メッセージ

Ⅰコリント13:1~3「愛を基盤として生きる」  18.01.14.

序)
 聖書は旧約聖書と新約聖書で構成されています。その2つを合わせますと、新しい新改訳聖書2017は2154ページになります。その中で一番有名な箇所はヨハネ3:16です。この箇所は「聖書の富士山」とも言われています。何故なら、聖書の要約が書かれているからです。ヨハネ3:16以外にも有名なみことばがありますが、今朝のⅠコリント13章も有名な箇所の一つです。この13章は「愛の賛歌」とか「愛の章」とも言われています。結婚式の時にも、このみことばが用いられることが多々あります。
 聖書を正しく理解する基本の一つとして、文脈に注意することが大切です。例えば、マタイ7:7~8に「     」と書かれています。この箇所は隣人愛が強められるように祈り求めることが勧められています。ある方は「ここは何でも祈り求め続けるなら与えられるという約束が話されているのではないか」と思われるかも知れません。でも、そうではありません。もし、それを言うならばルカ11:9~10の箇所です。ある方は「同じではないか」と思われるかもしれません。しかし、よく読みますと文脈が違うのです。みことばは自分の都合の良いように理解しようとすれば、どれだけでも用いることができます。ですから、文脈を注意しながら読むということは、みことばを正しく理解するためにも大切なことです。
 このことは今朝の箇所の13章においても同じです。13章を理解するには、13章だけを見るのではなく、12章や14章を見ながら理解することが大切です。この13章は「愛の章」と言われていますが、急にパウロが愛について語り出したのではありません。以前から愛について語ってきたのです。そして、12:31で「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と勧め13章につながっているのです。神から与えられた賜物は個人的に用いるものではなく、みなの益となるために与えられたものです。そのためには愛が必要であるとパウロは語っているのです。今朝は、その愛とは何かという愛の特徴を見る前に、愛がなければどうなのかということを共に教えられたいと願っています。

1)愛がないならうるさいだけ
 まずは、愛がないならうるさいだけです。コリント教会では異言が語られていました。この異言というのは、自分も他人も理解できないことばで声を出して語ったり祈ったりするものです。それは神を信じる全ての人にできるというものではありません。ですから、コリント教会では最高の賜物とされていました。そのため、教会の中に混乱が生じてしまいました。どのような混乱かと言いますと、異言を語ることのできる人が異言を語ることのできない人を見下したり、異言を語ることのできない人が劣等感を覚えたりするというものです。賜物で劣等感を覚える人は、生き生きとした教会生活を過ごせなくなってしまいます。そうなりますと、教会は健全に機能できなくなってしまいます。
 神はそのようなために賜物を与えられたのではありません。互いにいたわり合い、助け合って教会を建て上げるために賜物を与えてくださったのです。なのに、異言の賜物が与えられていることを自慢したり、人を見下したりすることは、教会の秩序を乱してしまい混乱を生じさせてしまうだけです。さらには、1節の最後に書かれていますように、うるさいシンバルと同じです。どらとはボクシングやプロレスなどの格闘技で鳴らされるゴングのことです。ただゴングやシンバルを晴らしているなら、それはやかましくうるさいだけで、人に迷惑をかけてしまいます。異言もそうです。その異言を通訳する人がいないなら、聞く人は話していることが分かりませんから迷惑そのものです。これは何も「異言を語ることが悪い」とか「異言で祈ってはいけない」と言っているのではありません。ただ通訳をする人がいないなら、一人になったときにするようにということです。他人への配慮をしないで行うなら、それは神の栄光を現すものではなく、むしろ神の御名を汚してしまうものとなってしまいます。
 このことは何を意味しているでしょうか。それは、自分の賜物を自負する人に対する注意です。コリント人への手紙は異言に言及されていますが、これは異言に限ったことではありません。自分の賜物を自負する人に対して語られてもいるのです。他人に見せるための賜物や奉仕は、他人に不快感を与えるだけで、神の栄光を現すのではなく神の御名を汚してしまう者であるというのです。何故なら、それらは自己満足の愛に過ぎないからです。私たちはどうでしょうか。「私は一度もそのようなことを思ったことはないから大丈夫」と思うなら、それが一番危険です。何故なら、私たちもそのようになりやすいからです。他人への思いやりや配慮を欠かしたものは、ただ他人に迷惑をかけてしまうだけのものです。

2)愛がないなら無に等しい
 次に、愛がないなら無に等しい。2節には特別な賜物を持っている人に対して書かれています。まず預言というのは、将来何が起きるかを語る予言ではありません。2節に書かれています預言は「ことばを預かる」と書きます。これは、神のことばを預かって話すことを表します。すなわち、神のみことばを聞いて他人に話す賜物のことです。また、奥義や知識というのは、神がまだ明らかにされていない御旨を知ることです。すなわち、将来のことを見通せる賜物のことです。そして、完全な信仰とは、どのような困難に出会っても屈することのない信仰のことです。2節で語られていますのは、そのような預言や奥義や知識や完全な信仰を備えている人のことです。
 私たちは、2節に書かれています賜物を備えている人を見たらどう思うでしょうか。私なんかは「理想的なキリスト者」のように見えて、尊敬のまなざしで見てしまうのではないかと思います。ですが、聖書は「愛がないなら無に等しい」と語っているのです。ルカ9:51~56に「     」と書かれています。その前の9:1には「     」と書かれています。ですから、ヤコブとヨハネも特別な賜物が与えられていたと考えられます。54節での彼らのことばから、天から火を下すことができたのかもしれません。ですが、彼らはイエス・キリストに叱られたのです。何故でしょうか。それは、彼らに愛がなかったからです。マタイ7:21~23に「     」と書かれています。ここには、預言や悪霊の追い出しや奇蹟を行っていた人を「不法を行う者たち」と言われています。彼らは神の御名によって行ってきたのです。なのに、何故不法者なのでしょうか。その答えがマタイ25:33~46に書かれています。長い箇所ですので読みませんが、40節と45節に「最も小さい者」と書かれています。最も小さい者に配慮して行うことが愛の行為です。どれだけ特別な賜物を用いたとしても、最も小さな者にしないなら、それは愛の行為とは言えないのです。
 では、最も小さな者とはどのような人のことでしょうか。小さな子どものことでしょうか。それとも、社会的身分の低い人のことでしょうか。そうとも考えられます。私は、「普段あまり意識しない人のことではないか」と捉えています。普段仕事や家の外のことで忙しく、家族を顧みないなら家族が最も小さい者になるでしょう。または、自分が関心のある人には何かと接しますが、あまり関心のない人には接することが少なくなります。すると、その接する機会の少ない人たちが、その人にとって最も小さな者になるでしょう。すなわち、普段あまり意識しない人が最も小さな者ではないでしょうか。
 どれほどすばらしい賜物が与えられていたとしても、その人にとって最も小さな人に配慮できないなら、その与えられている賜物は無に等しいのです。何故なら、そのような愛は先程も話しましたように自己満足の愛だからです。本当の愛は人を育てます。しかし、自己満足の愛は決して人を育てることができません。むしろ、人の成長を止めてしまいます。そのようなために、神は私たちに愛を与えてくださったのではありません。自分を通して人が育ち成長するために与えてくださったのです。

3)愛がないなら役に立たない
 最後に、愛のないものは何の役にも立ちません。3節に書か得ていますことは実践的なことです。生活の中で犠牲を払って親切にする行為です。この3節の行為は愛のある行為のように思えます。しかし、聖書は「そうではない場合もある」と語っています。犠牲を払ってまで親切にする行為に愛のないものがあるのでしょうか。聖書は「ある」と語っているのです。確かに、犠牲を払ってまで親切にすることはすばらしいことです。ですが、それが逆の形で返ってきた場合どうでしょうか。困っているときに助けたり気づかったりしたのに、ひどい仕打ちをされた場合どうでしょうか。私たちは「○○してあげたのに」とか「○○してやったのに」と、自分がその人に親切にしたことを思うのではないでしょうか。
 また、3節には「私のからだを…誇ることになっても」と書かれています。下の欄外を見ますと、異本「私のからだを…引き渡しても」と書かれています。今までの新改訳聖書では、こちらが採用されていました。ところが、有力な写本は今回訳されています方が使われていますので、こちらを採用したと考えらえます。どちらにしろ、殉教のことを語っていると考えられます。持っている物を全て分け与える。自分の身体を引き渡す。どちらも犠牲を負うものです。すなわち、どれだけ犠牲を払おうとも愛がないなら役に立たないというのです。何故なら、愛のない犠牲は打算から出ているからです。打算とは見返りを求めます。「犠牲を払うことによって良い評価を受けたい」と願うなら、それは見返りを求めるものとなってしまいます。それは聖書が語っている愛ではありません。
 では、聖書が語っている愛とはどのようなものでしょうか。それは見返りを求めない愛です。見返りを求めない愛とは自己犠牲の愛です。自己犠牲の愛とは赦す愛です。赦すとは、受け入れられないものを受け入れることです。簡単に「いいよ!」と言って受け入れられるものは聖書の語る赦しではありません。本来受け入れられないものを受け入れる愛とはどのようなものでしょうか。それは神の愛です。神は罪を嫌われます。何度も話していますが、聖書の語る罪とは法律を破ることではありません。間違った行為です。自分を産み愛し育ててくれた人は親です。でも、その人を親と認めないで生活するなら間違っています。どれだけ親が裁判所に訴えても、子どもが法律に反した行為をしていないなら罪には定められません。でも、自分の産み愛し育ててくれた人を親と認めず生活するのは間違った行為です。これが聖書の語る罪です。神はその罪を嫌われます。そして、その罪を審かれます。全ての人は、その罪を持っています。ですから、神に審かれる存在です。しかし、神はその罪を赦す方法をとってくださいました。それは、罪のない人が身代わりとなって神の審きを受けることによってです。ところが、罪のない人間はいませんから、神が人として誕生して身代わりに神の審きを受けるしかありません。それがイエス・キリストの十字架です。自分を犠牲にしてまでも受け入れる。これが自己犠牲の愛です。
 自己犠牲の愛は、自分がそれを選んで行動しなければできるものではありません。「良きサマリヤ人」と言われるイエス・キリストが話されたサマリヤ人がそうでした。彼は自分たちサマリヤ人を見下すユダヤ人が強盗に襲われて大けがをしているのを見て、かわいそうに思い自分の方から近づいて襲われたユダヤ人を介抱しました。自己犠牲の愛とは、相手の出方次第によって変わるものではありません。相手の出方は関係なく、自分の方から見返りを求めずに愛する愛です。その愛がないなら、どれほど良い行いをしても何の役にも立つことはありません。

結)
 本当の愛は、自己満足でもなければ打算的なものでもありません。見返りを求めない自己犠牲の愛です。どのようなことができたとしても、その愛がないなら何にもなりません。私たちは、すでにその愛を受けた経験をしています。人は経験して初めて実践することができます。私たちは本当の愛を基盤として生きることのできる者とされているのです。これからなれるのではなく、もうすでにされているのです。後は、実践できるように神に祈るだけです。本当の愛を基盤として生きられるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント12:28~31「よりすぐれた賜物」  17.01.07.

序)
 新年明けましておめでとうございます。2018年がスタートして1週間が経ちました。今年の目指しているものがありますでしょうか。ある人にとっては目標であり、また別の人にとっては願いかもしれません。12月はアドベントということで、クリスマスの箇所からメッセージをしてきました。そのため、約1ヶ月ぶりにコリント人への手紙となります。パウロが願っていたものは「キリストのようになる」ということです。これは神を信じる私たちの共通の願いかもしれません。別の表現をすれば「霊的成長」ということができるかもしれません。コリント教会の人たちも霊的成長を願っていました。その霊的成長のために賜物を求めていました。そして、霊的成長の証しとして「異言を語ること」と捉えていたのです。それに対して、パウロは31節で「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と勧めています。では、よりすぐれた賜物とは何でしょうか。今朝は、そのよりすぐれた賜物について共に教えられたいと願っています。

1)賜物の分類
 28節には様々な賜物が記されています。ここに挙げられています賜物を2つのグループに分けることができます。1つは最初の使徒・預言者・教師の3つです。これらは神のことばを語る賜物が与えられている人たちです。そして、もう1つは力あるわざ・癒しの賜物・援助・管理・異言です。これらは神のことば以外の賜物が与えられている人たちです。その中には、超自然的な現象を現すことのできる人たちもいます。奇蹟や癒しや異言がそうです。テレビなどでは超自然的現象を行う人が出演されたりもします。聖書は、超自然的現象を否定してはいません。これらも賜物の一つと言えると思います。
 私たちは見えるものに関心が奪われてしまいやすいものです。ですから、超自然的なものに関心が奪われてしまいます。そして、ある人たちは「超自然的なものを見たら信じる」と言われたりもします。しかし、多くの人は超自然的な現象を見ても信じないのです。ヨハネの福音書9章がそうです。この箇所には、イエス・キリストが生まれながらの盲人を癒されたことが書かれています。そして、ユダヤ教指導者たちは見ても信じなかったことが書かれています。この箇所以外にも書かれていますが、これは「人は奇蹟を見ても自分が満足しなければ信じない存在である」ということを示しています。結局は、超自然的な現象ではなく自分自身なのです。全てを自分で判断しているのです。中心は自分自身なのです。しかし、そのような自分を変えるものがあります。それは神のことばです。
 神のことばは、自分が聞きたくなくても心を刺し通します。何故なら、私たちには罪というものがあるからです。へブル4:12に「     」と書かれています。神のことばは生きていて力があるのです。私たちの全身に働くことができるのです。神のことばは人を生かす力があるのです。北朝鮮拉致問題で取り上げられている横田めぐみさんのお父さん滋さんが、昨年の11月に洗礼を受けられました。滋さんは、めぐみさんがいなくなってから「神も仏もあるものか」と言い、キリスト教の『キ』の字も言うものなら大声で怒られたそうです。その滋さんが「神様を受け入れますか」との問いに「はい」と答えられたそうです。妻の早紀江さんは「何が起こっているのか分からない感じで、こんなことがあるんだ、不思議なことが一つひとつ起こっているんだな」とクリスチャン新聞に記載されていました。神のことばは、それほど力のあるものです。
 もう1つの超自然的現象ですが、先程も話しましたように聖書は超自然的現象を否定してはいません。現代のキリスト教会の中には、癒しや異言を強調するグループがあります。それらは極端なものであり私たちは注意する必要があります。しかし、否定するのも極端な立場です。何故なら、聖書は超自然的現象を否定していないからです。ただ、神のことばはなければならないものですが、超自然的現象はなければならないものではありません。ただ、今朝の箇所で挙げられている超自然的現象も神の賜物の一つでしょう。私たちは、そのことをきちんと分別する必要があるのではないでしょうか。

2)賜物の優劣
 聖書は賜物の優劣をつけてはいません。ただ、パウロはコリント教会を意識してこのことを書いているのです。コリント教会が抱えていました問題の一つは、超自然的な現象を起こすことのできる賜物が何よりも優れていると捉えていたことでした。パウロは、そのような捉え方が間違いであることを気づかせるために、このようなことを書いているのです。神が与えてくださいました賜物に優劣などはないのです。
 ある方が私に「牧師という仕事は神様に直接奉仕できる仕事ですから一番良いですね」と言われました。その真意は分かりません。私を励ますためにそのように言われたのか、それとも本当にそのように思われているから言われたのかは分かりません。ですが、本当にそのように思われているのなら間違いです。確かに、教会の中で一番目立つのは牧師です。ですが、教会というのは牧師だけで成り立っているのではありません。その教会に集われています一人ひとりによって成り立っているのです。
 例えば、組織された会社もそうです。組織された会社は社長だけで成り立っているのではありません。その会社で働く従業員によって成り立っています。私は献身する前は医療機械の会社で営業マンをしていました。その会社で一番目立つのは営業マンです。営業マンが売り上げを上げることによって、その会社の業績は上がります。ですから、営業マンが一番目立ちます。でも、その会社は営業マンだけで成り立っているのではありません。会社の中で勤務する事務員もいれば、各々の部署で各々の役割が果たされているから営業マンは働くことができるのです。確かに営業マンは目立ちますが、その背後には目立つことのない方々の支えがあるからです。
 教会も同じです。教会には様々な人が集います。目立つ賜物が与えられている人もいますし、目立たない賜物が与えられている人もいます。性格的に目立つ人もいれば、目立たない人もいます。それら一人ひとりの働きによって教会は立ち続けることができるのです。しかし、コリント教会の人々はそのように捉えてはいませんでした。「目立つ賜物や働きがすばらしい」と捉えていたのです。ですが、それは他人との比較によってのものです。他人と比較して、自分の優劣を評価するのは間違いです。ともすると、私たちもそのような間違いを犯してしまいやすくなります。しかし、11節に「御霊は、みこころのままに」と書かれていますように、神ご自身が計画をもって熟慮されて賜物を与えてくださったのです。ですから、その神が与えてくださった賜物に優劣をつけることは間違いです。
 どのような賜物であれ、それは神がその人に与えてくださったものです。それは神が必要とされているから与えられているのです。ですから、目立つとか目立たないとかは関係ありません。私たちにとって大切なのは、その与えられた賜物を用いることです。また、どのような人であれ、その人は神によって教会に導かれているのです。そこには神の何らかの目的があるからです。ですから、どのような人であるかは関係ありません。どの人であれ教会にとって大切な存在なのです。ですから、賜物や人に優劣をつけるのは間違いです。どのような人であれ、神にとっては必要な存在であり必要な賜物なのです。一人ひとりが神に必要とされているのです。

3) よりすぐれた賜物
 賜物に優劣はありません。しかし、コリント教会の人々は目立つ賜物が優れていると捉え、そのような賜物が与えられることを熱心に求めていました。そのようなコリント教会の人々に対して、パウロは31節の前半で「あなたがたは…求めなさい。」と勧めています。賜物に優劣はありません。なのに、パウロは「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と勧めているのです。何か矛盾しているようにも思えます。ですが、この「よりすぐれた賜物」とは、優劣という意味での賜物のことではありません。「一番大切なもの」と言いましょうか必要な賜物のことです。
 何においても基礎というのは大切です。勉強にしろ、スポーツにしろ、仕事にしろ基礎をしっかりと学ばなければ応用を利かすことはできません。ですから、基礎的なことをしっかりと身に着けさせます。家を建てるにしてもそうです。基礎工事をしっかりとしておかなければ、何か災害が生じたとき大変なことになってしまいます。全てのものは基礎の上に技術的なものが置かれています。基礎がしっかりとされていなければ、応用的なことは多少は効くかもしれませんが、すぐにボロが出てしまいます。それは賜物についても同じです。賜物にも土台があります。その土台の上に、各々の賜物が置かれており用いられるのです。その土台となるものが、今朝の箇所に書かれています「よりすぐれた賜物」なのです。ですから、優劣的なことではありません。私たち一人ひとりに与えられている賜物の土台のことなのです。その土台を熱心に求めることが勧められているのです。では、そのよりすぐれた賜物・土台とは何でしょうか。
 そのことが13章に書かれています。それは愛です。愛の上に賜物が置かれていないと何の意味もないのです。その人がどれだけ用いられていようとも、その働きが愛の上に立てられていないなら何の意味もないのです。そして、その愛とは神の愛です。では、その神の愛とはどのようなものでしょうか。「神の愛」と聞きますと、私たちは「無条件の愛」を思い浮かべるのではないでしょうか。確かに、神の愛は無条件の愛です。では、その無条件の愛とはどのようなものでしょうか。何でもかんでも条件なしに愛することでしょうか。聖書を読んでいきますと、そうではないことに気づかされます。確かに、神は全ての人を無条件に愛してくださっています。ですが、そこには一つの方向性と言いましょうか目的があります。それは、愛を通して神を知るということです。そのように考えますと、無条件の愛というのは、何でもかんでも条件なしで愛するものではないということです。ある目的のために条件なしで愛することが、聖書が示している無条件の愛だということです。その愛が全てのものの土台となるのです。
 この12章では、御霊の賜物について記されています。その御霊の賜物は、一つになってキリストの身体である教会を建て上げるために、一人ひとりに与えられています。ですから、そこには優劣などありません。ただ、キリストの身体である教会を建て上げるという目的を達成するために、無条件の愛である神の愛を土台として、各々に与えられている賜物を用いていくのです。その愛も神から与えられたすばらしい賜物であり、その賜物こそがよりすぐれた賜物でもあります。12:3に書かれています「イエスは主です」という告白は、そのことをも示しています。ですから、神の愛と「イエスは主です」という告白は意味合い的には同じとも言えるでしょう。

結)
 何かができるという特別な賜物において優劣などはありません。家を建てるとき、柱は大切なものですが柱だけで家はできません。横木も必要ですし梁も必要です。壁や天井も大切ですし、火打ち梁も大切です。火打ち梁は天井に隠れて見えません。ですが、それがないと地震が生じたとき家は倒れてしまいます。どれも大切なものですが、絶対に必要なものは土台です。私たちの信仰の土台となるものは神の愛です。その神の愛は、私たちが健全に生きられるためだけでなく、神を知らない人が神を知るようになるためでもあります。また、教会を建て上げていくためでもあります。神の愛が私たちの生活の土台となるように祈っていきましょう

申命記26:1~11「満ち溢れる神の恵み」  17.12.31.

序)
 今日は大晦日で今年最後の日です。今年は主の日で始まり主の日で終わります。今年は新たに始めた活動が幾つかありました。絵本の世界とマミークラブと感謝祭です。各々の集会に未信者の方々の出席があり感謝です。また、10月からは英語教室がスタートし、その中から幾人かの子どもたちが、特別子ども集会に参加されました。そのことを思いますと、神が働いて導いてくださっていることを思わされます。続けて、神と個人的な出会いをされ、イエス・キリストを求め信じる思いが起こされるように祈っていきたいものです。今日は、その神の恵みについて共に教えられ、明日から始まります新しい年も神の恵みが注がれていることを覚える1年とされたいと願っています。

 今朝の箇所は、イスラエルの民が約束の地であるカナンに入って、住むようになってからのことが書かれています。ですから、今はまだカナンの地に入ってはいません。その内容は何かと言いますと、イスラエルの民がカナンの地から得た産物についてです。彼らは何をしなければならないかと言いますと、2節に「     」と書かれています。約束の地であるカナンで収穫した初物の一部を神に献げることが命じられています。カナンの地に入るまでのイスラエルの民は、荒野で生活しており食物は天からのマナだけでした。マナというのは、人には理解できない神のみわざの一つです。イスラエルの民は、その神のみわざを経験していました。彼らがマナで養われている時は、神を否定しようとも否定できない事実として体験しているのです。ところが、カナンの地での生活は、マナを食して生活するのではありません。自分たちの手で作物を作り、その作物を食べて生活するのです。荒野での生活は、一定の場所に住む生活ではありませんでした。場所を転々としなければなりませんでした。そのため、農作業をして作物を得ることなどはできませんでした。そのために、神はマナをイスラエルの民に与えられていたのです。イスラエルの民は、マナが与えられなければ荒野の中で生きていくことはできませんでした。ですから、ある面では荒野での生活は苦しい生活ではありましたが、神の恵みによって支えられていることを実感できた生活でもありました。ところが、カナンの地ではそうではありません。カナンの地での生活は、自分たちで農作業をして作物を得、その作物によって生活していくのです。そうなりますと、自分たちの働きによって生活できるという錯覚に陥る危険性があります。カナンの地での生活は神の恵みによるものなのですが、同時にイスラエルの民にとって大きな罠ともなり得るのです。ですから、神はここでイスラエルの民に対して、カナンの地での生活について定められたのです。
 イスラエルの民が住み生活しようとしているカナンの地の周囲の人々は、神であられる主を信じていない人々です。そして、イスラエルの民と同じように自分たちの手で農作業をして食物を得て生活しています。見た目では、イスラエルの民と何ら変わることはありません。そして、周囲の国々の人々は「自分たちの手で生きている」と考えている人々です。そのような人々と接しますと、イスラエルの民もそのような錯覚に囚われてしまう危険性があります。ですから、神はイスラエルの民に産物の初物を神に献げることを定められたのです。産物の初物は、産物全体を表しています。産物の初物を献げるとは、産物の全ては神によって与えられたという感謝のしるしでもあるのです。しかも、本人が自分の手で神の前に持って行き、唱えて礼拝することも定められています。この定めは、現代の私たちに何を教えているでしょうか。
 1つは、私たちの生活は神によって支えられていることを教えられます。社会では、働く収入で生活している人が殆どです。それは神を信じる人であれ、信じていない人であれ同じです。神を信じていない人は、「自分の生活は自分の働きで支えている」と思われています。そのような捉え方をされている方が圧倒的に多いです。神を信じる私たちは、そのような社会の中で生かされています。本当は神の恵みによって支えられているのに、そのことを忘れてしまって自分の力で生活している錯覚に陥ってしまう危険性があります。これは何も収入のことだけではありません。普段の生活の全てにおいても同じことが言えます。順調に事が進むときはまさしくその通りではないでしょうか。「自分の考え方が良かったから」とか「自分のやり方が良かったから」と捉えてしまいやすくなります。本当は神の恵みによって支えられているのです。今日私たちは、そのことを改めて覚えて1年の歩みに感謝しつつ、新しい年を迎えて、そのことを覚えつつ歩まされたいものです。
 2つ目は、礼拝とは何かを教えられます。神は何故礼拝することを定められたのでしょうか。10節の後半に「あなたは…礼拝しなければならない。」と書かれています。すなわち、初物を収穫したその人自身が神に供えて礼拝しなければならないことが定められています。それは何のためかと言いますと、10節の前半に「今ここに私は…持って参りました。」と書かれていますように、神によって与えられた収穫に感謝してのものです。ですから、礼拝とは神の恵みに感謝するためのものです。自分の代わりに誰かを遣わして神を礼拝するのではありません。本人が行って神に献げ礼拝することが定められているのです。何故なら、その人自身が神の恵みと支えを覚えて感謝するためです。礼拝とは、神の恵みを覚えて神に感謝するものです。私たちは、毎週日曜日に教会に集い礼拝を神に献げています。日曜日というのは週末ではなく、週の最初の日です。その最初の日に神に礼拝を献げるというのは、先週1週間の歩みは神の恵みによるものであることを覚えて感謝するのと同時に、今日から始まります新しい1週間の歩みに対しての期待でもあります。それは「先週1週間守り導いてくださり感謝します。どうぞ、今週の歩みも守り導いてください。」という感謝と期待です。そして、今年最後の日の礼拝は、今年1年の感謝と同時に、明日から始まります新しい年への期待でもあります。本当に、今年が守り導かれたことに感謝と新しい年への期待をもって残されている数時間を過ごさせられたいと願います。
 3つ目は、神の恵み深さを教えられます。今年、どれくらい神を意識されたでしょうか。私たちは多くのことが「当たり前」と思い神の恵みを意識しないのではないでしょうか。今年は初めて「感謝祭」というのを行いました。これはアメリカで行われている感謝祭とは意味的には違うものです。アメリカの感謝祭は、アメリカに移住した人たちが初めて収穫できたことに感謝して行われたものです。私たちの教会が行いました感謝祭はそうではなく、勤労感謝の日に因んでのものです。勤労感謝の日も収穫に対する感謝から出たものですが、それだけでなく健康や家族などにも感謝するものとして行いました。今年はBBQ会を通して行い、その時のメッセージでも話しましたが、「有り難い」というのは有ることが難しいという字から来ています。有ることが難しいのですから滅多にないことです。ところが、その滅多にないことが毎日のように続きますと、いつの間にか当たり前になってしまいます。当たり前になってしまいますと感謝することを忘れてしまいます。感謝は意識しないとできないものです。ですが、神は私たちが意識していなくても支えてくださっています。私たちが神を意識しているから、神は私たちに何かをしてくださるのではありません。私たちは、その神の恵みの中で生かされているのです。そして、今年もその神の恵みの中で生かされてきたのです。そして、明日から始まります新しい年も、その神の恵みの中で生かされるのです。その神の恵み深さを覚えつつ生かされていきましょう。

結)
 ある方は「私が神を意識しなくても、神は私に恵みを与えてくださるのなら、このままで良い。」と思われるかもしれません。何故なら、その方が楽だからです。ですが、それはその人の生き方の問題です。受けているものに対してどのように応えていくか。それによって、その人の生き方は違ってきます。神は献げることを求めておられます。それは何故かと言いますと、感謝は気持ちです。気持ちは見えるものではありません。何故なら、心の中に生じるものだからです。その見えないものを見える形として表すのが献げ物です。すなわち、神は見えない感謝という気持ちを見える献げ物で表すことを求めておられるのです。今年必要なものを全て満たしてくださった神に感謝しつつ、明日から始まります新しい年、その感謝を見える形として表していきたいと願います

ルカ2:1~20「クリスマスは神の備え」  17.12.24.

