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《祭司》

 神と人との仲保者として神に仕え、祭の儀式にたずさわる者を祭司といいます。旧約の族長時代にはアブラハムの例に見られるように、一族の長が祭司の職務をしていましたが(創世記8:20; 12:7)、モーセの時、アロンとその子孫が祭司職に選ばれました(出エジプト28:1)。 イエス・キリストはまことの大祭司であり(ヘブル2:17; 3:1)、十字架による贖いのわざをなし終えてアブラハム時代の大祭司であるメルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられました(ヘブル5:8-10)。人はキリストによって神に近づくことができるのです(ヘブル7:24、25)。 また、クリスチャンはみな祭司となるのです(1ペテロ2:5、9)。マルチン・ルターはこのみことばによって、万人祭司を唱道しました。

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《再臨(さいりん)[The Second Coming;παρουσια(パルシア)]》

 キリストが再びこの地上に戻って来られることです。聖書には次のように書かれています:「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には、すまいがたくさんある。...あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたを私の所に迎えよう。私のおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ14:1-3)。その時期は父なる神のみがご存知です(マタイ24:36; マルコ13:32)。聖書の確かな約束にも拘らず、時期が明確にされていないことをよいことに、歴史上様々な偽予言が流布されてきました。大切なのは「心を騒がせない」ことです。

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《サタン[Satan; Σαταν(サタン); サタン(H)]》

 神に敵対する霊的存在で、悪魔(マタイ4:1)、ベルゼブル(マタイ10:25)などと呼ばれています。サタンの霊力は蛇に入り(創世3:1)、人の心に入り(マタイ12:22)、時には光の御使いに変装して(2コリント11:14)神に反逆するのです。まさしく「誘惑者」(1テサロニケ3:5)と呼ばれるゆえんです。
 興味深い事に聖書の中でサタンは、しばしば天の神の御前に出ている様子が描かれています(ヨブ1:6; 2:1; ゼカリヤ3:1など)。どうして神がそれを許可しているのか、あるいはなぜサタンを今も放っておかれるのかは、説明が困難です。あるいは神よりはサタンの言動に近い私達を、神が今も寛大に忍耐しておられる事と合わせて考えるべきなのかもしれません。 ただし、サタンの最後が滅びであって、キリストによる勝利であることは聖書にはっきりと書かれています(ルカ10:18; 1ヨハネ3:8; 黙示20:7-10)。

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《サドカイ人 [Sadducees; Σαδδουκαιοs(サドゥケオス)]》

 紀元前2世紀頃から紀元1世紀にあった、ユダヤ教の一党派です。イエスが活動された時期には、パリサイ派と対立していたグループでした。サドカイという名は、ソロモン王時代の祭司ザドクに由来するのではないかと言われています。パリサイ派が厳格な律法主義であったのとは対照的にサドカイ派は祭司の家系を中心とした富裕な上流階級を代表し、ローマとの妥協的態度から、社会的には要職者が多かったにもかかわらず、民衆からは浮き上がっていました。信仰的にはモーセ五書以外を認めず、霊魂不滅・復活・天使・悪霊の存在を否定していました(使徒23:8)。イエスは「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒しなさい」(マタイ16:6)と教えています。

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《裁き [judgment; κριμα(クリマ); シェフォート(H)]》

 毎日のニュースのほとんどは社会で起きている様々な犯罪や悪事の報道です。しかし私たちが日々の生活で犯してしまう様々な罪は、たとえそうしたニュース沙汰にはならないとしても、神の前にどのようにしても言い訳ができるとは思えません。聖書はこのことを「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:23)とはっきり語っています。「罪の報酬は死である」(ローマ6:23)と聖書が言っている通り、私たちが犯した罪の事実は、どんな手段をもってしても消すことができず、その裁きとしての死が生涯の最後に待っていることに服さざるを得ません。

しかしそれでは一体誰が救われることができるでしょうか?実は前述のローマ3:23には次のような聖書の言葉が続いているのです:「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。私達自身では決して償うことのできない罪の結果を、神御自身がイエス・キリストの身代わりの死によって赦して下さったというのが聖書の福音なのです。

