使徒の働き10:44~48「みことばと聖霊」 23.03.19.
序)
今年度も残り2週間を切り、来主日の礼拝後には教会の年次事務総会が行われます。今年度の歩みを神が導いてくださったことに感謝しつつ、新年度も歩みも神が導いてくださることに目を向けていきたいと願わされます。今私たちが見ています使徒の働き10章は、コルネリウス家族を始め異邦人たちがイエス・キリストを信じるに至る経緯が書かれている箇所です。そして、10章の最後に異邦人たちがイエス・キリストを信じたことが書かれています。そして、この出来事をきっかけとして、教会は異邦人にも向けて福音宣教の働きをするようになります。そのような意味からしても、この10章の出来事は教会においてとても重要な箇所です。
1)何が起きたか
まずは、ペテロのメッセージを通して何が起きたのかを見てみたいと思います。44節に「ペテロが…続けていると」と書かれています。ペテロはイエス・キリストの十字架と復活の話しを続けていました。すると、そのメッセージに耳を傾けていた人たちに聖霊が下り、聖霊の賜物が注がれたのです。そして、その聖霊の賜物によって「異言を語り、神を賛美する」ようになったことが46節に書かれています。異言とは、私たちが日常で話すことばとは異なり、聞いても理解できないことばです。「外国語」と理解される方もおられます。確かに、使徒の働き2章では、イエス・キリストを信じる人たちに聖霊が下り、「他国のいろいろなことばで話し始めた」と4節に書かれています。ですから、異言は外国語とも理解するのは間違いではありませんが、「それだけだ」と限定することもできないと私は思っています。とにかく、一般の人には理解できないことばです。
しかし、重要なのは異言を語ることよりも、神を賛美する者へと変えられたことです。おそらくコルネリウス家族はユダヤ教信者であったと考えられます。しかし、10:27に「多くの人が集まっている」ということばから、家族以外の人たちも集っていたと考えられます。その人たちもコルネリウス家族と同じようにユダヤ教信者であったと考えられます。ユダヤ教は律法を守り行い続けることによって、神に義と認められるという理解です。ですから、何もしないで神を賛美するということはありません。しかし、コルネリウスの家に集っていた人たちは、ペテロの話しを通して神を賛美したのです。それは、ペテロのことばを理解したということでもあります。では、何を理解したのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架による死と復活です。そして、「神が今の私を愛し受け入れてくださっている」ということです。だから、何もしていないけれども神を賛美することができたのです。
44節を見ますと、ペテロがまだ話している途中で聖霊がコルネリウスの家に集っていた人たちに下ったことが分かります。ペテロが話し終わったのではなく、話の途中で彼らは理解して聖霊が下って異言を語り、神を賛美したのです。ここでも、ともすると「伝道集会を通して、このように多くの人が福音を理解し神を賛美するようになれば良いのに」と思えてしまいます。しかし、見逃してはいけないことは33節の後半のコルネリウスのことばです。それは「今私たちはみな…神の御前に出ております」という姿勢です。すなわち、ペテロを通して神が私に何を語りかけようとされているのかを聞こうとする謙遜な姿勢です。詩篇51:17に「 」と書かれていますように、「砕かれた霊。打たれ、砕かれた心」をもって神のことばに耳を傾けるとき、「神よ、あなたはそれを蔑ません」と書かれています。それは、その人の心に聖霊が働いてくださるということです。
使徒の働きには、様々な人の理解を超えた現象が書かれています。先々週見ましたアイネアやドルカスの箇所もそうですし今朝の箇所もそうです。しかし、そのような現象が起きることが重要なことではありません。アイネアやドルカスは様々な制約がある中で、決心し今の自分にできることから始めることを通して、神は主に立ち返る人たちを起こされました。それは今朝も箇所もそうです。「今日、神は私に何を語りかけようとされているのか」という謙遜な姿勢で耳を傾けるとき、その人の心の中に聖霊が働いてくださるのです。私たちもそのような姿勢で礼拝に臨む大切さを教えられます。
2)その意味
ペテロがコルネリウスの家にいる人たちに福音を語り続けていますと、突然「みことばを聞いていたすべての人々に聖霊が下った」と44節に書かれています。異邦人であるコルネリウスたちに聖霊が下ったのです。これが意味するものは何でしょうか。その後ペテロはエルサレムに戻り、割礼を受けているキリスト者から異邦人と交わったことに非難されました。その場でペテロは11:15で「 」と語っています。すなわち、コルネリウスの家にいた人たちに下った聖霊は、ペンテコステの日に下った聖霊と同じものであることを証言したのです。すなわち、この44節の聖霊の降臨はペンテコステの聖霊の降臨と全く同じものだったのです。これが意味することは、イエス・キリストの福音はユダヤ人だけに限定されるものではなく、異邦人にも注がれていることの証明です。
45節に「 」と書かれています。おそらく、ペテロと同行した人たちだけが驚いたのではなく、ペテロ自身も驚いたことと想像できます。この異邦人にも聖霊が下られるという出来事は、当時のキリスト者たちの理解を越えた出来事だったのです。だから神はそのために幻を用いられたのです。私たちは誰しも「これはこうだ」という限定と言いましょうか枠があります。「自分の中に枠がある」というのが悪いわけではありません。その自分の中にある枠を超えるというのは難しいことです。しかし、神はそのような私たちの枠を超えた働きをなされる方です。そのために様々なものを用いられます。幻もその一つですし、様々な事柄もその一つとも言えます。
そして、このコルネリウスの家にいた人たちに生じた出来事はペテロたちだけに限定されてのものでもありません。後に異邦人宣教へと広がっていく大きな意味があるものだったのです。私たちはこのような大きな出来事を経験することは少ないかもしれません。ですが、先程も話しましたように「自分の中にある枠を超える」という事柄は、日々の生活の中でもあるのではないでしょうか。来主日の礼拝後に教会総会が開かれます。今年度の活動報告と新年度の活動について話し合われます。その話し合いの中で、自分の枠を超えた意見が出されるかもしれません。そのようなとき、神からの知恵が増し加えられ話し合えればと願っています。
3)バプテスマ
コルネリウスの家にいた人たちがイエス・キリストを信じ、聖霊の賜物が注がれ神を賛美することを通して、ペテロは47節で「 」と語りました。そして、48節の前半に「ペテロは…受けさせた」と書かれています。「バプテスマを受けさせた」と書かれています。以前の聖書では「バプテスマを受けるように彼らに命じた」と訳されています。どちらも半強制的にバプテスマを受けたような印象を与えます。でもそれは、「父・子・聖霊の名において彼らにバプテスマを授けなさい」というイエス・キリストからのことばに従ってのものです。それは、イエス・キリストの十字架による死によって自分の罪が赦されたことへの感謝と、イエス・キリストの復活によって死から解放され生きる者とされたことへの感謝。この2つの恵みの応答が、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けることなのです。イエス・キリストの十字架による死と復活を信じることによって、人は自分の罪が赦され甦りという希望に生きることができます。ですが、受けるだけでなく信じた者の応答も神は求めておられるのです。その応答がバプテスマなのです。ですから、「信じる」ということと「バプテスマを受ける」というのは1セットとされているのです。「信じたけれどもバプテスマを受けない」というのは、本当の意味で神に従ったことにはならないのです。
では、バプテスマとは何でしょうか。そのことについては、ローマ6:4~5に「 」と書かれています。私たちは「バプテスマは全身を水の中に浸す」というバプテストのグループです。全身が水の中に浸されたということが意味するものは、キリストと共に葬られたということです。何が葬られたのかと言いますと、罪人であった自分が死んでキリストと共に葬られたということです。それは「私の罪はイエス・キリストによって赦された」ということを意味しています。それがバプテスマの意味することの1つです。バプテスマが意味する2つ目は、キリストと共に新しいいのちに歩むということです。全身が水の中に浸されたあと水の中から出されます。これは死からの甦りを表しており、古い自分は死んでこれからは新しい自分としてキリストと共に歩むことを表しています。そして、バプテスマが意味する3つ目は、キリストと一つにされているということです。バプテスマ自体に何か特別な力があるわけではありません。私たちはバプテスマを受けても弱さを持っていますし、バプテスマを受けたから特別なことができるというわけでもありません。バプテスマを受ける前と何ら変わらないのです。しかし、そのような私と神は共にいてくださり導いてくださっていることの見える形で確認するのがバプテスマなのです。
イエス・キリストは「わたしと父とは一つです」と話されました。イエス・キリストを信じることによって一つにされているということは、父なる神とも一つにされているということでもあります。イエス・キリストを信じる信仰が与えられても、私たちは様々なことを通して不安や恐れを抱いてしまいます。ですが、そのようなとき「私はあの時バプテスマを受け神と一つにされているのだから、神が必ず私の歩みに対して最善のことを成してくださる」ということに目を向けることができるのです。バプテスマ自体に特別な力があるわけではありませんが、バプテスマによって神が共におられることに目を向けられるのです。これがバプテスマを受けることの意味です。あと2週間ほどで今年度も終わろうとしています。そして、2週間後は新年度が始まります。その新年度の歩みも私たちは様々なことを経験し、不安や恐れを覚えることでしょう。ですが、神と一つにされているのです。神が最善を成してくださることを信じ歩まされたく願わされます。
結)
今朝は、コルネリウスの出来事の締め括りの箇所を見ました。ここでもコルネリウスらに聖霊が下り異言を語り始めたことが書かれています。しかしながら、ここでも同じように超自然的現象が重要ではありません。44節に「みことばを聞いていたすべての人々に」と書かれていますように、何よりも重要なのは「みことばに聞く」ということです。聖霊は、みことばを聞いた人にしか下らないのです。イエス・キリストは、ヨハネ14:26で「 」と話されました。聖霊の働きは、みことばを思い起こさせることです。「神が私たちと共におられる」とは神の約束です。そこに目を向けさせてくださいます。そして、私たちはバプテスマという儀式を通して体験をもしているのです。神の臨在に目を向けつつ、年度末を歩ませていただきたいと願います。
使徒の働き10:34~43「すべての人の主」 23.03.12.
序)
先週、私たちは「神は人を通して働かれる方である」ということを学びました。その神の働きは昔も今も変わることはありません。その神から遣わされたペテロは、コルネリウスの家に集う人たちに語り始めました。それは福音そのものです。今朝は、その福音を中心として教えられつつ、イエス・キリストがすべての人の主であられることを共に教えられたいと願います。
1) 証しについて
まず教えられたいのは証しについてです。コルネリウスからの話しを聞いたペテロは、まず「これで私は、はっきりと分かりました」と告白しています。では「ペテロは何を分かったのか」と言いますと、34節に書かれていますように「神はえこひいきをされる方ではない」ということをです。すなわち、神はユダヤ人であれ異邦人であれ、神を恐れ、正義を行う人を受け入れてくださる方であることを知ったのです。このペテロの告白から、以前にパウロの回心の箇所で話したことを思い起こされるのではないでしょうか。それは「神の働きは一度に全てではない」ということをです。ペテロは2章で聖霊に満たされる経験をしました。ペテロはイエス・キリストが天に上られてから、使徒たちのリーダー的な存在として活動していました。しかし、聖霊に満たされて全てが分かったのではありません。分からないこともあったのです。パウロの回心の箇所で、「神はパウロの必要に応じて御心を示される」と話しました。それと同じことがペテロにも生じたのです。ペテロは律法で食べることを禁じられている物は一切口に入れませんでした。それは神から与えられたものであっても断ったのです。それに対して、神は「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と忠告されました。ペテロも一度に全てのことを知ったのではありません。神はペテロの必要に応じて御心を示されるのです。その方法は現代の私たちに対しても同じです。一人ひとりの必要に応じて神は御心を示してくださいます。私たちにとって大切なのは、神の御心を全て知ることではなく、御心を示されたときどのように応答するかです。
ペテロは、「神が異邦人にも福音を伝えようとされている」というのを、この時初めて知ったのです。そのことを知ったペテロは、イエス・キリストについて話し始めます。それは、「神は旧約時代にみことばをイスラエル人に送られ、その後イエス・キリストによって福音が伝えられた」ということです。続けてペテロは、「このイエス…人の主です」と語っています。それは、「イエス・キリストはイスラエル人だけの主ではなく、異邦人をも含む全ての人の主である」ということです。そのイエス・キリストは、この地上で様々なところを巡り歩かれて良いわざを行われ、悪魔に虐げられている人たちを癒されたことが36~38節にかけて語られています。そして、39節の前半で「私たちは…証人です」と告白しているのです。それは「自分たちが見たことや経験したことを偽りなく語る者である」ということです。
カイサリアはサマリア地方の北西に位置する町です。すでに、8章でピリポがサマリア地方に行き福音を宣べ伝え、サマリアの人々が神のことばを受け入れました。そして、10章でもサマリアの地でペテロが異邦人に福音を語ったのです。それは1:8の成就でもあります。「どのようにして福音は広がっていったのか」と言いますと、一人ひとりがイエス・キリストの証し人として歩んだからです。何度も話していますが、証しとは「自分が見たことや経験したことをそのまま話す」ことです。そこには、まだ分からないこともあるでしょう。でも分からなくて良いのです。ペテロもそうです。全てが分かったのではありません。必要に応じて分かっていったのです。証しをするにおいて大切なことは、すでに知っていることの中で語っていくことです。私たちも主の証し人として、続けて用いられるように祈っていきましょう。
2)イエスの十字架
次に教えられたいのは、イエス・キリストの十字架です。ペテロは続けて39節の後半で、「人々は…殺しました」と語っています。イエス・キリストは何も悪いことをされていないのに、人々によって十字架にかけて殺されてしまいました。何故、人々に殺されなければならなかったのでしょうか。それはご自分の罪の故にではなく人々の罪の故にです。人々がイエス・キリストの存在が邪魔になったからです。イエスさえ居なければ自分たちの罪を指摘されることもなく、心に平安を保ちつつ日々の生活を過ごすことができるからです。そのために、様々な手を打ってイエス・キリストを十字架につけて殺すように企てたのです。
ペテロは「十字架にかけて」とは言わず、「木にかけて」と語っています。何故「木にかけて」と語ったのかと言いますと、申命記21:23に「木にかけられた者は神に呪われた者」と書かれています。イエス・キリストは、神に呪われた者として処刑されたのです。罪を犯していない方が神に呪われた者として処刑されたということは、本来神に呪われるべき人の罪をご自分が代わりに負われて、神に呪われる者として処刑されたということです。そのことについてパウロは、ガラテヤ3:13で「 」と語っています。ここでパウロは「私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました」と語っています。「贖う」とは、犠牲を払って買い戻すという意味です。イエス・キリストは私たちの命を買い戻すために、ご自分の命を犠牲にして神に呪われた者として神の審きを受けてくださったのです。私たちは何の犠牲も負うことなく、神に罪が赦されたのではないのです。イエス・キリストの命が代わりに支払われているのです。私たちはそのことを深く覚えることが大切です。
では、そのイエス・キリストは誰のために十字架に架かって死なれたのでしょうか。ペテロは41節で「民全体にではなく…私たちに現れたのです」と語っています。ここはイエス・キリストの復活について語られています。ですが、福音はイエス・キリストの十字架による死と復活です。ですから、「神によって前もって選ばれた証人である私たちに現れた」ということは、「神によって前もって選ばれた証人である私たちのために死なれた」ということでもあります。すなわち、イエス・キリストの十字架による死は、全ての人ではなく神によって前から選ばれた人のためなのです。そのようなことを聞かれると「えっ」と思われる方がおられるかもしれません。「イエス・キリストの十字架による死は全ての人のためではないのか」と思われるかもしれません。でもそれは、信じる全ての人のためです。それはパウロも同じことを語っています。エペソ5:25に「 」と書かれています。「キリストは教会を愛し、教会のためにご自分を献げられた」と語っているのです。教会とは、神に選ばれた人たちの群れです。その人たちのために、イエス・キリストは十字架に架かって死んでくださったのです。ペテロもパウロもそのことを語っているのです。これを神学用語では「限定的贖罪」と言います。
すると、ある方は「では何故、全ての人に福音を伝える必要があるのか」と思われるかもしれません。以前にも話しましたが、私たちは誰が神に選ばれているかは知りません。その知らない私たちに神は福音を委ねてくださいました。ですから、私たちは全ての人に福音を伝える必要があるのです。私たちは、「誰が神に選ばれた人であるか」を知る必要はありません。それは神の側のことです。私たちは神から委ねられたことを忠実に果たしていくことが大切なのです。ですから、イエス・キリストは「すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と話されているのです。全ての造られた人に福音を宣べ伝え続ける群れとして、これからも歩まされていきましょう。
3)イエスの復活
最後に教えられたいのは、イエス・キリストの復活です。続けてペテロは、41節で「私たちは…食べたり飲んだりしました」と語っています。すなわち、ペテロたちはイエス・キリストの幽霊を見たのでもなければ、幻覚を見たのでもありません。一緒に食べたり飲んだりして会話を交わしていたのです。ですから、復活は食事をしようと思えばできる身体を持っているのです。イエス・キリストは私たちに向けられた神の呪いを、代わりに負って受けてくださいました。「神はそれで満足されたのか」と言いますとそうではありません。死なれたイエス・キリストを死から甦らされたのです。
では、何のためにイエス・キリストは死から甦られたのでしょうか。42節に「 」と書かれています。イエス・キリストが死から甦られたのは、イエス・キリストが生きている者と死んだ者の審き主として神が定められた方であることを全ての人が知るためです。この「全ての人」とは、イエス・キリストを信じる人信じない人「全て」です。まさしくイエス・キリストは、全世界の人の主の主であり王の王なる方なのです。そして人は誰でも、「そのイエス・キリストが私の罪のために身代わりとなって神の呪いを受けて十字架に架かり、神の審きを受けてくださった」と信じるなら、その人の罪は赦されるのです。ペテロは、そのために自分たちは証人として立てられていると語っているのです。
そのイエス・キリストが死から甦られたのは、それだけではありません。もう1つあります。それは、人は神にあって生きる存在とされているからです。「神にあって生きる」とは、「神と共に生きる」ということでもあります。「イエス・キリストが何故死から甦られたのか」と言いますと、イエス・キリストを信じる私たちが「神が共にいて」ことに目を向けて生きる者となるためです。エゼキエル書33:11に「 」と書かれています。神が喜ばれるのは悪しき者の死ではなく、立ち返って生きる者となることなのです。神は人が神にあって生きることを喜ばれるのです。そのためにイエス・キリストは死から甦られたのです。イエス・キリストの復活は、人が神にあって生きる者となるのを神が喜ばれるからでもあります。今年のイースターは先に天に召された兄姉のご遺族を招き、召された兄姉を共に覚えると共に、死からの甦りの希望に目を向ける時とするために、例年とは違うイースターの時を持ちます。神は人が神にあって生きる者となるのを喜ばれます。イエス・キリストはそのために死から甦られたのです。何かができるから神は喜ばれるのではありません。このような私に神が目を向けてくださり、このような私と神はいつも共にいて導いてくださっていることに感謝し、その神にあって生きる者とされていることを神は喜ばれるのです。一言で言えば、神に感謝しつつ生きるということです。そして、一週間の歩みが守り導かれたことに感謝する一人ひとりが教会に集い、共に神に感謝を献げるのが教会の礼拝でもあります。
結)
確かに、救われる人は神に選ばれた人です。しかし、私たちは誰が神に選ばれているのかを知りません。ですから、私たちは全ての人に福音を伝えていく必要があります。その福音とは、私たちの罪のために神の呪いを代わりに受けてくださり神に審かれ、その私たちが神に感謝して生きる者となるためにイエス・キリストは死から甦ってくださったというものです。何故イエス・キリストしか救いがないのかと言いますと、私たちの罪のために身代わりとなって神の審きを受けられ、死から甦られたのはイエス・キリストしかおられないからです。そのことを一人でも多く証しする者と用いられるように祈っていきましょう
使徒の働き10:1~33「宣教の広がり」 23.03.05.
序)
今年度も残り1ヶ月を切り、慌ただしい時を過ごしています。ですが、何よりも今年度の歩みが神によって支えられようとしていることに感謝したいものです。今朝の箇所は、教会が異邦人伝道に方向性を見出だすきっかけとなった箇所です。どのようにして、教会は異邦人伝道へと進むようになったのでしょうか。今朝は登場するペテロとコルネリウスと神から共に学んでいきたいと願っています。
1)ペテロ
まず、ペテロから学びたいと思います。ペテロは「シモン」という皮なめし職人の所に泊まっていました。「皮なめし」というのは、動物の皮に薬品を使って柔らかくする仕事で、靴や鞄などに用いられます。ですから、「皮なめし」という仕事は、死んだ動物を扱います。律法には「動物の死体を触れると汚れる」と書かれています。ですから、皮なめしの仕事は、律法から見ますと汚れた仕事です。そのために、人々からは嫌われていた仕事です。ペテロは、そのような人の所で泊まっていたのです。これは当時のユダヤ人にとっては驚くべきことでもありました。何故、ペテロはそのような人の所に行って泊まったのか不思議に思えます。でもイエス・キリストは、取税人や罪人と共に食事をされました。ペテロもそのことを実践したのではないかと考えられます。ところが、ある日ペテロは祈るために屋上に上りますと、夢心地になって幻を見ます。それは神の使いがコルネリウスに現された翌日のことです。
その幻の中で、ペテロは「天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅を吊るされて地上に降りてくるのを見た」と11節に書かれています。そして、神はペテロに「屠って食べなさい」と命じられたのです。それに対して、ペテロは何と答えたでしょうか。14節に「主よ…ありません」と食べることを拒否したのです。神が「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と言われたのに、3度もペテロは拒否したことが16節に書かれています。ここに、ペテロの強情さや頑なさを見ることができます。何故、ペテロは神が命じられたことを拒否し続けたのでしょうか。その背景にあったものは何だったのでしょうか。それは「自分は汚れていない」という思いだったのではないでしょうか。そして、「自分は汚れたくない」という思いでしょう。ペテロには汚れることへの恐れがあったのです。確かに、ペテロは「汚れた仕事」と思われていたシモンの家に泊まっていました。ですが、彼らは同じユダヤ人ですし、イエス・キリストもユダヤ人の罪人と共に食事をされていました。そこには「同じユダヤ人」という枠の中で捉えていたものと考えられます。
ところが、神はペテロを異邦人の所に遣わそうとされていたのです。もし、この幻の出来事がなければ、ペテロはこの後に来るコルネリウスの部下たちの申し出を断っていたことでしょう。そうしないために、神は幻を通してペテロに示されたのです。異邦人伝道というのは、当時のキリスト者には考えられないことだったのです。「救いはユダヤ人のもので、福音伝道もユダヤ人に」という考えがあったからです。これは想像ですが、イエス・キリストが地上におられたとき、律法に定められていた汚れた物は食べられていなかったのではないでしょうか。そして、弟子たちも食べてはいなかったことでしょう。ですから、ペテロにとって汚れた物を食べるというのは新しい経験でもあります。どれだけ神から示されたとしても、経験したことのない道を歩むというのには恐れが生じます。それは私たちも同じではないでしょうか。新しいことに一歩踏み出すことに躊躇してしまうのではないでしょうか。
また、ペテロにはもう一つの恐れがあったと考えられます。それは、同じ仲間からの批判です。汚れた物を食べたことに対して、同じ仲間から批判されることをも恐れたと考えられます。さらには、「何故私が」という思いもあったことでしょう。イエス・キリストは「地の果てまで、わたしの証人となります」と話されました。「地の果て」ですから、そこには異邦人をも含まれているのです。しかし、当時のキリスト者は異邦人への伝道をしなかったのです。そこには、彼らが自分たちの考えの枠から出られなかったからです。そのように考えますと、福音宣教を妨げているものの一つは、「自分たちの考えの枠から出られない」というものであることに気づかされます。
2)コルネリウス
次は、コルネリウスから学びたいと思います。コルネリウスについては1~2節に紹介されています。彼は百人隊長でした。百人隊長というのは特別に高い地位ではありませんが、ある程度の社会的地位にある人です。そして、彼は敬虔で神を恐れ人に施し、いつも神に祈る人であり、22節に書かれていますようにユダヤの民全体に評判の良い人でした。当時のユダヤ人はローマの市民権を持ってはいません。そのようなユダヤ人にも施していたのです。ここに、コルネリウスの人間性を見ることができます。それだけではなく、神のことばに従い自分の親族や友人たちを呼び集めて、ペテロが来るのを待っていたことが24節に書かれています。この状況を思い巡らしますと、祈りの中で突然コルネリウスは幻を見たのです。前から分かっていたのではありません。しかし、親族や友人たちを誘って自分の家に集めるのです。急に誘われて集ったということは、コルネリウスは日々の生活の中で彼らに証しをしていたということです。日々の証しの大切さを改めて教えられます。
ペテロがコルネリウスの所に着きますと、コルネリウスは迎えペテロの足もとにひれ伏しました。何故ひれ伏したのかと言いますと、ペテロが神から遣わされた人と認めたからでしょう。彼はローマ市民権を持っており、社会的身分は「高い」と言えませんがそれなりの身分にある人です。しかし、コルネリウスは社会的身分よりも、「神から遣わされた人」という方を重視していたのです。ですから、ペテロの足もとにひれ伏したと考えられます。ここに、コルネリウスが謙遜な人であったと知ることができます。ですが、同時に問題点も見出だすことができます。確かに、ペテロは神から遣わされた人です。でも、コルネリウスと同じ人間なのです。その人間にひれ伏すのは間違いであり問題です。そのことを聖書は明確にしています。
今も社会問題になっています世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の創設者文鮮明(ムン・ソンミョン)を神として崇める。彼も私たちと同じ人間ですから、彼を神として崇めるのは聖書から見て間違いです。また、他にも「自分こそ再臨のメシアである」という団体が幾つかあります。さらには、組織を神格化するエホバの証人もそうです。彼らは「エホバの証人の教えが絶対である」という捉え方をしています。個人であれ組織であれ、神以外のものを絶対化し神格化してしまうことは間違いです。ともすると、私たちはそのような間違いに陥りやすくなります。牧師のことばを「神のことば」と捉えてしまう間違いが生じる危険性を常に持っています。聖書は人によって書かれたものですが、人を通して語られる神のことばです。ですから、礼拝を通して語られることばを「神のことば」として聞くのを「間違っている」とは言いません。しかし、それ以外のことばも「神のことば」とするなら間違いです。私たちは、そのことをきちんと区別して聞き分ける力を養う必要があります。
3)主
最後に、神であられる主から学びたいと思います。神はペテロとコルネリウスに幻を用いられました。何故神は、幻を用いられたのでしょうか。皆さんの中に「幻を通して神の御心を知った」という方はおられるでしょうか。「残念ながら」と言いましょうか私は経験がありません。「経験がある」という方もおられるかもしれません。ですが、幻を見るか見ないかは大切なことではありません。神は何のために幻を用いられたのかと言いますと、ご自身の御心を示されるために用いられたのです。大切なのは幻を見ることではなく神の御心を知ることです。現象というのは見ても見なくてもどちらでも良いのです。何よりも大切なのは神の御心を知り従うことです。
コルネリウスはペテロの存在を知りませんでした。コルネリウスの心の中を御存知の神は、そのためにペテロのことを知らせ自分の家に招くことを告げられました。ペテロは「異邦人は汚れている」と思い込んでおり、その異邦人であるコルネリウスの所に行かせるために幻を用いられました。神はコルネリウスに、5節で「 」と告げられました。またペテロには、20節で「 」と告げられました。彼らは神の御心を知って従ったのです。このことが何よりも重要なことです。各々に自分の思いがあります。ですが、その思いよりも神の御心を知って従うことができるために、神は幻を用いられたのです。ですから、幻は人が神の御心を知り従うための手段なのです。そのため幻を見ることが重要なことではないのです。
この時代は、まだ新約聖書がない時代です。そして、聖書は人によって書かれた書物でもあります。しかし、同時に人を通して神が語られる神のことばなのです。私たちは、この聖書を通して神に聞き従うのです。コルネリウスは、33節の後半で「今、私たちは…神の御前に出ております」と告白しています。これは「神が人であるペテロを通して私たちに語られる」という告白です。「今私たちはみな、神の御前に出ております」という告白から、コルネリウスの謙遜さを見ることができます。自分と何ら変わることのない同じ人を通して神が自分に語られる。みことばに耳を傾けるとき、この「神の御前に出ております」という謙遜さが大切であることを知らされます。
そして聖書もそうですが、神は人を通して働かれる方であることも教えられます。神は超自然的な現象を起こすことのできる方です。しかし、多くの神のみわざは自然的現象を通してなされています。それは福音宣教も同じです。先週、私たちはアイネアとドルカスの記事を見ました。ここでは超自然的現象がなされています。しかし、そこに目を向けるのではなく、みことばから示されたとき聞き従う決心と、「今の自分にできることは何か」を考え、身近なことから始める大切さを学びました。神は人を通して働かれるお方です。
結)
このコルネリウスの出来事を契機として、教会は異邦人伝道へと進んで行きます。その異邦人伝道も人を通してなされていきます。それは私たちの教会が建てられている地域伝道も同じです。毎月なされています福音版の配布。また、日々なされている家族や職場や地域での証し。それら一つひとつを通して、神は働いておられることを覚え、神の証し人としてこれからも共に歩まされていきましょう。
使徒の働き9:32~43「制約の中で生きる」 23.02.26.