序)
 クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いするときです。そのイエス・キリストの誕生には不思議なことが多くあります。1つは、処女であるマリアから誕生されたということです。処女から赤ちゃんが誕生するというのは、私たちの常識では考えられないものです。はっきり言いまして、私も理解できていません。理解できていませんが、でも歴史的事実として起きたのです。その処女降誕以外でも不思議なことが多々あります。何故、このような不思議なことが生じたのかと考えますと、それが全て神の備えだったからです。今朝は、この箇所を通して神の備えについて共に教えられたいと願っています。

1)住民登録を通して
 神の備えについて教えられる第1は、住民登録を通してです。当時のイスラエルの人たちは、旧約聖書に預言されている救い主の誕生を待ち望んでいました。その救い主はベツレヘムという町に生まれることが書かれています。このベツレヘムという町は、エルサレムという町から10㎞ほど南に位置する町です。エルサレムという名前は聞かれたことがあると思います。先日もトランプ大統領がイスラエルのアメリカ大使館をエルサレムに移すことで話題となりました。そのエルサレムに近いベツレヘムの町に救い主が生まれることが預言されていました。
 ところが、イエス・キリストの両親であるヨセフとマリアが住んでいたのはベツレヘムではなく、ナザレという町でした。このナザレという町はガリラヤ湖の西に位置する町です。英語教室でのメッセージの時にも話しましたが、ナザレの町とベツレヘムの町は100㎞ほど離れています。春日井市を中心にしますと、北なら高山市辺りで南なら伊勢市を越えます。また、東なら浜松市を越えて掛川市辺りになりますし、西なら琵琶湖を越えて大津市辺りとなります。当時は車などない時代ですから、100㎞離れた町に行くことは大変なことです。しかも、マリアのお腹の中には赤ちゃんがいます。普通なら、いつ出産してもおかしくない身重の女性が長い距離を旅することなどしないことでしょう。でも、イスラエルを支配しているローマ帝国から住民登録をすることが命じられたのです。行きたくなくても行かなければならないのです。ヨセフとマリアからすれば迷惑そのものです。ある方は「それならナザレの町で住民登録すれば良いじゃないか」と思われるかもしれません。ですが、ユダヤ人は家系を大事にする民族です。4節に「ヨセフも…血筋であったので」と書かれています。私たち日本人に分かりやすく言えば本籍であるベツレヘムの町に住民登録しなければならなかったのです。ですから、約100㎞も離れているベツレヘムの町にまで行かなければならなかったのです。
 先週と先々週の礼拝で見ましたが、ヨセフとマリアは御使いからイエス・キリストの誕生を告げられました。ヨセフは、婚約者であるマリアのお腹に子どもを宿していることで苦しんでいました。そのようなとき、御使いによってマリアと結婚することを決断したのです。また、マリアも御使いから告げられたことに驚きましたが、神には不可能なことがないと信じ受け入れました。ヨセフもマリアも神が共にいて最善を尽くしてくださることを信じ、御使いのことばを受け入れたのです。妊娠4~5ヶ月位の時ならまだしも、臨月になってから100㎞ほど離れた町に行かなければならないという事態が起きてしまったのです。ヨセフとマリアからすれば「何でこんな時に」という思いもあったことでしょう。でも、それが神の備えだったのです。
 ヨセフとマリアからすれば、「泣きっ面に蜂」「弱り目に祟り目」のようなものです。それとよく似たことを私たちも経験することがあるのではないでしょうか。その時には、それが「何故なのか」「何のためなのか」は分かりません。でも、そこに神の備えがあることを知らされるのではないでしょうか。私たちは色々なことに遭遇します。それは決して本人にとってプラス的なことだけではありません。マイナス的に思えるものもあります。しかし、そこに神の備えがあることを覚えたいものです。

2)飼葉桶を通して
 神の備えについて教えられる第2は、飼葉桶を通してです。長い旅をしたヨセフとマリアは、ようやく先祖の町であるベツレヘムに着きました。6~7節に「ところが…飼葉桶に寝かせた。」と書かれています。飼葉桶とは家畜のエサ箱です。生まれたばかりの赤ちゃんを家畜のエサ箱に寝かせることはありません。「なのに、何故赤ちゃんを飼葉桶に寝かせたのか」と疑問が生じます。考えられることは、「ベツレヘムの町は人がいっぱい集まり泊まる宿がなかったのではないか」ということです。マリアに陣痛が始まったのかもしれません。そのため、雨風がしのげる家畜小屋を誰かが紹介したのかもしれません。ヨセフとマリアからすれば場所よりも無事に出産することを選んだのでしょう。マリアは家畜小屋で出産し、赤ちゃんを飼葉桶に寝かせました。その飼葉桶が神の備えでもあったのです。何故なら、それによって羊飼いたちがイエス・キリストを捜し当てることができたからです。
 もし、普通の宿屋なら羊飼いたちは生まれたばかりのイエス・キリストに会うことはできなかったでしょう。何故なら、町は大勢の人がごった返し、宿屋も満員で忙しいからです。しかも、羊飼いたちの服装は決してきれいなものではありません。そんな人たちが宿屋に来ても宿屋の主人からすれば迷惑なだけです。羊飼いたちは追い返されることだったでしょう。でも、家畜小屋なら違ってきます。家畜小屋は決してきれいな所ではありません。そのような所に身なりも汚い羊飼いたちが来ても違和感はありません。羊飼いたちからすれば、宿屋よりも家畜小屋の方が良かったのではないでしょうか。
 また、御使いは羊飼いたちに「     」と12節で語りました。「飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。」と言っているのです。羊飼いたちからすれば「生まれたばかりの赤ちゃんが何故飼葉桶に」と思ったかもしれません。でも、このことばから捜すのは宿屋や民家ではなく家畜小屋であると察しがついたのではないでしょうか。「羊飼いたちからすれば、こちらの方が捜しやすかったのではないか」と思われます。そのように考えますと、イエス・キリストが家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かされていたのは羊飼いたちのためでもあったということを知らされます。そして、それが神の備えでもあったのです。
 御使いは羊飼いたちの前に現れました。御使いは神の使いですから、御使いが羊飼いたちの前に現れたというのは、神が御使いを羊飼いたちに送られたことを表しています。神は羊飼いたちのために、ここまで備えをしておられたのです。当時のイスラエルに住む羊飼いたちは、一般の人から見下されていました。価値の低い者とされていました。でも、神はそのような羊飼いたちのために、ここまで備えをされていたのです。神にとってはどのような人であれ尊い存在です。それは私たちも同じです。ここに居ます私たち一人ひとりも神にとって尊い存在なのです。それならば、神は私たちのためにも備えをしてくださっていることに気づかされるのではないでしょうか。現状を見ますと厳しい所に立たされているかもしれません。でも神は、そのことを通してすばらしい備えをしてくださっていると知らされるのではないでしょうか。その神に期待していきたいものです。

3)羊飼いを通して
 神の備えについて教えられる第3は、羊飼いを通してです。先程も話しましたが、イスラエルに住む羊飼いは、一般の人から見下されていました。価値の低い者とされていました。ですが、神はその羊飼いにイエス・キリストがお生まれになられたのを最初に知らせたのです。当時のイスラエルはローマ帝国に支配されていました。そして、救い主がお生まれになられるのを待ち望んでいました。ですから、ユダヤ教の指導者や身分の高い人たちに知らせた方が多くの人に伝えることができます。しかし、神はそのようなことをされませんでした。何時生まれたのか、何処で生まれたのか、分からない状態で誕生されたのです。しかも、救い主の誕生を知らせたのは羊飼いたちだけでした。その他の誰にも神は知らせなかったのです。これもまた不思議なことです。
 一般社会では知らせをこのような方法ではとりません。効率の良い方法を取ります。より多くの人に知らせるために、そして少しでも早く伝わるために、有名な人や身分の高い人を用いることでしょう。皆さんもそうではないでしょうか。「この良いものを一人でも多くの人に伝えたい」と思いましたらどうするでしょうか。まず、インターネットを用いるでしょう。また、チラシを用いるでしょうし、テレビでの宣伝も用いるでしょう。しかし、神はそのようなことをされませんでした。一般の人から見下されていた羊飼いを用いられたのです。イエス・キリストが30歳になられて公の生涯を歩み始められたとき、誰一人としてイエスがキリストであることを知りませんでした。知っていたのは、ヨセフとマリアは別としてバプテスマのヨハネだけでした。多くの人々がキリストを待ち望んでいたのに誰も知らないのです。これほど効率の悪い方法はありません。でも、神はそのような方法をとられたのです。「何故なのか」というのをとても考えさせられます。
 考える中で一つのことに気づかされます。それは、この世の価値観と神の価値観が違うということをです。この世の価値観は、「如何に効率よくするか」というものです。それは結果から見る価値観です。結果から見る価値観というのは、「如何に効率が良いか」「どれ程役に立つか」というもので、効率の良いものや役に立つものほど良いという価値観です。それらは物においてはそうかもしれませんが、その価値観を人間にも当てはめてしまいます。そして、「より役に立つ人ほど価値がある」という評価になってしまいます。しかし、神の価値観はそうではありません。イエス・キリストは人をお金に譬えて話されました。今、私が手にしています千円札には「日本銀行券」という名が印刷されています。これは日本銀行が発行した千円札です。折れ曲がっています。新札からすれば古いものです。しかし、新札であれ古い札であれ価値は同じです。この千円札よりももっと汚れていたり、破れていたとしても同じ千円の価値があります。お金を人に譬えますと、新札は若い人ということができるかもしれません。また、古い札は老人ということができるかもしれませんし、破れたものは障害者ということができるかもしれません。ですが、どれも同じ価値なのです。この千円札は「日本銀行券」という字が印刷されているなら、どのような札であれ同じ千円の価値があります。そして、神のかたちとして創造された人間も、どのような人であれ同じ価値があるのです。神はそのことを明らかにされるために羊飼いを備え用いられたのです。私たちはそのことを知らされるのではないでしょうか。

結)
 住民登録をしなければならないこと。イエス・キリストが飼葉桶に寝られていること。見下されていた羊飼いが用いられたこと。これらは不思議なことですが、全ては神がそのように備えられたものです。神の備えは、私たちの想像を遥かに超えたものです。私たちの常識では当てはまらないものです。その私たちの常識を遥かに超えた神が、私たちのために備えてくださいました。そして、これからも私たちのために備えてくださっています。その神の備えを信じ歩まされていきましょう。

マタイ1:18~25「神が共におられる」  17.12.17.

序)
アドベントの第3週目を迎え、いよいよ来週はクリスマス礼拝です。そして、クリスマスが過ぎますと年末年始を迎え心が忙(せわ)しくなります。これから大掃除や年賀状などのことが気になってきます。そのような忙(せわ)しいときに、クリスマスがあるのは「意味深いことである」と私個人は思わされています。何故なら、クリスマスはそのような忙(せわ)しい中で、心を静めることを意識させてくれるからです。今朝の箇所は、ヨセフに焦点が合わされている箇所です。そのヨセフとはどのような人かを見つつ、来週のクリスマス礼拝を待ち望んでいきたいと願っています。

1)神に正しい人
 19節の初めに、「夫のヨセフは正しい人で」と書かれています。ですから、第1にヨセフは正しい人でした。この「正しい人」というのは、一般社会から見た正しさではなく、神の目から見た正しさです。それは神の戒めを守り行っていた人ということです。しかも、それはユダヤ教指導者らのように高慢なものではなく、神を畏れ敬虔に生きていたことを意味します。すなわち、表面的・形式的な宗教行事を行うのではなく、謙虚で忠実に神の戒めを守り行っていたのです。そのヨセフは、婚約者のマリアが妊娠したことを耳にします。現代の日本においては、「できちゃった婚」というのがありますが、当時のイスラエル社会においては未婚であっても、婚約者がいて他の人との妊娠は処刑されることが定められていました。それは神の律法にも定められています。ですから、ヨセフはマリアを訴えることもできたのですが、マリアを訴えることなく密(ひそ)かに去らせようとしたのです。ここにマリアに対する思いを見ることができるのではないでしょうか。
一般的常識からすれば、婚約中の女性の妊娠をしたというのは「不倫」に価します。「価する」というよりも不倫そのものです。男性の方からすれば裏切られたという見方が当然です。そのため、ヨセフには2つの選択肢がありました。1つは律法に従ってマリアを訴えるという方法です。裏切られたのですから、ごく普通の対応と言えるでしょう。もう1つは、当時の離婚法に従って、公にしないで離婚状を書くという方法です。ヨセフは後者の方を選ぼうとしていました。ある見方からすれば、前者は義であり後者は愛と見ることもできます。「義を優先するか愛を優先するか」という選択肢の中で、ヨセフは愛の方を選んだのです。ヨセフは神の戒めを忠実に守る人でしたが、愛する方を選んだ人でもあったのです。
聖書は、このことについてヨセフは「思い巡らしていた」と語っています。これは、ヨセフの心の中で葛藤があったことを伝えています。ヨセフ自身簡単に決められることではなかったのです。おそらく一度決断したけれども、「本当にそれが神の前に正しいのかどうか」を悩んでいたと考えられます。自分の個人的感情もあったかもしれません。そのような葛藤の中で、ヨセフは愛する方を選んだのです。神に対して敬虔に生きる者として、マリアを訴えることなく密(ひそ)かに去らせることを選んだのです。このヨセフが選んだ愛は赦しが伴う愛です。一般社会から見れば処女が身ごもることは考えられないことです。それ故、マリアが身ごもったということは律法に違反したことであり、処刑されるに価する行為です。そのマリアを訴えることなく離婚を決意するということは、マリアの過ちを赦すということでもあります。実際マリアは過ちを犯してはいませんでしたが、一般社会から見れば過ちにしか見えないものです。何故なら、処女が妊娠するというのは常識的には考えられないからです。
ヨセフの愛は赦しが伴う愛でした。このことから「正しい」とはどういうことかを考えさせられるのではないでしょうか。聖書が語る「正しい」とは、律法的にと言いましょうか杓子定規のような正しさではなく、人に対する思いが伴う正しさです。そのことを思うとき神を思わされます。神は義なる方であり、聖なる方であると同時に、愛なる方でもあられます。人が神に対して罪を犯したとき、神の義を貫くこともできました。人の罪を赦さず審くこともできたのです。ですが、神は人を審くことをされず赦す方を選ばれたのです。神の愛も赦しが伴う愛なのです。神の中に義と愛が衝突していました。何故なら、人の罪を赦すなら義が損なわれ、人の罪を罰するなら愛が損なわれるからです。その中で1つの方法をとってくださいました。それは、罪のない者が身代わりとなって神の審きを受けることです。しかしながら、罪のない人間は一人もいません。罪がないのは神であられる神ご自身だけです。ですから、罪のない神が人として誕生されるしかありません。それがイエス・キリストです。イエス・キリストの誕生は、まさしく神の愛そのものです。私たちはヨセフの正しさから、そのことを知らされるのではないでしょうか。

2)神のみことばを実践した人
第2に、ヨセフは神のみことばを実践した人でもありました。ヨセフはマリアのことで思い巡らしていたとき、神のみことばを聞きました。その神のみことばは「マリアをあなたの妻として迎えなさい」ということでした。神の御使いは、ヨセフに呼びかけたとき「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と語っています。当時は、婚約することによって法律上妻とされています。この神の使いのことばは、共に住み夫婦生活をしなさいということです。ここで注目したいことは「恐れずに」ということばです。これは、ヨセフ自身が恐れていたことを表しています。
では、ヨセフは何を恐れていたのでしょうか。御使いが現れたことに恐れたのではなく、今後のマリアに生じる事柄を恐れたと考えられます。第1は、マリアに対する世間の仕打ちです。もし、ヨセフがマリアと結婚しませんでしたら、マリアはそのまま子供を出産することになります。すると、マリアは未婚の母となってしまいます。日本においても、数十年前までは未婚の母に対して偏見の目で見られていました。ましてや2000年前の厳格なユダヤ教社会の中であれば、どれほどのものであるかは想像できるのではないでしょうか。それほどの偏見の目や仕打ちを受けることとなってしまいます。ヨセフにとっては大きな心配であり恐れでもあったことでしょう。
第2は汚れに対する恐れです。婚約中の女性が身ごもったということは不倫をしたということになりますから、当然律法に違反したことであり汚れた者とされます。その女性を妻に迎えるならば、律法からすれば違反行為となります。神の律法を破るということは、汚れた者となるということでもあります。ヨセフは神に対して正しい人でしたから、神の戒めをきちんと守り行っていた人です。自ら汚れる方を選んだことはなかったと考えられます。ですが、マリアを妻として迎えるなら律法に反したことになり、神に対して汚れた者となってしまいます。そのことに対する恐れがあったことでしょう。
第3は誹謗中傷という世間の声に対する恐れです。マリアの妊娠の経緯については、本人たちには分かっても世間には理解してもらえないことでしょう。何故なら、処女が身ごもるなど常識では考えられないからです。最悪の場合罪人扱いをされ、ユダヤ教社会から追い出される可能性があります。律法の規定に従えば、「汚れた者に触れば汚れる」とあります。ですから、罪人とされ汚れた者とされるわけですから、ユダヤ教社会からの追放は絶望を意味します。なぜなら、触れると汚れるわけですから距離を置かれます。距離を置くということは人と交流ができないということです。日本で言う「村八分」の状態です。葬式と火事以外は一切交わらないというのが村八分です。村八分された人でひどい方は物も売ってもらえません。ですから、別の町に行って買い物するしかありません。ユダヤ教社会からの追放は、その村八分と似た扱いを受けなければなりません。これは非常に辛いことです。そのことに対する恐れがあったことでしょう。
ヨセフは、これらのことを恐れていたと考えられます。ですから、神の使いは「恐れずに」とヨセフに告げたのです。そして「マリアを妻に迎えるように」とも告げました。ヨセフの心の中には大きな葛藤があったと思われますが、神の使いのことばを信じマリアを妻に迎え入れたのです。ヨセフは神のみことばを実践した人でもありました。

3)ヨセフの経験を通して
ヨセフは、ユダヤ教社会という世間の常識に従うことと神のみことばに従うこととの戦いの中で、マリアを妻として迎え入れました。それは神のみことばに従う方を選び実践したことを意味します。やがてマリアのお腹は大きくなっていきます。おそらく、結婚してからの出産よりも日数的には短いと考えられます。世間は偏見の目で見る可能性があります。そのことに対する不安があったことでしょう。しかし、マリアは無事に出産することができました。このマタイの福音書には、ルカの福音書に書かれていることは記されてはいません。ただ、無事にイエス・キリストが誕生されたことだけが記されているだけです。これが意味することは、「恐れずに」という神の使いのことばと、神が共におられるという聖書の約束の確かさを示しています。この出来事を通してヨセフは、神が共にいてくださり守り導いてくださったということを経験したのです。まさしくインマヌエルの神です。
ヨセフはマリアを妻として迎え入れるとき、社会との戦いに不安を覚えたことと思われます。そのような中で神に従うことが信仰です。ですが、信仰とは自分の中に生じる「本当に大丈夫だろうか」という不安との戦いでもあります。それは聖書に登場する信仰者全てがそうでした。アブラハムもモーセもヨシュアもダビデらも、すばらしい神への信仰を持っていましたが、同時に多くの不安を抱いた人たちでもありました。その不安を抱きつつも神に従う道を選び歩み続けた人たちでもありました。その結果、神のみことばの確かさを経験したのです。それはヨセフも同じです。不安を抱きつつも、神に守られ無事にマリアはイエス・キリストを産むことができました。ヨセフは自分の経験を通して、神のみことばの確かさを知りました。経験を通して神の確かさを知ること以上に強いものはありません。
このヨセフの経験は、現代の私たちにおいても同じことが言えるのではないでしょうか。私たちの歩みの中にも、世間の常識や自分の常識というものがあります。そこから神のみことばに従うことの戦いを経験します。世間や自分の常識と神のみことばへの服従との戦いの中で、どちらを選び実践するかを、聖書はこの箇所を通して私たちに問いかけているのではないでしょうか。先週の礼拝でエリサベツ夫婦のことを触れました。彼らは自分たちの経験を通して神のすばらしさを知ったのです。そして、ヨセフとマリアも自分たちの経験を通して神のすばらしさを知ったのです。経験を通して神のすばらしさを知りますと、強い確信をもって歩むことができます。どのような確信でしょうか。それは「神が共にいて守ってくださる」という確信です。ヨセフは自分の経験を通して、そのことを知った人でもありました。

結)
「神が共にいてくださる」という神のすばらしさは、いつも私たちの目の前にあります。決して遠いところにあるのではありません。申命記30:14に「     」と書かれています。みことばは私たちの身近にあり行うことのできるものです。神のすばらしさの経験は、一生懸命努力して掴み取るものではありません。神のみことばに聞き従う方を選び取ることによって獲得することのできるものです。何度も話していますが、私たちの目の前にはいつも2つの道があります。それは、みことばに聞き従う道と聞き従わない道です。そして、みことばに聞き従う道を選び実践するとき、私たちは「神は共にいてくださる」という神のみことばの確かさを経験することができるのです。このアドベントのとき、神のみことばに聞き従う道を選び取れるように祈りつつ、来週のクリスマス礼拝を待ち望んでいきましょう。


ルカ1:26~38「受胎告知を通して」  17.12.10.

序)
 クリスマスまで2週間となりました。クリスマスは、男性を知らない女性が神によって身ごもり誕生するというものです。これは私たちには絶対に理解できないことです。今朝は、そのイエス・キリストの母であるマリアに御使いのガブリエルが受胎告知をする箇所です。そのことを通して、神はどのような方であるかを共に教えられたいと願っています。

1)この世の常識以上の方
 まず教えられることは、神はこの世の常識以上の方であるということです。御使いガブリエルが突然マリアの前に現れ、28節でガブリエルが語ったことばに対して、マリアはひどく戸惑って何の挨拶か分かりませんでした。するとガブリエルは、マリアがみごもって男の子を産むことを告げます。そのガブリエルのことばに対して、マリアは34節で「     」と答えました。独身のマリアにとって、子どもを宿すということは理解できなかったのです。当然のことと言えば当然のことです。まだ結婚もしておらず、男の人を知らない女性が男の子を産むなど考えられるものではありません。それは、この世の常識では絶対に不可能なことです。すなわち、マリアという女性は、この世の常識に囚われていた女性ということができます。
 この世の常識に囚われていたマリアに、神はガブリエルを遣わされたのです。神がマリアにガブリエルを遣わされたということは、神が特別にマリアに目を留められたということです。それは来週見ますヨセフにおいても同じです。ヨセフも何処にでもいる大工職人です。またヨセフは、マリアが身ごもったことによって、ひそかに離縁しようと考えていたのです。それはヨセフもこの世の常識に囚われていたということです。そのようなヨセフに神は特別に目を留められたのです。そして、この世の常識に囚われるというのは私たちも同じです。私たちもこの世の常識、自分の常識に囚われてしまう者です。しかし、そのような私たちがイエス・キリストを信じられるようになったのは、神が特別に目を留めてくださったからです。人がイエス・キリストを信じられるのは、人の努力によって信じられるものではありません。神の特別な働きがない限り信じられないのです。私たちもこの世の常識に囚われてしまう者ですが、そのような私たちに神が特別に目を留めてくださり、イエス・キリストを信じられるようになったことに感謝したいものです。
 この世の常識に囚われているマリアに対して、ガブリエルは35節で「聖霊が…あなたをおおいます。」と語りました。この世の常識に囚われているマリアの上に聖霊が臨まれるのです。私たちもこの世の常識に囚われてしまう者です。そのような私たちの上にも聖霊が臨んでくださるのです。何故でしょうか。私たちは自分の力や努力によって、この世の常識に囚われないようにすることはできないからです。この世の常識以上のものが働かない限り、この世の常識から抜け出すことはできません。そして、この世の常識以上というのは、この世を造られた神ご自身しかおられません。その神は、この世の常識に囚われている人に働いてくださるのです。それは、今神を信じている人であれ信じていない人であれ、神は目を留めてくださり働いてくださるのです。
 イエス・キリストは、そのことを明らかにしてくださるためにお生まれになられたのです。神を信じている信じいない関係なく、「この私に神は目を留めてくださり働いてくださっている」ということを、はっきりと示すためにお生まれになってくださったのです。それがクリスマスなのです。この世の常識以上の方がおられることを示されるために、イエス・キリストはお生まれになられたのです。私たちもマリアのようにこの世の常識に囚われやすい者です。しかし、この世の常識以上の方がおられることを覚えて、その神に期待し歩ませていただきたいと願います。

2)神の備え
次に教えられることは、神の備えについてです。この世の常識に囚われているマリアに対して、ガブリエルは36節で親類のエリサベツ夫婦の出来事を語りました。エリサベツのことについては1:5~25に書かれています。このルカの福音書は、ルカがテオフィロという人に宛てて書かれた手紙です。3節に「テオフィロ様」と書かれていることから、「この時のテオフィロは未信者であったのではないか」と言われています。しかも、その後に「あなたのために…思います。」と3~4節に書かれています。ルカは、テオフィロが理解しやすいように順序立てて書いているのです。その出だしがザカリヤとエリサベツ夫婦の出来事なのです。別に、イエス・キリストの誕生から書き出されても違和感はありません。例えば、マタイの福音書の最初はイエス・キリストの系図が書かれていて、その後にイエス・キリストの誕生について書かれています。ですが、ルカの福音書はイエス・キリストの誕生からではなく、ザカリヤとエリサベツ夫婦の出来事から書き出されているのです。それは、マリアが如何にガブリエルのことばを信じるようになったかに繋げるためと考えられます。マリアが神のみわざを信じることができるために、ザカリヤとエリサベツ夫婦にバプテスマのヨハネを誕生させられたとも理解することができます。
確かに、バプテスマのヨハネの誕生は旧約聖書に預言されています。ですが、それはマリアの親類であるザカリヤとエリサベツ夫婦でなくても良かったのではないでしょうか。でも、マリアの親類であるザカリヤとエリサベツ夫婦に神のみわざがなされたのは、マリアがガブリエルのことばを信じられるようにするためとも考えられます。ザカリヤとエリサベツ夫婦はマリアと親類関係にありますし、40節を見ますとマリアはザカリヤ夫婦の家に行っています。そのことから単なる親類というよりも、交流がある親類ということができます。すると、考えられますのはマリアがガブリエルから告げられる前に、エリサベツから夫ザカリヤの経験と自分が身ごもったことをマリアに話していたということです。そのように考えますと、神はこの世の常識に囚われているマリアのために、マリアが受け入れられるように用意をされていたというのを知らされるのではないでしょうか。
神はこの世の常識や自分の常識に囚われているマリアを責めてはいません。むしろ、マリアが受け入れられるようにあらゆる準備をしてくださいました。その神の備えがあったから、マリアはガブリエルのことばを信じ受け入れられたのではないでしょうか。そして、その神の備えは私たちに対しても同じです。私たちもこの世の常識や自分の常識に囚われてしまいます。でも、神はそのような私たちを責められるのではなく、そのような私たちが神のことばを信じ受け入れられるように導いてくださいます。何故なら、神はそのような私たちの弱さを御存知だからです。今、神の導きが分からない方がおられるかもしれません。しかし、それは不信仰なことではありません。神はやがて分かるように導いてくださいます。そのように備えてくださっています。私たちにとって大切なことの1つは、「今は分かりませんが、神のことばを信じ受け入れる日が来ますように」と祈ることではないでしょうか。