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《サンヘドリン [Sanhedrin; συνεδριον(スィネドリオン)]》

 ローマ時代に設けられたユダヤの最高議会で、いわば日本の国会にあたるものです。大小2種があり、(1)議会(大サンヘドリン)は首都エルサレムに置かれ、70名の議員によって構成されていたところから、七十人議会とも呼ばれました。その職能は国民の宗教問題や税の徴収、民事・刑事の処理などでした。これに対し、(2)小サンヘドリンと呼ばれる、地方の各町村に置かれた衆議所があり、地方的事件の処理を担当しました(マタイ10:17; マルコ13:9)。以上2つのサンヘドリンの内、イエスの死刑を宣告したのは(1)の七十人議会でしたが、この中には何とかしてイエスを救出しようとしたアリマタヤのヨセフやニコデモ、また後に使徒たちのために弁護したガマリエルもいて、確かな福音の目撃者はその中にも芽生えていたのでした。

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《三位一体(さんみいったい) [Trinity] 》

 父・子・聖霊は三つの神でなく、唯一の神だという信仰です。キリストについていえば、彼は神であって人間であり、同時に二つの存在だったということです。「そんなこと常識に反する」と言う方がおられるかも知れません。ここで自然科学の一つの常識をご紹介します。光の本性を調べると、波のいろいろな性質(例:2本のサーチライトを交差しても進路が変わらない)が見られます。ところが波であるとすると波を伝える物が必要なのですが宇宙空間は真空なのです。また、光には粒子としての性質(例:太陽の傍を通ると進路が曲げられる)も観察されます。それで今では、光はエネルギーが波の形を取ったり、粒子の形を取ったりして、異なった性質を併せ持つものだと考えざるを得ないのだそうです。はっきり言って、三位一体は神学的に未解明ですが、多くの聖書箇所が証ししています(例:マタイ28:19)。

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《死 [death; θανατοs(サナトス); マヴェト(H)]》

 聖書では3種類の死が区別されています。第1は肉体的な死です(ヘブル9:27)。人は誰でも、老衰・病気・事故などで死にます。第2の死は永遠の滅びで、「黄泉…に投げ込まれる」(黙示20:11-15)ことです。 これに対して第3の死というのは、肉体は生きているのですが、罪のために心が死んでいる状態をさしています(エペソ2:1,5; コロサイ2:13; ルカ15:24)。第2、第3の死から生かされることを「救い」というのです(エペソ2:5; ヨハネ3:16,36)。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」(ヨハネ3:16、17)

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《死海(しかい) [The Dead Sea; ヤム・ハンメラハ(H)》

 イスラエルの東南部にある塩水湖で、世界で最も低い所(海面下392m)にあります。南北76km、東西15.6kmの大きさで、水深は最も深いところで400mあります。「死海」という名前は、塩分が多く生物が生きていけないところから、2世紀ごろのギリシャ人地理学者パウサニアスによって名付けられました。旧約聖書では“海・塩の海・アラバの海・ロトの海”とも呼ばれていますが、新約聖書には言及がありません。ここに注ぐおもな川はヨルダン川で、その他にもいくつかの小川が注いでいますが、死海の特異性は流れ出る川がひとつもないことです。そのため塩分を主成分とするミネラルが多量に含まれていて、人が泳いでも本当に沈まないのです。古代のソドム・ゴモラの町(創世13:10)が湖底に没していると推定されています。

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《死海写本(しかいしゃほん) [The Dead Sea Scroll]》

 死海の北西にあるクムランの洞穴で見つかった旧約聖書の断片や注解書などの写本のことです。1947年の初夏に遊牧民族であるベドウィンの少年がいなくなった羊を探している途中に、高さ60cmほどの壷を見つけましたが、その中に亜麻布に包まれた羊皮紙の巻物が入っていたのです。この事がきっかけとなり付近の調査がなされ、11の洞穴から沢山の写本や土器などが発見されました。印刷術のなかった昔は聖書は手で書き写され、書写しが完了した時点で古い原本は破棄されました。この習慣のため最古の旧約本は12世紀頃までしか遡れなかったのですが、死海写本の発見によって一挙に1000年も原典研究が進むことになりました。しかし、驚くべきことに死海写本の研究は聖書が2000年の間、ほぼ正確に書き写されてきた事を証明しています。