序)
先週私たちは、31節の箇所から「こうして教会は」と題して、教会が前進し続けたのは、みことばによる約束に生き続けたことによるものであることを学びました。この31節は、パウロに焦点が合わされている記事の一区切りでもあります。そして、今朝の32節からはペテロに焦点を合わせて、11:18まで書かれています。この使徒の働きの著者であるルカは、31節で結果や伝道方法に囚われるのではなく、「みことばによる約束に生き続ける」という教会の本質的な姿を描きました。今朝の箇所は、「本質的に生きるとは具体的にどのようなことなのか」ということが書かれています。今朝の箇所には2人の登場人物が書かれています。この2人から本質的に生きるとは具体的にどのようなことかを共に教えられていきたいと願っています。
1) アイネア
最初はアイネアという人です。その前に、ペテロは「リダ」という町に行きます。このリダという町は地図12に「ピリポの旅の出発点」と書かれている「ポ」の上に「リダ」と書かれています。エルサレムから約30㎞西に位置する町です。そこでペテロは「アイネア」という人と出会います。このアイネアという人は、この箇所しか登場しない人です。その彼については、「8年間床について中風であった」と紹介されています。8年間寝たきりだったのでしょう。立ちたくても立てないのです。そのような状態であるアイネアに出会ったペテロは、彼に「アイネア…床を整えなさい」と告げるのです。すると、「彼はただちに立ち上がった」と書かれ、35節では「 」と書かれているのです。教会はアイネアの出来事を通して前進したのです。
皆さんは、この記事を読んでどのように思われたでしょうか。「今、このような奇蹟が起きたら福音は前進するのになぁ」と思われるでしょうか。確かに、このような奇蹟が起きましたらイエス・キリストを信じる人は増えるかもしれません。ともすると、私たちはそのような現象に目を向けてしまいやすくなります。しかし、大切なのはそのような現象ではありません。アイネアは8年間床に着いたままなのです。最初は起き上がろうとしたことでしょう。しかし、どれだけ「自分で起き上がろう」としても起き上がれなかったのです。そのような状態が続きますと、次第に起き上がることを諦めてしまいます。私たちもそうではないでしょうか。何度も何度もチャレンジしてもできなければ、チャレンジすることを諦めてしまうのではないでしょうか。おそらく、アイネアもそうだったと思います。そして、床に着いていることが当たり前になっていたことでしょう。
32節の「聖徒たちの所にも下って行った」ということや34節のペテロのことばから、アイネアはイエス・キリストを信じていた人だと考えられます。彼は私たちと同じ一人のクリスチャンなのです。彼は床に着いている中で、同じ日を何度も何度も過ごすのです。何人かの人が彼の所に来て声をかけたことでしょう。ですが、昨日と今日、今日と明日は変わることなく、自分は床に着いたままなのです。そのような日々の中で、ペテロが彼の家に寄ったのです。彼からすれば、自分に声をかける一人の人と思えたかもしれません。しかし、彼にかけられたのは「アイネア…整えなさい」ということばだったのです。そのとき、彼は決心をして立ち上がろうとしたのです。すると、立ち上がることができたのです。それを見た人々は主に立ち返ったのです。
35節に「アイネアを見て、主に立ち返った」と書かれています。彼らはアイネアの何を見たのでしょうか。それはアイネアに起きた奇蹟を見たからです。しかし、この奇蹟の現象だけを重視して、同じ現象を求めるならば間違いです。何故なら、アイネアが起き上がることができたのは、寝たままで何もできない状態にある中で、イエス・キリストが癒してくださるという約束を信じ、その約束に応答しようと決心し行動したからです。人々は見たのは、そのイエス・キリストの恵みのみわざであり、アイネアの応答です。アイネアが決心し行動しなければ、人々はアイネアに起きた奇蹟を見ることはできなかったのです。
そして、私たちが求めるべきものもそれです。私たちもアイネアと同じように、何か特別なことができるわけでもありません。足りない所の多い者です。また、「昨日と今日・今日と明日」という同じことの繰り返しの日々を過ごします。その同じことの繰り返しの中で、みことばから示されることがあります。その時どうするかです。アイネアのように、みことばから示されたとき従うことを決心し、その恵みに答えて立ち上がることです。聖書が私たちに求めていることはそのことです。
2)ドルカス
次に登場するのは「ドルカス」という女性です。彼女については、「女性の弟子であり、多くの良いわざと施しをしていた」と紹介されています。当時のイスラエルの女性は男性ほどの自由が与えられていませんでした。現代もイスラム教社会の国の女性は、男性よりも多くの制約を受けつつ生活されています。当時のイスラエル社会もそうだったのです。しかし、このドルカスは様々な制約を受ける中であっても、自分にできることを精一杯果たしていたのです。「その良いわざとか施しとはどのようなものか」と言いますと、39節に「ドルカスが…見せるのであった」と書かれています。ドルカスはいろいろなことができたわけではありませんでした。様々な制約を受ける中で、「今の自分にできることは何か」を見出だして行った女性だったのです。そして、身近なところから始めたのです。身近なところから一歩踏み出す。これはイエス・キリストに従う者として大切な生き方です。大きなことをしなくても良いのです。今の自分にできることから始めれば良いのです。「今の自分にできることは何か」を祈り求め、示されたとき一歩踏み出せられるように祈っていきたいものです。
ドルカスは、制約の中で自分にできることを精一杯果たし続けました。しかし、その彼女に大きな壁が立ちはだかります。それは病気と死という現実です。「病気になって死んだ」という表現から、ドルカスという女性は高齢者ではなかったと想像できます。言うなれば、ドルカスは志半ばで終わってしまったのです。今の自分にできることを精一杯果たし続けていけば道が開かれ、期待する成果が挙げられるというわけではないことを聖書は記しています。ドルカスの「奉仕」と言いましょうか働きは途中で挫折してしまうのです。小さなことであってもコツコツと精一杯果たし続けて行けば必ず実を結ぶというのではなく、途中で力尽きてしまうことがあるのです。聖書はドルカスの働きを「良いわざ」と紹介しています。どれほど良いわざであったとしても、それが必ず実を結ぶ保証にはならないのです。「挫折」という経験をすることもあるのです。
先週の箇所には「こうして、教会は前進し続け」と書かれています。このことから、教会が前進し続けるということは、挫折を経験しないということではないというのを知らされるのではないでしょうか。教会が前進し続けるとき、大きな壁が立ちはだかり挫折を経験することがあるのです。その挫折を経験したヤッファの教会の人たちはどうしたでしょうか。38節に「リダはヤッファに近かったので」と書かれています。地図12を見ますと、ヤッファという町はリダの西側の地中海に面した町であることが分かります。そのリダの町にペテロがいることを聞き、2人を派遣してペテロを連れてきます。そして、ペテロはひざまずいて祈ったことが40節に書かれています。すると、ドルカスは目を開けて起き上がったのです。
ここもアイネアと同じように、奇蹟という現象を求めるのは間違いです。ここで私たちが注目すべきことはペテロが祈ったことです。「こうして教会は前進し続け」という中で、教会は祈りによって支えられていることに目を留める必要があることに気づかされます。教会の歩みは挫折しない歩みではありません。挫折を経験しつつも、その背後に多くの祈りによって支えられているのです。私たちの教会は、月に一度未信者を対象とした「オリーブの会」を開いています。残念ながら、未信者の方が集われないことが多くなっています。そのときは教会で祈り会をされています。そして、皆さん一人ひとりにも祈っていただいています。さらに、愛知地区や春日井・小牧地区の祈祷会でも祈っていただいています。教会は、そのように多くの方々による祈りによっても支えられているのです。その祈りの支えによって教会は前進し続けることができるのです。
結)
私たちもアイネアと同じように、何か特別なことができるわけでもありません。足りない所の多い者です。そして、同じことを繰り返す日々の中で、みことばから示されたとき従うことを決心して恵みに答えて立ち上がる。またドルカスのように、様々な制約を受ける中で「今自分にできることは何か」を見出だし、身近なことから始めていくことが大切です。挫折してしまう弱さを持っていますが、その背後には兄姉の祈りによって支えられていることを覚え、用いられるように祈っていきましょう。
使徒の働き9:31「こうして教会は」 23.02.19.
序)
今朝の箇所の冒頭に「こうして、教会は」と書かれています。これは今までの箇所の締め括りを表しています。それはパウロに焦点を合わせてのことに区切りをつけ、32節からのペテロに焦点を合わせて書き記すためです。今朝の箇所には「教会は平安を得て、信者の数が増えていった」と書かれています。「どのようにして平安を得られ信者の数が増えていったのか」を、今朝は共に教えられたいと願っています。
1)平安
まず、教会はどのようにして平安を得たのでしょうか。聖書には「ユダヤ、ガリラヤ…築き上げられて」と書かれています。ここに書かれています「教会は」というのは単数が用いられています。すなわち、それは個々の地に教会が建て上げられていったことを表してもいます。すなわち、エルサレムの町にだけ教会が築き上げられたのではなく、ガリラヤの地やサマリアの地にも教会が築き上げられていったのです。そのことに平安を得たのです。先週の礼拝で「福音が広がるとき、その福音に対抗する力も強まる」ということを話しました。初代教会は迫害を受け続けていたのです。ですが、教会には平安が与えられていたのです。迫害がなくなったのなら平安を得られるのは理解しやすいですが、迫害が強まっているのに平安を得られていることに注目したいのです。
何故、初代教会は迫害が強まる中で平安を得られたのでしょうか。初代教会には5章のアナニアとサッピラ夫婦の出来事や6章のギリシャ語を使うユダヤ人とヘブル語を使うユダヤ人との問題が生じていました。おそらく、聖書には書かれていませんが他にも様々な問題が教会の中には生じていたと考えられます。しかし、その度に神から知恵が増し加えられ問題の解決へと導かれていったのです。また、ユダヤ教からの迫害を経験しますが、その一つひとつの事柄からも守られていったのです。確かに問題は山積みかもしれませんが、そのような中にありながらも神の守りと導きによって福音宣教がなされていることに平安を得ていたのです。問題が解決されることが平安の根拠ではなかったのです。神が共にいてくださり、守り導いてくださっていることの事実に平安を見出だしていたのです。
その平安は今日の私たちにも同じです。何処に平安を見出だすかです。ともすると、私たちは問題が解決されることに平安を見出だそうとしてしまいやすいです。しかし、それでは結果主義になってしまいます。以前実行委員会で開拓伝道の話しが出ました。そのとき私は「〇〇先生は総会の議決に反して行った」ことを話しました。すると、ある先生は「でも、その教会は今も建てられているのだから、〇〇先生の判断は正しかったのではないか」と言われたのです。それに対して私は、「もしそのように判断するならそれは結果が良ければ神の御心となり結果主義もなる」と答えました。続けて、「ただそれは神の憐れみによるものであり神の祝福であるには間違いはない」とも付け加えました。ともすると、私たちは結果から神の祝福や平安を見出だそうとしてしまいやすくなります。しかし、聖書の視点はそうではないのです。どのような事柄に遭遇しようとも、神が共にいて導いてくださる事実に目を留めることが平安を得る秘訣なのです。
2)主を恐れかしこむ
次に、教会は信者の数が増えていきました。では、どのようにして信者の数が増えていったのでしょうか。その1つとして「主を恐れ」と書かれています。この「主を恐れ」とは、「主を恐れかしこむ」ということです。すなわち、主を神として礼拝することを意味したことばです。それは、初代教会は神を礼拝し続けた群れであったということです。このことから、教会とは神を礼拝し続ける礼拝共同体であることを知らされます。教会は何を中心として活動しているのかと言いますと、伝道や教育が中心ではなく神を礼拝することが中心なのです。そこには、私たち一人ひとりが神を恐れかしこむ姿勢・生き方が大切です。神礼拝を重視することなく教会の前進はあり得ないのです。
では、何故私たちは神を礼拝するのでしょうか。以前、ヤコブ書からも触れましたが、私たちが毎主日教会に集い神を礼拝するのは、聖書が神を礼拝することを教えているからではありません。確かに、聖書は神を礼拝することを教えています。でも、その教えに従って神を礼拝するのであるなら、それは義務的なものとなってしまいます。しかし、礼拝は義務的なものではなく自ら進んで献げられるものです。私たちが自ら進んで神に礼拝を献げるには、何に目を向けるかが大切です。「聖書がこのように語っているから」というのに目を向けることが悪いわけではありません。しかし、それでは消極的な行いであり積極的なものではありません。神は私たちに求めておられるのは積極的な行いです。
では、私たちが積極的に神に礼拝を献げるにはどうすれば良いのでしょうか。それは神のみわざに目を留めることです。神のみわざに目を留めるとは、一つひとつの歩みを振り返ることです。先週の歩み一つひとつを振り返りますと、様々な事柄に遭遇されたことと思います。その一つひとつの事柄の中に神が働いてくださり、守り導いてくださいましたから私たちは今この所に集えているのです。その中には、まだ解決されていない事柄もあることでしょう。しかし、神が守り導いてくださっていますから、今私たちは生かされているのです。何度も話していますが、「生きている」「存在している」ということは「可能性がある」「希望がある」ということです。私の歩み一つひとつに神は共にいてくださり、守り導いてくださっている事実に目を留めるのです。
私のバイト先では有線が流れており、店長は昔の歌謡曲を選曲しています。先日、ばんばひろふみさんの「幸子」という歌が流れていました。懐かしく思われる方もおられると思います。その歌詞の中に「幸せを数えたら片手にさえ余る。不幸せ数えたら両手でも足りない」とあります。私はそれを聞きながら、「『当たり前』と思っていることを数えてないからや」と心の中で突っ込みました。そうではないでしょうか。「当たり前」と思っていたら、決して感謝の心は湧いてはきません。私たちの日常の生活は当たり前のことが多いです。しかし、それらは決して当たり前ではなく、「神の守りと導きによってである」と捉えるなら、その「神の守りと導き」という神の働きに感謝する思いが湧いてきます。
先程も話しましたが、ヤコブ書から「みことばを行うスタートは、神が共にいて守り導いてくださっていることに感謝して礼拝を献げることである」と話しました。人が自ら進んで神に礼拝を献げられるのは神に感謝しているからです。詩篇50:14に「感謝のいけにえを神にささげよ」と書かれていますし、23節には「感謝のいけにえを献げる者はわたしをあがめる」と書かれています。私たちが献げています礼拝は神への感謝なのです。感謝して行うものは義務からではなく進んでのものです。聖歌の中に「数えてみよ主のめぐみ」という歌があります。1日が無事に終えたことも当たり前ではなく神の恵みの一つです。その一つひとつを神に感謝して、教会に集い共に献げているのが教会の礼拝なのです。それが「主を恐れかしこむ」ということでもあります。
3)聖霊に励まされて
信者の数が増えていったもう一つは「聖霊に励まされて」です。初代教会の人たちは、私たちとは違い超人的な人たちだったわけではありません。私たちと同じように困難に直面し、自分たちの弱さを痛感させられたこととでしょう。しかし、そのような現実の中で、彼らは聖霊の励ましを受けていたのです。教会が前進し続けるために必要なのは、聖霊に励まされる必要があることを知らされます。
この聖霊について考えるとき、ヨハネ14~16章は大きな助けとなります。イエス・キリストはヨハネ14:1で「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と話されました。すなわち、この後弟子たちは心を騒がせてしまう経験をするのです。それはイエス・キリストが捕らえられることや十字架に架けられ死なれることを指し示していますが、それだけではなくその後の歩みのことも指し示していると考えられます。それは、この地上に生かされている限り心を騒がせてしまう経験をするのです。ですから、イエス・キリストの復活を目の当たりにした弟子たちも、私たちと同じように心を騒がせてしまう人たちだったのです。そのことをイエス・キリストは御存知だったから、「心を騒がせてはなりません」と話されているのです。そして、心を騒がせることがあったとしても「神を信じ、またわたしを信じなさい」と話されたのです。さらにイエス・キリストは、16節で「父はもう一人の助け主をお与えくださり」と話されました。それは17節に書かれていますように「真理の御霊」です。その真理の御霊が「あなたがたと共にいる」と約束されているのです。さらに、18節では「あなたがたを捨てて孤児にはしません」とも約束されています。
この「あなたがた」とは弟子たちのことですが、それは弟子たちだけではなくイエス・キリストを信じる全ての人に対する約束です。すなわち、教会に対する約束なのです。教会の歩みに対して、聖霊が助け続けてくださると約束されているのです。さらに16:1には「これらのことをあなたがたに話したのは」と、イエス・キリストが語られたことが書かれています。この「これらのことをあなたがたに話したのは」ということばは、4節と33節にも話されています。この「これらのこと」とは何かと言いますと、14~15章で話されたことです。イエス・キリストがこれらのことを話された目的は、16:1では「つまずくことのないため」であり、4節では「あなたがたが思い出すため」であり、33節では「平安を得るため」と話されています。
イエス・キリストを信じる歩みは、つまずく経験をするのです。そのようなとき、イエス・キリストの約束を思い出すことが大切なのです。そして、イエス・キリストが共にいて守り導いてくださっているという見えない現実に目を向けることによって平安が得られるのです。そのようにさせてくださるのが聖霊の働きであり聖霊のみわざなのです。だからイエス・キリストは、16:33で「世にあっては苦難があります」と語られ、続けて「しかし…世に勝ちました」と話され、この世に勝利されたイエス・キリストがいつも共にいて守り導いてくださることを示しておられるのです。そこに目を留められることが聖霊の励ましなのです。聖霊の励ましとは、何か特別な語りかけや特別な出来事が生じるのではありません。「絶対にない」とは言えませんが、そのようなことに期待するのではなく、イエス・キリストの約束を思い出すこと、みことばによる約束を思い出せられるように導いてくださることが聖霊の励ましなのです。
結)
今朝の箇所の最後の「信者の数が増えていった」ということばだけを見ますと、「初代教会は信者の数が増えていってええな」と思われ、「私たちの教会もそのように増えればええな」と思われるかもしれません。確かに、信者の数が増えることは励ましであり喜びです。でも、そこには一人ひとりが心から神を恐れかしこみ、みことばによる約束に生きる必要があることを知らされます。それは「今も神は共にいてくださり最善を成してくださる」と信じて、目の前の事柄に誠実に果たし続けていくことです。この原則は決して変わることがありません。何故なら、初代教会のときの神も現代の神も同じ神だからです。私たちの教会も心か神を恐れかしこみ、みことばによる約束に生きる群れとして歩み続けられるように祈っていきましょう。
使徒の働き9:26~30「共に生きる」 23.02.12.
序)
昨日はJBCの年次事務総会が行われました。ここ2年はオンラインでの総会でしたが、3年ぶりにセンターに集い行われました。直接顔と顔を合わせて交わりが持てることのすばらしさを実感させられた時でもありました。同じ群れの一員として、共に生きる者同士であることを再確認させられました。オンラインにはオンラインの良さがありますが、顔と顔を合わせることの良さもあります。今週の金曜日には、聖書宣教会の評議委員としては初めて聖書宣教会に赴きます。今まではオンラインでしか出席していませんでしたが、顔と顔を合わせられることを楽しみにしています。そのときも、主にある交わりをさせていただきたいと願っています。今朝は、この箇所から共に生きることを教えられたいと願っています。
1) 諦めないパウロ
まず、この箇所から教えられたいことの1つは、諦めないパウロの姿です。パウロはダマスコの町で「イエスが神の子でありキリストである」と宣べ伝えましたが、ユダヤ人の反応は自分の罪を悔い改めるものではなくパウロの殺害計画でした。自分が願っていた成果が挙がらず、ダマスコの弟子たちの助けによって町を出ることができ、ユダヤ人の殺害計画から逃れることができました。その後パウロはエルサレムの町に行きました。何のためにエルサレムに行ったのかと言いますと、キリスト者の仲間に入るためです。ところが、事はそう簡単なものではありませんでした。エルサレムのキリスト者は、「パウロがイエス・キリストを信じた」ということが信じられませんでした。その気持ちはよく分かります。ステパノを処刑することに賛成し、大祭司から権限をもらってダマスコの町に行き、キリスト者を縛り上げてエルサレムに戻ろうとしていたパウロを、簡単に信じて受け入れることなどできるわけがありません。むしろ、「信じた振りをして時が来たら全員を捕まえるためではないか」と疑うのが自然な流れです。エルサレムに居るキリスト者たちもそのような思いだったと考えられます。
おそらくパウロも、エルサレムに戻ってキリスト者の仲間に入ろうとしても、簡単に受け入れてもらえないことは覚悟していたことでしょう。26節の「サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みた」ということばから、いろいろと試してみたことでしょう。それでも受け入れてもらえないのです。しかし、そこでパウロは諦めたのではありません。諦めることをせず、何度も何度もチャレンジし続けたのです。ここにパウロの生き方を見ることができます。先週の礼拝で、「パウロは自分が確信している生き方をしていた」と話しました。その生き方をしていたから、諦めることをしないで何度も何度もチャレンジし続けたのです。しかし、結果はどうだったのでしょうか。26節の最後に「みな、彼が弟子であるとは信じず」と書かれていますように、それでも受け入れてもらえなかったのです。
「そのような状況が続いたとき自分ならどうするか」というのを考えさせられました。もし私なら「もう良い」と言って開き直ってしまうことでしょう。しかし、パウロはそのようなことをしませんでした。むしろ「自分はこの人たちと共に生きるのだ」という強い確信に満ちたパウロの姿を見ることができます。信仰は私と神との個人的な関係です。しかし、その信仰は決して個人だけで養えられるものでもありません。同じ信仰を持つ人たちとの交わりを通しても養われていくものであることを知らされます。パウロはそのことを知っていたのです。だから、何とかしてエルサレム教会の中に入り、共に交わりを持とうとしていたのです。コロナ禍において「交わりが希薄になった」という話を耳にすることを以前話しました。先々週の礼拝でも、19節の「食事をして」ということばから、「教会の食事会は交わりを通して人を元気づけるものである」と話しました。同じ信仰を持つ人たちと共に生きることを大切にする教会として歩み続けていきたいものです。
2)仲介者バルナバ
次に教えられたいことは、バルナバの行動からです。エルサレムの教会は、教会の中にパウロが入ってきたことに驚き恐れていました。そのような状況の中で、27節に「しかし、バルナバは」と書かれています。続けて「バルナバは…彼らに説明した」と書かれています。この27節の状況を思い巡らしますと、おそらくパウロがエルサレム教会に初めて来たとき、バルナバも驚き恐れを覚えたのではないかと想像します。そして、「パウロが何度も何度も試みていたとき、バルナバはパウロの情報を得ようとしたのではないか」と考えられます。ダマスコの町に赴き、ダマスコの町でのパウロがどうであったのかをダマスコのキリスト者たちに聞き回ったのではないかと想像できます。バルナバはダマスコの町でのパウロの客観的で正しい情報を得ようとしたのです。だから、パウロのダマスコ途上での出来事やダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を説明することができたのです。パウロの試みのときと並行してバルナバの活動があったのです。しかしパウロは、そのバルナバの行動を知る由はありません。ですが、それが神の備えであり導きであることを読み取りたいのです。
そして、このバルナバの行動と説明によって、使徒たちは納得しパウロを受け入れることができたのです。このバルナバの姿はとても印象的です。このバルナバについては、11:25に「 」と書かれています。バルナバはエルサレム教会によってアンティオキア教会に遣わされます。そして、大勢の人が主に導かれとき、彼はパウロを必要としタルソの町まで行きパウロを捜してアンティオキア教会まで連れてきたのです。その背後には、アナニアと同じように祈りの中で神との深い交わりを持った生活をしていたと考えられます。神との交わりから人との交わり。ここでは特にパウロに関わってきますが、パウロとの交わりへと広がっていったのです。それはバルナバとパウロとの交わりで終わるのではなく、今度は教会とパウロとの交わりへと広がっていったのです。
このバルナバの記事から、3つのことを改めて教えられます。その1つは、何度も話していますが私たちが知らない中で神の備えと導きがあるということです。私たちが遭遇します一つひとつの出来事と並行して、神は備え導いてくださっています。それは今もそうです。今も私たちは様々な出来事に遭遇しています。しかし、私たちが気づかないところで神は備え導いてくださっているのです。そのところに目を留めつつ、目の前の事柄に誠実に対応する者でありたいと願います。もう1つは交わりについてです。教会にとって交わりは、福音宣教と成長に欠かすことのできないものです。自分と神との交わりが人との交わりへと広がり、やがてそれが社会との交わりへと広がっていくのです。その社会との交わりを通して人は教会へと導かれていくのです。霊的交わりを大切にする教会として歩み続けられるように祈っていきたいものです。最後に地味な働きについてです。バルナバがダマスコの町まで行ってパウロのことを聞き回ったことは、エルサレム教会の殆どの人は知らなかったことでしょう。それほど、バルナバの活動は地味なものでした。ですが、その地味な活動が教会の基盤を支えていたという事実を見るとき、私たちも地味な奉仕をされている一人ひとりにも目を向ける大切さを知らされます。「地味な奉仕に目を向ける」と言いつつも、地味なのですから分かりにくく気づかないことでしょう。気づくことが大切なのではなく、「この人も私の知らない所で奉仕をされている」という見方ができたら素敵なことではないでしょうか。人をさばくのではなく、人を受け入れる捉え方ができるように祈っていきたいものです。
3)個と群れの関係
最後に教えられたいことは個と群れとの関係です。バルナバの助けによってエルサレム教会に受け入れられたパウロは、28節で「 」と書かれています。28節の前半には「サウロは…行き来し」と書かれています。これはエルサレム教会との交わりを大切にしていたことを表現しています。パウロはエルサレム教会との交わりを通して、主の御名を大胆に語ることができたのです。また、パウロは主の御名を語っただけでなく、29節の前半に「ギリシャ語を…論じたりしていた」と書かれています。このことばは、6:9の最後の「ステパノと議論した」と書かれていることばを思い起こされます。議論をしたということは、旧約聖書を通してイエスがキリストであることを証明したということです。ステパノと議論した人たちは対抗することができなかったがために、ステパノを襲って最高法院に引いて行き、偽りの証人を立ててステパノを処刑しました。それと同じようなことがパウロにも生じたのです。議論の中で勝因を見出だせないユダヤ人はパウロを殺そうとしたのです。ことばでダメなら力でねじ伏せようとしたのです。
使徒の働きには福音宣教の広がりが描かれています。それは交わりを通して広がっていったというものです。しかし、全て順調に広がっていったものでもないことを聖書は示しています。福音が広がろうとするとき、その福音に対抗する力も強まることを記しています。それは「当然」と言えば当然のことです。サタンの側は自分たちの領域が狭められていくのですから、「その領域を必死に守ろう」と抵抗するのは当然のことです。そのような戦いの中で、如何に初代教会は歩み続けたのかを描いているのが使徒の働きです。1:8に「 」と、イエス・キリストの約束が書かれています。このイエス・キリストの約束がどのように成就されていったかが使徒の働きには書かれています。
福音宣教がなされる所には必ずサタンの抵抗もあります。使徒の働きはサタンの抵抗を受けつつ、様々な所を通らされる中、個人によってではなく群れによってなされていったことが書かれています。確かに使徒の働きの後半はパウロによる宣教に焦点が合わされて書かれています。ですが、そのパウロは伝道旅行の最後は必ずアンティオキア教会やエルサレム教会に戻っているのです。それはパウロの働きの背後には教会による多くの兄姉たちの祈りがあるからです。ですから、パウロによる宣教は決してパウロ個人の宣教ではなく、群れとしての教会の宣教でもあるのです。
30節に「 」と書かれています。ユダヤ人たちはパウロを捜して殺そうとしていました。そのことを知った兄弟たちは、パウロをカイザリアに連れて行き、タルソに送り出したのです。パウロは教会の人たちの助けを得てエルサレムの町を脱出することができたのです。この事実を見るだけでも、パウロは決して一人で生きたのではなく、多くの教会の人たちの助けを得ながら生きたのです。ここに群れと個の関係、身体と部分の関係の重要性を知らされるのではないでしょうか。パウロは教会とキリスト者との関係を身体と部分に例えて、Ⅰコリント12:12で「 」と語り始めて、27節で「 」と締めくくっています。身体と部分はバラバラではなく、密接な関係で結ばれていることが語られています。教会と個人との関係も同じです。私たち一人ひとりの歩みは決して私個人で歩んでいるのではなく、多くの人の祈りや助けによって歩まされていることに気づかされます。昨日はJBCの年次事務総会が行われました。先程話しました関係は私と教会だけでなく、教会とJBCとの関係についても同じです。
結)
バルナバはパウロとの関係を築き、そのパウロをエルサレム教会との交わりに導きました。その交わりを通して教会はパウロを知り、パウロの命が狙われていることを知ってタルソへと送り出しました。その出来事を通して、教会が共に生きる群れとなるには交わりが必要であることを教えられます。
使徒の働き9:19b~25「パウロの宣教」 23.02.05.