3)人の証しを用いられる
 最後に教えられるのは、神は人の証しを用いられるということです。ガブリエルのことばを聞いたマリアは、38節で「     」と答えています。これはマリアが神のことばを信じ受け入れたことを示しています。マリアのことばの最初に「ご覧ください。」と訳されています。今までの新改訳聖書にはなかったことばです。今までは「本当に」と訳されていました。これは現在の訳の方が良いと思います。直訳しますと「見よ」となります。これは注意を促すことばです。そこから想像できるのは、「良く見てほしい」という思いが含まれているということです。「注意深く見てほしい」という思いが伝わってきます。そして、38節の中程に「あなたのおことばどおり」と書かれています。ギリシャ語で「ことば」というのは2つあります。1つは、ヨハネ1:1の「ことば」です。これには「ロゴス」ということばが使われています。もう1つは「レーマ」です。今朝の箇所がそうです。調べてみますと、聖書におけるロゴスとレーマの違いは、ロゴスは文字をも含むことばであり、レーマは口から出たことばのようです。そして、レーマは話された出来事をも含むようです。そのように捉えるならば、38節でマリアが語った「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」というのは、「エリサベツ夫婦に生じた出来事と同じようなことが、私にも生じますように」と理解することができます。
 御使いのガブリエルは、エリサベツ夫婦に生じた出来事を用いて、神のみわざをマリアに話しました。そのエリサベツ夫婦に生じた出来事は、エリサベツ夫婦にとっては自分たちの経験ですから証しそのものです。そして、その彼らの証しを神は用いられたのです。それは先程も話しましたように、マリアが神のみわざを信じ受け入れられることができるためにです。神は人の証しをご自身のすばらしさを現すために用いられます。それは私たちの証しについても同じことが言えます。神は私たちの証しをも用いてくださいます。そして、神が人の証しを用いられる目的も、その人が神のみわざを信じ受け入れることができるためです。
 私たちは自分にとって嬉しいことや辛いことなど様々な経験をします。特に辛いときは、「これは後の神の備えである」とはなかなか思えないものです。エリサベツもそうだったのではないでしょうか。彼女については1:6で「     」と紹介されています。このことから、エリサベツ夫婦は世間からも評判の良い人だったと想像できます。評判の良い人と聞かれますと、どのような人を想像されるでしょうか。私なんかは真面目なだけでなく、無愛想な人ではない人を想像します。誰に対しても笑顔で対応される人を想像します。ひょっとしたら、エリサベツはそのような女性だったのかもしれません。しかし、彼女が身ごもったときの告白が1:24に書かれています。彼女は「私の恥を取り除いてくださいました。」と告白しているのです。皆の前では笑顔を振りまく女性ですが、彼女の心の中には「子供が与えられない」という辛いものがあったのです。そのような思いを口にも顔にも出さずに過ごしていたのです。顔や口から出ないから何の問題もないのではありません。しかも、エリサベツ夫婦は18節にも書かれていますように老夫婦です。この世の常識なら子どもを宿すことなどできない年齢です。「子どもを宿す」という期待も消えていたと考えられます。そのようなことから、「この辛さは後の神の備え」とは思っていなかったのではないでしょうか。ですが、それが用いられたのです。私たちも辛いときは「これは後の神の備え」とはなかなか思えません。ですが、神はそれを後に用いてくださいます。それは問題が解決されるということではないかもしれません。でも、その経験を神は用いてくださることを知らされるのではないでしょうか。神は私たちの証しをも用いてくださいます。

結)
 イエス・キリストの誕生は人の理解を超えたものです。10月から英語教室が始まりました。その英語教室でメッセージタイムがあり、毎回メッセージをさせていただいています。そのメッセージで必ず語っていることは、「その神が共にいてくださり守ってくださる」ということです。子どもたちに「そのことが分かってほしい」と願ってのことです。でもそれは、子どもたちだけでなく神を信じている私たちもそうです。この世の常識を超えた神がいつも共にいて導き用いてくださるのです。クリスマスは、インマヌエルなる神が見える形として表してくださったものです。そのことを覚えつつ、クリスマスを待ち望んでいきましょう。

イザヤ9:1~7、ミカ5:2「クリスマスが示すもの」  17.12.03.

序)
 今日からクリスマスを待ち望むアドベントに入りました。今日からクリスマスまでは、成長テキストに合わせてメッセージをしていきたいと考えています。先週の英語教室で「クリスマスは何の日」と尋ねましたら、「プレゼントをもらう日」とか「サンタさんの誕生日」などの答えが返ってきました。「残念な」と言うよりも予想通りの答えでした。クリスマスとイエス・キリストが繋がっていないのが日本の現状です。今朝は、「クリスマスが示すもの」というタイトルで、共にクリスマスを待ち望んでいきたいと願っています。

1)光
 まず、クリスマスは光を示しています。1節と2節に「闇」ということばが書かれています。この闇は、8:22からのものです。南ユダ王国はアッシリア帝国に包囲されています。彼らは北イスラエル王国を滅ぼし、南ユダ王国に攻め入ろうとしています。ですから、ユダの人々は不安と恐れでいっぱいでした。8:22には「     」と書かれています。「闇・暗闇・暗黒」と絶望の淵に立たされていることが強調されています。周りを見渡しますと、望みのあるものは何一つ見当たらない情景を思い浮かばせます。もう四面楚歌の状態です。1節の最初に「しかし」と書かれています。人から見ますと何一つ明るい材料がない状況の中で、「闇がなくなる」と語られているのです。1節に「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」とイザヤは語るのです。ゼブルンとナフタリはガリラヤ湖の東側の地域に位置します。アッシリア帝国は北イスラエル王国の北側から攻め入り、ナフタリとゼブルンに侵入しました。そして、アッシリア帝国はさらに南に下って北イスラエル王国を支配しました。まさしく、北イスラエル王国は辱めを受けるのです。
 しかし、後にこれらの地域は「栄誉を受ける」とイザヤは語っているのです。絶望の中にあって、イザヤは大きな光を見たのです。明るい状況が何一つない中で大きな光を見たのです。これは後の時代のことを預言しています。実際には、まだ起きていないのにイザヤにははっきりと見えたのです。何が見えたかと言いますと、この後に南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ捕囚としてバビロンに連れて行かれます。しかし、70年後にペルシャの王キュロスによってイスラエルの民は捕囚から解放され、イスラエルの地に戻ることができました。イザヤは、それを見たのです。今の状況を見ますと、明るい材料が何一つない中で光を見られるのは不思議なことです。イザヤは4節で「ミディアンの日に…打ち砕かれるからだ。」と語っています。これはギデオンがミディアン人と戦った時のことです。当初、イスラエル人は2万2千人でミディアン人と戦おうとしていました。しかし、神から「人数が多い」と言われて1万人に減りました。それでも、神は「多い」と言われ300人に減らされました。それに対して、ミディアン人の兵士の数は13万5千人です。300人対13万5千人との戦い。人間的な見方をすれば、どちらが勝つかは明白です。しかし、その戦いでイスラエル人が勝利しました。これは理解し難いことです。ですが、神は人の理解を超えることのできる方です。
 それと同じことがアッシリア帝国にもなされました。Ⅱ列王記18:13以降に、アッシリア帝国が南ユダ王国に攻め入ろうとしていることが書かれています。当時の南ユダ王国の王ヒゼキヤが神に祈ったことばが19:15~19に書かれています。特に、16~17節で「     」とヒゼキヤの祈りは切実です。それに対して、神は預言者イザヤを通して語られたことが21~34節に書かれています。特に、32~34節で「     」と語られています。そして、35~37節と書かれており、南ユダ王国はアッシリア帝国に攻め入られることはありませんでした。まさしく神は闇の中に光を輝かせることのできる方なのです。私たちの歩みの中にも、闇に思えるような状況に置かれることがあります。しかし、その闇の中にも神は光を輝かしてくださいます。状況だけを見ますと理解し難いものです。でも、それをできるのが私たちが信じています神なのです。そして、処女であるマリヤが身ごもるというのも理解し難いものです。ですが、それをできるのが私たちが信じています神なのです。クリスマスは、闇の中に神が光輝かせてくださることを示すものです。

2)神の愛
 次に、クリスマスは神の愛を示しています。イザヤは6節の最初で「ひとりのみどりごが…生まれる。」と預言しています。ここで注目したいのは「私たちのために」ということばです。神は私たちが理解し難いことをすることのできる方です。ですが、その理解し難いことを私たちのためにしてくださるというのです。イエス・キリストがお生まれになられたのは、他の誰でもない私たちのためなのです。何故、私たちのためにそこまでしてくださるのでしょうか。その理由が7節の最後に「万軍の主の熱心が」と書かれています。私たちのためにそこまでしてくださる理由は、ただ神の熱心の故なのです。教会学校の先生方は御存知かもしれませんが、今日の教会学校の箇所も今朝の箇所です。今年は成長テキストに合わせてクリスマスメッセージを考えています。その成長テキストの今日のグレード5に、「熱心」ということばは「妬み」というニュアンスで表現することもできると書かれています。「同じことを触れられているな」と思いつつ、この箇所を読ませていただきました。
 9月の礼拝のメッセージで話しましたが、申命記4:24に「     」と書かれています。また、ヨエル2:18には「     」と書かれています。さらに、ゼカリヤ1:14と8:2には「     」と書かれています。神はご自身が選ばれた人を妬むほど愛してくださる方です。私たちは妬みを罪のように理解してしまいやすいのではないでしょうか。事実、マルコ7:20に書かれています罪のリストの中には「妬み」が挙げられています。なのに、神が妬みの神であられることは理解しにくいかもしれません。妬みが罪とされるのは対人関係においてであり、悪い感情として用いられます。しかし、神が「妬みの神である」という時は契約関係によるものです。神が人と契約を結ばれたが故に熱心に愛するのです。その約束が破られたときに妬みが生じるのです。ですから、神の妬みとは神の熱心さを表しているのです。そして、神はそれほど熱心に私たちを愛してくださっているのです。
 その神の熱心な愛は、7節の後半に書かれていますように、神のさばきと正義によってです。私たちは「さばき」と聞きますと、裁判所で行われる判決を想像するのではないでしょうか。しかし、聖書が語る「神のさばき」とは、それだけではありません。公正と絶対的権威を表しています。また、「正義」とはまっすぐであることを表しています。ですから、神は不公平な審きをされる方ではなく、ご自分の約束に対してまっすぐな方であられるのです。一度結ばれた契約を決して翻されることのないお方なのです。ですから、創世記3章で人間がサタンの誘惑によって罪を犯したとき、神はサタンに対して15節で「わたしは敵意を…間に置く。」と言われました。神は罪を犯した人間を見捨てられたのではなく、人間の側についてくださると約束してくださったのです。その約束の故に、神はいつでも私たちの味方なのです。ですから、私たちへの神の愛は途中で変わってしまうようなものではありません。決して変わることなく愛し続けてくださるのです。クリスマスは、その神の愛を示しているのです。

3)神の用い方(ミカ5:2)
最後に、クリスマスは神の用い方を示しています。ミカ5:2に「ベツレヘム・エフラテよ」と書かれています。カナンの地には「ベツレヘム」という町が2つありました。例えば、ヨシュア記19:15に書かれています「ベツレヘム」がそうです。場所的にはイエス・キリストが育たれたナザレの町に近い所です。そして、もう一つはイエス・キリストがお生まれになられたエルサレムの南側に位置するベツレヘムです。イサクの息子であるヤコブの時代は、このベツレヘムは「エフラテ」と呼ばれていました。ですから、それらを区別するために「ベツレヘム・エフラテ」と書かれていると考えられています。このベツレヘムの町について、「あなたは…あまりにも小さい。」と書かれています。本当に小さな町だったのでしょう。ですが、その小さな町が救い主誕生の町として用いられるのです。このことから教えられるのは、神にとって大きい小さいは関係がないということです。
私たちはついつい大小とか強弱に目を留めてしまいやすいものです。それは、私たちが目に見えるものに目を留めてしまいやすいからです。それは仕方のないことかもしれません。それを直すことはできないでしょう。しかし、大きいか小さいとか、強い弱いなど関係なく用いることのできる方を覚えたいものです。先週ネヘミヤ書を読んでいまして、7:8に目が留まりました。ここに「パルオシュ族」と書かれています。これは絹を作るときに使われる虫の「蚕」を意味して、「価値のないもの」を表しているようです。その価値のないように見える部族の名前が、エルサレムとユダの町に帰ってきた人々のリストの最初に書かれているのは興味深いことです。人の目には価値がないように見えるものであったとしても、神の目には価値があり豊かに用いてくださることを示しているのではないでしょうか。
ベツレヘムの町は有名な町の一つですが、あまりにも小さい町であったようです。以前に用いていました新改訳聖書では「最も小さいもの」と訳されています。ですが、先程も話しましたが、そのような町が救い主誕生の町として用いられるのです。社会から見て、自分という存在は小さなものです。居ても居なくても変わらないような存在のように見えてしまいます。そして、価値のないような存在のように思えてしまいます。しかし、そのような私たちを神は豊かに用いてくださるのです。そこに目を留めるとき、人は生き方が変えられます。ないものに目を向けていた生き方から、あるものに目を向けられる生き方へと変えられるのです。そしてイエス・キリストは、そのためにお生まれになってくださったのです。クリスマスは、そのことを示しているのです。神が私を用いてくださることを示しているのです。

結)
 私たちは人生の中で様々なことを経験します。闇の中に陥ってしまうような状況に立たされることもあります。しかし、そのような中に置かれようとも大きな光を見ることができるのです。私たちが信じている神は、不可能を可能にすることのできる神です。その神が私たちを熱心に愛してくださっています。そして、その神が小さな私たちを用いてくださいます。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスは、そのことを示しています。今日から始まりますアドベントのとき、そのことを覚えつつクリスマスに備えていきましょう
Ⅰコリント12:12~27「神が与える喜び」  17.11.26.

序)
 クリスマスまで1ヶ月となりました。教会もイルミネーションが飾られ、昨日はマミークラブでクリスマスクッキーを教えていただきました。クリスマスは世界中が気持ちをワクワクさせてくれます。喜びを与えてくれます。今朝は、神が与える喜びとはどのようなものかを共に教えられたいと願っています。

1)存在意義の発見
 神が与えてくださいます喜びの第1は、存在意義の発見です。「イエスは主です」という告白は、神と自分との関係がどのようなものであるかを気づかせてくれます。それは身体の構造と同じです。身体は一つですが、器官は身体の中に沢山あります。何故多くの器官があるのでしょうか。答えは簡単です。必要だからです。必要のない器官は一つもありません。昔、日本では「盲腸は必要のないものだから」と言って切除する方がいました。ところが、最近では「盲腸である虫垂は特定の良性バクテリアの成長を活発化させ、腸内細菌の培養に役立っている」とされており、「盲腸を切除すると免疫力が下がる」と言われているらしいのです。「盲腸」と言われている虫垂炎にかかれば手術する必要がありますが、そうでなければしない方が良いらしいのです。切ったとしても、通常の生活には支障はないようです。そのことを知らされますと、本当に神は必要なものを造られたすばらしい方であることを改めて知らされます。そして、造られたものには神の目的があります。
 それは私たちの存在にしても同じです。私たち一人ひとりも神によって造られた存在です。何故造られたのかと言いますと、神が必要としてくださっているからです。もし神が私たちを必要とされていなかったなら、私たちはこの世に誕生することはありませんでした。これは生きて誕生されなかった人は神に必要とされていなかったということではありません。このところを誤解されないように気をつけていただきたいと思います。少なくとも、生きて誕生した私たちは神に必要とされているということです。私たちは神に必要とされていない存在ではなく、必要とされている存在なのです。
 「イエスは主です」という告白は、神と自分との関係を確立させてくれます。これは縦の関係です。この縦の関係がきちんと確立するとき、自分の存在意義を見出すことができるのです。何故なら、存在の目的を見出すことができるからです。自分が何のために生まれ、何のために生かされているのかを知ることができるからです。しかしながら、神を知らない人は自分の存在の目的や意義を見出すことができません。そのために人生の暗闇の中を歩んでおられます。その暗闇で一生懸命に、光を見出そうとされているのです。ですが、光は真実な光だけではありません。「人工的な」と言いましょうか偽りの光もあります。あたかもそれが本当の光であるかのように見せかけ、人を苦しめたり恐れさせたりして、やがてはそこから出られなくするという光もあります。
 しかし、本当の光はそうではありません。本当の光は人をホッとさせ安らぎを当ててくれます。ある人はこう言われるかもしれません。「光は私たちに進むべき道を示してくれます。その光に到達するには一生懸命前進しなければなりません。そこにはあなたの努力が必要なのです。あなたの努力なしで光を手に入れることはできないのです。」と。もしそのように言われたらどう思われるでしょうか。「確かにそうだな」と思われるでしょうか。ですが、イエス・キリストはそのようには話されませんでした。イエス・キリストは「あなたがたは世の光です。」と話されたのです。イエス・キリストを信じることによって、もうすでに光とされているのです。これから光を手に入れるのではなく、すでに光を手に入れているのです。そして、光として用いられる存在とされているのです。これから得ようとするのと、すでに得ているのとでは大きな違いがあります。これから得ようとする人には喜びがありませんが、すでに得ている人には喜びがあります。「イエスは主です」という告白は、存在しているこの喜び・意義を見出させてくれます。
 あとは、その光を何処でどのように輝かせるかです。身体にある器官は外から見えるものもあれば見えないものもあります。しかし、どの器官も与えられている賜物を生かしています。だから身体は健全でいられるのです。器官は身体に属していることによって、与えられている賜物を充分に生かすことができるのです。そのことは、私たちにおいても同じことが言えます。私たちもキリストの身体の器官の一つとされているのです。ですから、すばらしい賜物が神から与えられているのです。あとは、その賜物を何処でどのように生かすかです。そのことを祈り続ける者とされたいものです。

2)自慢や僻みからの解放
 神が与えてくださる喜びの第2は、自慢や僻みからの解放です。神と自分という縦の関係が確立されていないとどうなるでしょうか。自分の存在や他人の存在が分からなくなってしまいます。そして、結果主義に陥ってしまいます。何度も話していますが、私たちが生かされています社会は、目に見えるもので評価します。そのような評価の社会に生かされている私たちは、人というものも見えるもので評価してしまいやすくなります。その見えるものとは結果です。結果からの評価は何から生じるでしょうか。それは比較です。比較してしまいますと今度は自慢や僻みが生み出されてしまいます。
 物同士の比較はそうではありませんが、人との比較は良いものを生み出すことはありません。確かに、比較することによって平安を得られるかもしれません。ですが、その平安は一時的なものにしか過ぎません。本当の平安ではありません。すぐに消えてなくなってしまうような平安です。これは悪いものではありませんが、本当に良いものとも言えません。むしろ、比較することによって悪いものが生み出される方が多いのではないでしょうか。その一つは自慢です。自慢が生じますと、人を見下してしまいやすくなります。21節に書かれていることは自慢であり見下しです。目は様々なものを見て情報を与えます。人がまっすぐに歩くことができるのは目が見えるからです。目が見えるから危険なことからも逃れることができます。目は情報を与えるとても大切なものです。手もすばらしいですが、目が見えることによって何かが飛んできたとき、手でそれを払いのけて身体を守ることができます。目が見えないと飛んできたものが身体に当たって怪我をすることもあります。頭は得た情報を分析して、この後に何をすれば良いかを判断し指示します。頭が指示を出しますから、足や手は行動することができます。頭が何の指示も出さなかったら、足や手は動くことができません。21節の目や頭のことばは、「私は特別な存在であるが、あなたたちの代わりは幾らでもいるよ」といったものです。まさしく自分を自慢し人を見下す行為です。人との比較は、そのような自慢や見下しを生じさせてしまいます。
 もう一つは自慢の反対で僻みです。イエス・キリストが話されたタラントの譬え話に登場します1タラント預けられた人が、その預けられたタラントを用いなかった理由は幾つか考えられます。その一つとして僻みがあったのではないでしょうか。人と比較して自分の評価が低くなりますと、「どうせ私なんか」という思いが生じます。1タラント預けられた人は、この「どうせ私なんか」という僻みが生じたのかもしれません。5タラント・2タラント・1タラントという数字は賜物の数量と捉えることもできますし、用いられる回数と捉えることもできます。「同じ賜物が与えられているのにあの人は5回、この人は2回用いられているのに、私だけは1回しか用いられていない」と思うのが続けば、「どうせ私なんか」という思いが生じるのは仕方のないことと思うのではないでしょうか。でも、これらは比較です。比較は僻みを生じさせてしまいます。そして、自分の存在価値が分からなくなってしまいます。しかし、神が与えてくださる喜びは、そのようなものから解放してくださいます。そして、自分の存在価値を正しく認識させてくれます。神が与えてくださる喜びは、自慢や僻みから解放してくれます。

3)人を生かす
 神が与えてくださる喜びの第3は、人を生かすことができます。25節の最後に「配慮し合う」と書かれています。これは、人を励まし生かすことです。最初の方でも話しましたが、今まで「盲腸」と言われている虫垂は要らないものとされてきましたが、今では免疫細胞を供給して腸内細菌のバランスを保っているらしいです。私たち人間は勝手に必要か必要でないかと判断してしまいますが、私たちの身体の各器官は必要として助け合っているのです。人を励ます良い方法は、必要な存在であると伝えることではないでしょうか。「あなたなんか居ても居なくてもどちらでも良い」というのは、人を励まし生かすことはできません。むしろ、必要とされていないことで存在価値を見出せられなくさせてしまいます。
 では、その人が必要な存在であることを知らせるためにはどうすれば良いでしょうか。それは長所を褒めることではないでしょうか。先程も話しましたが、私たちは目に見えるもので評価する社会の中に生かされていますから、人をもそのような基準で判断・評価してしまいやすくなります。ですから、当然人の短所に目を向けてしまいやすくなります。なかなか長所に目を向けられにくいものです。25節に書かれています「配慮し合う」とは、人が積極的・肯定的な生き方ができるようにすることを意味しています。そのためには必要な存在であることを知らせることではないでしょうか。さらに言いますと、その人の長所を褒めることではないでしょうか。人の長所を褒めるには意識しないとできないものです。何故なら、私たちは短所に目を向けてしまいやすいからです。そのように考えますと、人を励ますというのは自然にはできないことを知らされます。
 では、何故そこまでする必要があるのでしょうか。それは目的があるからです。身体の器官は、各々の存在を認めているだけでなく必要としています。何故必要としているのかと言いますと、各器官のすばらしさを知っているからです。知っているだけでなく、身体を支えるという目的があるからです。むしろ、目的があるから各々のすばらしさを発見することができるのです。人を生かすというのも同じです。教会・家庭・職場など、各々の目的を知る必要があります。何のために教会は建てられているのか。何のために結婚し家庭を築いているのか。何のために今の職場で働いているのか。その目的をきちんと理解していないと、各々は立ち行かなくなってしまいます。例えば、この教会は何のために立てられているのかを知り、具体的にどのようにして実践していこうとしているのかを知る。そして、そのために一人ひとりは何をする必要があり、何ができるのかを見極めていく必要があります。それは自分のことだけでなく、他者に対しても同じです。その人は何のために存在しているのか。また、どのような賜物が与えられているのか。そして、その賜物を用いてどのようにしてキリストの身体である教会に仕えていくことができるのか。それを知り励ましていくことが私たちに求められていることではないでしょうか。教会には必要のない人は一人もいません。一人ひとりが必要な存在です。自分の存在の意義を知ると喜びが湧き起こります。それは自分だけでなく、他の人も同じであることに気づかされます。そして、人を励ますようになります。神が与えてくださる喜びは、人を励まし生かすことのできるものです。

結)
 神は人を生きる者として造られました。人が生きるには希望が必要です。また、自分が必要とされているという存在意義も大切です。それには、自分を造ってくださった神を知る必要があります。神を知る以外に、それを知ることはできません。その神を知ったとき、人には本当の喜びが与えられます。すなわち、生かされていることの喜びを見出せられます。私たちは神に必要な存在とされています。具体的に、自分に何が与えられ何ができるのかを祈っていきましょう。

Ⅰコリント12:4~11「あなたを通して働く神」  17.11.19.

