(1)Q.私には信仰するほどの悩みはありません。

Ans.信仰に入った人には必ず何か大きな悩み(例えば、失敗、大病、失業、失恋あるいは近しい人の不幸など)があったと思っておられる方がいるかもしれません。確かにそうしたことから信仰を持つようになった方もおられます。しかし、必ずしもそうではなく、これといった悩みを持たずにクリスチャンとなった方もたくさんおられます。ところで「悩み」という場合、以上に挙げたようなものだけが悩みなのでしょうか。人生には誰もが持つ様々な悩みがあります。学生であれば勉強や進学に、社会人であれば職場での人間関係や競争、結婚問題などもあるでしょう。つまり、悩みはないのではなく、他人に相談しても仕方ないと思っているのではないでしょうか。自分の無力さ悲しさに苦しんでいる人は多いはずです。イエス様はこのような人のそばにおられます。


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(2)Q.信仰に入るのは弱い人間だと思います。

Ans.人間が弱いかどうかは一体何によって決めるのでしょうか。日頃元気がいいということが、果たしてその人が弱くないということの証明になるでしょうか。大酒を飲み、平気で悪いことをしたりする人が強い人で、そうしなくなるのが弱々しいことなのでしょうか。しかし、いつもはっきり物事を言い、強そうに生きているからといって、必ずしも強いとは言えません。本当に強い人とは、何か危機的なことにぶつかったときにも、なおくずおれてしまわない強さを持った人のことです。外面的に強く見えるかどうかということよりも、内面的強さを持っている人こそ、本当に強い人と言えるでしょう。ただ、どうしてそんなに「弱い」ことを恐れるのでしょう。実は弱さを恐れる心の中にこそ、真の強さへの鍵があります。それは自分の弱さを認めて唯一の力ある方、キリストを受け入れることです。

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(3)Q.忙しすぎて信仰なんか考えてられませんよ。

Ans.「お忙しいところ誠に…」というように、忙しいは私達の挨拶にさえなっていますが、それは忙しいほど充実した毎日を送っているということなのでしょうか。むしろ忙しすぎてイヤになってしまうということなのではないでしょうか。その割にはテレビに結構時間をとっていたりするものです。遊ぶとか、自分のことのためには時間がないことはないのです。つまり、「忙しい、忙しい」と言いながら、今日の多くの人々は、心の生活を失っているのではないでしょうか。よく言われることですが「忙しい」という字は「心が亡びる」と書きます。心が亡びる生活を送っているわけです。しかし、人間として生きていこうとするときに一番大切なことは心の問題で、生き甲斐とか生きる喜びです。忙しければ忙しいほど、内面の充実が問われるのです。そしてそれこそ神の言に聴く信仰生活にほかなりません。

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(4)Q.人生、真面目で誠実であればそれでよいのではありませんか?

Ans.この質問の根底には、真面目で誠実であれば立派な人生を送ることができ、またそうした人生を送ることが一番大切なのだ、という考え方が前提になっているのではないでしょうか。ところで真面目・誠実という場合、何を基準にしてそう言えるのかが重要なことです。間違ったものを基準にして、それに真剣であり、誠実であろうとすると、かえって危険な人生を送ることになりかねません。今明らかになってきている、第二次大戦中の日本人の行動や生活が引き起こした沢山の過ちはそれを示しています。私達がキリスト教によらなければ、真に意味のある人生を送ることができないと主張するのは、イエス・キリストの指し示す道こそ唯一の救いの道だと確信するからなのです。そしてこの真理への道は聖書全体にに詳しく書かれています。

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(5)Q.宗教がなくても人間は生きていけるのでは?

Ans.人間が動物達のように、食べたり寝たりのしたい放題のことをするだけなのであれば、確かに生きていくことはできます。しかし、人間が他の動物達と違う点は、目的や意義というものなしには生き甲斐を感じることができないということ、そしてそれがなければ、結局生きる意欲を失ってしまうというところにあるのではないでしょうか。人間は、小さな車の中に入って飽きもせず走り続けているハツカネズミのようには、生きていけないのです。日々に追われて忙しくしている時、あるいは無為に過ごしている時、ふとこれでよいのかと考えて悩むものです。苦しみの経験、身近な人の死、対人関係など、私達は様々な機会に悩みます。そうした人生の問題に、根本的なところから解決の光を与えるのが宗教なのです。

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