「神のかたちとして」というのは、神が持っておられる創造力や意志を持つ者として造られたということです。ですから、「自分を捨てる」というのは、自分の考えや意見を持たず、ロボットのように聞き従うということではありません。では、どういうことでしょうか。自分の考えや意見を持っていても良いのですが、それを優先しないことです。すなわち、横に置いておくことです。私たちはイエス・キリストを信じる前までは、自分の考えや思いを優先して歩んでいました。そのため、自分が納得できないものは受け入れられなかったのではないでしょうか。自分が納得できないものであったとしても、それを受け入れることが「自分を捨てる」ということです。これができなければイエス・キリストに聞き従うことはできないのです。それは、自分の思いや考え方を最優先していた歩みから、神のみことばを最優先する歩みです。すなわち、優先順位を変えることが「自分を捨てる」ということです。
 第2は、自分の十字架を負うことです。ここでイエス・キリストは「わたしの十字架を負いなさい」とは話されていません。「自分の十字架を負って」と話されているのです。すなわち、「あなたの十字架を負いなさい」と話されているのです。一人ひとりに自分の十字架を負わされているのです。「私の十字架とは何か」を考えることは大切なことです。「自分の十字架は何か」が分からなければ、イエス・キリストに従い続けることはできないのです。イエス・キリストの十字架は、人の身代わりとなって神の審きを受けることでした。それを目指してこの世の中で歩み続けられました。だから、先週の箇所でも話しましたが、どれほどの拷問を受けようとも十字架に架かられるまでは死なれなかったのです。ですから「自分の十字架」とは、神から与えられた使命ということができます。では、一人ひとりに与えられた十字架とは何でしょうか。総まとめで言えば「キリストの証し人として生きる」ということです。しかし、そのキリストの証し人としての生き方は一人ひとり違います。直接献身者という生き方もありますし、間接献身者としての生き方もあります。直接献身者とは、神から直接の召しを受けた人で牧師・宣教師・伝道師などです。間接献身者とは、神から直接の召しを受けてはいませんが、各々に生かされている地でキリスト者として生きる人のことです。職場や住んでいる地域社会でキリスト者として生きる。すなわち、福音を伝え続ける。これが一人ひとりに与えられている自分の十字架です。
 職場や地域社会でキリストの証し人として生きる。そこには多くの霊的戦いがあります。Ⅱテモテ1:8で、パウロはテモテに「ですから…恥じてはいけません。」と語っています。テモテは自分が遣わされている地で、主を証しすることや主の囚人であることを「恥ずかしい」と思ったことがあるのでしょう。キリストの証し人として生きることによって、人からバカにされたり霊的戦いを強いられることがあります。黙っていた方が楽です。しかしパウロは、8節の後半で「むしろ、神の力によって…ともにしてください。」と、「黙っているのではなく証しするように」と語っているのです。これがテモテに与えられた「自分の十字架」です。そしてイエス・キリストも「あなたの十字架を負いなさい」と私たち一人ひとりに語られているのです。今週の金曜日は、そのイエス・キリストが十字架に架かられた受難日です。先週の礼拝で話しましたように、イエス・キリストは十字架に架かられる前に、とても酷い拷問を受けられました。それでもイエス・キリストは息を引き取ることなく、十字架に架かるために耐えられたのです。何故なら、それがイエス・キリストにとって「自分の十字架を負う」ことだったからです。私たちも自分の十字架を負う者として歩み続けられるように祈っていきましょう。
 第3は、イエス・キリストに従っていくことです。私たちが思い描く「従っていく」というのは、「上からの命令で従う」というトップダウンを思い描きやすいと思います。しかし、ここで語られている「従っていく」というのは、そういうものではありません。これは「着いて行く」と言った方が的確でしょう。例えば、車で数台移動するとき先頭を走る車は、道順を知っている人が走り、後続の車は先頭に走る車に着いて行きます。「何故着いて行くのか」と言いますと、「先頭を走る車を運転する人は道を知っている」と信じているからです。すなわち、信頼しているから着いて行くのです。イエス・キリストが「わたしに従って来なさい」というのもそうです。それは「わたしを信頼しなさい」という意味です。「自分を捨てるというのは、優先順位を変えることである」と先ほど話しました。今まで自分が拠り所としていたものを、イエス・キリストを拠り所としなければイエス・キリストに着いて行くことはできません。そのような歩みができるには、以前にも見ましたが神の慈しみを深く味わうしかありません。今までの自分の歩みを振り返るとき、最善の時に最善の方法をもって神は導いてくださったのではないでしょうか。そのときは不安でいっぱいだったかもしれません。ですが、神は今日まで導いてくださっているのは確かなことです。心からイエス・キリストを信頼し、着いて行く歩みが続けられるように祈っていきたいものです。

2)神の約束