序)
 何度も話していますが、私には音楽の賜物が与えられていません。それで皆さんには賛美の時にご迷惑をおかけしていると思います。私たちは「賜物」と聞きますと、「何か特別なことができること」と思いやすくなります。確かに、それも賜物です。ですが、特別なことができることだけが賜物ではありません。人を誘うというのも賜物の一つです。また、経験も賜物の一つです。何故なら、その経験を通して、よく似た経験をされた方の気持ちが分かり接することができるからです。そう考えますと、「音痴も賜物の一つかな」と思わされたりもします。1節に「御霊の賜物」と書かれています。先週、御霊なる神によって人は「イエスは主です」と告白できることを話しました。その「イエスは主です」という告白を正しく知りますと、人は様々なことから解放されます。どのようなことから解放されるのかを共に教えられたいと願っています。

1)能力を誇ることからの解放
 第1に、能力を誇るという愚かさから解放されます。4~6節に「     」と書かれています。ここで注目したいのは順番です。最初に賜物が書かれており、次に奉仕が書かれており、最後に働きが書かれています。決して、奉仕が先に書かれていて、その次に賜物が書かれているのではありません。又は、奉仕が先に書かれていて、その次に賜物が書かれているのでもありません。もし、賜物よりも奉仕や働きが先に書かれていて、賜物がその次に書かれているのであれば、能力を誇ることもできるでしょう。しかし、聖書には奉仕や働きよりも賜物が先に書かれているのです。
 このことは何を意味しているのでしょうか。それは、賜物が与えられているから奉仕ができ働きができるということです。分かりやすく考えるならば、奉仕とは「志」ということもできるでしょう。そして、働きは与えられている志を具体的に用いることです。自分に与えられた志を果たすために、自分に与えられている能力を用いるということです。それは賜物が与えられているからできることでもあります。例えば、音楽の賜物が与えられているとします。すると、その音楽という賜物を通して神に仕えていこうという志が与えられます。その志は、礼拝や集会という場で用いられることもあるでしょうし、音楽活動という場で用いられる働きもあります。
 ですが、「音楽を通して神に仕えていきたい」という志は、音楽の賜物が与えられているから起こされたものではないでしょうか。私なんかは音楽の賜物が与えられていませんから、「音楽を通して神に仕えていこう」という思いは全く起こされてはいません。むしろ、起こされたら大変です。皆さんに迷惑をかけてしまいます。それだけでなく、「神の名を汚す」とまでは言いませんが、神のすばらしさを現すことはできないのは事実です。そのように考えますと、賜物が与えられているから志が起こされ、具体的に働かせる機会が与えられることを知らされるのではないでしょうか。ですから、この4~6節に書かれています順番は大切なことです。
 その賜物は、自分自身で生み出したものではありません。4節の最後に書かれていますが、与える方は御霊なる神です。ある方は、「自分の努力で得た」と思われるかもしれません。何故なら、一生懸命練習したり勉強したりされたからです。ですが、そのような機会や環境を与えてくださったのは神ご自身です。また、一生懸命練習したり勉強したりするための忍耐も神から与えられたものです。そのように考えますと、賜物は決して自分自身で生み出したものではないことを知らされるのではないでしょうか。賜物は自分自身で生み出したものではなく、神によって与えられたものです。ですから、自分に与えられている能力を誇るというのは愚かなことです。何故なら、賜物は神から与えられたものだからです。そして、そのことを知りますと、その愚かさから解放されます。そして、愚かさから解放されるだけでなく、賜物が与えられていることに感謝できるようになります。「イエスは主です」という告白を正しく理解するとき、賜物が与えられていることへの感謝の思いが沸き起こり、賜物を誇るというものから解放されます。

2)自己中心からの解放
 第2は、自己中心という愚かさから解放されます。神は一人ひとりに賜物を与えてくださいました。その賜物の目的はなんでしょうか。そのことが7節の最初に「皆の益となるため」と書かれています。すなわち、全体の役に立つために賜物は与えられているのです。決して、個人で楽しむために与えられているのではありません。私たちは、そのことを誤解してしまいやすくなります。しかも、それを信仰的なことばで言い訳してしまいやすくなります。例えば、「重荷が与えられていませんから」というのがそうです。「重荷が与えられていません」というのは、何か信仰的なことばのように聞こえます。しかし、実はしたくないだけのことです。
 聖書は「皆の益となるために」と語っています。この「皆」とは、突き詰めていきますと群れのことであり教会のことです。12:27には「あなたがたは…その部分です。」と書かれています。すなわち、キリスト者は教会の一部であるということです。今までの新改訳聖書では、「一人ひとりは各器官なのです」と訳されていました。私個人としては「器官」と訳した方が良いのではないかと思えます。それは身体に対しての部分だからです。私たちの身体は、様々な器官があります。その各器官は身体全体のために活動しています。決して、その器官だけが満足するために活動しているのではありません。そして、私たちが教会の部分であり器官であるということは、私たちが神を信じる者とされているのも同じです。すなわち、キリストの身体である教会のために立てられているのです。私たちが「イエスは主です」と告白するということは、「私はイエス・キリストに従う」ということであり、それは「キリストの身体である教会に仕える」という告白でもあるのです。
 しかも聖書は「皆の益のために」と書かれています。それは「皆の益となるために立てられている」ということです。すなわち、「皆の益となる存在である」ということです。決して、「皆の益となれる」というのではありません。やがて、皆の益となる者とされていくのではありません。もうすでに、皆の益となる存在とされているのです。そのために、神は私たち一人ひとりに賜物を与えてくださっているのです。大切なのは、その賜物を用いるか用いないかです。そして、何のために用いるかということです。折角すばらしい賜物が与えられているのに、その賜物を用いることをしなかったり、自分のためだけに用いているなら残念なことです。
 イエス・キリストはタラントの譬え話をされました。5タラントと2タラント預けられた人は主人から褒められましたが、1タラント預けられた人は主人に叱られました。何故なら、5タラントと2タラント預けられた人は、主人から預けられたものを用いましたが、1タラント預けられた人は用いなかったからです。「何のために預けられたのか」という意味や目的を正しく理解することは大切なことです。「イエスは主です」という信仰告白は、自分に与えられた賜物の意味や目的を正しく理解させてくれます。そして、教会全体のために用いる者へとさせてくださいます。「イエスは主です」という告白を正しく理解するとき、自分中心の用いるという愚かさから解放されます。そして、教会全体のために用いようという積極的な思いが起こされます。

3)見下すことからの解放
 第3は、見下すことの愚かさから解放されます。賜物は全体のために用いられるものとして神が与えてくださったものです。その賜物は一人ひとりに与えられています。全体のために用いるものとして一人ひとりに与えられているのですから、どの人の賜物も神は必要とされています。「イエスは主です」という信仰告白は、そのことを正しく理解させてくれます。ですから、与えられている賜物も必要なものであることを知っていますから、一人ひとりに与えられている賜物を見下すということをしなくなります。
 私たちは結果を評価する社会の中に生かされていますから、神を信じる私たちもついつい結果によって評価してしまいやすくなります。そして、賜物の評価もそのようになってしまいやすくなります。それはどういうことかと言いますと、よく用いられる賜物はすばらしいが、あまり用いられない賜物はそうではないというものです。もし、自分に与えられている賜物がよく用いられるなら、「私はすばらしい賜物が与えられている」と評価しますが、あまり用いられないなら「私の賜物はすばらしいものではない」と評価してしまうことです。
 確かに神は賜物を用いられますし、その賜物を通してご自身のすばらしさを現されます。しかし、結果で評価されることはなさいません。神が評価されるものは、その与えられている賜物をどのように用いたかというものです。先程話しました5タラントと2タラント預けられた人は、自分に与えられた賜物に感謝し神のために用いました。しかし、1タラント預けられた人はすばらしい賜物があるにも拘らず、その賜物を用いることをしなかったがために叱られてしまいました。この1タラント預けられた人が用いなかった原因は、他の人と比較して僻んでしまったからです。でも、賜物というのは他人と比較するものではありません。何故なら、神は一人ひとりにすばらしい賜物を与えてくださっているからです。そして、最高の御霊の働きは「イエスは主です」という信仰告白だからです。
 「イエスは主です」という告白を正しく理解するなら、他人の賜物を見下さすということから解放されます。それは人を正しく評価するということでもあります。人を正しく評価するというのは、他人の評価だけでなく自分の評価をも含みます。自分に与えられています賜物は、神の目から見て価値のあるものであり、それを神は豊かに用いてくださり、その賜物を通してご自身のすばらしさを現してくださるというのを知ることができます。すると、他人の見方も変えられますし、自分自身の見方も変えられます。人は否定的なものに目を向けてしまいやすい存在です。何故なら、私たちが生かされています社会が、「役に立つ物ほど価値がある」という捉え方だからです。しかし、「イエスは主です」という告白を正しく理解しますと、人は一人ひとり価値があり、神に豊かに用いられる器とされているのを知ることができます。そのため見下すということから解放されるのです。

結)
 「イエスは主です」という告白を正しく理解することは、私たちが生きていく上でとても大切なことです。何故なら、消極的・否定的な捉え方から積極的・肯定的な捉え方に変えられるからです。事実、神は私たち一人ひとりにすばらしい賜物を与えてくださっています。それは、あなたを通して神が働かれるためです。あなたは神に用いられる器とされているのです。これからされていくのではなく、もうすでにされているのです。11節の「みこころのままに」ということばは、「計画する」「熟慮する」という意味です。すなわち、神はご計画をもって一人ひとりに賜物を与えてくださったのです。決して、いいかげんなものではなく、「熟慮する」という神の深い考えがあって与えられているのです。そのあなたを通して働かれる神に対して、私たちに必要なことは何でしょうか。それは、「示されたときすぐに実行できますように」という祈り備えることです。そのように祈っていきましょう。

Ⅰコリント12:1~3「御霊なる神の働き」  17.11.12.

序)
 私たちには一人ひとりに才能が与えられています。聖書では神から与えられた才能を「賜物」と言われています。私たちは、その賜物をついつい他人と比べてしまいやすくなります。神から与えられていることを知りつつも、「自分の賜物は他人よりも劣っているのではないか」と思うことはないでしょうか。ですが、与えられている賜物は他人と比較する必要はありません。何故なら、神が与えてくださるものは全てがすばらしいものだからです。ところが、コリント教会では、その賜物に優劣をつけていました。そして、一番すばらしい賜物は異言であるとしていたのです。異言とは、自分も他人も分からない特別なことばで話しだすものです。「その異言を話す人は霊的に優れている人」とされていたのです。そのため、異言を話す人は異言を話せない人を見下すような態度を取るようになったのです。それに対して、優れている御霊の賜物について語られているのが12章と13章です。今朝は、御霊なる神の働きについて共に教えられたいと願っています。

1)神を信じる前の人
 まずは、神を信じる前の人はどのようなものだったでしょうか。それは偶像を崇拝する存在だったのではないでしょうか。パウロは2節で「     」と語っています。この「異教徒であったとき」とは、まだイエス・キリストを信じていなかったときのことです。そして、「誘われるまま」とは引き寄せられる状態を示しています。コリントの町は、現在の日本と同じように様々な偶像を崇拝していた町でした。決して、一つの神を信じていたわけではありませんでした。太陽の神や海の神や山の神など様々です。また、占いなどもそうです。科学技術が進歩しても、占いに心を寄せる人は大勢おられます。テレビ番組の中でも占いコーナーがあるほどです。それらのものに引き寄せられていくのですが、それらは全て物を言わない偶像です。「物を言わない」とは、私たち人間に語りかけることをせず、自分を現すことのないものです。そのようなものを神として拝んでいるのです。どの時代であれ、神であられる主を信じる前の人は、そのようなものに心が囚われてしまいます。
 日本は「八百万の神」と言って、様々な神々が祭られています。日本の人口は約1億2500万人ですが、宗教人口は2億人を超えています。これは日本人が一つの神を信じているのではなく、複数の神を信じていることを表しています。日本の神々はどれも人に語りかけることはしません。人に語りかけることをしませんから、人の歩みについても何も教えてはくれません。ですから、生活の中で生じたことの判断の基準は自分しかありません。結局は、自分の考えが中心になってしまいます。自分の考えが中心であるということは、自分の思いや願いを叶えることを最優先するということです。すなわち、自分自身が神になっているのです。そのように考えますと、神であられる主を信じ従う決心をする前の自分は、自分のことを最優先させていたことを思い浮かべるのではないでしょうか。
 神であられる主は造られた全てのものを通して、ご自身のすばらしさを現しておられます。しかし、そのようなものに目を留めることもしないで、自分は何でもできる存在であるかのように歩んでいたのではないでしょうか。箴言16:1に「人は心に計画を持つ。」と書かれています。そして、2節には「人には自分の行いがみな純粋に見える。」とも書かれています。ですが、その基準は何かと言いますと自分なのです。自分の目から見ての判断です。ですから、結局は自分に信頼を寄せているのです。それに対して、聖書は1節の後半で「しかし、舌への答えは主から来る。」と書かれていますし、2節の後半にも「しかし、主は人の霊の値打ちを量られる。」と書かれています。すなわち、全てを支配されているのは神であられる主ご自身であることを示しているのです。ですが、私たちもその神に求めようともしないで、自分を中心にして歩んでいたのではないでしょうか。自分を中心として歩むとは、自分自身を崇拝していることでもあります。自分自身を崇拝することも偶像崇拝です。神であられる主を信じる前の自分は、その偶像崇拝に陥っていたのです。人は生まれながらの状態では、偶像崇拝に走らざるを得ないのです。決して、自分の力で偶像崇拝から立ち返ることはできないのです。

2)神を信じた人
 人は自分の力では決して偶像崇拝から立ち返ることはできません。そこには何らかの助けが必要です。3節でパウロは「     」と語っています。その助けとは神の御霊です。以前にも話したことがありますが、私は中高生のときワイシャツを着るとき最後のボタンが余るということが時々ありました。不思議なことに途中で気づくということがありません。それはボタンが順調に穴に入れられているからです。それは私たちの人生においても同じではないでしょうか。物事が順調に進んでいるとき、「このままで大丈夫」と思われている方が多いのではないでしょうか。そして、何か問題に遭遇したとき神を求められます。問題に遭遇したときに神を求めるのが悪いというわけではありません。神は様々なことを通して私たちにご自身を示してくださいます。
 小さい時から教会に通っておられる方は、小さい時から神の存在を知っておられます。ですから、「劇的な救いの経験がない」と言われます。確かにその通りだと思います。ですが、大切なのは神の何を信じるかということです。神であられる主を神と信じることによって罪が赦されるのではありませんし、神の審きから救われるのでもありません。何故なら、サタンも主を神と信じているからです。しかし、サタンは「主の敵」とされているのです。このことは、主を神と信じるだけでは救われないことを示しています。罪の赦しと審きからの救いは、神の赦しの約束を信じることです。イエス・キリストは「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。それは、自分が神に対して罪人であることを認め、その自分の罪を悔い改め、神の約束を信じて全てを神に委ねて従う決心をすることです。救いの経験においては、劇的な経験が必要ではありません。悔い改めて福音を信じることが大切なのです。自分の罪を悔い改めて福音を信じるというのは、小さい時から教会に通っている人であっても経験できることです。
 大人になってから神を知った人であれ、小さい時から神を知っている人であれ、自分の罪を悔い改めて、神の赦しの約束を信じ従う決心をすることが大切なのです。それが今朝の箇所に書かれています「イエスは主です。」という告白です。この告白は、御霊なる神の働きによらなければできないものです。何故なら、人は自分の罪に気づかないからです。人は物事が順調に進んでいるときは、「自分の歩みが間違っている」ということに気づきません。それは「これで良い」と信じているからです。先程も話しましたがボタンのかけ間違い。何の問題もなく順調に進んでいますから、決して自分で気づくことはありません。最後に辿り着くか、他人に指摘されて初めて気づくのです。自分の生き方が間違っていると気づくのも同じです。自分では気づきません。そこには、自分以外の方が働かないと気づかないのです。そして、自分以外の方とは御霊なる神です。その御霊なる神は、イエス・キリストを信じるように導いてくださいます。
 この「イエスは主です」という告白は、単なる口先だけのものではありません。イエス・キリストを「主」とするなら自分は何でしょうか。それは「従う」という「従」です。ですから、この「イエスは主です」という告白は、「イエス・キリストは私の主人であり、私はそのイエス・キリストに従う存在である」という決心であり告白なのです。それは自分の人生を全てイエス・キリストに委ねるということでもあります。自分の人生の全てを委ねるのですから、生半可な思いではできるものではありません。人は新しい歩みをするとき「大丈夫だろうか」という不安を抱きます。その委ねるのが自分の人生の全てなのですから、その不安は大きいものです。ですが、その不安よりも神への信頼の方を強くさせてくれるのが御霊なる神の働きです。

3)みことばに耳を傾けさせる
 先月の最後の主日は、私たちの団体の交換講壇の日でした。当教会には、東向日キリスト教会の湯沢先生がみことばのご用をしてくださいました。そして、私は大阪の和泉市にあります光明キリスト教会にて、みことばのご用をさせていただきました。光明には15名から20名程の方々が集われています。その教会にはペンテコステ派の教会から来られた方々が数名おられます。ペンテコステ派というグループは、癒しや異言というものを強調するグループです。ペンテコステ派から来られた方が話されていたことですが、「ペンテコステ派は、みことばよりも体験を重視してしまいやすくなるけど、この教会の団体はみことばを重視されている」と話されていました。そして、続けて「みことばが土台であり基礎だから、みことばを重視する方が大切だと思っています」とも話されました。私自身「確かにその通りだな」と思いつつ耳を傾けていました。
今教会の午前の祈祷会では申命記の学びに入りました。申命記の最初に「これは…ことばである。」と書かれています。直訳しますと、「これらはことばである。モーセがイスラエルの全ての民に告げた。」となります。申命記の最初には「エーレ ハデバリーム」と書かれています。これが「これらはことばである。」ということばです。祈祷会でも話しましたが、「デバリーム」というのが「ことば」を意味するダーバルの複数形です。何故複数形が用いられているのかと言いますと、申命記はモーセの3つの説教が記載されているからです。すなわち、「デバリーム」ということばは、これから語られるモーセの3つの説教を指しているのです。日本語では「申命記」と言っていますが、ヘブル語聖書では「デバリーム」と言われています。まさしく「ことば」なのです。
 それは何故かと言いますと、これからモーセが語る場所は1節の最後に書かれていますがアラバの荒野です。約40年間荒野をさ迷い歩き、アモリ人の王シホンやバシャンの王オグを倒しヨルダン川の東側に来たのです。アラバの荒野は、神の約束の地カナンを目の前にする所です。イスラエルの民はやっとここまで来たのです。彼らの心の内はどのようなものでしょうか。戦いに勝利し意気揚々としていたのではないでしょうか。そのような時にモーセがイスラエルの民に語ったのが申命記なのです。それは物事が順調に進みますと、ついつい自分の知恵や力に頼って神のみことばを隅っこに追いやってしまいます。そのことに注意を促すために、モーセはイスラエルの民に語ったのです。すなわち、物事が順調に進むときにこそ、神のみことばに耳を傾ける大切さを語っているのです。

結)
 先程、「不安よりも神への信頼を強くさせてくださるのが御霊なる神の働きである」と話しました。でもそれは、神のみことばを通してです。すなわち、御霊なる神の働きは、神のみことばに耳を傾けさせるのです。神を信じる前の人が神を信じるようになるのも、神のみことばに耳を傾けるからです。「イエスは主です」と告白できるのも、神のみことばを信じるようになったからです。私たちの信仰が成長させられるのも、神のみことばに耳を傾けることによってです。その神のみことばに耳を傾けられるのは、御霊なる神の働きによってです。その御霊なる神の働きによって、これからも神のみことばに耳を傾け続けられるように祈っていきましょう。

ⅠⅠコリント11:27~34「神のことばに生きる」  17.11.05.

序)
 先週の交換講壇はどうだったでしょうか。私は大阪の光明キリスト教会にて奉仕させていただきました。土曜日に津の実家に泊まり、日曜日の朝7時前に家を出て向かいました。光明は朝の10時からと午後の3時からの2回の礼拝が行われています。予報では、午後5時頃に大阪に一番近づくということで気になっていましたが、5時頃は雨も止んでいました。光明は朝の礼拝に私を入れずに15名程が集われ、午後の礼拝には8名の方々が集われました。その内6名の方は午前の礼拝にも集われ、残りの2名はユーイング先生と金剛教会の仲姉です。「同じメッセージを2回聞かれるというのは忍耐がいるだろうな」と思いつつ、同じメッセージをさせていただきました。聖書は神のみことばです。その神のみことばは増えることはありません。約2000年間同じことばです。ですが、何度聞いても飽きることは少ないと思います。今朝は、その神のことばに生きることについて教えられたいと思いますが、「神のことばに生きる」とはどういうことでしょうか。今朝の箇所から言いますと、それは自分を吟味することです。では、自分を吟味するとはどういうことでしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)救いの確信を持つ
 今朝の箇所で言われています自分を吟味するということの第1は、救いの確信を持つことです。私たちは「自分を吟味する」というとき、自分の何を吟味されるでしょうか。多くは「聖書の教えを守り行っているだろうか」とか「神を信じる者として品行方正な生活をしているだろうか」という行いではないでしょうか。私も昔はそのように捉えていたことがありました。そのように思うのは、27節に書かれています「ふさわしくない仕方で」と訳されていますが、今までの新改訳聖書では「ふさわしくないままで」と訳されているからです。「ふさわしくないままで」というのは、日々の生活のことを思い浮かべやすくなります。でもそうではなく、聖餐式の過ごし方について話されているのであって、聖餐式の本来の意味を思い巡らしつつ聖餐式に与ろうとしているかということです。先週の礼拝で見ましたように、聖餐式は救いの確信と福音宣教の務めが与えられていることの再確認の場です。そのことを思い巡らすこともしないで、ただ単に聖餐式に与って過ごすことは、主の身体と血に対して罪を犯すことになるのです。
 神を信じる者は、イエス・キリストによって罪が赦され聖い者とされました。どれだけ頑張っても決して消え去ることのない罪の汚れ。また、どれだけ頑張っても決して得ることのできなかった生かされていることの喜び。それらがイエス・キリストを信じることによって罪の汚れが消え、生かされていることに喜びを見出すことができたのです。何故でしょうか。それは罪の汚れや生かされていることの喜びは、自分の努力によって得るものではなく神の恵みによって与えられるものだからです。罪の赦しとは、自分以外の者が「赦す」と宣言されて初めて赦しの確信を持つことができるのです。ですから、罪の赦しは自分の努力によって得られるものではなく、神によって与えられるものなのです。そのことの再確認の場が聖餐式なのです。
 ですから、28節に書かれています「自分を吟味する」ということの第1は、救いの確信を持つことです。29節の「みからだをわきまえる」というのも同じです。この「わきまえる」とは、「見分ける」「区別する」という意味です。みからだを見分け区別するのですから、キリストの身体である教会がどのようなものとされたかをしっかりと見極めることが告げられているのです。キリストの身体である教会の各器官とされている私たちはどのような者とされたでしょうか。神は私たちを「聖い」と宣言してくださっています。どのような私たちが聖い者とされているのでしょうか。それは完璧な私たちではなく、不完全で弱さや欠けを持っている私たちがです。
 神の教えや戒めを分かっているのに、そのことを完璧に実践することのできない自分。ついつい自分の都合の方を優先させてしまう自分。そのような私たちを神は何と言ってくださっているでしょうか。ヨハネ15:3に「     」と書かれています。私たちは神によってすでに聖い者とされているのです。それは、神はありのままの自分を愛し受け入れてくださっていることを表しています。本来ならば、汚れた者とされたままでも仕方がないのに、神の一方的な恵みによって聖い者とされているのです。何によってでしょうか。それは自分の感情や行いによってではなく、神のみことばによってです。神のみことばによって、自分の罪が赦され、神の審きから救われていることを確信するのです。これが自分を吟味するということの第1です。

2)神の恵みに正しく応答する
 自分を吟味することの第2は、神の恵みに正しく応答することです。私たちが自分の罪が赦され、神の審きから救われたのは、私たちが努力したからではなく神の一方的な恵みによってです。私たちは、その神の恵みによって生かされているのです。神の恵みによって生かされている私たちは、当然その神の恵みに対して正しく応答する必要があります。自分が神の恵みに対して正しく応答しているかを吟味するのです。聖餐式は、それを吟味する時なのです。そのような意味合いからも、聖餐式は単なる儀式の一つではありません。自分の神への信仰の再確認の場でもあるのです。
 では、神の恵みに対する正しい応答とは何でしょうか。何度も話していますが、イエス・キリストは「律法の中で何が一番大切なのか」という質問に対して、「全身全霊をもって神を愛すること」と答えられました。神を愛することが神の恵みに対して正しく応答することなのです。では、神を愛する最高の方法は何でしょうか。それは礼拝です。「礼拝は神への最高の奉仕」と言われています。確かにその通りなのです、私はこのことばがあまり好きではありません。何故なら、「奉仕」ということばに抵抗を覚えるからです。「奉仕」を英語では「サービス」と言いますが、私たち日本人は「奉仕」とか「サービス」と聞きますと、「してもしなくても良いのだけれども、その人のためにする」というイメージを持つのではないでしょうか。ですが、礼拝はしてもしなくても良いものではありません。するものとして与えられているのです。「奉仕」という字の通り、一生懸命仕えることを意味しています。礼拝とは、一生懸命神に仕えるものなのです。何故なら、私たちの神だからです。
 ですから、礼拝は神を信じる者にとって中心となるものです。私たちは自分の生活の中で、礼拝をどのように位置づけているでしょうか。私たちはいろいろと計画を立てます。その計画の中で礼拝を中心に置くことが求められているのです。何故なら、私たちは神を礼拝する者となるために救われたからです。イエス・キリストが十字架に架かって死なれ甦られたのは、ありのままの自分が神に愛され受け入れられていることを知り、その神を礼拝する者となるためです。神を信じる者は、神を礼拝する者とされているのです。私たちは神を信じることによって、そのような身体に造り変えられているのです。
 ですから、29節で「     」と語られているのです。「みからだをわきまえないで」とは、本来の目的を果たしていないことを示しています。パウロは10:31で「     」と語りました。神のすばらしさを現すことが私たちに与えられている本来の目的です。それなのに、神のすばらしさを現すことよりも、自分の思いや願いを満たすことを優先させることが「みからだをわきまえない」ことなのです。先程も話しましたように、神の栄光を現す最高の方法は礼拝です。その礼拝よりも、自分の願いや思いを優先させることが、みからだをわきまえないことなのです。聖餐式は、神の恵みに対して正しく応答しているかどうかを吟味する場でもあるのです。そして、その神の恵みに対して正しく応答することが、神のことばに生きることでもあるのです。

3)隣人を愛する
 自分を吟味することの第3は、隣人を愛することです。イエス・キリストは、聖書の戒めの中で一番大切な教えは「主を愛すること」と答えられましたが、それと同時に「隣人をも愛すること」とも答えられました。神と私の関係は縦の関係です。そして、隣人と私との関係は横の関係です。神と私という縦と隣人と私という横の関係が信仰生活にはとても大切なことです。
 イエス・キリストは、隣人を愛することで譬え話をされました。ルカ10:30~37に書かれています「良きサマリヤ人」と言われている箇所がそうです。一人のユダヤ人が強盗に襲われて怪我をしました。すると、祭司が通りましたが道の反対側を通り過ぎて行きました。すると、今度はレビ人が来ましたが、やはり彼も道の反対側を通り過ぎて行きました。彼らには彼らなりの事情があったことと思います。誰が聞いても「正当な理由」と思えるものかもしれません。ところが、一人のサマリヤ人は、強盗に襲われて怪我をした人を介抱しました。彼にも通り過ぎる正当な理由はあったと思われます。ですが、彼は通り過ぎることをしないで介抱したのです。何故でしょうか。それは33節に書かれていますように「かわいそうに思った」からです。すなわち、自分のことよりも強盗に襲われた人のことを思いやったからです。
 この良きサマリヤ人は、イエス・キリストを表しているとも言えます。サマリヤ人はユダヤ人から嫌われ蔑まれていました。しかし、このサマリヤ人は自分を蔑む同じユダヤ人が強盗に襲われかわいそうに思ったので、自分から近づき介抱したのです。イエス・キリストは人から蔑まれていましたが、そのような私たちが罪の奴隷となっているのを憐れんでくださり、ご自身の方から私たちに近づいてくださり十字架に架かってくださいました。そして、この強盗に襲われ苦しんでいるのは、まさしく私たち自身なのです。私たちも罪の故に人生の迷子になっていたのではないでしょうか。一生懸命生きてはいましたが、何のために生き、何処に向かって生きているのか分からない状態だったのではないでしょうか。そのような私たちは、神の一方的な憐みによって生きる者へと変えられたのです。
 イエス・キリストは、この譬え話の最後に何と言われたでしょうか。「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われたのです。この「あなたも行って同じようにしなさい」ということばは、イエス・キリストに質問した人にだけ言われたのではなく、この箇所を読んでいる私たちにも言われているのです。何故なら、私たちも神の憐れみを受けているからです。イエス・キリストは「同じようにしなさい」と言われました。決して「同じ思いでいなさい」とは言われてはおられないのです。「同じようにしなさい」とは、実践することが求められています。今朝の箇所に戻りますが、33節以降に言われていることはそのことです。人のことを思いやり実践することが求められているのです。「自分は本当に隣人を愛することを実践しているのか」と思い巡らす。これが自分を吟味することの第3です。

結)
 聖餐式は単なる記念ではありません。救いの再確認の場です。救いの再確認は、「どれほど自分が神に愛されているのか」を気づかせてくれます。私たちは神に愛され生かされていることを知っていますが、それが当然のように思えてしまうことがあります。「当り前」という思いには感謝の思いは消えてしまいます。聖餐式は「当り前」という思いから、感謝の思いに導いてくれる場でもあります。それは何によってでしょうか。神のみことばによってです。神のことばによって、私たちは神に愛され生かされていることを再確認するのです。詩篇119:50に「     」と書かれていますが、まさしくその通りではないでしょうか

ペテロ1:3~5「生きる力を与える神」  17.10.22.