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《執事(deacon)》

 初代教会の役員のひとつで、礼拝の補佐と教会の実際面の奉仕に携わりました。1テモテ3:8-13には次のようにあります:「同じように、執事たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、執事の務めに就かせなさい。婦人たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。執事は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。というのも、執事の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです」。

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《使徒(しと) [Apostle; αποστολοs(アポストロス)] 》

 「使徒」という語は“遣わされた者”という意味のヘブル語に由来していますが、イエス・キリストによって選ばれ、福音宣教の権威が与えられて派遣された人々のことです。キリストの元に12人の使徒がいました(マタイ10:2-4)。しかし、彼らがその使命の強い自覚に立ったのは、イエスの復活後、教会成立後のことでした。そのため、使徒としての条件として、(1)甦りのイエスから遣わされたこと、(2)聖霊を受けたことが上げられ、イエスを裏切ったユダの代わりにこの条件を充たす人として、マッテヤが選ばれました(使徒1:23-26)。 また、パウロ、バルナバ、ヤコブも使徒と呼ばれています。彼らの活動は使徒行伝に詳しく書かれています。使徒は聖霊による能力ある働きをなし、他の教師に比べてより高く尊重されましたが職制はなく、聖霊の導きにより自由に活躍しました。

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《使徒信条(しとしんじょう) [Apostle's Creed]》

 中世以降に広くキリスト教会で用いられた基本信条のなかで、最初に置かれる信仰告白文です。洗礼を受ける人の信仰確立や異端から守るための信仰基準のひとつですが、使徒との直接的な関係はなく、最古のものは、紀元400年頃のものです。その全文は次のようなものです。
 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、3日目に死人の中より甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審き給わん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の甦り、永遠の生命を信ず。アーメン。」

ただし、使徒信条は主の祈りとは異なって、聖書には記録されていません。

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《写本(しゃほん) [Manuscript]》

 現代の私達は手軽に聖書が所有できまた読むことができますが、印刷技術のない時代には聖書は筆写して使用していました。何ヵ月もあるいは何年もかかって多くの祈りと労力のすえに一冊一冊の聖書は書き写されてきました。ですから、聖書は本当に貴重な本だったのです。羊皮紙に書かれたもの、パピルスに書かれたもの、大文字写本、小文字写本などの他に、死海写本には銅版に書かれたものもあります。新約聖書の主な写本は、シナイ写本、ヴァチカン写本、アレクサンドリア写本、ベーザ写本、ワシントン写本などが有名です。写本間の比較によって原本を測定する作業がなされており、今私達が手にしている聖書は、その原本とほとんど一致したものに基づいて翻訳されています。

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《宗教改革(しゅうきょうかいかく) [Reformation]》

 新約聖書の教えからそれてしまったキリスト教を再びその教えに引き戻した改革のことです。1517年10月31日マルチン・ルターが免罪符に反対して95か条の堤題をウィッテンベルグ教会の扉に貼りだした事がきっかけで改革の火が諸国に燃え広がって行きました。
 ルターが説いた重要な点は、次のように要約されます。

 聖書と福音を独占したローマ・カトリックに抗議(プロテスト)する者という意味で、プロテスタントと呼ばれる新教がこうして始まったのです。

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《十字架(じゅうじか) [Cross; σταυροs(スタヴロス)]》

 木で十字型に組まれた死刑の道具のことです。十字型のほかに、X型やT型、I型があったようです。最近、キリスト教を名乗るあるグループの人々は、キリストが処刑されたのはT字型ではなく、I型であったと主張して「杭」という表現をしています。しかし、キリストの手に打ち込まれた釘が複数であったことがヨハネ20:25の原文からも明かなように、十字架だったことは疑いありません。福音宣教の中心は十字架と復活です(1コリント1:18,23; 2:2)。 それは罪のない、神の御子イエス・キリストが十字架に死なれたのは、私達の罪の身代わりだったからです(1ペテロ2:22-24; コロサイ1:19,20; エペソ2:16; ピリピ2:6-8)。 ですから、私達には主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません(ガラテヤ6:14)。

