(6)Q.いずれ文明の進歩が全てを解決するのでは?

Ans.科学の進歩にはめざましいものがあります。十年前の疑問は、今日解決され、不治の病と考えられていたものが、今では恐ろしくなくなったものもあります。しかし、科学や文明には限界があるのです。例えば科学は現象面のことしか扱うことができません。現象として現れてこないものや、実験観察できないものについては、科学は全く何もできないのです。例えば、科学が「死」について「大脳活動の停止」と説明したとしましょう。現象面でとらえ、観察という方法により定義したわけです。この点に関して誤りがないとしても、この定義を聞くことによって死に対するあなたは疑問や不安・恐怖から解放されましたか?死に対するこれらの問題が解決されるのは、死についての高次の意味が示されるとき、つまり私達の心が十分満足する仕方で答えられるときにおいてのみなのです。

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(7)Q.「死後の裁き」は子供だましでは?

Ans.スポーツだって、もし審判がだらしなかったら興味はそがれます。社会は各人がしたことに対する判定と報いが正当に行われることによって、秩序が維持されます。私達の世界の様々なトラブルは、この二つが正しく行われないことに起因するのです。「人間には、一度死ぬことと死後裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と聖書は告げています。私達はまったくせっかちに他人を裁くものですが、“神様でも、その人が死ぬまでは裁かない”とは味わい深い真理ではありませんか。神はできることなら、裁くよりも救いたいのです(2ペテロ3:9)。ですから私達にとって大切なことは、神の裁きがあるとか無いとか、知らないことを論じるよりも、自分の過去におこなった罪や過ちに対して、それらが不問に付されているように見える点にこそ、神の忍耐と寛容があることを悟って、悔い改めることなのです。

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(8)Q.人間は死後どうなるのでしょう?

Ans.これは昔から人間の心をとらえて離さない謎でした。それというのも死んだ後にこの世に返ってきた人がいなかったからです。臨死体験というのもあくまで臨死でしたから、その後のことは結局、想像の域を出ませんでした。しかし、死に対する恐れが誰の心にもあるということは、死によって全てが終わってしまうのではなく、その後に何かがあるという事を暗示してはいないでしょうか。このことについてキリストは「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と言われました。その意味するところは、キリストが罪とその結果である死の力を打ち破るということです。そしてその証明として彼の復活があるのです。クリスチャンにとって、死はこの肉体の世界からパラダイスに行く門口という意味に変わり、死はもはや恐れの対象ではなくなりました。

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(9)Q.どの宗教も結局行き着く所は同じでは?

Ans.こんな歌があります:「分け登る麓の道は多かれど、同じ高嶺の月を見るかな」。この歌は上の質問と同趣旨の歌と思われます。確かにこの宗教観は救いを人間の精進によって得られるものとする立場からは肯定しうるものでしょう。歌のたとえを借りるならば、山に登ることはできても、それで月に手が届くわけではありません。また、既に月面着陸を果たした現代の私達は、月に手が届いたからといって、そこが神のおられる所ではない事も知っています。あるいは歌の趣旨は、人間は精神の高みに達することはできても、決して神のみもとに行くことはできないということを、高嶺の月に託したものなのかも知れません。キリスト教はこの絶望の現実を見つめるものです。人間が登りつめていくのではなく、神が人間を救うために私達の世界に降りてこられたというのが聖書の宣言する福音なのです(ヨハネ14:6)

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(10)Q.新興宗教がなぜいけないのですか?

Ans.新興宗教は人の必要に応じて人間が作ったものであるだけに、その時代のある程度の問題については解答らしいものを示します。しかし、その大半は現世的なご利益主義の上に立っていて、それに祖先崇拝や呪術(病気を治したり、占いをしたりする術)が結びついています。しかも呪術は特別な資格を持った人だけが行い、信者はただそれについていけばそれで済むという安易さも、大きな魅力になっているようです。中には因果とか業とかを強調するものもあります。それは一つの説明にはなるかもしれませんが、解答にはなり得ません。それは諦めを促すかもしれませんが、決して希望を与えるものではありません。人間の最も基本的な問題に対して解答を持っていない新興宗教は、宗教としては失格なのです。(尾山令仁「一問一答」より)

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