序)
先週はアナニアの神との交わりを通して、神のご計画の働きは祈りの中で整えられてなされることを学びました。それはアナニアだけでなくパウロも同じです。今朝の箇所は、パウロが大胆に「イエスがキリストである」と語り始めた箇所です。今朝は、パウロの福音宣教の方法について共に教えられたいと願っています。
1)諸会堂で
アナニアを通してバプテスマを受け、ダマスコのキリスト者との食事を通して元気づけられたパウロは、ダマスコのキリスト者たちと共に過ごした後、「ただちに諸会堂」で福音宣教を始めたのです。この「諸会堂」というのはユダヤ教の会堂のことです。2節に「ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた」と書かれていますように、パウロは「ダマスコのキリスト者を一人でも多く捕らえるには、ダマスコのユダヤ教徒たちの助けが必要である」と考え、彼らに協力してもらうために大祭司にダマスコにある諸会堂宛ての手紙を書いてもらったのです。その諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエス・キリストのことを宣べ伝えたのです。
何故、パウロはユダヤ教の会堂を選んだのでしょうか。そのようなことをすれば、大きな反対に合い迫害されるのは予想できます。「それよりも街頭で語った方が良いのではないか」とも思えたりもします。パウロは街頭でも語っていたかもしれませんが、著者ルカはユダヤ教の会堂に焦点を当てているのです。それはパウロのユダヤ教徒の人たちがイエス・キリストへの回心の思いが強いことを知って欲しかったからです。イエス・キリストと個人的な出会いをするまでのパウロはユダヤ教に熱心であり、神の約束である救い主の到来を待ち望んでいました。そのときのパウロは、ユダヤ教に異を唱えるイエス・キリストを受け入れることはできませんでした。だからステパノを処刑することに賛成し、キリスト者を迫害し始めたのです。ですが、ダマスコ途上でイエス・キリストと出会い、自分の行動が間違いであることを知らされたパウロは、「何よりもイエス・キリストが必要なのはユダヤ教徒である」と捉えたのです。
使徒の働き13章以降はパウロの伝道旅行が記されています。伝道旅行のパウロは、まずユダヤ教の会堂に入って福音を語っています。これはパウロのユダヤ教徒の回心への思いが強いからです。そしてパウロ書簡を読みますと、ユダヤ教徒の回心を願っている思いが強く伝わってきます。そして、そのときも会堂に入って福音を語るのです。これがパウロの福音宣教の方法だったのです。私たちは「ペテロはユダヤ人に、パウロは異邦人に伝道していた」と理解しています。パウロ自身もガラテヤ2:8で、そのように捉えられるようなことを語っています。確かに異邦人にもパウロは福音を語っていました。ですが使徒の働きには、パウロは町に入ると会堂に入って伝道したことが幾つもの箇所に書かれています。パウロの福音宣教最優先はユダヤ人だったのです。パウロはユダヤ人にターゲットを絞って福音宣教をしていたのです。それはⅠコリント9:26に「 」と語っているパウロのことばからも知ることができます。
このことから、福音宣教はターゲットを絞ることの大切さを知らされます。福音は全ての人に必要です。ですから、全ての人に福音を伝える必要はあります。だからと言って、ターゲットを絞らずに福音宣教をパウロはしたのではありません。パウロの福音宣教の優先順位のトップはユダヤ人だったのです。このパウロの福音宣教の仕方は、私たちの教会の福音宣教においてもヒントになるのではないでしょうか。「春日井神領キリスト教会は誰にターゲットを絞って福音宣教をなしていくのか」ということをです。そのことを意識しつつ、福音宣教に励む教会として歩まされたく願わされます。
2)福音の中心
では、パウロは福音宣教で何を語ったのでしょうか。20節に「 」と書かれています。これはパウロの信仰告白でもあります。イエス・キリストと個人的な出会いをするまでのパウロは、イエス・キリストを「神の子」と信じることができませんでした。何故なら、「唯一の神以外のものに礼拝してはならない」と旧約聖書に書かれており、それに基づいた生き方をしていたからです。そのパウロがダマスコ途上でイエス・キリストと個人的な出会いをしたことによって、イエス・キリストを「神の子である」と確信し宣べ伝えているのです。パウロはイエス・キリストが神の子であり、自分の罪のために身代わりとなって十字架に架かり、父なる神の審きを受けてくださったことを信じたのです。そして、それによって罪が赦されたことに感謝し、喜びをもって生きる者へと変えられたのです。だから、どのような地においても、自分が確信している生き方をすることができたのです。その生き方はパウロだけでなく、イエス・キリストを信じるどのような人にもできることです。
そのパウロの宣教を聞いた人たちは「みな驚いた」と21節に書かれています。何故驚いたのかと言いますと、21節の「これを聞いた人々」とは諸会堂にいた人たちです。すなわち、ユダヤ教徒の人たちです。彼らは「何のためにパウロがダマスコの町に来たのか」をエルサレムから知らされていたことでしょう。ところが、正反対のことをパウロは語り始めたから驚いたのです。その彼らの反応を見てパウロは力を込めて、イエスがキリストであることを証明したのです。パウロは旧約聖書に精通していた人ですから、旧約聖書の預言がイエス・キリストによって成就されたことを語ったものと考えられます。「イエスがキリストであることを証明する」というのは、旧約聖書に精通していたパウロだからできたものです。これはパウロの賜物でもあります。神はそのパウロの賜物を用いられたのです。そしてパウロは、その賜物を用いて「イエスが神の子である」と語ったのです。その神は、私たち一人ひとりにも賜物を与えてくださっています。そして、その賜物を豊かに用いてくださいます。その賜物の目的は、「イエスが神の子である」と証しするためです。自分に与えられている賜物を用いて、「イエスが神の子である」「イエスが救い主である」ということを証しする者として用いられるように祈っていきたいものです。
パウロは会堂にいる人たちを驚かせ、うろたえさせました。その彼らは、その後どのような反応をしたでしょうか。23節に「サウロを殺す相談をした」と書かれています。パウロの宣教を通して自分たちの罪を悔い改めたのではなく、パウロの殺害計画を立てたのです。そして、やっとの思いでパウロはダマスコの町を出ることができたのです。それは「パウロはダマスコの町で宣教したが成果は挙がらなかった」ということでもあります。宣教をすれ、期待通りの反応が出るわけでもないことを聖書は示しています。むしろ、危険が襲いかかってくることを語っています。それは現代においても同じです。「伝道したけれども期待外れであった」ということが多いのが実情ではないでしょうか。ローマ1:14~15に「 」と書かれています。このパウロのことばから、成果よりも福音を伝えることの方に重点が置かれているように受け取れます。それは「良い成果は神の恵みであり、自分に与えられている務めは福音を伝えること」と私には聞こえるのです。それは私たちも同じではないでしょうか。またそれは「成果を期待してはいけない」ということではありません。成果を期待して良いのです。ですが、どのような成果が出ようとも、続けて福音を伝え続けることが私たちには大切なのです。福音を伝え続けていく群れとして歩み続けられるように祈り続けていきましょう。
3)アラビアにて
先々週の礼拝で触れましたが、パウロはダマスコ途上で個人的にイエス・キリストと出会い、アナニアによってバプテスマを受けキリスト者となりました。そしてキリスト者との交わりを通して元気づけられたパウロはアラビアに行きました。パウロはアラビアに行って何をしていたのでしょうか。考えられることは、「旧約聖書を読み返し祈りつつ、思い巡らす日々を過ごしていたのではないか」ということです。そのような日々を過ごす中で、「旧約聖書が預言していた救い主がイエス・キリストである」と確信しダマスコの町に戻ったものと考えられます。このアラビアで過ごした期間は、パウロにとって重要な宣教の備えとなったのは確かなことです。
そのことを思い巡らすとき、モーセやエリヤのことを思い出しました。モーセは「自分が指導者としてイスラエル人をエジプトから救い出そう」と思い行動しましたが、その行動が裏目に出てしまい、モーセはミディアンの地に逃れました。ミディアンの地でモーセは40年間過ごし整えられていきました。40歳の頃のモーセは自信に満ち溢れていましたが、80歳のモーセには自信など全くありませんでした。そのようなとき神の召しを受けてエジプトに戻りました。また、エリヤもバアルの預言者との戦いに勝利し「イスラエルは変わる」と思っていましたが、アハブの妻イゼベルのことばを聞き「全く変わっていない」という現実に気づきホレブの山に退きました。そこで神との交わりの時を持ちました。その神との交わりを通して、自分が知らない神の備えがあることに気づかされ、エリヤは自分の働きに戻りました。
パウロもアラビアにて静まって神との交わりを持ち、整えられて今後の歩むべき道を示されたことと考えられます。そのようなことから、静まって神との交わりの時を持つことの大切さを知らされます。イエス・キリストも一人祈られていたことが聖書に何度も書かれています。私たちも静まって神のことばに耳を傾けつつ思い巡らし、整えられていく必要であることを気づかされます。
結)
パウロは大胆に福音宣教を宣べ続けた一人です。そのパウロの宣教方法はターゲットを絞り自分の賜物を用いるというものと、成果がどうであれ自分が確信していることを伝え続けるというものです。そして、その根幹となったものは、アラビアでの静かな神との交わりです。そのことを学ぶとき、私たちの生き方も教えられるのではないでしょうか。どのような環境であるかは問題ではなく、信じているものに確信を持って生きることが重要であることを教えられます。そして、そのような確信を持って生き続けるには静かな神との交わりが必要です。
使徒の働き9:10~19a「主の弟子アナニア」 22.01.29.
序)
先週は、神の働きは一度に全てではなく一歩ずつであることを見つつ、それが私たちに対する神のご計画でもあることを学びました。パウロのアラビア滞在がどれほどの期間であったかは分かりませんが、神は時間をかけてパウロを整えられていったということです。このアラビアでのことは、来主日の礼拝にて少し触れたいと考えています。今朝は、その神のご計画の働きは具体的にどのようにしてなされるのかを共に学んでいきたいと願っています。
1)アナニア
今朝の箇所は、主にアナニアに焦点を合わせて書かれています。まず、そのアナニアとはどのような人でしょうか。聖書には「アナニア」という人が3人登場します。1つは、使徒の働き5章に書かれています。これは比較的有名な箇所で、アナニアとサッピラ夫婦が代金の一部を全てのように見せかけて献げたことの出来事です。もう一つは、使徒の働き23章のパウロがローマに連れて行かれる前に最高法院に立ったときの大祭司アナニアです。その意味は「主は恵み深い」というもので一般的に多く使われていたようです。今朝の箇所のアナニアについては、パウロ自身が「律法に従う敬虔でユダヤ人に評判の良い人」として語っていることが使徒の働き22:12に書かれています。ひょっとしたら、8章での教会に対する激しい迫害のため諸地方に散らされた一人かもしれません。ただ確かなことは、パウロが異邦人伝道者へとされるにおいて重要な関わりを持っていた人物であるということです。
まず、10節に、主が幻の中でアナニアに語られたことが書かれています。今朝の箇所には「幻の中で」ということばが2回書かれています。この幻とは何かということは明確にはできませんが、注目すべきことが一つあります。それは祈りと深く結ばれているということです。例えば9:11~12で、「彼は祈っています」と告げられつつ、「彼は幻の中で…見たのです」と、「この後アナニアという人が見えるようにしてくれる」と告げられたのです。また、10章には異邦人であり百人隊長のコルネリウスという人が登場します。彼も祈りを献げていると、幻の中でペテロを招くように告げられます。さらに、9節ではペテロも祈るために屋上に上りましたら、幻の中で主との問答を経験したのです。17節には「今見た幻は一体どういうことだろう」と思い惑っていたのです。
これらのことから、幻と祈りは強く結ばれていることが分かります。アナニアも祈っているときに幻を見たものと考えられます。考えられるのは、アナニアはパウロがキリスト者を脅かすためにエルサレムからダマスコの町に向かっていることを聞き、そのことを思い巡らしながら神に祈っていたものと考えられます。それは「これからパウロがしようとしている迫害から守られるように」という内容の祈りだったのかもしれません。先程触れましたが、パウロ自身アナニアについて「律法に従う敬虔でユダヤ人に評判の良い人」と語っていることから、アナニアという人は祈る人であったと想像できます。
2)祈りの中で
アナニアは神に祈る人だけでなく、その祈りの中で整えられていった人でもありました。アナニアは神に祈っているとき、幻の中で「アナニアよ」という神の声を聞きます。すると、アナニアは「主よ、ここにおります」と答えています。このことから祈りについて考えさせられます。私たちは「祈り」と言いますと、「神に呼びかけて願いごとを告げるとき」と考えてしまいます。しかし、このアナニアと神とのやりとりから、祈りは私たちが一方的に神に呼びかけ訴える時だけではなく、神の呼びかけを聞き従順な思いへと整えられていく時でもあることを教えられるのではないでしょうか。「主よ、ここにおります」と答えるアナニアに対して、神は11~12節に書かれていますが、「立って…見たのです」と、パウロが居る所に行くようにと告げられたのです。
この神の語りかけは、アナニアにとっては大きな出来事でした。おそらくアナニアは、パウロの迫害から守られることを祈っていたことでしょう。それが「パウロの所に行け」と神は命じられたのです。このことは、アナニアが考えもしなかったことです。キリスト者から見れば、パウロは自分たちを迫害する敵でもあります。そのような人の所に行くなんて誰も思いもしないのではないでしょうか。ですが、神はそれを示されたのです。このことから、祈りは私たちが神に願いを伝えるだけでなく、神が私たちに語りかけられる機会でもあるということです。11~12節の神の語りかけに対し、アナニアは13~14節で「主よ…与えられています」と答えています。アナニアは、今自分が得ている全ての情報や知識を神に注ぎ出しています。アナニアの情報や知識は間違いではなく正しいものです。ですが聖書は、15節で「しかし、主はアナニアに言われた」と語っているのです。確かに、アナニアの情報や知識は間違いではなく正しいものです。ですが、祈りにおいて中心はアナニアではなく神ご自身であるということを、この「しかし、主はアナニアに言われた」ということばから教えられるのではないでしょうか。そして、神はアナニアに「行きなさい」と命じられています。アナニアの心の中の全てを御存知であられる神は、それでも「行きなさい」と命じられているのです。あくまでも、祈りにおいての中心は神であることを聖書は示しているのです。そして、それはアナニアにおいてもそうだったのです。アナニアにとって祈りは自分の思いを伝えるだけでなく、神からの語りかけに対して聞き従う者へと整えられていく時でもあったのです。
ただ15~16節の神のことばを見るとき、神は「行きなさい」と命じられるだけではありません。続けて神は「あの人はわたしの名を…彼に示します」と告げられています。すでに神はパウロをイエス・キリストの名を多くの人に伝える器として選び、パウロがどのような歩みをするのか」ということをアナニアに伝えています。それはアナニアが神のことばに従いやすいようにする神の配慮のようにも見受けられます。そのような神の配慮・導きは私たちに対しても同じです。私たちも祈りを通して、自分が考えもしなかったことを示されることがあります。そのとき私たちは「私にはできない」と答えてしまいます。アナニアも最初はそうでした。しかし、祈りの格闘をし続ける中で、神のことばに聞き従う者へと整えられていったのです。私たちも最初は「できません」と答えてしまうことでしょう。しかし、祈りの格闘をし続ける中で、神はみことばを通して私たちが従いやすいように示してくださいます。これが私たちへの神の配慮であり導きです。そのためにも、神に自分の思いを訴えるだけでなく、神からの語りかけに耳を傾けられるように整えられたいものです。
3)アナニアとパウロ
祈りの中で整えられていったアナニアについて、聖書は17節で「そこでアナニアは出かけて行って」と語っています。アナニアは祈りの中で整えられることによって、示されたことをすぐに行動に移したのです。アナニアはパウロが留まっている家に入り何をしたでしょうか。一つは、パウロの上に手を置いて祈ったのです。祈りの最初に、アナニアは「兄弟サウロ」と呼びかけています。自分たちを迫害するために来たパウロを「兄弟」と呼びかけたということは、アナニアはパウロを受け入れたということです。アナニアにとってパウロを受け入れるのは簡単なことではなかったでしょう。アナニアの心の中には大きな葛藤があったことでしょう。しかし、その前の神との祈りの中で整えられていったのです。ここに、祈りはそのような人の心を変えるほどの大きな力があることを教えられます。
そして、その祈りはパウロの心をも変えていくのです。確かにダマスコ途上でのイエス・キリストとの出会いでパウロの心は大きく変えられたことでしょう。しかし、このときはまだ決心ができていなかったのです。そのことの様子について、パウロは使徒の働き22:14~16で「 」と語っています。特に16節に「何をためらっているのですか」とアナニアが言ったことばが書かれています。この時のパウロは、まだ決心がつかずためらっていたのです。ですが、アナニアの祈りと助言を通して、イエス・キリストに従う決心へと変えられたのです。今朝の箇所では、それを祈りの中で生じたように描かれているのです。そして、18節に「サウロの目から…落ちて」と書かれています。これは祈りの中でパウロがイエス・キリストに従うのを決心したことを示しています。祈りはそれ程の力があるのです。
もう一つはバプテスマを授けたということです。18節には「彼は立ち上がってバプテスマを受け」としか書かれていません。誰がパウロにバプテスマを授けたのかは書かれていません。しかし、この状況から考えますと、パウロにバプテスマを授けたのはアナニアであると想像できます。何故なら、この所には使徒たちはいないからです。そして、神によってアナニアがパウロの所に遣わされたのですから、パウロにバプテスマを授けたのもアナニアであると考えるのは自然なことです。バプテスマとは、イエス・キリストを救い主と信じ従う決心をしたことを見える形として表したものです。
少し話しが反れますが、バプテスマについて話したいと思います。人はバプテスマを受けることによって救われるのではありません。バプテスマはイエス・キリストを信じ従う決心をしたことの見えるしるしです。罪が赦され神の審きから救われるのは、イエス・キリストを救い主と信じたときです。昔、ストーラー先生に「先生の受洗日はいつですか」と尋ねましたら「覚えていない」という返事でした。私は心の中で驚いたのですが、続けてストーラー先生は「受洗日は覚えていないが決心した日は覚えている」と話されました。それを聞いて「確かに救われるのは信じたときだからなあ」と思わされました。皆さんはどうか知りませんが、私は信じる決心をした日よりもバプテスマを受けた日を覚えています。ですが、バプテスマを受けることによって救われるのではなく、信じる決心をして救われるのです。
話しが反れましたが、最後にアナニアはパウロと食事をしたということです。今朝の箇所を読んで思わされたのは、19節の「食事をして」ということばはなくても違和感はないということです。「彼は立ち上がってバプテスマを受け元気になった」でもおかしくありません。しかし、聖書は「食事をして」ということばを意識して、わざわざ書き記しているのです。ここに「食事」ということの大切さを知らされます。福音書の中にも、イエス・キリストが罪人と食事をされたことが書かれています。聖書における食事は、単なる食事ではないということを示しています。食事は交わりを通して、人を元気づけるものとして用いられているのです。それは教会における食事会も同じであることに気づかされます。「食事をして」という短いことばですが、その奥に秘められている重要な点を覚えつつ、私たちの教会での食事会も一人ひとりを元気づけることのできるものとして用いられるように祈っていきたいものです。
結)
以上のことから、神のご計画の働きは祈りの中で整えられつつなされるものであることを知らされます。これは使徒の働き16章に書かれているピリピの町への宣教についてもそうです。6節に「聖霊によって禁じられた」、7節に「イエスの御霊がそれを許されなかった」と書かれています。それが具体的にどのようであったのかは聖書に何も記されていませんが、パウロは神との祈りの中で進もうと思っていた道を断念したものと考えられます。あくまでも中心は神であり人ではないということです。そして、教会における食事会は一般的な食事会とは質的に異なることも覚えつつ、人を元気づけられる食事会として用いられるように祈っていきたいものです。
使徒の働き9:1~9「神の計画」 23.01.22.
序)
新年が明けてヤコブ書に戻りました。当初は2章の終わりまで続ける予定でいましたが、使徒の働きから長く遠ざかっていましたので、1章で終わり今日から当分の間「使徒の働き」から学んでいきたいと思っています。約5ヶ月ぶりですので、簡単に振り返って9章に入りたいと思います。初代教会はステパノが処刑された後、激しい迫害を受けることとなり、使徒たち以外はエルサレムの町から地方に散らされてしまいました。しかし、神はそのことを通して福音を広められたことが、8:4以降に記されています。ですが、それで問題が解決されたわけではありません。今朝の箇所は「パウロの回心」と言われている重大な出来事の箇所です。何故なら、この時のパウロはユダヤ教に熱心でキリスト教会の迫害に燃えていたからです。今朝は、この箇所から神の計画について共に教えられたいと願っています。
1)パウロの目的と計画
1節に「サウロはなおも」と書かれています。この「サウロ」とは後のパウロのことです。分かりやすくするために「サウロ」と書かれていますが、「パウロ」という名前で統一させていただきます。今朝の箇所でまず教えられることはパウロの目的と計画です。パウロは8:1:に書かれていますように、「ステパノを殺すことに賛成」しました。そして、ステパノを処刑するだけでは気が済まず、9:1に「サウロは…息巻き」と書かれているように、教会を迫害することに意欲を燃やしていたのです。この9:1のことばから、「パウロがどれほどの思いで教会を迫害しようとしていたのか」を、心に思い描くことができるのではないでしょうか。パウロは大祭司の所に行って諸会堂宛ての手紙を求めるほど、強い殺意を燃やしていたのです。パウロの目的はキリスト者の殺害です。要はキリスト者を一人も生かしておかないことです。キリスト教会を絶滅することが彼の目的だったのです。そのための第一段階として、ダマスコの町にいるキリスト者を見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るという計画です。ダマスコの町にいるキリスト者をエルサレムに引いて来てどうするのでしょうか。ステパノと同じように裁判にかけて処刑することです。これがパウロの目的と計画です。
パウロはことばで表現できないほどの意欲をもって、ダマスコの町に向けて旅立ったことでしょう。ところがです。3節に書かれていますようにダマスコの町の近くまで来たとき、突然天からの光を受けたのです。そのためどうなったでしょうか。8節に「目を開けていたものの、何も見えなかった」と書かれています。そして、「それで人々は…連れて行った」と書かれていますように、自分一人では歩くことができない状況となったのです。この光景を思い浮かべるとき、箴言16:1の「 」というみことばを思い起こされます。人は「自分の思いが純粋である」と思って行動しますが、神の御心は全く別であって、自分の思いや期待に反する結果に導かれることがあるということです。
これはパウロにしてもそうでした。彼は「自分は神に熱心に仕えている」と思い込み、キリスト教会を迫害することに意欲を燃やしていました。彼は純粋な思いで自分の目的・計画を立てて行動しましたが、それは全く的外れなものだったのです。そのようなことは、私たちの日々の生活においても生じるものでもあります。私たちも純粋な思いですることがありますが、それが必ずしも神のみ旨と同じであるとは限らないことを覚えたいものです。
2)イエスの目的と計画
次に教えられるのは、イエスの目的と計画です。パウロは純粋な思いで、ダマスコの町に向けて出発しキリスト教会を迫害しようとしました。ダマスコの町の近くに来たとき、天から光が照らされ声を聞きました。それは「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」ということばです。すると、パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねたのです。このパウロの応答に至る経緯については、聖書は何も語ってはいません。確かなことは、パウロは「自分の高慢さを打ち砕かれた」ということです。今の自分が置かれている状況の中で、ことばをかけられた方を無視しては何もできないことを認めているのです。ここに、パウロの信仰を見ることができるのではないでしょうか。詩篇51:17の「 」のみことばを思い起こされます。人は誰もが間違いを犯してしまいます。それが純粋な思いであったとしても、神のみ旨と違った方向に歩んでしまうことがあります。しかし、「その歩みが間違いである」と気づかされたとき、きちんと改めることが「砕かれた霊」「砕かれた心」ではないでしょうか。そして、その霊や心を神は受け入れてくださるのです。
それはパウロにおいても同じでした。「主よ、あなたはどなたですか」とのパウロのことばに対して、イエス・キリストは「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えられ、その後で「立ち上がって…告げられる」と、これから先のことを示しておられます。イエス・キリストはパウロへの目的と計画を持っておられましたが、一度に全てのことを示されたのでもありません。イエス・キリストは、パウロに「立ち上がって、町に入りなさい」と告げられたのです。そして、ダマスコの町に入ったなら、次のことが示されることを話されたのです。一度に全てを示されたのではなく、パウロの必要に応じてなのです。まずはダマスコの町に入り、ダマスコの町に入った段階で、次のことが示されていくのです。当然、それには時間が費やされますし、忍耐も必要となってきます。ですが、それがイエス・キリストのパウロを導く方法なのです。
そのことを経験したパウロは、Ⅱコリント3:18に「栄光から栄光へと」と書かれています。「主と同じかたちに変えられるのは一瞬にしてではなく徐々に」であることをパウロは語っています。パウロと同じように、神は私たち一人ひとりに対する目的と計画を持っておられます。しかしながら、私たちに一度に全てのことを示されることはなさいません。私たちの必要に応じて示してくださるのです。そこには時間が費やされますし、その途中では様々なことを経験させられていきます。それら一つひとつを神は用いて、私たち一人ひとりに対するご自身の目的と計画を遂行なされるのです。それは世間で言われる「日々の積み重ね」というものでもあるでしょう。しかし、その「日々の積み重ね」の中に神は働いてくださり、私たち一人ひとりを導いてくださるのです。
3)パウロの心情
ダマスコ途上で、イエス・キリストと個人的な出会いをしたパウロの心情はどのようなものだったでしょうか。そのパウロの心情については、今朝の箇所には何も書かれてはいません。ですが、エルサレムの町を出てダマスコの町に向かうときのパウロの姿を想像するとき、同行する人たちの先頭に立って進んでいたのではないでしょうか。ところが、ダマスコ途上でイエス・キリストと出会い、目を開けても何も見えない状態でした。そのため、同行者に手を引いてもらわなければ進めない状態になってしまったのです。このときのパウロの姿は、エルサレムの町を出たときのパウロの姿とは正反対の姿でもあります。そこには自信過剰に満ちたパウロの姿を見ることはできません。人の助けを得なければ、前に進むことのできないパウロの姿しか見えません。
しかも、そのパウロの手を引いてダマスコの町に連れて行ったのは、パウロと同行していた人たちです。この人たちについて、聖書は7節で「 」と語っています。おそらく、彼らはパウロと同じような出来事に遭遇しましたが、個人的にイエス・キリストとは出会っていない人たちであったと考えられます。すなわち、心を打ち砕かれていない人たちだったと思われます。ですが、パウロはそのような人たちの助けを得ながら一歩を踏み出したのです。そのことを思い巡らしますと、私たちの歩みはイエス・キリストを信じている人たちの祈りや支えだけでなく、イエス・キリストを信じていない人たちにも支えながら歩まされていることに気づかされるのではないでしょうか。そして、そのような一人ひとりを神が用いてくださっていることを知らされます。
他人の助けを得なければ何もできないパウロ。イエス・キリストと個人的な出会いをしたパウロには、エルサレムの町を出たときのような自信過剰に満ちた姿は微塵もありません。今、私たちが見ています使徒の働きの著者はルカと考えられています。ですから、この使徒の働きは著者ルカの意図をもって書かれている手紙です。パウロ自身は、このときの出来事について何と語っているかと言いますと、ガラテヤ1:13~17で「 」と告白しています。すなわち、イエス・キリストと個人的な出会いをしたパウロは一人でアラビアに行ったのです。この「アラビア」とは何処かと言いますと、現代のアラビア半島ではなく現代のヨルダンも「アラビア」とされていたようです。おそらく、パウロは現代のヨルダンに行ったのではないかと考えられます。大切なのは場所が何処かではなく、パウロは一人になって今後のことについて考えたということです。
「これが絶対だ」と確信していたものが崩されただけでなく、間違った行為をしていたのですから、その反動はとても大きなものだったと想像できます。このときパウロは「今後どうすれば良いのか」を考えたことでしょう。「その期間がどれ程か」は分かりませんが、イエス・キリストはパウロの心の中に働かれ、一歩ずつではありますがパウロを従う者へと導かれたのです。そのイエス・キリストのお取り扱いは私たちに対しても同じです。私たちの心に寄り添い、一歩ずつではありますが導いてくださるお方です。
結)
使徒の働きだけを見ますと、一瞬の内に変えられたかのように思えるパウロ。しかし、そこには時間を要していたのです。その期間の中で、神は心の内に働かれ一歩ずつ導いてくださいます。その神のお取り扱いは、パウロだけでなく私たち一人ひとりに対しても同じです。私たちは一瞬の内に大きく変わることを願いやすいですが、変わらない状況の中にあったとしても、尚且つ神は働き導いてくださいます。これが神のご計画です。
ヤコブ1:25~27「みことばを行うとは」 23.01.15.