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《十字軍(じゅうじぐん) [Crusades] 》

 エルサレムはキリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教にとっても聖なる都とされており、古来多くの信仰者たちが巡礼に訪れていました。ところがイスラム教のアラブ人が7世紀に占領し、1071年にセルジュク・トルコが占領してからはキリスト教徒への迫害が加えられ、東ローマ帝国のコンスタンチノープルまで脅かされるようになりました。そこで1095年11月のクレルモン教会会議で教皇ウルバヌス2世は十字軍を召集し、東ローマ帝国の援助と聖地の回復をはかろうとしました。しかし、13世紀後半まで前後8回に及ぶ遠征はやがて聖俗雑多な思惑をもって利用されるところとなり、結局惨憺たる失敗をもって終わりました。ただ、十字軍の結果、教皇権と騎士階級は没落し、のちの近世絶対主義国家の成立へと歴史が移行していく大きなきっかけとなりました。

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《修道会(しゅうどうかい)》

 ローマ・カトリック教会によって認可され、共同生活を営む修道団体。3世紀後半に活動したエジプトのアントニウスがその創始者と考えられています。修道会は通常厳格な会則を持ち、志願者は所定の期間と手続きを経た後、清貧・貞潔・服従の誓願を立てて修道士(女)となります。大別すると観想的修道会(神への讃美・祈りや苦業を通して人々の罪の償いと自己の完徳をめざす)と、活動的修道会(教育・医療・慈善などを通して社会への奉仕・献身をめざす)に分ける事ができます。しかし、どちらの会も行為を通しての自分の徳の完成をめざすものであるところから、信仰を中心に据える改革者ルターの攻撃するところとなり、プロテスタント教会は修道会とそれに類似する制度を取りませんでした。

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《自由主義神学 [Liberalism]》

 17世紀末から従来の正統的神学に対して自由主義と呼ばれる神学が起こり、教会に大きな影響を与えました。これはキリスト教神学と現代思想を結びつけようとする思潮です。また信仰は人間が到達し得た科学や経験とくいちがうものであるはずがないとする基本姿勢に立つため、聖書の記述を科学的に説明しようとします。このため、自由主義神学は次のような共通性を持つにいたりました。(1)三位一体の否認。(2)イエスは単に模範的信者に過ぎない。(3)救いとは罪と審判からの解放ではない。(4)超越的な神の国と終末の否認。確かに文明の到達し得たものは私達の目を見晴らせるものがありますが科学の対象である自然は神そのものではなく、神が宇宙をも造られたのだというのが聖書の宣言です。

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《十全霊感(じゅうぜんれいかん)》

 聖書は神の霊感によって書かれた神的書物だという確信を表わす用語です。その霊感が、聖書の一部分だけ(部分霊感)ではなく、聖書全体を完全に霊感しているというのが十全霊感です。上述の自由主義神学が計量的手法で聖書を断片に分けたり、他の神話との共通点を重視したりするのは、聖書を神の言葉として研究せず、人間伝承の集成が聖書だという破壊的立場をとるからです。イエスは聖書に関してこう言っています:「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:18)。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(2テモテ3:16)。

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《終末論(しゅうまつろん) [eschatology]》

 万物の終わりに関する聖書の教えをさします。神の御子であるイエス・キリストが人となって、救い主として来られたように、世の終わりには審判者として再び来られると書かれています。それは旧約聖書にも述べられていますが(例:ダニエル7:26、27)、新約聖書の黙示録にはっきりと預言されています。ただ、黙示録が象徴言語で書かれていることや、主イエスがその時期を「父だけがご存知です」とだけしか言っておられないために、終末に関してはいくつもの解釈が出されています。中には聖書を自分勝手に曲解したり、独断的に解釈して沢山の人々を巻き込み混乱だけを惹き起こしている者もいます。私達はいたずらに終末を恐れたり、あおったりすることなく、むしろ聖霊の導きを祈り求めつつ、主からいただく平安に日々感謝しつつ、一日一日を歩むことが大切なのです。

