(26)Q.どうしても愛せない時はどうすればいいのでしょうか?

Ans.まず、愛そうとして真剣に取り組み、悩んでいること自体がとても尊いことだと覚えましょう。罪びとである私達は、嫌いな人とはすぐ壁を作ったり逃げたりします。その方が簡単で楽だからです。愛せない自分、寛容になれない自分を認めることは、とても勇気のいることだからです。ところで愛するとは一体どういうことなのでしょう。様々な考え方があると思いますが、そのひとつは「一緒にいる事に満足する」事でしょう。ところが嫌いな人とはそうはいきません。幾つかのアドバイスがあります。(1)愛せないと自分を責めるより、謙虚に自分の限界を認め、自分の力のなさをイエスさまに告白しつつ、力が与えられるよう真剣に祈る事から始めましょう。(2)相手の嫌いな点が実は自分について嫌いな点だったり、自分に原因があったりするものです。(3)ぜひ以下のルカ6:31からの聖書の言葉を読んで下さい。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。(ルカ6:31-35)
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(27)Q.三位一体ってどういうことですか?

Ans.父・子・聖霊は三つの神でなく、唯一の神だという信仰です。キリストについていえば、彼は神であって人間であり、同時に二つの存在だったということです。「ソンナコト常識ニ反スルヨー」と言う方がおられるかも知れません。ここで自然科学の一つの常識をご紹介します。光の本性を調べると、波のいろいろな性質(例:2本のサーチライトを交差しても進路が変わらない)が見られます。ところが波であるとすると波を伝える物が必要なのですが宇宙空間は真空なのです。また、光には粒子としての性質(例:太陽の傍を通ると進路が曲げられる)も観察されます。それで今では、光はエネルギー が波の形を取ったり、粒子の形を取ったりして、異なった性質を併せ持つものだと考えざるを得ないのだそうです。はっきり言って、三位一体は神学的に未解明ですが、多くの聖書箇所が証ししています(例:マタイ28:19)

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(28)Q.奇跡は現代科学と矛盾するのではありませんか?

Ans.聖書を読んでいて、イエスの海上歩行とか、ライ病の癒しなど私たちの常識ではどうしても分からない記事が出てきます。そうした奇跡の読み方・理解の仕方には3通りあるでしょう。(1)奇跡の存在を否定する読み方。(2)イエスのなさることだから、なんでもできるはずだとして全面的に受け入れる読み方。(3)聖書の中になぜその奇跡があるのかを考えてゆく読み方、つまり、一つ一つの場合を歴史的・分脈的に検討してその意味を考えていく読み方です。私たちの肉体の目でみる自然の法則の流れとは違った価値を持つものの存在を認めるのが信仰の世界です。これは理屈の問題ではなく決断の問題です。マスコミによってしばしば取り上げられる超常現象と聖書の奇跡には明かな差異があります。それは単なる異常現象なのか、それとも私たち人間への神の愛の表れであるのかの根本的違いです。

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(29)Q.なぜ神はある人々が障害をもって生まれてくるのを許したのでしょうか?

Ans.現在の一般社会は、自分自身を健常者と思い込んでいる人々がつくり社会を構成しています。よって自分達ほど健常でない人がいれば、その方々のためにわざわざ条例を作ったりして恩着せがましく、「我々はこんなに障害者の方々に尽くしている」と言う。誤解が生んだ寝言ですよ!何が健常人だ!障害者だよ君は、というのですか!「障害者」というその方々の物差しは、あくまで健常人と思いこんでいる人々が作成したもの。これは絶対に間違いです。健常か否かをご存知なのは神唯一です。ヨハネ9章の「神の栄光を現すために存在する」の聖句に神の健常の物差しが表れています。それは、自分は健常と思っている人はどんなに謙遜に、敬虔にふるまおうとも、自分を健常と思っているその一事だけで既に健常ではないということです。(中村智博「聖書にバックドロップ」いのちのことば社より)

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(30)Q.キリスト教は先祖を粗末にしているのではありませんか?

Ans.クリスチャンが仏壇に向かって手を合わせず、焼香もしないから先祖を粗末にしていると言うのは誤解です。誰も生きている人を神として拝まないのと同じように、クリスチャンはただ、死んだ人をも拝まないだけです。生きている父母を敬うように、死んだ先祖を大切にする気持ちは少しも変わりません。ですから、記念会というのを開いて、先に死んだ人の生涯を思い出し、偲んで自分の生き方を深く反省する時を持つ教会もあります。生きている間、さんざん親不孝をしていて、死んだら神や仏にして拝むというのでは、何か間違っているのではないでしょうか。最も良いことは、祖父母や両親や親戚の人にできるだけ分かりやすく、イエス様の福音を伝える事ではないでしょうか。そのためにも、生きているうちにイエス様に仕えるように仕える事がより意義深い事なのです。

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(31)Q.聖書によれば、死は罪の結果としての罰だとありますが(ロマ6:23)、なぜクリスチャンでも死ななければならないのですか?

Ans.クリスチャンはキリストの贖いによって罪が赦された者ですから、なお罪への罰としての死に会わなければならないのは、一見矛盾しているように見えます。しかし、救いというのは、私達が主イエスを信じたときに始まり、私達がこの世の生を終えるときに完成するのです。ですから、罪がまだ完全になくなってしまったわけでない現在、死がなくなるということもないわけです。このように、クリスチャンにとって死は救われる前とは全く違った意味を持つようになったのです。キリストの救いを知る前は死は罪の呪いでしかありませんでしたが、十字架の贖いは死をこの肉体の世界から、天のパラダイスに行く門口という意味に変えました。ですから、クリスチャンにとっては死はもはや恐れの対象ではなくなったのです。

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