(11)Q.イエス・キリストは神なのですか?

Ans.イエス・キリスト以外に、自分を神と宣言した(ヨハネ5:17,18)人は、五大宗教(キリスト 教、仏教、イスラム教、ヒンズー教、儒教)においていません。ただ神を恐れない人にとっては誰でも、自分を神だということはたやすいことですが、どうして私達はイエスを神と信じるのでしょうか。それはイエスが単に言葉だけでなく、実際に業によってもそれを示されたからです。中でも復活は多くの奇蹟や旧約聖書の預言の成就の極致です。復活は旧約において預言され(ホセア6:2)、イエス御自身も予告し(ヨハネ2:19,21)、実際に彼は復活しました(マタイ28章にその時のことが詳しく書かれています)。復活の証拠は調べれば調べるほど、その確かさが明らかになってくるものです。イエスはこう言っておられます「私が父におり、父が私におられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい」(ヨハネ14:11)。

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(12)Q.キリストが神の子なら、なぜ十字架に架けられたのですか?

Ans.ローマ人が考え出した十字架刑は、人間が作った処刑方法の内で最も辱めと苦しみを与える死刑の方法であると言われています。ですから当時ローマ市民には決してこの処刑方法を用いられず、大抵、奴隷とか極悪犯罪人を処刑する時にだけ用いられました。では、なぜキリストはこんなとんでもない十字架に架けられたのでしょうか?それは一面から見れば、人間の妬みですが、本当はさらに深い意味があって、神のご計画によって行われたのです。遠くはアダムとエバが罪を犯したすぐ後にも、もう十字架が予告されていましたし(創世3:15)、預言者イザヤは約700年も前に、まるで眼前で見ているかの様にその光景を預言しています(イザヤ53章をご覧下さい)。その他の多くの預言がイエス・キリストに成就し、彼が人類の罪の身代わりに罰せられ、その結果、私達の罪の赦された事が聖書に書かれています(1ペテロ2:24)

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(13)Q.信仰とはどのようなものなのでしょうか?

Ans.こと信仰については、古来から数限りなく「信仰とは…」と言われてきましたが、キリスト教での信仰をひとことで言うとすれば「アーメン」に尽きます。ヘブライ語の「信仰」という言葉の語源は「アーメン」だからです。イエスは重要なことを話し始められるときに、「まことに、まことに」という言葉を用いられましたが、これが「アーメン」ということばです(マタイ5:18; マルコ9:1; ルカ4:24; ヨハネ1:51)。何が「まこと」、つまり「本当」なのかというと、それは神の言葉が本当だという意味なのです。人間的には不可能に思えることでも、それが聖書に書かれている神の言葉だから、心から信じることが信仰なのです。ヘブル書11:1には次のように書かれています:「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。

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(14)Q.信仰に入ると何か自由が束縛されるのでは?

Ans.この考えの背景には、自由についての取り違えがあると思われます。確かに信仰を持つと、自分勝手なことがしにくくなります。自由と自分勝手は違うからです。自分勝手というのは、他人が迷惑しようが、どう思われようが構わずに、自分がしたいことをするということですが、これは自由とは関係ありません。本当の自由とは、本能の奴隷、欲望の奴隷、感情の奴隷となっている状態から解放されて、喜びと平安にあふれた生き方に変えられることです。たとえばタバコをやめたいと思ってもやめられない人は、タバコの奴隷です。キリスト教には戒律などはありませんが、神の言葉は人生の最大の指針です。これを譬えていえば、ちょうど交通ルールを守って走行する人のようなものです。ルールを守る人は、たとえ事故で被害者になったとしても、法律によってしっかり守られるのと同じです。ルールを守らずに勝手に運転することは自由ではなく、自分勝手なのです。

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(15)Q.教会に行かなくとも、信じていればいいのではありませんか?

Ans.確かに救いは個人の事柄であり、人は「イエスが自分の罪の身代りに死んで下さった」ことを信じるならば救われます(ローマ10:9,10)。これは大事です。ただ、これで全てならば、どうしてイエスはその伝道の最初から弟子たちを集め、訓練し、更に昇天に当たって、神の国の福音を宣べ伝える働きを彼らに託されたのでしょうか(マタイ28:18-20)。パウロは次のように言っています:「信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか」(ローマ10:14)。キリストを信じる群れとしての教会は、たとえ言葉や文化、習慣は異なっても、同じ聖書から神の御心を知る喜びと交わり、そしてまだ福音を知らない人々への伝道と奉仕という、真の隣人愛に生きる共通の使命が託されたのです。

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