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《十戒(じゅっかい)(Ten Commandments) 》

 モーセがシナイ山において神から与えられた十の戒めです。 出エジプト記20:1-17 と申命記5:6-21にその内容が記されています。主イエスはこの十戒を2つに要約することができると言われました:「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これが一番大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。これら二つの戒めに律法全体と預言者とがかかっている」(マタイ22:37-40)。パウロはそれをさらにまとめると「愛」につきると説明しています(ローマ13:10)。私達は律法を守り行なうことによって救われるのではありませんが(ローマ3:20、28)、それは律法が不要だということを意味するのではなく、私達を信仰による救いに導くものです (ローマ7:7-14; マタイ5:17-19)。

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working 《受難週(じゅなんしゅう) [Passion Week] 》

 イエス・キリストがその生涯の最後にエルサレムに入場した日(棕櫚の聖日“パーム・サンデー”)から最後の晩餐、ゲッセマネの園での祈り、捕縛、裁判、十字架刑、埋葬までの一週間のことです(マタイ21-27章; マルコ11-15章; ルカ19:29-23:56; ヨハネ12:12-19:42)。教会ではこの週を記念して、早天祈祷会や断食祈祷会を開き、この週に関して聖書に記されてある聖書の部分を思いめぐらし、厳粛に過ごす習慣があります。この行事が行なわれるようになったのはエルサレム教会からで、4世紀の末頃に書かれた「エテリア巡礼記」という文書には、受難の記事に従ったかなり発展した形の各種の行事が記録されているとのことです。また、受難週の出来事をモチーフにした受難曲も数多く作曲され、J.S.バッハの作品「マタイ受難曲」はその代表的なものです。

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《受肉(じゅにく) (Incarnation) 》

 神が肉体をとって人となられたことをこのように言います。聖であられる神が、人を救うためにあえて肉体をとり、人となって下さったのです。聖書には次のように書かれています:「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。… いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:14,18)しかし、この受肉にとどまらず、ご自身が十字架で私達のために罪の贖いとして命を投げ出してくださったこと、ここに神の愛が十全にあらわれています。私達と同じ肉体を持たれたキリストは私達の痛み苦しみを誰よりも一番理解して下さるお方です(ヘブル4:15、16)。

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《主の祈り [The Lord's Prayer] 》

 主イエスが弟子たちに祈りの模範として教えたもので、マタイ6:9-13、ルカ11:2-4にその全文が記録されていますが、教会では文語訳で祈りを捧げる場合が通例です。全体は6つの祈りから成り立っており、初めの3つは神に関して(御名、み国、み心)、後半は人に関して(日毎の糧、罪の赦し、試みからの守り)です。最後の頌栄は主な写本にはないのですが、教会の初期より主の祈りに加えられていたようです。
 「天にまします我らの父よ、願わくはみ名を崇めさせ給え。み国を来たらせ給え。み心の天になる如く、地にもなさせ給え。我らの日用の糧を今日も与え給え。我らに罪を犯す者を我らが許すごとく、我らの罪をも赦し給え。我らを試みに遭わせず悪より救い出し給え。国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。」

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《主の日 [The Lord's Day]》

 主の再臨、世界の終末での審判の日のことをも意味しますが、普通にはクリスチャンが礼拝を守る日曜日のことをさします。旧約聖書の伝統は金曜の日没から始まり土曜の日没にいたる安息日に、ユダヤ人会堂(シナゴーグ)に集まり礼拝を持つ習慣でした。初代教会はここから、週一度の礼拝と聖書を神の言葉と信じる信仰を受け継ぎましたが、それに加えて復活のイエスをキリスト(救い主)と信じ受け入れる新約時代の礼拝を始めたのです。それは、主が復活されたのが日曜日であり(マタイ28:1)、復活してご自身を顕されたのが日曜日だったこと(ヨハネ20:24)さらに昇天されたのも日曜だったことから(使徒1:6-12)、この記念すべき日に集まって礼拝をする伝統になったのです。