 イエス・キリストは、これらのことを私たち一人ひとりに求められています。それと同時に、私たちに約束もしてくださっています。その約束とは何でしょうか。その第1は、「自分のいのちを救う」ということです。ここで話されています「いのち」とは、厳密に言えば永遠のいのちのことですが、さらに言えば「前向き肯定的な生き方」と言っても良いでしょう。生かされていることに喜びと感謝を見出だし、自分の人生を積極的に生きる生き方です。34節のイエス・キリストの求めを実践できない大きな理由は、先程も触れましたように不安があるからです。その不安を解消したいがために、自分の知恵や経験や物質的なものに頼ろうとしてしまいます。でも、イエス・キリストは「それを失い」と話されています。すなわち、「そのようなもので解消されるものではない」と話されているのです。箴言16:1~3に「     」と書かれています。私たちは、不安が解消されるために様々なことを考え試みようとします。そして、「その行いは純粋なもの」と考えたりもします。しかし、神は人の心の中を量られるのです。
 では、純粋ではないものとは何でしょうか。ローマ12:2に「この世と調子を合わせてはいけません」と書かれています。聖書にはっきりと書かれているものは疑う余地はありませんが、はっきりと書かれていないものもあります。私たちの生活のことでは、はっきりと書かれていないことの方が多いのではないでしょうか。そのような場合どうしたら良いのでしょうか。それには自分の動機をチェックすることです。自分や周りの人を喜ばせようとするものなのか、それとも神を喜ばせようとするものなのかです。今祈り会では「心の中の動機」という小冊子から学んでいます。この小冊子では「全ては心の問題であり、心の中の動機である」と語っています。そのように言われますと、「間違った歩みを正すには心の中の動機をこと」と思ってしまいやすくなります。ですが、この小冊子はそのようには語っていません。「何よりも大切なのは神を知ることである」と語っています。「自分の心を探るよりも、キリストを見つめる時間を費やすこと」と語っています。「キリストを見つめる時間を費やす」とは、神の慈しみを深く味わうことではないでしょうか。すなわち、今までの歩みを振り返り、神が自分に何をしてくださったのかの一つひとつを思い巡らすことではないでしょうか。それらを思い巡らすとき、ローマ8:28に書かれていますように「全てのことがともに働いて益となる」という確かさに気づかされます。そのことに気づかされるとき、目の前の問題に対しても前向きに生きられるように変えられます。これが私たちに対する神の約束です。
 もう一つの約束は、「恥じる」というものです。ともすると、私たちは「神の約束」と聞きますと、「良いこと」とか「感謝なこと」を思い浮かべてしまいやすいのではないでしょうか。ですが、そうでもありません。「イエスの約束」と言うよりも「イエスの宣言」と言った方が的確なのかもしれませんが、宣言も約束の一つです。イエス・キリストがこの世で活動されていた時代は、今の私たちと同じようにイエス・キリストを信じる人が少なかった時代です。「そのような時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、わたしもその人を恥じます」と約束されているのです。イエス・キリストを恥じるとは、自分がキリスト者であることを他人の前で告白しないということです。イエス・キリストは、「そのような人を恥じる」と言われているのです。それは「受け入れない」ということでもあります。マタイ24~25章は、世の終わりのときについてイエス・キリストが話された箇所です。特に25章は、賢い娘たちと愚かな娘たち、タラント、羊と山羊の譬え話を話されたことが書かれています。愚かな娘たちに対しては「私はあなたを知らない」というものですし、タラントでは「外の暗闇に追い出せ」というものですし、羊と山羊では「永遠の刑罰に入る」というものです。
 何故、イエス・キリストはこのようなことを話されたのでしょうか。ヘブル2:11~13に「     」と書かれています。13節に、イエス・キリストは弱い私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされませんでした。私たちを恥とされるのではなく、むしろいつも共にいてくださっています。何故でしょうか。それほどまで私たち一人ひとりを愛してくださっているからです。そのキリストの愛を深く覚えたいものです。

結)
 私たち一人ひとりは、それ程までイエス・キリストに愛されている存在です。そのイエス・キリストが、「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい」と求めておられるのです。そのイエス・キリストの求めに、あなたはどのように答えられるでしょうか。キリストの愛のボールは、今私たち一人ひとりに投げられたのです。そのキリストの愛のボールをキリストに向かって投げ返すのか、それとも他に向かって投げるのかは、私たち一人ひとりの決断と行動です。キリストに向かって投げ返すとは、イエス・キリストを信じることであり、それは神の証し人として生きるということです。お祈りします。

マルコ8:31~33「試練と誘惑の中で」 25.04.06.