序)
 毎年、10月の第4主日は「召天者記念礼拝」を行っています。この教会の召天者は2005年2月6日に召された大野英樹兄、2011年9月26日に召された小林春夫兄、2017年4月23日に召された大野伊都子姉の3名です。この召天者記念礼拝は先に天に召された方々を覚えつつ、神が私たちに与えてくださった約束に目を留めるためのものです。その約束は何かと言いますと、「イエス・キリストが再び来られるとき、先に天に召された方々は甦り、再びお会いすることができる」という約束です。今朝は、この箇所から神はどのようにして私たちに生きる力を与えてくださるのかを共に教えられたいと願っています。

1)新生
 神が私たちに与えてくださる第一は新生です。新生とは、3節の後半に書かれていますように、新しく生まれさせてくださるということです。御存知の通り、新約聖書はギリシャ語で書かれています。そのまま訳しますと、「神はご自分の大きな憐れみの故に、私たちを新しく生まれさせた」となります。神は、ご自身の憐みによって、私たちを新しく生まれさせてくださいました。私たちが「憐れむ」というとき、相手のことを「かわいそう」と思い、同情することをイメージするのではないでしょうか。ですが、神の憐れみとは「かわいそうに思う」というよりも、相手の痛みや苦しみを共に覚えることを表しています。すなわち、同じ立場に立ってくださることを意味しているのです。聖書は、よく人を羊に譬えて書いています。そして、生まれながらの人間のことを羊飼いのいない羊として語っています。では、羊飼いのいない羊とはどのような存在でしょうか。
 まずは、目先のものに囚われてしまいます。羊は視力の弱い動物です。ですから、目の前にあるものしか分かりません。目の前に草があれば、先のことは全く考えず食べながら進みます。そして、群れから外れてしまいますと野獣に殺されてしまいます。そうならないように、羊飼いは羊を見守り導いているのです。でも、羊飼いのいない羊は、目の前のものに囚われたままです。人もそうではないでしょうか。目先のことに囚われてしまいます。少し調子が良くなると、「今がチャンスだ」と思い突き進みます。進むべき方向も確認しないで、目の前のことしか見えないのは、まさしく羊飼いのいない羊とよく似ているのではないでしょうか。そのような私たちに、神は羊飼いとなって正しい道へと導いてくださいます。
 次に、羊飼いのいない羊は迷子になってしまいやすいです。先程も話しましたように、羊は視力が弱く目の前の草を食べながら進みますと、群れから外れ迷子になってしまいます。羊は自分の力で小屋に帰ろうとしても帰ることができません。もうなくしかないのです。神を知らない人は、自分が何処から来て何処に行くのかが分かりません。進むべき方向を持っていません。言うなれば、人生の迷子になっているのです。これも羊飼いのいない羊と似ています。だから、神はみことばを通して「私たちが何処から来て何処を目指すのか」という進むべき方向を示してくださっています。神は私たちを人生の迷子から救ってくださいます。
 最後に、羊飼いのいない羊は不安だらけです。羊は牙もなければ他の動物より足も速くありません。ですから、迷子になりますと不安だらけです。それは元の場所に戻れないという不安と、獣に襲われたらどうしようかという不安です。神を知らない人もそうです。そのため強そうに装います。でも、心の中は不安だからです。神は人の心を御存知なるお方です。私たちがどのような思いで生きているかを知っておられるお方です。そして、神はその不安から解放してくださるお方です。
 人は羊飼いのいない羊のように人生の迷子になって、不安だらけで生きています。イエス・キリストは、そのような人を見て「深く憐れまれた」とマルコの福音書に書かれています。イエス・キリストは、人の苦しみを自分の苦しみとされたのです。だからこそ、十字架に架かり私たちの罪の身代わりとして死んでくださったのです。その神の憐れみは神の愛から出ています。神は私たちを愛してくださっています。人は、その神の愛によって新しく生まれ変われるのです。先に天に召された方々も、その神の愛に触れ、その神を自分の羊飼いとして、新しく生まれ変わられた方々です。人は神を自分の羊飼いとするとき、新しく生まれ変えられるのです。

2)希望
 神が私たちに与えてくださる第二は希望です。先程、「神はご自分の大きな憐みの故に、私たちを新しく生まれさせた」とギリシャ語には書かれていると話しました。その後に、「イエス・キリストが死者の中から甦られたことによって、生ける望みを持つようにしてくださいました。」となっています。人は神の愛を知ることによって新しく生まれ変わるだけでなく、生かされていることの望みを持つようにされるのです。ここで注目したいのは、生かされていることの喜びではなく、生かされていることの望みということばです。望みというのは将来的なことです。人の将来的課題は死後のことです。ですが、神を賛美できる者は、死後のことについても望みが与えられているのです。何によって与えられているのでしょうか。それは、イエス・キリストが死者の中から甦られたことによってです。イエス・キリストが甦られたことによって、人は死んで終わりではないことを知らされるのです。死んだ後に甦るという望みを持つことができるのです。この望みを持っているのと持っていないのとでは大きな違いが生じます。
 復活の望みというのは、単に死後の甦りがあるというだけでなく、今生かされている生活の中にも深く関わってきます。何度も話していますが、復活の望みのない生き方は「人は死んだらお終いだ」という生き方です。死という問題を解決できずに、死に対して絶望的な生き方です。しかし、復活の望みを持つ生き方は、絶望的に思えた死をも神は解決してくださる方であることを知っています。すると、日々の生活の中で失望的なことや絶望的なことに対しても、神に期待して望みを持って生きることができます。復活は死という問題を通して行われます。死ななければ復活もありません。復活の望みを持つ生き方は、直面する苦難を通して神は最善を尽くして解決してくださることを確信させる生き方でもあります。
 私たちは苦難に直面して、「こんなはずではなかった」と思ってしまうことがあります。そのように思うことは間違いではありません。ですが、そこで終わってしまったら間違いです。私たちは死を通して復活というすばらしい経験をすることができるのですから、苦難を通して神のすばらしさを経験することができるのです。ヨブがそうでした。ヨブは神によって多くの財産が与えられ裕福な生活をしていましたが、とても敬虔な人でもありました。ですが、彼は身体中に腫物ができてしまいます。全身醜い状態になってしまいます。彼の妻からも嫌われ、家のしもべらからも見下され、彼の友人たちからは「あなたが罪を犯したからだ」と責められました。そのような中で、ヨブは自分の正しさを主張し、「神が間違っている」と突っぱねました。しかし、最後に神のことばを聞いて、自分の間違いに気づかされヨブは悔い改めました。その後、ヨブは腫物を打たれる前よりも2倍の祝福をいただいたのです。ヨブがこのような神のすばらしさを経験することができたのは苦難を通してです。生ける望みとは、死に対しても望みを持つようになるだけでなく、日々の生活で経験します苦難に対しても望みを持つということです。神は、その望みを私たちに与えてくださったのです。

3)資産
 神が私たちに与えてくださる第三は資産です。4節に「朽ちる…こともない」と書かれています。これは、全く聖い永遠的なものという意味です。神を賛美する者は、その資産を受け継いでいるのです。朽ちることもなく、しおれてしまうこともなく、消えてなくなることもない資産とは何でしょうか。旧約聖書における神の民の資産はカナンの地でした。それは、神がイスラエルの民のために備えておられた地です。イスラエルの民は、約400年エジプトで生活することになりましたが、モーセとヨシュアを指導者としてカナンの地に入り、その地を受け継ぎました。これは譬えのようなもので、神は本当の地を別の所に備えておられます。それは天の御国です。この天の御国が、神の民が受け継ぐ資産なのです。しかも、聖書は「あなたがたのために天に蓄えられている」と語っています。このことから、ヨハネ14:1~3のみことばを思い起こされます。イエス・キリストは、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く」と語られました。イエス・キリストは誰にそのことを話されたでしょうか。心を騒がしてしまう弟子たちにです。不安だらけの弟子たちに話されたのです。その弟子の中には当然ペテロもいました。そのペテロが今朝の箇所で語っているのです。
 神を信じつつも不安を覚える私たち。信仰の戦いをし、時には誘惑に負けて敗北する私たち。そのような経験を通して、「こんな私が本当に天の御国に入ることができるのか」と不安になることもあります。ですが、聖書は「受け継ぐようにされた」と語っているのです。受け継ぐとは相続するということです。相続権が与えられているのです。この相続権というのは、家族に与えられるものです。すなわち、神を信じるならどのような者であれ、神の家族の一員とされているのです。また、神を賛美する者は、神を「父」と呼ぶことができます。聖書の時代の父というのは絶対的権威者であると同時に、家族を守る守護者でもありました。私たちが神の家族の一員とされたということは、神が私たちを守ってくださることを表してもいるのです。ですから、パウロはローマ8:35で「     」と語り、38~39節で「     」と語っているのです。私たちを神から引き離すものは何もありません。神が私たちを守ってくださいます。私たちの相続権は、決して他の者に奪い取られたり、なくなってしまったりすることはないのです。何故なら、私たちの相続権は天に蓄えられているからです。この世において様々な信仰の戦いを経験し天に召された方々は、この天に蓄えられていた相続権によって、今天の御国におられるのです。

4)救いの完成
 神が私たちに与えてくださる第四は救いの完成です。ペテロは、神を信じる全ての者に天の御国の相続権が与えられていることを語った後、救いの完成の約束を語っています。「救いをいただくのです。」と聞きますと、「イエス・キリストを信じても救われないのか」と疑問に思われるかもしれません。しかし、聖書の中には救いについて3つあることが分かります。それをキリスト教用語で言いますと「新生」「聖化」「栄化」です。新生とは、イエス・キリストを信じたときです。罪の赦しを受け、人が人として生きられるように変えられ、新しく生まれ変えられたときです。このときに、天の御国への相続権が与えられ、天の御国に入れる約束を受けます。次に聖化とは、イエス・キリストを信じた後の日々の生活のことです。天の御国を目指しつつ日々の生活を通して、私たちは神によって聖められていきます。これも救いです。そして栄化とは、この世での生活を全うして天の御国に入るときです。このことを「救いの完成」とも言いますが、これも救いです。ですから、「救いをいただくのです」というのは、「今はまだ救われていない」というのではなく、天の御国に入れるということを表しているのです。
 そしてペテロは、「あなたがたは…守られており」と語ります。私たちを守っているのは神と信仰なのです。神の御力によって守られていることは分かりますが、信仰によって守られていることを不思議に思われる方もおられるかもしれません。この信仰とは誰の信仰でしょうか。もちろん、イエス・キリストを信じている人の信仰です。私たちの信仰が自分自身を守っているのです。そのようなことを聞かれますと、「私のような信仰でどのように自分を守るのか」と思われるかもしれません。ですが、私たちの信仰は自分自身で生み出したものではなく、神から与えられたものです。もし「自分の信仰が良くないもの」と思うなら、神は良くないものを与えられたことになります。しかし、神が与えてくださるものは全て良いものでありすばらしいものです。ですから、今私たちに与えられています信仰は良いものでありすばらしいものなのです。そして、神が与えてくださいました信仰とは、何かをすることではなく神を信頼して神に寄り頼むものです。私たちには限界がありますが神には限界がありません。その限界のない神に寄り頼むのが神から与えられた信仰です。
 ところが、「私のような信仰」と否定的に考える人は、「信仰が弱いから」と思われているからでしょう。弱ければ強められたら良いのです。ルカ11:9~10に「     」と書かれています。有名なみことばの一つですが、この箇所は祈りについて話されている箇所です。神に祈るなら神は必ず良いものを与えてくださるという約束が話されています。神に「私の信仰が強められますように」と祈るなら、神は私たちの信仰を必ず強めてくださいます。「そのような大胆な祈りなどできない」と思われるなら、「今日もあなたを信じられますように」でも良いと思います。神は必ず私たちの祈りに応えてくださいます。そして、天の御国へと導いてくださいます。私たちがこの世を全うし、天の御国に入るとき救いが完成されます。そして、その天の御国で先に召された方々とお会いすることができるのです。

結)
 神は、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを与えてくださり、神の家族の一員として資産を受け継がせてくださり、天の御国に入れさせてくださいます。そして、神によって先に天に召された方々と再会させてくださいます。だから、ペテロは神を賛美しているのです。私個人としては、大野英樹兄にはお会いしていませんし、小林春夫兄とは長いお付き合いとは言えませんでした。長いお付き合いをさせていただいたのは大野伊都子姉です。大野姉の歩みは地味な歩みのように思えます。しかし、神に信頼する歩みでもありました。「信仰によって天の御国に入られた」というのを深く思わされました。それは神が生きる力を与えてくださったからです。私たちが信じている神はそのようなお方です。私たちも、その神から生きる力を日々与えられつつ、天の御国に召された方々と再会できることに期待しながら歩まされたいと願わされます。

Ⅰコリント11:23~26「最後の晩餐の意味」  17.10.15.

序)
 今朝の箇所は、クリスチャンの方でしたらよく御存知の箇所です。何故なら、毎月行われています聖餐式が朗読されている箇所だからです。毎月、教会で行われています聖餐式にはどのような意味があるのでしょうか。ある方は「聖餐式は記念である」と言われます。これはことばのニュアンスによるものですが、私たち日本人が「記念」と聞きますと、単に覚えるだけのことのように受け取るのではないでしょうか。来主日は召天者記念礼拝です。ここにも「記念」ということばが用いられています。召天者記念礼拝は、先に天に召された方々を覚えるだけの礼拝でしょうか。そのことは来主日の礼拝にて触れるとしまして、聖餐式はどうなのでしょうか。JBCの信仰告白文にも、「聖餐はバプテスマを受けた者が、主を覚えて行い、主の再臨のときに至るまで、主の死を告げ知らせるものである。」と書かれています。実際に、聖書にはイエス・キリストが「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と告げられていることが書かれています。だから、「記念として行うものだから、それほど大きな意味合いはない」と捉えておられる方もおられます。今朝は、その聖餐式の意味について共に教えられたいと願っています。

1)贖いの死
 聖餐式の意味の第一は、イエス・キリストの贖いの死を示しています。イエス・キリストはパンを取られ、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。」と話されたことが24節に書かれています。聖餐式で食しますパンは、小羊の肉を意味しイエス・キリストの身体を表しています。しかも、そのイエス・キリストは「あなたがたのための」と話されているのです。御存知のように最後の晩餐の後、イエス・キリストはユダヤ教指導者たちに捕えられ、十字架につけられて死なれます。イエス・キリストは、ご自分の最後のときを御存知でした。それ故、24節で話されていることは、イエス・キリストの十字架の死はあなたがたのためのものであるということです。すなわち、イエス・キリストは私たち自身のためなのです。
 以前にも話しましたが、私たちは自分の罪を認めて告白し、その罪を悔い改めてイエス・キリストが身代わりになって十字架に架かって神の審きを受けてくださったと信じることによって赦されます。ですが、赦されることと償うこととは別です。ダビデはバテ・シェバとの件で、自分の罪を認め悔い改めましたから赦されましたが、バテ・シェバとの間に生まれた子供は死にました。また、マナセ王も自分の罪を悔い改めて神にへりくだり仕えましたが、南ユダ王国はマナセの犯した罪によって滅ぼされました。これは赦しと償いは別であることを示しています。裁判で言えば、刑事裁判と民事裁判です。刑事裁判で無罪となっても、民事裁判で賠償金を支払う判決を受けることがあります。相手に損害を与え赦されたとしても、弁償しなければならないのと同じです。私たちの罪は悔い改めることによって赦されますが、同時に償うことも必要なのです。23節に書かれています「これはあなたがたのための、わたしのからだです」とは、そのことを意味しているのです。すなわち、本来は私たちが自分の罪を償わなければならなかったのですが、その罪をイエス・キリストが代わりに償ってくださったということです。自分の罪の罰を誰かが代わりに受けることを「贖い」と言います。私たちはイエス・キリストの贖いによって、自分の罪を償うことをしないで赦されたのです。
 私たちが自分の罪を償うとは、罪の罰を受けるということです。それは死を意味します。死んで自分の罪を償いますと、神の赦しを経験することはできません。赦された経験をして、本当の意味で生きるという本来の人間の歩みができません。神がこの世界を造られたのは、造られた全てのものが生かされていることに感謝と喜びをもって生きるためです。それによって神のすばらしさが現されるのです。もし、罪を犯した人間が自分の罪の罰を受けることによって死んでしまいますと、生かされていることに感謝と喜びをもって生きるという、本来の目的が実現できなくなります。神は私たちが生かされていることに感謝と喜びをもって生きることができるために、その罪の償いをイエス・キリストに負わせられたのです。聖餐式で配られるパンは、そのことを指し示しているのです。

2)新しい契約
 聖餐式の意味の第二は、新しい契約の中に入れられていることを意味します。イエス・キリストは、パンを配られ食された後に杯を回され飲まれました。そして、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。」と話されました。新しい契約ということは、古い契約があることを意味しています。では、その古い契約とはどのようなものでしょうか。それは、神がシナイ山でイスラエルの民と結ばれた契約のことです。それを「シナイ契約」と言います。その契約については出エジプト記24:5~8に「     」と書かれています。神とイスラエルの民との間に結ばれた契約が結ばれますが、その契約のしるしとして血が注がれます。それによって、「確かに契約が結ばれた」ということの見えるしるしの保証となります。
 その古い契約は石の板に書き記されました。では新しい契約は何処に書き記されるのでしょうか。エレミヤ31:31~34に「     」と書かれています。新しい契約は心に書き記されるのです。石の板は壊れてしまいます。実際に、モーセは怒って十戒が書かれた石の板を投げて壊してしまいました。ですが、心は決して壊れることはありません。イエス・キリストを信じた者の心の中に、神の契約は書き記されているのです。そして、その契約が確かに結ばれたことを見るしるしとして、イエス・キリストの血が流されたのです。ですから、イエス・キリストの血は新しい契約の見えるしるしなのです。
 ともすると、私たちはイエス・キリストの十字架の死を思うとき、私の身代わりとして死なれたイエス・キリストの身体を思い浮かべやすいのではないでしょうか。そして、血を流されたことをあまり思い巡らさないのではないでしょうか。思ったとしても、それは釘で打たれたから血を流された位しか思わないのではないでしょうか。確かにイエス・キリストが血を流されたのは、身体に釘を打たれたからです。しかし、それだけではありません。神は「あなたと新しい契約を結びます。その新しい契約のしるしはイエス・キリストの血です。」と言われているのです。私たちが聖餐式で飲みます杯は、「確かに私は神と契約を結ばれた」ということを思い巡らすときなのです。
 私たちの教会でバプテスマを受けておられない方が聖餐式を受けることを控えていただいているのは、そのような意味合いがあるからです。私が以前いました教会で、親が杯を飲んだ後子どもがなめていました。それを見た牧師は親と子どもに注意されました。それは、そのような意味合いがあるからです。これから、聖餐式で杯を飲む度に、「自分は新しい契約の中に入れられている」ということを思い巡らしましょう。

3)福音宣教の務め
 聖餐式の意味の第三は、福音宣教の務めを意味します。26節に「     」と書かれています。「主の死を告げ知らせる」とは、お分かりのようにイエス・キリストの十字架による死です。何のためにイエス・キリストは十字架に架かって死なれたのかということです。それは私たちの罪が赦され、生かされていることに感謝と喜びをもって生きるためです。ありのままの自分が神に愛され受け入れられていることを経験するためです。神は私たちが生かされていることに感謝と喜びをもって生きることができる方法をとってくださったのです。それは何時からでしょうか。まだ私たちがイエス・キリストを信じていない時からです。神を信じず、神に背を向けていた時から、神は私たちのためにイエス・キリストを十字架につけて贖ってくださったのです。それは、神がありのままの私たちを愛し受け入れてくださっていることのしるしでもあります。
 先月の17日の礼拝でも話しましたが、過越しの食事では杯が4度回されます。ルカ22:17に書かれています杯は2度目の杯です。そして、22:20に書かれています杯は3度目の杯です。ですから、教会で行われています聖餐式の杯は3度目の杯を表しています。最後の晩餐での杯はこれで終わっています。すなわち、4度目の杯は回っていないのです。マタイ26:29でイエス・キリストは「     」と話されました。4度目の杯は天の御国で私たちと共に飲まれるのです。ですから、神の審きが過ぎ越されるという救いの完成はまだ成就されていないのです。成就されるのは、イエス・キリストが再びこの世に来られた時です。私たちは、3度目と4度目の杯の間の時代に生かされているのです。聖餐式は、そのことを覚える時でもあるのです。だからこそ、イエス・キリストの十字架の死を告げ知らせる必要があるのです。
 イエス・キリストの十字架による死は神の愛を表しています。私たちは、その神の愛を伝える務めが与えられているのです。誰に伝えるのでしょうか。もちろん、イエス・キリストの十字架の意味を知らない人にです。その中で一番近いのは家族です。家族の救いのことを祈られておられることと思います。また、信仰の継承についても祈られていることと思います。今月からキッズ・ブラウン英語教室がはじまりました。先月は、その説明会が行われました。その説明会で小根久保兄が「週1回だけの英語教室に通って英語が上達するとは思わないでください」と話されました。その後に、「週1回のピアノ教室に通うだけでピアノが上達するのではなく、毎日練習することによって上達するのと同じように、英語も毎日聞くことによって上達する」と話されました。それを聞きながら「信仰の継承も同じだな」と思わされました。私がまだ独身であったとき、教会で子どもが頭を何処かにぶつけて「痛い痛い」と泣きながらお母さんの所に来ました。すると、お母さんは子どもの頭を手で摩りながら「痛いの、痛いの、飛んでけ!」と言われていました。私はその様子を見ながら「何故祈らないのだろうか」と思わされたのを覚えています。週に1度、教会や教会学校に来て信仰の継承ができるものではありません。それは丁度、家では何もしないで週に1度習い事に行って上達するのを願うのと同じです。ゼロではありませんが、信仰を持つ可能性は低く「奇蹟」としか言いようがありません。神の奇蹟に期待するのは悪いことではありません。でも、私たちは普段可能性の高い方を選んでいるのではないでしょうか。それならば、信仰の継承についても毎日子どもに神様のことを身近に感じさせる努力をすることは大切なことではないでしょうか。「それをしたら信仰は継承できるのか」と聞かれますと、「それでも難しい」としか答えられませんが、しないよりもした方が信仰の継承の可能性は高いのは確かです。聖餐式は福音を伝えていく。神の愛を伝えていく務めが与えられていることを覚える時でもあります。

結)
 聖餐式は単なる記念的なものではありません。今、私たちがどのような時代の中に生かされているのかを再確認するものでもあります。そして、私たちがどれほど神に愛されているのかを覚える時でもあります。その神の愛を伝えていく努力をさせていただきたいと願わされます

Ⅰコリント11:17~22「神の栄光を現す教会」  17.10.08.

序)
 私たちの教会ではしていませんが、関東の教会では殆ど礼拝の後に食事会をしています。これを「愛餐会」という所もあります。この食事会は初代教会の時代から行われていました。但し、今日と違うのは、この食事会が主の晩餐を表していたという点です。パウロは、この食事会を通して「教会とは何か」ということを語っています。この11章には、教会の集まりについて書かれています。2~16節ではかぶり物について、17~34節では主の晩餐について書かれています。今朝は、主の晩餐で行われているコリント教会の問題点を通して、教会とはどのような群れであるかを共に教えられたいと願っています。

1)目的のある群れ
 まずは、教会は目的のある群れです。17節に「あなたがたの集まり」と書かれています。これは、18節に書かれています「教会の集まり」のことを言っています。すなわち、「教会の集まりとは何か」と語っているのです。人の集まりには何らかの目的があります。それは楽しみを目的とするものもありますし、学びを目的とするものもあります。それと同じように、教会の集まりにも目的があります。ですから、「教会の集まり」ということは、教会は目的をもって集まる群れであることを意味しているのです。
 では、その教会の集まりの目的は何でしょうか。私たちの教会は、何を目的として建てられているでしょうか。その教会の目的は神の栄光を現すことです。すなわち、神のすばらしさを現す群れです。具体的に、どのようにして神の栄光を現すのでしょうか。それは礼拝・伝道・学び・交わりなどを通してです。ですから、教会は決してサークルではありませんし、仲良しグループの集まりでもありません。全員が一つになって神のすばらしさを現すという目的をもった群れなのです。
 パウロは10:17で「     」と語りました。教会に何人の人が集まろうが同じ一つの身体なのです。神のすばらしさを現すという一つの目的に向かって歩む群れなのです。そのことについてパウロは、ローマ12:4~5で「     」と語っています。私たちの身体には様々な器官があります。ですが、4節にも書かれていますように、全てが同じ働きをしているわけではありません。各々違う働きをしています。各々が違う働きをしているから、身体は健全に機能することができるのです。そして、教会がキリストの身体であるならば、教会の機能も同じであると言えます。6~8節に「     」と書かれています。教会に集う一人ひとりの働きは違います。私たちは皆と同じようにしなければならないように思えますが、同じでなくても良いのです。ここで注目したいのが、6節の最初に書かれています「私たちは…持っている」ということばです。何故違っていても良いのかと言いますと、与えられている賜物が違うからです。各々が持っている賜物は神から与えられた恵みです。ですから、皆と同じようなことをするのが大切なのではありません。大切なのは、神から与えられている賜物を豊かに用いることです。しかしながら、何であれ賜物が用いれば良いというのではなく、同じ目的に向かって用いられることが大切です。

2)自己満足を満たす場所ではない
 次に、教会とは自己満足を満たすための群れではありません。コリント教会では、礼拝とは別に食事会がなされていました。この食事会は、先程も話しましたが主の聖餐を表していました。その食事会に一つの問題が生じていました。それは、全員がそろってもいないのに後から来る人を待たずに勝手に食べる人がいたという問題です。先に食べる人はお腹を十分に満たすことができます。しかし、後から来た人は残っているものしか食べることができず、充分にお腹を満たすことができませんでした。この食事会の問題は何かと言いますと、単なる自分の満足感を満たすためだけのものとなっていたということです。食事会の中心が自分になっていたのです。
 聖書は、イエス・キリストが人々と食事を共にしたことが書かれています。イエス・キリストは何故人と共に食事をされたのでしょうか。しかも、福音書には、罪人と共に食事をされたことが記されています。イエス・キリストは何のために食事を共にされたのでしょうか。聖書における食事というのは交わりを意味しています。すなわち、イエス・キリストが人と共に食事をされたということは、イエス・キリストは人と交わりを持たれたということです。しかも、罪人と共に食事をされたということは、罪人と交わりを持たれたということです。それは罪人を受け入れられたことを表してもいます。
 教会における食事会というのもそうです。私たちの教会は食事会をすることが少ないですが、食事会も一番の目的は交わりです。また、この教会で行われています礼拝後の茶菓の時もそうです。これも交わりを目的として行われているのではないでしょうか。食事は肉の糧ですが、人は霊の糧も必要としています。何故なら、人は肉と霊による者として神に造られた存在だからです。肉の糧が食事であるなら、霊の糧は神のみことばです。礼拝では、その神のみことばの解き明かしがなされます。ともすると、「礼拝の中心はメッセージ」と思いやすいのではないでしょうか。ですが、礼拝の中心はメッセージではありません。神のみことばです。週報に書かれていますことばを用いるなら聖書朗読です。この聖書朗読に基づいて、神のみことばの解き明かしがなされるのです。ですから、中心は神のみことばであり聖書朗読です。人によっては、心地よいメッセージを求める方がおられます。しかし、それは間違いです。何故なら、それは自己満足を求めることになるからです。でも、礼拝は自己満足を求めるものではなく、神のみことばに耳を傾けるものです。しかし、心地よいメッセージを求めるようになりますと、礼拝の中心が自分になってしまいます。礼拝の中心は自分ではなく、神ご自身であり神のみことばです。私たちは、そのことに注意しつつ神に礼拝を献げていく群れとして歩まされるようにしたいものです。

3)励まし合う群れ
 最後に、教会は互いに励まし合う群れです。パウロは17節で「あなたがたの集まりが益にならない」と語っています。この「益」とは自分の益ではなく、24日の礼拝の時にも触れましたが他人の益のことです。すなわち、「他の人のためになっていない」ということです。10:23に書かれています「他の人が有益になる」とか「他の人が徳を高める」に大切なことは何でしょうか。それは励ますことではないでしょうか。群れは互いに励まし合って成長します。へブル10:25に「     」と書かれています。教会の集まりに集わない理由は様々でしょう。このことは昔も今日も大きな課題の一つです。「だからこそ励まし合う必要がある」と聖書は語っているのです。
 何度も語っていますが、私たちが生かされています社会は霊的荒野です。神を信じたからと言って何の問題もなく進むというものではありません。様々な課題に直面します。それは丁度、イスラエルの民が神の導きの中にありながら、荒野の生活を強いられたのと同じです。イスラエルの民は、エジプトで奴隷の生活を強いられていました。しかし、神によって奴隷生活から解放され、神の約束の地に向かって歩み出しました。最初は大きな期待を抱いていたことでしょう。しかしながら、現実はそうではありませんでした。エジプトを出るとき、目の前には海があり、後ろからはエジプトの兵士たちが迫ってきました。また、海を渡り終えてからも、荒野では喉が渇きますしお腹も空きます。イスラエルの民の荒野での生活は何の苦難もないものではなく、苦難だらけの生活が続いていたのです。彼らの中には「神の導きに期待していたけれども、こんなに苦しいことだらけで本当に大丈夫なのだろうか」という不安が生じました。そのため、神に何度もつぶやいてしまったのです。これは神を信じる者の生活を表しています。私たちも神の導きの中にあるにも拘らず、様々な苦しみに直面します。まさしく、私たちの日々の生活は「荒野」ということができます。だからこそ、互いに励まし合っていく必要があるのです。共に祈り合っていく必要があるのです。
 パウロは10:17で「私たちは多数であっても一つの身体です。」と語っています。さらに、12:25~26では「     」と語っています。身体の一つの器官の調子が悪ければ、他の器官が補って身体を保とうとします。蚊に刺されて痒みを覚えたら、手がその痒いところを掻いたり摩ったりします。私たちの身体は本能的に互いに補い合っているのです。何故なら、一つの身体だからです。そして、教会がキリストの身体であり、私たちが各器官とされているのなら、私たちは互いに励まし合い、補い合い、祈り合っていく必要があります。その励ましは、やはり神のみことばに基づいた励ましです。伝道者の書3:1に「     」と書かれています。そして、2節以降には様々な事柄には時があることが記されています。そして、11節に「神のなさることは、全て時にかなって美しい。」と締めくくられています。この1節の「定まった時期」とは、11節から考えますと「神が定められた時期」と理解することができます。一つのひとつの事柄には、神が許可されていることであり、そこには何らかの意味があることを示しています。意味があるということは目的があるということです。信仰による苦難の中にも神の目的があるのです。その神の目的は何でしょうか。それは、そのことを通して神のすばらしさを知るためです。神は私たちの想像を越えた大いなる方です。私たちが想像もしなかった方法で解決へと導いてくださる方です。ですから、私たちは神に期待して良いのです。信頼して良いのです。一つひとつの事柄に神の目的があることを示しながら、互いに励まし合い祈り合っていく群れとして歩まされたいものです。

結)
 コリント教会が抱えていた問題の一つは、教会の集まりの目的が自己満足のためということです。ですが、教会は自己満足のための所ではありません。人の益となる場です。神のみことばに基づいて励まし合い祈り合っていく群れです。それは、そのことを通して私たち一人ひとりが神のすばらしさを知るためです。教会とは、その神のすばらしさが現される所であり、神のすばらしさを現すとい目的のある群れです。私たちの教会が、さらに神の栄光を現す群れとして歩み続けられるように祈っていきましょう。そのためにも、互いに励まし合い祈り合って歩まされましょう。

Ⅰコリント11:1~16「変化する文化の中で」  17.10.01.