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《昇天》

 キリストは十字架上でなくなられた後、三日目に復活されました。その後40日間、弟子達の間に現れ、教えられ、そして天に昇って行かれました。その様子は人々の目にあざやかでした。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。… こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(使徒1:3,9)。

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《召天》

 クリスチャンが死ぬと、その魂は天に携え上げられます。そのことを召天と言います。一般的には「死」を指して用いられています。召天されたというのは、亡くなられたという意味です。

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《召命(しょうめい)》

 英語では職業を表す言葉には様々なものがあります。work, occupation, job,profession などのほかに vocation, calling があります。このあとの2つが実は召命と訳された言葉なのです。いずれも「呼ぶ」という意味を持つ言葉であり、元来二様に用いられていました。 (1)罪の世界に生きていた人が、神に呼び出されて救いを与えられる。 (2)救いの召しを受けた人が、それまでと違った新しい生活に入り、神の意志に従い、新しい使命のもとに生きる。
 パウロが、自分が使徒であることは神の召しによるのであり(ローマ1:1)、クリスチャンも召された者であると呼んでいること(ローマ8:26)は注目に値します。イエス様が漁師達に語りかけて弟子とし、福音を宣べ伝える新しい使命を与えたことは召命の典型的な例といえるでしょう。

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《処女降誕(しょじょこうたん) [Virgin birth] 》

 イエス・キリストは処女マリヤから生まれました。このことを処女降誕と言います(マタイ1:18-25; ルカ1:26-56)。このことの中に結婚そのものを否定したり、修道院制度の基礎を見ようとするのは事柄の本質を見誤るものです。このことを通して明らかにされていることは、イエスがその誕生から神でありながら、しかも私たちと同じ肉体を備えた人間としてお生まれになったということだからです。そしてさらに驚くべき事は、これが旧約聖書に預言されていたことの成就であるということです。「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなた方に与えられる。見よおとめがみこもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ7:14)。

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《進化論(しんかろん) [Evolutionalism]》

 人間はどこから来たのだろうかという疑問をめぐって、人間は長い時間をかけ、自分たちの起源を探求してきました。そして、進化論はそのひとつの仮説です。「仮説」と言う理由は、その過程を実験室で再現し、実証することがほとんど不可能だからです。それにも関わらず、教科書等で、進化の要因は説明できないが事実だとして教えているのは問題です。進化の思想は古代ギリシャに始まりますが、1859年にチャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表することによって、その土台が作られました。この思想は全生命は自然に生起し、適者生存の原理で進化したというものです。進化論内部でもさまざまな理論的難点が指摘されていますが、特に物質の世界では放置されれば崩壊と混乱へと進むのに、どうして生命体についてだけは逆の方向へ進んできたのかは説明されていません。

詳しくは、データ・ライブラリーの「進化論か創造論か?」をご覧下さい。

また、レムナント出版クリスチャンプラザにも進化論に関する月岡世光氏の論文が掲載されています。

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《信仰》

 私たちは神によって造られたものですから、神に対する私たちの自然な態度は、神を造り主として全幅の信頼を寄せることです。聖書には次の様に書かれています:「さて、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)。パウロが幾多の困難や迫害をものともせずに、遠く異邦の地に伝えた福音とは次のようなものでした:「キリストが、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んだことそして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に12人に現れたことである」(1コリント15:3-5)。このことをなされた創造主に、私たちは全幅の信頼を寄せるのです。

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《神殿》

 神を礼拝するための建物のことですが、主にエルサレムにあったものをさします。聖書には次の3つの神殿の建設が記録されています。

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《過越し(すぎこし) [Pass Over; ペサハ(H); πασχα(パスハ)] 》