序)
先週は、神を礼拝することがみことばを行うことのスタートであることを学びました。スタートですから、ゴールまでの歩みがみことばを行うことでもあります。今朝は、そのみことばを行うとはどういうことかを共に教えられたいと願っています。
1)神の約束を信じること
みことばを行うにおいて大切な1つは、神の約束を信じることです。神の約束を信じることをしないで、みことばを行うこともできなくはありませんが、その歩みは間違った方向に進んでしまいます。25節の最後に「こういう人は…祝福されます」と書かれています。これが神の私たちに対する約束です。神のみことばを行いますと、神から祝福をいただくことができるのです。25節の「自由をもたらす…離れない人」というのは、神の約束を信じイエス・キリストに留まり続ける人のことです。それは詩篇1:3に書かれています「流れのほとりに植えられた木」のような人であり、神のみことばに養われている人のことです。すなわち、実生活の中でみことばを生かす人のことです。何度も話していますが、聖書が語る「生きる」とは、漠然と生きることではなく目的・目標を見据えて生きることです。詩篇1:3の最後には「そのなすことは全て栄える」と書かれています。これが神の約束であり祝福です。
この「栄える」に②と書かれています。欄外を見ますと、創世記39:3と23節が記されています。この箇所には「主が彼と共におられ、彼が何をしても成功させてくださった」と書かれています。ところが、ヨセフは3節の後で主人の妻によって監獄に入れられることとなります。また、23節の後でもヨセフは少なくとも2年間は監獄に入れられたままなのです。私たちはこの箇所を読んで、「神がヨセフと共におられるのに、『神が成功させてくださった』と書かれているのに何故?」と思えたりもします。そして、「これが神の祝福なのか」と思えたりもします。この「成功」とか「栄え」は自分の目から見た成功ではなく、神の目から見た成功であり栄えなのです。それは「神のご計画の通りに進んでいる」ということでもあります。
ヤコブ書に戻りますが、25節の終わりの方に「その人の行いによって祝福されます」と書かれています。このことばに疑問を持たれる方もおられるかもしれません。何故なら、「神の祝福は人の行いによってではなく信仰によってではないか」ということからです。その捉え方は間違いではありません。何故なら、救いも神の祝福の一つだからです。ですが、25節に書かれています「行い」は、私たちが考えやすい行いではありません。私たちが考えやすいのは、「良い行いをすることによって、神から褒められご褒美がもらえる」というものではないでしょうか。例えば、イエス・キリストの所に富める青年が来て、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすれば良いのでしょうか」と尋ねたことがマタイ19:16~22節に書かれています。この青年は見返りを求めていました。その見返りとは永遠のいのちです。その青年に対して、イエス・キリストは「あなたの財産を…わたしに従って来なさい」と21節で話されました。ここでイエス・キリストは「見返りを求めないように」と話されているのです。今朝の箇所の「行い」も見返りを求めない行いのことです。
では、「見返りを求めない行い」とは何でしょうか。一言で言うならば「感謝による行い」です。すなわち、何かをしてもらうための行いではなく、していただいたことへの行いです。今私たちが献げています礼拝もそうです。神に何かをしていただくために礼拝を献げているのではありません。先週1週間の歩みの中で、神が共にいてくださり導いてくださったことに感謝しての礼拝です。今年も神社などに初詣をされた方が大勢おられました。ニュースでは「コロナ前の人出」とも言われていました。その殆どは願い事をするために参拝されたのではないでしょうか。これは見返りを求めてのものでもあります。ですが、今私たちが献げています礼拝はそうではありません。先週の歩みを神が支え導いてくださったことに感謝してのものです。ですから、神社への参拝と私たちの礼拝は質的に違うものなのです。私たちが毎主日この所に集い神に礼拝は、1週間の歩みを神が支え導いてくださったことへの感謝を献げているのです。決して、聖書が教えているから義務的に礼拝をしているのではないのです。
1週間の歩みの中で、私たちは様々なことを経験します。そこには自分にとって良いこともあれば良くないこともあります。しかし、1週間の歩みを神によって支えられたのは事実です。だから今生かされているのです。そのことに感謝しつつ、神が最善の成してくださる約束を信じ礼拝を献げているのです。みことばを行うにおいて大切なことの1つは、神の約束を信じることです。
2)神の約束を信じられない信仰は空しい
みことばを実行するにおいて大切な第2は、神の約束を信じられない歩みは空しいと知ることです。26節で語られていることは、行いが伴わない生活のことです。26節の「自分の心を欺いている」とは、信仰が実生活につながっていないことです。口では立派な信仰的なことを話しますが、実生活は全く違う歩みをしていることです。聖書が語る信仰は実生活の中で生かすものであり、信仰と実生活には深い繋がりがあるのです。しかし、実生活の中で生かされていない人のことについて、聖書はどのように語っているでしょうか。ヨハネの黙示録3:1には「実は死んでいる」と書かれています。このサルデスの教会の人たちは、イエス・キリストを信じている人たちです。ですが、神は「実は死んでいる」と言われたのです。それは行いが神の前で全うされていないからです。それは信仰が実生活の中で生かされていないからです。ヤコブは「そのような信仰生活は空しい」と語っているのです。
そのような生き方は「二元論的な生き方」ではありませんが、それと似た生活でもあります。二元論的な生き方というのは、「信仰は信仰であり、実生活は実生活で別物」という生活です。そこまでは言わなくても、それに似た生き方になりやすいのは確かなことです。一番良い例がディボーションです。私たちは「みことばには力があり、みことばは私たちの霊を生かす力がある」と知っています。しかし、ディボーションを持とうとしないならどうでしょうか。「ディボーションなど持たなくてもやっていける」と思うなら、それは二元論的な生き方に似ています。最初の方で話しましたが、詩篇1:1~3に書かれている幸いな人とは、流れのほとりに植えられた木のような人です。流れのほとりに植えられた木は、毎日川から水分や栄養分を吸収することができます。それによって成長し実を結びます。木はそのことを実感しているかどうかは分かりませんが、確実に成長し実を結ぶようになるのです。私たちが取っています食事もそうです。実感としてはないと思います。ただお腹が空いたから食事をするだけでしょう。食事をしながら、「今栄養分が吸収されて力に変えられている」など実感しながら食事をしているわけではありません。しかし、吸収されて力に変えられているのは確かなことです。それと同じように、日々みことばに養われる人も実感はしませんが、気づかない内に吸収され力に変えられているのです。「どのような力に変えられるのか」と言いますと、生きる力に変えられるのです。
逆に言えば、「日々みことばに耳を傾けない人は幸いな人ではない」と言うのです。むしろ、「そのような人の信仰生活は空しい」と言うのです。すなわち、「日々の生活の中で神の約束を信じることができず、神の恵みに対しての応答が伴わない人の歩みは空しい」と言うのです。何故なら、それは神を抜きにして、自分の力で生きていこうとしているのと同じだからです。伝道者の書には、人生の空しさが書かれています。空しい人生は、日の下の人生です。伝道者の書には「日の下で」ということばが繰り返し書かれ、「その日の下での人生は空しい」と語っています。「日の下」というのは、神の約束を信じられず神を抜きにして、自分の力で生きていこうとする人生のことです。口では信仰的なことを語りますが、実生活に伴っていない歩みのことです。そのような生活は空しいものです。そのことを知るのは大切なことです。
3)みことばを行うとは
では、みことばを行うとはどういうことでしょうか。すでに語ってきましたからお分かりだと思いますが、みことばを実生活の中で生かすことです。具体的にどういうことでしょうか。それは、マタイ22:36~40でイエス・キリストが話された「神を愛し隣人を愛する」ということです。神を愛するとは、神を礼拝することであり、神の約束を信じることです。これは信仰です。隣人を愛するとは、その信仰の実践です。今朝の箇所の27節に「孤児ややもめたちが…自分を守ることです」と書かれています。孤児ややもめが困っているときに世話をしても見返りはありません。かえってお金を使い、体力を使い、時間を費やしてしまいます。打算的な考えからすれば損をするだけです。しかし、聖書はそれを実践することを勧めているのです。何故そのようなことを聖書は勧めているのでしょうか。永遠のいのちを得るためでしょうか。もし、永遠のいのちを得るために行うなら打算的行為と同じです。
イエス・キリストは「神を愛し隣人を愛する」ことを話されました。この順番が大切です。何故神を愛するのかと言いますと、神が自分にしてくださったことに感謝しているからです。その感謝を見える形として表すのが神への礼拝であり、隣人を愛することだからです。ですから、見返りが期待できないけれども行えられるのは、神への感謝が源となっているからです。ルカの福音書で、イエス・キリストは「神を愛し隣人を愛する」ことを話された後に、「良きサマリア人」と言われる譬え話をされました。これは見返りを求めない行為です。イエス・キリストも見返りを求めない行為を勧めておられるのです。何故なら、それが行えられるのは神への感謝が源となっているからです。
また、「隣人」というのは自分以外の人のことです。ですから、隣人を愛するとは外に向けての行為でもあります。ですから、隣人を愛するとは自分や自分たち以外に行うことでもあります。先程触れました「良きサマリア人」は、自分に余裕があったから強盗に襲われた人の費用を支払ったのではありません。彼は強盗に襲われた人を「かわいそうに思った」から行ったのです。この「かわいそうに」と訳されていますことばは、「同情する」とか「憐れむ」とも訳されていることばです。同じルカの福音書では7:13の「深くあわれみ」と訳されていることばがそうですし、15:20の「かわいそうに思い」と訳されていることばがそうです。また、マタイの福音書では9:36の「深くあわれみ」、14:14の「深くあわれんで」などが同じことばです。これは上からの目線ではなく、同じ立場に立って行動することを意味しています。そのことをヤコブは教会に求めているのです。これは私たちの教会の「外部献金」も同じです。これは教会が経済的に余裕があるからするのではなく、教会も必要ではあるが痛みを覚えて献げられるものです。
ですから、みことばを行うとは痛みを覚えるものでもあります。赦せない人を赦そうとするのには痛みを覚えます。苦手な人や良く思わない人に接するのも痛みを覚えます。自分が受け入れられない人を受け入れるには痛みを覚えます。痛みを覚えますけれども、神の恵みに感謝して行うことが、みことばを行うということです。ルカ10:37の最後に、「あなたも行って、同じようにしなさい」とイエス・キリストが話されたことが書かれています。痛みを伴いますが行えられるように共に祈りましょう。
結)
みことばを行うとは、神の約束を信じ生きることでもあります。そして、その神の約束を信じ生きるには、今まで神がしてくださったことに目を留めつつ、今後の歩みを見据えるしかありません。まず神がしてくださったことに目を留めますと、神に感謝する思いが起こされます。何度も話していますが、私たちの歩み一つひとつは当たり前ではなく神の導きによるものです。「当たり前」と思う限り、感謝の思いは起こりません。神の恵みに感謝して生きることが、みことばを行うことのスタートでもあります。一つひとつのことに感謝して歩み続けられるように祈っていきましょう
ヤコブ1:22~25「みことばを行う人に」 23.01.08.
序)
新年が明けて1週間が経ち、正月気分も抜け始めたことでしょう。クリスマスと新年を過ごし、ヤコブ書から約1ヶ月半離れていました。今日からヤコブ書に戻り、当分の間ともに学んでいきたいと願っています。新年礼拝でも見ましたが、神のことばは人を生かす力のあるものです。それは精神的・内面的力です。ところが、ヤコブは「その力を持っているだけでは意味がない」と語っています。「その力を用いることが大切である」というのです。例えば、お金は持っていれば安心感を与えてくれますが、持っているだけではお金の役目を果たすことはできません。お金は用いることによって、初めてその役目を果たすことができます。ヤコブは「信仰もそのようなものだ」と語っているのです。今朝は、みことばを実行するとはどういうことなのかを共に教えられたいと願っています。
1)証しをすること
22節の初めに書かれています「みことばを行う人」とは、どのような人のことでしょうか。この「行う」とは、今まで得たものを生かして用いることです。みことばを行うにおいて大切なことの第1は、証しをすることです。証しは「霊の運動」とも割れています。「証しをしましょう」と聞かれますと、弱気になられる方がおられます。そして「私は勉強不足ですから」とか「私なんかまだまだですから」などと言われたりもされます。ですが、それは間違いです。聖書が語っています証しについて、正しく理解されていないからです。証しは奉仕ではなく、特別なことをするわけでもありません。
一人ひとり違いますから、他の人と同じようなことをしなければならないということはありません。何故なら、一人ひとりの信仰の成長は違うからです。信仰生活は人間の生涯と似ています。まだ受胎もしていない状態は、神を知らず神を求めようともしない未信者のときです。そして、受胎した胎児のときは、神を知り求めていますが決心ができていない求道者のときです。そして、誕生は神を信じ生きようと決心したときです。誕生した赤ちゃんは完全な人間ですが、それでゴールというわけではありません。そこから、さらに人として成長していきます。ですから、誕生はゴールではなくスタートとも言えます。信仰も同じです。イエス・キリストを信じたときがゴールではなくスタートです。そこから一人ひとり成長していくのです。その成長具合は一人ひとり違います。幼児の運動・小学生の運動・中高生の運動・大人の運動はそれぞれ違いますが、その成長具合に合った運動をします。証しを「霊の運動」と言われたりします。また、成長するにつれてある人は野球に、ある人はサッカーに、ある人は別のものにとなります。証しの仕方も一人ひとり違っていて良いのです。そのような意味で、証しは誰にでもできるのです。
聖書の語る証しとは、神が自分にしてくださったことを伝えるものです。すなわち、自分が経験したことをいろいろな方法で伝えることが聖書の語る証しです。聖書は「みことばを行う人になりなさい」と勧めています。決して「みことばを行い成功しなさい」とは語ってはいないのです。ですから、良い結果を出すことが証しではありません。みことばを実行して誤解されるときもあれば、失敗することもあります。ですが、神はそれらを豊かに用いることのできるお方です。私たちの弱さを用いることのできる神は、私たちの誤解や失敗をも用いることのできるお方なのです。何故なら、神には不可能なことが何一つないお方だからです。証しの方法は一人ひとり違います。そして、何よりも大切なのは今の自分にできることから始めることです。
2)自分を欺かないこと
みことばを行うにおいて大切な第2は、自分を欺かないことです。「自分を欺く」とはどういうことでしょうか。1つは聞き方です。悪い聞き方には3つあると言われます。1つは新幹線式聞き方です。新幹線はとても速いです。ですから、すぐに通り抜けてしまう聞き方です。すなわち、聞いたけれどもすぐに忘れてしまう聞き方です。イエス・キリストが4つの種の譬え話をされました。ある種は道端に落ちて、すぐに鳥に食べられてしまいました。そのような聞き方です。もう1つはラムネ式聞き方です。ラムネの中にはビー玉が入っていましてコロコロ動きます。そこから、聞いても身に着けない聞き方のことです。これは先程の譬え話の2つ目のすぐに芽を出して枯れてしまう種に似ています。最後はプロペラ式聞き方です。これは聞いたことを自分に適用するのではなく、他の人に適用してしまう聞き方です。実は、みことばは自分に語られているのに、この話は「あの人に聞かせたい」とか「あの人が居れば良かったのに」と思うことです。「自分を欺く」とは、このプロペラ式聞き方のことです。
「自分を欺く」というもう一つは、できるのにしないことです。それは「みことばは何を語っているか」を知っているのです。そして、本人は決心ができるのに「でも〇〇だから」と様々な口実をつけて「実践しよう」と決心しない人のことです。口実というのは、探そうと思えばどれだけでも探すことができます。でも、聖書はそれを「自分を欺いている」と語っているのです。この「欺く」と訳されていますことばは、新約聖書に2回した登場しないことばです。今朝の箇所とコロサイ2:4の「惑わす」と訳されていることばだけです。これは「悪いこと」「間違っている」と分かっているのに行うことを表しています。すなわち、故意にしていることを意味したことばです。これは他の人には分かりませんが自分自身は分かっているのです。ヤコブは「自分の心に偽った行為をしないように」と勧めているのです。そのように考えますと、「信仰とは自分自身との戦い」とも言うことができます。みことばが自分自身に迫り、そのみことばに対して「自分はどのように決断するのか」が問われるのが信仰です。
ところが、その決断をしないで「ただ聞くだけの者となってはいけません」とヤコブは勧めているのです。この「聞くだけの者」とは、先程話しました悪い聞き方もそうですが他にもあります。それは耳当たりの良いことばを求める聞き方です。最近は耳にすることはありませんが、昔は「恵まれたメッセージを聞きたい」ということばを耳にしたことがあります。「恵まれたメッセージ」というのは、励まされたり慰められたりするメッセージです。確かにそのようなメッセージは大切ですが、それだけなら問題も生じます。何故なら、先程も話しましたが信仰は自分自身との戦いでもあるからです。自分の都合の良いものだけを聞き取って、自分の都合の良くないものは聞き捨てるなら、それは今朝の箇所に書かれています「聞くだけの者」と言えます。
その代表的なのが、エレミヤ42~43章に書かれている出来事です。42:2~3に、カレアハの子ヨハナンは、預言者エレミヤに「どうか、私たちの…くださいますように」と言いました。さらに、5節には「主が、私たちの…すべて行います」とも告げました。彼らはバビロンの王を恐れてエジプトに逃れようとしていたのです。自分たちの行為が確かなものであることを求めたいがために、エレミヤの所に行き神の御心を求めたのです。ところが、エレミヤからは「ユダの地に留まれ」という神の御心を彼らに伝えたのです。すると、ヨハナンは「あなたは偽りを語っている」と言って聞き従わなかったことが43:2~4に書かれています。彼らは自分たちにとって都合の良くないことは聞き捨てて従わなかったのです。これが聖書の語る「自分を欺く」ということです。ヤコブは「そのことに注意するように」と勧めているのです。
3)みことばを行うスタート
ヤコブは、みことばを行う歩みを勧めています。では、みことばを行うスタートは何でしょうか。23~24節に「 」と書かれています。ここで注目したいのは、「見つめる」ではなく「眺める」と書かれていることです。主に「見つめる」は一点に集中して見ることですが、「眺める」は一点に集中するのではなく、視野に入るもの全体を広く見ることを表しています。ですから、ここで語られていることは、自分の全体像は何となく分かっているのですが、細かい所までは分かっていないということです。みことばを聞いて行おうとする人は、自分の改める点を見出だして改めようとしますが、ただ聞くだけの人は改める点を見出だせられずそのままにしてしまうということです。例えば、私は教会には普段着で来ますが礼拝前に着替えます。そして、鏡の前でネクタイの位置が大丈夫かを確認します。これはネクタイの位置に集中して見ていますから、ずれていた場合は修正することができます。ところが、ただ鏡の前に立って何も集中しないでパッと見ただけで鏡から離れてしまいますと、ネクタイの位置がずれたままで講壇に立つことになります。みことばを行う人は、ネクタイがずれていたら修正する人であり、聞くだけの人はネクタイがずれたまま講壇に立つことです。
先程は外見的なことですが、今朝の箇所では内面的なこと霊的なことをヤコブは語っているのです。それは、「みことばを行わない人は、今の自分の霊的な状態を把握していない」と語っているのです。そのため、「日々の歩みがずれてしまっている」と言っているのです。ですから、大切なのは25節に「完全な律法を一心に見つめて」と書かれていますように、「一点に集中して見る」ということです。何に集中するのかと言いますと、25節に書かれていますように「完全な律法」です。この「完全な律法」とは福音のことです。福音とは、イエス・キリストの十字架による死と復活です。このような私のためにイエス・キリストが身代わりとなって神の審きを受けてくださり、この私が望みをもって生きる者となるために死から甦ってくださった。そのことに感謝して生きることを神は私たちに願っておられるのです。
いやそれだけでなく、日々の歩みの中で神が共にいて守り導いてくださっていることに感謝することもそうです。クリスマス礼拝の時に話しましたが、私たちが気づこうが気づかまいが神は共にいてくださいます。そのことに感謝して生きる。これが神の私たちに願っておられることです。そして、その感謝を日々の生活の中で現わしていくことが「みことばを行う人」でもあります。その現し方は人によって違うことでしょう。でも、スタートは感謝からです。礼拝もそうです。「何故礼拝するのか」と言いますと、聖書に書かれているからではありません。1週間の歩みの中に神が共にいて守り導いてくださったことへの感謝の表しとして礼拝を献げているのです。信じていない人は神が共にいてくださることに気づきませんし知りません。ですが、私たちは知っていますから、そのことに感謝して礼拝を献げているのです。みことばを行うスタートは、神が共にいて守り導いてくださっていることに感謝して礼拝を献げることです。神を礼拝することが、みことばを行うスタートです。
結)
神を礼拝し続けることは、みことばを行うことのゴールではなくスタートです。さらに、日々のみことばから教えられることを日常生活の中で行えられる1年とされたいものです。それは簡単なことではありませんが、行えられるように共に励まし合い祈り合って歩まされていきましょう。
ヨエル2:28~29「生きる力」 23.01.01.
序)
新年あけましておめでとうございます。今年は主の日が新年から始まりました。これは5~6年に1度のことです。皆さんにとって、昨年はどのような年だったでしょうか。昨年の漢字が表しているように、「戦いの1年」ということができます。2月にロシアによるウクライナ侵攻に伴って物価が上がり、私たちの生活が脅かされる年でもありました。政府は防衛費を増額する方向でいます。社会情勢を見ますと「やむを得ない」と思え、将来に対して不安を抱いたりもします。そのような中で、私たちは何に目を留めれば良いのかを共に教えられたいと願っています。
1)神のことばに目を留める
その1つは、神のことばに目を留めることです。28節の冒頭に「その後」と書かれています。「その後」とは何でしょうか。それは27節までに書かれている事柄です。27節までは、神の物質的祝福が書かれており、神と人との関係が回復されたことが記されています。人は、どのようにして神との関係を回復することができるのでしょうか。それは、神のことばを信じることによってです。2:12~14は、悔い改めることへの招きのことばです。12節に「主のことば」とあります。これは神が預言者ヨエルを通して、イスラエルの民に語られたことを示しています。そして15~17節には、悔い改めの集会の招きが書かれています。18節のみことばから、イスラエルの民の悔い改めに対する神の応答が書かれています。それは神が物質的な祝福をなされたということです。そして、28~29節には物質的祝福に続いて霊的祝福が書かれています。このことから、神の祝福は神のことばから始まることを知らされます。
イエス・キリストも申命記8:3のみことばを引用されつつ、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつのことばで生きる」とサタンの誘惑に遭われたとき答えられました。人を生かすものは神のことばなのです。箴言4:23の後半に「いのちの泉はこれから湧く」と書かれています。「これから」の「これ」とは何でしょうか。それは箴言のことを指しており、さらに言えば神のことばである聖書です。日本にいます私たちは、一人ひとりが神のことばである聖書を持つことができます。ですから、何時でも何処でも神のことばに耳を傾けて聞くことができます。その神のことばは、私たちに生きる力を与えてくださいます。私たちの歩みは、自分にとって良いことや楽しいことばかりではありません。苦しみや悲しみ、そして失望などを経験します。しかし、神はみことばを通して私たちを励まし、生きる力を与えてくださいます。
では、どのようにして生きる力を与えてくださるのでしょうか。突然、奇蹟などをお越してくださるのでしょうか。そうではありません。私たちが苦しみ悩んでいるときの視点は、何処に向いているでしょうか。それは目の前の事柄ではないでしょうか。目の前の問題が解決されることに集中してしまい、それしか見えなくなってしまうのではないでしょうか。そのような中でみことばに聞くとき、「あっ、そうなんだ」という思いが起こされ見方が変えられます。それは「平面的な見方から立体的な見方に変えられる」と言っても良いでしょう。それは迷路に入って迷っていますと「出られるのか」と不安になります。そのようなとき梯子などの上に上れるものを見つけて上って周りを見渡しますと、どの道を通れば良いかが分かります。そして、迷路で迷っていたときの不安から解放されます。「みことばに聞く」というのは、それに似ています。見方が変えられるのです。何度も話していますが、「見方が変えられる」ということは、「生き方が変えられる」ということです。みことばは生きる力を与えてくださいます。だから、神のことばに目を留めることは大切なことなのです。
2)賜物に目を留める
第2は、賜物に目を留めることです。神は28節で「全ての人にわたしの霊を注ぐ」と語られています。旧約時代において、神の霊とは特別な人にだけ注がれていました。ですが、ここでは「全ての人にわたしの霊を注ぐ」と語られています。この「全ての人に」とは、神を信じる全ての人のことです。ですから、神を信じるならば誰もが神の霊が注がれるのです。では、神の霊とは何でしょうか。旧約時代に神の霊を受けていた人たちは、その神の霊を通して神のすばらしさを現していました。すなわち、神の霊というのは、神のすばらしさを現す賜物の一つなのです。神の賜物は一人ひとりに与えられています。あなたがイエス・キリストを信じ救われ、生かされていることに感謝し生きることができる。これも神の賜物の一つなのです。あなたという存在は、神のすばらしさを現すことのできる存在なのです。「私みたいな者」と思われるかもしれません。ですが、その「私みたいな者」を用いてくださるから神はすばらしいのです。人は何かができるからすばらしいのではありません。神によって造られ生かされているからすばらしいのです。あなたそのものが神の賜物なのです。
私たちが今この時代に生かされているのは、何か当たり前のように思えるかもしれません。ですが、決して当たり前ではありません。私たちが今この時代に生きているのは、神が私たちを生かしてくださっているからです。神が私たちを生かしてくださらなければ、私たちはひと時も生きることはできないのです。命を取られたら生きることはできないのです。ですから、今生かされているというのは、当たり前のことではなく神の恵みそのものなのです。何度も話していますが「当たり前」と思いますと、感謝の思いは出てきません。しかし、「当たり前ではなく神の恵み」と捉えますと感謝の思いが出てきます。私たちが生かされているのは当たり前のことではなく、神の恵みそのものなのです。これも見方が変えられることの一つです。確かに、この世に生きているとき様々な苦しみや悲しみを経験します。今年も多くのことを経験されることと思います。いや、思うではなく確かなことです。しかし、その一つひとつに神は取り扱ってくださり、導いてくださるのも確かなことです。これも何度も話していますが、見える現実だけを見つめるのではなく、見えない神の取り扱いという現実にも目を留めること大切なことです。
「賜物に目を留める」と聞かれますと、「自分にはどのような賜物があるのだろう」と思ってしまいやすくなります。それは「賜物=何かできること」と捉えておられるからです。ですが、聖書が語る「賜物」は何かができることではありません。神が与えてくださるもの全てが賜物なのです。ですから、生きていることも賜物の一つですし、自分の経験も賜物の一つなのです。今まで様々な経験をされてこられたと思います。その経験を通して、他の人の相談に乗ったり助言したりすることができます。それも賜物の一つです。今日から始まりました新しい年、自分の賜物に目を留めつつ感謝して歩まされる年とされたいものです。
3)幻に目を留める
第3は、幻に目を留めることです。28節の後半~29節にかけて、「あなたがたの息子や娘は預言し…わたしの霊を注ぐ」と語られています。神の霊は年齢や性別、国籍や社会的身分など一切関係ありません。どのような人であれ、イエス・キリストを信じる人なら全ての人に注がれます。そして、前向きに生きることができます。「前向きに生きる」というのは、「何かに取り組む」ということではありません。感謝して生きるということです。感謝する人生は、どのような人にも与えられています。感謝は若い人であれ、年齢を重ねた人であれ、今生かされている全ての人に与えられています。
神のみことばを通して自分を知り、与えられている賜物に目を向けるとき、人は生き方が変えられます。「生き方が変えられる」というのは、自分が進むべき道を見出だすことでもあります。どの方向に進んで良いのか分からない状態から、進むべき方向を見出だすことです。28節の最後に、「老人は夢を…幻を見る」と書かれています。これはそのことを語っているのです。単に「こうなれば良いな」「ああなれば良いな」というものではなく、その思いから今できることを模索していくことです。それを「ヴィジョン」と言っても良いでしょう。例えば、ある思いが与えられて、「それに対してこれからどのようにすれば良いのか」を考え取り組んでいくことです。
神のみことばによって「当たり前」という見方から「感謝なことだ」という見方に変えられ、今までの経験を通して「これからどのように生きるか」を考えるとき、将来に目を留めることができます。これが28節最後の「老人は…幻を見る」ということです。将来に目を留めるとき、「それに対して今の自分には何が足りないのか」ということにも目を向けることができます。今大リーグで活躍されています大谷選手の肉体美は凄いものです。日本に居たときとは全く違います。彼の肉体改造のきっかけは、「技術や身体の動きの理想を思い描いていると、その技術や動きには筋力がないとできない」ということに気づいたらしいのです。そして、今の自分に足りていない筋力をつけるためにトレーニングをされたようです。「そのため今の活躍ができている」というのです。そのような生き方は、29節で「男奴隷にも…霊を注ぐ」と語られていますように、どのような人にも神は与えてくださるのです。
この2年、クリスマスコンサートとしてゴスペルを願っていますが、コロナ感染で開催することができていません。そのゴスペルの歌の中で「JOY」というのがあります。私の好きな曲の一つです。これはネヘミヤ8:10の最後のみことばから作られたものです。ここに「主を喜ぶことは、あなたがたの力だから」と書かれています。この「力」を英語では「strength」と訳されています。調べてみますと「力」には3つの英語があります。1つはpowerです。これは自分が持っている肉体的力や能力や権力などを意味します。もう1つはforceです。これは持っているものを出す力です。そしてstrengthは、強度などの耐久力や忍耐力を表すことばで、「精神的・内面的力を表すもの」と言っても良いでしょう。ですから、ネヘミヤ8:10に書かれています「力」は、生きる力のことです。神は生きる力をどのような人にも与えてくださるのです。それには神のみことばに目を留めて変えられ、自分の賜物に目を留め、将来という幻に目を留めることが必要なのです。
結)
私たちの歩みには不安は付き物です。「不安との戦いの連続」と言っても良いかもしれません。しかし、神はそのような戦いの連続の中で、生きる力を与えてくださいます。それには何よりも神のことばに目を留めることです。そして、賜物に目を留め、幻に目を留めることです。今日から始まります新しい年も私たちは様々なことを経験します。しかし、神は私たちに生きる力を与えてくださいます。そのことを覚えつつ、この新しい年を共に歩まされたく願います。
マタイ1:18~25「共におられる神」 22.12.25.