序)
 早いもので、今年度も下半期に入りました。上半期の歩みが守られたことに感謝しつつ、下半期の歩みも神が導いてくださることに期待したいものです。この下半期から、教会では新たにキッズブラウン英語教室が行われます。この英語教室を通して、さらに地域に福音が広がることを願っています。続けて、そのことのためにお祈りください。私が一番驚いたのは、英語ができない人であっても英語を教えることができるということでした。それは私の常識を越えるものであり、時代は変わりつつあるというのを改めて思わされました。私たちは、そのような変化する文化の中で生かされています。そして、文化が変わるということは価値観も変わるということでもあります。何故なら、「これが大切だ」としていたものが、文化が変わることによって大切ではなくなってしまうからです。私たちはそのような変化する文化の中で、神を信じる者としてどのように歩むことが大切でしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)変わって良いもの
 私たちは変化する文化の中で生かされていますから、その社会の中で変わっても良いものと変わってはならないものとを見極める必要があります。では、変わっても良いものとは何でしょうか。それは文化です。今朝の箇所の7節には、女性は教会の中ではかぶり物を着けることが勧められています。実際に現代の教会の中でも、礼拝に出席するとき女性は帽子をかぶることが定められている所もあります。何故なら、聖書に記されているからです。皆さんはどうでしょうか。聖書を誤りのない神のことばと信じておられるでしょうか。それなら、聖書にこのように勧められているのですから、来週から女性は帽子をかぶって教会に来られるでしょうか。このことは私たちにとって大きな事柄です。欧米社会の中で、女性が公の場所に出るときに帽子をかぶったり、礼拝に出席するとき男性も女性も正装して出席するのも聖書から来ています。
 実は、女性が公の場に出るとき頭にかぶり物を着けるのは、イエス・キリストが来られる前からありました。イスラエル近隣諸国の文化でもありました。ですから、イスラム教の女性たちも外に出るときはかぶり物を身に着けているのもそうです。女性は外に出る時はかぶり物を身に着けていますが、家の中では自由です。当時の教会は教会堂ではなく、ある家庭が解放されて、そこに人が集まり礼拝が献げられていました。ですから、家庭を解放する人からすれば「自分の家なのだから」として、かぶり物を身に着けていなかった人がいたのかもしれません。また、ある人は「個人の家に行くのだから」としてかぶり物を身に着けなかったのかもしれません。礼拝の場に、きちんとした身だしなみをしないで集う人たちが出て来たのです。家の教会であれ、教会には間違いありませんし公の場です。
 パウロは、そのことについて論じているのです。14節に書かれています「自然自体が」というのは、当時の社会習慣です。女性のかぶり物についても、男性の髪の毛についても、当時の社会習慣の中で告げられているのです。では、パウロは何を伝えようとしているのでしょうか。それは社会習慣の大切さです。キリスト者はイエス・キリストによって自由にされた者です。ですが、だからと言って社会習慣を無視しても良いものではありません。「その社会習慣が神の名を汚すものでないならば従うように」と勧めているのです。しかしながら、社会習慣というのは文化と共に変わっていくものです。ですから、絶対的なものでもありません。私たちは、そのことをきちんと見極める必要があります。今朝の箇所に書かれています身だしなみについてもそうです。これは当時の社会習慣であり文化です。ですから、このことを現代の私たちもきちんと守り行わなければならないというものはありません。それと同時に否定することでもありません。どちらでも良いものです。
 ここで聖書から教えられることは何でしょうか。それは、私たちが生かされている社会の中には習慣があるということです。確かに、キリスト者はイエス・キリストによって自由にされている存在です。ですが、その社会習慣を無視しても良いのではなく、神の名が汚されないものであるならば、その社会習慣に従う必要があるのです。社会習慣に従うということは、社会の中で生きることであり、それは人間関係の中で生きることでもあります。先週の箇所である10:23に「     」と書かれていますように、何をしても自由なのですが、それら全てが人間関係において益となるわけでもありません。社会習慣や文化は絶対的なものではなく変わるものです。しかしながら、尊重していくものでもあるのです。

2)変えてはならないもの
 社会習慣や文化は時代や場所によって変わるものですから、私たちの中でも変わっても良いものです。しかしながら、変えてはならないものもあります。それは何かと言いますと福音です。パウロは、ガラテヤ1:6~9で「     」と語っています。8節でパウロは、「もし私たちが…呪われるべきです。」と宣言しています。すなわち、聖書が語っている福音を変えてしまうことがあるのでしょうか。実際にガラテヤ教会がそうでしたし、ローマ教会がそうだったのです。聖書が語っている福音は信じることを強調していますが、別の福音は行いを強調していたのです。確かに、信仰生活には行いが伴います。ヤコブ自身もヤコブ2:26の最後に「行いのない信仰は死んでいるのです。」と語っています。ですが、これは救われた後のことであって、救われるための行いを語っているのではありません。しかし、ガラテヤの教会やローマの教会は、「救われるためには行いが必要である」としていたのです。これが別の福音です。だから、パウロはそれに対して強く反対していましたし、「そのようなことを教えている者は呪われるべきである。」と語っているのです。
 では、変えてはならない福音とはどのようなものでしょうか。その第一は、神はありのままの自分を愛してくださっているということです。神は聖く義しい方ですから、当然罪を嫌われます。しかしながら、私たちは生まれながらの罪人です。ですから、そのような私たちが神に愛されるようになるには、私たちの行いを改める必要があるように思えます。しかし、そうではありません。詩篇8:5に「     」と書かれています。神は人を造られたとき、ご自身よりも劣るものとして造られたことが書かれています。神よりも劣るものとして造られたということは、神の目から見て完璧ではないということです。そのように神は人を造られましたが、創世記1:31には「それは非常に良かった」と評価されているのです。すなわち、神は私たちが完璧な存在でないことを御存知の上で、非常に良いという評価をされているのです。それは、完璧ではない私たちをありのまま受け入れてくださっているということです。神の私たちに対する愛は条件付きの愛ではなく無条件の愛なのです。これは決して変えてはならないものですし、変わらないものなのです。
 第二は、イエス・キリストの十字架です。イエス・キリストの十字架は、私たちの罪のための身代わりとしての父なる神の審きです。ある方は「自分の罪を悔い改めて、神に告白することによって赦されるのだったら、何故イエス・キリストの十字架が必要なのか」と思われるかもしれません。ですが、神は義なる方ですから、罪をとても嫌われます。ですから、人が犯した罪に対して償うことを求められます。赦されるというのは、自分がしたことを償わなくても良いというものではありません。例えば、誰かが教会の窓ガラスを割ってしまい謝ったら赦します。でも、割られた窓をそのままにはできませんから、窓ガラスを入れ替えなければなりません。その代金は割った人に弁償してもらいます。赦すことと償うこととは別です。
 ダビデとバテ・シェバの事件がそうです。ダビデは自分が犯した罪を認めました。そのとき、神はダビデの罪を赦されました。でも、バテ・シェバに生まれた子供は死にました。それはダビデが犯した罪に対しての償いだったからです。マナセ王にしてもそうです。彼は神の目に悪を行いました。ですが、その後マナセ王は悔い改めて、偶像を町の外に投げ捨て神に仕えたのです。しかし、南ユダ王国が滅ぼされたことについて、聖書は「マナセが犯した罪のために」と書いています。これをどのように理解するのかです。マナセは自分の罪を悔い改めて神に仕えたのです。なのに、南ユダ王国はマナセの罪のために滅ぼされたのです。神は悔い改めたマナセを赦されなかったのでしょうか。これが意味していることは、罪が赦されることと犯した罪を償うこととは別であるということです。
 それは私たちの罪についても同じです。確かに、私たちの罪は悔い改めることによって赦されます。しかし、今まで犯してきた罪については償う必要があるのです。では、私たちは自分の罪を償ったでしょうか。いいえ、償ってはいません。何故でしょうか。すでに償われているからです。それがイエス・キリストの十字架です。本来ならば、自分が犯した罪は私たちが償わなければならないのですが、イエス・キリストが代わりに償ってくださったのです。だから、私たちは自分の罪を償うことなく、神の約束を信じるだけで罪の赦しを受けることができるのです。このことも変えてはならないことですし、変わることのないものです。
 第三は、イエス・キリストの復活です。イエス・キリストは十字架に架かって死なれただけでなく、その死から甦られました。イエス・キリストは十字架に架かって死なれただけでなく、その死から甦って天におられます。それは生きておられるということです。死んだ後に甦り生きておられるということは、人は死んで終わりではないということです。イエス・キリストは、甦られ天に挙げられる前に弟子たちに話されたことが、マタイ28:20に「     」と書かれています。イエス・キリストが世の終わりまで共にいてくださいますから、私たちが経験します全てのことを通してすばらしいことをしてくださいます。何度も話していますが、生きるということは可能性があるということです。可能性があるということは希望があるということです。イエス・キリストは、生きている私たちに希望を与えるために死から甦ってくださったのです。そして、私たちがいつでも希望をもって歩むことができるために、イエス・キリストは世の終わりまで共にいてくださるのです。イエス・キリストが甦り共にいてくださるという福音も変えてはならないものですし、変わることのないものです。

結)
 現代社会は、文化が著しく変わっていきます。文化が変わるということは価値観も変わってくるということです。先月行われましたJBC教会指導者研修会では聖書信仰について学びました。残念なことに、福音派の中にも「聖書を誤りのあることば」とする方々が増えているという現状が話されました。聖書信仰が揺らぎつつある中で、「聖書は誤りのない神のことば」という信仰が保たれるように祈っていきたいものです。そして、変わって良いものと変えてはならないものとをきちんと見極め歩まされたいと願わされます。

Ⅰコリント10:23~33「良い関係を築くには」  17.09.24.

序)
 私たちが生かされています社会の中で、一番難しいのが人間関係ではないでしょうか。それは私たちが関係の中で生かされているからです。時には、その人間関係の中で苦しむこともあります。私たちが生かされています人間関係の中で、さらにより良い関係を築いていくにはどうすれば良いでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)自分の利益を求めない
 より良い人間関係を築く第一は、24節に書かれていますように自分の利益を求めないことです。この「自分の利益」とは、何も損得勘定のことだけではありません。利益とは願いのことです。「自分の利益を求める」とは、自分の願いが叶えられることを第一にするということです。逆に言えば、「自分の願いが叶えられなければふてくされてしまう」ということです。自分の思いが叶えられるように願う中には、不健全なものもあれば健全なものもあります。不健全なものが叶えられないのは分かりますが、健全なものであるのに叶えられない時、私たちは不満を覚えるのではないでしょうか。そして、「何故」と言ってしまいやすくなるのではないでしょうか。
 神を信じる者は、神によって完全な自由が与えられた存在です。ですから、全てのことから解き放たれていますから、神に逆らうこと以外であるならば何をしても許されます。但し、23節に書かれていますように、全てのことが有益とは限りません。この「有益」ということばは、人間関係の状態を表しています。すなわち、「何をしても自由ですが、必ずしも人間関係が良くなるとは限らない」ということです。23節で言われています「全てのことはしても良い」というのは、偶像に献げられた肉を食べることを意識して書かれています。先週の箇所を読んでいきますと、パウロは偶像に献げられた肉を食べることを禁じているように捉えることができます。しかし、そうではありません。今朝の箇所では「食べても良い」と語っているのです。ですが、それによって人間関係が損なわれてしまうこともあるというのです。
 何故なら、自分が「良い」と思っていることが、必ずしも他人に受け入れられるとは限らないからです。23節の中程に書かれています「有益とは限らない」の「有益」とは、自分の有益ではなく他の人の有益です。その益とは損得的なことではなく気分的なことです。自分の言動によって他の人の気分が損なわれたら有益でしょうか。気分を害されたら有益にはなりません。ここでパウロは、「自分は何とも思っていないからしても良い」というのではなく、相手のことを考えて行うことを勧めているのです。
 また、その後には「徳を高めるとは限りません」と書かれています。この「徳を高める」とは、本来は「家を建てる」ということばで、家が建て上げられることを表しています。それは、人間関係の形成を表しているのです。多くの人が集まりますと、そこには組織が形成されます。確かに私たちは何をしても良いのですが、それが全て群れのためになるとは限りません。むしろ、群れがダメになってしまうこともあります。ここでパウロは教会を意識して語っています。教会は神によって集められた群れです。そして、その群れは一つの群れとして成長することを目指しています。だから、パウロは自分の願いが叶えられることよりも、自分が属している群れのことを考えるように勧めているのです。
 では、何故パウロはそのようなことを語っているのでしょうか。それは、神を信じた者であっても自分の願いが叶えられることを優先させてしまいやすいからです。キリスト者というのは、イエス・キリストを信じることによって自分の罪が赦された者ですが、罪がなくなった者ではありません。依然として、罪は私たちの中に存在するのです。ただ、その罪が赦されているだけなのです。ですから、神よりも自分のことを優先させてしまうことがあるのです。だから、パウロもローマ7:19~21で「     」と告白しているのです。パウロがしたいと思っていることは神を第一とする歩みです。しかし、そのパウロの中にも自我というものがあり、その自我との戦いを戦い続けているのです。それは私たちも同じではないでしょうか。自分の中に、自分の思いや願いや計画があります。私たちは、その自分の思いや願いが叶えられることを優先させてしまいやすいものです。実は、これが自分の利益を求めることなのです。聖書は自分の利益を求めることを否定してはいませんが、優先するものでもないことを示しているのです。

2)他人の利益を心がける
 では、自分の利益よりも優先するものは何でしょうか。より良い人間関係を築く第二は、他人の利益を心がけることです。では、他人の利益を心がけるとはどういうことでしょうか。そのことが25節以降に詳しく書かれています。当時のコリントの町は偶像崇拝の盛んな町でした。ですから、どれが偶像に献げられた物であるかは見分けることができません。そのため、偶像に献げられたものを食することに問題視している人は困ります。そのような人に対して、パウロは「それは商品として売られているのだから安心して買って食べても良い」と勧めているのです。何故なら、偶像に献げられたものを食べることによって罪を犯すわけではないからです。
 ともすると、私たちはそのような点を間違ってしまいやすいものです。「神を信じる者は神によって聖められた存在だから、その聖さを保ち続ける必要がある」として、「良くない」と思えるものを排除しようとします。自分がそのように信じて排除するのは良いのですが、それを他人にまで押し付けようとしてしまいやすいのではないでしょうか。ですが、「聖さ」というのは神と自分との関係の中における聖さなのです。確かに、神が禁じられているものがあります。それはしてはいけないことです。しかし、神は禁じておられませんが、「しない方が良いのではないか」というものもあります。これは本人の問題であり、本人と神との関係の中で解決していくものです。ですから、偶像に献げられたものを食べたからと言って罪を犯すことになるわけではないのです。
 「それならば何の問題もないのではないか」と思われるかもしれませんが、人の中には「偶像に献げられたものを食べることは神の聖さを汚すことになる」と捉えている方もおられるのも事実です。ですから、パウロはそのことを踏まえて28~29節で語っているのです。ここに書かれています「知らせた人」とは、「偶像に献げられたものを食べるのは良くない」と捉えている人です。これはどういう場合かと言いますと、クリスチャンホームではない家庭に招かれた時に生じるものです。その家が何かの宗教を信じており、その家庭の中で神を信じる人は一人しかいない場合、やはり偶像に献げられたものについては気を使います。その多くは「偶像に献げられたものは良くない」と捉えておられます。そのような家庭にクリスチャンの友人が招かれて食べ物を出されたとき、「これは偶像に献げられたものです」と助言された場合です。そのようなときどうすれば良いかが、ここに書かれているのです。
 パウロは「そのような場合は食べてはならない。」と告げています。何故なら、助言してくれた人のつまずきになるからです。招かれた人は、偶像に献げられたものを気にしなくても、助言した人は気にしているのです。気にしているというよりも、「偶像に献げられたものを食べるのは罪だ」と捉えているのです。それなのに、その人の目の前で偶像に献げられたものを食べるのは、その人の前で罪を犯しているのを見せているようなものです。それは、その人にとっては大きなつまずきとなります。相手の心を傷つけてしまいます。これは罪です。偶像に献げられた肉を食べることが罪になるのではなく、人をつまずかせ傷つけることが罪なのです。自分の思いや願いを行うことよりも、相手の気持ちを察して行うことの方が優先されるのです。そして、それがより良い人間関係を築く秘訣でもあります。

3)神の栄光を現す
 より良い人間関係を築くには、自分の思いや願いを行うことよりも、他人の気持ちを察して行うことです。しかし、これだけでは十分ではありません。何故かと言いますと、このような歩みは人の目を気にしてしまう生き方になってしまうからです。「自分の言動を他人はどのように受け止めるだろうか」ということを気にしてしまいます。これは人との関係は上手くいくかもしれませんが、健全な生き方ではありません。何故なら、自分を殺しているからです。ですが、神が私たちに与えてくださった人生は、自分を殺す人生ではなく自分を生かす人生です。では、自分を生かしながら、他人のことを察し行うことができるのでしょうか。聖書は「できる」と語っています。
 では、その方法は何でしょうか。そのことが31節に「     」と書かれています。より良い人間関係を築く第三は、
神の栄光を現すことです。実は、これが最も大切なことです。人との関係は横との関係であり、平面的な人生ということができます。しかし、神との関係は縦の関係です。神を信じる者は、縦と横との繋がりがあり立体的な人生です。平面的な人生と立体的な人生は、同じことをしていても全く違います。ガラテヤ6:14に「     」と書かれています。世界と自分との間に、イエス・キリストの十字架があるかないかでは全く違った人生となります。世界人口が75億人と言われている中で、自分という存在はとても小さな存在です。自分一人位居ても居なくても変わらない世界です。自分から世界や社会を直接見てしまいますと、自分の存在意義が分からなくなってしまいます。ですが、イエス・キリストの十字架を通して見ますと変わります。自分が75億人の中の一人であり小さな存在である事実は変わることはありません。しかし、そのような小さな存在である私に神は目を留めてくださり、そのような私を必要としてくださり用いてくださるという事実に目を留めることができます。消極的な見方から積極的な見方へと変えられるのです。そして、見方が変えられるということは生き方が変えられるということでもあります。
 その見方を実生活の中で生かしていくのです。では、どのようにすれば良いのでしょうか。まずは、神に愛されていることを覚えることです。この前行われました東海宣教会議Ⅵで、講師のマイケル・オー先生は「福音は良い知らせであって良い助言ではない」と話されました。そして、「福音は生き方ではなく応答すべきもの」とも話されました。福音は生活の中で実践していくものなのです。神は私たちに感謝と喜びの人生を与えてくださいました。それは「こんな私でも神に愛され受け入れられている」ということの感謝と喜びです。完璧な者ではなく、弱さや欠けを持っている私であるにも拘らず、全てを御存知の上で愛されていることの感謝と喜びです。その事実に目を留めて生きるのです。人の気持ちを察して行うのは気を使います。最初は頑張れてできるのですが、やがては疲れ果ててしまいます。何故でしょうか。それは人に目が向けられているからです。自分の方から出してばかりだからです。しかし、神に愛されていることを覚えるとき、疲れ果ててしまうことはありません。何故なら、自分から他人に出しますが、自分も神から補給されているからです。決して無くなることがありません。ですから、疲れ果ててしまうことがないのです。
 ともすると、私たちは「信仰生活は神が定められたものを行うこと」と捉えやすいのではないでしょうか。そして、「それが神の栄光を現すこと」と思いやすいのではないでしょうか。ですが、そうではありません。神の栄光を現すというのは、神に愛されていることに感謝し喜びをもって生きることです。そして、それが聖書の語っている信仰生活です。しかも、それは「食べるにも、飲むにも、何をするにも」と書かれていますように、実生活の中で生かされていくものなのです。そして、それが神の恵みに対する応答なのです。

結)
 私たちは関係の中で生かされています。そのような中で生かされていますと、人に目が向けられてしまい、人との関係が最優先のように思えてしまいます。でも、より良い人間関係を築くには、人との関係が最優先ではありません。何よりも優先されるのは、私たちを造り愛してくださっています神との関係です。「こんな私が愛されている」ということに感謝し、喜びをもって神の恵みに応答していきましょう。

Ⅰコリント10:14~22「妬むほど愛する神」  17.09.17.

序)
 先週の月曜日~水曜日にかけて、東海宣教会議Ⅵに参加させていただきました。今回も良い学びと交わりの時でした。今回は、昨年神戸で行われました日本伝道会議に習いまして、3日間同じグループでメッセージを聞き分かち合うというスタイルでした。その分かち合いがとても良いものでした。教職者もいれば、主婦や大学生もおられました。初日は「救いの福音」ということで、神のすばらしさを共に分かち合いました。私たちが信じている神は、妬むほど愛してくださる神です。その神は偶像礼拝を嫌われます。今朝は、何故偶像礼拝を避ける必要があるのかを共に教えられたいと願っています。

1)神と一つであるから
 私たちが偶像礼拝を避ける第1の理由は、私たちが神と一つであるからです。パウロは16~17節で、聖餐式で行われている聖餐について語っています。この聖餐式は、過越しの食事から来ているものです。過越しの食事とは、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったとき、神がイスラエルの民をエジプトから導き出すために取られた方法です。神は心が頑なであったエジプトの民を審かれることを決められました。しかし、その神の審きから救われる方法も取られました。その方法が過越しの食事でした。
 神はイスラエルの民に小羊をほふり、その血を自分の家の門柱とかもいに塗ることを命じられました。そして、その小羊の肉をパンと共に食することも命じられました。神はエジプト全土を審かれようとされていましたが、門柱とかもいに小羊の血が塗られている家は、神のみことばに従った家族と見なして神の審きを過ぎ越されました。ところが、家の門柱とかもいに小羊の血が塗られていない家は、神の審きを受けて全ての初子は殺されてしまいました。何故なら、神のみことばに聞き従わなかったからです。ですから、過越しの食事とは、神の審きが過ぎ越されたことを覚える儀式だったのです。
 16節に書かれています「祝福の杯」とは、過越しの食事の3度目に回された杯のことです。実は、過越しの食事には4回杯が回されます。2回目の杯のあとパンが裂かれました。ルカ22:17に「そしてイエスは杯を取り」と書かれています。この杯は2回目の杯のことです。その後にルカ22:19に「パンを取り感謝をささげてから裂いて」と書かれています。これが聖餐式で行われているパンの儀式です。ですから、聖餐式は過越しの食事の再現でもあります。そして、過越しの食事が神の審きからの救いの再確認の場であるならば、聖餐式も神の審きからの救いの再確認の時でもあります。それは、同時に自分たちが神の民として生きることを覚えるためでもあります。
 聖餐式は一つのパンから裂かれて食べますから、全員が同じパンから食べているのです。そして、そのパンはイエス・キリストの身体を表しています。また、ぶどう酒はイエス・キリストの血を表しています。そのパンを食べ、ぶどう酒を飲むことは、私たちが神と一つであることを表しているのです。イエス・キリストを信じた人は、イエス・キリストと一つとされており、神と一つとされているのです。それは、神以外に神とするものはないことを表してもいるのです。なのに、神以外のものを神として拝むならば、それは神と一つになっていないことでもありあす。私たちは神と一つにされているのです。ですから、私たちは偶像礼拝を避ける必要があるのです。

2)悪霊と交わることになるから
 私たちが偶像礼拝を避ける理由の第2は、偶像礼拝は悪霊と交わることになるからです。私たちは聖餐式を通して、救いの恵みの確かさと神と一つにされていることを再確認します。パウロは「それと同じように、偶像に献げられた肉を食べることはサタンと一つになる」と語っているのです。コリント教会の一部の人々は、「唯一の神である主以外には神は存在しないのだから、偶像に献げられた肉についても意味のないものであり無害である」と考えていました。ところが、パウロは「聖餐は特別な意味を持っているように、偶像に献げられた肉も特別な意味を持っている」と指摘しているのです。その特別な意味とは何かと言いますと、20節に書かれていますように悪霊と交わることになるということです。
 ここに「悪霊」ということばが出てきます。現在、キリスト教界の中でも悪霊の働きを強調するグループがいます。確かに悪霊は存在します。そのことは否定することはできません。しかしながら、悪霊の働きを強調するグループは、良くない働きを悪霊の働きにしてしまいやすくなります。例えば、精神的な病を悪霊の働きとしやすくなります。ですが、精神的な病の全てが悪霊の働きではありません。悪霊の働きとは、その人を神から引き離そうとするものです。ですが、精神的な病の全てが神から引き離すものではありません。むしろ、そのような病を通して神を知り神を信じる方もおられます。ですから、精神的な病の全てが悪霊の働きによるものではありませんし、それ以外でも悪霊の働きはあります。
 では、サタンはどのようにして私たちを神から引き離そうとするのでしょうか。それは信頼や恐れをもってです。神以外のものに信頼を寄せさせたり、不安や恐れを抱かせて、サタンは私たちを神から引き離そうとするのです。それは精神的な病を通してかもしれませんし、それ以外のものを通してかもしれません。神よりも他のものに関心を寄せさせるというのもそうでしょう。神から私たちを引き離そうとする誘惑は、全てサタンによるものと言えます。このことから、偶像礼拝というのは「何かで作られたものを拝む」ということだけではないことが分かります。ともすると、私たちは何かで作られたものを拝むことが偶像礼拝と思ってしまいます。確かに、それも偶像礼拝なのですが、神以外のものに信頼や関心を寄せることも偶像礼拝なのです。さらに言えば、神以外のものを第一とすることが偶像礼拝なのです。もし、それが仕事であるならば、仕事が偶像礼拝になります。子育てや家族であるならば、それが偶像礼拝になります。
 サタンや悪霊の働きは、人を神から引き離すことです。サタンはエバに「食べてはならない」と神から言われていた善悪の知識の実を食べるように勧めました。エバは神のことばよりも、自分の感性の方に信頼を寄せてしまい、食べてはならない木の実を食べてしまいました。それが、人が神から離れる第一歩だったのです。ダビデにしてもそうです。ダビデは王になってイスラエルの人口調査をしました。その人口調査についてⅠ歴代誌21:1に「サタンが…数えさせた。」と書かれています。善悪の知識の木の実や人口調査自体に何か特別な力があるわけではありません。ですが、その背後にはサタンや悪霊の働きがあったのです。どのような働きかと言いますと、神よりも人の数に頼らせるという働きです。少しずつ、神から他のものへと引き離そうとする働きです。そして、偶像に献げられた供え物についても同じです。それ自体には何の力もありませんが、その背後にはサタンや悪霊の働きがあり、サタンの虜になる危険性があるのです。コリント教会の一部の人たちは「私たちは大丈夫」と過信していました。ですが、サタンの力は私たち人間よりも強い力を持っています。
 ここでパウロが重要視しているのは出所です。何処から出ているかです。教会で行われています聖餐式は、神が定められたものですから、当然その出所は神ご自身です。それと同じように、偶像に献げられたものの出所はサタンです。聖餐式については、先ほども話しましたように救いの恵みの確かさと神と一つにされていることの再確認の場です。神と一つにされているということは、神と霊的な交わりを持つことを意味しています。それと同じように、偶像に献げられた供え物を食することは、悪霊と一つになることを意味し、悪霊と交わることを示してもいるのです。サタンは私たちの小さな隙を狙って誘惑してきます。その始めは偶像に献げられた供え物という小さなものです。しかし、サタンの働きは巧妙でそこをついてきます。だから、偶像に献げられた供え物に注意することを勧め、偶像礼拝を避けるように勧められているのです。