 イスラエル人がエジプトの奴隷状態から救い出されたときの最後の晩の出来事で、神がエジプトの人や家畜の長子を殺すのに、子羊の血を柱と鴨居に塗ったイスラエル人の家の前は過ぎ越された故事です(出11,12章)これを記念して「過ぎ越しのまつり」「除酵祭」(イーストを入れないで焼いたパンを食べて出エジプトの時を思い出す祭り)を守るようになりました(出23:15; 申命記16:16)。この祭りはアビブの月(今の3〜4月)の14,15日に行われます。これは子羊の血(キリストの血)によって、罪が過ぎ越され、救われることを暗示しています。出エジプトはおよそ紀元前15世紀に起こりましたが、こんなにも昔からキリストの十字架の贖いは預言されていたのです。

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《聖化(せいか) [sanctfication] 》

 「聖化」とは聖くするという意味で、本来“分離”を意味する語です。聖書を見ると、2つの面のあることが分かります。第1には“普通のものから切り離されている”聖さ。第2には、罪からの分離という意味の聖さ。クリスチャンはこれら両方の意味で聖められています。私たちがキリストの血によって、古い自分の生き方から切り離されるとき、最初の聖化が始まります。これがバプテスマのときに起こる出来事なのです(1コリ6:11)。私たちが聖化を受けるのはこの一回切りの出来事によるだけではありません。「漸進的聖化」ということがあって、この過程で恵みや知識、罪の克服、清い行いや聖性が増し加わるのです。これが、罪を犯すことのない神の聖性との共通点ですが、唯一の違いは神にあっては常にそうであるのに対し私たちはそのように努めなければならないという点です(エペソ4:22-24)。

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《清教徒(せいきょうと) [Puritan] 》

 エリザベス一世の宗教改革をなお不徹底とし、ジュネーブの改革を模範としつつ、聖書に従ってさらに徹底した改革を行うことを主張した英国教会内の一派をさします。これは根本的には宗教改革運動でしたが、法律・政治・経済などの文化的要素と深く絡み合っている、内容豊富な運動でした。メイフラワー号でアメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズは、移住によってその信仰の純粋性を保とうとした、清教徒の一派です。
 ピューリタン運動は近代文化の形成に重要な貢献をし、民主主義・人権理念・信教の自由・宗教的寛容・社会契約説などの基礎的理念は、この運動の中から生まれ、資本主義の考え方も大きくその影響を受けていると指摘されています。また、J・ミルトンやバニヤンの文学も清教徒の作品です。

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《聖餐式(せいさんしき) [Communion, The Lord's Supper] 》

 イエスがその生涯の最後に弟子たちと一緒に食事をなさったとき定められた儀式です。イエスはパンを取って「これは私の体」と言われ、また杯を取って「これは多くの人のために流す私の契約の血である」と言われました。私たちが日本の地図をさして、「これが日本だ」と言うとき、その絵や紙が日本そのものだということではなく、それらの表しているものが日本だということであるのと同様に、パンや杯が神聖なものになるわけではありません。その意味している事柄が重要なのです。イエスは「契約」という言葉を使いました。旧約の時代では規則を守ることによって救われ得るという神と人間との契約でしたが、新約ではキリストの贖いによる救いを神が約束されたということです。規則が支配する世界から、愛が支配する世界に変わわったことを聖餐は記念しているのです。

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《聖書信仰》

 聖書を誤りのない神の言葉と信じ、また生活の唯一の規範として従うことを言います(2テモテ3:16、17)。これは「聖書崇拝」とは異なります。聖書崇拝とは聖書そのものに神秘的な力があるように錯覚し、それを偶像のように崇拝することです。ですから聖書はご神体のように触れずさわらずして大切に飾っておくというものではありません。
 主イエスが「あなた方は、聖書の中に永遠の生命があると思って調べているが、この聖書は、私についてあかしをするものである」(ヨハネ5:3)と言われたとき、その中に書かれている神の壮大な救いの計画を知らせようとされていたのです。聖書は大切に本棚の中にしまって置かれるべきものではありません。主イエスがそうであったように、よく読み、そして活きられるべきものです。あなたはみことばに生きていますか?