序)
クリスマス礼拝にようこそお越しくださいました。25日のクリスマス礼拝は大体6年ごとです。私にとって25日のクリスマス礼拝は特別なものです。何故かと言いますと、12月25日のクリスマス礼拝の日にバプテスマを受けたからです。バプテスマを受けて今年で45年になりますが、その間様々な戦いがあったのも事実です。今年の漢字は戦いを表す「戦」です。今年はロシア・ウクライナの戦争、円安に伴っての物価高による生活上での戦い、またサッカーのワールドカップの熱戦などから、この漢字が一番多かったようです。今朝は、この「戦」という漢字からクリスマスを共に思い巡らしたいと願っています。
1)「戦」について
皆さんは「クリスマス」ということばを聞かれますと、何を頭に思い浮かべられるでしょうか。クリスチャンの方はイエス・キリストの誕生でしょうが、クリスチャンでない方はどのようなものを思い浮かべられるでしょうか。イルミネーションやクリスマスツリーでしょうか。若い人ならカップルとのデートかもしれません。今年は土日がクリスマスですので、多くの店ではバイトの確保が大変です。または少し豪華な美味しい食事でしょうか。或いは、ケーキなどを食べての家族団欒でしょうか。人によって思い浮かべられるものは違うことでしょう。ですが、共通しているのは「争い」ではなく、「和む」ものを思い浮かべられるのではないでしょうか。クリスマスは人を和ませるイメージを人に抱かせます。
そのように思いますと、今年の漢字の「戦」という字はクリスマスとかけ離れているようにも思えます。ところが、聖書には「戦」ということばが多く書かれています。私たちが用いています新改訳聖書には650回も使われています。これは約3ページに1回の割合です。それ程多く使われています。「それは何故か」と言いますと、私たちの日々の生活は戦いの連続でもあるからです。そうではないでしょうか。先程も触れましたが、物価高による生活上での戦いもその一つです。さらには、「人間関係も戦いの一つ」と言えるのではないでしょうか。悩みや不安も戦いの一つです。そのように考えますと、「聖書が語っていることは私たちの生活と遠いものではなく、私たちの生活に近いものであり密着しているものでもある」と言うことができます。
私たちは日々の生活の中で様々なことに悩んでしまいます。その「悩みを抱く」というのは、私たちが生きていく上で仕方のないものかもしれません。それはクリスチャンであっても同じです。「クリスチャンになれば悩みなどなくなる」というわけではありません。クリスチャンであれなかれ、誰でも生きている中で悩みを抱くのです。いや悩みだけでなく、悩みから生じる不安も抱くのです。それが私たちなのです。ですから、悩みを抱いたり不安が生じることが悪いわけではありません。それは人として仕方のないものです。聖書は、そのようなものを「悪」とは語ってはいません。聖書は、そのようなものを抱く私たちに「どのように生きれば良いのか」を語っているのです。そして、その生き方が戦いでもあるのです。ですから、聖書の中に「戦」という漢字が多く書かれているのです。
2)「神が戦われる」とは
では、聖書は私たちに何と語っているでしょうか。聖書には「主が戦われる」ということばが何度も書かれています。この「主」とは神のことです。「私たちの人生の歩みの中で神が戦ってくださる」というのです。「神が戦われる」とはどういうことでしょうか。私たちの代わりに神が戦ってくださるのでしょうか。そして、私たちは傍観者の一人のように、その神の戦いを見ているだけなのでしょうか。「神が戦われる」というのは、そういうことではありません。「神が戦われる」というのは、「神が共に戦われる」ということです。ですから、「一緒に戦う」ということです。
私たちは悩みや不安を抱きながら歩み続けるとき、自分一人で頑張っているように思えたりします。そして「私の心の中など誰も分かってくれない」と思いながら、目の前の事柄に自分一人で立ち向かっているように思えたりもします。ですが、実はあなた一人で戦っているのではないのです。神があなたと共に戦ってくださっているのです。「神が共に戦ってくださる」ということは、「あなたは一人ではない」ということです。ところが、そのことに多くの人は気づいていないのです。気づいていませんから、当然分かってもいません。「気づかない」「分からない」というのは、「ない」ということではありません。今日の祝会の中でミュージックベルの演奏があります。今日のために、11月から毎週練習をしてきました。そのメンバーの中で一番の問題児が私です。何回練習しても鳴らす場所を間違えたり、音が上手く鳴らなかったりして落ち込んでしまったりします。ある方から「それは不安で緊張しているからだ」と言われます。確かにその通りだと思います。今も不安でいっぱいです。もし間違えたら、そのまま聞き流してください。
「11月から毎週ミュージックベルの練習をしていた」というのは、この中の多くの人は御存知なかったのでしょう。ですが、練習は毎週していたのです。ですから、「気づかない」「知らない」というのは「ない」と言うことではありません。「神が私と一緒にいてくださる」「神が私と共に戦ってくださる」というのも同じです。あなたが知らないから気づかないから、「神は共におられない」のではありません。あなたが気づこうが気づかまいが、神はあなたと共にいてくださるのです。そして、あなたと共に戦ってくださるのです。「神が戦われる」というのは、「神があなたと共におられる」ということなのです。ですから、あなたは決して一人ぼっちではないのです。あなたが何処に居ようとも、何をしていようとも、神はあなたと共にいてくださるのです。「神が戦われる」とは、そのようなことを意味しているのです。
そのように聞かれますと、「だったら、何故悪い結果が出るのか」と思われる方もおられることでしょう。そのように思われる気持ちはよく分かります。でも、「それが本当に悪い結果なのか」というと、必ずしもそうではない経験を私たちはしてきたのではないでしょうか。確かに、その時は悪い結果だったかもしれません。しかし、その経験が後に生かされたという経験もあるのではないでしょうか。または「あの出来事があったから新しい出会いができた」というものもあるのではないでしょうか。そのように考えますと、目の前の結果だけで結論づけることはできないということです。神は私たちにとって「良いもの」「良くないもの」全てに働いてプラスにしてくださるお方なのです。何故なら、神があなたと共に戦ってくださるからです。
3)インマヌエル
私たちは目に見えないと気づかない者でもあります。だから、神は私たちが気づくようにイエス・キリストをこの世に誕生させてくださったのです。今朝の箇所のマタイ1:23に「 」と書かれています。「処女が身ごもり男の子を産む」なんて私たちには理解できるものではありません。医学的にそのようなことはあり得ないのです。そのあり得ないことを神はなされたのです。「インマヌエル」とは「神が私たちと共におられる」という意味です。これは「イッマーヌー」という「~と共に」ということばと、「エル」という「神」ということばの合成語です。あなたは「自分一人で戦っている」と思われるかもしれません。ですが、神は「そうではないよ、私があなたといつも共にいて戦っているよ」と語ってくださっているのです。それを見える形で表されたのがイエス・キリストの誕生でありクリスマスなのです。
このクリスマスの時季、店ではクリスマスソングが流れています。竹内まりやさんの「すてきなホリデイ」も流れています。その歌詞の中に「クリスマスが今年もやってくる」とあります。クリスマスが毎年やってくることによって、「神が私と共にいてくださる」ということを強く覚えることができるのです。また、「クリスマスは誰にもやってくる」とあります。「神が共におられる」というのは特定の人に対してではありません。イエス・キリストを信じる人にしか共におられないのではありません。全ての人に神は共にいてくださるのです。そのことを明らかにするために、目に見えるしるしとして、処女マリアからイエス・キリストはお生まれになられたのです。あなたの歩み一つひとつの中に、神は共にいてくださるのです。あなたは決して一人ぼっちではないのです。イエス・キリストはそのことを明らかにするためにお生まれになられたのです。
結)
先程も話しましたが、クリスマスは毎年来ます。「毎年来る」ということは、「神が私と共にいてくださるのを毎年思い出すことができる」ということです。これも神の恵みです。まさしく、イエス・キリストの誕生は神の恵みです。あなたは決して一人ではないことを覚えて、新しい年を迎えていただきたいと願います。
マタイ2:1~12「王としてのイエス」 22.12.18.
序)
今年の流行語大賞は「村上様」でした。王貞治さんが持つ年間日本人ホームラン数55本を抜いて56本も打ちました。58年ぶりということです。その彼にも不振の時がありました。終盤戦は10数試合ホームランが出ず多くの人をヤキモキさせました。ですが、最終戦にホームランを打って達成しました。これも彼の持ち味のようにも思えます。また、「22歳」という若さで最年少の三冠王にもなりました。今年のプロ野球は村上選手に注目した1年でした。「三冠王」とは3つの王ということです。それは、ホームランと打率と打点の数がトップであることです。来シーズンの彼の活躍が楽しみです。クリスマスはイエスの誕生を祝うときです。そのイエス・キリストは王として誕生されました。王が意味するものは何でしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。
1)支配者
まず、王とは国家や領地を治める人であり絶対的権威者です。その地を支配している人ですから、その地に属する人たちは王に従わなければなりません。イエス・キリストが王として誕生されたということは、「全ての人はイエス・キリストに従う必要がある」ということです。何故なら、イエス・キリストは王であり神ご自身だからです。ヨハネ1:1に「 」と書かれており、14節には「ことばは人となって」と書かれています。ヨハネの福音書は、イエス・キリストが神であられ、人として誕生されたことを記しています。また、コロサイ1:16やへブル1:2には、御子によって世界が造られたことが書かれています。この「御子」とは、イエス・キリストのことです。私たちが生かされている世界は、イエス・キリストによって造られたのです。聖書は、イエス・キリストが世界の支配者であられることを語っているのです。
支配者は、自分が支配している所や人を守る責任も与えられています。イエス・キリストが世界の支配者ということは、イエス・キリストがその地に生きている一人ひとりを守られることをも意味しています。イエス・キリストは、インマヌエルなる方として誕生されました。マタイ1:23に「 」と書かれています。イエス・キリストは、私たちがどのような時であれ共にいてくださる方なのです。私たちの歩みは楽しい時や感謝な時だけではなく、悲しい時や苦しい時もあります。その全ての時も共にいてくださるのです。私たちがどのような時であれ、私たちを守ってくださるのがイエス・キリストなのです。そのようなことを聞かれますと、「何故苦しい時すぐに苦しみから救ってくれないのか」と言われるかもしれません。私たちの歩みの中では、そのように思えることが多いのではないでしょうか。
では、本当に神は助けてくれていないのでしょうか。そうではありません。そのように思える中で神は助ける備えをしてくださっているのです。ただ、私たちはその神の備えを知らないだけなのです。「知らない」ということと「ない」ということは同じではありません。例えば、私たちは思いかけずクリスマスのとき人からプレゼントを貰うことがあります。そして、プレゼントをいただいてびっくりすることがあります。でも、それはただ準備されているのを自分が知らないだけで、その人は前から準備してくださっていたのです。私たちは苦しみの時に神の備えを知らないだけで、イエス・キリストは私たちのために備えをしてくださっているのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストが支配者なる方であり、私たちを守ってくださる方だからです。
2) 審き主
また王は国家や領地を治める人です。その地を治めるには秩序が必要です。ところが、秩序を乱す人が出てきます。すると、秩序を乱す人はその責任を負わされます。それが審きです。王とは審き主でもあります。マタイ24章は世の終わりについて書かれていて、25章は神の審きについて書かれています。世の終わりについて、24:36には「その日、その時がいつなのかは、誰も知りません」と書かれています。37節にはノアの洪水の日のことが語られています。大雨が突然起こったのです。また40~41節には、何気ない普段の生活が営まれている中で、突然一人は取られ一人は残されるのです。そして、42節に、「ですから、目を覚ましていなさい」と忠告されています。それは誰も知らないからです。50~51節では、「予期していない日…起きて報いが与えられる」と言って締め括られて25章に繋がるのです。24:27以降には、「人の子」ということばが繰り返し語られています。この「人の子」とは、イエス・キリストを指しています。それは、イエス・キリストが審き主でもあられることを意味しているのです。イエス・キリストは王なる方として誕生されたましたが、この世の審き主として来られたことをも意味しているのです。
3) イエスの王
王とは、支配者であり審き主でもあります。しかし、イエス・キリストは、そのような王だけではありません。身代わりとなって死なれた方でもあられます。民数記35:9以降には、逃れの町を設定することが命じられています。この「逃れの町」とは、過失によって人の命を取った人が復讐に遭って殺されないために設けられた町です。民数記35:25には、大祭司が死ぬまで留まることが書かれています。逃れの町に入って匿われている人は、大祭司が亡くなるまで町を出ることができないのです。そして、大祭司が亡くなれば町を出ることができるのです。何故なら、その人の罪が帳消しにされたことを意味するからです。何故、大祭司が亡くなれば、その人の罪が帳消しにされるのでしょうか。大祭司は、1人しかいない存在です。それはアロンの後継者で神に選ばれた人でもあります。その神に選ばれた人の命が取られるというのは、逃れの町に逃れた人の代わりの神の審きを受けたことの象徴でもあるのです。ですから、大祭司の死は逃れの町に逃れた人の身代わりの死をも表しているのです。
幾つかの国でトップの人が亡くなると「恩赦」というものがあります。日本もその1つです。天皇が亡くなると「恩赦」が出されます。全員に適用されるわけではありませんが、何人かの人が恩赦を受けられて刑が軽くなります。へブル5:8~10には、イエス・キリストも神に選ばれた大祭司であられることが書かれています。イエス・キリストの十字架による死は、イエス・キリストを信じる人たちの身代わりの死でもあります。イエス・キリストの誕生は殆どの人が知りませんでした。知らないだけでなく気にもかけなかったのです。そのことについて聖書は何と語っているでしょうか。ヨハネ1:11には「受け入れなかった」と書かれています。「受け入れなかった」とは拒否したことを意味しています。それは「私とは関係ない」ということを表してもいます。
先程話しました恩赦を受ける人は、天皇とは何の関係もありません。しかし天皇が亡くなると「恩赦」という恩恵が受けられるのです。「イエス・キリストは私とは関係がない」と思えます。しかし、ヨハネ1:12には、「イエス・キリストを信じたら神の子となる特権を持つ」と書かれています。誰にでも、神の子どもとなる特権が与えられているのです。その道が私たちの目の前にあるのです。12節の「その名を信じた人々には、神の子どもなる特権をお与えになった」と書かれています。この「その名を信じた人々には」の「人々」を自分の名前に置き換えて読んでいただきたいと思います。私の場合なら「その名を信じた松浦には、神の子どもとなる特権をお与えになった」となります。私も「イエス・キリストは私と関係がない」と思っていた一人です。でも、そのような私にも神の子どもとなる特権が与えられていたのです。イエス・キリストを信じることによって神の子どもとされたのです。イエス・キリストは、その特権をあなたに与えるためにお生まれになられたのです。
結)
今年の流行語大賞の「村上様」でした。彼は沢山の「王」を獲得しました。イエス・キリストも王として誕生されました。そのイエス・キリストの王としての誕生は、私たちに神の子となる特権を与えるためです。そして、その特権は誰にでも持つチャンスがあります。まず何よりも、私たちが神の子とされたことに感謝しましょう。そして、その特権をまだ持っていない人に、一人でも多く伝えることができるように祈っていきましょう
へブル10:5~7「クリスマスの目的」 22.12.11.
序)
あと2週間で、イエス・キリストがお生まれになられたのを祝うクリスマスです。今朝は、よく読まれるクリスマスの箇所ではありませんが、ここもイエス・キリストの誕生を表している箇所です。5節の初めに「ですから…言われました」と書かれています。この「ですから」は1~4節を受けてのことです。1~4節は、「律法を守り行うことによっては、罪を完全に取り除くことはできない」ということが書かれています。それは「何故なのか」と言いますと、律法による儀式は完全なものではないからです。ところが、神は完全な方法を取られました。それはイエス・キリストの十字架による贖いです。その目的を果たすためにイエス・キリストはお生まれになられたのです。今朝は、クリスマスの目的について共に教えられたいと願っています。
1)神の備え
今朝の箇所から教えられることの第1は神の備えです。5~6節に「あなたは…お喜びになりませんでした」と書かれています。5節の「いけにえやささげ物」と6節の「全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物」とは、イスラエルの宗教的儀式で神がイスラエルの民に求められたものです。その儀式に対して、神は求められず喜ばれなかったと書かれています。それは何故かと言いますと、形式的なものになっていたからです。アモス5:21~23には「 」と書かれています。ここには「憎み退ける」「嗅ぎたくない」「受け入れない」「目を留めない」「遠ざけよ」「聞きたくない」と、否定的なことばが繰り返し語られています。これは神が受け入れられないことの強調です。
このアモスが語った時代は何時の時代かと言いますと、1:1に「これはユダの王ウジヤ…見た幻である」と書かれています。アモスは神から召し出されて北イスラエル王国に遣わされた人です。北イスラエル王国は御存知のように偶像崇拝へと堕落し、神がイスラエルに告げられた儀式などは形式的なものになっていました。神であられる主を信じてもいなければ、感謝や悔い改めもしないで、ただ形式的に儀式を行っていることに対して、このように語られているのです。でもそれは、北イスラエル王国だけでなく南ユダ王国においても同じです。南ユダ王国はウジヤが王として君臨していました。このウジヤはⅡ歴代誌26:4を見ますと「主の目にかなうことを行った」と書かれています。すなわち、ウジヤ王は神であられる主に対して正しく応答していたのです。ところが、16節に「 」と書かれています。ウジヤ王は最初は神に従っていたのですが、自分が強くなるにつれ次第に自分勝手なことをするようになったのです。その行為が17節以降に書かれています。北イスラエル王国だけでなく、南ユダ王国も霊的に堕落していく時代だったのです。そして、後に北イスラエル王国はアッシリア帝国に、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。
そのようなイスラエルの民に対して、神はどのようなことをなされたのでしょうか。今朝の箇所の5節の最後に「わたしに…くださいました」と書かれています。この「わたし」とは、イエス・キリストのことです。さらに言いますと、ここはイエス・キリストがお生まれになられたことを表しています。この「からだを備えて」と訳されていますが、以前までの聖書は「からだを造って」と訳されていました。この「備えて」とか「造って」と訳されていることばは、「繕う」とか「直す」という修復を意味することばです。そこには何らかが崩壊していたことを表しています。すなわち、「壊れていた」とか「破れていた」とか「崩れていた」などです。その何らかの崩壊とは何かと言いますと神との関係です。その神との関係の断絶を修復するために備えられたものとして、イエス・キリストは誕生されたのです。そのような意味として、現代の訳の方が良いと思います。このことから、神は関係が断絶している人を見捨てる方ではなく、見捨てることをされず修復しようとしてくださる方であることに気づかされるのではないでしょうか。神は決してあなたを見捨てることのないお方なのです。いつでも、あなたのために備えをしてくださっているお方なのです。クリスマスを待ち望むとき、そのことを覚えたいものです。
2)神の約束の実現
次に教えられることは神の約束の実現です。7節に書かれています「わたし」とは、イエス・キリストのことです。何度も話していますが、新改訳聖書で漢字の「私」は、神以外のものを示しています。平仮名の「わたし」は、神ご自身のことを示しています。7節の「わたし」は平仮名ですから、神を示しておりイエス・キリストご自身のことを示しています。イエス・キリストは「今…来ております」と語られています。これはイエス・キリストがお生まれになられたことを意味しています。そのイエス・キリストは「今」と話されています。すなわち、神の約束・備えが実現したことを強調しています。これはへブル書の著者が、神の約束が実現したことに目を留めるように促しているようにも聞こえます。7節後半に書かれています「巻物の書」とはモーセ五書のことです。申命記18:15に「 」とモーセが語ったことが書かれています。
この申命記18:15に書かれています「私のような一人の預言者」とは、どのようなことを表しているのでしょうか。まず、「私のような」とはどういうことでしょうか。これは、「モーセの役割と同じ役割を果たす預言者」ということの意味です。モーセの役割はどのようなものだったでしょうか。彼はイスラエルの民をエジプトからカナンの地に導く役割が与えられていました。それと同時に、そのイスラエルの民と神との間に立って、神のことばをイスラエルの民に伝え、彼らが神のことばに従うように導く役割も与えられていました。それを「仲保者」と言います。イスラエルの民は、いつも神に信頼し神のことばに聞き従い続けていたわけではありません。彼らは全き信頼を神に寄せていたわけではなかったのです。何度も何度も神に不平を言って、神の懲らしめを受けていました。そのようなイスラエルの民と神との間にモーセは立って、その度に神にとりなしをした人でした。
イエス・キリストもそうです。アダムとエバは神に対して罪を犯してしまいました。それによって、人は神とのより良い関係が断絶してしまいました。それでも神は人を愛し、その人の中からアブラハムとその子孫であるイスラエルの民を選ばれました。そのイスラエルの民に律法を与えられ、その律法を守り行うことを命じられました。その律法の中には、神に過ちを犯したときは罪の献げ物をすることによって赦されることが書かれています。そのため、人は何度も何度も献げ物をしなければなりませんでした。もう献げなくても良い完全な赦しはなかったのです。そのためイエス・キリストがこの世に誕生されたのです。それはもう献げ物を繰り返す必要のない完全な赦しを人が得るためです。それはどのような方法かと言いますと、神であられるイエス・キリストが人としてこの世に来られ、その人として神の審きを受けるというものです。それがイエス・キリストの十字架です。このイエス・キリストの十字架は、完全なる神との関係が修復されたことを表しているのです。まさしく神の約束の実現です。
3)イエスの誕生の目的
最後に教えられるのは、イエス・キリストがお生まれになられた目的です。7節の最後に「神よ…行うために」と書かれています。イエス・キリストがお生まれになられた目的は神の御心を行うためです。では、その神の御心とはどのようなものでしょうか。マルコ1:15に、イエス・キリストは公生涯を始められるとき、「悔い改めて福音を信じなさい」と話されました。悔い改めに福音を信じることが神の御心なのです。では、「悔い改めて福音を信じる」とは、どういうことなのでしょうか。何を悔い改めるのかと言いますと、今までの自分の行いを悔い改めるのです。
神はご自分に罪を犯した人間を拒絶されたのではなく、そのような私たちを愛し支え続けてくださっています。ところが、私たちはそのような方を神と認めず、神に背を向けて自分勝手な歩みをしていたのではないでしょうか。何度も話していますが、多くの方は「神に対して罪を犯している」ということを聞かれますと、「私は罪など犯していない」と言われます。ですが、聖書の語る罪は法律的な罪ではありません。行いが間違っていることです。例えば、健全な親は自分の子どもを愛し育てています。その親に愛され育てられた子どもが、自分の親に対して「あなたは私の親ではない」と言い、親を無視し自分勝手な歩みをしていたらどうでしょうか。親は裁判所に訴えても、その子どもが法律に反していないなら「有罪」とすることはできません。しかし、その子どもの行為は間違っています。それが聖書の語る罪なのです。今の自分を愛し支え続けてくださっている神に背を向けて、自分勝手な歩みをしていたことを認め立ち返ることが聖書の語る悔い改めなのです。
自分の罪を悔い改めることは大切なことですが、もう一つ大切なことがあります。それは「福音を信じる」ことです。では、「福音を信じる」とはどういうことでしょうか。人は神に罪を犯したことによって、神とのより良い関係は断絶してしまいました。その断絶を修復する必要があります。それは自分が犯した罪を償うことです。ところが、人は神に対して罪を犯していますから、罪を犯している自分自身が神に償うことはできません。それには罪のない人間が代わりに負わなければならないのです。しかし、罪のない人間は一人もいません。そのために、罪のない神が人としてお生まれになられたのがイエス・キリストなのです。そのイエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださったのです。「そのイエス・キリストの十字架を信じるならその人の罪を赦す」と神は約束してくださったのです。それが福音なのです。ですから、「福音を信じる」というのは神の約束を信じることなのです。
ですが、それで終わるわけではありません。7節の最後に「神よ、あなたの御心を行うために」と書かれています。この「あなたの御心を行う」とは、イエス・キリストが十字架に架かられることだけではありません。それと同時に、神は人に神を礼拝することを願っておられます。これも神の御心です。すなわち、人が神を礼拝し続ける者となることが、イエス・キリストがお生まれになられた目的なのです。私たちがこの場所で神を礼拝し続けるのは、このような私を見捨てることをされず、愛し支え導いてくださっていることに感謝を見える形として表すものだからです。今はアドベントのときですから、クリスマスに関連した箇所からのメッセージをしていますが、それまではヤコブの手紙から学んでいます。ヤコブ書には「行いが伴わない信仰は死んだものだ」と語っています。愛もそうです。「あなたを愛している」と言いつつも、その人の行いを通してその愛を表さないなら相手に伝わることはありません。感謝も同じです。心の中だけでなく、行いを通して表すことが大切です。それが礼拝なのです。イエス・キリストがお生まれになられた目的は、神の愛を知った私たちが神を礼拝し続けるためです。
結)
あと2週間で、イエス・キリストがお生まれになられたのをお祝いするクリスマスです。クリスマスは、神の愛を見える形として表されたものです。私たち一人ひとりは神に愛されている存在です。そのことに感謝しつつ、その感謝を礼拝という見える形で表し続ける者として歩み続けられるように祈っていきましょう。
イザヤ7:10~14「しるしを求めよ」 22.12.04.