序)
 先週から新年度がスタートしました。昨年度の歩みを神が導いてくださったことに感謝すると同時に、今年度の歩みを神はどのように導いてくださるのかを期待しつつ歩まされたいと願っています。どのようなことを経験するかは分かりませんが、確かなことは平坦な道ではないということです。しかし、様々なことを経験させられつつ、その一つひとつを神が最善をもって導いてくださるということも確かなことです。この両方を見据えつつ歩むことは、私たちの歩みにおいて大切なものです。今朝の箇所の冒頭には「それから」ということばが書かれています。何度も話していますが、聖書を読むとき接続詞を注意して読むことの大切さを話しています。何故なら、それが聖書を理解する手がかりの一つだからです。この「それから」ということばの「それ」は何を指しているでしょうか。それは前回の「あなたはキリストです」というペテロの信仰告白です。その信仰告白をしたペテロが、今度はイエス・キリストから叱責を受けることになったのです。今朝は、信仰告白の後の歩みにおいて大切なことは何かを共に教えられたいと願っています。

1)試練
 信仰告白の後の歩みにおいて大切な1つは、これからの歩みにおいても試練があるのを覚えることです。聖書は「イエス・キリストを信じたら、その人の歩みは何の問題もなく平坦な道が続く」とは語っていません。むしろ「様々な信仰の戦いがある」と語っています。私たちの生活もそうではないでしょうか。イエス・キリストを信じたがために、経験しなくてもよい試練を経験させられているのではないでしょうか。ですが、そのような試練は私たちキリスト者だけが受けているものではありません。イエス・キリストご自身も多くの試練を受けられたのです。その一つは公生涯を歩まれた初めに受けたサタンの試みです。それだけでなく、ユダヤ教指導者らからも多くの試練を受けられました。そして、イエス・キリストにとって最大の試練は十字架による死でした。
 今朝の箇所の31節でイエス・キリストは、「人の子は…なければならない」と弟子たちに話されました。この「なければならない」というのは甦りだけでなく、「多くの苦しみ」「捨てられ」「殺され」ということばも指しています。イエス・キリストの前に備えられていたものは、苦しみであり、殺害であり、復活です。2週間後は、そのイエス・キリストが死から甦られたイースターです。これは私個人の見解ですが、「イースターはクリスマス以上に祝われるもの」と思っています。何故なら、イエス・キリストが誕生された目的が成就されたものだからです。イエス・キリストがお生まれになられたのは、イエス・キリストを信じる者が本当の意味で生きる者となるためです。それが成就されたのがイースターです。ところが、日本ではそれほど祝われていないのが私にとっては残念なことです。
 この「甦り」というのは喜ばしいものでありすばらしいことです。ですが、甦るというのは「死ななければならない」ということでもあります。死ななければ甦りはないのです。「当たり前」と言えば当たり前です。イエス・キリストがその父なる神のすばらしさを経験するには、むち打ちという苦しみが十字架刑という処刑を経験しなければならなかったのです。これなしにイエス・キリストの復活はないのです。そしてそれが父なる神がイエス・キリストに備えられた道だったのです。すなわち、「試練を通して神のすばらしさを知る」ということが、イエス・キリストに備えられた道だったのです。
 それは、イエス・キリストを信じる私たちにおいても同じです。私たちの生活は、目の前が光り輝き何の問題も生じないというものではありません。受けなくてもよい苦しみを経験します。神を信じていなかったら信仰の戦いなど経験することはなかったのです。この世の流れに任せていけば良いのです。むしろ、そちらの方が楽なのです。皆さんの中にも職場や家庭でそのような経験があることと思います。私の実家は天理教でしたが、典型的な日本人の宗教観です。献身する前までは実家に帰省しますと、仏壇やお稲荷さんなどを拝む拝まないで口論したことが何度もありました。私の心の中には、「こんなんだったら帰省しなかった方が良かった」と思うことが何度もありました。また、家族が変なことを言っても何も起こりませんが、私が変なことを言ったら「それがキリスト教の教えか」と言って責められたこともありました。そのような戦いは皆さんも経験のあることと思います。試練というのは、決して不信仰だから生じるのではありません。その試練を通して私たちに与えられている信仰が成長するために備えられているものです。イエス・キリストご自身も試練が備えられていたように、私たち一人ひとりにも試練は備えられています。でもそれは、私たちの信仰の成長のためであることを覚えたいものです。

