(21)Q.キリスト教で救いとはどのような事ですか?

Ans.私達には自分中心に物事を考えていく傾向が本来的にあります。「お金が沢山入りますように」とか、「早く病気を治して下さい」とか、苦しい時の神頼み的傾向です。そのように祈ってはいけないというのではありません。神を自分の召使いのようにする態度が問題なのです。なぜなら、それはつきつめていくと、自分を神とすることであり、これが「罪」と呼ばれる、あらゆる悪の根源だからです。他の宗教では煩悩を捨てよと言い、修行によって悟りを開けと言います。しかし、こうした人間的力の無力さ、自分の罪への絶望を心底知った人々に、イエスは言われます:「すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。イエスは私達が受けるべき罪の罰の身代わりになって下さいました。このことを知り、受け入れることが救いなのです。

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(22)Q.神に全てを任せるというのは無責任では?

Ans.これは、「自分で犯した罪は自分で償うべきだ。それをしないで神に赦してもらおうというのは安易すぎる」という意味でしょう。聖書ははっきり、自分の行動に責任を持つ成長した人間になることをすすめています(マタイ5:48)しかし、それでも罪を犯してしまったらどうすればいいのでしょう?相手が人間の場合は、誠意を尽くして謝り、賠償したり刑に服したりすることになるのですが、罪は実は第一に神との関係の問題なのです。なぜなら、私たちの全ての罪は、清く歩むようにと要求しておられる神に対する反逆だからです。そして罪への正当な報いは永遠の滅び以外にはありません(ローマ6:23)。人間の陥っているこの窮地を救うために、イエス・キリストは来られ、彼の身代わりの贖罪を信じ、彼を救い主と信じる者全てを赦すと約束して下さったのです(ヨハネ3:16,17)

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(23)Q.私は救われるには余りに汚れ果てています。

Ans.これは自分の心の中を本当に深くかえりみたときに、発せられる言葉であると思います。その意味でとても大切な、忘れてはならない謙虚な心です。ただ、この限りなく絶望に近い謙虚な思いを、本当の絶望にしてしまうならば、とんでもない傲慢に陥ることをご存じでしょうか。なぜならこのような見方の根底には“自分の罪や汚れは自分の力で聖めなければならない”という考え方が横たわっているからです。聖書の中で聖いという時、それは神の御前に立つことができるということであって、完全な聖さを意味しています。言い換えれば、少し聖いとか半分聖いということはないのです。ですから、汚れている人がどうして自分を聖くできるというのでしょうか。それはまるで重病の人がお医者さんに「もう少し良くなってから、診察して下さい」と言うようなものです。イエスは次のように言われました。

「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
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(24)Q.キリストを救い主として信じる信仰は、子供でも持てるのでしょうか?

Ans.正直言って、このことについては私自身偏見があったことを告白しなければなりません。しかし、主イエスは「子供達のようにならない限り決して天の御国には、入れません」(マタイ18:3)と言って、子供を一個の人格として受けとめておられます。やがて大人になる存在としてではなく子供を子供として把握し、神の国と心という観点で見ておられます。また、10歳前後でクリスチャンとなり素晴らしい働きをした歴史上の沢山の人々を知るにつれ、自分の考えが聖書に基づいていない偏見でしかない事に気づかされました。むしろ、年齢が進むほど福音に対して心が頑なになっていく事が統計上も知られています。たとえば、35歳以上でクリスチャンになる人は5万人に1人、45歳以上では30万人に1人。「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12:1)の聖句は真実です。

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(25)Q.イエスは神と人との関係について、何を教えられたのですか?

Ans.イエスは受難の前に神に「アバ、父よ」と呼びかけ(マルコ14:36)、弟子達にも「父よ」と呼びかけるよう教えられました(ルカ11:2)。アバは、子供が親しみと信頼をこめて父親を呼ぶ言葉です。このように神に呼びかける例は、当時のユダヤ教にはなく、イエスご自身が授けられた特徴ある教えでした。父である神にとって、子である人間は一人一人いとしいものです。罪びとであってもそれは変わりません(ルカ15:1-32)。ですから、どんな罪びとでも父なる神の家に帰れるのです。イエスは罪びとや徴税人に特別にお近づきになりました。神と人間との関係が新しくなりますと、人間相互の関係も新しくなるはずです。互いに兄弟姉妹になるからです。イエスは十字架上のご自分の死をもって「目には目を」という復讐法の世界から、「敵をも愛せよ」(マタイ5:43-48)という隣人愛の世界に変わった事を教えられたのです。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

(マタイ5:43-48)
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