序)
今朝の箇所の14節は、御使いがヨセフにマリアを妻として迎えることを告げたとき、著者マタイが引用した箇所です。そして、ずっとクリスマスの時にはこの箇所が朗読されます。ところが、この箇所は預言者イザヤと南ユダ王国の王であるアハズとの会話であることが分かります。今朝は、クリスマスのしるしについて共に教えられたいと願います。
1)背景
まず、このような会話に至った背景を見てみたいと思います。アハズ王とはどのような王だったでしょうか。北イスラエル王国の王は全員神に逆らう王たちでした。ところが、南ユダ王国の王は神に逆らう王もいましたが、神に従う王もいました。では、アハズ王はどちらの王だったでしょうか。アハズ王については、Ⅱ列王記16章とⅡ歴代誌28章に書かれています。Ⅱ列王記16:2~4に「 」と書かれていますから、アハズ王は神に逆らう王であったことが分かります。5節に「 」と書かれています。当時、アッシリア帝国がカナン地方に勢力を伸ばしてきたため、アラムは北イスラエルと南ユダの三国連盟を築いて対抗しようとしました。ところが、南ユダのアハズは拒否をしたのです。そのため、アラムと北イスラエルから南ユダは包囲されてしまいます。それが5節のことです。
5節の初めの「そのころ」の所に①という数字が書かれています。欄外を見ますと、「イザヤ7:1」と書かれています。これは今朝の箇所の時のことです。ですからイザヤ7章は、そのようなときに預言者イザヤが南ユダ王国のアハズ王に対して語ったものであることが分かります。この時のアハズ王の心境はどのようなものだったでしょうか。2節の後半に「王の心も…揺らいだ」と書かれています。不安で不安で「藁をも掴みたい」という心境であったことが伝わってきます。そのようなとき、神はイザヤに「アハズに会いに行き神のことばを伝えよ」命じられました。それが4~9節に書かれていることです。それは「あなたが恐れることは起こらない」ということです。
そして、11節で「あなたの神、主に、しるしを求めよ」と語られたのです。すると、アハズ王は「私は求めません。主を試みません」と答えたことが12節に書かれています。皆さんは、このアハズ王の返事をどのように捉えられるでしょうか。「神を試みることは良くないことだ」と思われるでしょうか。確かに、申命記6:16に「あなたがたの神である主を試みてはならない」と書かれています。ここだけを読みますと、アハズ王の返事はとても信仰的な返事のようにも聞こえます。ですが、そうではなく不信仰な返事なのです。何度も話していますが、文脈を無視しての聖書理解は大きな過ちを犯してしまいます。「どのような流れで語られているのか」をきちんと読み取ることが大切です。そうしないと「思い込み」で聖書を理解してしまいます。これは大きな危険です。
2)しるしとは
次に、しるしについて見てみたいと思います。神はアハズ王に「しるしを求めよ」と語られました。では、「しるし」とは何でしょうか。分かりやすく言えば「奇蹟」と言えるでしょう。神の奇蹟を求める。このことについて皆さんはどのように思われるでしょうか。「神の奇蹟を求めるなんて聖書的ではない」と思われるでしょうか。「奇蹟が起きるのは昔のことであって、現代は奇蹟など起こらない」と思われるでしょうか。私たち福音派は、「奇蹟」ということばをあまり使いません。「奇蹟」ということばを使い過ぎますと、「カリスマ派」と言われる立場の団体を思われてしまうからです。ですが、「神の奇蹟」を否定しているわけでもありません。「奇蹟が起きたのは昔のこと」と思われる方もおられるかもしれませんが、神は永遠なるお方なのです。ですから、神からすれば昔も今も関係ないのです。神は今の時代も奇蹟を起こすことのできるお方なのです。私たちは病気をしたとき癒されることを祈ります。よく耳にするのが、「雨の日に野外で集会するとき雨が止むのを祈ったら、そのときだけ雨が止んだ」という話を聞きます。私たちは、それを「神の奇蹟」と捉えたりします。ある方から言えば「偶々だ」と言われるでしょう。ですが、私たちが信じている神は、その偶々を用いることのできるお方なのです。確かに、奇蹟を強調し過ぎるのは良くないかもしれませんが、奇蹟を否定することも間違いです。
奇蹟は科学的には証明できないものです。しかし、聖書には神が奇蹟を起こされたことが多く記されています。例えば、モーセの時代に葦の海を分けてイスラエルの民を渡らせたこと、ヨシュアの時代にはヨルダン川渡河を分けてイスラエルの民をカナンの地に導き入れられたこと、さらにダビデの時代ではペリシテ人との戦いのとき神はダビデ軍より先にペリシテ人を討たれました。さらにエリシャの時代にはアラム軍に囲まれたとき、神の軍勢がアラム軍を取り囲み討たれました。そのような神の奇蹟が多く書かれています。特に、ギデオンの祈りに注目させられます。神がギデオンをさばきつかさとして召されたとき、自分が確信できるためにも「神に一匹の羊の皮を置くので、羊の毛だけに露が降りるようにしてほしい」とギデオンは祈りました。するとそのようになりましたが、さらにギデオンは「今度は回りの土全体に露がおり、羊の毛だけは渇いているようにしてほしい」と祈りましたらそのようになりました。これは神を試みることであり、しるしを求めるものです。このギデオンの祈りが正しいかどうかは議論の余地があります。
聖書には「神を試みてはならない」と書かれているのと同時に、「しるしを求めよ」とも書かれています。「どちらが正しいのか」と尋ねられますと何とも答えられません。「逃げ答え」と思われるかもしれませんが「ケースバイケース」としか答えられません。ギデオンの祈りが正しいのか間違いなのかは何とも言えません。ただ、ギデオンは神の御心を知ったとき従ったのです。大切なのは、しるしを求めた後のことではないでしょうか。ヨナは神の御心を知っていたのに、従うことをしないでタルシシュに行きました。そのため大きな魚に呑み込まれることとなりました。しるしを求めるのが良いのか良くないのかよりも、「神の御心を知った後どうであるか」の方が大切なのではないでしょうか。「神の御心を知ったあと従えますように」と祈る者でありたいです。
3)神の備え
最後に神の備えについて見てみたいと思います。神はアハズ王に「しるしを求めよ」と告げられました。そのアハズ王は、主の目にかなうことを行わない王でした。そのような人に対しても、神は最善の方法をとって導いてくださる方であることが分かります。ルカ18:1~8に、イエス・キリストが不正の裁判官の譬え話をされたことが書かれています。この不正な裁判官は、ひっきりなしにやってくるやもめがうるさいので仕方なく裁判をすることを決断しました。そして7節に「まして神は」と話されていることが書かれています。ここでイエス・キリストが強調されているのは、「不正な裁判官でさえ、ひっきりなしにやって来るやもめに対して裁判を開くなら、正しい神は信じる者のために放っておかれることはない」ということです。
その神がアハズ王にことばをかけられたことを通して、私たちは神の目にかなうことを行わない人に対しても、神は目を留められことばをかけられる方であるということです。いや、目を留めことばをかけられるだけでなく、最善の方法を備えておられる方であることを知らされます。そのため、神はアハズ王に「しるしを求めよ」と語られたのです。この「しるしを求めよ」ということばは、「神の約束を信じろ」ということでもあります。すなわち、アハズ王に対して「今までの自分の過ちを認め悔い改めて神に立ち返れ」と勧めておられるのです。そのことに対して、アハズ王は「私は求めません。主を試みません」と答えたのです。すなわち、「神に立ち返ることはしない」と自分の罪を認め悔い改めることを拒否したのです。ですから、12節のアハズ王のことばは決して信仰的な返事ではなく不信仰な行為なのです。
そのアハズ王の返事に対して、イザヤは何と答えたでしょうか。13~14節に「 」と書かれています。これは「あなたは神を煩わす者であるが、それでも神は一つのしるしを与えられる」ということです。すなわち、「信じない者のために神の備えのしるしを与える」ということです。そのしるしとは、「処女が身ごもり男の子を産む」というものです。その出来事が「神が共におられる」というしるしでもあるのです。アハズ王は自分の罪を認めず悔い改めようとはしませんでした。そのような人たちのためにも、神は悔い改めるチャンスを備えてくださったのです。罪の赦しの方法を取ってくださったのです。まさしく、私たちが信じる神は赦しの神であられます。具体的には、処女マリアから生まれたイエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとなって私たちの罪を背負って十字架に架かり、神の審きを受けてくださったことです。それによって、人は誰でも自分の罪を認め悔い改めてイエス・キリストの十字架を信じることによって、自分の罪が赦され神の審きから救われるのです。まさしく、イエス・キリストの誕生は「神が共におられる」というインマヌエルのしるしです。
結)
イエス・キリストは、処女マリアからお生まれになられました。それは「神が私と共におられる」というしるしです。神であられる主を拒み続けたアハズ王に対しても、そこまで神は備えておられるのであれば、神を信じる私たちを決して放っておかれることはありません。イエス・キリストの誕生は、そのことのしるしでもあります。主はどのような人に対しても、最善の備えをしてくださる真の神です。そのことを覚えつつ、今週も共に歩まされていきましょう
ミカ5:2「小さな私への神の備え」 22.11.27.
序)
今日からクリスマスを迎え備えるアドベントに入りました。イエス・キリストが誕生された町の名はベツレヘムです。今朝の箇所で、神は「ベツレヘム・エフラテよ」と呼びかけておられます。何故「ベツレヘム・エフラテ」と呼ばれているのかと言いますと、ベツレヘムという町はもう一つあるからです。ヨシュア記19:15に「ベツレヘム」と書かれています。このベツレヘムは、イエス・キリストが誕生されたベツレヘムの町ではありません。何故なら、10~16節はゼブルン部族の相続地が記されている箇所だからです。ゼブルン部族の相続地は何処でしょうか。聖書の後ろの地図④には12部族の割り当て地が書かれています。ゼブルン部族はガリラヤ湖の西側のナフタリ部族とアシェル部族の間が割り当てられました。太文字のゼブルンの「ゼ」辺りがヨシュア記19:15に書かれているベツレヘムと考えられているようです。この町と区別するために「ベツレヘム・エフラテ」と書かれているのです。イエス・キリストはゼブルン部族のベツレヘムの町ではなく、ユダ部族のベツレヘムの町でお生まれになられたのです。今朝は、このベツレヘム・エフラテへの神の呼びかけから、共に教えられたいと願っています。
1)現実
まず教えられることは現実に目を向けるということです。神はベツレヘムの町に対して、「あなたは…あまりにも小さい」と言われています。ただ「小さい」と言われたのではなく、「あまりにも小さい」と言われているのです。「あまりにも小さい」とは、「特別に小さい」ということでもあります。ベツレヘムの面積を調べましたら約10㎢で、春日井市の約9分の1の広さであり、愛知県で言えば岩倉市と同じ程の面積です。では、岩倉市は全国で何番目かを調べました。全国市町村は1741あり、岩倉市は1686番目でした。ですから、「あまりにも小さい町」と言うことができるでしょう。因みに春日井市は1012番目でした。話しが反れてしまいましたが、イスラエルの中でもベツレヘムは「特別に小さな町」と言うことができます。また「あまりにも小さい」とは、「居ても居なくても分からない」とか「してもしなくても変わらない」という程のものです。ですが、神はその現実に目を向けさせているのです。
ともすると、私たちは「こんな小さな者が」とか「こんな小さなことを」と思いやすくなります。ですが、ここで注目したいのは「あまりにも小さいからダメだ」と神は一言も語られていないということです。「あまりにも小さいこと」と「ダメなこと」とは違うのです。先日、礼拝後の分かち合いのときにU姉の証しを通して大きな励ましを受けました。それは施設で働いておられるときのことです。入居されている方の多くは認知症であられ、人の名前も覚えられないような方が多いとのことです。食事の配膳の時に、入居者の方の名前を読んで「〇〇さん食事ですよ」と配膳されるらしいのです。ある日、入居者の方がU姉の名前を呼んで「〇〇さん」と声をかけられたらしいのです。U姉は「自分の名前を覚えてくれていることに感激された」とのことです。入居者の名前を読んでの配膳はとても小さなことです。してもしなくても変わらないようなことかもしれません。しかし、その繰り返しが用いられることを改めて知らされたことに大きな励ましを私は受けたのです。ある方は「入居者の名前を呼んでそのようになったのかどうかは分からない」と言われるかもしれません。確かにそうです。根拠はありませんが、私はその証しを通して大きな励ましを受けたのです。あまりにも小さなことかもしれませんが、神はそれを豊かに用いることのできるお方であることを覚えたいのです。毎月の福音版の配布もそうではないでしょうか。「こんなことで」と思えてしまうことがないわけではありません。しかし、神はそれを豊かに用いられる方であることを覚えたいものです。
2)神の約束
次に教えられるのは神の約束です。神はベツレヘムの町に対して、「あまりにも小さい」と語られました。しかし、その後で「だが」と語られてもいます。この「だが」ということばに注目したいのです。現実を見据えるのは大切なことです。ですが、現実だけを見据えていても良くありません。現実を見据えつつ将来をも見据えることが大切です。その将来とは神の約束です。ベツレヘムの町はとても小さな町です。そのベツレヘムの町に対して「あまりにも小さい」と語られつつ、神は「そのベツレヘムの町からイスラエルを治める者が出る」と約束されているのです。
私たちは「大きいか小さいか」、或いは「できるかできないか」ということに目を向けてしまいやすいです。クリスマスのときに読まれますイザヤ9:7の最後に「万軍の主の主熱心がこれを成し遂げる」と書かれています。この6~7節も神の約束です。その約束について聖書は、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」と語っているのです。人が行うのではなく神が行われるのです。しかも、「主の熱心が」なのです。神が熱心にご自分の約束に対して行ってくださるのです。私たちは自分自身の現実を見つめて、「こんな私に何ができるのか」と思ってしまいやすくなります。ですが、私たちが結果を出すのではありません。神が結果を出してくださるのです。神が熱心に行ってくださるのです。私たちにとって大切なのは、目の前の事柄に対して忠実に果たして行くことなのです。神は結果に対して何も問われていないのです。何故なら、結果は神にあるからです。
私たちにとって大切なのは、神の約束に対してどうであるかです。すなわち、目の前の事柄にどのように取り組むかです。「聖書はこのように語っているけれども」と言って、目の前の事柄をいい加減にしてしまうのか。それとも、「聖書はこのように約束しているから」として、目の前の事柄を忠実に果たしていくかです。神は「あなたからわたしのために」と約束されているのです。この「あなたから」とは、どのようなあなたなのでしょうか。それは「あまりにも小さい」あなたなのです。この「あなたから」とは、「あまりにも小さいあなたを用いる」ということでもあります。世界で初めのクリスマスは、世界から見ればあまりにも小さな出来事でした。「世界で初めのクリスマス」という歌の歌詞の最後の方に、「世界で初めのクリスマスは小さな小さなクリスマス」とあります。ベツレヘムの町はヨセフとマリアが泊まることができないほど、大勢の人で賑わっていました。しかし、イエス・キリストがお生まれになられたのを知ったのは、ヨセフとマリアと羊飼いたちだけでした。ひょっとしたら、家畜小屋を提供した主人家族も知っていたかもしれませんが、ベツレヘムの町にいた大勢の人たちは知らなかったのです。ある方は「博士たちは」と思われるかもしれませんが、博士たちはイエス・キリストが誕生されて後のことです。それほど小さなことでしたが、今では多くの人に知られています。これが神の約束なのです。
3)神の計画・摂理
最後に教えられるのは、神の計画と摂理です。2節の最後に「その出現は…定まっている」と書かれています。「定まっている」ということは、もうすでに神は計画を立てられているということです。神は計画を立てられているだけでなく、もうすでにその計画を実行されているということでもあります。ですが、「実行されている」というのは「実現している」ということではありません。何度も語っていますが、伝道者の書3:11に「神のなさることは…美しい」と書かれています。この「美しい」とは、タイミングを表しています。「神がなさることは、最善の時に最善の方法をもって事を行われる」ということです。だから美しいのです。神は私たちが気づいていないところで事を行っておられるのです。そして、丁度良い時に実現させてくださるのです。そのとき、多くの人は「偶々そうなったのだ」と思われたり言われたりされます。ですが、その「偶々」と思える所に神は働いてくださるのです。そこに目を留められるかどうかです。
また、「定まっている」というのは、「時が満ちる」ということでもあります。イエス・キリストは福音宣教を始められるとき、「時が満ち、神の国は近づいた」と話されました。以前にも話しましたが、イエス・キリストが福音宣教を始められるとき、ローマ帝国によって道は整えられましたし、当時の文化が用いられました。また、宗教改革の時もそうでした。活版印刷やルネサンスなどの文化が用いられました。先程も話しましたように、多くの人は「偶々」と思われることでしょう。しかし、その「偶々」と思える所に神は働いてくださるのです。それはイエス・キリストの誕生のときも同じです。ガラテヤ4:4に「 」と書かれています。聖書はイエス・キリストの誕生を「時が満ちて」と語っています。全ては神が計画され、神が備えられ、神が実行されたのです。
その神の計画と備えと実行は、過去のことだけではありません。私たち一人ひとりの歩みにおいても同じです。以前にも話しましたが、私たちの歩みの中には「何故」とか「どうして」という事柄に遭遇します。そのように思えてしまうのは仕方のないことです。ですが、あまりにも小さい町のベツレヘムに対しても、神は計画し備え実行されることが告げられていることを見るとき、「あまりにも小さい私のためにも神は計画し備え実行してくださる」ということに気づかされるのではないでしょうか。そして、その所に目を留めることの大切さを教えられます。
結)
今日からクリスマスを迎え備えるアドベントに入りました。イエス・キリストの誕生は、あまりにも小さい私への神の備えであることを知らされます。そして、あまりにも小さい私に目を留めてくださっている神の恵みの中に、私たち一人ひとりは生かされているのです。そのことを覚えつつ、クリスマスに備えていきたく願わされます。
ヤコブ1:19~21「神の栄光を現すために」 22.11.20.
序)
私はよく誤解されることがあります。それは顔のことです。黙っていますと「怖い」と言われたりします。それで笑顔を作りますと「何にやついてるんや」と言われたりもしました。どちらにしろマイナスなのです。昔は家族からも「何怒ってるの?」と聞かれたりもしました。御存知のように私は短気です。すぐに怒ってしまいます。19節に「怒るのに遅くありなさい」と書かれています。私に必要なものの一つだと思わされています。20節に「怒りは神の義を実現しないのです」と書かれています。ここで語られています「神の義」とは、「神のすばらしさ」のことであり、怒りは神のすばらしさを現せないのです。では、神のすばらしさを現すにはどうすれば良いのでしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。
1)自分の務めを知ること
神のすばらしさを現す第1は、自分の務めを知ることです。19節の前半に「私の愛する…わきまえていなさい」と書かれています。「わきまえる」とは、「区別する」という意味を持っています。例えば、「場所をわきまえる」というのがそうです。「ふざけて良い所なのか」「ふざけてはいけない所なのか」を区別する。ここには「区別することができる」という前提があります。小さな子どもに「場所を弁えなさい」とは言いません。まず、「こういう所ではふざけてはいけない」というのを教えます。そのようなことが何度か繰り返されて人は覚えます。ですから、「わきまえなさい」と書かれているということは、そのようなことを何度も教えられてきたことを意味していることばでもあります。では、「このこと」とは何でしょうか。それは、その後に書かれています「人は誰でも…実現しないのです」ということです。先週の礼拝で話しましたが、私たちが被造物の初穂とされたのは神のすばらしさを現すためです。イエス・キリストと個人的に出会っていない人が、私たちの生き方を通して神のすばらしさを知り、イエス・キリストと個人的な出会いをする。私たちには、その務めが与えられています。自分の務めを知るのは大切なことです。
続けてヤコブは、「人はだれでも…遅くありなさい」と語っています。「聞く」というのは、第3者から自分の中に入るものです。そして、この手紙がキリスト者に宛てて書かれているのを考えますと、この「聞く」とは神のみことばに聞くことを指していると考えられます。ヤコブは「聞くのに早く」と語っています。「聞くのに早く」ということばは、あまり耳にしないことばです。ネットで調べてみますとヤコブ書からしか出てきません。ですから、「聞くのに早く」ということばはキリスト教独特のことばのようでもあります。では、「聞くのに早くとはどういう意味か」と言いますと、22節以降に書かれていることです。すなわち、「みことばを行う」ということです。ただ聞くだけでなくて、聞いたことを実践するようにと勧めているのです。ヤコブ1:1のとき、「ヤコブ書は行いが強調されている」と話しました。2:17に「 」と書かれています。ヤコブは「行いが伴わない信仰は死んでいる信仰のようなものだ」と語っているのです。聖書は死んだ信仰ではなく、生きた信仰を勧めているのです。そして、生きた信仰とはみことばを実践する生き方です。
また、「語る」とか「怒る」というのは、自分の中から出てくるものです。これは、よく考えずに反応してしまうことを指しています。「口は災いの元」と言いますが、口から出てしまってからは遅いのです。感情的になって行動してしまいますと大きな過ちを犯してしまいやすくなります。その一番良い例がアダムとエバです。創世記3:6を見ますと、エバは蛇のことばに惑わされて感情的なものを優先させてしまったのです。ここで踏みとどまって「みことばは何と語っているか」を思い起こせば良かったのです。でも、思い起こすことをしなかったがために罪を犯してしまったのです。ただ、語ることや怒ることを禁じてはいません。「遅くあるように」と語っているのです。みことばに反したことに対してまで、語ったり怒ったりするのを禁じてはいないのです。
20節に書かれています「人の怒り」という多くは、その人の感情的なものから生じます。感情的なものに振り回されますと、神のすばらしさを現すことができなくなってしまいます。私たちキリスト者の務めは、神のすばらしさを現すことです。すぐに感情的になってしまいやすい私たちですが、そのことを肝に銘じておきたいものです。自分の務めを知り果たし続けられるように祈っていきましょう。
2)自分の必要を知ること
神のすばらしさを現す第2は、自分の必要を知ることです。では、私たちに必要なものは何でしょうか。21節には2つのことが勧められています。その1つは、全ての汚れやあふれる悪を捨て去ることです。これはどういうことでしょうか。簡単に言えば「品行方正な生活をしなさい」ということでしょうか。ですが、私たちはいつも品行方正な生活ができるわけではありません。この「捨て去る」の所に①と書かれています。欄外を見ますとエペソ4:22が書かれています。エペソ4:22には「脱ぎ捨てる」と訳されています。どちらも同じことばです。ですから、「全ての汚れや悪を捨て去る」というのは、イエス・キリストを信じる前の古い自分を脱ぎ捨てることなのです。要は、「イエス・キリストを信じる前の生き方をしない」ということです。イエス・キリストを信じる前までの私たちはどのような生き方をしていたでしょうか。自分の思いや考えを基準として生きていたのではないでしょうか。その生き方を捨て去る・脱ぎ捨てることが、「全ての汚れやあふれる悪を捨て去る」ということです。すなわち、神のことばを基準として生きることが神のすばらしさを現す生き方なのです。
もう1つは、みことばを素直に受け入れることです。みことばを素直に受け入れるというのは、私たちにとって苦手なことでもあります。みことばが語っていることは分かりますが、それを実行できないのが私たちでもあります。実行できないというのは「受け入れられない」ということでもあります。では、何故受け入れられないのでしょうか。そこには、私たちの中に打算的なものや不安・恐れというものがあるからです。マルコ10:14~15に、イエス・キリストが「子どもたちを…入ることはできません」と話されたことが書かれています。この「子どものように」というのは、素直に信じて受け入れることを表しています。
ここで語られています「子ども」というのは、赤ちゃんなどの乳児を意味しています。乳児に「静かにしなさい」という親は少ないと思います。何故なら、言っても理解できないからです。普通は泣いたら抱きかかえて泣き止まそうとするだけだと思います。このような小さな子どもは、自分では何もできず親に全てを明け渡しています。ところが、人は成長するにつれ自分でできるようになります。すると、今までは親に明け渡していましたが、自分で何でもしようとしてしまいます。「自立」という面においては大切なことですが、霊的な面においては必ずしもそうではありません。「神に明け渡す」ということが大切です。それは「神に委ねる」ということでもあります。先程話しました「自分の思いや考えを捨て去る生き方」・「みことばを素直に受け入れる生き方」は、神に明け渡す生き方・神に委ねる生き方でもあります。私たちに必要なことは結果を神に明け渡し委ねる生き方です。
マルコ10:15の「子どものように」のことばに①という数字が書かれています。欄外を見ますと、「マタイ18:3」と記されています。マタイ18:3には「向きを変えて…天の御国に入れません」と、イエス・キリストが話されたことが書かれています。「向きを変える」とは「考え方を変える」ということです。この箇所は、弟子たちの「天の御国では誰が一番偉いのか」という質問からのものです。弟子たちの中に「偉い人とはこのような人だ」という思いや考えがありました。その思いや考えの向きを変えることをイエス・キリストは勧められているのです。私たちは自分の思いや考えを持っています。それはそれで大切なことです。ですが、それを堅く握りしめるのは間違っているのです。大切なのは、気づかされたときにそれらを手放すことです。それが神に明け渡すことであり神に委ねることです。私たちに必要なものは、気づかされたとき手放して神に明け渡して委ねる決断です。
3)みことばの力を信じること
神のすばらしさを現す第3は、みことばの力を信じることです。今朝の箇所の21節の最後に「みことばは…救うことができます」と書かれています。ローマ1:16には「福音は…神の力です」と書かれています。ここでは「イエス・キリストを信じる全ての人に救いをもたらす神の力である」と語られています。ですから、どのような人であれイエス・キリストを信じるなら、神は必ずその人の罪を赦し神の審きから救われるのです。何故なら、それが神の約束だからです。だから、パウロは「私は福音を恥としない」と語っており、この手紙を受け取っている人たちにも福音を恥としないようにと勧めているのです。
しかし、今朝の箇所で語られています「救い」はそうではありません。ヤコブは「あなたがたの魂を救うことができます」と語っています。この「あなたがた」とは誰のことでしょうか。それは、この手紙を受け取っている人たちです。この手紙の受取人は、1節に「離散している12部族に挨拶を送ります」と書かれています。1:1のときに、「12部族はイスラエル人を表しているが、実質のイスラエル人ではなく霊的イスラエル人のことでキリスト者である」と話しました。すなわち、この「あなたがた」とはイエス・キリストを信じている人たちのことです。ですから、神の審きからの救いはすでに受けているのです。それなのに、「あなたがたの魂を救うことができる」と語っているのです。そのようなことから、今朝の箇所に書かれています「救い」は、神の審きからの救いではないことが分かります。では、何からの救いなのでしょうか。
パウロはⅠコリント3:6~7で「 」と語っています。ここでパウロが強調しているのは、福音を伝えた人ではなく成長させてくださる神です。確かに、みことばを伝えるのは人です。しかし、伝えられた人へのみことばの働きは神によるものです。バプテスマクラスや入会クラスで学ばれたことと思いますが、救いには3つあります。1つは、イエス・キリストを信じて新しく生まれ変えられるという新生です。もう1つは、イエス・キリストを信じたあと日々成長する聖化です。最後は、この世を全うし天の御国に入る栄化です。今朝の箇所で語られている「救い」は聖化や栄化のことです。すなわち、みことばは人をイエス・キリストを信じるように導くだけでなく、信じた人を成長させ天の御国に導く神の力でもあるのです。そのみことばの力を信じる生き方が神のすばらしさを現すことができるのです。
結)
詩篇1:1~3に「 」と書かれています。2節の「主の教え」とは、神のみことばのことです。「日々神のみことばに耳を傾ける人は、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び栄える」と書かれています。気づかない内に、みことばの力が私たちの中で働き成長させてくださることが約束されています。詩篇119:50に「 」と書かれています。まさしく、みことばは力のあるものです。そのみことばに従いつつ、神のすばらしさを現す者として歩み続けられるように祈っていきましょう。
ヤコ1:16~18「だまされないように」 22.11.13.
序)
今日は礼拝の後、児童祝福式が執り行われます。この児童祝福式は聖書に書かれているわけではありません。日本の風習の一つである七五三をキリスト教的にしているものです。ですから、ある教会は11月ではなく3月に行っている所もあります。入園・入学する子どもに限定して、これからの歩みが祝されることを願ってしている教会もあります。さて、今朝の箇所の16節には「 」と書かれています。この「思い違い」と訳されていることばは、「正しい道から横道に導く」という意味をもったことばです。ですから、以前の聖書では「騙されないように」と訳されています。私としては、以前の訳の方がすっきりしています。ですから、タイトルを「だまされないように」としました。今朝は、私たちが騙されないようにするために大切なことを共に教えられたいと願っています。
1)神が与えてくださるものは全て良いもの
騙されないようにするために大切なことの第1は、神が与えてくださるものは全て良いものであると覚えることです。ヤコブは17節の前半で「すべての良い贈り物…父から下って来るのです」と語っています。ここに「父」と書かれています。これは、自分が子とされていることを意味しています。ですから、私たちの祈りの初めにも「父なる神様」と祈っているのです。それは「私は神の子どもである」ということを表してもいるのです。「父」ということばから、どのようなことを連想されるでしょうか。一人ひとり違うと思います。「優しい」と思う人もおられれば、「怖い」と思われる方もおられるでしょう。また、「自分勝手な人」と思われる方もおられれば、「面白い人」と思われる方もおられるでしょう。ですが、聖書が語る「父」というのは、大きく3つのことを表しています。
1つは「絶対的な存在者である」ということです。すなわち、父は権威のある方であり、自分はその父に従う存在であるということです。もう1つは、愛し守ってくださる存在を意味しています。聖書が語る「父」とは、絶対的な権威を振るうだけでなく、その家族を愛し守る責任があるのです。それは家族が平安の中に歩み続けるためです。そして最後は、信頼できる存在であることを表しています。何かがあったとき、すぐに助けを求めることのできる存在を表しています。そこには、父と子の中に深い信頼関係があります。聖書が語っている「父」とは、そのようなことを意味しているのです。そして、私たちが信じている神もそのようなお方なのです。
神は私たちにとって絶対的な権威を持っておられる方であり、私たちを愛し守ってくださる方であり、心から信頼できる方なのです。そのような方が、私たちに悪いものを与えられることはなさいません。ですから、誘惑を与えられるような方ではないのです。神が私たちに与えてくださるものは、全て良いものであり完全なものなのです。そこに目を留めることが大切なのです。ですから、「試練」というのは私たちを成長させるために神が与えてくださるものなのです。伝道者の書3:1~11には「時」について書かれています。1節に「すべてのことには定まった時期があり」と書かれています。そして、11節には「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と書かれています。神がなされることは、全て最善の時に最善のことをしてくださるというのを表しています。そのような意味で完全なのです。ですから、「神が与えてくださるものは全て良いものである」と覚えることは、私たちが健全な信仰を歩むにおいて大切なことなのです。
2)神の約束は決して変わらない
騙されないようにするために大切なことの第2は、神の約束は決して変わらないと覚えることです。ヤコブ1:17の後半に「父には…ありません」と書かれています。詩篇19:1に「 」と書かれています。私たちが生かされています世界には「法則」があります。その法則は決して変わることがありません。例えば、決まった時間に太陽は上り沈みます。何故変わることがないのでしょうか。それは、世界を造られた神が変わることのない方だからです。
エレミヤ33:25~26に「 」と書かれています。これは「もし神が定められた法則が変わることがあれば、神の約束も変わる」ということです。しかし、この世界の法則は決して変わりません。何故なら、神は移り変わられることのない方だからです。エレミヤ33:26の後半には「しかし…彼らを憐れむ」と書かれています。これは、神は約束を変えることなく守り導いてくださることを示しています。この「しかし、わたしは」ということばを心に刻むのは大切なことです。私たちは様々な苦難の道を歩まされます。そのようなとき「何故」とか「どうして」と思ってしまいます。そのようなとき、この「しかし、わたしは」ということばを思い出したいものです。どのようなことがあっても、神の約束は決して変わることがなく、「全てのことが共に働いて益となる」という神の約束に目を留めることは大切です。
神はそのような方ですから、決して私たちを信仰の道から反らせてしまう誘惑を与えられることはなさいません。信仰の道から反れてしまうのは私たちの決断によるものなのです。先週の礼拝で見ましたが、アダムとエバは神との約束を破り神の道から反れてしまいました。そのときアダムは「あなたが与えてくださったこの女が」と神の責任にしました。そして、エバも「蛇が私を惑わした」と蛇の責任にしました。ですが、どちらも自分で決断し実行したのです。神は決して私たちを誘惑なさる方ではありません。神は私たちを成長させるために試練を与えられるのです。その試練を神の道から反らしてしまう誘惑としてしまうのは私たちの決断なのです。「神は私たちに良いものを与えてくださる」という約束は決して変わることはないのです。
3)新しく生まれ変えられた
騙されないようにするために大切なことの第3は、自分が新しく生まれ変えられたのを覚えることです。18節に「 」と書かれています。この父なる神が、私たちを真理のことばをもって生んでくださったのです。これは「私たちを新しく生まれ変えてくださった」ということです。イエス・キリストは、ヨハネ3:3で「まことに、まことに…見ることはできません」とニコデモに話されました。そして、5~6節を見ますと、人が新しく生まれ変えられるのは、御霊なる神の働きによってであることが分かります。新しく生まれ変わるということは、価値観が変わることでもあります。それは、イエス・キリストを信じる前までは第1となっていたものが、第1ではなくなるということです。自分にとって第1となるものが神になったということです。では、何故神が第1となったのでしょうか。それは、神が与えてくださるものは全て良いものであり、神の約束は決して変わることがないのを知ったからです。それほど、自分は神に愛されているのを知ったからです。
今日は、礼拝後に児童祝福式が執り行われます。小さな子どもに「誰が一番好きか」と尋ねますと、殆どが「お母さん」とか「お父さん」という答えが返ってきます。それは、両親からの愛を十分に受けているからです。だから、子どもにとって最も大切なのは両親なのです。イエス・キリストが「子どものように」と話されたのは、そのような意味も含まれているのではないでしょうか。新しく生まれ変えられたというのは、神の愛を深く知る者にされたということでもあるのです。しかもそれは、今朝の箇所の18節に「みこころのままに」と書かれていますように、父なる神の御心によってなのです。そこには父なる神のご計画の中にあることを意味しています。私たちが自分の罪を赦され神の子とされたのは、父なる神のご計画によるものなのです。そのことはヤコブだけでなく、パウロもエペソ1:4で「 」と語っています。これらが意味することは、それほど私たちは神に愛されているということです。あなたは父なる神のご計画の中でお取り扱いを受けているのです。そして、これからも父なる神のご計画の中で歩み続けるのです。すなわち、父なる神はこれからもあなたのために、様々な備えをしてくださっているのです。それほど、あなたは神に愛されている存在なのです。
私たちは、その神の愛をどのようにして知ったのでしょうか。18節に「真理のことばをもって」と書かれていますように、私たちが神の愛を知ることができたのは、神のことばである聖書によってです。このことから、どれほどみことばが大切であるかを教えられるのではないでしょうか。私たちは様々な事柄に直面します。その事柄一つひとつに対して、「みことばは何と語っているのか」と聖書に聞き、みことばを根拠として歩むことの大切さを知らされます。それは何のためにかと言いますと、18節に「いわば被造物の初穂にするため」と書かれています。ここに新しく生まれ変えられた務めが書かれています。それは私たちを被造物の初穂とするためです。
では、「被造物の初穂にするため」とは、どういうことなのでしょうか。日本では初代キリスト者が多いです。2代目クリスチャンや3代目クリスチャンの方もおられます。私が神学生の時には同じ神学生で5代目クリスチャンがいました。でも、今も多くは初代クリスチャンが圧倒的に多いです。そのことは、当時においてもそうでした。キリスト者の周りには、イエス・キリストを信じていない人が圧倒的に多かったのです。その人たちがイエス・キリストと出会って新しく変えられるために、「自分たちが初穂とされた」と語っているのです。私たちはキリスト者とされ、そこには私たちの務めがあるのです。その務めとは、神のすばらしさを伝えるというものです。そのためにも、「みことばに聞き従う」ということが必要なのです。私たちが新しく生まれ変えられたのは、そのようなことでもあるのです。
結)
サタンはとても巧妙な方法をもって働いてきます。アダムとエバは「錯覚」と言いましょうか「誤解」と言いましょうか、思い違いをして間違った方向に進んでしまいました。結局は、神のことばよりも自分の思いを優先させてしまったためです。そのような方法をもって迫ってくるサタンの働きは今も同じです。私たちを惑わそうとして働きかけてきます。ですから、騙されないように気をつける必要があるのです。最初に話しました日本の風習や文化もそうです。それは「日本の風習や文化が悪い」と言っているのではありません。ただ、よく考えて取り入れることは大切です。私たちが騙されないように歩み続けるには、何度も話していますが「聖書は何と語っているのか」と、みことばを根拠とすることです。これからも、みことばに耳を傾けつつ歩まされたく願います。
ヤコブ1:13~15「恵みの中に生きる」 22.11.06.