2)誘惑
 その試練に必ずついてくるものがあります。それは誘惑です。イエス・キリストは、弟子たちにこれからご自分が経験されることを話されました。すると、ペテロがイエス・キリストを脇に連れて行っていさめ始めました。並行箇所のマタイには「そんなことがあなたに起こるはずがありません」と、ペテロが語ったことが書かれています。イエス・キリストご自身にとって、十字架による死は受けたくないものでした。そのように聞かれると「えっ」と思われる方もおられるかもしれません。何故なら、「イエス・キリストは十字架に架かって死なれるためにこの世に来られたのではないのか」と思われているからです。確かに、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かるために誕生されました。ですが、イエス・キリストにとって十字架の意味はそう簡単なものではないのです。十字架の死後に復活が備えられていることもイエス・キリストは御存知です。それでも、イエス・キリストにとっては十字架刑を避けたかったのです。十字架に架かって父なる神の審きを受けるというのは、一瞬ではありますが父なる神との断絶を意味するのです。今までイエス・キリストは、一度も父なる神と断絶したことがないのです。いつも共にいていつも交わりを持たれていたのです。ですが、十字架刑によってその関係が断たれてしまうのです。イエス・キリストにとって、これほど大きな問題はないのです。だからゲッセマネの園で「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と祈られたのです。このことの重さが分かっていないと、イエス・キリストの十字架の重さは分かりません。「イエス・キリストは私の罪のために身代わりとなって十字架に架かって、父なる神の審きを受けてくださったのだ」と簡単に終わらせてしまいます。イエス・キリストにとって一番怖かったのは、死ぬことではなく一瞬ではありますが父なる神との断絶だったのです。このペテロのことばは、そのようなイエス・キリストにとってとても大きな誘惑だったのです。
 私たちも信仰の試練を経験しますが、そこに必ずついてくるものは誘惑です。以前、ヤコブ書で見ましたが、「試練」ということばと「誘惑」ということばは同じことばです。その人の信仰を神に近づけるものが試練であり、その人の信仰を神から離れさせるものが誘惑です。これが試練と誘惑の違いです。ですから、出来事は同じなのです。同じ出来事なのですが、その出来事を通してその人の信仰を神に近づけるものであるなら試練となりますが、神から離れさせるものであるなら誘惑になるのです。試練は信じる者の信仰を成長させるために神が備えられたものです。しかしながら、そこには信仰の成長をやめさせようとするサタンの働きがあるのも事実です。私たちは、この世に生かされています。この世には、私たちを神から離れさせようとするものが多くあります。サタンは私たちが神に近づくのをやめさせるために、様々なものをもって誘惑してきます。ですから、今朝の礼拝でも祈り唱えましたように、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」と祈り続けたいものです。

3)優先順位の確立
 イエス・キリストは、ペテロのことばを通して試練を受けられました。すると、そのペテロに対して「下がれサタン…人のことを思っている」と言われました。このイエス・キリストのことばの中に、誘惑に打ち勝つ秘訣が書かれています。誘惑に負けてしまう大きな原因は、人のことを思っているからです。この「人のこと」というのは、「自分のこと」も含んでいます。誘惑に打ち勝つ秘訣は「神を思う」ということです。それは優先順位でもあります。人のことや自分のことをまず思ってしまいますと、その人や自分の益になる方を選んでしまいます。それは信仰を神から離れさせるものでもあります。このイエス・キリストのことばはペテロに対して語られているように聞こえますが、ペテロだけでなく弟子たちにも聞こえるように語られているのです。そして、それだけでなくマルコの福音書を読んでいる一人ひとりにも語られていることを聖書は示しているのです。マタイ6:33に書かれていますように、まず神の国と神の義を求めることです。これが神を信じる者にとって最優先されるものです。