3)神の妬みを引き起こすことになるから
 私たちが偶像礼拝を避ける理由の第3は、神の妬みを引き起こすことになるからです。申命記4:24に「     」と書かれています。また、ヨエル2:18には「     」と書かれています。さらに、ゼカリヤ1:14と8:2には「     」と書かれています。神はご自身が選ばれた者を妬むほど愛してくださる方です。私たちは妬みを罪のように理解してしまいやすいのではないでしょうか。事実、マルコ7:20に書かれています罪のリストの中には「妬み」が挙げられています。なのに、神が妬みの神であられることは理解しにくいかもしれません。妬みが罪とされるのは対人関係においてです。対人関係における悪い感情として用いられます。しかし、神が「妬みの神である」という時は契約関係によるものであり、熱心さを表すものです。熱心に愛するが故に、その約束が破られたときに妬みが生じるのです。
 ある方は、「神は愛なる方だから赦してくださるのではないか」と思われるかもしれません。確かに、神は愛なるかたであり赦しの神です。しかし、それは知らずにしていたことや弱さや過失によるものについてです。でも、故意によるものであるならばそうではありません。イエス・キリストご自身も、マタイ12:31~32で「     」と語られています。この「聖霊に逆らう冒瀆」とは、故意による罪です。知っているのに約束に反することをしてしまうなら、それに対する罪は赦されることはないということです。神は愛なる神ですが、それは妬むほど愛してくださる神なのです。
 それは丁度、夫婦関係と同じです。最近の日本での結婚式はキリスト教式が多いのですが、そのときに互いに誓いを交わします。その後は、その誓いを信じて夫婦生活を過ごします。聖書が姦淫を認めていないのは、お互いが結婚するとき誓約をしているからです。その誓約を破ることが姦淫なのです。ですから、聖書は姦淫を罪としているわけです。そして、私たちは神であられる主を信じるとき、その主だけを神とすることを誓ったのです。なのに、その誓約を破って偶像礼拝をするならば、姦淫の罪を犯してしまうことになるのです。ですから、偶像礼拝は霊的姦淫の罪になるのです。そのとき、神は妬みを起こされるのです。ですから、パウロは偶像礼拝を避けることを勧めているのです。故意による偶像礼拝は、決して赦されることはありません。神を第1とする優先順位を間違えないようにしたいものです。

結)
 神が妬みを起こされるのは、それだけ私たちを熱心に愛してくださっているからです。私たち一人ひとりは、それほど神に愛されている存在なのです。誰よりも私たちを愛してくださっている神を覚え、神に従うことを第1とする歩みが続けられるように祈っていきましょう。

ⅠⅠコリント10:1~13「脱出の道を備える神」  17.09.10.

序)
 人は誰でも苦しみに遭遇することがあります。その苦しみは人によって違います。「苦しみは何かの罰のようなもの」と捉える方がおられます。「何か悪いことをしたから、その罰として苦しみに遭遇している」と言われます。しかし、聖書はそのようには語ってはいません。「苦しみは神から与えられたもの」と語っています。苦しみを試練とも言いますが、神は試練を与えるだけでなく、その試練を解決することのできる方でもあられます。神は人に試練を与えられたときすでに脱出の道をも備えてくださっているのです。今朝は、その脱出の道を備えてくださっている神を共に教えられたいと願っています。

1)神の恵みを受けた人の歩み
 今朝の箇所の1~10節には、モーセを指導者としてエジプトの地からカナンの地に向かった人々のことが書かれています。まずは、その人々の歩みを見てみたいと思います。パウロは1節の最初に「そこで」と語っています。このことばは、私たちもよく用いることばです。どのようなときに用いるのかと言いますと会話のときです。「そこでどうしたら良いか」などとして用います。この「そこで」ということばは、前に語られてきたことと、これから語られることとは深い繋がりがあることを示すことばです。パウロは9章の後半からは、神の恵みについて正しく生きることを勧めてきました。それを受けての「そこで」なのです。
 では、神の恵みを受けた人たちはどのような歩みをしていたのでしょうか。1節の後半に「私たちの先祖は…行きました。」と書かれています。この「私たちの先祖」とは、狭い意味ではイスラエル人のことを指しています。しかし、エジプトの地を出たのはイスラエル人だけでなく外国人もいました。ですから、この「私たちの先祖」というのは広い意味で考えますと、「神の恵みを受けた人」と捉えることもできます。特に、その後の「雲の下におり」とは、神の恵みの中にいることを表しています。エジプトの地を出た人々は、全員神の恵みによって導き出された人々だったのです。ですから、この「私たちの先祖」というのは、神の恵みを受けた人と理解するのが妥当だと考えられます。
 そのような神の恵みの中で人々は、モーセにつくバプテスマを受けたのです。これは割礼を意味しています。割礼は神の民に加えられたことのしるしです。その割礼を受けることによって、過越しの食事に参加することが許されるのです。それはバプテスマを受けた人が聖餐式に与れるのと同じです。エジプトを出た人々は、天から降りるマナを食べて荒野での生活を過ごしました。また、水も飲みました。彼らは働いて食物を得たのではなく、神の一方的な恵みの中で食物が与えられていたのです。彼らが神の恵みを受けるようになったのは、彼らが神に従ったからではありません。彼らはエジプトの地で偶像崇拝をしていたのです。しかし、神はアブラハムとの約束の故にイスラエルの民をエジプトでの苦しい生活から救い出し、約束の地であるカナンの地に導かれたのです。そのおこぼれとして、その中に外国人もいたのです。ですから、エジプトの地を出た全ての人は神の恵みの中で歩んでいたのです。
 ところが、5節には「にもかかわらず」と書かれています。これは神の恵みを受けた人々が、神の恵みに対して正しく応えていなかったことを表しています。彼らは神の恵みを恵みとして受け取っていなかったのです。彼らは自分たちの生活が何によって支えられているかを知っていました。彼らは知らないでしたのではなく、知っていながら神の恵みに対して正しく応えようとはしなかったのです。それでも神は、彼らに恵みを注がれました。しかし、彼らは何度も神につぶやいてしまいました。そのため、エジプトの地を出た時の大人は、ヨシュアとカレブ以外は全員荒野で死ぬこととなりました。イスラエルの民は、神の恵みを受けながら神に滅ぼされた民でもあります。これが出エジプトの事実です。これは何も出エジプトだけでなく、旧約聖書に書かれていますイスラエルの歴史はまさにそうです。
 何故そのようなことが旧約聖書に書かれているのでしょうか。パウロは6節と11節の前半で「これらのことが…戒めのためです。」と語っています。旧約聖書に書かれていることは、新約の時代に生かされている私たちの教訓のためなのです。どのような教訓でしょうか。それは、神の恵みに対して正しく応答することの教訓です。私たちは旧約聖書を読んで、「こんなに神の恵みを受けているのに、何故神に刃向うのか」と思い、「私だったら」と捉えやすいものです。それが12節に書かれています「立っていると思う者」なのです。「こんなに神の恵みを受けていたら、私だったら正しく神の恵みに応答する」と思っている人のことです。でも、実際の私たちはどうでしょうか。自分自身を振り返るとき、いつも神の恵みに正しく応答していない自分を見出してしまうのではないでしょうか。

2)試練がある
 神の恵みに対して正しく応答しなかった人々は、神の懲らしめを受けました。何のために神は懲らしめられたのでしょうか。それは神の恵みに対して正しく生きるためです。確かに旧約聖書を読んでいきますと、神に逆らったイスラエルの民が神の滅ぼされたことが書かれています。そのようなことから、「神の懲らしめは、神に逆らったことの審きである」と捉えることができます。ですが、神の懲らしめは神の審きではありません。神の懲らしめは、イスラエルの民が神の恵みに対して正しく生きるようになるためのものです。そのように聞かれますと、ある方は「では何故、神は人を殺されたのか」と思われるかもしれません。
 確かに、神は逆らったイスラエルの民を殺されました。ですが、神に逆らった者を全員殺されたのではありません。神の逆らった一部の人が殺されたのです。ともすると、私たちは殺された人の方に目を留めてしまい、殺されなかった人の方には目を留めないのではないでしょうか。実は、殺されなかった人の方に目を留める方が大切なのです。殺された人は当然の報いを受けただけなのです。でも、殺されなかった人は、自分も受けなければならなかった報いを免れたのです。その受けなければならなかった報いから免れたのは神の恵みでもあります。そして、受けなければならなかった報いから救われた人の方が多かったのです。すなわち、神のさばきを受けた人よりも、神の恵みを受けた人の方が多かったのです。よく「旧約聖書には審きの神が書かれており、新約聖書には愛の神が書かれている」と聞くことがあります。しかし、聖書をよく読んでいきますと、旧約聖書も愛の神が書かれているのです。
 神は多くの人を審かれませんでした。それは、神の審きから救われた人が神の恵みに対して正しく生きるためなのです。イスラエルの民が神の恵みに対して正しく応えなかったのは、信仰の戦いに負けてしまったからです。実は、その信仰の戦いが試練なのです。神の懲らしめというのは結果ですが、試練というのは結果ではなく過程です。そして、その試練も人が神の恵みに対して正しく生きる者となるために与えられたものなのです。「試練や苦しみは神の懲らしめであり、何か悪いことをしたからだ」と捉えやすくなりますが、聖書はそのような考え方を完全に否定しています。試練は神の審きではなく、神に目を向けるためのものなのです。
 神を信じている私たちも試練や苦しみを経験します。でも、その試練や苦しみは、自分の行いに対する神の審きではありません。もし、試練や苦しみが自分の行いによるものとするなら、それは因果応報的な考え方です。生まれつき目の見えない人を見たイエス・キリストの弟子たちは、「彼が生まれつき目が見えないのは彼が罪を犯したからですか。それとも彼の両親ですか。」とイエス・キリストに尋ねました。その質問にイエス・キリストは、「この人でも両親でもなく、神のわざがこの人に現れるためです。」と答えられました。身体に障害を持つことは、その人にとっては試練かもしれません。ですが、そこに神が働いてくださるのです。苦しみはとても辛いことですが、そこに神が働いてくださるのです。私たちは、その神の働きに期待し祈ることが大切なのではないでしょうか。

3)脱出の道への備え
 では、その神の働きとはどのようなものでしょうか。神は私たちの全てを御存知なるお方です。ですから、当然私たちの弱さも御存知です。そのため、その弱さ以上の試練を与えることはされません。私たちが経験します試練は、実は私たちが耐えることのできるものでもあるのです。試練は人によって異なります。ある人は自分よりも辛い試練を受けられたりします。そのような人を見ますと、「もし私だったら耐えられない」と思うことがあるのではないでしょうか。または、反対に自分よりも軽い試練の人もおられます。そのような人に対しては羨ましく思えたりもします。「何故神は人によって与える試練が違うのか」と言いますと、その人によって耐えることのできる力が違うからです。
 神は一人ひとりの強さを御存知です。ですから、与える試練も違います。ですが、違うだけではありません。共通している点もあります。それは脱出の道を神は備えてくださっているということです。すなわち、その試練からの救いをも神は備えておられるのです。神は試練を与えるだけでの方ではなく、脱出の道も備えてくださっている方なのです。何故でしょうか。13節の中程にも書かれていますように、神は真実な方だからです。神が真実な方とはどういうことでしょうか。それは、約束されたことを必ず守ってくださる方ということです。神はイエス・キリストを信じる者と共にいて、導いてくださることを約束してくださいました。導いてくださるというのは、「試練を経験しない」ということではありません。「試練を経験したとしても、その試練を必ず解決してくださる」ということです。ですから、私たちが試練を経験しても神は必ず脱出の道を備えてくださっているのです。
 では、神は何のために試練を私たちに遭わせられるのでしょうか。それは、私たちの成長のためです。何の成長でしょうか。霊的成長であり信仰の成長です。神を知らない人は神を知り、神を知っている人はさらに神のすばらしさを知るためです。ローマ5:3~5に「     」と書かれています。ここにも、受ける苦しみの先には希望があることが書かれています。私たちは苦しみを経験するからこそ、神のすばらしさを知ることができるのです。そして、神はその苦しみから脱出の道を備えてくださっているのです。何故なら、「その希望は失望に終わることがありません。」と聖書は断言しているからです。試練は、できるなら誰もが「受けたくない」と思っています。受けたくなくても受けなければならない時があります。ですが、私たちが経験します試練は、神が脱出の道を備えてくださっています。試練の中にあるときは、そのことに気づかないことが多いですし、気づいていたとしても苦しいものであり「早く抜け出したい」と思います。ですが、私たちが経験します試練は、私たちが耐えられるものです。そのことを覚え、神が脱出の道を備えてくださっていることを信じ、神に期待して歩み続けられるように祈っていきたいものです。

結)
 イスラエルの民は、神のみわざを経験していながら、試練に遭うたびに神に文句を言いました。そして、神はその度にご自身のみわざを現されました。私たちも様々な試練を経験します。健康的なこと・経済的なこと・職場や近隣地域でのことなど。ですが、神は必ず脱出の道を備えてくださっています。そのことを信じて歩み続けられるように祈っていきましょう。

天におられる父なる神様。私たちは様々な試練を経験します。その試練は、私たちがあなたのすばらしさを知るためです。あなたは私たちが経験します試練に対して、脱出の道を備えてくださっています。私たちがそのことを信じ、あなたに期待して仕え歩み続けることができますように助けてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン

コリント9:24~27「神の恵みの中で生きる」  17.09.03.

序)
 一昨日は私の誕生日でした。この教会の開拓を始められたストーラー先生も同じ誕生日です。ストーラー先生ご夫妻が稲沢で活動されていたときは、一緒に誕生日を祝ったものでした。私が誕生したときに「茂」という名前がつけられましたが、その由来は祖母の名前が「志げ乃」という名前でしたから、その一部をとってつけられたものです。親や先祖の名前からつけられる方も多くおられますが、親の願いを込めてつけられた方も多いことと思います。娘の名前は「瑛実」ですが、これはギリシャ語の「エイミ」からで「存在する」という意味です。「生きているだけで価値がある」という思いでつけたものです。日本人女性の中には「愛」とか「恵」という字が用いられている方も多いです。そこには親の願いがあることでしょう。そして、私たちは神の恵みの中で生かされています。その神の恵みの中で歩み続けるにはどうすれば良いでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)事実を知ること
 神の恵みの中で生きるにおいて大切なことの第1は、事実を知ることです。パウロは信仰生活を競技者に譬えて語っています。現在の競技は1位~3位がメダルという賞を受けます。ところが、パウロが生きていた時代の競技は1位だけしか賞を受けることができませんでした。ですから、競技者は賞を受けるのは一人であるという事実を知っています。ですから、選手は一生懸命競技を行います。コリント教会の人たちもそのようにすることを勧めているのです。この24節の最後に書かれています「走りなさい。」というのは、走り続けることを表しており、継続することを意味しています。コリント教会の問題の1つは、救いの確信を得たことによって生活が乱れてしまった点です。彼らは1つの誤解をしていました。その誤解とは何かと言いますと、救いの確信が信仰のゴールと捉えていたということです。ですが、救いの確信を得ることが信仰のゴールではありません。すなわち、信じることは信仰のゴールではないのです。むしろ、信仰のスタートです。信仰の決心というのは、競技のスタートラインに立つのと同じです。そして、信仰告白をしたときは、そのスタートラインからスタートしたときと同じです。スタートしたばかりですから、まだゴールをしてはいません。救いの確信は、神の救いの約束を信じることであり、その約束はまだ得てはいないのです。救いの約束は、天の御国に入ったときに得られるのです。コリント教会の人々は、そのことを誤解していたのです。
 そして、そのような誤解は現代の私たちの中にも起こりやすいものです。信じるまでは熱心に神を求めますが、信じた後の教会生活は乱れてしまうということがあります。「スポーツは参加することに意義がある」と言われます。確かにその通りでしょう。ですが、その競技に参加する選手の多くは、良い成績を出すことを目指しているのではないでしょうか。そして、トップクラスの選手であるならば1位になることを目指しているのではないでしょうか。スタートラインに立ったことで満足する選手は少ないのではないでしょうか。選手はスタートラインに立つことが目標ではなく、ゴールすることが目標なのです。そして、少しでも良い成績を出すために、日頃から一生懸命練習しているのです。
 パウロは24節の後半で、コリント教会の人たちに「あなたがたも…走りなさい。」と勧めています。走るというのは、先ほども話しましたように継続を意味しています。「賞を受けられるように」とは、「事実を知るように」ということです。どのような事実でしょうか。「神から受ける冠は一人しかいない」ということではありません。「自分は神の恵みの中で生かされている」という事実です。私は「信仰とは何か」と聞かれますと、「信仰は事実を事実として認めること」と答えています。神はこのような私を愛し受け入れてくださっているという事実。この私のためにイエス・キリストが十字架に架かられ、身代わりとなって父なる神の審きを受けてくださったという事実。そして、そのイエス・キリストの十字架を信じることによって、自分の罪が赦されるという事実。「それらが事実である」と認めたから、私たちは信じたのではないでしょうか。世界にはイエス・キリストを信じない方が大勢おられます。何故信じないのかと言いますと、それらのことを事実と認めていないからです。
 ですが、私たちは「それらが間違いなく事実である」と認めています。そして、今私たちはその神の恵みの中で生かされているのです。これも事実です。そして、約束の救いも事実であると信じています。パウロはこの事実に目を向け走ることを勧めているのです。ですから、この24節の「走りなさい。」とは、「その神の恵みと約束に対して正しく応答し続けるように」ということです。多くの子どもは親によって育てられています。ですから、子どもは自分を生んで育ててくれた人を親と認め、親の言うことに聞き従うことが正しい生き方です。ですが、もし子どもが自分を生み育ててくれた人を親と認めず、親の言うことに聞き従わないならどうでしょうか。それは正しい生き方とは言えません。信仰も同じです。霊的事実を認め、主を自分の神として聞き従う生き方が、神の恵みに正しく生きる歩みです。そして、それが「賞を受けられるように走る」ということです。

2)目標を持つこと
 神の恵みに生きるにおいて大切なことの第2は、目標を持つことです。競技に出場する選手は目標を持っています。その目標はスタートラインに立つことではなくゴールすることです。しかも、少しでも良い記録を出すことです。その目標を達成するためには何が必要でしょうか。それは自制です。自制というのは、目標があるからできます。目標がなくなったら自制できなくなります。信仰生活も同じです。ところが、コリント教会の人々は、先ほども話しましたように信仰について誤解していました。「信じることがゴールだ」と思っていました。そのために信仰生活の堕落が生じてしまいました。コリント教会の人々は、誤解してしまったがために目標を見失ってしまったのです。そのために自制できなくなってしまったのです。
 このことは私たちの生活においても同じではないでしょうか。生活に目標を持っている人と持っていない人との生活は全く違います。目標を持っている人は、その目標を達成することを優先しますから、それに必要ないものは除いたり、除かなくても優先順位を下に置きます。ある程度の順位があります。しかし、目標を持っていない人は、そのようなものがありませんから当然乱れてしまいます。例えば、一日の生活においてもそうではないでしょうか。仕事をされている人は、決まった時間に起きます。何故なら、その時間に起きないと遅刻してしまうからです。ですが、仕事のない日はゆっくりと寝られる方が多いのではないでしょうか。これもある意味での目標です。1日何もすることがないと暇です。少しの日数なら良いですが、それがずっと続きますと生活は乱れてしまいます。何故なら、自制する必要がないからです。これは信仰生活も同じです。信仰の目標をなくしてしまえば、その信仰生活は乱れてしまいます。乱れた信仰生活を防ぐに必要なのは自制です。
 その自制は、ガラテヤ5:23に書かれています御霊の実の一つです。ガラテヤ5:16には「御霊によって歩みなさい。」と勧められています。その御霊によって歩むにはどういうことかが、17節以降に書かれています。人は肉の願いを歩む人と御霊の願いを歩む人に分けられます。肉の願いを歩む人にういて19~21節に書かれています。そして、御霊の願いを歩む人について22~24節に書かれています。その結論として、25~26節に「     」と書かれています。肉の願いの中心は自分ですが、御霊の願いの中心は他者です。16節以降には御霊による歩みについて書かれていますが、何故それが書かれたのかと言いますと、14節で律法を引用したからです。14節に書かれていることは「隣人を愛せよ」ということです。このことから、聖書が語る自制とは、自己満足だけの自制ではなく、相手のことを考えての自制であることが分かります。
 自制とは忍耐することでもあります。何故忍耐するのでしょうか。それは目標を達成するためです。信仰の自制は、朽ちない冠を受けるためです。先日の朝五右衛門の散歩をしていましたら、ある家の塀に「庭師」の看板が貼られていました。多分、その家の方は庭師なのでしょう。庭木は剪定します。それは美しく見せるためですし、果実を結ぶ木であれば良い実を結ぶためです。やはり目標があります。どちらにしても、木にとっては痛いものですし、競技する選手には苦しいものであり、ある面では「痛み」とも言えるでしょう。自制は痛みが伴います。なのに、それに耐えます。何故でしょうか。目標を目指しているからです。私たちに与えられています信仰生活にも目標があります。その目標とは、朽ちない冠を受けることです。神の恵みに対して正しく応答するには目標を持つことです。それには自制が必要です。

3)目標を見続けること
 神の恵みの中で生きるにおいて大切なことの第3は、目標を見続けることです。パウロは26節で「     」と語っています。目標を持つことは大切なことですが、さらに大切なことは目標を見続けることです。私たちは目標を抱いても、その目標を見続けることをやめてしまうことがあります。これでは、いくら目標を持ったとしても何の意味もありません。この26節の前半はトラック競技の選手を浮かべて書かれています。今でいう100m走でしょう。これに出場する選手はゴールを見続けて走っています。もし、ゴールを見ずに下ばかり見て走っていたらどうでしょうか。スピードが遅くなるだけでなく、ラインから外れてしまい失格となってしまいます。また、26節の後半は今でいうボクシング競技を思い浮かべて書かれています。選手はやはり相手を見て闘います。そうでないと、相手を的確に打つことができないからです。相手を見ていないと的確に打つことができないだけでなく、自分が打たれてしまい負けてしまいます。
 このことも信仰において同じことが言えます。私たちは神を信じることによって、本当の平安が与えられました。神が与えてくださる平安は不安のないものではありません。不安を抱いたとしても、その中で「大丈夫」という平安です。ですが、その「大丈夫」というのは、神を見続けていることによって生じるものでもあります。しかし、その神から目を離してしまいますと、不安を抱いて心が混乱状態に陥ってしまいます。その一番良い例がペテロです。弟子たちが舟を漕ぎあぐねていたとき、水の上を歩かれるイエス・キリストを見た弟子たちは幽霊だと思いました。ですが、それは幽霊ではなくイエス・キリストご自身でした。そのとき、ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来い」とお命じになってくださいと言いました。すると、イエス・キリストは「来なさい」と言われ、ペテロは舟を出て水の上を歩きだしました。ところが、イエス・キリストから目を離して風を見てしまったので、怖くなり沈みかけ叫んでしまいました。舟を出るときのペテロはイエス・キリストを見ていたのです。そのときも風は吹いていました。おそらく、ペテロの心の中には不安があったことでしょう。でも、イエス・キリストを見ていたから大丈夫だったのです。ところが、そのイエス・キリストから目を離して風を見てしまったから、心が混乱してしまい恐れでいっぱいになって沈みかけてしまったのです。
 イエス・キリストから目を離してしまいますと人は混乱してしまいます。何故でしょうか。優先順位が分からなくなってしまうからです。そして、混乱してしまいますから、さらに心の中に生じた不安は大きくなってしまいます。平安は神が私たちに与えてくださった恵みの一つです。その平安を抱いて歩み続けられる方法は、イエス・キリストを見続けることです。イエス・キリストを見続けるとはどういうことでしょうか。それは神の約束を信じることと、イエス・キリストが残してくださった歩みを歩み続けることです。では、イエス・キリストが残された歩みとはどのようなものでしょうか。Ⅰペテロ2:21に「     」と書かれています。イエス・キリストが私たちに残してくださった歩みとは、父なる神に従い続けるというものです。聖書のみことばを神のことばとして受け取り聞き従い続けることが、目標を見続けることでもあるのです。

結)
 神は私たちに恵みを与えてくださっています。神が与えてくださる恵みとはどのようなものでしょうか。イエス・キリストはマルタに「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と話されました。神が与えてくださる恵みは希望です。どのような状況に陥ようとも、決してなくなることのない希望です。その恵みの中で歩み続けるには、イエス・キリストを見続けることです。最後に、へブル12:2の前半を読みます「     」。

Ⅰコリント9:19~23「福音の恵みを共に受ける」   17.08.27.

