(16)Q.教会といっても、欠点だらけの人がいるじゃないですか。ガッカリです。

Ans.聖書の中心人物イエス・キリストの弟子たちというのが、なんと欠陥人間の見本市なのです。聖人君子なんて一人もいない。ナンバーワンの弟子といわれたペテロを見て下さい。彼などは気が短く単純で、平気で人を裏切るような人物でした。感情第一人間で、思ったことはペラペラしゃべる人物。・・・・そうなんです。教会にはいろんな人がいるんです。そして欠点だらけでOKなんです。欠点があったほうがいいんです。変えられるから、成長できるから、そしてその欠点のゆえに慰められ、愛されるからです。そして欠点のあるほうが、事実欠点のある人を受け入れ、愛することができるのです。(中村智博著「聖書にバックドロップ」いのちのことば社刊より)

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(17)Q.聖書は本当に神の言葉なのですか?どうも人間のいろんな汚い面も書いてあったりして、そうは思えないのですが・・・。

Ans.聖書は、わざわざ主人公の失態をまざまざと描写し、現代の刑法にも触れるような主要登場人物の罪をあからさまにしています。聖書なら聖書らしく、神の正しさとその命令に終始していればよいものをと思いたくもなります。しかし神は人情として当然美化したい人物さえ、さらけ出されます。なぜでしょう?それは、その人々の姿こそが神の造られた人間の現実だからです。聖書の中にそんな人々を描き出し、『それ、ここにおまえがいるよ』『ほら、これがあなたの今の姿だよ』と神の真理に私たちは照らし出されるのです。ここに神からの言葉が生きて私たちに届けられるのです。いろんな事が書いてある故に、私たちはその神の言葉の中に自分を発見でき、活き活きと聖書の神に会えるのです。

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(18)Q.聖書についてまだ全部は知らないので、信じられません。

Ans.キリスト教信仰にとって、正しい知識を持つことは確かに大切なことです。信仰は正しい知識の上に成り立つものだからです。しかしそれは、聖書の全てを知っている知識である必要はないのです。また、キリスト教についての全知識である必要もありません。救われるためには、それに必要な真理への理解と信頼だけで充分です。この「必要な真理」とは、イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかって死んで下さったということだけです。このことがわかるようになるために、66巻の聖書はあるのです。たとえ聖書についてはほとんど知らなかったとしても、聖書の中心である救い主について知り、その方が私のために何をして下さったのかということを知り、この方を自分の救い主であると信じるならば、必ず救われるのです。これが救いについて必要で充分な知識なのです。

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(19)Q.キリストを信じるだけで救われるとは?

Ans.多くの人は、キリストを救い主として信じるだけで救われるという教えが余りにも安易過ぎると考え、それだけでよいのだろうかと心配します。もっと難しい、たとえば難行苦行をするとか、少なくとも自分の良心が満足するような償いをしたいと考えるのが、私達の通例でしょう。しかし、果たして私達は自分を救うことができるのでしょうか。私達の救われなければならない姿を、聖書は罪びとと呼んでいます。罪はいったん犯されれば後でどんなに善行を積もうが、賠償をしようが、罪を犯したという事実を消すことはできません。まして、どんなに財産や名誉を手にしても、罪の事実を消すことはできません。そこで私達は自分のどのような努力も、救いには無力であることを知ります。「罪の報酬は死である」(ローマ6:23)と聖書は言っていますが、キリストは十字架の上で私達の身代わりとなってくださったのです。

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(20)Q.全ての人が罪びととは、どういう事ですか?

Ans.罪びとという言葉は、犯罪人をまず連想させるために、いやな響きを持っています。しかし、聖書が罪びとと言うとき、それは法律上の犯罪人という意味ではなく、“人が神の標準に叶わなくなってしまっている”ということをさしています。人間が神によって最初に創造された時の姿から堕落してしまって、自分の力では善を行うことができなくなってしまったのです。もっと分かりやすく言えば、利己的な者になってしまい、自分のことしか考えない者になってしまったということです。ここに人間の不幸があり、悲惨があります。これは単なる弱さや不完全さとも違い、教育や訓練によって解決できる状態でもありません。罪からの解放が必要なのです。ですからこの状態にある人類を、救われなければならない罪びとと呼ぶのは最も適している呼び方ではないでしょうか。

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