序)
先週の月曜日は、巷ではハロウィンのニュースが流れていましたが、私たちにとって10月31日は特別な日です。それは宗教改革記念日であり、プロテスタント教会が産声をあげた日です。この日を契機として、プロテスタント教会が誕生し今日の私たちの教会が建て上げられているのです。長い歴史を見ますと、神の導きのすごさというのを思わされます。イエス・キリストの誕生もそうです。これはクリスマスの時に話しましたからしませんが宗教改革にしてもそうです。その時代背景を見ますと、ルネサンス運動や活版印刷の発明などが大きく影響しています。そのことを思いますと、歴史の中に神は確かに働いておられることを思わされます。そして、今も神は歴史の中に働いて私たち一人ひとりを導いてくださっています。私たちは、その神の恵みの中に生かされています。今朝は、恵みの中に生きることについて共に教えられたいと願っています。
1)誘惑とは何か
まず、誘惑とは何かを見てみたいと思います。2~12節までは、試練について書かれていました。ですが、今朝の箇所には「誘惑」といことばが繰り返し書かれています。皆さんは「試練と誘惑はどう違うのか」と尋ねられたら何と答えられるでしょうか。実は、新約聖書において「試練」ということばと「誘惑」ということばは同じことばが使われています。すなわち、言葉は同じなのですが2つの意味を持っているのです。では、試練と誘惑は何が違うのでしょうか。簡単に言えば、ある事柄を通してその人を成長させるものが試練であり、その人を後退させてしまうもの、それは「ダメにしてしまうもの」と言った方が分かりやすいかもしれませんが、それが誘惑なのです。ですから、生じる出来事は同じなのです。同じなのですが、人によってそれが試練になれば誘惑にもなるのです。
例えば、アダムとエバの場合です。彼らはサタンから声をかけられました。あのサタンの声はアダムとエバにとっては試練にもなりますし誘惑にもなるのです。大切なのは、そこで彼らがどのような結論を出すのかです。もし彼らが、「いや、私たちはサタンが何と言おうとも神のことばに従って、この木の実を食べない」と決断したなら、それは彼らの成長を意味しますから、サタンからの誘いは試練になるのです。しかし、彼らは「自分の思いを満たしたい」というものを優先し、神のことばに従うことをせず木の実を食べてしまいました。それによって神との関係を損ねてしまったのです。すなわち、神との関係が後退してしまったのです。これが誘惑なのです。
もっと身近なことで言えば、自分の興味のあるイベントが日曜日の午前に行われるとします。そうなりますと、心の中に葛藤が生じます。それは「イベントに行くか、それとも礼拝に行くか」という葛藤です。そこで心の中に生じるものは、「イベントはこの日しか行われないけれども礼拝は毎週行われる」というものです。そして、「どちらを選ぶか」という戦いが心の中に生じます。その戦いを通して、「それでも礼拝に行く」という方を選んで礼拝に行くなら、それは試練になります。しかし、「礼拝は毎週行われているのだから一度くらい休んでも良いだろう」と言ってイベントに参加するなら、それは誘惑になります。すなわち、妥協することなく神のことばに従うことができたのならば試練になりますが、妥協してしまったら誘惑になってしまうのです。試練と誘惑の違いは、事柄は同じなのですがその人の決断によるものなのです。
2)責任転嫁の禁止
ヤコブは13節で「だれでも…言ってはいけません」と語っています。何故なら、誘惑は自分の決断によって生じたものだからです。なのに、それを「神に誘惑されている」と言うのは、自分の罪の責任転嫁でもあります。アダムとエバがそうだったのです。アダムは自分が罪を犯したことをエバのせいにしましたし、エバは自分が罪を犯したことを蛇のせいにしました。彼らは自分が決断したことへの責任を他人のせいにしたのです。私たちもついつい自分の過ちを他人のせいにしてしまいやすいことがあります。「あの人が言ったから」とか「その人がこんなことをしたから」とか「仕方がなかったから」などです。そして、信仰的なことになりますと「神がこのようにされた」と言いかねないです。
そのことが一番よく分かるのが子育てではないでしょうか。子どもに「嘘をついてはいけない」とか「責任を他の人にしてはいけない」と教えているのに、子どもは嘘をつくことがありますし、責任を他の人にしてしまうことがあります。教えていないのに、そのようなことをする時があります。これはアダムとエバの罪を受け継いでいるからです。それは子どもだけでなく、私たち大人も同じです。聖書は私たちの弱さを知っていますから、わざわざこのように語っているのです。何故なら、神は人を誘惑されるような方ではないからです。
先程も話しましたように、誘惑はその人の決断によって生じるものです。ですから、その責任を他の人に転嫁してはいけないのです。へブル4:15に「 」と書かれています。ここに、イエス・キリストは「私たちの弱さに同情できない方ではありません」と語られています。同情は相手を理解しないとできないものです。「イエス・キリストは私たちの弱さに同情してくださる」ということは、「私たちの弱さを理解してくださる」ということです。アダムとエバがサタンの誘惑によって神に罪を犯した後で、神はサタンに何と言われたでしょうか。創世記3:15に「 」と書かれています。神は神に罪を犯した人を敵とされたのではなく、「サタンの敵となる」と言われたのです。すなわち、神は「ご自分に罪を犯した人間の側につく」と言われたのです。神は、それほど私たちを愛してくださっているのです。あなたという存在は、それほど神に愛されている存在なのです。だからこそ、「誘惑に遭ったとき、神に責任を転嫁するのではなく、自分の弱さにあってであることを認めなさい」と聖書は語っているのです。その前提には神の赦しがあるからです。私たちは赦しの神を覚え、過ちを犯したとき自分の間違いを認める者とされたいものです。
3)罪の根源
主は赦しの神です。ですが、「だから罪を犯しても良い」と言ってはおられません。赦された者として歩み続ける必要があるのです。その罪と結果について、今朝の箇所の14~15に「 」と書かれています。罪の根源は自分の中にある欲です。その「欲」とは「思い」と言っても良いでしょう。私たちの中には様々な思いが湧き出します。先月の礼拝で見ました士師記の時代の人々がそうでした。最初は、「自分の目に良い」という思いが起こったのです。そして、それを見える形で行うようになったのです。最初は小さなずれかもしれません。しかし、その小さなずれのまま進みますと、どんどん正しい道から外れてしまいます。Ⅰコリント5:6に「 」と書かれているのはそういうことです。
ヨハネ21:15以降に、イエス・キリストがペテロに「あなたはわたしを愛しますか」という質問にペテロが答えた後、イエス・キリストは「わたしに従いなさい」と話されたことが19節に書かれています。すると、ペテロは後ろから着いてくるヨハネを見て、イエス・キリストに「主よ、この人はどうなのですか」と質問したことが21節に書かれています。そのペテロの質問に対して、イエス・キリストが21節で「 」と答えられたことが書かれています。ここでイエス・キリストが話されていることは、「あなたがわたしに従うことはヨハネには関係がない」ということです。
ともすると、私たちはこの間違いをしてしまいやすいのです。神に聞き従うとき、人を見てしまいやすくなるのです。神に聞き従うとき、その人を見て「でも、この人には」と思ってしまうことがあります。しかし、自分が神に聞き従うことと、その人とは関係はないのです。そのことをはっきりと語っているのが、Ⅰペテロ2:18です。ここに「 」と書かれています。最後の「意地悪な主人にも従いなさい」と勧められています。意地悪な主人ですから、どう考えても腑に落ちない主人です。それであっても、「自分がすべきことはきちんとしなさい」と勧められているのです。これはパウロも同じ事を語っています。エペソ6:5に「 」と書かれていますし、コロサイ3:22に「 」と書かれています。そして、23節で「 」と勧めています。ペテロもパウロも「あなたが神に従うこととその人とは何の関係もない」と語っているのです。
ところが、私たちはついつい人を見てしまいやすい者です。そして、「この人には」という思いが起こってしまいます。「この人には」というのは小さなものです。しかし、それが先程も話しましたように、神に聞き従う道から大きく外れてしまうのです。それは先月の礼拝でも話しましたように、自分の目に良いと見えることを基準とした歩みです。そのことを示されますと、「自分の中にも罪の根源がある」ということに気づかされます。
結)
自分の中にも罪の根源がありますが、その私のためにイエス・キリストが十字架に架かって、私の身代わりとなって神の審きを受けてくださったことも深く覚えさせられます。さらに、その私のために今もイエス・キリストが父なる神にとりなしてくださっていることも覚えさせられます。私たちは、その恵みの中に生かされているのです。自分の罪を知れば知るほど、イエス・キリストの十字架ととりなしという恵みの中に生かされていることを覚えさせられます。私たちには、常に神に聞き従う道と聞き従わない道が目の前に備えられています。そのどちらを選ぶのかは自分自身で判断し決断するのです。私たちが神に聞き従う道を選び取る歩みができるように祈っていきましょう。
ヤコブ1:12「試練に耐える人の幸い」 22.10.09.
序)
今朝の箇所の初めに、「試練に耐える人は幸いです」と書かれています。そのようなことを聞かれますと、「試練の何処に幸いがあるのか」と思われる方もおられるかもしれません。ですが、それは「幸い」というものを自分の視点で捉えているからです。「自分の心が満たされることが幸いなこと」と思われているからです。今朝の箇所の「幸い」は、人の視点ではなく神の視点における幸いです。そのところを見極めて読むことが大切です。当時のキリスト教は、ユダヤ教から迫害を受け、ローマ帝国からも良い目では見られていませんでした。そのような時代背景を考えますと、ヤコブ書に書かれている試練とは「迫害のこと」と考えられます。迫害は信仰の戦いです。「迫害から免れるためには妥協するしかない」という戦いです。そのことを思いますと、マタイ5:10に「 」と話されたイエス・キリストのことばを思い起こされます。今朝は、何故試練に耐える人は幸いなのかを共に教えられたいと願っています。
1)神に義と認められるから
試練に耐える人が幸いな理由の1つは、神に義と認められるからです。先程も話しましたように、「幸い」と判断するのは自分ではなく神ご自身です。先程のマタイ5:10で、イエス・キリストは「義のために…幸いです」と話されました。義とは、神に「良し」と認められることであり、神に正しく応答することであり、的を射た生き方のことです。そうしますと、義に反した生き方とは、的を外した生き方のことであり、神に対して罪を犯す歩みのことです。神は十戒で「わたし以外に、ほかの神々があってはならない」と言われ、「自分のために偶像を造ったり、拝んだりしてはならない」と命じられました。すなわち、主なる神だけを神として生きることを命じられたのです。
私たちが生かされています日本という地は、偶像崇拝の盛んな国です。2020年のデータですが、1年以内に初詣をされた人は65%ということです。これは博報堂という所が1992年から2年毎に行われている調査ですが、15回の調査をされて数値は殆ど変わっていません。それが意味しているのは、「日本人の宗教観」と言いましょうか、「社会風土は全く変わっていない」ということです。私たちは、そのような社会の中に生かされているのです。ですから、信仰のことで衝突が生じるのは当然のことです。そのような社会の中で、どのように生きていくかは私たちにとって大きな課題です。それは自分との戦いでもあります。すなわち、妥協した生き方をするのか、それとも妥協せずに生きていくかです。周りからは「社会の中で丸く生きていくには、ある程度の妥協も必要だ」という声があります。キリスト者は戦いを求める者ではなく平和を求める者です。そのためには、「ある程度の妥協も必要」と思えたりもします。しかし、「してはならないこと」は、どのようなことがあってもしてはいけないのです。
聖書は、そのような生活は決して楽なものではないことを知っています。だから、「試練に耐える人は」と語っているのです。神は私たちの歩みを知らない方ではなく、全てを御存知なるお方です。私たちの日々の戦いをも御存知です。そのような戦いや苦しみの中で、神に寄り頼む者を「義」と認めてくださるのです。何か大きなことができるわけではありませんし、特別に人の役に立つことができるわけでもないかもしれません。ですが、神の目からはそのようなことは関係ないのです。神に寄り頼んでいるかいないかが重要なのです。私たちが幸いな人であるか、義と認められる人であるかは、私たち自身が決めるのではなく神ご自身なのです。神は試練の中にあっても、神に寄り頼む者と「義」と認めてくださっているのです。だから、試練に耐える人は幸いなのです。
2)いのちの冠を受けるから
試練に耐える人の幸いな理由の第2は、いのちの冠を受けるからです。では、「いのちの冠」とは何でしょうか。「永遠のいのち」と捉えることもできます。それは間違いではないと思います。聖書は信仰生活を競技に譬えて語っています。代表的なのがⅠコリント9:24~27でしょう。ここに「 」と書かれています。競技者は「朽ちてしまう冠」という賞を得るために、その競技の時だけでなく日々の生活の中でも自制しています。自分の好きなことやしたいことだけをしているのではありません。賞を得るためにしたくないこともしているのです。「何故そのようにするのか」と言いますと、賞を得るという目標を見つめているからです。そして、このⅠコリント9:24~27では、キリスト者は朽ちない冠を受けるために、日々の生活の中で自制することが大切であると勧めています。
ここでは、いのちの冠を「朽ちない冠」ということばで表現しています。また、Ⅱテモテ4:8には「義の栄冠」と書かれており、Ⅰペテロ5:4には「しぼむことのない栄光の冠」と書かれています。ですから、いのちの冠を「永遠のいのち」と捉えても良いのですが、もっと広い意味で「神の祝福」と捉えた方が良いと思います。何度も話していますが、イエス・キリストはマタイ6:33で「 」と話されました。ここには神の祝福の法則が語られています。目の前の事柄の解決よりも、まず神に目を向けて寄り頼むなら、全てのものは与えられるという神の約束です。試練というのは、その人にとっては苦しいものです。神を信じなければ苦しむことをしないで済んだかもしれません。ですが、神は「そのような中にあっても的を射た歩みをするように」と求めておられるのです。すなわち、神を信じ従って、神に寄り頼む歩みをすることを求めておられるのです。
先週の礼拝で、「私たちは新しい価値観に生きる者に変えられた」と話しました。神を信じる私たちは、目の前の事柄に対して一生懸命でした。いや、今もそうかもしれません。しかし、神を信じる私たちは新しい視点で生きることのできる者へと変えられたのです。目の前の事柄だけを見つめる生き方から、その先にある神の約束を見つめる生き方へと変えられたのです。聖書は「試練に耐える人は幸いです」と語っています。この「耐える」については何度も話してきました。じっと我慢することではなく、積極的に正しいことをする生き方です。ですから、神の祝福を受けるという神の約束に目を留めつつ、神に寄り頼む歩みをするようにと語っているのです。そうすれば、必ず神の祝福を受けることができると語っているのです。何故そのように言うことができるのでしょうか。それは神が真実な方だからです。神は約束を必ず守られる方だからです。試練に耐える人の幸いな理由は、「神の祝福」といういのちの冠を受けるからです。
3)神の約束の確かさを経験できるから
試練に耐える人の幸いな理由の第3は、神の約束の確かさを経験できるからです。神の約束は、神を信じ従い寄り頼む者を祝福するというものです。その約束は誰に対してなされたのでしょうか。それは神を愛する者になされたのです。では、神を愛する者とはどのような人のことなのでしょうか。今まで「神を信じ従い寄り頼む」ということばを繰り返し語ってきました。ですから、そのような人のことなのでしょうか。確かにそうです。しかし、その歩み方は義務感でもできますし、打算的な考え方からでもできるものです。ですが、そのような歩みは「神を愛する歩み」とは言えません。愛するとは、自発的なものが必要です。私たちが自発的に神を愛するには何が必要でしょうか。決断でしょうか。それよりも大切なことがあります。それは、「今の私が神に愛されている」というのを知ることです。
人は自分が愛され受け入れられていることを知らなければ、その相手に対して自発的に何かをするということはできません。私たちが神を信じ従い寄り頼んで歩める根拠は、「神が私を愛してくださっている」というものがあるからです。それがなければ、自発的に神を愛することはできないのです。それでも、神を信じ従う者には試練があるのです。何か理解し難いものです。神を信じ従うことによって試練が無くなるのなら分かりやすいと思います。でも、神を信じ従っているのに試練があるというのは、何か矛盾しているようにも思えます。ですが、一番矛盾していることがあります。それは何でしょうか。イエス・キリストの十字架です。罪を犯されていない方が、罪人として十字架に架けられて死なれたのです。しかも、それは父なる神の御心によってなのです。
イエス・キリストは、父なる神を愛し従っておられました。それなのに、十字架に架けられて死なれたのです。何故でしょうか。「それは私たちの罪のために」と思われるでしょう。確かにその通りで間違いではありません。別の角度から見ますと、イエス・キリストが十字架に架かられたのは父なる神を愛し従ったからとも言えます。イエス・キリストは十字架に架かられる前、ゲッセマネの園で何と祈られたでしょうか。マタイ26:39に「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたことが書かれています。イエス・キリストにとって、十字架に架かられることは大きな試練だったのです。ですが、イエス・キリストは父なる神に従い通すことができたのです。何故でしょうか。父なる神の愛を知っていたからです。そして、父なる神の約束を信じていたからです。ここに人としてのイエス・キリストの生き方が示されています。
イエス・キリストは、この地上において人としてどのように生きれば良いのかを示してくださったのです。神を愛する者とは、神に愛されていることを知っている人のことです。そして、神は神を愛する人に最善の時に最善の方法をもって事を行ってくださいます。だから、パウロはローマ8:28で「 」と語っているのです。この箇所は何度も話している箇所ですが、その冒頭に「神を愛する人たち」と呼びかけています。ここに注目したいのです。それは「神を愛する私たちは知っています」となります。何を知っているのでしょうか。「神のご計画に従って…益となることを」です。「だから苦難を耐えるように」とパウロも勧めているのです。イエス・キリストは、十字架という試練を通して死からの甦りを経験されたのです。別の角度から見ますと、十字架という試練があったから甦りという恵みを受けることができたのです。十字架という試練を経験されなかったら、人としてのイエス・キリストは甦りという経験をされることはなかったのです。それと同じように、私たちも経験する試練を通して神の約束の確かさを経験するのです。試練というのは、確かにその人にとっては苦しいものです。ですが、神の約束の確かさを経験するときでもあるのです。これが試練に耐える人の幸いの理由です。
結)
試練は誰もが受けたくないものです。しかし、誰もが経験するものでもあります。神は私たちが経験します試練を恵みに変えてくださいます。試練を通して神のすばらしさを現してくださいます。矛盾に思えることもあるでしょう。そのようなとき、イエス・キリストの十字架を覚えましょう。そして、甦りに目を留めましょう。神は必ず恵みと祝福を与えてくださいます。だから、試練に耐える人は幸いなのです。何度も話していますが、聖書が語る忍耐は、積極的に正しいことを行う力です。神は私を愛するがために、イエス・キリストを十字架につけられ甦らされました。試練に遭遇しても、その神に正しい応答ができるように祈っていきましょう。
ヤコブ1:9~11「新しい価値観で生きる」 22.10.02.
序)
先週は「試練に打ち勝つ秘訣」というタイトルから、神の約束を疑わずに信じることの大切さを学びました。この世にあって私たちは試練に遭遇しますから、その試練に打ち勝つためにもみことばをもって互いに励まし合うことの大切さを知らされました。私たちは「神の約束に目を向けて生きる」という新しい価値観で生きる者へと変えられたのです。今朝は、その新しい価値観について共に教えられたいと願っています。
1)神の子という身分に誇りを持つ
第1は、神の子という身分にされていることに誇りを持つことです。9~10節の前半には、「誇り」ということばが用いられています。この「誇り」というのは「自慢する」ということではなく、「光栄とする」ということで喜びことを意味することばです。ですから、「喜びなさい」と訳されてもおかしくないことばです。事実、そのように訳されている聖書もあります。この「身分の低い」とか「富んでいる」というのは、社会的階級のことで、社会的身分の低い人と高い人のことです。当時の社会は階級社会でした。ですから、教会の中には社会的階級の高い人がいれば、社会的階級の低い人もいました。そうなりますと、社会的身分の低い人は、心の何処かに劣等感を持ってしまいやすくなります。また、社会的身分の高い人は優越感を持ってしまいやすくなります。しかし、その身分というのはこの世の社会的なものです。神を信じる人は全てが新しくされているのですから、当然身分も新しくされているのです。では、「どのような身分なのか」と言いますと、「神の子」という身分です。ですから、この世の世界では身分は違いますが、神の国の世界では同じ身分とされているのです。そのことに喜ぶのです。
ここでヤコブは、「イエス・キリストを信じる人は、同じ神の子とされていることに目を留めるように」と勧めているのです。社会的に身分の低い人は仕えることに慣れています。また、社会的に身分の高い人は仕えられることに慣れています。ですが、教会は互いに仕え合う所なのです。ですから、ガラテヤ5:13に「愛をもって互いに仕え合いなさい」と勧められているのです。私たちが生かされています日本の社会の中にも「身分」というものがあります。ですが、教会の中では「神の子」という同じ身分なのです。これがプロテスタント教会の捉え方です。余談ですが、ローマ・カトリック教会はそうではありません。ローマ・カトリック教会はローマ教皇が神に繋がっており、その教皇に司祭が繋がっており、その司祭に信徒が繋がっているというものです。ローマ・カトリック教会は、「信徒は直接神に繋がっていない」という捉え方です。しかし、プロテスタント教会は「信徒一人ひとりが直接神と繋がっている」という捉え方です。だから「兄弟姉妹」と呼び合うのです。教会においては、一人ひとりが「神の子」という同じ身分とされているのです。「そのところに目を留め、誇りをもって生きることが大切である」と勧めているのです。
2)天に宝を蓄える
第2は天に宝を蓄えることです。この世に生かされていますと、この世の富とか身分に心を寄せてしまいやすくなります。ですが、神を信じる者は新しい価値観をもって生きる者とされています。10節の後半から11節には、この世の物のはかなさが書かれています。どれほど素敵に見えたとしても、手にしたら心の中に生じるものは何でしょうか。安心があるかもしれません。しかし、それは一時的なものにしか過ぎません。次第に安心から不安へと変わっていきます。それは「今のものを失う」ということへの恐れを抱いてしまうようになります。ですから、物質的なものは永遠の平安というものを与えてはくれないのです。
ですから、イエス・キリストは何と話されたでしょうか。マタイ6:20に「天に宝を蓄えなさい」と話されたことが書かれています。「天に宝を蓄える」とは、どういうことでしょうか。慈善行為をすることでしょうか。それもあるかもしれません。突き詰めますと神を信頼することです。「天」というのは、目で見ることのできない所ですが、神がおられる所でもあります。ですから、そこには「信仰」というものが拘ってきます。マタイ6:19~21には、何処に心の拠り所を見出だすかが話されています。そして、21節で「 」と話されました。私たちは心の拠り所を何処に置いているでしょうか。仕事でしょうか。社会的身分でしょうか。それともお金でしょうか。そのようなものは、決して心に永遠なる平安を与えてはくれません。むしろ、無くなることへの不安を覚えさせるものです。ここでイエス・キリストは、永遠なる平安は天にあることを話されているのです。ですから、その天におられる神を心の拠り所とすることが、天に宝を蓄えることでもあるのです。
では、そのことを今朝の箇所に取り入れますとどうなるでしょうか。今朝の箇所は「身分」について書かれています。神は「あなたは高価で尊い」と語られていますし、「神を信じる者は神の子という身分とされている」と語っています。イエス・キリストは、ルカ15:8~10で失われたお金の譬え話をされました。イエス・キリストは、人をお金に譬えて話されたのです。何故でしょうか。それは、お金は新しくても古くても同じ価値のあるものだからです。それだけでなく、傷や汚れがあっても同じ価値のあるものです。人は社会的身分によって価値観が決まるものではありませんし、年齢や能力などで価値観が決まるものでもありません。神の目から見れば、全ての人は同じ価値のある存在なのです。何故なら、全ての人は神のかたちとして造られている存在だからです。
私たちは、この社会の中に生かされていますと、この社会の価値観で人を評価し、自分を評価してしまいやすくなります。また、この世の常識がキリスト者の常識となる危険性もあります。しかし、イエス・キリストを信じる者は新しい価値観に生きる者とされているのです。この世の価値観や常識ではなく、神の価値観で生きることが大切なのです。それは神のみことばに立って、「聖書は何と語っているのか」に目を向けることです。社会的身分など関係なく、「神は私をどのような存在として見てくださっているのか」が大切なのです。そして、その神に信頼を寄せることが、天に宝を蓄えることでもあるのです。
3)神を信頼して生きる
第3は、神を信頼して生きることです。私たちは先程も話しましたように、この社会の中で生かされていますと、この社会の価値観・常識であらゆるものを見てしまいやすくなります。私たちは神を信じていますが、目に見える社会の中に生かされていますと、見えるものに心を奪われてしまいやすくなります。8節の「二心を抱く者」とは、「神を信じつつも信じ切れない人のこと」と以前に話しました。別の言い方をすれば、目に見えない神を信頼しつつも、見えるものに信頼を寄せてしまう人のことでもあります。イエス・キリストは、「誰でも二人の主人に仕えることはできません」と話されたことがマタイ6:24に書かれています。ここでイエス・キリストは、群衆に「神か社会か」を迫っておられます。さらに言えば、「神か家族か」でもあります。マタイ10:34~39で「 」とイエス・キリストは話されました。イエス・キリストの十字架は、「私たちの罪の身代わりとなって神の審きを受ける」というものです。では、私たちの十字架は何でしょうか。あなたの十字架は何でしょうか。それは、「私の罪のために十字架に架かって神の審きを受けてくださったイエス・キリストに従い続けていく」というのが、私たちが負っている十字架です。ですから、38節の「自分の十字架を負って」とは、「イエス・キリストに従うか」、それとも「自分の思いに従うか」のどちらを選ぶかという選択のことです。私たちは、常に「神か社会か」という選択という十字架を負っているのです。そのような中で、神を信頼する方を、神に従う方を選び取ることを、イエス・キリストもヤコブも勧めているのです。
イエス・キリストを信じる者は、新しい価値観をもって生きる者に造り変えられた人です。神を信頼して生きる者へと変えられた人です。ですから、神以外のものに頼る必要はありません。ですが、私たちはどうでしょうか。イエス・キリストを信じつつも、手放すことのできないものがあることに気づかされます。実は、それが私たちの宝でもあるのです。そして、その宝が私たちの中にあることを認めざるを得ません。以前、「信仰生活とは、神に信頼する信仰の戦いの生活でもある」と話しました。自分の宝の問題は信仰生活の戦いでもあります。マタイ6:24の「仕える」とは、「崇める」というのを表していることばです。「崇める」「崇拝する」ということは、それを優先するということでもあります。神よりも優先するものが私たちの中には生じやすいのです。その優先するものを神の次にするのが手放すことでもあるのです。先程も話しましたが、私たちは自分の宝を手放す決断ができれば良いのですが、その決断がなかなかできません。では、そのような私たちは神に見捨てられるのでしょうか。いいえ、神はそのような私たちを見捨てることをされず、いつも共にいて導いてくださるお方です。それは「二人の主人に仕えても良い」ということではありません。神は忍耐をもって、私たちが自分の宝を手放す決断ができるのを待っておられるのです。
先程も「神は忍耐をもって待っておられる」と話しましたが、その忍耐は「正しいことを積極的に行うもの」ということを以前に話しました。だから、神は私たちを見捨てることをされず共にいて導いてくださっているのです。そのような話しを聞かれますと、「憐れみ深い神様に感謝します」と思えたりもします。その感謝は良いのですが、その感謝だけで終わってしまうなら問題です。何故なら、神はその宝を手放すことを望んでおられるからです。感謝すると同時に、「自分の宝を手放すことができますように」という祈りも大切なのです。その祈りが「神を信頼する」ということでもあるのです。
結)
私たちはイエス・キリストによって、新しい価値観に生きる者とされています。「信仰生活とは、自分が神に信頼する信仰の戦いでもある」と以前に話しました。この世に生かされていますと、この世の価値観に影響されてしまいます。そして、この世の価値観で物事を見てしまい判断してしまいやすくなります。だからこそ、「私は新しい価値観に生きる者とされている」というのを覚えることは大切です。今の私が神の子とされていることに目を向けつつ、その神を心の拠り所とし、神を信頼して生きる者と成長できるように祈っていきましょう。
ヤコブ1:6~8「試練に打ち勝つ秘訣」 22.09.25.