序)
 9章からは自由について見ています。コリント教会の一部の人たちは、自由について「悪いことでなければ何をしても良い」と捉えていました。そのような捉え方は、現代の私たちの中にもあるのではないでしょうか。そのように思いますと、約2000年前と現代とでは文化や科学技術は著しく変わっていますが、心というのは全く変わっていないことを知らされます。そのような観点からも、聖書は新しいものでも約2000年前に書かれたのですが、現代にも生きている神のことばであることを思わされます。その聖書は、「本当の自由とは、人の徳を高めるために与えられている」と語っています。ですから、本当の自由は自分のためにあるのではなく人のために与えられているのです。今朝は、パウロが用いた自由から共に教えられたいと願っています。

1)パウロが用いた自由
 パウロが用いた自由については19~22節に書かれています。それは全ての人の奴隷となることでした。全ての人の奴隷になるとはどういうことでしょうか。奴隷とは仕える人です。仕えるというのは、自分の思いや考えや願いを行うのではなく、相手のために行うものです。すなわち、自分が中心ではなく相手が中心であることが仕えるということです。私たちには自分の思いや考えや願いがあります。それは必ずしも他人と同じとは限りません。違うこともありますし、違うことが多いのかもしれません。時には考え方が違い受け入れられないこともあります。ですが、仕えるというのが自分中心ではなく相手中心であるのですから、自分の主張よりも相手の言い分を受け入れるのが仕えるということと言えます。ペテロが漁をしていたとき何もとれませんでした。イエス・キリストはペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい。」と言われました。ペテロは、「夜通し働いたけれども何一つとれませんでした。でも、おことばどおり網をおろしてみましょう。」と言って、網をおろしたら沢山の魚がとれたことがルカ5章に書かれています。ペテロはプロの漁師です。普通に考えると、ペテロの方が知識も経験も豊富のように思えます。でも、イエス・キリストのことばを受け入れ従いました。これが仕えるということです。
 今朝の箇所でパウロは、そのことを語りつつ「○○のようになりました。」とも語っています。これは、その人々のように行動したということではありません。どういうことかと言いますと、これらの人々の立場に立ったということです。その人の立場に立つとは、その人を理解することであり受け入れることでもあります。パウロは、自分の考えや意見を主張することを第1にしたのではなく、まず相手を理解し受け入れることを第1としていたのです。ここでパウロは「○○のようになりました。」と語っています。これは実践したことを表しています。ですから、パウロは実践していたのです。何度も話していますが、愛ということばは名詞ですが中身は動詞です。まず愛するというのを選ぶ決断をしなければなりません。本当の愛は、自然に湧いてくるものではなく選ぶことが必要です。そして、受け入れる必要があります。相手を受け入れるというのは赦すことでもあります。本当の愛は人を赦し受け入れるものです。そして、本当の愛は行動を起こすものです。口では言いつつも実際には何もしないのは本当の愛ではありません。本当の愛は行動が伴うものです。パウロは「○○のようになりました。」と、人を愛することを選び受け入れ実践していたのです。
 以前、運転中に番組のコーナーの一つで親子関係の相談がありました。どうやら、お母さんと子どもの関係が良くないとのことです。母親には2人の子どもがおられ、上の子どもは小学低学年です。母親は自分の子どもが懐いてくれないことに悩んでおられました。それで、その家庭の1日をビデオで撮られました。すると、1つの問題が見えてきました。それは、いつもお母さんは怒ってばかりでした。子どもがしたことを褒めることをしていませんでした。否定的なことばばかり使われていたのです。母親は子供に「愛している」と言っていますが、その愛が具体的に形として表れていなかったのです。そのため、子どもたちの中に何が生じていたかと言いますと、母親に対する恐れだったのです。そのため、子どもたちは母親に懐くことがなかったのです。その後、どのように対応したかは自動車を降りましたから分かりませんが、この親子関係は本当の愛は行動が伴うものであることを示しているのではないでしょうか。そして、本当の自由は本当の愛から出てくる仕えることではないでしょうか。これがパウロの用いた自由なのです。

2)仕える源
 では、何故パウロは人に仕える者となることができたのでしょうか。先程、親子関係のことを触れましたが、現代の社会問題の1つとして取り上げられているのが虐待です。親が自分の子どもを虐待する。或いは、子どもが自分の親を虐待する。その虐待は、人にだけでなく動物にも向けられたりもします。虐待する要因は幾つかあることでしょう。ですが、その多くは幼少期にあります。小さい時に虐待を受けていた人が多いというデータがあります。実際の声ですが、「子どもが幸せそうにお菓子を食べているのをみていると、自分の幼少期の辛いことが思い返され、自分の子どもが妬ましくなって虐待してしまう」ということでした。自分が受けていた心の傷がいやされていませんから、自分の子どもや親や動物など自分よりも弱いものを虐待してしまいます。
 実はパウロもそうでした。使徒22:3にパウロが自分のことについて語っていることが書かれています。パウロは律法について厳格な教育を受けていました。それによって、パウロ自身も「誰からも非難されることはない」と断言できるほどの生活をしていたのです。ですから、その生活というのはとても大変なものであったと想像できます。私たちが自分の日常生活を振り返って「誰からも非難されることはない」と断言できる人はいないと思います。何故なら、自分のことは自分がよく知っているからです。ですが、パウロは断言できていたのです。それ程、律法を厳格に守り行っていたからです。
 しかし、同時にパウロの中には「神を喜ぶ」というものがありませんでしたし、本当の意味で神を愛するというものもありませんでした。パウロの中にあったものは神への恐れでした。だから、自分自身に対しても厳しくしていたのです。そのように育ってきましたから、当然他人に対しても厳しくなります。そのため、イエス・キリストを信じる者を受け入れることができず、一生懸命迫害していたのです。その当時のパウロは自分中心で、人の立場に立って理解することができず、人に仕えることのできない人でした。そのようなパウロは、どのようにして仕える者となることができたのでしょうか。それは、神がありのままの自分を愛し受け入れてくださり、自分のために仕えてくださったことを知ったからです。
 キリスト者を迫害している途中で、パウロは復活されたイエス・キリストの声を聞きました。パウロは「神のために」と信じてしていたのですが、実は神のためではなく神に逆らう行為をしていたのです。それにも拘らず、そのような自分を愛してくださっている神を知ったのです。今までは、「神の目から見て良い人でなければならない」と思っていたのですが、イエス・キリストと出会ったパウロは「こんな者でも愛してくださるのだ」ということを知ったのです。しかも、「そのような者のためにイエス・キリストが身代わりとなって十字架に架かり、父なる神の審きを受けてくださった」ということを知ったのです。すなわち、自分のために仕えてくださったイエス・キリストを知ったのです。パウロが人に仕える者となることができたのは、自分のために仕えてくださったイエス・キリストを知ったからです。パウロが仕える者となった源は、仕えてくださったイエス・キリストとの出会いです。

3)福音の恵みを受けるために
 パウロは仕える者へと変えられました。そして、仕える者となるために自分に与えられている自由を用いました。では、それは何のためにでしょうか。そのことが22節の後半から23節に書かれています。パウロが仕える者となった目的は、幾人かでも救うためであり、福音の恵みを共に受ける者となるためです。22節に「救う」ということばが書かれています。何からの救いでしょうか。それは罪からの救いです。私たちは「罪」と聞きますと、それは「法律に違反した行為」と捉えてしまいます。しかし、聖書の語る罪とは「的外れ」という意味で、的を外した生き方のことです。神は私たちを造り愛してくださっているのに、その神を神と認めないで自分勝手な生き方をすることが聖書の語る罪です。人は神に対して罪を犯してしまったがために、的外れな生き方をするようになりました。そのため人間関係も的を外したものとなってしまいました。他人も自分もありのまま受け入れられなくなったのです。ありのままの自分を受け入れられませんから、受け入れられるように演技するようになったのです。良い人のように飾ったり、できる人のように装ったり、強い人のように見せかけたりするようになったのです。そのような生き方はどうでしょうか。頑張り続けますから疲れてしまいます。また、自分の弱さや足りなさを責めてしまいます。そして、自分一人で悩み苦しんでしまいます。その原因は、自分を造り愛してくださっている神を神と認めないで、的を外して自分勝手に生きているからです。
 神はその罪から救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださり、十字架へと導いてくださいました。それは、私たちが的を外した人生から、的を射た人生を歩むことができるためなのです。人が的を射た人生を歩み、ありのままの自分を受け入れ、ありのままの他人を受け入れられる生き方へと変えられるのです。これが罪からの救いであり赦しです。その喜びが福音の恵みでもあります。パウロは、その福音の恵みを共に受ける者となるために人に仕えているのです。ここで注目したいのは「共に」ということばです。「共に」ですから、自分だけが受けることを願っているのではありません。自分が受けた喜びを他の人にも分かち合って一緒に喜ぶことを願っているのです。同時に、他の人が受けた喜びを自分も分かち合い一緒に喜ぶことを願っているのです。イエス・キリストとの出会いによって、人や自分に対する捉え方が変えられ、生き方が変えられた喜びを共に分かち合うことをパウロは願っているのです。
 使徒の働きを読みますと、神によって変えられた後のパウロの人生は、とても大変なものであったことが分かります。イエス・キリストとの出会いがなければ、大変な人生を歩むことはなかったと思われます。イエス・キリストと出会い変えられたことによって、受けなくてもよい苦しみをたくさん受けていました。しかし、パウロはその働きを辞めることはしませんでした。何故でしょうか。実は、しなかったのではなくできなかったからです。それは喜びの方が大きかったからです。イエス・キリストと出会う前のパウロは、多くの人から称賛される人生でした。しかし、パウロの心の中には本当の喜びがありませんでした。しかし、イエス・キリストと出会ったことによって、迫害を受ける人生でしたが心の中には本当の喜びがありました。パウロはその本当の喜びを人が経験し、その人と共に喜ぶために人に仕えていたのです。

結)
 福音の恵みを共に受ける。これは今年度の教会標語です。総会の時にも話しましたが、まだイエス・キリストと個人的な出会いをされていない方が、イエス・キリストと個人的に出会い、イエス・キリストを信じることによって本当の喜びが与えられるのを共に喜ぶ。それが福音の恵みを共に受けることです。そのことを願いつつ、今年度、約5ヶ月歩み続けてきました。そのために、今年度は新しく「マミークラブ」や「絵本の世界」を新たな活動として取り入れました。そして、秋にはキッズブラウンという英会話教室を開講する予定です。これらは、何よりも私たちが福音の恵みを共に受けるためです。一人でも多くの方が神領教会を通して福音に触れ、個人的にイエス・キリストと出会い福音の恵みを受けることができるように、今年度の後半も活動できるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント9:13~18「目標を目指して」  17.08.20.

序)
 先週は「自由と権利」について見ました。本当の自由と権利は、人の徳を高めるために与えられています。ところが、コリント教会の一部の人たちは「自分のために自由と権利が与えられている」と捉えていました。パウロは自分のために自由と権利を用いようとはしませんでした。何故なら、パウロには目指していた目標があったからです。では、パウロが目指していた目標とはどのようなものでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)自分の誇りのため
 パウロが自分の権利を用いなかった理由の第1は、15節に書かれていますように自分の誇りのためです。では、パウロの誇りとは何でしょうか。それは、自分の生活は物質的なものによって支えられているのではなく、神によって支えられているという誇りです。何度も話していますが、私たちは物質的社会の中に生かされています。そのような物質的社会の中に生かされていますと、「人を支えるものは物質的なもの」と捉えてしまいやすくなります。確かに、私たちの肉体を支えるには食べたり飲んだりしなければなりません。食べ物も飲み物も物質的なものです。ですから、「物質的なものが人を支えている」という理解は間違いではありません。聖書も「物質的なものが人を支えている」と語っています。ですが、物質的なものだけが人を支えているのでもありません。申命記8:3の後半に「それは…すべてのもので生きる」と書かれています。この「パン」というのは物質的なものの代表として語られています。聖書は「パンだけで生きるのではない」と語っているのです。ですから、物質的なものが人を支えていることを示しています。それと同時に、物質的なものだけが人を支えているのでもないことも示しています。
 もし、人が物質的なものだけで生きることができるならば、それは自動車と同じです。自動車はガソリンを入れなければ動きません。自動車にとってガソリンはパンです。ですが、自動車と人とは全く違います。何が違うでしょうか。それは命があるかないかです。自動車には命はありませんが人には命があります。生き物には全て命があります。テレビ番組で「志村動物園」というのがあります。そのコーナーに「捨て犬ゼロ部」というのがあります。身寄りのない犬をなくすことを目指して活動するコーナーです。捨て犬の中には、小屋から出ようとしないのがいます。また、表情も強張っています。そのような犬が人と交わることによって表情が穏やかになります。これは物質的なものだけではないことを示しているのではないでしょうか。さらに、人は神からいのちの息を吹き込まれたことによって、神と交わることのできる者とされています。ですから、人が人として生きるには、その神との交わりが必要なのです。ですから、聖書は「人は主の口から出るすべてのもので生きる」と語っているのです。
 生きるというのは、何度も話していますが可能性があり希望があります。死ぬということは、可能性や希望がなくなることでもあります。人は可能性や希望があるから生きることができます。その生きる力を与えてくださるのは神ご自身です。人は物質的なものの中に生かされていますが、実は関係の中に生かされているのです。人を生かすものは、物質的なものではなく関係です。その関係の中で何よりも大切なのは、人との関係ではなく神との関係です。パウロは「自分を生かすものは物質的なものではなく神ご自身である」と確信しています。これがパウロの誇りなのです。
 マタイ6:19~21に「     」と書かれています。イエス・キリストは「物質的なものはなくなるものであり、その物質的なものに拠り所を置くとなくなくことに不安を覚える」ということを話しておられます。物質的なものへの寄り頼みがもたらすものは不安です。しかし、神は永遠なる方であり物質的な方ではありません。ですから、決してなくなることはありません。そのため、その神の約束も決してかわることがないのです。だから、心の中に平安が与えられるのです。パウロは「その神が自分を支えてくださる」と確信し、その神を自分の誇りとしているのです。ですから、自分の権利を用いることをしなかったのです。

2)務めが委ねられているから
 パウロが自分の権利を用いることをしなかった理由の第2は、17節の最後に書かれていますように、務めが委ねられていたからです。この「私には務めが委ねられている」ということばの前に、「強いられたとしても」と書かれています。これは「強いられなかったとしても」ということをも含んでいます。ここでパウロが強調しているのは「務めが委ねられている」ということです。では、パウロは何を委ねられていたのでしょうか。それは16節の最後に書かれています「福音を伝える」ということです。
 では、その福音とはどのようなものでしょうか。ローマ1:16に「     」と書かれています。福音は救いを得させる神の力です。人は誰もが弱さを持っています。ですが、その弱さを見られないように頑張ります。頑張るとは我を張ることです。それは自分が一生懸命努力していることを表します。ですが、私たちはどれほど一生懸命に頑張ったとしてもできないことがあります。そのような問題に直面したとき、自分の弱さを見せつけられ失望し気力を失ってしまいます。しかし、そのような私を愛してくださり、見捨てることなく共にいてくださり励ましてくださる方を私たちは知ったのではないでしょうか。今までは結果だけで評価していた自分が、人は結果だけで評価される存在ではないことを知り、見方が変えられたのではないでしょうか。見方が変えられるということは、生き方が変えられるということです。福音は生き方を変えることのできるものです。「何故、福音は人の生き方を変えることができるのか」と言いますと、それは神の力だからです。
 パウロは、その神の力である福音を委ねられていたのです。本当は自分の人生は神ご自身のものであるのに、自分のものであるかのように振る舞い、主を自分の神と認めず歩んでいたにも拘らず、人の生き方を変えることのできる福音が委ねられたのです。パウロは、そのことを非常に重く受け止めていました。何故でしょうか。委ねるということは信頼するということです。委ねられるということは、信頼されるということです。しかも、福音は人の生き方を変えることのできる神の力です。それほどのものが委ねられたのです。私たちは大切なものであればあるほど、より信頼できる人に委ねるのではないでしょうか。福音は人の生き方を変えることのできる神の力です。それほどのものが神から委ねられたということは、神はそれほど私たちを信頼してくださっているということです。パウロが自分に与えられている権利を用いなかった理由は、神に深く信頼されていることに喜びを覚えていたからです。報酬を受けることよりも、神に深く信頼されていることの喜びの方が強かったから、自分に与えられている権利を用いることをしなかったのです。
 その福音は、私たちにも委ねられているのです。「だから自分の権利を用いないように」と言うのではありません。ここで私たちが注目したいのは、自分にも神の力である福音が委ねられているという事実です。私たちにも福音が委ねられているということは、神は私たちをも深く信頼されているということです。確かに、私たちは弱さを持っています。欠けた所の多い者です。しかし、神はそのような私たちを御存知の上で、私たちを信頼し神の力である福音を委ねてくださったのです。そこに私たちは目を留めるべきではないでしょうか。

3)報いを受けるため
 パウロが自分の権利を用いなかった理由の第3は、18節に書かれていますように報いを受けるためです。では、パウロにはどのような報いがあるのでしょうか。18節を読みますと、自分の権利を十分に用いないことが報いであるかのようにも受け取れます。ですが、それがパウロの受ける報いではありません。パウロは自分にある権利を用いなくとも必要なものは全て与えられることを確信していました。何故そのような確信があるのかと言いますと、自分に必要なものは神が与えてくださることを知っていたからです。
 人が自分の権利を主張する理由の1つは、権利を主張しないと与えられないと考えているからではないでしょうか。ですが、パウロは「たとい自分が権利を主張しなくても神は必要なもの全てを与えてくださる」と信じていたのです。確かに与えられるものは人とは違います。ある人には与えられているのに、自分には与えられていないものもあります。だからと言って、「それが平等ではない」ということにはなりません。ある人に与えられ自分には与えられていないのは、その人には必要だけれども自分には必要がないからです。「ある人には与えられているのに自分には与えられていない」と言って文句を言うのは僻みです。そして、それは他人と自分とを比較していることでもあります。
 パウロは自分に与えられているものと、他の人に与えられているものとを比較してはいません。何故なら、比較する必要がないからです。パウロは「自分に必要なものは神が必ず与えてくださる」と確信しているのです。では、パウロが受ける報いとは何でしょうか。それは神への信頼関係の強さです。パウロは神が自分の必要を満たしてくださることを信じています。そして、神はパウロの必要を満たしてくださっています。そして、これからも満たしてくださいます。それによって、パウロの神に対する信頼はさらに強められます。これがパウロの受ける報いなのです。
 私たちは、とかく目に見えるものに寄り頼んでしまいやすいものです。それは、目に見えるものによって安心するからです。ですが、目に見えるものが私たちに安心をもたらすものではありません。私たちに安心をもたらすものは、目には見えませんが確かに生きて働いておられる神ご自身です。神は私たちの必要を必ず満たしてくださいます。何故なら、それが神の私たちに対する約束だからです。マタイ6:33に「     」と書かれています。33節の前半は神との信頼関係です。神との信頼関係を第1とするとき、「それに加えて、これらのものは全て与えられます。」と約束されているのです。この「これらのもの」とは、自分に必要な全てのものということです。
 神はマラキ4:10で「こうしてわたしをためしてみよ。」と語られました。この「ためす」というのは、神を試みることではありません。ここで語られているのは、「神から必要を満たしてくださるから、その神の約束を信じて行動してみよ。」ということです。すなわち、神を信頼することを求めておられるのです。神は収入の10分の1を献げることを求めておられます。収入の10分の1を献げるというのは、家計に大きな影響を及ぼします。10分の1ではなく、100分の1だったら楽です。ですが、これは「何に信頼しているか」のバロメーターでもあります。本当に神に信頼しているのか、それとも物質的なものに信頼を寄せているのかというバロメーターです。10分の1を献げるとき、「本当に神は必要を満たしてくださる方である」ということを知り、神への信頼がさらに深められます。これが今朝の箇所でパウロが語っています報いなのです。パウロの報いは、神への信頼が強まることです。

結)
 このように見ていきますと、パウロが自分に与えられている権利を用いなかったのは、神との信頼関係が強められるためであることを知らされます。そして、それがパウロの生き方の目標でもありました。その目標は現代の私たちも同じです。神は私たちの必要を全て御存知です。ですから、その必要を全て満たしてくださいます。私たちにとって大切なことの1つは、必要が満たされるかどうかということよりも、必要を満たしてくださる神への信頼が強められることです。今よりもさらに神への信頼が強められることを目標として、その目標を目指して共に歩まされていきましょう。

Ⅰコリント9:1~12「自由と権利」  17.08.13.

序)
 先週は夏季休暇をいただき、久しぶりに北陸に旅行しリフレッシュさせていただきました。休暇を与えてくださいましたことを感謝します。台風の影響を受けましたが、能登の方はそれほどひどくありませんでした。雨になることが予想されていましたので、少し予定を変更した旅行でした。変更ができるというのは選べるということですし、選べるとは自由であるということです。自由とは選ぶ権利があることですが、今朝はその自由と権利について共に教えられたいと願っています。

1)自由について
 まず自由についてですが、聖書が語っています自由については、7月30日の礼拝でも触れました。聖書の語る自由とは、人の徳を高める方を選び取るものです。私たちはついつい自分のことを優先して考えてしまい、そちらの方を選び取りやすい者です。そのことは、コリント教会の一部の人たちも同じでした。彼らは「自分たちはイエス・キリストを信じることによって本当の自由を得ることができた」と信じていました。事実、イエス・キリストを信じることによって本当の自由が与えられたのです。ですが、その本当の自由を間違って理解していたのも事実です。彼らは「自分たちはイエス・キリストを信じることによって本当の自由が与えられ、罪を犯すこと以外であれば何をしても構わない」と捉えていたのです。ですが、その理解は間違ったものです。「罪を犯すこと以外であれば何をしても構わない」というのは、「自分の願っていることは何でもできる」ということでもあります。
 イエス・キリストは「戒めの中で何が一番大切であるか」という質問を受けられたとき、「全身全霊をもって神を愛し、自分自身を愛するように人を愛すること」と答えられました。イエス・キリストの答えの中には、自分のことを優先することについては全く触れられてはいません。何故でしょうか。自分のことを考えるのが悪いからでしょうか。そうではありません。自分のことを考えるのは大切です。しかし、自分のことは意識しなくても考えられるのが私たちではないでしょうか。ですから、そのことについてわざわざ教えられなくてもできます。
 しかし、自分以外のものを優先的に考えるのは意識しないとできません。何故なら、私たちの内には罪があるからです。確かに、私たちの罪はイエス・キリストの十字架を信じることによって赦されています。ですが、それは赦されただけであってなくなったわけではありません。ですから、パウロはローマ7:15~18で「     」と告白しているのです。パウロ自身も自分の中にある罪と戦っていたのです。ただ、罪による弱さの故に自分中心になったとしても、そのことが神に赦されているという確信を持っているのです。だから、25節で神に感謝しているのです。
 私たちは、自分以外のものを優先的に考えるには意識しないとできません。そのことは何よりもパウロ自身もよく知っていました。だから、パウロは人に配慮することを勧めているのです。そして、パウロ自身も人に配慮することを意識していたのです。ともすると、私たちは「自由とは何でもできること」と捉えているのではないでしょうか。そして、「何でもできるとは、自分が願っていることができること」と理解してはいないでしょうか。「悪いことではない限り何をしても構わないのが自由」と思われている方が多いのではないでしょうか。ですが、本当の自由というのは「悪いことでなければ何をしても構わない」というものではありません。人の徳を高める方を選び取るものであり、神の栄光を現す方を選び取るものです。ですから、イエス・キリストは「神を愛し人を愛することが聖書の戒めの中で一番大切なものである」と答えられましたし、聖書にそのように書かれているのです。

2)権利について
 イエス・キリストを信じる者は本当の自由を持っています。自由とは選ぶことのできる権利を持っていることです。そこで、今度は権利について見てみたいと思います。日本は「自由な国」と言われています。そして、多くの日本人は「日本を自由な国」と思われています。殆どのことは自由にできますから、日本を「自由の国」と捉えるのは間違いではないでしょう。そのような日本に過ごしていますと、自由な国に住んでいるが故に権利も主張されます。確かに、先ほども話しましたように、自由とは選び取る権利のあるものです。ですから、その権利を主張することは間違いではありません。しかし、人への配慮を抜きにした権利の主張は聖書的ではないと思います。神が願っておられるのは、人の徳を高めることであり、愛が根源にある権利ではないでしょうか。
 コリント教会の一部の人たちは、人の徳を高めることを考えず、自分たちの考えや権利を主張していました。そのために何が生じたでしょうか。1章に書かれていますように、パウロ派やペテロ派という分裂です。本来教会は一つになって建て上げられていかなければならないのに、教会の中で3つも4つものグループができ、いがみ合うという状況に陥ってしまったのです。各々のグループには各々の考え方があることでしょう。どのグループが正しいのかは分かりません。どのグループの考え方にも一理はあることでしょう。ですが、「どのグループの考え方が正しいか」ということが大切なことではありません。どのグループにも欠けていたものがあったのです。それは人への配慮です。コリント教会の中では、人への思いやり・配慮を欠かした権利の主張がなされていたのです。
 3節以降を読みますと、パウロは何か自分の権利を主張しているかのように思えたりもします。ですが、これは自分の権利を主張しているのではありません。パウロには他の人と同じような権利を持っていました。ですが、その権利を用いることをしなかったのです。それは各々の教会に配慮していたからです。パウロはそのことをコリント教会の人たちに伝えたかったのです。人への思いやり・人の徳を建てることに配慮することを願っていたのです。
 私たちにも様々な権利が与えられています。そして、その権利を用いることは間違いではありませんし、悪いことでもありません。しかし、その権利が人への配慮を欠き、自己満足のためのものであるならば改めなければならないことを教えられるのではないでしょうか。パウロはピリピ2:6~7で「     」と語っています。イエス・キリストは神であられるのに、ご自分を無にしてまで仕える者の姿となり、人間と同じようになられたのです。それは何のためにでしょうか。それは父なる神のためであり、私たちのためにです。私たちの罪が赦され神の審きから救われるために、イエス・キリストはご自分の権利を捨てて人としてこの世に来てくださったのです。イエス・キリストは、私たちへの配慮のためにご自身の権利を用いることをされなかったのです。それは私たちの徳が高められるためです。聖書が語っています権利とは、自己満足のために用いるものではなく、人の徳が高められるために用いるものです。

3)神の栄光が現されるため
 パウロはコリント教会の人々と同じように、様々な権利を持っていました。ですが、その権利を用いることをしませんでした。その理由が12節の最後に書かれています。それは「キリストの福音に少しの妨げも与えることがないように」という思いからです。すなわち、「神の栄光が現される」という目的のためにです。パウロは、その目的に焦点を合わせて自由と権利を用いていたのです。このことから、私たちが自由と権利を用いることにおいて目的が必要であることを知らされるのではないでしょうか。
 何の目的も持たずに、自由と権利を用いてしまいますと、自己中心的なことを優先して用いるようになってしまいます。Ⅰコリント14:33に「神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」と書かれています。新共同訳聖書には「神は無秩序な神ではなく、平和の神だからです。」と訳されています。「混乱」ということばが「無秩序」と訳されています。「平和」ということばは、「混乱」や「無秩序」と対比して用いられていますから、「平和の神」とは「混乱のない神」「秩序のある神」を意味していることが分かります。
 神は人を造られました。何度も話していますが、造るというのには目的があります。神は目的をもって世界を造り人を造られました。そして、人を造られたときロボットのようなものとして造られはしませんでした。人に自由を与えてくださいました。ということは、私たちに与えられています自由にも神の目的があるということです。自分には選ぶ権利があります。ですかr、人はサタンの誘惑のとき、神のみことばに従う道と自分の思いを優先させる道を選ぶことができたのです。では、神が私たちに与えられた自由の目的は何でしょうか。それは神の栄光を現すという目的です。ところが、人はその神の目的にそって自由を用いることをしないで、自分の思いを優先させるために自由を用いてしまったのです。そのために、食べてはならない善悪の知識の木の実を取って食べてしまったのです。そして、神に対して罪ある者となったのです。
 神に対して罪を犯してしまった人間は、その後どうなったでしょうか。本当の自由を見失ってしまい、人生を手探り状態で歩まなければならなくなってしまいました。まさしく、混乱の人生・無秩序な人生を歩まなければならなくなってしまったのです。しかし、神はそのような私たちのためにイエス・キリストをこの世に送ってくださり、私たちの罪のために身代わりとなって十字架に架けられ神の審きを受けてくださいました。それを信じることによって、私たちの罪は赦されたのです。そして、本当の自由が与えられたのです。すなわち、神の目的にそった自由を用いることのできる者とされたのです。神のすばらしさが現されることを選ぶ自由が与えられたのです。本当の自由とは、神のすばらしさが現される方を選び取る権利を用いることです。

結)
 私たちは比較的自由な国に住んでいます。自分のしたいことができる国に住んでいます。そのような中で過ごしていますと、自由と権利も自分のためにあるように捉えてしまいがちです。しかし、本当の自由や権利は人の徳を高めるために与えられているのです。イエス・キリストは私たちの徳を高めるために、その自由と権利を用いられたことを覚えつつ、私たちも人の徳を高めるために与えられています自由と権利を用いられるように祈っていきましょう。