 ところが私たちはどうでしょうか。ついつい人や自分にとって良い方を選んでしまいやすいのではないでしょうか。「人や自分にとって良い方を選ぶことが悪い」と言っているのではありません。その選びが自分を神に近づける選びでしょうか。それとも自分を神から遠のいてしまう選びでしょうか。そのことを深く考えて選ぶことが私たちに求められているのです。そのように歩むために、聖書はどのように語っているでしょうか。ミカ6:8に「     」と書かれています。神が私たちに求めておられるのは、「へりくだって、あなたの神とともに歩むこと」です。「へりくだる」とはどういうことでしょうか。以前にも話しましたが、それは自分の弱さを告白することではありません。「私はできない者です」で終わってはいけないのです。「どうぞ助けてください」とか「成長させてください」ということばを加えることが、聖書の語る「へりくだり」です。
 そのような祈りができるにはどうすれば良いでしょうか。結局は、私に対して神は何をしてくださったかを思い巡らすしかありません。今までの一つひとつの歩みに対して、神はあなたにどのようにして導いてくださったでしょうか。その一つひとつを思い巡らすしかありません。この前も話しましたが、「当たり前」と思えることも実は当たり前ではありません。これも神の導きによるものであり神の恵みです。その一つひとつを思い巡らす。その思い巡らしを通して気づかされることは、「神がともにおられる」という事実ではないでしょうか。その事実に目を留めるとき、神は私たち一人ひとりに生きる力を増し加えてくださいます。
 20年程前に、「パッション」という映画が上映されました。見られた方もおられるかもしれませんが、この映画はイエス・キリストが十字架刑に架かられる12時間前からに焦点が合わされている映画です。私自身あの映画を通して「なぜイエス・キリストが十字架に架かられてすぐに死なれたのか」ということが分かりました。聖書のみことばが成就するためなのは確かなことですが、あのひどいむち打ちの刑があったから、イエス・キリストは十字架に架けられてすぐに息を引き取られたように私は受け止めました。どれだけ打たれようが、必死に生きようとされるイエス・キリストの姿が描かれています。いつ息を引き取られても不思議ではない状況の中で、イエス・キリストは「ここで死ぬことはできない」と思われている姿が強く感じ取れました。その時に息を引き取られた方が楽なのです。それなのに必死に生きようとされるイエス・キリスト。「何故そこまで」と思わされるシーンです。なぜ息を引き取ることを選ばれず生きようとされたのか。十字架に架かられる前に息を引き取られたら、イエス・キリストがこの世に来られた意味がなくなるからです。「何故あそこまで耐えられるのか」と思いつつ見ながら、「それは私の罪のためである」ことを強く思わされました。それほどまでに、私たちは神の愛を受けているのです。人のことを思うよりも神のことを思う最善の方法は、イエス・キリストの十字架を思い巡らすことです。「どれほどひどい拷問を受けようとも、十字架に架かるまでは決して死ぬわけにはいかない」というイエス・キリストの思い。そのイエス・キリストの思いを巡らすことが、神とともに歩む方を最優先する道です。来週の金曜日は、そのイエス・キリストが十字架に架かられた受難日です。イエス・キリストの十字架を思い巡らしつつ歩まされたいと願います。

結)
 私たちはイエス・キリストを信じ神に従う信仰を告白しました。しかしながら、必ずしも「神を最優先している」とは言い難いものです。私たちの歩みは試練と誘惑の連続です。そのような中で神を最優先するには、イエス・キリストの十字架はもちろんのこと、神が私にしてくださった一つひとつを思い巡らすことです。御霊の助けを頂きつつ、何よりも神を最優先する歩みができるように祈っていきましょう。