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《聖書の霊感》

 聖書の著述に直接用いられた人は約35名ですが、このように神はある特定の人々に聖霊を注ぎ、あやまちのないように、ご自分の思いを啓示されそれを書物として書かせました。このことを聖書の霊感と言います。一部の人にみられる誤った考えは、神から直接に啓示された聖書の部分だけが神の真理とみなされるべきだとする立場です。しかしこれは間違いです。聖書ができあがっていく過程での神の関与のされ方は、啓示のみによるのではなく、霊感にもよるのです。つまり、聖書の著者やそのすべての言葉に神が直接に関与されたのです。聖書には次のように書かれています:「なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」(1ペテロ1:21)。

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《聖霊(せいれい)》

 父なる神、子なる神と区別されますが、本質を同じくし、三者で一体なる神ととして働かれる方です。みたまなる神、神の霊とも呼ばれます。その働きについては各所に詳しく述べられています。天地万物を創造し(創1:2)、力ある業をし(1サム10:6)、真理を教え(ヨハネ14:26)、祈りを導きます(ロマ8:26)。聖霊は私たちと共にいて力を与えて下さいますが、それは私たちが目を覚まして意欲的に罪と戦い、聖さを求めようと一生懸命取り組む限りにおいてなのです。ただ、自分の力や意志力にのみ頼ろうとすべきではありません。むしろ、聖霊の力により頼むべきです。聖霊を通して力を与えて下さるとの神の約束に信頼しましょう。エペソ3:16はこの内側の力を求める祈りの良い例です。

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《宣教(せんきょう) [evangelism, preaching]》

 福音を人々に宣べ伝えることをさします。荒野で宣教したバプテスマのヨハネ(マタイ3:1)がヘロデによって処刑された後、主イエスはイスラエル全土に旅行して救いの福音を宣べ伝えました。二人のメッセージは唯一の神から出ていることが明らかです:「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マタイ3:2とマルコ1:15を見くらべて下さい)。復活の主イエスは弟子達に宣教を委任しました:「あなた方は行って、全ての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを施し」なさい(マタイ28:18-20)。この聖句は“大宣教命令”と呼ばれます弟子達は全世界に出かけていって、イエスが救い主であることを宣べ伝えました。そして、いまは私たちに宣教の使命が委ねられているのです(2テモテ4:2)。

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《宣教師(せんきょうし) [missionary]》

 異なる言語圏、文化圏に福音宣教のために遣わされる人のことをいいます。人々を救いに導く者という点では「伝道者」と共通していますが、異文化間で福音が宣べ伝えられるという点で異なっているということができます。パウロはこの点から、宣教師となった最初の器ということができるでしょう。また、人によっては、宣教師が社会救済事業に携わることが多いことに着目して、社会的責任をその働きの一つに考えることもありますが、伝道も宣教も人々の罪からの救済という聖書のテーマを、その中心的課題としているのです。「海外宣教よりも、まず日本宣教を」という声を聞くことがありますが、前述の大宣教命令が、国家ではなく教会に与えられたものであることを思う時、世界宣教は全ての教会の課題であることが分かります。

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《千年期(せんねんき)・千年王国説 [Millennialism] 》

 キリストが統治すると予言されている千年間のことで、黙示録20:1-7を出所とする神学学説です。終末の時に、サタンは千年の間底知れぬ所に封じ込められ、その間生き返った聖徒たちがキリストと共に至福の時を過ごす。最後の審判はこの千年が過ぎた後で行われ、命の書にその名を記されている者は天国の民として祝福の生活を送る、という預言です。この黙示録の預言は、激しい迫害下にあったクリスチャンたちに多大の力を与えました。それは世の終わりにおいて、神に忠実に仕える聖徒たちに、主の再臨と千年にわたって与えられる平安を約束していたからです。ただ、それがいつ起きるのかについては、イエスご自身も明確にしていません(マルコ13:32参照)。異端と呼ばれる人々が都合のいいように解釈する点です。しかし、私達はいつも「目を覚まして」いましょう(マルコ13:33)。

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《洗礼(せんれい) [baptism] 》

バプテスマ

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