序)
先週は「試練に遭遇したとき、まず何を神に祈り求めれば良いのか」というのを見ました。それは知恵であり、神に信頼する信仰が強められることでした。今朝は、どのように祈れば良いのかが書かれていますので、そのことを共に教えられたいと願っています。
1)疑わずに信じて
6節に「少しも疑わずに、信じて求めなさい」と書かれています。ですから、神への祈りにおいて大切なことの1つは、少しも疑わずに信じて祈ることです。それに対して、私たちはどうでしょうか。自分の生活の中で、全く神の約束を疑わず、全てを信じて祈っているでしょうか。私自身のことを考えますと、「そうではなく疑ってしまうことがある」と認めずにはおられません。「全てのことを少しも疑わずに祈り歩んでいるか」と聞かれ、「はい」と答えられれば良いのですが、実際はそうではない自分を認めざるを得ません。ここに、改めて自分の信仰の弱さというものを思わされます。
では、そのような私たちが神の約束を少しも疑わずに、信じて祈る者とされるにはどうすれば良いのでしょうか。聖書はそのように語っているのですから、そのように実行すれば良いのでしょうか。確かにその通りであり、実行すれば良いことなのです。簡単なことです。しかし、その簡単なことがなかなか実行できないのが私たちです。実は、それが信仰生活なのです。信仰生活とは、自分が神に信頼する信仰の戦いでもあります。その信仰の戦いにおいて勝利する方法は何でしょうか。結局は、神のみことばしかありません。私たちが神のみことばに養われるかないのです。だからこそ、日々神のみことばに耳を傾けるディボーションが大切なのです。
日々のディボーションは、毎日続けますとみことばが新鮮に感じることが少なくなってしまいます。そしてマンネリ化してしまいます。何度も話していますが、「マンネリ化」というのは必ずしも悪いことではありません。良いマンネリ化もあります。みことばは「霊の糧」と言われています。霊の糧ですから肉の糧もあります。「肉の糧」というのは、私たちが毎日取っています食事のことです。しかし、毎回食事に感動するわけではありません。皆さんの家庭の食事はどうなのかは知りませんが、私の家庭の食事はそうなのです。「全くない」というわけではありませんが少ないのも事実です。しかし、その食事を取り続けることによって成長していくのです。霊の糧も同じです。感激することは少ないかもしれませんが、毎日続けることによって与えられている信仰は、知らず知らずの内に成長しているのです。何故なら、Ⅰコリント3:6に「 」と書かれていますように、私たちの信仰を成長させるのは自分自身ではなく神だからです。だからこそ、神のみことばに耳を傾けることが大切なのです。私たちが疑わずに信じる者と成長するには、日々神のみことばに耳を傾け養われるしかないのです。
2)疑う人
続いて、6節には神の約束を疑う人の歩みについて書かれています。そのような人の歩みは、「風に吹かれて…大波のようです」と書かれています。これは不安定な歩みを表しています。さらに7節には「 」と書かれています。「主から何かをいただける」という「何か」とは何でしょうか。それは平安であり、安定した歩みのことです。神の約束を疑う人、すなわち、神のみことばを信じ切ることのできない人は、決して平安で安定した歩みができないというのです。何故でしょうか。それは8節に書かれていますように、「二心」を抱いてしまうからです。この「二心」とは、神のみことばを信じ切ることのできない心のことです。決して、神のみことばを信じていないことではありません。神のみことばを信じてはいるのですが、信じ切れない心のことです。
私たちには、誰にでも自分の中に物差しというものを持っています。その心の物差しによって、あらゆることを判断してしまいます。別のことばで言えば「常識」というものです。「世間の常識」「自分の常識」などで判断してしまいやいのです。そして、神のみわざというものも、その物差しや常識で判断してしまいやすいのです。そして、その物差しや常識の中で「いくら神であっても無理だ」という判断をしてしまいやすくなります。それが6節に書かれています「疑う人」であり、8節の「二心」の人のことです。
旧約聖書に、北イスラエル王国の首都サマリアがアラムに包囲されたため物価は上昇し、サマリアの町にいた人たちは食べるものに困り果てました。そのとき、エリシャが言ったことばがⅡ列王記7:1に「 」と書かれています。そのことばに対して、侍従が言ったことばが2節に「たとえ主が…あるだろうか」と書かれています。王の侍従は、エリシャが語った神のことばを信じられなかったのです。6:25には「ろばの頭1つが銀80シェケル…売られるようになった」と書かれています。ろばの頭は煮れば食べられるかもしれませんが、鳩の糞などは食べることはできず肥料にしかなりません。それほど物価が上昇しているのに、「明日は上等の小麦が1セア1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる」というのです。私たちは、この侍従のことばはよく分かるのではないでしょうか。それは自分の物差し・常識で測っているからです。
ここでヤコブが勧めているのは、「自分の物差しや常識に囚われるな」ということです。自分の物差しや常識で物事を測ってしまうのは仕方のないことかもしれません。しかし、それだけに囚われるのではなく、自分の物差しや常識を超えて働かれる神に目を向けることは大切です。私たちにとって大切なのは、「自分の物差しや常識を超えて働かれる神に目を向けられますように」という祈りです。その神に目を向けられるようになるには、やはり神のみことばに養われることです。自分の物差しや常識に囚われるのは牧師であれ同じです。何故なら、同じ人間だからです。だからこそ、祈っていただく必要があるのです。
3)神の約束に目を留めて
私たちは、みことばを通して自分の弱さというものを知らされます。そのような私たちに、神は何と語られているでしょうか。詩篇81:10には「 」と語られていますし、エレミヤ33:3には「 」と語られています。神は私たちが考えるような小さな方ではありません。御使いがマリアに話したように、不可能なことが何もないお方です。その神が詩篇81:10で「あなたの口を…それを満たそう」と約束してくださり、エレミヤ33:3の後半で「あなたが知らない…あなたに告げよう」と約束してくださっているのです。すなわち、「神の約束に目を留めよ」と告げられているのです。ですから、その神の約束に目を留めるしかないのです。日々の祈りの中で、「神の約束を信じ切れない私ですが、神の約束を信じ切ることのできる者としてください」と祈るしかないのです。神は私たちの理解を越えた大いなるお方です。ですから、必ずその祈りに答えてくださいます。何故なら、それが神の約束だからです。
今朝の箇所を見ますと、疑ってしまう信仰の弱い自分しか見出だすことができないかもしれません。ですが、何度も話していますが、神はそのような私たちを御存知の上で、詩篇81:10やエレミヤ33:3などのみことばを語られているのです。ですから、私たちはそこに目を留めることが大切なのです。これは何も、「だからと言って疑っても良い」と話しているのではありません。その点を誤解しないでいただきたいのです。「神は私たちの弱さを御存知だから疑っても良い」というのではなく、「弱さの故に疑ってしまう私たちを受け入れてくださっている」ということなのです。それほど、神の愛は広く深く大きいものなのです。
私たちは試練に遭遇しますと、目の前の試練に目を注いでしまい、神の約束を忘れてしまいやすい者です。だからこそ、神は私たちに神のことばである聖書を与えてくださっているのです。弱さの故に神の約束を忘れてしまうのは仕方のないことかもしれません。だからこそ、みことばに耳を傾けて神の約束に目を向けることが大切なのです。私たちが神の約束に目を向けられるのは自分自身の力によるものではありません。神のことばである聖書が私たちを神の約束に目を向けさせてくれるのです。先程も話しましたが、日々みことばに耳を傾け続けますと新鮮さがなくなりマンネリ化してしまいます。しかし、そのマンネリ化に負けずに耳を傾け続けさせることのできるものは忍耐です。2~4節の時に話しましたが、聖書の語る忍耐とは「苦難が過ぎ去るのをじっど我慢するものではなく、正しいことを積極的に行い続ける力」です。その忍耐は私たち一人ひとりに与えられています。
1:1の箇所でも話しましたが、初代教会は神にある交わりを大切にしていました。その交わりを通して、初代教会が互いに励ましを受けてきました。だからこそ、迫害という試練にも耐えることができ今日に至っているのです。その事実に目を向けるとき、改めて神にある交わりの大切さを知らされます。一緒に集まる目的は、へブル10:25に書かれていますように励まし合うためです。それはみことばによる励まし合いです。励ますのではなく励まし合うのです。「合う」というのは一方通行ではありません。交流があるということです。すなわち、交わりであり分かち合いです。みことばの分かち合いは、私たちが遭遇します試練に打ち勝つためにも大切なものです。それを続けさせるのは、正しいことを積極的に行い続ける力である忍耐です。役員会では来月から礼拝後の分かち合いを再開することを決めました。互いに励まし合うための分かち合いであることを覚え、再開したいと願わされています。
結)
私たちはみことばによる約束を疑いやすい弱い者です。そのために、神は聖書を与え励まし合う交わりを与えてくださっています。だからこそ、「集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」と勧めています。私たちが遭遇する試練に打ち勝つ秘訣は、みことばとみことばの分かち合いです。私たちにはその特権が与えられています。その特権を豊かに用いて、一つの群れとして歩まされていきたいと願います。
ヤコブ1:5「神の約束に目を留めて」 22.09.18.
序)
先週は、「試練は私たちを成長させるために備えられた神の恵みである」ということを見ました。私たちはそのことを知りつつも、その試練や苦しみだけに目を留めてしまいやすい者です。今朝は、そのような私たちが試練に遭遇したとき、どうすれば良いのかを共に教えられたいと願っています。
1)神に知恵を求める
私たちが試練に遭遇したときの第1は、5節に「あなたがたのうちに…神に求めなさい」と書かれていますように神に知恵を求めることです。ですが私たちはどうでしょうか。自分自身に当てはめて考えてみますと、まず神に祈り求めることは問題が解決されることではないでしょうか。「試練や苦しみから解放されたい」という思いが強いですから、ついついそのことを祈り求めるのではないでしょうか。しかし、聖書は知恵を求めることを勧めているのです。これは「問題が解決されて、試練から解放されることを願うことが悪い」と語っているのではありません。その点を誤解しないでいただきたいと思います。ヤコブは「それを求めても良いけれども、それが最も大切なことではない」と語っているのです。最も大切なのは、知恵が与えられるのを神に祈り求めることなのです。
ヤコブは「知恵が欠けている人がいるなら」と語っています。この「知恵」とは、神のすばらしさを知っている知恵です。ですから、「知恵がない」ということではありません。神のすばらしさを知っている知恵は、神を信じるときにすでに与えられています。では、これは何を意味しているのかと言いますと、その神のすばらしさを知っている知恵がきちんと働いていないことを表しているのです。ですから、「知恵が与えられるように」と祈るというのは、「神から与えられている知恵がきちんと機能できるように」と祈ることなのです。
ヤコブは知恵が与えられるように祈ることを求めているのであって、知識が与えられるのを求めてはいません。知識と知恵は違います。知識というのは、様々なことを学んで身に着けることです。そして知恵とは、その学んで身に着けた知識を実生活の中で用いることです。分かりやすく言えば、知識は身に吸収することであって、知恵は身から出すことです。私たちは聖書を通して、神がどのような方であるかを知っています。これは知識です。その知識は、人によって違います。信仰の長い人は知識が豊富かもしれませんし、聖書を深く学んでおられる人も知識は豊富かもしれません。ですが、どれだけ知識が豊富であっても、その知識を生かすことができないのなら宝の持ち腐れです。その知識を生かすのが知恵です。
神について多くの知識を持っていても、その知識を生かしていないなら意味はありません。どれだけ神のことを知っていても、その神に信頼していないなら意味のない生活になってしまいます。聖書の神についての知識ならば、聖書の神を信じていない人の中にも大勢おられます。大学などの宗教学者は聖書知識が豊富です。でも、それを実生活の中で生かしているのかと言えば、聖書の神を信じていない宗教学者は生かしていません。何故なら、聖書の神に信頼していないからです。ヤコブは、神についての知識を生かす知恵が与えられるように祈り求めることを勧めているのです。それは、神を信頼する信仰が強められるように祈り求めるということです。
2)恵み深い神を覚える
私たちが試練に遭遇したときの第2は、恵み深い神を覚えることです。ヤコブは「だれにでも…与えてくださる神」と語っています。神は誰にでも惜しみなく、咎めることなく与えてくださるまことの神です。イエス・キリストが誕生されたとき、天の軍勢は「地の上で、平和が御心にかなう人々にあるように」と賛美しました。イエス・キリストは、地上に平和をもたらすために誕生されたのです。試練に遭遇したときの私たちの心はどうでしょうか。嵐のように騒いでおり、平安というものは全くありません。そして、何を心配するかと言いますと今後のことです。そのような私たちに対して、ヤコブは「誰にでも…与えてくださる神」と語っているのです。神は恵みを惜しみつつ少しずつ与えてくださるような方ではなければ、人の弱さを責められるような方でもありません。私たちの全てを御存知ですから、恵みの全てを与えてくださる方なのです。神は私たちの弱さを全て受け止めてくださる方なのです。
パウロはその神についてⅠコリント10:13で「 」と語っています。神は私たちが耐えられないような試練は与えられない方であり、試練から脱出する道を備えてくださっている方です。今までの自分の歩みを振り返りますと、その所々で働いてくださっていた神を思わされるのではないでしょうか。そうであるならば、これから先の歩みについてもそうなのです。ある人は「あの時は偶々そうなっただけのこと」と思われるかもしれません。しかし以前にも話しましたが、私たちが信じている神は、その偶々を用いることのできる方です。神がこの世界を造り、この世界を治めておられるというのはそういうことです。クリスマスのときに話しましたが、イエス・キリストが誕生されたときは、ヘレニズム文化が盛んな時であり、ローマ帝国の支配によって道路が整えられ情報伝達が早くなった時代です。そのような時代にイエス・キリストは誕生されたのです。ある方は「それは偶々である」と言われるかもしれません。ですが、聖書はガラテヤ4:4で「時が満ちて」と語っているのです。「時が満ちる」ということは、「すでに予定されていた時がきた」ということです。以前の聖書では「定めの時がきたので」と訳されていました。イエス・キリストの誕生は偶々ではなく、神がすでに予定されていた時だったのです。
試練は受ける私たちにとっては、とても苦しいものです。ですが、神は時を定めて脱出の道を備えてくださる方です。脱出の道は、決して偶々ではありません。神は全力を注いで惜しみなく恵みを与えてくださる方です。その恵み深い神に目を留めて求めるのです。祈るのです。これが試練に遭遇したとき大切なことの第2です。
3)神の約束を覚える
私たちが試練に遭遇したときの第3は、神の約束を覚えることです。ヤコブは「その人は…神に求めなさい」と勧めた後で、「そうすれば与えられます」と断言しています。このことばを通して、マタイ6:33のみことばを思い起こされます。マタイ6:33に「 」と書かれています。私たちは問題に遭遇しますと、ついつい目の前のことに目を留めてしまいます。そして、そのことだけを祈ってしまいます。しかし、実は神に信頼する信仰が強められるように祈ることが大切なのです。それが「神の国と神の義を求める」ことでもあるのです。イエス・キリストは、「そうすれば…与えられます」と約束されているのです。すなわち、神への信頼が強められ、試練からも解き放たれるのです。マタイ6:33とヤコブ1:5は、同じことが語られているのです。
以前に山上の説教のときも話しましたが、神の祝福の法則とはそのようなものです。6:33の「これらのもの」とは、25節以降に書かれていますことです。すなわち、心配からの解放です。「何故心配するのか」と言いますと不安だからです。試練に遭遇するとき不安を覚えます。大切なのは不安を覚えないことではなく、不安を覚えたときどうするのかです。先程見ましたマタイ6:33には「まず神の国と神の義を求めなさい」とイエス・キリストは話されています。「求めなさい」とは「祈りなさい」ということです。「まず何を祈るのか」と言いますと、先程も話しましたように「神の国と神の義」という神への信頼が強められることを祈るのです。目の前の問題が解決されることよりも、神に頼る自分の信仰が強められることを祈るのです。同じことの繰り返しになりますが、イエス・キリストは「そうすれば…与えられます」と、神に頼る自分の信仰が強められ試練からも解放されるのです。これが神の私たちに対する約束です。
私たちが生かされています社会では、「問題に遭遇したら目の前のものを一つずつ解きほぐしていくことによって道は開かれていく」というものです。ですから、目の前の問題に目を向けてしまいやすくなります。しかし、神の祝福の法則はそうではありません。まず神に目を向けて、神に信頼する信仰が強められることを祈るのです。試練は受ける人にとって辛いものです。決して幸いなものではありません。「辛い」という漢字は「辛」と書きます。そして、「幸い」という漢字は「幸」と書きます。「一本線があるかないか」というちょっとの違いで大きな違いが生じます。何度も見ていますが、ハガルという女性がそうでした。彼女は息子イシュマエルと共にアブラハムの家を追い出され、食べ物も飲み物も尽き果てたとき死を覚悟し泣き崩れました。そのとき神のことばを聞き、目が開かれて周りを見渡すと井戸を見つけることができたのです。そのときに井戸はできたのではなく、前からその場にあったのですが、ハガルは見つけることができなかったのです。「見方を変える」というのはちょっとしたことです。でも、そのちょっとした違いが「辛い」と思えるか、「幸い」と思えるかという大きな分かれ目でもあるのです。試練に遭遇したとき神の約束を覚え、神に頼る信仰が強められるように祈る者とされたいものです。
結)
試練はできれば受けたくないものです。しかし、受けずに通れるものではありません。どのような人であれ経験するものです。それは信仰の強弱に関係ありません。試練に遭遇したとき大切なのは神に求めることです。その求めるものは神のすばらしさを知っている知恵と神の恵み深さと神への信頼が強められることです。試練に遭遇したとき、それらのことを祈る者とされたく願います
ヤコブ1:2~4「祝された信仰生活とは」 22.09.11.
序)
先週は祝された信仰生活について学びました。「祝された信仰生活」と聞きますと、平坦な道を歩み続けるように思えてしまいます。しかしながら、平坦な歩みが続けられることが必ずしも祝された信仰生活とは限りません。ローマ8:28には「すべてのことがともに働いて益となる」と語っています。全てのことが共に働くのですから、そこには自分にとってプラス的なものだけでなく、マイナス的なものも含まれているのです。しかし、それを神は益へと導いてくださいます。今朝は、その祝された信仰生活とはどのようなものかを共に教えられたいと願っています。
1)試練が伴うもの
まず、祝された信仰生活には試練が伴います。人は誰でも悩みを持ちます。そして、その悩みが解決されることを願います。教会に来られる方の中には、「神を信じたら悩みが解決され、心は平安になり平坦な道を歩み続けられる」と思って来られる方がおられます。しかし、イエス・キリストを信じても悩みは持つのです。決してイエス・キリストを信じたら悩みなどなく、いつも心は平安にされ平坦な道を歩み続けるというものではないのです。ともすると、同じキリスト者の中には「それはあなたの信仰が薄いからだ」と、悩みを持っている人の信仰を責める人もおられます。ですが、悩みというのは信仰の度合いではありません。聖書を読みますと、全ての信仰者は悩みを持ち続けていたのです。
今朝の箇所で注目したいのは、「様々な試練にあうときは」ということばです。ヤコブは祝された信仰生活を語るにおいて、最初に「様々な試練にあうときは」と語っているのです。様々なのですから、1つや2つの試練ではありません。ですから、「神を信じれば試練や悩みなどなくなる」というわけではないのです。神を信じても様々な試練に遭遇するのです。ですから、試練は信仰の度合いによるものではなく、どのような人であれ経験するものなのです。むしろ、祝された信仰生活を過ごすためには、なくてはならないものなのです。ですから、ヤコブは「この上もない喜びと思いなさい」と語っているのです。「試練を喜びとする」というのはなかなかできるものではありません。
では、「何故試練を喜びと思うのか」と言いますと、そこに神が働いてくださり、改めて神のすばらしさを経験することができるからです。何度も語っていますが、ローマ8:28に書かれていますように、全てのことが共に働いて益となるからです。試練に遭遇しているときは、決して「プラス」とは思えず「マイナス」と思えてしまいます。でも、そのマイナス的なところに神は働いてくださり、プラスにしてくださるのです。ですから、「試練を経験したから」と言って、自分の信仰を責める必要はありませんし、むしろ自分の信仰を責めること自体が間違いなのです。祝された信仰生活を過ごすにおいて、試練は伴うものであるということを覚えたいものです。
2)試練の受け取り方と対処
「祝された信仰生活には試練が伴う」と聞かれますと、「その何処が祝されているのか」と反発したくもなります。Ⅱコリント12:7に「 」と書かれています。パウロは肉体的な弱さを持っていました。これはパウロにとっては辛いことであり、大きな悩みであり試練でもありました。ですから、8節に「 」と書いています。パウロは「去らせてほしい」と3度も神に祈ったのです。それほど辛いものだったのです。そのパウロの祈りに対する神の答えが9節に「わたしの恵みは…現されるからである」と書かれています。このパウロの肉体的な悩み・試練について、神の答えは「わたしの恵み」と言われたのです。パウロが経験している悩み・試練も神の恵みの一つであるというのです。今までパウロは、この肉体的な悩み・試練を「神の恵みの一つ」とは受け取れていなかったのです。だから3度も神に祈ったのです。ところが、「これも神の恵みである」というのが神の答えだったのです。何故なら、そのところに神の力が完全に現されるからです。悩み・試練を通して、神のすばらしさを知ることができるからです。経験する試練を神の恵みの1つとして受け取るか受け取らないかは、その人の信仰が試されてもいるのです。
私たちはそのことを知りつつも、「試練を神の恵みの1つ」と受け取れないのが実情ではないでしょうか。どうすれば「試練を神の恵みの1つ」として受け取ることができるのでしょうか。それには「この試練を神の恵みの1つとして受け取れますように」と祈るしかありません。その祈りに対して、神はその試練を恵みの1つとして受け取れるように変えてくださいます。そのように祈るには決心が必要です。でも、その決心がなかなかできないのが私たちです。何故できないのでしょうか。それは自分の願いとは違うからです。私たちの心の中には「自分の願いが叶えられるように」という思いがあります。そのような思いがあることを「悪い」とは言いません。それは人としてあって当然のものです。ただ、その自分の思いを熱心に求めるなら問題です。私たちが熱心に求めるものは自分の願いではありません。
では、何を熱心に求めることを聖書は勧めているでしょうか。Ⅰコリント12:31に「あなたがたは…熱心に求めなさい」と勧めています。この「より優れた賜物とは何か」と言いますと、13章に続きます愛です。「神を愛することを熱心に求める」ことを聖書は勧めているのです。それはヤコブも同じです。1:3で「信仰が試されると忍耐が生まれます」と語り、4節で「その忍耐を完全に働かせなさい」と勧めています。聖書が語る忍耐とは、じっと我慢することではありません。正しいことを積極的に行うことを意味しています。先程触れましたⅠコリント13章は「愛の章」と言われ、その7節には「 」と書かれています。真実な愛というのは、正しいことを積極的に行う力のあるものです。その力を神は私たちに与えてくださっているのです。あとは、その力である忍耐を完全に働かせることが大切なのです。
私たちはこの世にあって、様々な信仰の戦いを経験させられます。確かに、この世の流れに乗っての生活は楽かもしれません。しかし、神は私たちにこの世の流れと戦い抜くことのできる忍耐を与えてくださっているのです。私たちにとって大切なのは、この世の流れに乗ることではなく、神が与えてくださっている忍耐を用いることです。悩みや試練を神の恵みの1つと捉え、神が与えてくださっている忍耐を用いることができるように祈っていきたいものです。
3)試練が与えるもの
ヤコブは「その忍耐を完全に働かせなさい」と語ったあとで、「そうすれば…完全な者となります」と語っています。この「完全な者」とは、「完璧な人」とか「完成された人」という意味ではありません。この「完全な者」とは、「バランスの取れた人」という意味で、「霊的な大人になった人」ということです。それは信仰の成長を意味しています。試練が私たちに与えるものは、一人ひとりに与えられている信仰の成長です。私たちは試練を経験しなければ、その試練の中に働いてくださる神のすばらしさを知ることはできません。試練を通して、まだ自分が知らない神のすばらしさを経験することができるのです。それはどういうことかと言いますと、「自分が理解できることは神もできるが、自分が理解できないことは神もできない」という捉え方から、「自分が理解できないことも神にはできる」という捉え方に成長させられるのです。そのようなことは頭の中では分かっていますが、経験としては分かっていないのです。だから、不安を覚えるのです。
私は中学生になるまでマッチで火をつけることができませんでした。何故なら、火をつけた経験がないからです。ですから、マッチをマッチ箱にこすれば火がつくということは分かっていますが、怖くてマッチに火をつけることができなかったのです。初めてマッチに火をつけたときから、その怖さは消えてしまいました。今思えば、「これも大人への一歩の成長やな」と捉えています。不安や恐れから抜け出すことができず、いつまでもその所に留まっているなら前に進むことはできません。すなわち、成長することはできないのです。ですから、試練は私たちに与えられている信仰を成長させるものです。
20年以上前の話しですが、赤坂泉先生がアメリカに留学されていたときの話しをされました。赤坂先生は「私はアメリカ人から日本語の学んだ」と話されていました。それは何かと言いますと、「危機」という漢字についてです。「危機」という漢字は2つの字から成り立っています。1つは「危ない」を意味することばで、もう1つは「機会」を意味することばです。「危機」をどのように捉えるかで、その人の歩みは違ってきます。「危機」を「危ないもの」として受け止めて引き下がるなら、そこから先を進むことはできません。しかし、「危機」を「良い機会」として捉えるならば、その先を進むことができるということです。その後、私はこのことをいろいろな所で耳にするようになりました。ひょっとされたら、耳にされた方もおられるかもしれません。
試練は、その人にとって危機的なものでしょう。ですが、捉え方によって前に進めるか進めないかが決まってくるのです。聖書は「試練はその人にとって良い機会のもの」と語っています。試練は信仰を成長させる良い機会なのです。試練が私たちに与えるものは、神のすばらしさを知り、私たちの信仰を成長させる良い機会なのです。試練をそのように受け留められるように祈っていきたいものです。
結)
ヤコブ書は、本論の最初に試練から始まっています。「何故、試練から始まっているのか」ということを考えました。試練はできれば受けたくないものです。しかし、決して受けずに済むものでもありません。誰もが試練を経験するのです。その試練をどのように受け留めるかで、その人の信仰生活は違ってきます。私たちは「神の恵みは自分にとって良いもの」と思ってしまいやすくなります。ですが、試練も神の恵みの1つなのです。私たちは「恵まれたい。神の恵みをもっと受けたい」と願います。でも、その中には試練は含まれていないのではないでしょうか。祝された信仰生活には、試練は欠かすことのできないものなのです。何故なら、試練も神の恵みの1つだからです。